「限界点」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 限界点とは

2016-12-04

現状追認主義怠惰だけど、現実離れした理想主義も結局なんの成果にも繋がらずある意味怠惰

現実主義がいいのよ。

できることしかやらない。理想はできることに因数分解できる。まぁ因数分解できないかもしれないけど、できるとこまでが自分限界だし。

できないことやろうとしても

失敗して自信をなくしたり、

鬱になったり、

周りに迷惑かけるだけ。

諦めなければ夢は叶うって人いるけど、間違い。

向いてないことに一生懸命リソース使っても、成果はでない。

できる人ができることをできるときにできるだけ行って、

それでダメなら、そこが限界点

2016-11-19

素晴らしき夜這い文化

明治期まで日本人の85%を占めていた農民漁民にとって貞操観念なんてなかった。

セックスは単なる娯楽であり子を得るためのものであり、恋愛とはまったく別物であり、妊娠とも切り離されていた。だから男も女も村中のみんなと寝たし、父親が誰かすら誰も気にしなかった。

罪悪感なんてまったくない、西洋概念とは別種のあっけらかんとした奔放な性がつい100年ほど昔まであった。

これは他の娯楽がほとんど存在せず、村の外にも逃げ場がなく、村人は皆信用できる相手だったからこそ成立した文化だが、昔の日本人は性衝動という厄介なものを実にうまくコントロールしていたものだと思う。

もちろん、こうした性文化になった背景には子供が大きな経済的メリットであるという事情があった。子は労働力であり、老後の保障であり資産であった(最悪の場合、売り飛ばせる。間引きも悪いことではなかった)。

現代少子化問題になり子供経済的負担となっているが、これは愛情やら公費負担でどうにかなる問題ではない。これは、子供経済的価値を再発見できるのかという問題である

子供近代西洋が生み出した概念であるが(「子供誕生フィリップアリエス)、このような近代思想限界点差し掛かっている今、西洋とはまったく別種の知と性を生きてきた日本人過去は様々なヒントを与えてくれるように思う。

そんなことを、実家の14代の墓を見ながらつらつら考えたのでした。15代目の俺で末代とするとご先祖様に申し訳ねえなあ。

2016-11-17

この世界の片隅に」は「ものすごい」作品

この世界の片隅に」を昨日観た。昨日は感想を言える状態ではなかった。

まだ自分の心をまったく整理できる状態ではないけれど、感想を書く。

この感想が人の目に留まる可能性は少ないと思うが、もし未見の方がおられたら、この感想を見ずにまず映画を観ていただきたい。ストーリーネタバレほとんどしていないが、これから私の書く情報がない状態で、この映画体験してほしいので。

また、この文章自体興奮冷めやらぬ中書いているので、改めて落ち着いたり再見して考えの変わることもあると思うが、整理されていない最初の印象というのも重要だと考え、勘違いなどがある可能性を承知の上で書き残したい。

この世界の片隅に」は「ものすごい映画」だった。「良い映画」「泣ける映画」ではなく、「ものすごい」のだ。

私もいい年なので、良い映画、泣ける映画を観て涙ぐんだ経験はある。しかし、映画の印象的なシーン一つ一つ思い出す毎に涙がこぼれる映画が、この世に存在するとは思わなかった。

この映画を「観た」というのは正しくない。この映画は「体験する」映画だ。映像・音声の中にちりばめられた何かが作用して、主人公すずの人生を観客が「体験させられる」のだ。だから、後でいくつかの印象的なシーンを思い出すだけで、何かしら感情が「あふれざるを得ない」のだ。

ストーリー自体は、複雑でも何でもない。あらすじだけ読んでも、たいして感動するポイントがあるわけではない(まあ、あらすじとはそうしたものだが)。戦時中の設定であり、ましてやあの広島を題材に採っているから、何かしら悲しいシーンが入ってくることは予想できるし、邪推して「お涙頂戴映画だろ」と言うことはできる。そして、実際にそういうシーンはある。しかし、この映画のすごさは、私が思うに、そういう大枠のストーリーのものではない。

観客は、主人公すずの人生を、バーチャルリアリティのように(と書くと厳密には間違っていると思うが、他に言葉が浮かばない)「体験させられる」のだ。広島と呉の人々の営み、嫁入りした先での苦労、鳴り響く対空砲、町と軍艦を焼く敵機の容赦ない爆撃、無慈悲な時限式爆弾の爆発、そして原爆かがやき衝撃波楽しいこと、嬉しいこと、誰かをいとおしいと思うこと、不安、悲しいこと、喪失感、悔しさ、怒りも、観客は「体験」させられる。それも、普通映画とは違う、もっと深いレベルで、だ。

そのような「疑似体験」が観客側にあればこそ、一見物語上盛り上がりのないシーン、いわゆる「泣き所」ではないシーンの一つ一つを思い出して、涙がこぼれる。だからこの映画は、映画を観ている時だけでなく、印象的なシーンを(喜劇的なものであっても)思い出すだけで胸に迫るものがあるのだ。

昨日、家に帰って虎の子の古備前徳利で酒を飲みながら、「この世界の片隅に」に関する映像片淵監督、主演ののん氏のコメントなどを読み漁った。当然、いくつかのシーンを思い出す。そうするともう、ただもう「思い出す」だけで涙がこぼれるのだ。

私の人生で、こんな思いをさせられた映画は、他にない。

体験させる」仕組み・仕掛けについて、私には残念ながら分析する能力知識も不足している。ただ、映像音楽にちりばめられた何事か(例えば入念な取材に基づく非常に精緻映像や音声など)が、言い方は悪いが催眠術サブリミナルのように観客に「効いて」来るのだ。

非常に限定的な例えで悪いが、漫画ジョジョの奇妙な冒険」に出てくる登場人物である岸辺露伴スタンド能力ヘブンズドアー」。露伴漫画を読んだ人を本に変え、その人の記憶を読んだり、書き込みをすることで人を操ることができる能力。私にとって、この映画は、そのうちの「書き込みをすることで人を操る」に近い影響力を発揮した。しかし、それは何らかの超能力によって発現したのではない、片渕監督が、資金のめどすら立たない6年前から、おそらくある確信をもって様々なものを積み重ね、それに対してスタッフキャストが力を発揮した結果なのだ。私は、その事実に身震いする。こんな「効果」を持った映画が「ものすごい映画」でなくて何なのだろう。

