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2023-01-21

藤田なんたら言う人が付け焼き刃で適当なこといってたら本物の専門家が出てきてボコボコにされたっていうのとかさ、

あれさ普通専門家が出てきたらスタコラサッサ尻尾巻くのがホントだと思うんだけどそういうことをせずに引き下がらないのは謝れない病気っていうのもあるんだけど

本気で自分は専門領域知識があるって思いこんでいることなんだろうな。

ウィキペディア仕入れ知識歴史家気取ってる人みたいなもんだよね。

2023-01-15

[] そのごひゃくよんじゅうさん

キャンディーッス

 

日曜作業お疲れ様です。

本日ウィキペディアの日日本においては小正月だの左義長だの山焼きだのがあって、1999年まではこの日が成人の日でした。あと警視庁創立の日です。

毎度お世話になっているウィキペディアですが、ウィキペディアに載ってる情報からといって確定で正しい訳ではありません、しかし、沢山の人間が手を加えて情報の出元を明確にすることによってなるべく事実に沿ったページ作りを行えているんだと思われます

とはいえ世の中の出来事はたいていちゃん理解できるものでもないですし、実際に事象観測していたとしても内部ではまた違った感想が出てくるのもよくあることなのです。

その分、実際にどれが減ったとか、何がズレたとかの数値を残していることは事実という記録を残す部分においてとても役立っており、ただそれがあったとしても観測しきれない部分というのはどうしても出てきます

からこそ事実だけはきちんと調べて受け止めなければなりません。

そこに感情を交えて解釈してしまうと出来事が起きた時に微妙に違う方向に物事が進んで混乱せざるを得なくなりますから

から何かが起きた時に私情を交えた説明は避けるべきで、避けられなかった場合最低限発生したことと結果を受け止める能力必要になります

それはとても煩わしいことですので、発生したことのみだけでいいので簡潔な説明を心掛けましょう。

 

ということで本日は【簡潔な説明いか】でいきたいと思います

簡潔な説明いか!簡潔な説明ヨシ!

 

それでは今日も一日、ご安全に!

英国ウクライナ供給するチャレンジャー2という戦車はかなり頑丈なようだ

といってもソースウィキペディアなのだが、

イラク戦争で14発の対戦車ロケット弾が直撃しても乗員は無事だったケースが書かれている。

anond:20230115012821

ウィキペディア的な発想が俺にはあるんだよな

誰かが「脳内ソース」で正しさを言い始めたらそれはただの独自研究

出典を示せたほうが信憑性が高い

2023-01-09

anond:20230109081301

"I sprang upon the swift ship in the form of a dolphin, pray to me as Apollo Delphinius; also the altar itself shall be called Delphinius and overlooked forever." - Homer

っていうあれね。

訳すと

私はイルカの姿で快速船にとびかかった。デルフォイアポロンとしての私に祈れ。祭壇もデルフィニウスとよばれ、永遠に見渡されるであろう。

って感じかな。

ホメーロスのどんなところに出ているか、「イーリアス」にも「オデュッセイア」にもなかった気がしたので、英語版ウィキペディアの「Delphi」で調べたら、「ホメーロス風讃歌」の「アポローン讃歌」から引用みたい

邦訳はあるっぽい。

で、wiktionary語源を調べるとデルフォイΔελφοίの語源デルフスδελφύς (delphús)子宮複数形かららしくて、ドルフィン語源は同じだね。

civ6の引用の出典はちゃんと調べていないので勉強になりました。

2023-01-04

神社でお祈りするとき合掌している?

一昨日に神社作法増田https://anond.hatelabo.jp/20230102150139)が盛り上がっていたから、なんとなく神社作法を調べてて驚いたことがあるんだけど、神社でお祈りするときって合掌しないのが正しいんだな。

「二礼二拍手一礼」の作法最近広まってからやったんじゃなくて、それより前からその作法でお参りしていたというコメントを人を結構見かけたけど、昔から正しい作法を知っているなら、やっぱり二拍手の後で手を下ろして一礼していたんだろうか……?


