はてなキーワード: ノルウェイの森とは
旧帝大出身の年の離れた飲み友達(もろ団塊の世代)がいるのだが、その方いわく、当時でもいわゆる左翼活動をしてた同級生は少数派の目立ちたがりで、流行ってるから集会行ってみようとか、弾劾!とか檄!とか画数の多い漢字を使ってアジ演説するとモテそうとかそんな感じの割と軽いノリもあったたらしい。一方で、多数派はノンポリ&公務員目指したり大企業目指したりのモブだったと。この辺は村上春樹ノルウェイの森はかなり再現してると飲み友達は言ってたよ。
梅崎春生『幻化』
佐多稲子『樹影』
大江健三郎『性的人間』『万延元年のフットボール』『同時代ゲーム』『懐かしい年への手紙』『さようなら、私の本よ!』『美しいアナベル・リィ』『水死』
開高健『輝ける闇』
小島信夫『うるわしき日々』『残光』
黒井千次『群棲』
村上春樹『回転木馬のデッド・ヒート』『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』『ノルウェイの森』『ねじまき鳥クロニクル』
笙野頼子『母の発達』『金比羅』『だいにっほん、おんたこめいわく史』
車谷長吉『鹽壺の匙』『赤目四十八瀧心中未遂』
多和田葉子『雪の練習生』『尼僧とキューピットの弓』『雲をつかむ話』
阿部和重『アメリカの夜』『ABC戦争』『無情の世界』『ニッポニア・ニッポン』『シンセミア』『ピストルズ』
舞城王太郎『好き好き大好き超愛してる。』『九十九十九』『ディスコ探偵水曜日』『淵の王』
綿矢りさ『かわいそうだね?』
柴崎友香『その街の今は』
磯崎憲一郎『往古来今』
朝吹真理子『きことわ』
滝口悠生『高架線』
高橋弘希『指の骨』
崔実『ジニのパズル』
村上春樹は新刊で40万人の南京大虐殺があったと書き、それを非難されると「歴史を修正しようとする者たちとは戦っていかねばならない」と反論した。
村上春樹は南京大虐殺についてどの位研究したのだろうか、少しでも研究・調査すれば“あった”と言うには躊躇するような多くの矛盾が出てくるはずである。
彼の南京大虐殺の知識というのは我々一般人と同じで、ただ聞きかじった知識であろう。その聞きかじった知識で全世界に向かって南京では40万人が虐殺されたと喧伝したのだ、なんという無責任な奴であろうか。七十に近い男が言論には責任が伴うということが未だ分かっていない。
誰か村上春樹に対して言ってやればいいのだ「貴方は本当に南京大虐殺を信じて書いたのか?もし嘘だった場合、大変なことになるぞ、どう責任を取るつもりなのだ、命を賭けても40万人大虐殺はあったと言えるのか」と。
若いころ村上春樹の本を読もうとしたが「ノルウェイの森」というタイトルを見て、薄っぺらで欺瞞的なものを感じて村上春樹を読むことをやめたが、あの時の直感は正しかったようだ。
私たち人間は無意識的に“自分の考えていることは正しい”と信じ込む癖がある。それを改めようとしたのが、ソクラテスや孔子、釈迦が言及している“無知の知”であろう。それは、つまり知識人たちはなんでも分かっていると考えているが、本当は何も分かっていない、また神の知恵に比べて我々人間の知恵など取るに足らないものだから、我々は常に謙虚であるべきだというものであろう。
我々はソクラテスたちの時代から何も進歩していない、何千年たっても人類は“無知の知”を自分たちのものにできていない。現在においても我々は“自分の考えた事は正しい”と考え安易にネットなどに書き込んでいる。
私たちがもう少し謙虚で自分たちは無知であると知る為にはどうすれば良いのか。 自分の意見・考えに対して“本当はどの位自信を持っているのか”がピタリと分かる方法がある。
それは自分の全財産の内どのくらいなら賭けられるだろうかと考えることである。