私は昨日youtubeに挙げられた公式の「予告編」の、すずと周作のキスシーンだけでも何度も泣いた。話の展開的に、このシーンが、いわゆる何らかの悲劇の「フラグ」というわけでも何でもないのにも関わらず。普通の「泣ける映画」であれば、、この後周作には何らかの不幸が起こらねばならない。しかし、この映画ではそうはならない。しかし、それでもこのシーンが私には泣ける。

なぜ、私はこのシーンで泣いてしまうのだろう、と私は酒を飲みながら考え、そして気が付いた。この映画で得た「体験」は、それほどに強く主人公すずの人生を私の心に焼き付けてしまったのだ。それは、「すずの人生が我々71年後の日本人と地続きである」というレベルを超えている。これは、私の人生の中では「異常」な体験だ。

大げさなことを書いてしまうが、私は上記のことをもって、この映画が、人類が到達可能なある限界点に到達したか、少なくとも片足をかけている世界最初映像作品ではないだろうか、とすら考える。少なくとも私は、このレベルに達している映画を他に知らない。

(もしかしたらごく短い映像作品では世界のどこかに存在するかもしれないと想像はする)

実は、わたしはこの映画原作は未読である。私が体験した要素が、どれだけ原作から来ているか現時点ではわからない(原作はもちろん今後読むつもりだけど)。

この映画も一回観ただけで、いろいろ取りこぼしや考え違いもある可能性は高い。特にストーリーに対する評価がまるでできていない(これも重要なはずなのだ)。

また、万人に私と同じような「体験」を保証することもできない(そもそも万人向けの作品など存在し得ない)。

それでも、このアニメ映画が「ものすごい」作品であることは、疑いない。そしてこの映画はその「ものすごさ」ゆえに「尊い」。まさしく、神の技に到達した、少なくとも手をかけた奇跡的な映画なのだ

2016-07-07

http://anond.hatelabo.jp/20160707093536

性欲が無いってだけで拒否ってる人にパートナーの性欲処理方法限界点を聞きたい。

浮気で処理する

2体だけの関係で処理する

風俗で処理する(本番あり)

風俗で処理する(本番なし)

オナホで処理する

右手で処理する

7一切性欲は処理してほしくない

どこまでOK?

2016-05-09

いい師匠出会うことの難しさ

いい師匠出会うことは難しい。そもそも弟子の段階で誰がいい師匠か分かるなら、そもそも結構実力がある人である

ハンターハンター幽々白書なんかはい師匠に恵まれている漫画典型である弟子限界点をある程度分かっていて、限界ギリギリもしくは少し上くらいを目指して成長を促す。また、師匠といってもほどよくレベルが上の師匠がよい。ハンター試験受けてたころのゴンビスケ出会っても、弟子としての条件も満たしてなくて弟子になれなかったはずである。だから、いい師匠出会うというのは「いい師匠出会う」だけでなくて「いい師匠に見合うだけの弟子となった状態出会う」必要がある。全くのド素人を構ってくれる師匠もいるだろうけれども、そういう師匠は逆にいえば、必ずしも弟子の成長につながるわけではない。それは弟子次第、というわけだ。

また、「いい」師匠という言葉も難しい。有名な先生だって自分性格が合うかどうかなんてわからない。何が「いい」のか。成長を促してくれる師匠が「いい」というのであれば、そんなこと誰がわかるのだろうか。今思えばいい師匠だった、今思えば優秀な人だったけど成長にはつながらなかった、つまり結果論しかない。

弟子姿勢というものももちろん重要だ。いい師匠というのは単に優しい師匠ではないことは何となくわかる。優しいだけでない面に出会っても、耐えて成長につながっていく姿勢弟子には大事だ。師匠視点から見ると、そういった弟子を見抜くのも上記の例と同様に大変なはずである弟子をとりたい、という師匠基本的には自分の引き継ぎ手を探しているはずだ。そんないい弟子出会おうとする師匠にとってもいい師匠出会おうとする弟子と同様に大変なのである

から、そういうことを考えているとこんな考えが浮かんでくる。いい師匠、いい弟子、という括りではなく、それはもはや人と人の巡り合わせなのだろうと。人が人と出会うというのは運、というか運命に近いところが作用してくるところだ。その運命の中でいい師匠といい弟子が巡り合うのではないかと思う。もちろんいい師匠出会おうとすることすらしない人はい師匠と巡り合わせる可能性は下がるだろう。しかし、それは可能性の話である芸能人過去成功話を聞くと、とくに何もやる気はなかったけど、たまたまプロデューサーの目にとまった、そういう人もいる。可能性を上げる努力はもちろん大事で、後から考えるとそれが成長につながったということは多々あると思う。でも、やっぱり可能性の問題しかない。

人はだれかに何らかの形で仕えることが多い。サラリーマンなら職場の先輩や上司に仕える。師匠なんて言葉はもちろん使わないけれども、影響は多かれ少なかれ受けるはずだ。いい影響を受けて、今後の成長につながったとしたら、それはい師匠だったということになる。師匠を選べるという人ならいいけど、あまり選べない人も多いはずだ。だから、いい師匠出会うというのはえいやと飛び込む気持ちで選ばなければならないということだ。やっぱり、結局のところえいやと飛び込んでもいい師匠であるかはわからない。

いい師匠出会うことは難しい。

2015-09-09

http://anond.hatelabo.jp/20150909002018

データは持ってないけど他の統計シミュレーションから予測をふたつ。

読みかじった専門文献を簡単にまとめたもの

くわしくは自分で文献当たってくれ。

1(凶)

温暖化のため本州以北は温帯から亜熱帯への移行がはじまった。

とすると、今起こっているのは秋の長雨ではなく「雨季」かもしれない。

2(大凶

温暖化のため未知の気候変動がはじまった。

事態特異点突破限界点突破と推移する。

特異点とは事態回帰不能となる時点、限界点とは事態人類適応力を超える時点。

今は特異点限界点の間にあたるという説がある。

この説では、特異点1990年代末にすでに突破

限界点はつぎのように到来。これ以後当該地域人類は生息できない。

南太平洋 2020年

東京地方 2040(2090)年代

北海道地方 2050(2100)年代

括弧内の限界点化石燃料の使用を1970年代水準にもどした場合。なお南太平洋域は限界点に近すぎて延命不可能

2015-07-08

わかりづらい!