かに「二礼二拍手一礼」と神社の参拝の作法になっているけど、この文言では合掌しろとは一言も言っていない。

で、そもそも論だけど、合掌は仏教作法だ。神道でそんな作法があるわけない。でもみんな合掌してるよな。

ちなみにお寺の参拝方法は「合掌して一礼」だから、合掌することが明言されている。


「合掌」のウィキペディアのページではこう書いてある。

日本では仏教に関する儀式の際に行われるだけでなく、お詫びをするときやお願いをするときに、相手を持ち上げるための仕草として使う例もある。また、食前食後の挨拶の際に合掌する例もあるが、これは仏教由来の習慣である神道では柏手として手を打ち合わせるが、その後は両手を下ろし、お辞儀して礼拝する(神道拝礼では、合掌はしない)。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%88%E6%8E%8C

神道拝礼では、合掌はしない」と明言されてしまっている……。なんてこった、これまでも俺の参拝方法は誤っていたのか。

ソースウィキペディア(笑)みたいな人が絶対いると思うから、ここはわかりやす権威を借りよう。神社トップ神社本庁のページでは以下のように記載されている。

まず、神前に進み姿勢をただします。

背中を平らにし、腰を90度に折り、拝をします。この時の拝は2回行います

胸の高さで両手を合わせ、右指先を少し下にずらします。

肩幅程度に両手を開き、2回打ちます

指先を揃えます最後にもう1回拝をします。

https://www.jinjahoncho.or.jp/omairi/osahou/sanpai

合掌をするともしないとは文字では明言していない。「指先を揃えます。」は合掌を表しているんじゃないのか?と思うかもしれないが、これは文字通りの意味であって手を合わせることを説明していない。

なんでわかるかって、神社本庁のページの「拝礼作法」の欄には、丁寧に動画まで掲載してくれるという至れり尽くせりっぷりだから、それを見るとバッチリ正しい参拝方法がわかるぞ。

件の動画は34秒しかいかちゃんと見てくれ。動画の25秒辺りで二拍手を終えた後、手を下ろして一礼している。

から、二拍手した後、そのまま手を重ねて合掌して一礼するのが正しいわけではなく、手を下ろすのが正しいってこと。

「二礼二拍手一礼」「鳥居の前で軽く一礼」に続く第三の正しい神社の参拝方法として、そのうち広まると思う。

今のうちに正しい参拝方法を行って、君も参拝のマウント取りができるぞ!

カズオ・イシグロ大体読んだけど好きかわからなくなった

わたしを離さないで」(2005)

臓器移植のために育てられた人間の子どもから大人になるまでの記憶を綴る。

かに美しい小説だ。子供から大人になるにつれて、見える世界は広がっていく。たとえそれがどれほど酷なものであろうとも、子供たちはそれを受け入れねばならない。語り手は振り返り、ひとつ出来事を大切に手の中で壊れやすい卵を計るように並べている。

読者も少しずつ、まるで語り手と一緒に育っていったかのように、事の真相を知らされていく。細やかな、性格を端的に示すエピソードミルフィーユのように繊細に重ね、誰もが持つ幼いころの記憶登場人物シンクロさせる手際は見事と言っていい。主役三人の性格の違いとそれによっておこる対立の見事さは、この小説SFというよりも性格劇に分類したくなるほどだ。夢中になってはまる本とは違うけれど、読む価値はとてもある。

しかしながら、感情描写文章リズムがうますぎるあまり、根幹のSF的設定が、ふと荒っぽい夾雑物にまで見えてきてしまう瞬間がないでもない。細密な建造物を支える、太すぎる柱にたとえればいいのだろうか。

そもそも臓器移植のためだったら、人間を育てるんじゃなくて臓器だけ培養すればいい。

どうも舞台となっている世界技術水準や、テクノロジー社会に与えるインパクトの細部の詰め方が幾分甘い。

日の名残り」(1989)

かつて仕えた主人が第二次世界大戦中に対独協力者で、それを理由戦後に没落したため、その屋敷を買った米国人に仕えることになった執事の話だ。カズオ・イシグロ本領である、決定的な本音事実意図的にあるいは無意識に隠したまま語り続ける居心地の悪さ、気持ちの悪さがいかんなく発揮されている。

熟読すると面白いが、何があったかは作中では基本的には明確に語られているのもいい。

かつてはほのかな思いを寄せていた同僚であった女中からも、今となっては過去の人とみなされており、最後自分人生って何だったんだという悔恨にさいなまれるシーンは最高だ。