例えば財産が一千万円あるとして、その内いくら位なら実際賭けられるだろうかと考える。数万円なら賭けられる、それでは数十万はどうだ、数百万では・・・と考えていけば、いくら位までなら賭けられるという金額が出てくる。その出てきた金額が自分の考えに対する自信の程度を示している。自分の考えが絶対に正しいと考えていれば全財産どころか命だって賭けられるであろう。しかし数十万円しか賭けられないと思うならば、それはほとんど信じていないということになる。信じてもいない事をいかにも正しいかのように発言するのは詐欺師である。
責任感をあまり感じないネット上で発言するにしても、責任が伴う事柄ならば、せめて全財産の半分ぐらいは賭けられるという自信ができて初めて発言すべきであろう。このように“実際いくら位なら賭けられるだろうか”と自問自答をしてみれば、多くの場合は“私はまだ本当には信じていないのだ、無責任に発言すべきでない”と自分の無知を理解し謙虚になることができる。
皆さんも「自分の意見は正しい」と思った時には“自分は全財産の内どの位本気で賭けられるだろうか”と自問自答してみてください、そうすれば本心ではどのくらい自分の考えに自信を持っているのかがピタリと分かりますから。
残念だがそれほど人気がない。
俺は英国在住のおっさん。年始にロンドンで見たが、そもそも上映している映画館が少ない。毎日上映している映画館はロンドンで2-3か所。860万人住んでいるのに。
月に数回上映がそのほかに数か所。以上。ザッツオール。公開後1月以上経過しているから減ったのだろう。
客の入りは5割くらいで、そのうち6割がイギリス人、4割は東洋人。中国人韓国人日本人。
イギリスのメディアが君の名はを絶賛した、という記事は俺も見た。口コミサイトの評価も見てみたが、非常に良い。
更には上映後のイギリス人の反応を観察してみたが、満足そうに見えた。
ゆえに入口でのハードルなのだろう。ただし内容について「感動」「ラブストーリー」というよりは「展開が早く引き込むストーリー性」「映像の綺麗さ」が評価されているように思う。
若者のラブストーリーである「君の名は」がイギリスでアジア圏のようなヒットにならない理由は以下のように推察している。
今でも完全にそうです。宮崎アニメのように家族で見に行くならともかく、ラブストーリーをアニメで見ようという発想は世間の若者に全くないように思うし、他人に知られたら恥ずかしいことと思われる。
なお本作では奥寺先輩が煙草を吸ったり、瀧が酒を飲んだりするので12歳規制がかかっている。
作品にのめり込めるか、一番重要なのはこの点だと思う。瀧が三葉が男性として女性として魅力的に描かれているか。
多くの日本人には、瀧はイケメン、三葉は高校時代は可愛く大人時代は美人、という設定に異論はないと思う。
欧米人から見ると、経験に基づく推測だが、瀧も三葉も体が薄っぺらすぎる。
瀧は本人のときでもかなり「中性的」に寄っている。欧米人からジャニーズは中性的な子供に見えるということと同じである。
(3人組のうち)高木くらい男くさいほうがいい。イギリス人は瀧に対してこう言いたくなるだろう。「もっと肉を食え、ラグビーで体を鍛えて、女性を守れる男になれ、髪形もベリーショートかリーゼントにしろ」(適当
三葉は単純に子供に見えていると思われる。もっとグラマラスな魅力が出てこないとラブストーリーの主人公という雰囲気が出てこない。シャイな性格もマイナスだ。瀧の三葉くらい気が強いほうがウケる(作品内でもそうだったが)。
イギリス人のラブストーリーは顔を0.3フィートくらいの距離まで近づけてロマンティックな言葉を囁きあう感じなので、瀧と三葉の恋愛動作は非常に幼く見える。こちらの高校生は結構オトナである。
山頂で出会うシーンもイギリス人なら、強くハグして、濃厚なキスをして、0.3フィートである(超適当)。名前を書きあっている場合ではない。出会って3秒でハグキス0.3フィートである。高校生にそういう描写が許されているのかは知らない。