アカン……。

上司が同僚に向けて言う冗談っぽいものが、

「これ5分で片付けて」 (無理、最低数時間かかる)

「できた?」 (上記の20分後に)

「なんでできてへんねん!」 (同僚の「いやいやいや、できてないッスよ」に対して)

「そんなの○○君がすぐやってくれるよ」 (無茶)

「このくらいちゃんと予想して先回りしとかないと!」 (突発的なちゃぶ台返しアクシデントに対して)

「こんなこともできないなんて、それだからキミはだめなんだ」 (そんなことないと俺は思う)

「○○さん、キャッシュカード貸してくださいよ」 (外に何か買いに行くときに)

とかで、発達障害持ちな俺には注意してても冗談だとわかりづら過ぎる。

あと冗談だとしてもあんまりいい冗談な感じがしない。

上司発言する度にいちいち一旦真に受けて心の中で「エエッ!?そんな無茶な!パワハラ!?モラハラ!?」って思ってから

周囲のリアクションを伺って、どうやら冗談だったらしいと認識する感じになってるので、非常に疲れて仕方ない。

しかもまた上司の声がでかくてイヤホンしてても聞こえてくる……。

さらに、同じトーンで話す似たような内容が上司の中の限界点を超えていた場合、本気の発言場合もあって、

突然エキサイトし始めて数時間にわたって同僚を罵倒したり問い詰めたりし始めることもあるから余計区別がつかないことが怖い。

最近上司フロアにいるだけで緊張して脈が速くなるようになってしまった……。

でも、それで部下と円滑なコミュニケーション取ってるつもりの上司に、わかりづらいジョークをやめてくれとも言いづらいし、言ったところで

「わからないなんておかしいんじゃないの?」 (そうです)

「そんなん普通に常識的に考えたらわかるやん!」 (わかんないから困ってるんです……)

って言われる光景が容易に想像できすぎて、かといって会社発達障害カミングアウトもできない状態なので、

なんか相性悪い感じを引きずったまま当分仕事しなきゃいけなくてどうにも憂鬱

幸いにも、俺自身は直接わかりづらい冗談を言われた時は反射的に全部マジレスレシーブしてたので、

早々にめんどくさい奴だと思われたのか、あまり冗談を言われなくなったから、自分仕事問題に限って言えば一応なんとかなってるけど、

どーにも萎縮したり緊張したりしてしまうので、なんかあんまりよくないからせめてなんとか気にしないようになりたいなー。

2014-12-22

技術的特異点の前に

なんかAIやばいかいうけどさ、

強いAIとかが出来る前にたぶん、普通の今ある機械学習プログラムの改良版みたいなものと、それを動かす計算資源と、

それを作ったり改良したり運用したりするエンジニアを独占する営利組織が富を独占するのが先に来る気がする。

資本主義はそういうの目指さざるを得ないシステムなので、すべからく企業はそう振る舞うだろうし、

そういう動作原理からすると労働需要が減るのは必然だし、ピケティの本とかで言ってるようなお金性質(資本収益率>経済成長率)もあるしで、

たぶん貧乏人が圧倒的に増えてなんか革命とかテロみたいなのが先に起こる気がする。てかすでに6億人もニートがいるらしいし、誰もそれを議論してない感じなの怖い。

経済学者はかつてラッダイト運動というのがあってだなとか言って、新たな労働需要が起こるみたいな説明するけど肉体労働自動化と精神労働自動化では意味合いが全く異なると思う。

 

そう考えると今が資本主義限界点な感じなんだろうか。じゃあ次はなんだろ?人工知能管理された共産主義ファシズム

2013-10-28

http://anond.hatelabo.jp/20131027211557

自分は一体どこまで不細工とやるとチンコ立たなくなるのか?を突き詰めていくと面白い

自分限界点は意外に深いところまであるよ。

2013-05-18

かさこ氏の、女性への上から目線イラッとさせられる

かさこ氏は「僕の知り合いにはこんな人が多い」という狭い視野で、

専門外に首を突っ込んでは非難を繰り広げるので、毎度イラッとさせられる。

音楽プロデューサーネタ炎上した時と同じだ。

http://b.hatena.ne.jp/entry/kasakoblog.exblog.jp/18220333/

女性ロボットではなく人間なんだから出産するには物理的な体力の限界点があるのは当たり前の話だ。 にもかかわらず、なんとなく就職し、 今の仕事おもしろいわけじゃないけど、 でも何も働かないのはつまらないしと思い、 一応、働いておかないと不安だという、 根拠のない不安にさいなまれ、 気が付けば30歳過ぎになって急にあわて出すわけです。

特に女性同性のあの気色悪い同調プレッシャーや、 妬み、蔑みってすごいから、 30歳ぐらいになって、周囲が結婚したり出産したりすると、 本心自分がしたいのかはともかく、 「私もそろそろした方がいいのかな」という、 漠然とした思いと焦りだけで決断してしまう。

それで子供が欲しいんだか欲しくないんだか、 はっきりしないまま、 でもいた方がいいよねぐらいの気持ちで産み、 産んでから育児が大変になると文句を言いだす。

http://blogos.com/article/62558/

わかってねーな、と思う。女性がこれ以上、計画的になったらヤバい

計画性な女性が増えたからこそ、ギリギリまで働いて、1人しか産まない選択をしている。

経産婦は二人目を妊娠やすくなる。だから計画性のある人は、事前相談してピル回避する。

計画性のない女性がポコポコ産んで、ビッグマミィになる。

どうしても仕事がしたいなら、 バリバリ仕事して、そのお金子供を預ければ、 子供も産めるし、仕事もできる。 ただそれだけの話だ。

これできたら悩んでないし困ってないよ(笑)

産めない男がとやかく言うな。

女にあれこれ言う前に、男は男ができることをやれ!

