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はてなキーワード: 終戦の日とは

2023-10-15

毎年終戦の日になると反戦争とかいってる連中

ロシアウクライナ戦争やハマスイスラエルの戦いには抗議しないのなんで?立場の弱い子供には戦争教育とかグロ写真を嬉々として見せて感想文を強制させるだけが仕事か?

2023-10-12

anond:20231011115313

明日終戦の日

靖国神社に参拝に行って参りました。

我が国の礎となり散華された英霊の皆様に、感謝哀悼の誠をささげて参りました。

https://twitter.com/tamuratakumi84/status/1691011481842913280?t=Q2yMf9idnOz3J3mBR7QsaQ&s=19

保守派はポカした保守を切り捨てるのいい加減やめようよ

最新ツイートこれやで

靖国行ってるリベラルが居るかよ

今回の政策も賛成してるの自民公明だけで反対共産とか他党だったし

2023-08-16

anond:20230816110818

終戦の日ってただ単に玉音放送した日なんだよな

ポツダム宣言を受諾するとした日でもないし降伏文書サインした日でもない

国民感情的には終戦を知った日が終戦の日なんだな

2023-08-15

終戦の日

日本にとっては終戦の日であって敗戦の日だけど

ロシア中国その他にとってはビクトリーデイであって

教訓は侵略されないようにする、侵略者には徹底的に戦う、であって

自分達が侵略者になるなんてことは露ほども考えてないんじゃないか

今日終戦の日です

大日本帝国指導者日本国民を欺き世界征服を実行しようとしました。

無論、騙した側の責任が大きいのは言うまでもありませんが、良識ある人がそのことを警告できず、大衆指導者たちの甘言に騙されたことも振り返らなければなりません。

2023-08-06

から終戦の日ではなく、主に思想的に終戦記念日って呼んだり表記する人はいたけど、最近原爆記念日って人もいるのね

その人のブコメを見ると特定思想に基づいてそう表記しているわけではなさそうで、なんというか単に残念な感じの内容が並んでいるだけ

2022-12-14

戦争放棄赤穂浪士討ち入りの矛盾について

本日12月14日は赤穂浪士達が討ち入りを果たした忠臣蔵の日である

今年8月の終戦の日には戦争放棄と不戦の誓いの思いを強くしたのに、そのわずか4ヶ月後には赤穂浪士達が忠義武士道を貫いたことが賞賛されている。

私が終戦の日忠臣蔵もどちらも信用できない最大の理由がここにある。

日本人として本気で不戦の誓いを新たにするのであれば、忠臣蔵を美化するわけにはいかないのではないか

忠義武士道に殉じた赤穂浪士を美化するのではなく、一人の老人を私刑にしたテロリスト達として扱わなければ整合性が取れない。

日本人は誰も戦争放棄する気なんか全くないのではないか

あるいは戦争放棄するのは太平洋戦争だけで、忠臣蔵明治維新日清日露戦争第一次世界大戦戦争放棄しない、ということにしているのではないか

いや、不戦の誓いを持つならば、全ての戦争放棄しろよ、赤穂浪士テロ集団指定しろよ。

2022-08-16

トロク聞いてたら

宇多丸が「終戦の日敗戦の日」ってわざわざ「敗戦の日」を付け加えて何回も繰り返してたんだけど

なんか意味あんのかね

日本人にとって終戦敗戦なんだからそこをわざわざ付け加えて強調する必要あるんだろうか

2022-08-14

太平洋戦争の本当の終戦の日は9月2日だよ

8月15日というのは、昭和天皇ラジオを通じて連合国降伏することを国民に知らせただけの日。

その日以降もアリューシャン列島日本軍ソ連軍戦闘は続いたし、戦争継続していた。

しか日本では、8月15日が一つの区切りになっているのはなぜなのだろうか。

本当に太平洋戦争終結したのは1945年9月2日。

東京湾に停泊しているアメリカ戦艦ミズーリの艦上において、日本代表が降伏文書に調印したのが9月2日。

なので、本来は9月2日を終戦記念日にしないとおかしい。

2021-08-15

日本人軍国主義者に騙されて世界征服しようとしたこと反省するべき

[ポツダム宣言 外務省訳]

