はてなキーワード: つくばとは
私は鬱病です。
どこの誰かが読んでくれるかわからないけれど、今の自分を残しておきたくてこれを書こうと思いました。
少し長くなると思いますが見てもらえたらうれしいです。
鬱になった原因は色々あったと思います。
一気に色んなことが起きました。
両親の離婚、兄の人間関係トラブルに巻き込まれ殺してやると追われた事、
最初は普通に接してくれていた人が、ある時を境に冷たくなりました。
「これあなたが触ったの?じゃあ捨てよ~っと」と言われ、
目は合わせていなかったのに「目配せしたのに何で気付いてやってくれないの?」と言われ、
朝廊下ですれ違う時こちらから挨拶すれば無視され、通りすぎたあとに「あっ、あの子いたんだ~」と言われ、
影では「あの子気持ち悪いのよね」と色んなひとに吹き込まれていました。
大したことではなかったと思っていました。
心配してくれた先輩が話を聞くと「だってあの子私の言う事聞かないんだもん」と返ってきたそうです。
人間合う合わないは山のようにあるし、たまたまあの人とは合わなかっただけだと、そう思っていました。
ある日電車の中で倒れました。
酷い吐き気に襲われ意識が朦朧として立っていられなくなりました。
すぐさま次の駅で降りてトイレに駆け込んだのですが何故か吐けず、それでも吐き気は治まる事なくずっとえづいていました。
目の前の視界もぼんやりとして立っていられずしばらくそこで座りこんでいました。
流石にこれはおかしいと思い這いつくばって出て駅員さんに助けを求め、事務室で休ませてもらうことになりました。
けど一向に症状が良くなる気配もなく、意識が薄れていく中「救急車呼びますか?」と聞かれお願いする事に。
点滴だけ打って帰る事になりました。
そんなことが数回あり別の病院を何軒も回ってもやっぱり原因はわからず。
最終的に心療内科に行きつきました。
出された薬は最初とても効きました。
でも次第にまた同じような症状が出始め、今度はある朝ついに体が動かなくなりました。
本当に腕も持ち上がらないのです。
起き上がろうとしても力が入らずただひたすら天井だけを眺めている。
結局動くようになったのは昼頃でした。
そこで初めて鬱だと診断されました。
会社にそのことを報告すると「まともに働けないんじゃ…」と言われ自主退職。
そして今に至ります。
2年経ちました。
まだ2年?と思われるかもしれませんが、本当に何も出来ずにただ毎日息をしているだけでもう2年経ってしまったのです。
今は未来が何も見えません。
天職だとさえ思っていた大好きだった仕事を失い、趣味の絵を描く事も出来なくなり、
この先一生なにも出来ないままなんじゃないかと不安に駆られ続けています。
日常生活ですら難しく、お風呂に入ることもなかなか出来なくなりました。
ご飯を食べる回数も減り、何かを楽しむという感覚がわからなくなり、ここしばらく病院以外での外出も出来ていません。
時々発作のように体が震えます。動悸が激しくなり、無性に生きていることが怖くなります。
死にたいです。
いつ働くことが出来るようになるかもわからない。
ずっと考えています。
けど私よりもっとつらい思いをしている人がいる。
そう考えるとこんなんで死んではいけないとも思うのです。
だけどやっぱり今のこの状況が続くのは果てしなく思えてつらいのです。
死をとても身近に感じます。
私が体感してきた苦しい思いが、どうか他の人はしなくて済むようにと願うばかりです。
今つらい思いをしている人がいるのであれば、少しでも気持ちが楽になれますよう。
私ももう楽になりたいです。
先日、母親と叔父の三回忌に向かう途中、某人気戦国武将を祀る神社近くのコンビニに寄った。
もっとも、神社に用があったわけではなく、ただ小雨が降り始めたので、念のためにビニル傘を買おうとしていただけだった。
イケメン武将を祀る神社の前には、歴女ないし腐女子的な女性が散見され、殿様のお陰で地元経済が潤っていているな、と実感する。
傘を買い終わり、ふと道を挟んだバス停に目をやると、冴えない容貌の若い男女の姿が目に入った。
典型的なオタクルックで痩せぎすな男と、似たような服装の肥満体の女。この女性は歴女か腐女子だろうか。
最初は他人同士かと思ったが、互いに談笑する様子を見ると友人同士かもしれない。
いや、女性が口をつけたペットボトルを男性にも勧めていたので、どうやら恋人同士のようだ。
自分はそろそろ40歳近いが、結婚どころか交際の経験すらない。若い頃は悩むこともあったが、最近は悩むことすら少なくなった。
だから、失礼な言い方ではあるが、お世辞にも見てくれが良いとはいえない男女が仲良さそうに談笑をしている様を見て、
何年かぶりに嫉妬、あるいは劣等感のような感覚を覚えたことは間違いない。なぜあいつらに出来て、俺はダメだったんだ?