女が考えずにポコポコ産める社会を作れよ。

女性心配ごとはお金で解決できる。仕事も結局はお金の問題。

結婚出産お金がこれだけかかるから、パパになるにはお金を貯めるべき」と書いた男性手帳を配布しろ

育児休暇3年は合理的ウェルカム

2013-01-22

桜宮高校体罰事件となんで体罰いけないかとか自主性とか

大阪市桜宮高校体罰事件が毎日伝えられている。生徒はキャプテンになってから毎日しかられ、体罰を受けて参っていたという。教師は体罰を辞めます、といった数日後の練習試合でまた生徒を殴り、キャプテンを辞めるならBチーム、やめないなら殴ってもええんやな、といったという。

ネットでは頭がおかしい、とか、クズだとかさんざん言われている。

でも、それは違うんじゃないか、という気が私にはする。あんまり整理できてなくてちょっとわかりづらいかもしれないけど、私の体験を書いてみる。参考になるかもしれないので。



私は中高6年間バレーボール部にいた。

今でも小さいがそのときも小さかったので中学ではずっと補欠だった。

最後試合に出してもらったが、ミスをして交代となった。そのとき顧問先生が何を思ったのか「出すのはおまえでなくてもよかったんだ」とつぶやいた。今でもどういう意味かわからないが、そんなこというなら高校でがっつりレギュラーになってやる、と高校でバレー部に入ることにした。

バレーはそこそこ好きだったが、そんなに上昇志向もなかった。体格も素質もなかったし、全国大会に行きたいとか、ましてやプロになりたいとかは全く思ってなかった。ただ中学先生にいわれたことが悔しかったので見返したい。すごく単純な動機だった。

高校で入ったバレー部は体育大卒若い先生顧問で、熱心に指導していた。都立高校にしてはかなり厳しい練習をしていたし、実際わりといいとこまでいっていた。

都立は今でもそうだと思うけど、運動部顧問は誰もがいやがった。ただでさえ大変な教職のほかの事務仕事をやらねばならず、その上に時間、体力、気力を使う運動部顧問なんてみんなヤッテランナカッタのだった。

その先生指導最中アキレス腱を切ったことがあるという。それも2回も。それを押してやってくれてるのだから感謝しないといけないよね、みたいな空気が生徒の中にはあった。

同時にそれはそこまでしてくれてるのだから、言うこと聞かないと悪いよね、期待に応えないと申し訳ないよね、みたいなものでもあった。

練習は厳しかったし、時々平手打ちもされた。

夜の7時、8時までやっていた。家に帰ると疲れて何もできない。食事をしながら寝てしまったこともある。

いやだったしきつかったのだが、「その辺のお遊びの運動部と私らはひと味ちがうのよフフフ」みたいな訳の分からないプライドみたいなものが部の中にはあって、苦しいのを耐えれば耐えるほど偉いのだ、みたいなところはあった。(でないとヤッテラレナイところはあった)

ある日私に集中してサーブ指導をされた日があった。

私には変な癖があったらしくて(自分ではわからない)、それを矯正するためにやらされたのだがなかなかうまくできなかった。

「手を下から出すように」

自分ではその通りやってるつもりだったが何回やっても違うといわれる。先輩後輩あわせチーム中が注目してるし、自分が練習を中断しているというプレッシャーもあった。違う違うといわれ続け、もうなんにもわからなくなってアンダーサーブをした。

「俺はおまえに手を下から出せとはいったがアンダーサーブしろなんて言ってないぞ」

じゃあどうしろっつうんだよ、と思ったがさすがにそれは言えなかった。

厳しい練習はぜんぜん私の精神を鍛えることにはならなかった。先生に本音で質問することさえ出来なかったのだった。かといって自分で考えろ、というのは、その状態ではなおさら無理だった。それ以来、前から苦手だったサーブはまったく嫌いになった。


こう書くとがちがちの管理教育だったように見えるかもしれない。がしかし、先生としては自主性を持った選手になってほしかったようだった。

生徒がやる気がない態度を見せると、先生はたびたびボールを投げ出して帰っていくという振りをした。

「俺がやりたくてやってるわけじゃない。おまえたちがやりたいって言うからやってるんだ。おまえたちがやる気がないならやめる」というポーズだった。

それを追っていって、

「お願いします!」

と生徒全員で頭を下げるのがいつもの習慣だった。

「楽しくやりたいだけならそれでいいんだ。それならそういう風にやるから。でも本気でやりたいならそういう風にする」ともよく言われた。

生徒が望むなら、やりたいという気持ちがあるなら一緒にやりたい。そういう選手になってほしい、という気持ちの先生だった。

しか私たちはそれほど大人ではなかった。

追っていったのは「先生がいなくなると困る」という気持ちだったし、見捨てられるのが怖い、とも思っていた。先生に見捨てられればその時点でダメダメなやる気のない私たち、という烙印を押されてしまうからだ。

そういう状態になりたくないという気持ちだけで「お願いします!」と毎日言いに言った。こうなるともはや意味のないお約束儀式のようである

そもそも、本当に自主性のある生徒であれば、先生が帰ってしまっても自分たちで練習すりゃよかったのである。でも自分たちで、これをやりたい!というもの私たちにはあんまりなかった。ただ日々の練習を修行のようにこなしていく。先のことは考えられなかった。ただ今の苦しさを耐え抜くことだけだった。ぶっちゃけ、自主性もへったくれもなかった。受け身で、受け身で、過ごしてきた。まじめでミスをしなければ、ボールが飛んでくることも、たたかれることもなかったから。



今回のことがあって、「私、バレーって好きだったかなあ」と思い返した。確かに好きではあった。レシーブがきれいにあがるとうれしい。難しいボールを拾えるとうれしい。トスをきれいに上げられればうれしい。アタックを気持ちよく打てるとうれしい。