六、吾等ハ無責任ナル軍国主義世界ヨリ駆逐セラルルニ至ル迄ハ平和安全正義ノ新秩序カ生シ得サルコトヲ主張スルモノナルヲ以テ日本国国民欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ挙ニ出ツルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力勢力永久ニ除去セラサルカラス

[増田による現代語訳]

六.我ら(連合国)は無責任軍国主義世界から駆逐されることによって平和安全および正義の新秩序が生まれるだろうことを主張するものであり、そのためには日本国民を欺き、(日本国民に)世界征服をさせようとした過ちを犯した者の権力勢力永久に除去されなければならない。

日本ポツダム宣言を受け入れたのだから終戦の日今日は、日本人は軍国主義者に騙されて世界征服しようとしたこと反省するべき

各党の終戦の日談話(冒頭文)

談話冒頭の、先の大戦に関する言及衆院議席数順に並べてみる。

自由民主党

本日、76回目の終戦記念日を迎えるにあたり、先の大戦犠牲となられた人々に対し、衷心より哀悼の誠をささげます私たち今日享受している平和繁栄は、あの戦争によって命を落とされた多くの方々の尊い犠牲の上に築かれていることを胸に刻み、二度と戦争惨禍が繰り返されぬよう、改めて不戦の決意をいたします。

立憲民主党

本日、76回目の終戦の日を迎えました。先の戦争犠牲となられた内外全ての方々に思いを致し、国民の皆さまとともに改めて衷心より哀悼の誠をささげます

先の大戦では、国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私たちは、この反省を痛切に胸に刻み、二度と戦争惨禍を繰り返すことのないよう、改めて誓います

公明党

本日、76回目の終戦記念日を迎えました。

先の大戦犠牲となられた内外の全ての方々に謹んで哀悼の意を表し、ご遺族ならびにいまなお深い傷痕に苦しむ皆さまに心からのお見舞いを申し上げます

日本共産党

76回目の終戦記念日にあたり、日本共産党は、日本軍国主義による侵略戦争植民地支配犠牲となった人々への深い哀悼の意を表明するとともに、痛苦の体験をへて国民が手にした憲法9条を守り抜き、平和日本世界を築くために全力をあげる決意を新たにします

日本維新の会

戦没者を追悼し平和を祈念する日」に際し、先の大戦で亡くなった方々をはじめ、祖国のために殉じた全ての戦没者に対し哀悼の意を表し、心よりご冥福をお祈り申し上げます

国民民主党

本日、76回目の終戦記念日を迎えました。

先の大戦では多くの方が戦場で非命に倒れ、一般国民原爆空襲沖縄戦などの戦禍に巻き込まれ尊い命を落とされました。終戦後も、異国での抑留や、原爆や傷病の後遺症でたくさんの尊い命が失われました。ここに、全ての戦争犠牲者の方々に衷心より哀悼の誠をささげます

社会民主党

第二次世界大戦終結から76年目の8月15日を迎えました。15年に及んだアジア・太平洋戦争は、310万人もの日本人の命を奪っただけでなく、日本侵略植民地支配によりアジア諸国をはじめ多くの国々に多大な犠牲と損害を与えました。戦争により倒れ、傷つき、苦しめられたすべての人々に、心から哀悼の誠を捧げます。また遺族の皆様、今なお戦争被害に苦しめられている皆様に、お見舞いを申し上げます悲惨戦争体験の上に「政府行為によつて再び戦争惨禍が起こることのないやうにする」と決意し、制定されたのが日本国憲法でした。再び戦争時代を招来させないよう努め、後世に継承していくことが私たちの責務です。

終戦の日 歴史再確認しこれから日本を考える日だぞ

押し付けられた概念ではなく

しっかり史実を見つめ直そう

そして成すべきことを掴もう

【速報】小泉環境相 靖国神社を参拝

進次郎やるやん。将来的に総理にはなるサラブレッドが参拝した意味は大きい。

にしてもこの反日っぽい女子アナがイヤそうに読み上げてて笑う。

【速報】萩生文科相靖国参拝 菅内閣の現職閣僚で2人目

15日 8時34分

 萩生文部科学大臣が午前8時半ごろ、靖国神社に参拝しました。

 菅内閣の現職閣僚として「終戦の日」に参拝したのは、小泉環境大臣に続き2人目です。

https://news.yahoo.co.jp/articles/6ffc034fbc18dcf51a8396ff1d5ee841d39a8d79

2020-12-26

RRDいわく1944年10月25日日本戦時下でなかった

RRD と言えばはてな左派界隈を代表する人物の一人だが、どうも彼が1944年10月25日日本戦時下でなかったと主張しているようなのだ

 