かつての俺は努力はした。外見も磨いた。色んな手を尽くして出会いを求めた。だが、誰ひとりデートの誘いすら承諾してくれなかった。
誘いを断ったある女性に、思い余って理由を尋ねたことがある。もううんざり、と吐き捨てるような声で答えられた。
「魅力を感じないんです、人として」。 そこで心が折れた。すべて諦めた。
女性が去った後、自分は地べたに這いつくばって、駄々をこねる幼児のように泣いた。誰もいなかったのが不幸中の幸いだった。
ほどなく、そんな劣等感を笑い飛ばそうと、からかい半分に母親につぶやいた。「ほら、あんな見た目の悪い連中でも、恋愛しているんだね」。
母は答えた。「そうね。『為せば成る』のよね」。人差し指が遠くにかすかに見える「毘」の文字を指していた。
自分はその指先を見ないふりして、無言で歩き出した。
『レヴェナント』はめちゃくちゃ難解なんですが、ポイントを押さえれば、イニャリトゥ監督の過去の作品と大してテーマは変わんねぇことが分かります。
イニャリトゥ監督はデビュー作『アモーレス・ペロス』から前作『バードマン』までひたすら「親子」をテーマに映画を撮り続けてきた監督です。なので『レヴェナント』でもテーマは「親子」です(インタビューでもそう言っています)。もうちょい言うと、『レヴェナント』では「親の子に対する愛がいかに深いか」ということを描いてます。
主人公グラス(ディカプリオ)の台詞をちょっと考えてみれば分かります。
“All I had was my boy... but he took him from me.“
「私にとって息子は全てだった。しかしフィッツジェラルドは私から息子を奪った。」
“I ain't afraid to die anymore. I've done it already.”
「私はもう死ぬことを怖れていない。私は既に死んでいる。」
これはグラスが救出された後にヘンリーに語った言葉ですが、この2つの台詞から分かることは、①グラスにとって息子ホークは生きる意味そのものであったこと、②グラスは物語のどっかで既に死んでいて、それにもかかわらず基地までたどり着いたということです。
死んでます。具体的にはフィッツジェラルドにより埋葬された後、息子ホークの死亡を確認した時点で力尽きています。通常、熊に襲われて、内蔵が見えてしまっていて、脚は複雑骨折、その上発熱していて、ろくな治療を受けられないまま生き埋めにされたら(さらに生きがいであった息子が殺されたら)、それは死ぬだろ、と思いませんか。
あれは肉体が死亡していながら精神の力(息子を愛する力)だけで動くゾンビみたいなもんです。ジョジョを読んでる人は、ボスにぶっ殺された後のブチャラティみたいなもんだと思ってください。
小難しい話になりますが、イニャリトゥ監督は前作『バードマン』で死と再生の話を描いていて、映画では好んで用いられるモチーフです(『鏡』、『8 1/2』など)。主人公が死んで復活するというのは映画では珍しい話ではありません。
加えて、本作のタイトルが"Revenant"(つまり「死から蘇った者」〔someone who has returned from the dead〕)であることもこの説を補強します。
解釈の問題になりますが、海外サイトの中には、グラスは死にそうになるたびに、野生動物に生まれ変わった(死と再生)のだとする説がありました。
最初は熊です。これはグラスが熊の毛皮を着て、熊の爪のネックレスを身につけ、川で魚を手づかみにし(木彫りの熊ですね)、それを生のままかじり付いていた点に表れています。
次は狼です。これはインディアンにバッファローの肉を求める際、四つん這いに這いつくばって、人にへつらっていたことと、投げられた肉を生のまま貪りついていたことから分かります。
その次は馬です。これは文字通り馬の腹から這い出てきたことから分かります。
最後になんかの肉食獣です。これは最後の戦いでわざわざ銃を捨てて、斧(牙)とナイフ(爪)で戦っていることから分かります。
グラスはこれらの野生動物に生まれ変わる過程で回復していったと見ることができます。
愛です。
ここも解釈ですが、息子を失って生きる意味を失った以上、野生動物と同然の存在に成り下がったと見られるのではないでしょうか。
