はてなキーワード: アスカとは
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ジャッキー・チェンの映画見たらその後数日はカンフーをしたくなるが、
ドラゴンボールはそういう根源的なアクション欲求を満たしてくれる作品だったと思う。
主人公だし!
この頃の好きは単純だったように思う。
ギャグが面白くて好きだった。後、ククリからニケへの好意の描写も多くてよかった。
この作品はアニメ終了後も単行本をずっと追いかけてずっと好きだった。
単行本は終盤の絵柄が好きじゃないとか言う人がいるけど俺は気にならなかったし、
初めて買ったCDはEDの「Wind Climbing 〜風にあそばれて〜」だった。
もちろんククリも好きだが、やはりニケのボケ、ツッコミはこの作品の肝だ。
この作品を知ったのは親父が映画「Air/まごころを、君に」を借りてきたからだった。
OPが非常に好きだ。
あの全部理解させる気のない圧倒的情報量、スピード感はこの作品を象徴していたように思う。
敵も毎回色んな形態、シチュエーションで、全ての話数で飽きさせない、先の読めない展開の連続だった。
BGMのクラシックが非常に印象的で最高の盛り上がりから最後のカヲルくんを握りつぶすタメまで、息の詰まるというか、
心拍数が上がるというか画面の中に意識を囚われて、終わった後も戻ってこれない感覚を味わった。
傾向として、物静かなヒロインより、自己中心的だと捉えられることも多いが、
自分の意見を言う、他人に不利益が例えあったとしても自分の意志を通す、欠点のある人間らしいヒロインの方が好きなようだ。
思うに放送局がNHKでどの地方の人間でも見ることができて、何度も何度も再放送されたことがこの作品の地位を築き上げていると思う。
さくらちゃんは可愛いし、小狼くんと打ち解けていく過程がいいです。
この回は小狼からさくらちゃんへの好意が明確に描かれた回だった。
この作品はそういう視点で見ていたので、この回が印象に残っている。
当時はツンデレという言葉はなかったが、振り返って考えると当時からツンデレキャラが好きだった。
小狼くんはクロウカードを集める関係上敵対的な態度を最初取るが、どんどんさくらちゃんに好意を寄せていく事になる。
最初の印象はポケモンアニメの亜種という感じだったがポケモンアニメがサザエさん的なのに対して、
デビモン編では各キャラクターの紹介。
ダークマスターズ編では提示された欠点の再描写と解決となっている。
デジモンワールドと現実世界を何度か行き来するが、時間の流れが違うおかげで、
デジモンワールドに戻った時に状況がガラッと変わっていて、新たな問題の提示と困難度が劇的に表現されていた。
FF6の崩壊後の世界とかそういうシチュエーション好きなんです。
基本的に各編のボスと主人公勢との間には圧倒的な力の差があって、ボスから逃げつつ、
勝つ手段を探すような感じで、敵の強さの描写とその敵を倒したときの爽快感はすごくよかった。
何だかんだで主人公勢が勝つだろうと安心して見ていたそれまでのアニメと違って、
本当に勝てるのか?という感じで展開が読めない所がよかった。
この回はとにかく異色だった。
当時はアニメ、ドラマ、映画等の面白さはシナリオの面白さのみに依存すると思っていた。
合奏における指揮者は棒を降っているだけで誰がやっても同じだと思っていた。
厳密言うなら、この回を演出した人が監督を手掛けた映画「デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム!」を見て、
その人は今でこそ知らない人はいないほど有名になった「細田守」で俺の中では宮﨑駿と同列になった。
この人が有名になってトトロのように金曜ロードショーでぼくらのウォーゲームが流れることを切に願っていた。
なんか妙な色っぽさがあった。小学2年生なのに。
全部21話が悪いんです。
けど、元気なヒカリちゃんも好きです。
アニメ版とは別物ですね。
日常系作品にちょいとホラー要素を加えたのがアニメ版だとすれば、原作コミックはほとんどホラーです。