で、ここまで考えてはたと気づいた。

全部個人技だったのだ。

バレーという団体競技をやってながら、私はチームプレイ楽しいと思った記憶がない。

団体競技をずっとやってきたのだから自分では協調性がある、他人と一緒にプレイするのが好きなのだと思いこんでいたがいやいや完全なヲタクじゃないか自分で呆れて笑った。

でも。

コンビネーションプレイをうまくこなしたり相手と競う楽しさ、ゲームを運ぶ楽しさ、みたいなものは、たぶんバレーという競技にはあるのだと思う。

私にはそう感じる余裕はなかった。

日々の練習をこなすだけで精一杯だった。

日々の練習が修行のようになり、それをクリアすること自体が目的となってしまっていて、ほかのことは考えられなかった。もっとこういうことをしたいとか、こうなると楽しいとか、そんなことは全く頭になかった。

私に関して言えば、試合に勝つことさえどうでもよかった。試合は義務であり「ミスをしない」ことが第一目的であって、結果はあとでついてくるという感覚があった。

もったいなかったな、と自分でも思う。



今回の事件、まだ情報があまり公開されていない。

顧問との関係チームメイトとの関係もわかっていない。

体罰がどの程度だったかも証言が食い違う。

が。もし私の先生であれば、たぶんこういう意味の発言だったかと思う。

キャプテンを辞めるということは第一線で活動するのは無理です、ということなので、楽しくやりたいだけならBチームでやればいい。でももし、第一線で活動する意志があるなら厳しい指導もするし、体罰もある。自主性をもって立ち向かってほしい。覚悟がほしい」

先生はよく「意地を見せろ」と言っていた。

苦しくてもやりたいことならやりぬけ、ということだったのだと思う。

でも。

人間って、そんなに強くないのだ。

いくら好きであっても苦しい練習を続けさせられればそれ自体が目的となって、自分スキルを伸ばすとか、何かに挑戦するとか言う余裕はなくなってくる。「好き」と言う気持ちはしぼむ。ただ「早く終わってくれればいい」になる。

まじめにやっていれば、受け身でもそれなりのスキルや体力は身に付くから、やる気がなくても勝ててしまう。

そういうのもありかもしれない。

でも、そういうのって、長く続かないのだ。

負荷が強くなっていけば、「義務」だけではきつくなる。「やらされてる」感が強くなり、「何で自分だけ」という気持ちが大きくなっていく。

そこが限界であって、そこを越えると、つぶれる

ぱあんと破裂する。

悪いことに、「我慢」にたけた人間限界点を越えても我慢するので、傷はより深くなる。

「我慢」はいらない。「やりたい」が一番。それがないと頑張れない。力が出ない。

体罰は、私にはあんまり意味がなかった。

試合で役に立ったことは皆無だった。もちろん「訓練」として体に染み着いてるので体は無意識のうちに動く。だから勝てる。でもそれがうれしいとはあんまり思えなかった。苦しいときにそれを思い出して頑張れる、ということもなかった。

うまくなってうれしい、自分の力を出し切った、というよりは、3年間耐え抜いた、という方が実感として正しい。



最後試合、私は初めて結果を出した。苦手だったサーブでなぜか連続ポイントを上げたのだった。ストレートと、対角線上に打てばポイントをとりやすいというセオリーを単純に実行したら相手がミスってくれた。不思議なことに、そこに私の中学先生来賓として招かれていた。その場で結果を出せた。

それで気がすんでしまった。

まだ引退までには期間があったが、3年でもあったし、さっさと部をやめてしまった。

今思うと、「先生を見返したい」という意地だけでやっていたのだと思う。だからそれが達せられたらもういいのだった。

それはそれで初志貫徹といえるかもしれないけど、我ながら矮小目的のために時間エネルギーを使ってしまったなあ、と今は思う。

一応一つのことをやりきったのだし、「辞め癖」がつかなくてよかったんじゃないの、という人もいるかもしれない。でも、ポジティブ意味での達成感はなかった。やっと終われる!という解放感だけだった。

私は3年間を無駄にした。今思い返して、素直にそう思う。



今回の事件、生徒は義務とか責任感とか期待とかでぐるぐるになって「好き」という気持ち、自分がこうなりたい、という気持ちはもうぜんぜんなくなっていたのではないかと思う。

そういう状態になると人間は惨めだ。そういう身に暴力は堪える。

悪意とか、支配欲とか、そういうことは教師にはなかったとは思う。葬儀の席で親御さんに指摘されてすぐさま謝ったことを見ても悪人ではない。普通の人だ。

ほかの生徒も先生かばっている。道を教えるのでも、ちゃんとついていってあげないとだめだぞ、と、普段の振る舞いを教えてくれた、と感謝する子供もいる。礼儀を教えてくれた、という子供もいる。かといって、べったり先生の側に立って、生徒の死を悼んでいないわけではない。校門に「キャプテンに捧ぐ」と幼い字で書かれたメモを添えた花束があった。

進路とか戦績とか、お互い保身はあったかもしれないが、生徒への愛情はあったと思う。でなければほとんど毎日、家庭まで巻き込んできつい指導はできない。

が。だからこそ逆らえない。情で縛られるところはある、と思う。



部活を辞めてから高校生活は、それはそれは楽しかった。

好きだった勉強一生懸命できた。それについての専門書を読む時間もできた。その延長で大学に行って好きな研究もできた。早くやめてりゃよかったと今でも思う。

部活の影響は、今でも残っている。

負荷を耐えることは得意だ。が、ぎりぎりまで我慢するから限界を超えるとその負荷の影響を二倍三倍にも受けてしまう。

好きなことをしていてもなぜか途中からつらくなる。義務になる。理由はよくわからないが、たぶん何か「厳しくなくてはホンモノではない」という意識があって、「楽しむ」ということをどこかで軽蔑していたり、その結果思い切り楽しむことができなくなったりするんじゃないかと思う。あるいは自分のやることに自信が持ちきれなくて、先生のような絶対者の評価がほしくなったり、反対に他人の評価で自信を失ったり。

先生については、慕っていたかと言われれば、うーん、お世話になったので大変大変申し訳ないのだけど、ちょっと苦手だったような気がする。

先生はいつも「スポーツマンらしく」、礼儀正しくしろと言っていた。

「力」や「技術」に偏りがちなスポーツで、礼儀とか人のことを考えるとかは、重要なことだ。人としてたいせつなことを教えていただいたと思う。

が、それはなんというか、自主的にやる、と言うより、訓練のようなものだった。やらなければ怒られるし、手が飛んでくるような気がしていた。

私は先生の前でかなり礼儀正しく振舞っていたが、それはかなりの部分「演技」だったような気がする。「それが(先生に言われた)正しい振舞だから」やっていたのであって、「やりたいから」やっていたわけではない、と思う。