グラスが一匹狼のインディアンから教わった言葉です。「神の手」というのが直接的には川下に居たインディアン(リーさん)だったため、海外サイトではリーさんは神の復讐の代行者であると言う人が多かったです。「インディアンがあんなに近くに居るのに川に流したら殺されるに決まってるだろ」と言う人も居ますが、個人的には死と再生を繰り返したグラスさんの聖人パワーでリーさんを引き寄せたと思っています。つまり愛の力です。
あの表情には元ネタがあります。タルコフスキーの『僕の村は戦場だった』のイワン君(12歳)の表情です(https://vimeo.com/153979733のラスト)。どういうときの表情かというと、まずイワン君はソ連の少年兵なのですが、ナチスに母と妹を殺されています。そんで夜中に1人でナチス軍に対する戦いをシミュレーションしている最中にあの表情をします。つまり、純粋さと愛にあふれた少年の心が、ナチスに対する復讐心で壊れかかっているときの表情です。これをグラスに類推するなら、あの表情は、復讐を終えたことで(生きる意味を再び失ったことで)グラスの精神が壊れかかっている(もしくは壊れてしまった)ことを意味しているのではないでしょうか。
あの吐息音をめぐって、海外掲示板では「グラスは死んだのか否か」について熱い議論が交わされています。これは監督の前作『バードマン』でもあった論争で、そこでの論争が、主人公は生きているという決着で終わったため、今回もグラスは生きているだろうという説が有力です。ただ、私の考えとしては、グラスは精神力(愛の力)だけで動くゾンビ状態なので、その精神が崩壊した以上、グラスは真の意味で死亡したと思っています。ジョジョを読んでる人はシルバー・チャリオッツ・レクイエム出現後のブチャラティを(略
愛する息子を殺され、肉体的に死亡した主人公が、愛の力で死と再生を繰り返し、敵に神罰を与えて、やっと死ぬ話です。つまりテーマは親の子に対する深い愛です。
ちょっと違いますが、そういう側面があった可能性が高いです。というのは、イニャリトゥ監督が今回の撮影で目標とした映画というのが、①黒澤明『デルス・ウザーラ』、②コッポラ『地獄の黙示録』、③タルコフスキー『アンドレイ・ルブリョフ』、④ヘルツォーク『フィッツカラルド』、⑤ヘルツォーク『アギーレ/神の怒り』だからです。映画ファンであればすぐ分かるのですが、これらは映画史上最も撮影が困難だった映画群です。例えば④の『フィッツカラルド』なんかは巨大な蒸気船を滑車を使って実際に山越えさせています。つまり、監督が映画史に残る過酷な映画撮影がやりたかったところに、アカデミー賞がどうしても欲しかったディカプリオと利害が一致した、というのが真相なのではないかと思っています。
掘り起こそうと思えばたくさんあります。例えば『レヴェナント』では上記の表情以外にもタルコフスキー作品からの引用が多い(「宙に浮く女性」、「貧しい人にご飯を分け与える姿」、「鳥」、「隕石」)のですが、それがただタルコフスキーの真似をしたかっただけなのか、意味があるのかがよく分かりません。それとフィッツジェラルドが神について2回話すシーンがあるのですが、その意味がよく分かりません。
それと、作中何度も繰り返される"As long as you can still grab a breath, you fight."という台詞の意味が実はまだよく分かっていません。特に、エンドロールが始まってからも聞こえる吐息音を考え合わせると、グラスが生きている説も導き出せるため、重要な要素である可能性があります。何か思いついたり新情報が出たらこっそりこの記事を訂正するかもしれません。
「『レヴェナント』テーマ解説(2)(ディカプリオのテーマ編)」(http://anond.hatelabo.jp/20160524110234)に続く
2か月前に母方の祖父が亡くなりました。
その際に母は、葬儀の手続きで忙しく手がいっぱいになり、頭を悩ませていました。
ちょうど私は一週間、新卒の研修で地元を離れており葬儀に参加することはできなかったのですが、母は慣れない葬儀関係のことで苦労していたようです。
研修から帰ってきた頃から母の様子が少しおかしいことに気づいていたのですが、祖父がなくなったことへのショックによる一時的なものですぐによくなると思っていました。