ラストシーンでいったん声をかけずにすれ違ってしまうシーンには、階段の一番下から大きく手を振って「Hey!!!, I think I met you sometime and somewhere!!!」と大声を出さないのか不思議であろう。奥ゆかしさは理解されてもそこから生じる感動は理解されないと思う。実際に泣いている人は少ししかいなかった。クライマックスの「すきだ」も字幕だからね。手によくわからん文字が書いてあって字幕でI love you。ちょっとねえ。
日本人のおっさんである俺にとってどうだったかというと「超面白かった」。イギリス、日本、機内の計3回も見てしまった。最初に見たのは機内だったが、中年のおっさんがうるうるしているのを見てCAさんはドン引きしていたことであろう。少し気になるのは日本での作品への「評論」である。確かに整合性がおかしいところは多い。私は3年のずれに気づかないことよりも、この広い宇宙で隕石が1200年周期で同じ場所を直撃することのほうが超天文学的確率というか、分母が10の何乗になるのか、そのほうがずっとありえないと思いながら見ていた。変電所の爆破は中部電力に連絡が行ってしまったので町を救ったからお咎めなしになるものではあるまい。ああいう会社は融通をきかせるのが難しい。テッシ―の「髭剃れ」の話は収監されていたから?などとも思った。しかしながら、内容の整合性に難があってもそれ以上の魅力で引っ張ってくれれば私はそれでいいと思う。官僚や銀行員のような減点主義で映画を見てもつまらんでしょう、と個人的には思う。
キネマ旬報のベスト10がどういう選考基準なのかHPを見てもよくわからなかったが、アジアで数千万人を引き付けた映画よりも、日本映画だけでも10個も上位があったら、それって大ニュースなのではないかと思う。売れる映画と良い映画は違うというのは一部分かるが、それよりはもっと簡単に説明できる言葉があるのではないか。スノビズム。大衆は見る目がない、ということだもの。
同業の監督や評論家の「売れる要素だけ詰め込んだ」とか「モチーフがありきたり」の批判に対しては、おっさんは長く生きているので、30年前の「ノルウェイの森」騒動を思い出す。「100%の純愛小説」と付けてクリスマスカラーで売り出した同書は「君の名は」と同様に爆発的に売れ、今ほど有名でなかった村上春樹をスターダムに押し上げると同時に、評論家から「誰でもかける薄っぺらい通俗小説」「ありきたりの三角関係」などの多くの批判が浴びせられ、その騒動で村上春樹は心を痛めて日本を離れた。彼の作風にも影響が出てしまった(軽妙さが失われた)と思っている。
まず資金の問題じゃない?俳優でも向こうはギャラがケタ違いで、「メジャーリーグ」にとんねるずのタカが出たとき、そんなにメインのキャラじゃないのにその年の納税者ランキングに乗ったくらいだし。ハリウッドの売れっ子監督ともなれば相当の額になりそう。
ノルウェイの森なんかはベトナムのトランアンユンとか、他に韓国・中国なんかのアジアの監督は結構連れてきてるしそういうことを考えてはいるんだと思う。
あと、日本映画の場合は特にスタッフで決まるらしいから。どこまで伝統が残ってるかはわからないけど、撮影、照明、美術でそれぞれおっかない人がいるのが日本映画界だったし。
それと、プロデューサーが有能じゃないと監督もスタッフもうまく機能しないし、ハリウッド監督を連れてくればうまくいくという単純な話じゃないんじゃないかな。
別のやり方としては、韓国とかみたいに、内容は問わないで政府が資金を出すとかすればもっとわかりやすくよくなると思う。日本の監督なんて年収100万の人とかザラらしいし。
スタッフキャストを使いまわせるテレビ局映画がメインを張ってしまってる現状なのも、結局は資金の問題。地方が金出して宣伝するお涙ちょうだい映画なんて誰も観たがらないんだから、資金だけ出して好きに作らせるのが理想だとは思う。あくまで理想なんだけど。
長嶋有の「愛のようだ」を読んだ。
作中で言及されている通り、登場人物が"ちゃんと疲れる"ロードムービーだった。