発端は以下の記事についた彼のブックマークコメントだ。

記事の内容はツイッター朝日新聞社アカウントが紹介した戦時中女子挺身隊が出勤をする様子が合成により人数を水増しされているというものだ。

https://www.buzzfeed.com/jp/kotahatachi/asahi-photo">www.buzzfeed.com

 これ自体問題はないしかし、RRD 氏が奇妙な事を言いだしたのだ。

朝日新聞戦時中写真めぐり謝罪。「工場に出勤する女子挺身隊」は合成、Twitter掲載

ネタウヨ的には朝日新聞捏造したことになってるのね。さすがトランプ信者根城だけのことはある。そりゃ話も通じないわ。

https://b.hatena.ne.jp/RRD/20201222#bookmark-4695948251994769250

 

とのことだが、

 

発表によると、写真は、戦時中写真週刊誌「アサヒグラフ」の1944年10月25日号および、朝日歴史写真ライブラリー戦争庶民 1940~49」(朝日新聞社1995年)に掲載されていたという。

 

 

肝心の記事には1944年10月25日アサヒグラフ刊行されたと明らかに記述されているのだ。

さて、1944年10月25日はどんな日かというと、レイテ沖海戦が終わりマッカーサーレイテ島に司令部を設置した日なのだ

これはもちろん言う必要もない事なのだが、日本降伏したのは1945年だ。ポツダム宣言受諾日なのかミズーリ号上での調印なのかは議論余地はあるだろう。しか1944年10月25日太平洋戦争が終わっていたと言う歴史学者はいないのではいか?

よしんばいたとしてもかなり異端の説だろう。論文レベルではあるのかもしれないが寡聞にして存じ上げないので、id:RRD氏にご教示いただきたい。

 

また、太平洋戦争が始まった日も1941年これも異論はないだろう。日中戦争考慮してもそれらは太平洋戦争よりも早く始まっていた。

1941年から1944年日本戦時下というのも自然と導かれる。

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.buzzfeed.com/jp/kotahatachi/asahi-photo

ついでにいうとこの記事の他のコメントを読んでも戦時中朝日新聞社によって刊行されたと言う事実否定したり疑問を挟む人は彼以外に誰もいないのだ。

トップコメント朝日新聞社プロパガンダに協力した貴重な史料という内容である

彼とスターをつけた人間のみが奇妙な認識でいるのだ。

 

なぜ、こんな間違いを犯すのか?

1.内容が理解できない

2.終戦の日がわかっていなくて戦後朝日新聞社軍部プロパガンダをまとめた物と勘違いした

 

1.は流石にないと信じたい。2.も大概なので2.の間違いを犯したのだろうと思う。

 

俺ならこんな間違いをしたら恥ずかしくてコメントを消すだろう。

2020-08-15

夏の懺悔

終戦の日は、Y君の命日です。

高校時代同級生Y君とは、それほど親しくありませんでした。同級生とは言っても、三年間で同じクラスだったのは一年生の時だけでした。その後は、時折廊下などで会った時に軽く話をし、稀にメールをする程度の仲でした。

Y君は、予備校の友人と二人で海水浴場に行って事故に遭ったそうです。酷く天気の悪い日で、彼らの他に誰も泳いでいなかったと伝え聴いています。それ以上Y君の死の理由は誰も話しません。みな察しがついているからです。

しかし、僕は彼の死の理由と向き合う必要があります。悼むだけでは足りないほどの仕打ちを、僕は彼にしてきました。

Y君と最初に話したのは、高校入学初日です。僕らの高校は、マンモス私立高校で、大概は公立高校受験に失敗した人間が行く学校でした。お世辞にも賢い学校とは言えません。それでも、それなりの生徒を集めて、特進クラスが二クラス編成されます。僕らのクラスはその一つでした。

入学からしばらくは、みな口々にどこの高校に落ちてこの学校に来たのかを話していました。例によってY君も学区一番の難関公立高校に落ちたそうです。最も、僕らの高校の進学クラスの大半は、その高校か、県下トップ公立高校を落ちてきた人間でした。