相続する権利は私の祖母、母、母の兄(私の叔父、単身)の三人にありました。
叔父は5年以上、親戚の誰とも連絡がつかなくなっていたのですが祖父が危篤状態のときに現れ、亡くなったあとには葬儀関係の手続きを進めてくれました。
相続の手続きをする際に、叔父は今現在、知り合いの家に居候して自分の家を持たないこと、多額の借金があることがわかりました。
最終的に遺産の権利は、母と叔父が権利を放棄して祖父の財産はすべて祖母のものになることに決まりました。
しかし、持っている家や土地を売却する素振りをみせていた叔父に、母の中には不安が大きくあったようです。
葬儀から3週間ほど経った頃、夜中に母親に起きてきて、心臓が苦しいと言うので病院の夜間救急に連れていきました。
検査をした結果、体に異常は全くありませんでした。
祖母の財産のことやこれからの生活のことが気がかりで不安に押し潰されそうになり目が覚めた、と母は話していました。
祖父が亡くなってからほとんど全く寝ることができず、寝ることができても数時間で目が覚めてしまうらしいのです。
心療内科では睡眠導入剤を処方され、最初の数日は眠ることができていたのですがすぐに効かなくなり、逆に睡眠導入剤を飲まないと一睡もできないようになってしまいました。
睡眠導入剤を飲むことが母にとっては、薬に依存してしまうのではないか、と不安を募らせています。
「具体的に何がそんなに不安なの?」と聞くと、母自身もよくわからないようです。
今回の祖父のことで母は、
「自分には何もできず、周りに頼ってばかりで生きてきたというのを感じた。
そうしているうちにこれからの将来がたまらなく不安になった。」
と言われました。
父は母を責めるばかりで、その病気は自分の心が作り出してるものだ、と言って母のことを理解しようとしません。
父に接することで母は傷つくばかりで、それを見ている私も胸がいたくなります。
とにかく母の体と心が心配です。
人は必ずバナナを選ぶ
食べる事、そこから象徴される「変化すること」や「動因を満たすこと」を選択する、そこに帰結する
石の平穏はつまり、クライン派やラカンが言う所のデストルドーの終点や涅槃原則の事を指すのだろう
人は死なない限り、完全には、不変にはならない
完璧なこととは、何も変わらないものとは、生きていないものに他ならない
偉いのは…、美しいのは…、死んだ彼らだけだっ!!
人が完全だった頃
それは全てが満ち足りて、自我の境界もなく、即ち自他の境界もなかった頃の世界である
幼児的な万能感の世界で、他の存在もない人類補完的な世界のことである
父の名によって全能性が否定され、去勢され、不完全な存在となる
生き続けることは、一人で生きていけないことも意味する
同じことの繰り返しになるが、父の名によって言語が出現するのは自明であるだろう
精神病を除いて
同志よ!
いや、私の趣味はどちらかというとフレーバーティーなのだが仲間を名乗ってよいだろうか?
世の中の喫茶店と称するものはティーバッグが出て来たり、勝手に砂糖を入れたり、挙げ句の果てに檸檬の輪切りを浮かべたりして嘆かわしい。
コーヒー豆は多数用意するのに紅茶は一種類、それもだいたいダージリンだ。
「今日のおすすめコーヒー」はあっても「今日のおすすめ紅茶」はない。
この扱いの差はなんだ。
その点、つくばにある花水木 は本当に素晴らしいのでぜひ東京まで展開して欲しい。
ルピシアが好きという人は一度飲んでみて欲しい。多分気に入ると思う。
もう1軒勧めるなら
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20160305-00011454-forbes-bus_all
(新たに198人が億万長者に、若き起業家も多数 )
なんでプロダクトではなく、いくら儲けてるか?の話を先にするの?
どんなに素晴らしいプロダクトを作っても嫉妬で潰されてしまう。
実際のベンチャーというのは、普通の人の人生より遥かに想像を絶するどん底を這いつくばるような人生だ。羨ましがられる人生ではない。志一つで道を切り開いている領域に、軽々しく金金と書かないでほしい。起業家を侮辱している。ライト兄弟が金のために飛行機を作ったのか?