それと、ただ怖いだけじゃなくて、批評性の高い意欲作です。
日常系とか空気系と呼ばれる作品群をハッキリと否定しています。
エヴァ旧劇なら庵野がオタクたちのことを「気持ち悪い」と言ったのと同じです。
まどマギ劇場版新編なら、ラストで「自分勝手にルールを破るのって、悪いことじゃないかな」とまどかに言わせ、ほむらが創った心地よい虚偽の日常を批判しているのに相当します。
学校を出ること(卒業)、あるいはそのまま学校に残り続けること、どちらかです。
"巡ヶ丘"学院という名前と場所そのものが、終わらない、居心地の良い、都合の良い、フィクションの中にしか存在しない日常のメタファーです。
最終的に、学園生活部のメンツは卒業すること(現実を直視すること)を選びます。
とりわけ丈槍由紀の成長は顕著で、ハッキリと夢想に別れを告げ、夢想で彼女を守っていた周囲に感謝の意を示します。
と、ここまでが1~5巻までの概要です。
『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』で言えば、ハリアーで友引町を脱出するところです。
エヴァ旧劇なら他者(アスカ)を望み、LCLから人間の姿に戻るところです。
ただ、揺り戻しがあるのですね。
嘘でも良い、安心できる妄想の繭に守られていたいという願望が再び頭をもたげてきます。
1~5巻では由紀が繭の中に逃避していたのですが、今度は若狭悠里が繭の中に潜り込み、由紀と同じ道をなぞってしまいます。
セカイ系の隆盛後、日常系が流行り、まどマギで一旦は日常から脱出したのですが、また日常に戻った漫画・アニメの消費者自身なのです、悠里は。
一度は他者を望んだものの、やっぱり怖くてアスカの首を締めたシンジ君そのものです。
デビほむが創った新しい世界を半ば受け入れてしまう、まどか以外の魔法少女たちとも似ています。
7巻以降はどうなるんでしょうかね。
おそらく日常と現実の間を振り子のように揺れ、最後は曖昧な位置で静止して終わるのではないでしょうか。
『うる星~』は友引町から脱出できたかどうか分からないまま幕を引きました。
エヴァ旧劇でも、新しい世界でシンジとアスカが共生できるかは未知数なまま終劇を迎えます。
まどマギ新編でも、ほむらは「いずれあなた(まどか)は、私の敵になるかもね」と言っています。
縮小再生産で似たような作品ばかり作っていて良いのかという反問です。
唯たち4人はしきりに「高校を卒業しても、今までのような毎日が続くかな?」と自分たちに問いかけ続けます。
もちろんずっとクローズドな学校生活(がっこうぐらし!)が続くわけはなく、社会に対してある程度開放的であらざるを得ない大学編けいおん!はすぐ打ち切りになりました。映像化もされていません。
まんがタイムきららは自ら日常系の潮流を作り、その流行に乗りつつも、自分たちがまずい方向に進んでいることが分かっているのでしょう。
この前バスの中で見た子と、昔家庭教師(というか宿題監視員)でみてた子が、他人への絡み方がまるっきり一緒でびっくりした。
絡み方というか、見た目や喋り方・発話のトーンまでそっくりだった。
どちらもミッチミチに太っててよく喋る感じ。
家庭教師してた子は、当時5年生だけどこんな感じ↓
「んあー!あー!なー!なーなーなー!」
『なに』
「えー見てないの!!なんで!?」
『はやってるから』
「あんなー、俺思うんやけどハルヒよりみくるちゃんの方が絶対かわいいと思うねん」
『ふーん』
「だってな!だってな!ハルヒなんか、あっそうやジャンケン!ジャンケンしよ!」
『ハァン?』
「はい!さーいしょーはグー!」
『ドリル』
「ほらほら負けちゃうぞー!」
『ドリル』
「負けちゃうぞー!じゃーんけーん……」
『ドリル』
「ポンwwwwwwエッヘヘヘヘッヘヘヘヘヘwwwはい勝ったぁ~勝ったぁ~不戦勝~」
『おい』
「あんな、これな!ホラこれ!ここがグーで、ここがチョキで、ここがパーやねん!だから負けませぇーん!絶対勝てますぅ~!」
『つかぬ事を聞くけど、チョキで目突かれるのと、パーでハゲるまで頭しばき回されるのと、グー口にねじ込まれて窒息するのだったらどれがいい?』
「わかった!わかりました!ズルしない!今度はズルしないからもう一回ジャンケン!」
『しねえよ』
『ドリルやれ』
「れ……れ……レイちゃん!」
「うわーーーしまったーーーー!な、な、な、あんなー、あんなー、レイちゃんはなー」
「ちがうし!レイちゃん死んでないし!」
「レイちゃんはなー!っていうか俺はレイよりアスカが好きなんやけど」
『南無不可思議光~』(ズイッ)
「ちょっ、やめ」
「ゆるして」
「ああっ」
『建立無上殊勝願 超発稀有大弘誓』
『よろしい』
こんな調子でもドリルやるだけ奇跡みたいなレベルだったらしく、成績上がってご家族からめっちゃ感謝された。
そしてこの前バスで見た子は同じ調子でおじいちゃんにずーっと絡んでて、
しりとりとかジャンケンとか同じことしてて、しかもジャンケンでズル手出すのも一緒だった。
そしておじいちゃんは当然振り回されっぱなしで、なんていうか見てて疲れた。
「主人公TUEEEで、結局自分が何をしなくてもなんだかんだ他者(アスカ・レイ)に好かれるシンジって、因果応報的な世界に生きてはいないし、リアルではないし、ともかくも、もうちょっと頑張れよへたれ男」と言える
愚行権の定義だとか、公共の福祉に抵触しない程度に個人の欲望は優先されるとか、自然状態の人間が社会と契約することで社会が成立するだとか
そういう理由でそれに意見することはできるけど、俺が描いていたのは、そういう文脈じゃないんだよ
出発点は「碇シンジがどうしてアスカの首を絞めたのか」「碇シンジの結末はあれで良かったのか?」と言う所
「Air/まごころを、君に(以下、旧劇)」での2回の首絞めはどのような経緯だったのかと言うのが不思議だった
そして、どこか自分自身でもその行動に共感する所があったから、色々と調べて、他のエントリでも記述していた
結論から言えば、「碇シンジの首絞め行動には共感する部分があるが、それは余りにも典型化され過ぎていて、それが故に劇的で。劇的であるがゆえに、(アニメだからというのがわかっていつつも)その描写に”気持ち悪さ”を覚える人もいると言う気持ちが分かる」と言う感触だった
人間と言う存在を1列にした時に、その端っこの部分にいるような感触がした
もちろん、アニメというのは個性も能力も可愛さも格好よさも病理も苦悩も、極端化するものだから仕方ないし当たり前だ
人は典型化されるから、分かりやすく特徴が表現される劇的な描写っだからこそ共感する
だからこそ、本来であれば碇シンジの個人の人生で賄われるべき事柄に、アニメ的描写の必要性で以って全人類を巻き込んだ所に気持ち悪さが感じるという意見にも共感すべき所があるという感触だ
さて、細かい経緯を描き並べる
適当に拾い読みしてくれれば良い
碇シンジは父親に捨てられたという体験がもとになり、いわゆるヤマアラシのジレンマになっている状態だ
「自分には価値がないから捨てられる」「捨てられるのは嫌だ、だから最初から関わらない」「人と関わりたいが、捨てられるならこちらから捨てる」という心情である
精神分析で言うなら、自体愛・自己愛の所で止まり、対象愛、つまり他者を他者として認め愛そうとはできない部分だ
(つまり、自分を愛していて、安定しているから他者を愛することで自分も満ちるようにできる、共生的な状態にないと言う事)
描写としては「碇シンジが他者の存在を必要とし、全人類との一体化を否定してアスカと2人きりになった」という所だろう
すべてを一つにしてしまう混沌を母的な存在とするなら、自己と他者を切り分けて境界線を引くのは父的な存在である
父的側面の足りない碇シンジが自分とい他者を切り分けられたのは、極端な自己愛から脱却しつつあることを意味する
(なお、旧劇の該当シーンで地球が細胞分裂のようになるのは、人が”切り分ける”事を通して分離個体化する事のメタファーとして効果的だったという感想を自分は持っている)
ATフィールドの訳語が絶対恐怖領域である事を待たずとも、当たり前のことである
人は他人を受け入れたりもするが、受け入れなかったりもすると言う話に過ぎない
しかし、碇シンジはそうした絶対恐怖領域に耐えられるのだろうか?
それは、「もしアスカが起きたらまた自分は拒絶される、だから拒絶=殺害したい。でも世界にはアスカしかいない、拒絶したら、もう2度と他者と触れ合えない。でも、でも、でも」と葛藤している所を表している
だから、アスカが「大丈夫、怯えなくてもいいよ」と頬を撫でると力が緩み、涙を流した
ここでアスカが言った「気持ち悪い」の意味に関しては、本筋とは関係ない上にまだ把握できていないので割愛する
さて、旧劇における首絞めの理由に共感できる部分があると思った自分は、その過程(人類補完)と結末(アスカへの首絞め)が碇シンジにとって救いとなっているのか、新劇場版(以下、新劇)が作られたと言う事は、同じ結論にはならないのではないかと思った
(例として、新劇・破における碇シンジが自分個人の理由から綾波を救出し、周りの意見を聞かなかった結果、Qにて自分の言葉が届かなくなってしまったなど、旧劇とはまた違う結末になりそうという所だったり)
そして、もし結論が違うのであれば、旧劇の過程や結論は間違いだったのかと思った
シンジのデストルドーはどのように救われれば良いのか、分からなくなった
そこで、エヴァに関しての考察は停止して、救いとは何かについて別の視点から記述した
結論から言えば、人は完璧な世界(他者が居らず、自己愛だけが満たされ、幼児的万能感の世界で神になる、自分が傷付かない世界)を目指そうとすれば死ぬしか無くなり、生きることは苦しんで研鑽したり、自己に閉じこもり堕落する事を繰り返し葛藤しながら何とかやっていくことに過ぎないということだ
坂口安吾が「生きよ堕ちよ、その正当な手順の外に、真に人間を救い得る便利な近道が有りうるだろうか」と言いつつも「だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう」と言った事と同じである
生きると言うことは決して楽なことではなく、むしろ葛藤を抱え、時に逃避したり自責感に自殺を選びたくなっても、ともかく自分なりの現実を作り生き続ける事に他ならない
そこまで考え、旧劇における結論は他者の存在がまだまだ希薄だが救いがあると思った
碇シンジは他者を認めつつあり、自分の葛藤を自分なりに処理していくことができるようになるだおる
碇シンジは、生きるか死ぬかの所で他の他者すべてを巻き込んでしまった
あの世界では、もう生きようと思っても生きられない
さらに言えば、その過程で碇シンジと同じように葛藤を抱えて生きようとした全世界の人間の救いを奪ってしまった
そうした自分勝手な行動によって他者の救いを奪ってしまった事、そしてやっと他者を認めつつあるのに、アスカ以外の人間を復活できなかった事から生じる生きられなさ
そういう結論から、碇シンジの内面が何の関係もない他者の人生や世界の命運と”繋がってしまう”というエヴァンゲリオンに「だから、エヴァンゲリオンを見た時の気持ち悪さはそこにあるんだと思う」という感触があることに否定が出来ない
いわゆるセカイ系の気持ち悪さと言い換えても良い
現実世界において、どれだけ葛藤を抱えても世界や他者が壊れないのと別に
セカイ系においてはそうした葛藤と世界・他者が結ぶつきやすく、すぐに取り返しのない事に合ってしまう
たぶん読み難いです。
漫画原作でアニメ化されたものですら、未だにメディアには白目を剥かれてる。
同じく漫画原作の実写ドラマや実写映画には称賛の声は聞こえるけどアニメではよく批判された事は殆ど全く聞こえない。
これはどういうことなんだろう。
日本のテレビ番組、特にアニメを特集する番組をやる時、今のアニメ作品でなく、ハイジとかおそ松くんとかタッチとかエヴァとか(2015年現在ではちらっと)まどマギ、
一昔どころか戦後20年か30年経ったくらいの、僕ら平成っ子が生まれる前の聞いたことないようなアニメが特集されてお涙頂戴シーンで
柴田理恵辺りが大泣きする場面があって、未だに違和感を禁じ得ない。
最近、ようやく解禁されたのか、涼宮ハルヒの憂鬱がようやく日の目を見たものの、考えたらMUSASHI GUN道が放送された2006年の番組だった。
要は皮膚病の様にずっと無かった事にされてたんだ。
2006年のアニメ集まれ!みたいなの、テレ朝系列でたまに特番でやってるのを見た事ある人多いと思うけど、
2006年ですら最新のアニメで新世紀エヴァンゲリオンだったから、当時からメディアというのはおかしな偏見があるもんだと当時はあまり関心を持たなかったけど
それが放送するたびに同じ内容で同じ作品の紹介ばかりだったので流石に皆気付くでしょう。おかしな偏見があるんでないか?と。
で、その後2010年以降には、矢口真里辺りが最近のアニメか何かの紹介でワンピースを挙げる。
そのワンピースもチョッパーが加入した位の時の話題ばかりが挙がって、ロビンやフランキー以降の新世界編には中々話題に行かない。
これはアメトーク!でもそうで、たまに原西か土田辺りがその辺を思いっ切りやろうとするんだけど、番組の意向か尺が割かれない。
つまりは、最近のアニメに対して、特にテレ朝は何らかのアレルギーを持ってるんじゃないかと思う。
そうでなければ、一般人も見るだろうワンピースですらも古いエピソードばかり放送するのは何か理由があるはずだろう。
エヴァンゲリオンだって内容には触れず、アスカ芸人の稲垣早希のコスプレ位しかなくて、何が問題作で何が社会現象なのかがテレビを見る限りでは伝わってこない。
まどマギも正直何が面白いのかという事を振れずに映画で感動した涙した程度しか触れられていない。
那珂にある日本原子力研究開発機構の核融合炉、炉のすぐ隣に『神棚』があるんですよ。
核融合でもわずかですが放射性物質のセシウムを使うんで神頼み、安全神話が必要なのです。
私、原子炉は見たことないんですが、たぶん福一にも神棚はあったんだと思います。
あずまんのダークツーリズムじゃないですが、1Fで働いてみたいです。
SEKAI NO OWARIみたいな様相を呈しているでしょうから後学のために……ね?
放射線はおっかないですよ。
でも、被曝で氏ぬのはたぶん二、三十年後なんですね。
それくらいならいいかなと。
SEISHI NO OWARIやRANSHI NO OWARIになってもだからなんだという話です。
だいたい未婚・晩婚・貧困化で子供作れる人はもう一部になってるじゃないですか。放射線関係ないですよ。
『ドラゲナイ言ってる中坊を育てられる家庭』持てる人間なんて僅かなんですから、『ドラゲナイ言ってる中坊を育てられる家庭』持てそうにない人はガンガン廃炉作業すれば良いと思います。
まず説明不足に関してですが、
直説顔を会わせた時点で、
理由として、
他の綾波レイの正体を空白の14年間にヴィレ側が情報共有しており、
シンジに対する「(私たちの知っている)綾波レイは死んだ。」発言から、
空白の14年の間の対ネルフ戦で、旧型タイプの綾波や劇中では現れていない新型の綾波?と戦っていたことが読み取れます。
しかし、破のラストで綾波の巨体が、初号機と融合しているのは、
で、詳しくはこれも説明されていませんが、
それも踏まえて考えてみると、
とりあえずシンジ君を助けて見たけれど、
容姿だけでは、中身(魂)の核心にはならない。
じゃあ今助けた目の前のシンジ君は何?中身も信頼出来る?
とのことから、
及びミサトの第一声「シンジ君、よね?」の確認口調が出てきたと思われます。
ヱヴァQ見ました。アスカが女神過ぎて大変嬉しかったです。嫁にしたい。
この話は、誰に感情移入していたかで受け取り方が違いますよね。私はTV版旧劇でアスカとミサトさんに心奪われた口なので、新劇Qのミサトさんに批判が行くのがよく分からないです。むしろシンジにはいつも苛々させられてきました。
元々ネルフ自体がブラックで、しかもゼーレは人類補完計画というイカレたものを信じるカルト団体ではないですか。
皆さんは人類補完計画で死にたいですか? 死にたくないですか?
私は死にたくない。
ネルフにいても皆死ぬしかないのなら、新しい組織を作るしかないのです。例え体質的にはネルフと同じブラックでも、理念が違います。ネルフにいる碇司令の思惑に抗ってるのがミサトさん。
仮にそれをシンジに説明したところで、シンジの頭のなかは「ボクは綾波を助けられた?」で止まってるわけです。とてもムカつきますね。説明してやる気も失せます。
シンジを頼ることが結果的にサードインパクトを引き起こすのなら、もう頼らずに別のやり方を模索するしかないし、頼らないのなら一切の同情を与えてもいけないと思うのです。ミサトさんは情に弱いから。彼を信じていた過去の自分すら嫌悪してそうですし。
都合のいいときにシンジを利用して、都合の悪いときにシンジを捨てるのかとの批判は分かります。でも何を優先させるか、決断しなければならないのなら、シンジを捨てるべきでしょう。
そんなどうしようもなく生きる価値もないシンジを引き上げるのがアスカです。バカシンジ、ガキシンジと言いながら、見捨ててないのです。女神ですよ。
綾波とカヲルくんはよく分からないので、よく分からないままに放置。イケメンだから看過されていますが、カヲルくんはシンジを甘やかすだけですしね…宜しくないです。害悪です。
次作ではこのブラック対決の決着がつくと良いですね。
以下ネタバレ含む。
自分は、学生の頃にリアルタイムで、エヴァ旧劇とかリリィシュシュとかヒミズとかを観ていた世代だ。
ああ言う救いの無い作品を観た時の、絶望感に浸る感覚が好きだった。
当時は商業主義丸だしのエンタメ作品なんて、クソ食らえだと思っていたし
そんなものを好むやつを、心の中で見下していたと思う。
さくらの唄も、ワールドイズマインも、人間失格も、ノルウェイの森も、絶望の世界も、レディオヘッドも、その頃に出会った。
自意識過剰で自己顕示欲の強い、典型的なサブカル被れの痛い学生だった。
年齢を重ねるごとに、そう言う選民思想みたいなものの痛さも知り
付き合っていた彼女の影響もあって、売れてるものには売れるだけの理由とか魅力がある。
って言う風に考えがシフトチェンジして、今はワンピースもミスチルも伊坂幸太郎も好き。みたいな
この作品は救いの無い中学生編(まさに現代版リリィシュシュのような)と
読後に、これは傑作だと思った。
そう思えたのは(ネットの評判を見ると割と蛇足とされる意見の多い)高校生編の展開があったからだ。
中学生編で終わらなくて良かったと心底思う。
登場人物が過去と決別して、普通の幸せを手にする過程は読んでいて心地良かったし
絶望だけで出来たような物語を、もう今の自分は求めていないのだと改めて思った。
誰かが不幸になる話なんてクソくらえで、どうせなら登場人物が幸せになって欲しい。
そう思うのは自分が歳を取ったからなのか、時代の流れがそうさせるのか。
今は、綾波がポカポカして、アスカが鳥に食われない時代なのだ。
救いなんていらねえよって思うんだろうか。
焼身自殺で終われよって思うんだろうか。
なんとなく、そんな事を考えた。