はじめは出席番号の近い者同士で輪になるものです。彼と僕の出席番号は二番違いでした。ゴールデンウィークに入る頃には友情の再編成が済み、僕らは別々の交友グループに加わって行きました。

から見ていて、グループの中のY君の地位は極めて低かったと記憶しています。彼らのグループはみなテニス部でした。Y君はいつもいじられる役回りを演じていました。自分から話を切り出しても「調子乗るなよ」という言葉を掛けられている様子をよく見かけました。

入学式が終わってすぐに、実力試験を受けさせられます。Y君の試験結果がどうであったか僕は知りません。少なくとも、僕より上ではなかったことは確かです。学年トップ十人は公表され、僕は四位でした。

第一志望でこの高校に進んだ僕は、周囲から奇異の目で見られていました。ただ一人、Y君だけは、周囲と少し違う反応をしていたのでよく覚えています。Y君の同じ中学校で、学区トップ合格間違いなしと言われて落ちた二人を、僕は下しました。そのことをY君は自分のことのように喜んでいました。

「四位なのに、第一志望でこの学校にきたんだね。」

「こういう人も来るくらいの高校なんだから俺も勉強しよう」

その時の僕にはまだ、そんな理由勉強をはじめようと思う理由理解できませんでした。彼にとって高校はどのような意味をもった場なのかと怪訝に思いました。今になって思えば、不本意入学した学校について、明るく思える理由を見つけられた日だったのでしょう。

とは言っても、その後Y君が試験ライバルとなることはありませんでした。二年生からは、進学クラス文系理系とで別れてしまい、一緒になることはありませんでした。英語の授業だけは進学クラスクラス合同で、レベルごとの三グループに別れて開かれていたが、ついに一緒になることはありませんでした。二年間、Y君は成績下位クラスから上がって来ませんでした。

交友グループが完全に別れてからも、僕はたまにY君と話す機会がありました。というのも通学に使う電車の駅が同じだったのです。そうかと言って一緒に通う約束をするような仲でもありませんでした。遭えば多少話をするといった具合でした。Y君はよく話しかけてきましたが、僕から何か話しかけたという記憶はあまりありません。

彼の家はごく近所でしたが彼の家に遊びに行ったことはありません。詳細な場所も知らず、団地の名前で知っているだけでした。僕は中学卒業後にこの街引っ越してきたので、同じ中学校出身というわけでもありません。彼が普段通学路にしていた道が、僕の部屋の窓から見えますしかし、駅との直線距離上に住んでいる人と思っているだけでした。

Y君はテニス部に入部していました。中学から続けていたと聴いていますしかし、同じクラステニス部から伝え聞くかぎり、部の中での実力ははじめから下位だったそうです。Y君は小柄で、先も細く、よく中学生のようだとからかわれていました。

Y君と同じグループテニス部員は、高校二年にあがるまでに部活を辞めてしまいました。部員の層は厚くないものの、後輩にも実力で追い抜かれ、Y君は引退まで団体戦メンバーに入ることはなかったそうです。

とき一年生の頃にY君と同じ班だったM君は強豪のサッカー部員でした。髪を染めピアスをしていたM君は、Y君に対していつも高圧的な態度をとり、掃除当番を押し付けて、誰よりも早く部活練習に行き、後にレギュラーの座を得ていました。少なくともY君はそのような気概を持ち合わせてはいないように見えました。

僕らの通った高校には、進学クラスを中心とした三泊四日の受験勉強合宿がありました。合宿中は山のように課題を出されました。ホテルに着いて早々、会議室に籠ってひたすらに特別授業を聴かされました。それが終われば翌日までに解いてこいとプリントを大量に渡されました。まともに取り組んで解き切れる量ではなく、教師もその事を知った上で出していた節がありました。それでも僕らは、教師の鼻を明かしてやろうと思って夜を徹して問題を解いていました。

Y君は、ちょっと問題を解いては周りに話しかけていました。「どこまで進んだ?」「この問題どう解くの?」と。そして周囲が邪魔そうな顔をすると自虐的に謝った後、「よし、俺も集中する」と宣言して問題に取り組み、三十分と保たずに振り出しに戻るのでした。

高校二年の頃、しばしば僕はY君のクラスでごく親しい友人と受験勉強ノウハウや、進行状況について情報交換をしていました。そこに、部活休みになってY君が加わったことが何度かあります