かつての美しいイギリス風土と、失われた執事美徳悪徳について。感情に蓋をしがちで、行動原理自分の「したいこと」ではなく「なさなければならないこと」になっているひとにおすすめしたい。面白かったので英国メイド執事の本を何冊か読んだ。

遠い山なみの光」(1982)

長崎出身現在イギリスの片田舎に住む悦子(語り手)の所へ娘のニキがロンドンから訪ねてくるところから始まる。ニキが言及する悦子の生涯を、ニキからのまた聞きや、写真の印象だけから詩にしようとする詩人が出てくるのだけれども、なんだか作者自身創作する自分のことを批判的に見ている姿が透けてみえる。全体として、シングルマザーとしての苦しみが複数語られている。

これは褒め言葉としていうのだけれど、読んでいてずっと不穏な感覚をぬぐうことができず、いいようのない気持ちの悪さがある。たぶんその正体は登場人物の会話が互いの自己主張に終わっていて、基本的相手の話を全然聞いていないところにあるのだろう。会話の形をしているのに、対話になっていない。むしろ並行する独白だ。映画脚本のお手本的でもある。

最初のうちは、この違和感終戦直後日本人ならこんなあからさまな会話なんてしないだろうからにも思われた。しかし、明治文豪の名作だって、会話が人工的であることも少なくはない。ただ、この作品ほどのひどい噛み合わなさはまれな気がする。少なくともあちらでは噛み合わせようという努力はしている。

台詞説明したり議論したりする手法は、大抵は粗削りというか不器用な印象を与えるので好まないのだが、この場合コミュニケーション不全というか、相互理解の失敗の雰囲気をよく伝えていて、効果的だった。

浮世の画家」(1986)

情けないかつての画家の話。老い第一線を退いた後も、自分はまだ影響力があると思いこんではいたが、世間自分存在などすっかり忘れている。自分のしてきたことなど、大したことではなかったのではないか、それどころか完全な誤りだったのでは。歴史によってそう裁かれることに怯えている。老人にとって、今までのお前の人生は何だったのか、と問うことほど残酷なことはあるまい。

そのくせ、隠しようのない自己満足防衛がどこまでも続いており、かつては地位のあった老人はどこまでのその虚飾から自由になれない。計算したうえでのことかどうかわからないが、この翻訳日本経済新聞の「私の履歴書」の文体そっくりだと思ってしまうのは、私のやっかみであろうか。

やはりカズオ・イシグロ真骨頂は情けのない自己弁護にある。

充たされざる者」(1995)

よく、入り組んだ官僚機構カフカ的というけれども、どっちかといえばこの作品みたいなのがカフカ的な気がする。過去というか記憶曖昧で、自分そもそも何をしたいのかわからず、その場の判断だけで物語全体が動いており、映画なんかでは必須の究極の目的・ゴールも曖昧だ。「夜想曲集」所収の旅する芸術家あるある話がベースになった作品と同じにおいがする(この短篇集は切り口の優れた良き英国短編集といった趣だ)。

すべての事件が宙ぶらりんのままにされて進み、星新一ショートショートでその場限りの対応しかしない軽薄な男を主役としたこんな作品があった覚えがあったことを思い出したが、読んだときにはどうしてもタイトルが思い出せなかった。それは結局「未来そっぷ」に収録された「熱中」であるとわかるんだが、一番満たされていないのはきっと読者だ。

カズオ・イシグロテーマひとつコミュニケーション不全が前面に出ているだけでなく、筒井康隆虚人たち」を思わせるような、自分が何者であるかわかっていないのにさほど気にしていない空疎さがあり、何かを風刺しただけではないのだろうが、それはまだ読み取れず。

奇妙だ。自分他人記憶の壁が溶けて無くなってしまったみたいな語りであり、語り手は身内だと感じるとちょっとしたことですぐに激昂したりすすり泣いたりして、いったいどういう人物なのかとらえどころがない。すべてが宙づりで半端なまま物語が終わる。語り手はどの街を訪れても、延々と同じことを繰り返すのだろうか。

わたしたちが孤児だったころ」(2000)

両親に置いていかれたのはなぜか、そして母はどこに行ったのか。著者の中では一番残酷な話かもしれない。物理的な暴力よりもその結末が。地獄の寝取らせ小説であり、真理に近づこうとして全員が不幸になる。それでも、なお、愛そうと試みたし、愛されてはいたのだ。