その手口は「水曜どうでしょう」に似ている。
どこで読んだか忘れたが「水曜どうでしょう」の面白さを分析した文章で、
「あれは出演者の"疲れて何をやっても面白い状態"に視聴者を巻き込むことで成立している」
的なものを読んだことがあるが、それを思い出した。
「水曜どうでしょう」ばりの徒労と混乱とハイテンションを経て、"疲れているから面白い"、ではなく、"疲れているから感じ入る"。
作中一番の盛り上がり。第四話のラスト、「愛のようだ」という詩的(俳句的)でストレートで派手なタイトルの言葉を、
語り手の友人がそのまま呟くという凄い場面。
ここは語り手も読者も、道中で疲れているからこそ、「愛のようだ」と、感じ入るのだ。
ところで、この作品の帯には
という、なかなか凄いコピーが載っていたが、なるほど作者の「感動的な恋愛小説をちゃんと書こう」という気概を感じる作品だった。
つまり、主人公(=語り手)に好きな人がいるけれど死んでしまって悲しい話なのだ。
「世界の中心で愛を叫ぶ」であり「ノルウェイの森」なのだ。
こうやって書くと何だか馬鹿にしているような感じになってしまうが、
何と言うか、本当に「主人公に好きな人がいるけれど死んでしまって悲しい話」をちゃんと書いているのだ。
作家が「主人公に好きな人がいるけれど死んでしまって悲しい話」を書くことが
その恥ずかしさから逃げることなく、と同時に読者が引いてしまわないよう配慮して、
手続きを踏んで、抑制の効いた方法で、その「悲しさ」がきちんと書かれていた。
とてもかっこいいと思う。
前述の友人が「愛のようだ」と呟く場面は、とても感動的でポジティブで素敵な場面だった。
が、そこで語り手はあくまで第三者で、言ってみれば読者と似たような立ち位置だった。
友人が愛のようであることに気付く場面に(第三者的に)立ち会ったその余韻が残るエピローグで、
それは、映画の「ニュー・シネマ・パラダイス」を彷彿とさせるような、チャーミングで切ないメッセージなのだが、
そこで語り手に訪れる悲しさは、とことん「当事者になれなかった悲しさ」なんだと思う。
それと、この小説を語る上で外せないのが、全編通して大量に登場する固有名詞だ。
漫画、アニメ、テレビCM、映画、J-POP(歌謡曲? その辺の区分けがよくわからない)といった
サブカルチャー、ポップカルチャー(この辺の適切な総称もよくわからない)からの引用がべらぼうに多い。
作者は、以前からエッセイで小説内の固有名詞の使い方について論じたりしているし、
というか、そんな前情報がなくても一目見て明らかなくらい大量の固有名詞を意図的、意識的に使っている。
これが、例えばキン肉マンを知っている人に「ほら、キン肉マンだよ」とサービスするための符牒じゃないことは明らかで、
じゃあ何のための引用なのかと言ったら、キン肉マン自体を書きたいわけではなくて、
「会話の中ですぐに"そういうの"を引用する人(達)」を書きたかったんだと思う。(当たり前か)
世の中やら自分やらを見て把握して語るときに、ごく自然と漫画の登場人物やポップスの歌詞と
それは、ふざけているわけでも遊んでいるわけでもなくて、その方が断然実感があるからだ。
フィーバー状態の伊勢神宮に願掛けに行く、っていうふざけたような言い方なんかも、
切実な思いを実感のこもった正直な言葉で表した美しい祈りの言葉なのだ。
長嶋有が描くそういう言語感覚は、読んでいて楽しいし、時にとてもぐっとくる。
最後に、この小説は長嶋有にしては珍しくとてもマッチョな小説だったと思う。
「この人のこと女だと思ってたわ」作家で上位にくる長嶋有だが、
「愛のようだ」に関しては、知らない人が読んでも男の人が書いた小説だと思うんじゃなかろうか。
強烈な便意に襲われたおれは、行きつけのセブン・イレブンで用を足すことにした。本来ならこういう場合店員にひと言断りを入れてからトイレを使わせて貰うのがマナーなのだけれど、その時のおれはなりふり構っていられなかった。肛門がひくついて今にも塞いでいるものが飛び出しそうだったのだ。