Y君が、自分勉強について詳細を語ったことはありませんでした。自分より成績の良い人間発言には同意をし、自分と「同等程度以下」と思っている人間発言にはあまり信用していないような素振りをしていました。しかし、前者が後者発言賛同すると、途端に賛同し出す、風見鶏な態度で話に加わっていました。

僕らはみな自分に合わせて勉強スタイルを組み立てていました。Y君には、そのような節はなく、彼の尊敬する誰かの勉強の仕方を真似しているだけでした。正確には、真似している「つもり」なだけでした。

僕がセンター試験模試で九割をマークした時、Y君が英語勉強内容について尋ねてきました。その頃僕は学校で配られた基礎的な問題集で文法問題毎日大量にこなしていました。ケアレスミスを減らしつつ長文問題に十分な時間を確保するためでした。自宅学習英語の長文に充てられるよう、学校での細切れの時間文法勉強していた方が都合よかったのです。

そのような事情は告げず、学校で配られた問題集を解いているとだけ告げると、Y君は基礎的な問題集にずっと取り組んでいました。かなり後になってから知ったことですが、Y君は毎度の模試では長文問題で大量失点を繰り返していました。長文を読む訓練からはじめるべきだったのに、同じ文法問題集に何周も取り組み続けていたのです。その後も彼は模試の度に取り組んでいる問題集を尋ねに来ましたが、僕は同じ問題集だと答え続けていました。

時を同じくして学年上位の人間が「単語力が足りない。」と言ってハイレベル英単語帳に噛りつくと、Y君はそれを無条件に肯定し、同じ単語帳に取り組み出しました。

学年上位の彼女場合、元から基礎的な語彙力・単語力がしっかりあり、それに支えられて文法問題を解きこなし、身に付けた語彙・文法で長文を読み解き、総合的な英語力を身に着けた後に、日々取り組む実践問題の中で単語力の不足を感じていたのでした。Y君は、そのような事情を知る由もありません。

すべての教科の勉強がこのような具合で、Y君の受験勉強は日々、一貫しないものになっていきました。誰かが「基礎をしっかりしないといけない」と言えば同意をし、しばらく基礎的な勉強を繰り返し、また誰かが「基礎ばかりで実践レベル問題が解けない」と言えば、応用問題を解き始めました。Y君は、自分の実力を冷静にみて勉強する習慣がなかったのです。

試験が終わっても模試が終わっても、Y君はいつも「次で挽回する」とだけ言って答案用紙を二つ折りにして閉まってしまい、自分が何を間違えたのか何が不足しているのか反省をしているようには見えませんでした。僕らは答案を見せ合い、点数をひけらかし合い、同時に何を間違えたのかも見られ、ときには馬鹿にされ、それを恥じ、次には同じ過ちをしまいと心に誓ったのです。そして口々、「次の試験では負けない」と言い合うのでした。

Y君は、ただひたすらに成績上位の級友に勉強方法勉強内容を尋ね、それを真似してみるだけでした。あるいは、それで成績の落ちた級友に反省点を尋ねてみるだけでした。自分の頭を使って、自分必要勉強をして成績を上げようという姿勢が見られませんでした。

高校二年の秋頃から、学年トップ十人の常連の内で、制服に細工をするのが流行りました。理科実験から拝借してきた薬品で五円玉や五十円玉を磨き上げ、ブレザーの左胸にある校章の裏に挟むのです。すると鳥をあしらった校章が後光の差したように見えます。上位三人が五円玉を、残り七人が五十円玉をはさみ模試のたびに奪い合うのです。

事情を知らぬ者が見れば、何のこともない遊びです。どんなにかよく言っても「お洒落」程度のことです。何も知らないでY君がそれを真似して校章に五円玉を挟んでいたのを、僕らは影でクスクスと笑いました。自分の手で掴む喜びを知らないで、努力する苦しみを知らないで、努力した者の成果にだけ憧れるY君の態度を、僕らは気づき、そして内心侮蔑眼差しで見ていました。鈍い色の五円玉が、それを象徴しているように思えたのです。

勉強をしたかテストの結果が伴うのだという自信が、僕らの中にありました。また、勉強していないから全国模試で他校の人間に負けるのだと悔しがっていました。進学クラスの同志とともに学内順位一喜一憂するのは全国模試で泣くほど悔しい思いをした腹癒せであり、本懐はみな志望校への合格でした。