息子が親父と同じ道ならぬ愛という過ちを犯しかけるのは残酷ユーモアがあふれているようでいて、ある種の試練であったのだろう。試練に打ち勝ったからと言って直接幸福になるわけではないのが皮肉でいい。

追記】目の前に日本軍軍艦が停泊してるのにのんきにパーティーしている租界の人々って嫌なリアリティがあった。

忘れられた巨人」(2015)

忘却テーマだが、P・K・ディックのようにアイデンティティ曖昧になっていく離人感よりも倫理的な面を問うているようだ。つまり戦争責任とか政治的意図的隠蔽とか。

国家組織的に目を背ける行為と、個人がつらい過去を忘れることによって救われることの両方が描かれている。ファンタジーもある程度は書けるのがすごい一方で、見たくないものを見ようとしない描写や、自分のことばかりで会話が成り立たない場面は健在。

ファンタジーにしては「危険度」とか「スタミナ」の訳文がちょっといかなとも思ったけれども(別に嫌だと感じるレベルではない)、これは現代日本語としては普通に受け入れられてるのかな。

あと、サクソン人の穴を掘った(ホビットみたいな)家の描写があるんだけれど、これって実際にそうだったのかな? サクソン人の家とググっても出てこなかった。

ちなみにル・グインはこの作品を好まないらしく、ウィキペディアには両者の対話引用されている。

のしようとしたことには敬意を払いますが、私には効き目がありませんでした。うまくいくはずがありません。どの作家文学ジャンルの表層だけをうまく使えません。その深みはなおさらです。そのジャンルと同一化することを恐れるほど軽蔑している限りは。読んでいて痛ましく感じられました。まるで、高いロープから落下しながら聴衆にこんな風に叫んでいるみたいでした。「私は綱渡り芸人と呼んでもらえるのかな?」と。

ル・グインには私の本が好きか嫌いかを決める資格がありますが、私に関する限りは誤ったほうの肩を持っているようです。私は(註:作中では不可解で不気味な存在として現れた)妖精や竜の側に立っています

シグロ氏のご意見をうかがえてうれしく思います。同氏の「私の作品ファンタジーだと人々は思うでしょうか?」という質問に対する、私の明らかな早急な返答に傷つけるような内容があったことをお詫びします。

クララとお日さま」(2021)

人工知能太陽光病気回復させる効果があると思い込むことで起きる珍妙な話だ。

どう考えても不合理で奇妙な信念に従い、偶然によって祈りが叶えられる話で、しか最後はただゴミ捨て場で朽ちていく。これは無神論者による宗教パロディではないか? と勘ぐってしまう。無神論者からすれば、いかなるかたちであれ神を信じる人々は、誤った信念にすがり、存在しない相手効果のない祈りをささげる哀れな人々だ。

カズオ・イシグロSFは、SF主食人間からすると、不合理か古い知識に基づくように感じられる設定が多く感動すべきシーンもそこが気になってしまう。

たとえば、明らかに危険能力向上処置子どもにするような社会は、現代から相当な価値観の変遷があったはずだし、かなりの時間を経ていないと起こりえないだろうが、長い時間経過に伴うテクノロジーの発達については述べられていない。スマホさえ出てこない。

カズオ・イシグロSF設定がときどきザルなのはリアリティレベル小説よりSF風の映画テレビドラマくらいにまで下げていて(下手をすれば寓話絵本レベルまで)、それは脚本家でもあったからなんじゃないかって考えたんだけど、そこまでたくさん脚本を書いていたかまではわからなかった。

かに技術的細部に立ち入らないので古くなりにくい一方で、そこが物足りなく感じられる。新しい技術だけをポンと現代に放り込んだ感じで、今と地続きな感じがして生活感があるのはいいけれど、技術によって完全に変容してしまった人類の心性がもっと欲しいと感じる。未来を描く意味はそこにあるんじゃないだろうか。

だいたい、フレーム問題解決というか一般常識インストールされてないスタンドアローン親友ロボットなんて危険すぎるだろう。誰もアップデートされないスマホなんて使っていない。SFはどこまでリアリティのある技術を出すべきかという問題もないではないが、短編ならともかく長編でこのネタをこれをやるのは、平均的理系知識を持つ読者にとってはかなりしんどい