後々どの様に世界に影響を及ぼすのか?というのを考えなくていいのものなのか?利益のためなら責任感すらも持ち合わせないなら、
メディアとしてはもう終わってるよ。
一つの記事で、世界の人にどれだけ迷惑をかけているのか?というのを考えなくてもいいの?
要するに「地べた這いつくばって死ぬまで生きてろよ」って思ってるってことだな。
過剰診断!と気焔を吐く連中の中にはこういうカスがいるんだなって分かってためになった。
「我ら五人衆、この通りお館様にご忠誠をお誓い申し奉りまする」
武勇で名高い五人衆は、揃って喜多川右府に対し、地面に這いつくばるように平伏した。
しかし、その言葉に反して、五人衆の筆頭である中居弾正は、怒りと絶望に覆われていた。
中居は、まるでその怒りを抑えこむように、いつしか自分の手をつねっていた。
彼ら五人衆を見出し、股肱の臣として、ここまで育て上げた飯島摂津守が、突如、その主君、喜多川右府に反旗を翻したのだ。
原因は、主君による飯島摂津守への嫌がらせである。家中の諸将たちが見守る中、何を思ったか喜多川右府は、刀に刺した餅を飯島摂津守に突き出すと、「食え!」と屈辱的な命令を発したのだった。
もし、これを断れば謀反者として一族郎党滅せられる・・・飯島摂津守は、武功を立てお家を支えてきたという自らのプライドをぐっと飲み込むと、目をつむりながら餅を頬張ったのだった。
しかし、飯島摂津守は、自らの居城へ帰り着くと、主な家臣を集めて「もう我慢ならぬ」と、声を絞り出すようにぶち上げた。
「俺は謀反を起こす・・・ただ、皆を巻き込みたくはない。去りたい者は、今すぐここを去るがよい」
家老となっていた五人衆の筆頭、中居弾正は、すぐさま前に進み出ると、「我らには摂津守殿に多大なる恩義がありまする。たとえ地獄であろうと地の果てであろうと、我ら五人衆は一心同体。殿にどこまでもついてゆくとお誓い申し奉りまする!」と申し出た。以下、木村内匠、稲垣五郎右衛門、香取金吾、草薙武蔵も、声を揃え「おう!」と答えたのだった。
そして、五人衆は血判状を書き上げると、それを木村内匠に託して城を下がった。
木村には妻子があった。
その夜、帰宅した夫を見て、奥方のお静はすぐにその異変に気づいた。
「お城で何かありましたか?」
お静の疑問を黙殺すると、「今日はもう疲れた。すぐに寝る」と言って、そのまま寝てしまった。
翌朝、木村は妻に問いつめられていた。
夜のうちに、持ち帰った血判状が妻の手に渡っていたのだった・・・
「もしご謀反がお館様の耳に入りましたら、幼い若君もろとも滅せられまする!どうか、お考えをお改め下さいませ!」
「既にお館様のところへ」
「なんということを・・・」
「もちろん、“その場の流れで血判状を書きましたが叛意は無い”と付け加えて・・・」
「それでは・・・それでは、わしは同輩を裏切ることになるぞ」
「これも、お家を守るためにございます」
もう何もかも終わった・・・木村は観念すると、事の経緯を他の五人衆に打ち明けた。
「なに、この俺が話をつけてやる」
そして、城は一戦も交えること無く落城した。
家老五人衆の翻意を知った城主、飯島摂津守が観念し、「家臣には罪はない」と言って、城から逃走してしまったからだ。
余談だが、城に残された飯島一族百名余りは尽く捕らえられ、市中引き回しの上、六条河原で次々に斬首され、鴨川が真っ赤に染まったという。しかし、果たせるかな、飯島は喜多川右府の死後も生き続け、後に、茶人として復活している。
これまた余談だが、いち早く謀反を主君に注進した事になった木村内匠は、喜多川右府の寵愛を受けて取り立てられ、飯島に代わり摂津一国を任せられて大出世を遂げるが、家臣に裏切られて自害している。また、五人衆の筆頭・中居弾正を含む4名も、この事件の後は歴史の表舞台から姿を消してしまうのであった。
オーッホッホッ這いつくばりなさい!