正直に言えば、僕は心底彼を見下していました。大した進学校でもない私立高校の成績上位だけを見て、「◯◯君、勉強できるもんね」と言えてしまうY君の姿勢を、僕は内心唾棄すべき存在だと思うようになっていました。

僕は、努力方向性を間違える人間愚か者だと思っていました。そして努力すらしようとしない人間軽蔑していました。他の何もかも投げ打って練習に取り組むわけでもなく実りのない部活動にただ漫然と時間を費やすY君の姿勢は、まさに軽蔑対象でした。「三年の夏に部活引退したら、本格的に受験勉強をする」というY君の弁に至っては、この時点でもう勝負はついていると僕は思いましたが、哀れな奴だと思うことにして黙っていました。

当時進学クラスの上位面々にしても、実際には大した学力は持ち合わせていませんでした。勉強すればするほど募る不安を振り払うべく、ビックマウスで自分鼓舞させ、歯を食いしばって受験勉強に打ち込んでいたのです。

みな手の内を知っているから言い合えた言葉がありました。「普通クラスの連中が努力して行くような大学から日東駒専は滑り止め」「明青立法中はセンター利用入試で一学部学部抑えて、あとは試験慣れ」「本命早慶国公立大学

Y君が目指したのも、早慶文系学部でした。折りに触れ志望学部を聞いた時に「受かったらいいなぁ」という言い方をしていたので、どこまで本気で受験していたのか分かりません。また彼が将来どういう職業に就きたくてその大学を目指したのかも知りません。いずれにしても、当時のY君の実力からすれば、合格絶望的なので記念受験だったと思います

日本で双璧をためす有名私立大学どころか、当時のY君は本気で日東駒専第一志望にして対策を組んで然るべき成績でした。それにも関わらず、十分な対策をしていなかったのでしょう。そのレベル大学を「滑り止め」として受験し、行き場がなく浪人が決まりました。

先にテニス部を辞めたある級友は、有名私立大学合格しました。Y君から学業面で「同等程度以下」と思われていましたが、彼は初めからY君より成績は良く、そして努力甲斐あって志望校合格しました。Y君が、センター利用試験で抑えるつもりだったレベル大学です。

高校卒業式で、Y君は自宅浪人をするつもりだと話していました。図書館勉強している方が集中できるからだと本人は話していました。それを聴いて、受験勉強のやり方を根本から間違えているのだから予備校に通わなければY君は同じ失敗するだろうと、僕は思っていました。

僕も浪人が決まっており、同じ境遇の友人らと、どこの予備校に行くか、予備校が始まるまでどう過ごすか情報交換をしていました。しかし、僕は、彼と同じ予備校に通うのは自分精神衛生に悪いと思い、誘いませんでした。

僕は気心が知れた戦友二人と予備校生活を送りました。定期的に他の予備校に通っている元同級生とも食事に繰り出し、情報交換とリフレッシュをしていました。時には勉強会を開き、時には悪い遊びに繰り出し、予備校生活を満喫しました。僕はY君に対して意図的に声をかけませんでした。

Y君が亡くなった後、彼がどのような浪人生活一年目を送ったのか、聴いて回っても誰も知りませんでした。分かっているのは結果だけです。一年後の再戦にY君は敗れました。彼が受かったのは、日東駒専文系学部一つでした。浪人してそんな大学行けないと、二浪することを決めたそうです。Y君と伴に最後までテニス部にいた普通クラス出身者が、予備校生活の後に地元国立大学教育学部合格したのも少なからず影響があったと思います

Y君の二浪目については、僅かながらに噂が流れていました。僕らが通った予備校とは別の大手予備校に通ったと聴いています。そしてそれはY君の両親の望みだったという話です。しかしそれ以上のことは誰も知りませんでした。

Y君は、限りなく記念受験に近いであろう第一志望の早稲田大学に落ちました。それでも、今度は明青立法レベル大学に手応えを感じていたそうです。高校時代担任教師の元には、今度は大丈夫そうだとメールが来たそうです。滑り止めに受けた日東駒専合格は決まっていました。

しかし受かった手応えを感じていた青山学院大学は、不合格だったそうです。その結果が判明した時、既に日東駒専手続き期日は過ぎていたそうです。二浪して予備校に通い、親に負担を掛けたくない気持ちが働いたのでしょう、Y君は日東駒専入学一時金を払わなかったそうです。