結論

以上。読んだ順。

私が好きなのはカズオ・イシグロではなく「日の名残り」だった。

追記

わたしを離さないで」だけ既読、似た感想。この小説SFというより寓話に近いと思う(増田も書いてた)。ドナー人権周りの描写も臓器を貰う側の葛藤も削ぎ落とし、搾取される者の命の輝きのみに焦点を絞ってる感じ

こちらのブコメがとても素敵だったので引用させていただきました。不都合がありましたらお知らせください。

2023-01-03

2023年左派リベラル終息の年になるのかな

Colaboのおかげで左派リベラル生活保護不正受給イメージ定着は避けられない

増田の知人の中で、左派思想の人はごく一部除いてここ数日完全ダンマリ。ごく一部の人は「あれは境界知能」とか無理筋のColabo擁護をしてる

ウィキペディアでは2019年あたりから左派思想アカウント暴走して長期ブロックされたり多重アカウントやらかして無期限ブロック事実上追放)が目立ってきてる。多重アカウント10年前は右派アカウント十八番だったが左右逆転した。

そいえば昔多重アカウントがバレて管理者辞任した海獺はリベラルだったな。先日の太田弁護士とかも(場所は違えど)そうだが、リベラルが多重アカウントをやらかすのが恒例となってきたな。今年はさえぼーがブロック対象になりそう。

2023年末は左派リベラルが自らの不正行為自爆して終息した年として歴史に残るかもね

2022-12-30

高校どころか大学生卒業して30代後半になってもぼっちロードを突き進む♂オタクぼっち・ざ・ろっくを最後まで見た感想

https://anond.hatelabo.jp/20221229121150

ぼっち・ざ・ろっく全部見た。

ギター買ったところで終わっちゃったからなんかとても消化不良。

で、気になりすぎてウィキペディアたらこの後がすごい面白そうで「うわぁー!にくいことしやがるぜ!!」ってなった。

でもマンガ読むほどじゃない。俺貧乏からマンガ買えないし。

現状、展開の速さよりぼっちちゃんワールド楽しむ作品から別にええけど

コミュ障キャラ主人公で周りがフォローするアニメマンガ

ってすでに色々あるからそれ自体はけっこう食あたりでそんな好きではないんだが…

ぼっちちゃん人間離れしすぎて、【慣れてくるとかわいい】というか、【ここまで来ると宇宙人との交流モノとして成り立つ】というか…

status/1608327719779176448

それにしても、こういうのを読むと、今のオタクって俺のころよりはるか熱量が高いんだなと思う。

【音楽】『ぼっち・ざ・ろっく』にハマった人に聴いて欲しいバンドの話|マツウラ|note

誰だよ最近オタクがぬるくなったとか言ってるやつ。すげー奴は俺たちのころよりはるかえぐいじゃん。

逆に俺はアニメオタクじゃなくなったんだなーって思う。

オタクってのはこういう体力すげーやつのことを指すのであって、俺はアニメを楽しむ体力が筋力が完全に衰えてしまった。

オタクコンテンツを全力で楽しむためにはいろんな知識の蓄積という筋トレや、感情の良さぶりに耐えられるような感情筋のトレーニング必要だった。

ここ数年ろくにアニメマンガも見ないでエロ同人ばっかり見てた俺にはもうオタクを名乗る力はないわ。

仕方がないから暇空茜の応援とかやって「オタクのふり」をしておこう。

きっと暇空茜の応援をしてるような輩は俺みたいにもうオタクとしてコンテンツにどっぷりハマることができなくなった奴らなんだろな。

オタクじゃなくなったことを認められないから楽してオタクのふりをできる暇空茜の応援団をやってアリバイ作りするしかないんだ。多めに見てくれよ

2022-12-25

あれ?クリスマスって終わったん?

乗り遅れたわ

日本史Wikipedia見てたら一日が終わってた

ウィキペディア時間どろぼうだなあ

2022-12-18

高校で習わなかった歴史も、ウィキペディア記事などで知るわけだが、まあ紛争協定がいろいろあったもんだ

ネアンデルタールサピエンスも賢くなって武器戦略も複雑になった

国同士で紛争なんかやるのは、欲に塗れ子供の話も聞かないヤクザ親のごとき一部のヒト属で、一般人子供立場だと言える

子は独立しつつ、親を操れる子にならなければいけないが、どうすればいいんだろう?