今の職場、4人中3人が既婚者でみんな愛妻家で、今日は上司①と②が奥さんへのクリスマスプレゼントの話をしている流れで被弾した。
上司①「まぁまぁ。とはいえそれ間に受けて買ってこられても引くよね。もっと高価なもので欲しいものないの?」
私「うーん。以前も同じようなこと聞かれたことがあるんですが、その時はトランペットと答えましたね」
上司①「確かに、確かに高価だけど」
上司①「じゃあ、今まで彼氏からもらった一番高いものって何?」
私「うーん。そもそも彼氏いたことないので、もらったことがないですね」
私「本当です」
上司②「嘘でしょ」
私「本当だから」
を乗り越えて帰宅したわけだが、クリスマスにもらうものとして嬉しいもの考えてみたところ、クロマキー合成用のスクリーンセットもらえたら嬉しいなーと思った。
あとは液タブ。もし液タブプレゼントされたら至福の極みだと思う。
こどもの頃、「これで絵を描きなさい」ってクーピーとかパステルとか買ってもらった時みたいな嬉しさを感じたいのだ。
あと、もちろん鼻毛カッターは自分で買えるのだけど、なんでプレゼントされたいかっていうのには理由がある。
上司には言わなかったけど、あれで安全に陰毛処理できるんじゃないかと思っているのだ。
私がやるべきことといえば、全裸で這いつくばって間抜けに尻を突き出し、臀部に両手を当てがい秘部が見えるようにしっかり広げ、カッターが肌に当たる瞬間をゾクゾクしながら待つことだ。
皆さんはクリスマスプレゼント、何が欲しいですか?
秋の行楽シーズン。
旅行先に限らず運動会などでもカメラ片手に東奔西走するパパママ達がこれでもかというほど目に入ってくる。
一生懸命に子供の姿を写真に収めようと奮闘しているわけだが、大半の方に惜しいと感じることがある。
一生懸命に走り回るところまでは良いのだが、いざ追いついてみると直立の姿勢でパシャ。また走っては追いついて直立のままパシャ。
惜しい。非常に惜しい。
当然大人の方が子供より背が高いので、大人が立った姿勢からシャッターを切ると子供は頭ばかりが大きくて足が短く写ってしまうことになる。
しかも大人目線から子供の顔を通り抜けた先は地面。周りの景色も写らなければ奥行き感の乏しい写真の出来上がりだ。
そこまで頑張って走ったなら、もう一頑張りしてしゃがんでみよう。
子供と目線の高さを合わせてみることで、その子供が見ている世界が見えてくる。
その世界とともに子供を写真に収めてあげれば、あなたの写真は「子供の写真」から「子供のいる世界の写真」に変わることができる。
確かに上目遣いの子供もかわいいものだ。でもそれは、子供が親に視線を向けている時だからこそ。
親の目線からの写真を表現するときにこそ使うべきアイレベルといえる。
このように、アイレベルとはつまり誰の目線かを表現するためのものである。
さて、写真が上手になってくると人から写真を頼まれることも増えてくる。
今までは自己満足でよかった世界に、急に他人の評価が入り込んでくるのだ。
ではどの高さにアイレベルを合わせるのが最も無難といえるのだろうか。
レンズの画角にも左右されるが、レンズ選びのできない方が使う標準的なレンズでは足が長く頭の小さい写真になる。
一見誰もが喜びそうな変化といえる。
しかし、写真に撮り慣れない被写体は、顔をあなたのレンズに向けてくるだろう。
引きすぎた顎は二重にたるみ、見下ろすような目線は威圧感に満ちあふれ、実に高圧的で傲慢な写真の出来上がりだ。
余談だが、それらを避けるためにこうした角度からの写真は被写体にやや上方向の遠くを見てもらうような姿勢をとってもらうことが一般的だ。
広がる空に目を向けることで、未来や世界に対する広がりを感じられるからである。
それは、女性なら鼻下からおでこ。男性なら鼻下から鎖骨に合わせるというものだ。
一般的な話になるが、女性は瞳が魅力的に写る写真を好み、男性は謙虚ながら存在感のある写真を好む傾向にある。
細かい説明は割愛するが、その黄金率がそれぞれ鼻下を中心に5~10cmの範囲に収まっているといえるわけだ。
あくまで一般論であり最初に立ち返ればアイレベルは表現の入り口に過ぎない。