かくしてY君は三浪目が決まりました。その頃のことは、Y君の級友何人かが打ち明けられていました。「一浪二浪までは変換できるけど、三浪って、ケータイ変換できないんだね」Y君からある友人に宛てられた最後メールには、そう書かれていたそうです。

苦しさは後に喜びがあると知っているから耐えられるものです。喜びのために経験する苦しさと、苦しさの後にある喜びとは、価値が全く異なります。失敗の先に成功を掴んだ人間けが成功評価できますしか成功を掴めない人間には、そのような言葉は無力です。苦しさの中でも特に失敗は辛く、とても重ねていられるものではありません。

三浪目の夏、Y君は、予備校の友人と二人で海に行き、事故に遭ったことになっています。酷く天気の悪い日で、盆過ぎの海水浴場には彼らの他に誰もいなかったと伝え聴いています

同行したのが同じ予備校の友人であるのかは分かりません。しかしその新聞を調べてみると、天気予報では、県内は午前曇、午後から雨となっていました。海水浴に出かける天気ではありません。実際の天気を調べてみても、前日から曇り、実際に曇のち雨だったようです。

二人は遊泳禁止柵を超えて、外へ外へと泳いでいったそうです。友人はしばらくして怖くなり引き返し、Y君のことを警察通報したそうです。海上保安庁警察が捜索したものの、Y君が発見されたのはそれから二日後のことでした。

沖に流されて生還した人の体験談を、折りに触れ読んでみました。だんだんと手足の感覚が無くなって行き、全身が重く感じられ、乾きと苦しさと絶望のあまりに、自ら沈もうとしても身体は死を受け入れず、数時間に渡って浮かんでいると言います。その間、Y君は何を思ったのでしょう。

暗く塩辛海の底に引きずり込まれるまでの数時間、海に来たことを後悔するのでしょうか。自らの力の無さを恨むのでしょうか。早くから勉強しなかったことを悔やむのでしょうか。時代を恨むのでしょうか。日本社会を恨むのでしょうか。

人生の遠回りを許さな日本空気に、Y君は命を奪われました、一体誰が仇をとってくれるのでしょうか――僕はそう思うことで、Y君の死は、自分責任ではないと思い込もうとして来ました。そんな綺麗事では済みません。彼を死に追いやったのは僕らです。

彼の学業上の相談に乗らなかったのは、彼が気楽に、好きなことをしていたことに対する妬みです。彼が、僕の思う独善的な「努力」をしないことについて、快く思っていなかったからです。「努力」などと呼んでいいものではありません。自分の味わった苦しみを人も味わえばいいという意識は、酷い嫉妬心に過ぎません。

彼が学業面で悪循環に陥っていると知りながら、僕ら「成績上位者」を誤解していることと知りながら、僕らが手の内を明かさなかったのは不当な仕打ちです。Y君は、級友の受験勉強という、励まされる理由にも自信を持つ理由にもならないものを盲信していました。そして、僕らはそのことの具合の悪さに気づいていながら放置し、影で嘲笑っていました。僕らはY君の話を聞ける関係にあったのに、聞かずに見殺しにしました。

こうまで酷い仕打ちをして、どうして彼の死を受け止めて来られなかったのでしょう。

今なお、僕は「僕ら」でないと責任を背負えない弱い人間です。そんな僕にも毎年夏は訪れますしかし、今に自分一人、罪の念を免れたいがために記憶を上塗りし、忘れ去ってしまうことでしょう。あるいは、もうそれは始まっているのかも知れません。

実家にある、かつての僕の部屋からは、一車線しかない県道が望めます。Y君が三年間、高校に通うために歩いた道です。なんの変哲もなく、田んぼと林に囲まれ田舎風景です。僕が彼から奪ってしまったものの一つです。

今はまだ、入道雲青空に彩られたこ風景に罪の意識を覚えます

2019-08-16

終戦の日に右も左も嫌いなのがわかった(気がする)

両方争いごとして勝ちたい、勝った気になりたい人たちなんかなって思った

みんな都合のいい話に乗っかって勝った気分に浸りたいだけなんじゃないの?まずは目の前にいる人の存在を認めようよ。たとえ相手がこっちの話聞かなくても話を聞いて共感できる部分がないか考えよう。そうすればきっと自分だけの意見が出てくるはず。

私の場合愛国、尊皇、反戦反体制など大事にしたいキーワードをまとめると出てきたものは「アベ政治を許さない

P.S. 私の姓もアベだから気持ちは複雑だけど許さない🤗

2019-08-15

何故、韓国靖国神社参拝を嫌うのか

終戦記念日なので、祖父世代戦没者たちへの感謝と、今後も日本を豊かで平和な国とするために一層の努力を、日々の仕事を通じてすることを誓うために靖国神社へ参拝してきた。戦犯合祀されているとはいえ、多くの日本人だけではなく、朝鮮人も祀られているのだし、参拝も戦犯を奉る目的ではなく、終戦の日日本の為に命を無くした英霊にたいして、今この日が過ごせている感謝と今後の誓いを行って思いを新たにする為に参拝するのだ。韓国がいつから参拝に文句を言うようになったのか、そのきっかけも記憶に定かではないが(どうせサッカー試合での人種差別に対する言い逃れ旭日旗批判を開始したのと同じくらい下らない理由だろうが)、実に愚かな連中だと思う。広く戦没者感謝し、命を犠牲とさせたことを詫びることの何が問題だというのだろう。

日本首相閣僚であるというだけで、人として当然の行為が許されない事は、今風に言うならば、これ以上ないヘイトだろう。無理なんだろうが、韓国人に大人になってもらいたいものだ。

雨予報だからランニングに出かけられない

仕方ないから何かイベントにでも行くかと考えるが

終戦の日からかくだらねーイベントしかやってない

はーつまら

2018-08-15

戦争はいけない」と泣くババアの白々しさ

終戦の日

テレビババアが泣いていた

戦争はいけない」と

でもおれには見える

ババア戦時中

兵隊さんをバンザイして見送った姿を

からだが弱くて戦地に行けない男たちを

非国民と呼んで後ろ指さした姿を

竹槍で天を突く姿を

それは国から騙されたか

なんて言い訳するに違いないが

そんなはずはない

福島原発周辺の住民たちだって

昔は原発反対を叫ぶ人たちに

「俺たちの生活邪魔するな」

そう怒鳴っていたんだ

戦争はいけない」と

抽象的に言ってはいけない

「あの戦争」の

「何」が

「誰」が

「どう」悪かったのか

具体的に言わなければならない

特に「誰」が「何」をしたのかは

徹底的に暴かれなければならない

それは泣くババアも同じだ

小市民に罪はない

死人に鞭打つな

などという

無責任論理鵜呑みにしてはいけない

「あやまちは繰り返しませんから

なんて主語を隠して

センチな気分に浸ってはいけない

次の戦争

「あの戦争」と同じ形をしている

とは限らない

しろ機銃掃射も焼夷弾原子爆弾

使われることはない

徴兵制も敷かれることはない

どういう形の戦争になるか分からない

しろ「あの戦争」は

すでに何度も起こっていて

しかしそのことに

戦争はいけない」と

泣いたババアは気づかずに

長い間加担してきた

そのことをババア自覚しない限り

「あの戦争」は形を変えて

必ず繰り返される

ブラック企業で虐げられ

心身を病み

死を選んだ若者たち

きっとババアは彼らを

「男のくせにだらしがない」

「わしらが若いころは」

と蔑んでいたことだろう

強いものに巻かれ

逆らわず忖度

匿名安全地帯から

人を傷つけて溜飲を下げる

そんな卑怯国民

あの無謀な戦争を起こし

いつまでもグズグズと戦線を引き伸ばし

犠牲者を増やしていったんじゃないか

真夏甲子園

暑さに苦しむ球児見世物にして

カネ儲けをしている朝日新聞

戦時中

戦意高揚に加担したことを隠して

まるで最初から反戦だったかのように

自らを偽装している

しかし根は変わっていない

サマータイム打ち水

東京五輪

「あの戦争」は

いまもこの国に偏在している

終戦の日に思うこと

テレビネットリアルイベントなどで戦前日本をなぜ評価しなければならないのか?我々日本人も世界反日感情現実もっと知るべきだ。世界反日現実を知れば、とても日本万歳イベントを作る気が起きなくなるはず。このようなイベント世界日本に対する不満を忘れさせ、平和に対する感謝気持ちを忘れさせるなど、社会的影響が大きいので今後は実行しないでもらいたい。

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