2022-12-06

anond:20221202212454

バニーガールは、アメリカ成人雑誌PLAYBOY』との連動企画運営された高級クラブプレイボーイクラブ(PLAYBOY CLUB)」のウエイトレス衣装として考案された。正式には「プレイボーイバニー」(en:Playboy Bunny米国商標番号:0762884)という名で、商標登録されている。PLAYBOYシンボルマークであるラビットヘッド(ウサギの頭)を題材にしている。1960年2月29日夕方シカゴの「プレイボーイクラブ」で初公表された。

ウサギモチーフにした理由は、ウサギが1年を通して発情期というイメージ生物であることから連想で、「自分はいつでも男性を受け入れる準備ができている」という暗喩から。その当時のバニーガール衣装には実際のウサギの毛皮を使用した物もあった。

ウィキペディア バニーガールの頁から

 

バニーガール衣装性的でないはさすがに無理筋

anond:20221202224234

バニーガールは、アメリカ成人雑誌PLAYBOY』との連動企画運営された高級クラブプレイボーイクラブ(PLAYBOY CLUB)」のウエイトレス衣装として考案された。正式には「プレイボーイバニー」(en:Playboy Bunny米国商標番号:0762884)という名で、商標登録されている。PLAYBOYシンボルマークであるラビットヘッド(ウサギの頭)を題材にしている。1960年2月29日夕方シカゴの「プレイボーイクラブ」で初公表された。

ウサギモチーフにした理由は、ウサギが1年を通して発情期というイメージ生物であることから連想で、「自分はいつでも男性を受け入れる準備ができている」という暗喩から。その当時のバニーガール衣装には実際のウサギの毛皮を使用した物もあった。

ウィキペディア バニーガールの頁から

 

バニーガール衣装性的でないはさすがに無理筋

2022-12-05

2-0が一番

根拠は? って思って調べてみたら

「2-0は危険スコア」ってウィキペディア記事があるくらいだった

で、否定されてた


似たような疑問で、野球の配球解説で次はここのコースが良いとかいうけど、セオリーあるなら打者も当然読みに入れるわけで

結局裏の裏とかの読みあいなのか、わかってても打てない(プロでも克服できない)のが残ってるのか

やまだたいちなら特訓でなんとかしてただろうに

2022-11-27

anond:20221126225422

・前半は自分でわかっているようだが、公共広告の古い定義にこだわった揚げ足取りにすぎない。

ウィキペディア定義が万能というわけではないのはもちろんだ。

本来なら「子供の目に触れる場所」が表現議論における「公共の場」の定義だろうな

日本では電車未成年が登校につかわざるをえないよな?

アメリカではスクールバスだの本人が運転する自家用車バイクスクーターで通えばいいから目にしないだろうけど。

就職前の学生人生の早い段階からスマホゲームギャンブルと女におぼれてろって広告出すのはさすがに教育に悪すぎやしねえか?

まあどんな大手ゲーム会社であれ事務次官無職息子みたいなのが百万単位でつぎ込むおそろしいゲームつくったのにまた電子麻薬で人をだめにしようとしてるのかとしかおもわれないぜ。

 

・後半、

公共空間であれば本来リアル女性があのように露出の多い格好で歩いても問題ない。

本来」って言葉をわざわざいれて書いてるからうすうす自覚はあるんだろうが、

本来」の理想論から社会のほうが乖離しててそうなっていないか問題なんだろ。

痴漢撲滅してリアル女性がそういう格好しても盗撮カメコもまとわりつかない日本にしてから広告出せよ。

2022-11-25

anond:20221116225250

いろいろあるよ。知ったかぶりしようとしたが、私よりウィキペディアのほうが詳しいのでそちらへ。

https://ja.wikipedia.org/蒸留酒検索

2022-11-24

Kindle Paperwhite10年経つんだな

Amazon の注文履歴を振り返っていたら2013年にはじめて Paperwhite を買っていたのでもうそんな昔かと思ってウィキペディアを見てみると2012年9月に発表、同年12月日本で発売らしい。

10年もあったらもうちょっと進化しても良さそうなものだけどな。

とりあえず Oasis の最新型を早く出してほしいけどまさか Oasis シリーズなくならないよな…?

新しく Kindle Scribe というのが出るみたいだけどあれはどうなんだろう。

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