そういう「型」ではめられた振舞を厳しく求められたので、本音で接することはできなかった。本音で話せないので、自分の克服すべき問題を一緒に考えてもらうとかは考えられなかった。

いま先生について思うことは、「なんかうまくいかなかったね」「お互い失敗しちゃったね」という感じだ。

自分意志で動く選手になってもらいたい、という先生意図は分かっていたけど、少なくとも私に関してはもう疲れちゃっていた。自分能力を伸ばすという気力はとうにつきていた。ただ自分目的があったし、期待を裏切るのも悪いので3年間続けてしまった。

一回休んでいれば気力が回復することはあったのかな、と思うが、狭い学校生活の中で、一回レールをはずれるというのはなかなかできないことでもあった。

こういうの、「罪悪感を持たせて逆らえないようにする」「カルトだ」という人もいるかもしれないけど、それは日々の人間関係のすごく曖昧な線上にある。その渦中にいるとなかなかわからない。善意と、思いやりと、慕わしさと、依存心と、打算と、不満と、夢と、絶望と、責任感と、プレッシャーと、見栄と、もういろんなものがある。

単純じゃないし、それを理解せずに顧問をアクマ扱いしても問題は現場の教師にずっと残されると思う。



部活やその中での体罰を体験した人のことばがあんまりなかったので書いてみた。体罰がなされて、愛情ある指導がされて、生徒たちも先生を受容している環境で、それでもどうして体罰よくないかっていうのを、説明してみたかった。増田に書いたのは、何となく増田っぽかったので。

ひとつ。今顧問先生をたたく人はすごく多いけど、今たたいても無駄だと思う。

葬儀の席で土下座したとあったけど、彼の頭の中はどうしよう、どうしよう、すみませんすみません、で、意味なく(そう、意味なく)ぐるぐるしてて、冷静に反省するどころじゃないと思うから

責め殺したいならそれでもいいけど、たぶんそれじゃ自分のしたことが過不足なく理解されることはないと思う。そんな中じゃ何が問題かわからない。

同じことを経験させないとわからんだろ、ということもあるだろうけど、同じ経験だったら自殺まで行ってしまうだろと。

そんなのは見たくないし、なんの意味もない。

2011-02-27

機械や人や未来についてのひとりごと

オートメーションが進めば、なくなるのは「肉体」労働なのか。

機械だけになって機械を作る機械が出来ても、その機械設計する人間は必要になる。だから、肉体で労働するわけじゃないが頭を使って労働する人間は必ずいる。

そして、次にメンテナンスが必要ということだけど、そのメンテナンスをそもそも人間自身も行ってるわけで、

なぜ他の人間がいなくてもメンテナンス出来るかといえばそれは自立行動し自分栄養補給し排泄することが出来るからだ。

とすれば、全てを機械にやってもらうためには自動メンテナンスすることが必要だ。

さらに、知能労働人間だけのものということでもなくなってくる。

自動メンテナンス出来る機械誕生すれば、そもそも自分の意志で何かを考えることが出来る機械が登場してもおかしくはない。

その機械を何らかの方法を使って制御し、ある一定の労働のみを行わせることが出来れば・・

教師ロボット政治家ロボットというのも不可能はない。

だけどその時人間がどうなっているかということだ。

かに教師ロボットなどの知能労働をするロボット過去SF作品でよく出てくるしありきたりな話ではある。

しかし、人間そのものが大幅に変わってしまうという作品はなかったかもしれない。

そこで人間がどうなっていくかを考えれば、やはりこれは機械に近づいていく。つまり、機械のような都合の良い肉体を求めていくということになる。

たとえば、視力が落ちない義眼、怪我に強く疲労しない腕や足、睡眠の必要がない身体。

そもそも人間人間にとって都合の良い世界を作るために必要としたのが機械だ。機械を必要としているのは、人間というよりは人間の脳だ。

だとすれば脳以外の肉体をそっくり人工の、脳にとって都合のいい身体に変えてしまっても問題はない。というより、それが脳の願いなんだろう。


機械が徐々に人間らしくなっていき、人間が徐々に機械になっていく。どこまで行くかは分からない。しかし、今の自分想像力では、機械が完全に人間になるということは多分ないと思うし、人間が完全に機械になるということはない。

機械人間になるということは、本来の機械の役目(都合の良い労働力)が失われてしまうし、人間機械になったら、つまり人間の脳まで機械になってしまったら、それはもう人間とは言えないし、都合の良い身体を欲しがる人間はいても、人間を捨てて機械になりたいと思う人間がいるとは思えない。

でも、人間機械微妙な均衡点というのが一体いつまで維持されるのか分からいし、それを維持するという明確な理由が見つからない。つまり、「人間機械になってはいけない理由」や「機械人間になってはいけない理由」。

人間機械になるなら、都合の良い労働力として工場派遣されても問題はないし、元機械だとしても性質は完全に人間のそれと同じなら彼らを機械カテゴライズする理由もなくなってしまう。

個人的にこの未来は恐ろしいと感じる。この恐れは、多分自分が許容できる未来限界点を示してるんだろう。

人間機械になり、機械人間になる、こんな未来がいったいいつになるのか想像も出来ないが、もしかしたら1000年以内にやってくるかもしれない。500年以内と言っても早くはないかも。


結局、脳は機械になることを望んでいるんだろうか。

脳の持つ性質は、人間味という言葉からはいずれも遠いし、脳が願ったものを見てみても、そこに人間らしさというものはない気がする。

デザインという右脳の意向が強く反映される部分だけ見れば確かにそこには人間らしさがあるが、ほとんどの部分左脳の意向に沿ったもので、そこにあるのは無駄がないすっきりとしたデザインだ。