しかし、頼まれた記念撮影に撮影者の表現が強く現れてしまうことが好まいくないことも確かだ。
記憶の片隅にでも役に立つ知識としてとどめておくと良いであろう。
子供の素晴らしい瞬間を切り取るために恥じらいなんてものは些細な問題だ。
尻を突き出し、時には地面に這いつくばってでも収めた瞬間は、その経験も含めてかけがえの無いものなのだ。
こうして皆の理解がすすみ撮影者が自由になれる世界を心から待ち望んでいる。
とは言え、下の子を抱いたままだったり激しい腰痛をお持ちだったりと簡単に中腰になれない方もいるだろう。
そんな方にはチルト(バリアングル)液晶のついたタイプのカメラが激しくおすすめだ。
童貞の雄が雄に屈服させられると雌になってしまう性質を持ち、一部の下級の劣った雄が雌にされる風習のある獣人族の第一王位継承権を有する王子を誘拐して、雄の身体や精神と、王位継承権を奪いつつ、孕ますようなお話はどこかにありませんか。
「……で?余を誘拐して、雄の身体や精神と、王位継承権を奪いつつ、孕ませようという不敬な輩は貴様か?」
「余の父は如何にして王となったか。そして余が如何にして王位継承権を得たのか知らぬわけではあるまい」
まだあどけなさの残る少年とは思えない手慣れた手管で増田を押し倒し、背後から陶器のような体を密着させた。
「わ れ ら ア メ フ ラ シ 族 は 雌 雄 同 体。
やってやってやりまくって反抗する雄を全て屈服させてこそアメフラシの王たりえるのだ!」
「駄目、そこは違う穴だよぉ……」
大した反抗もできずに受け入れてしまう増田を激しく責め立てる王子。
だが、二人のムーチョは長くは続かなかった。王子の背後にはまた新たな刺客が現れる。
目の前の増田に夢中になりすぎた王子の背後に刺客が覆い被さり容赦のない抽送を始めた。
「らめー。掘って掘られてずこずこすごいのー。ぁたまがぉかしくなっちゃぅぅぅ!!#@%へ」
「小生もイキそうでゴザルー。小生の子供を孕んで欲しいでゴザルー」
「一部の下級の劣った雄はわたしですー」
雌雄同体(しゆうどうたい)とは、一般に、雄の生殖器官と雌の生殖器官を一個体に持っているものを言う。
アメフラシでは、体の左右に雄性器と雌性器があり、雄性器を雌性器に挿入した方が雄の役割をするが、その個体の後方から別個体が雄として交尾をすることもあり、数個体が数珠繋ぎになるのも観察される。その場合、両端の個体は雄または雌の働きを、中間の個体は両方の働きをこなすわけである。わけである。[wikipedia:雌雄同体]より
罰則があるから扶養しなきゃなんて誰も一言も言ってないんですねぇー。
「連絡を一切無視する」という主張に対し「ちゃんと縁を切れ」という発言の無意味さについての話なんですけどぉー。
縁者が「縁切ったから連絡するな」と言っても介護職員だの福祉職員だのは定期的に連絡取らないとダメなんですねぇー。
なので縁者からの目線だと「いちいち連絡するなと応対する手間」と比べて「最初から無視」の方が圧倒的に楽なんすわぁー。
いいじゃないっすか無駄な電話してる間も給料発生してんすからぁー。ちゃんと税金払ってやってんだからおこぼれ這いつくばって舐め取ってろよぉー。
羽をもがれたようで見るに絶えません。
社畜の生活は惨めです。なにもできない。なにの希望もない。でも
やっていることは増田と代わりはありませんよ。
主人の意を受けて主人の言葉ならなんでも従う。
主人の夢をかなえるために命を捧げる。社畜と増田は大した違いはありません。
もっとも私は村長様から社畜のような扱いを受けたことはありませんが。
でもだからこそより一層見るに耐えません。
この社畜は私と同じような仕事をしながら自らの手に運命をつかむことができない。
百歩譲ってブラック企業から逃げ出したその熱意を努力と呼んでもいいでしょう。
しかし他人の好意にすがり村に迷惑をかけ、それがミニマリストたちのやりようですか?
まずは謝罪を。
よろしい。
でも、それだけですか?
スカートを指先で軽くつまみ、ドレープを美しく見せながら優雅に一礼するのです。
村長さま、私一人ではいささか手が足りません。増田を雇ってもよろしいでしょうか。
私が嫌いなのは虫です。