結果から言えばおれは用を足すことに成功した。つまり、大人として生まれて来たことを後悔するような大惨事には至らなかったわけだ。ホッと一息つき、そのままカタルシスに浸っていたがやがて外に出ることにした。
外に出て店内に戻ったはいいものの、無言でトイレを使ってしまったことはやはり罪悪感を抱かざるを得ない。さてこれからどうしようかと思った。ポケットの中には五百円しか入っていない。
特に小腹が空いているわけではないし、ビールも医師から禁じられている。ジュースも糖分過多なために控えなければならない。虎の子の五百円である。家に帰ればタダで飲める水に銭を使いたくはない。
雑誌を買おうかとも思ったのだけれど、今月の五日までこの五百円で凌がなければならないのだ。余計なものを買うわけにはいかない。そう思ってよく観てみると、新しく入って来たのか全然知らない女の子がレジに心細そうに立っていた。
彼女の顔は菊地凛子に似ていた。菊地凛子……おれは彼女にこの上ない思い入れを抱いている。アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督『BABEL』で聾唖の女子高生役を演じた時にパンツを脱いで陰毛がふさふさ生えた陰部を晒すシーンがあるのだけれど、あれで度肝を抜かれてしまったのが始まりだった。
あるいはトラン・アン・ユン『ノルウェイの森』で直子役を演じるあたりも素晴らしいと思った。少々鳥居みゆき入ったキャラ、昔の友人とセックスしようとして濡れなかったことや開かなかったことを告白するシーンに魅了されたのだ。
そんな憧れの菊地凛子似の店員が立っている……そんな幸福感に浸っているとそれを邪魔する人間が玄関から入って来た。私服姿のこの店の店長だった。
まずいことになったと思った。このままではおれは初対面の菊地凛子(仮名)に対して「店に入り込んで来て店員に何の断りもなくうんこして帰って行った」というキャラという印象を与えかねない。ここは是非とも何かを買うべきなのだ。だが一体何を買えばいいのか。
ましてや、店長は元ヤンキーと来ている。そんなに親しくない。だからこのままだと「何の断りもなくうんこして帰って行った」キャラであることが店長の耳に入ることも想像に難くない。そうなってしまってはどうしようもない。最悪、店からつまみ出されることも覚悟しないといけないだろう。そうなると菊地凛子(仮名)の姿を拝めなくなる。
おれはオロナミンCを買おうと棚に手をやった。だが、手を滑らせてしまい瓶を割ってしまった。菊地凛子(仮名)が慌てておれのところにやって来る。
「お客様、お怪我はありませんか?」
何と暖かい言葉なのだろう。昨今の殺伐としたコンビニの中でこんな言葉が聞けるなんて夢のようだ。しかも菊地凛子(仮名)から……しかし次の瞬間、おれはハッと自分の犯してしまったミスに気がつき謝った。
「ごめんなさい。弁償します」
「いえ、大丈夫ですよ。店内で発生した事故は当店にも責任がありますのでお構いなく」
おれはますます自分がヤバいところに達してしまったことに気がついた。このままではおれは「無断でうんこ」プラス「オロナミンCを割った男」という二重のスティグマを負うことになる。
おれは実写版『ピンポン』のように心の中で三度呟いた。ヒーローを呼ぶ呪文だ。ヒーロー見参、ヒーロー見参、ヒーロー見参。
「あの、具合でも悪いんですか?」
すぐそばに菊地凛子(仮名)が立っていて話し掛けて来た。「顔色悪いですよ」
「ああ、特に体調が悪いわけではないので気にしないで下さい」
これはますます何かを買って帰らなければバチが当たろうというものだ。どうするか。おれは視界の片隅にとある物体を捉えた。これしかない。もうこの際なりふり構っては居られない。おれはそれを掴んで言った。
「こ、これ下さい」
おれはそうして、『快楽天』の最新号を買って帰った。