このまま行けば、もしかした右脳が完全に左脳にとってかわられ、人間らしさというものは完全に失われるのかもしれない。

たとえば、機能ごとに何を選ぶかという自由はあっても、同一の機能で違うデザインのものということはない。

ファッションを見ると、概ね左脳に支配されていない、つまり時間軸的には過去文明でいえば未発展のほうがより派手で無駄が多いデザインになってる。

これは、右脳がそういうものを求めていて、まだ言語世界が発達していなかった世界ではそういう華美なものが求められていたのかなと思う。

逆に現代に近づくにつれ、だんだん右脳よりも左脳デザインに口を出すようになり、より合理的で、無駄がなく、画一的デザインが選ばれるようになっていった。

グローバル化もそれに似ている。素晴らしいものが一つあれば皆がそれを真似し画一的になる。萌え絵ハリウッドの方法論、ファストフード店、郊外店舗などなど。


このまま左脳が優位になればどうなるか。人々は次第に画一的なものを問題だと思わなくなっていく。

たとえば草食系。必要のないものにはお金をかけない、すなわち安い画一化されたものを購入する世代の出現。

ユニクロがバカ売れする時代。もはや重要なのは「機能的かどうか」であって、個性的かどうかではない。

言語も統一される可能性がある。英語かどうかは分からないが、この勢いでいけばやはり英語地球標準言語となる可能性は高い。

しか言語というのはその土地に根差したきわめてローカル存在から、もし英語世界言語を統一するとなれば、よりグローバルな言語となるため進化が必要になるだろう。

ここで考えられるのが、どうやってグローバルな言語となるために進化するのかということ。

かに元々ローカル言語というものは、どうやったってその民族環境などに影響されやすい。


まず環境を考えるとすれば、実は地球上では既に環境グローバル化が起きている。それが、自然環境に左右されない都市化という現象だ。

都市は概ね自然から断絶されており、都市間には自然環境ほどの劇的な違いは見られない。どの都市コンクリートで舗装された地面があり、車が走り、高層ビルが立ち並び、駅やコンビニが点在している。

ということは、実は都市だけを見ればほとんどの都市は似たり寄ったりで、そうなるのは必然なのだ。

次に、民族。これも、実は統一されつつある。都市間の流動が激しくなっている。

日本はそうでもないかもしれないが、アメリカには中国日本韓国インドドイツ系・・いくらでもいる。

たくさんの民族が一つの都市で暮らすことが出来るのは、都市が画一化されていてどこにいても大して変わらないからだろう。

かつての江戸ロンドンはあまりに違う。人々が着ている服も習慣も全く異なっていた。しかし、今は不完全ではあるがすべてが画一化されようとしている。

また、混血も重要だ。日本人アメリカ人先祖に持つ人間というのは珍しくない。移民ネガティブな問題として取り上げられることが多いためまだ混血というのは多くないかもしれないが、確実に今後は増えていく。地球という広い土地の上で、かつて絶対に交わることのなかった複数の民族の血が混ざるという時代に既になっているのだから

地球人という考え方が当たり前になれば、次第に言語も統一される。次はやはり宇宙の時代になるんだろうか。

宇宙でも人間土地を拓き画一化された都市を築き、ますます便利になって、ますます遠くへ行く。

その先に何があるのか、まったく分からない。自分想像力はここまでだな。

2011-01-05

http://anond.hatelabo.jp/20110105165128

アメリカ日本軍事占領することにいったいどんなメリットが?

えーと、メリットよりは、アジア不安定化した際のデメリットが多すぎるから占領するって事だな。

まずは、日本がどういったプロセスで丸腰になるかについてだが

おそらく、アメリカ軍を撤退させて、自衛隊解体して、海上保安庁警視庁武装解除という段階を踏む事になると仮定する。

だがアメリカ軍の撤退を現状では自衛隊は良しとしないだろう。

となると、一時的にでもアメリカ軍が居なくとも自衛隊のみで単独防衛が可能である戦力まで自衛隊を増強する事とバーターにするしかない。

また、アメリカとも新たな軍事同盟を締結する必要があるだろう。

そのどれかが抜けてもアジア不安定化は起こるので、アメリカはその阻止に動かざるをえない。

その後、自衛隊解体になるが、自衛隊はこれも良しとはしないだろう。

今度は何をバーターにするかだが…、警察海保の増強では自衛隊は首を縦には振らんだろう。空軍の代わりになる組織が無いしな。

特に取引材料が思いつかないし国内軍だし、無理やり解散しても良いか?となると当然クーデターが起きるわな。

であれば、それを鎮圧する武装が必要。

警察庁海上保安庁重武装させて対抗するか?

そもそも、どんな理由で重武装させるのか。

…と、順序良く解体するにはそもそも無理があるんだよね。

なんで、いきなり、

米軍出て行け、自衛隊解散。海保警察重武装禁止と強行採決するなると、当然自衛隊海保警察野党は反発してクーデター起すだろうし、

米軍政変が起きたと見て鎮圧に乗り出す。

それすら凌駕するマジックがあったとして、突如日本から自衛隊海保警察の装備が消滅なんて事になったら、アメリカは一時占領して新しく政権を立て直すでしょ。

何が起きたのか確かめなきゃいけないし日本の国土と国民保護しなきゃならん。

米豪EUでの多国籍軍になるかもしれんがまずは米軍が動く事になるだろうね。

どうやっても、武装解除できないようになっとるんよ。

今みたいに、自衛隊干上がらせていくのだって限界点まで行ったら各所から圧力あるだろうし。

PKO要請とか、多国籍軍要請とか。

2010-02-19

Twitterに見る、結局、ネットの影響力って未だこの程度な件

今さらなことだけどね。

でも、今になってTwitterがこうも話題になると、

結局ブログの時から変わってないかと思うわけで。

マスメディアで取り上げられ、

有名人がやり始めてやっと広がるっていう、

この構図がね。

正直、もう少しネットの影響力が

増しててもいいように思ってたんだけどね。


はてぶの上位ブックマーク数だって、

もっと増えてもいいと思うんだけど、

1万とかいかないもんね。

もしかしてあるのかな?

よく知らないけど。


この界隈の住人にかなり偏りがあるのは明らかだけど、

あまりその輪が広がっていないんじゃないかっていうのが一つと、

もしかして、ネットそのものも停滞しているんじゃないかと思ったり。

ネット通販市場なんかが伸びてるのは知ってるし、

面倒だから見てないけど、たぶん、全体的な数は増えてると思うんだけどね。

一般的な個々人の生活の中に占める割合が大して増えてないっていうか、

依存度が増えてないっていうか。


そろそろ限界点なんだろうか?

ケータイがもっともっと進化して、

生活の中への依存度がドカンと増えない限り、

大きなパラダイムシフトはないんだろうか。

それとも、今の日本経済とか、

時期的なことと関係あったりするんだろうか。

ちなみに、ニールセンの謎のレポートによると、

日本は主要10カ国中、SNSブログの利用者数が、

アメリカに次いで2番目に多いが、

一人当たりの費やす時間は一番少ない。

ニールセンプレスリリース

http://bit.ly/91JwvH (pdf)

何か因果関係はあるんだろうか?


で、何が言いたいかというと、

アルファブロガーがこぞって取り上げたって、

MAXこの程度ってこと。

淡い期待を抱いてそのへんのブロガー使ってチマチマやっても、

クチコミ効果なんて大きな成果は望めないだろうって話。

小さな効果で良ければ別にいいんだけどね。

コツコツやろうや。


じゃなくてw

ネット業界で食ってく人は、

結構大きな岐路なんでないか、と、ふと思った、とゆー話。

関係あるのかわからんけど、

楽天なんかは、リアルに打って出てるしね。

的を射たレポートとか意見を求ム。

2010-01-06

35歳転職限界

年功序列のこの社会。35歳あたりが1つの限界点

こんな年齢で『限界』となる社会なんてもの凄く息苦しいし、生き辛い。

35歳を過ぎて転職できた人の実数ってどれくらいなんだろう。

全体の労働人口に占める転職経験者の割合そのものがそんなには多くない、、、のか?

じゃあ人材紹介会社ってあれなんなんだ。

、、、コストをかけずに(在庫を抱えずに)売上を上げれる嫌な商売だな。

話、それたけど今辞めたくて仕方なくて真剣転職すべきか否かを考えている

独身30歳ちょいすぎ男子でした。

2008-08-20

http://anond.hatelabo.jp/20080820163345

貧困というのは社会構造社会システムによって生じるところが大きいから個人の努力の及ばない次元があるだろうが、

モテたいなどの個人的な問題は社会構造社会システム依存しているわけではないのだから同列には語れないだろう。

あと田舎年収の話なんかも社会構造社会システム的な問題だな。

それと「最高に努力してもダメな人は一体どうすればいいの?」という意見もあるけど、

ほんとに最高に努力したか疑わしい。単に根気が足らないだけの話。

努力限界点を低く設定し過ぎなんだよ。

2008-08-09

http://anond.hatelabo.jp/20080809214557

そこが元増田限界点なんだと思うよ。

アメコミの抱える問題を「方向性」と位置づけて、進歩するのを諦める。これはアメコミ作家自体にも言える事だけどね。

そこまでしか発想が及ばないんだよ。俺は日本マンセーではないが、冷静に見てアメコミは完全に袋小路、それは事実だ。事実は認めなきゃ。

俺は、外国漫画の成功例だったらディズニーを押すけどね。元益田アメコミの擁護せず、悪い部分は悪いと認めてディズニー押せばよかったんだよ。世界で一番広まってるアニメなんだから。

そこをせず、負け確定のアメコミを擁護するから、おかしな事になるんじゃないのか。

2008-03-11

鯨食に関してかなり素朴な疑問があるんだけどさ。

俺、今時の若者に珍しく、鯨肉ナチュラルに好きなんだけどさ。

最近ふと生物学教科書ぱらぱらめくってて思ったことあんのよ。

鯨って、海における食物連鎖ピラミッドの頂点だよね。

鯨自身が好む好まないに関わらず、あんなデカイ口でさ、

プランクトンガバーって食べて、

ついでにうっかり魚もガバーって食べちゃう。

ってことはさ、バイオアキュミュレーションとか、ひどいんじゃない?

ただでさえ魚とか汚染されまくってんのにさ。ヤバイんじゃない?

その上、不法投棄された化学薬品廃棄物なんかも口にしちゃってるだろうし。

特にそういう国の周辺では。

現にエスキモーは、女子が生まれなくなってゆっくり滅びつつあるっていうじゃない。

あいつら他にも生であざらしとか食ってるけど。

DDTの例をとるまでもなく、多くのケミカルはからだの中で分解されずに

子々孫々に至るまで受け継がれていく。

もちろん、一切れの魚肉やくだものや野菜にふくまれる薬品の量はたかがしれてる。

でも、それでもゆっくりと、確実に僕らの中でそれらは積み重なる。

今のところ、人々の間に摂取と蓄積による影響は見受けられない。

もしかすると、僕らは時限爆弾を食べているのかもしれない。

積もりに積もって、ある限界点を越えると、一気に爆発して僕らに襲い掛かる、兵器。

その中でも鯨肉はヤバイ。

もし、牛に鯨と同じ割合で薬品が含まれいたら、どこの国でも売ることを認められないレベルだ。

あの中国でさえ。

ねぇ、僕は多分彼女将来できないからこのまま食い続けてもいいし、

僕と同年代の人たちは鯨じたいあんま好きじゃないから食べないけれど、

そろそろ生活に余裕もできて、腰落ち着け結婚して子供生んでもいいかなって年頃の、

優秀な遺伝子を遺さなきゃいけないハズの、あんたらおっさんどもは

どうするの?

2007-08-16

そうでもないんだな

http://anond.hatelabo.jp/20070816121309

想像力に際限はないが、限界はある。想像の過程は無限長かもしれないが、それは限界点の手前で折り返し、ループするからであって、無限大ではない。

人は知ってることの組み合わせの範囲内しか想像できないもんだよ。

2007-06-16

エロ話の限界

ってあるよね。ここを越えたら胸焼けして嘔吐しちゃうって感じ。あ、。昼食中に嘔吐とか言ってごめん。

人それぞれにこのエロ話の限界点は違うよね。エロの内容と時間軸による限界点を誰か関数で示してくれないかな。

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん