はてなキーワード: 時そばとは
いっぱいコメントありがとうございます!
めっちゃ教えてくれてうれしい。
こんなの自分の周りで話しても自分と同じ価値観の人しかいないから聞けなかったと思うとネットって偉大だな~って思ったよ。
みんなが自分の思う最高の自分でいれる社会になりたいねはやく。
でも想定と違って、「別の指標があるからどうでもいい」じゃなくて「ブスだから」とか「家族がからかう」とかが多いのが気になった。
学校が厳しくても興味あってやりたいな~と思ったらプライベートでやると思うので、実際は校則とかあんまり関係なくて上記の2点がネックなのかなと思った。
校則も関係あるっちゃあるのかな、忌避観がなんとなく育ちそう。
ブスだからという意見に関しては、そんなことないよ!みんなかわいいよ!!!と思う。まじで思っている。
人生でブスに出会ったこと一回もない。クラスにも会社にもいない。たぶんそれは親とかから与えられた呪いで、私みたいな赤の他人が言っても意味ないんだろうけど。
興味はあるのに自分の容姿に自信がないというだけで手が出せなかった人から新しい趣味や生き方が生まれる可能性を潰したすごく罪深い呪いだと思う。「色気づいて」みたいな家族からのからかいもそう。そういうこと言う人に限って女らしさを求めてきそうなイメージがあるよ。あなたたちはかわいいので自信を持ってほしい。
コメントくれた人の中に、「鼻が大きすぎるとコンプレックスだったがメイクすると目鼻立ちがバランスとれることをおしえてもらった」って方がいたんだけど、たぶんきっとこういうことなんだよ。あなたたちのコンプレックスは絶対活かせるし、他人からしたらどうでもいいことだし、なんなら羨まれている可能性もある。
わたしも鼻が横から見てまっすぐ伸びている友人をうらやましいと思っていたら、本人はそれがコンプレックスでわざわざシェーディング入れて鼻の付け根の高さを消しているし、あなたみたいなおでこから鼻先までがくるんとなっている横顔がうらやましいよと言われたことがある。全然傷つく必要ないよ。コンプレックスに対して自信持てとは言わないけども!!!
スターターパック欲しかった人、その時そばにいたかったなと思った。憐れみとかではなくこれから沼にハマってくれるかもしれない人を見ているオタクの気持ちです。
田舎者でドラストコスメメインで頑張ってたからそこら辺の金銭的なアドバイスができた自分がその場にいれば沼に引きずりこめたのに!!!と無念な気持ち。
いろいろ指標はあると思うけど、勉強好きな人とかかっこいいなあと思った。いいよね、人生の指標があるということ。
あと生理的に無理だっていう人がいるのが全く未知の価値観で面白かった!面白かったって言うと変な意味に聞こえるけど、interestingのほうです。
女の子は誰でもどこかではお姫様になりたいと思ってると思っていたから、やっぱこれってあくまで個人の意見で、たまたまそういうコミュニティに属しているだけだったんだなあと思う。
気分が上がらない人がいるのも知らなかったなあ。でもそうだよね、私もいくら価値があってもブルーアイズホワイトドラゴンもらっても気分は上がらないし。
確かに筋トレと似てるのかも~~!って思った。筋トレと違ってメイクは切り替えできるところが強いかも。筋トレって気軽に体型変えれないからね。
あくまで私の中でなんだけど、武装のメイクと普段のメイクって違うんだよね。
武装のメイクは競争相手がいるときに自分を奮い立たせるためにやってた。それこそ高校のイベントごととか、就活とか、ガルバで働いてた時とかかな。
普段のメイクはあくまで「今日自分が過去最高にかわいいな~」と思えるメイクであって、対人を意識しないで済むメイクだからかな。
自分がかわいくて最高と自分自身で思えることがミソなのよ。なので他人からの評価はどうでもいいってなるし、武装の時と真逆の価値観でメイクしてるなという発見がありました。
正直クラス対抗の時とかは「おら~~~かわいいと言え~~~~????」の気持ちでメイクしてた。
それはまじでそう。
しかもメイク道具も安くないし、人におすすめしてもらっても、その人に合うものが自分に合うかなんてわからんしね。
そしてうまく合致するスタイルになかなか出会えなかったらもうええわってなるのも仕方ないことだわね…と思った。だってめんどくさいし実際。
世間でおもしろいと噂のAPEXやってみたけど全然操作うまくいかなくてすぐ辞めたの思い出した。
楽しいとこまでたどり着けなかったらそりゃそのまま興味のない人生を歩むよね。
そりゃそうよね、だったらメイクしないよね。
たぶん世間一般だとメイクしていない=身だしなみが云々ってなるんだけど、そういうことではないよね。
女らしいスタイル以外に好きなスタイルある人はそのスタイルの中で自分の好みを突き進んでるんだから、身だしなみはちゃんとしてるでしょと思う。
というか自分のおばがそのタイプだったと思う。今で言うと無印良品みたいなシンプルな服装とパンツスタイルが好きな人で、メイクも全然しないんだけど、眉毛とかはいつもきれいに整っているし、髪の毛もショートでちゃんとセットしているし、肌もすごいきれいな人だよ。最近会えていないけどきれいな人という印象だもん。その癖笑顔がまあめちゃくちゃかわいくてギャップなんですなあ。
おばのろけに脱線してしまったけど、髪の毛ボサボサとかならともかくメイク就活で必須みたいなの嫌だよね。この方はちゃんと自分を貫かれて、今もそれでいけてるのですごくよかった。
ここで強要されて心がおれちゃう人、めっちゃいるんだろうなあと思った。私も就活メイクは上で言った通り武装メイクだったから普段とは全然違ってかわいいメイクしたいよおおってなったから、就活のメイクについてはどんなメイクでも、していなくてもいいよとなってこの文化が薄れていって欲しいと思う。内定欲しかったから武装メイク作戦に切り替えたけど。
「ブスだから上方修正意味ない(意訳)」、「しなくても問題ない容姿だからいらなかった」系のコメントがめちゃくちゃ意外だった。
なんか、かわいくいたいって感情と、メイクによって自分が上方修正されているという感覚が一致しなかった。伝わるかな。
あくまで私の場合趣味みたいなもので、かわいくなりたい!ではなく「かわいいの最高値ですよ」なので、そこが感覚違うのかなと思った。ネイルがわかりやすいかな。ネイルしたところで自分の顔がかわいくなるわけではないけど、めちゃくちゃかわいい自分にはなれるじゃん!そういうことなんだよね。メイクしてて顔面偏差値上がったわ見たいな感覚は正直ない。武装メイクの時はスキルをかっ込むので顔面が上方修正されるけど。
メイクめちゃくちゃ大好きで、子どものころに子供向けメイクセット?みたいなのもらってからたぶんずっと好き。
おばあちゃんの家にあったうる星やつらで、塗った人同士の口をくっつける口紅をラムちゃんが作る回があったんだけど、そこだけ死ぬほど読み返したりしてた。
うる星やつらで記憶に残ってるエピソードこれとラムちゃんがツノを溶かすクリームみたいなの使って転校生の振りするみたいな回しかない。どんだけこういう系好きだったのかって感じ。
周りもそうで、母親はデパコス結構使ってたしクソでかスチーマー兼美顔器が家にあって、たまに使わしてくれたりとか。ちょっとしたお出かけにも眉毛をかいたりしてた。
おばあちゃんも毎日カーラーでかわいく前髪を巻いていて、口紅軽く塗ってて本当に絵本に出てくるみたいなふわふわしたかわいいおばあちゃんなの。
もう一人のおばあちゃんは脳梗塞かなんかの後遺症で早逝したしあんまり記憶にないんだけど、写真とか記憶の中だと赤くてかっこいいリップをいつもつけていて、片手でお化粧してるの見せてもらった記憶もある。
そんなんだから中学入るころにはメイベリンかなんかの色付きリップをカバンのポケットに忍ばせてて実際学校でも塗ってたような性格で、自然周りにもメイク大好きな子が多かった。
進学校(かしこいという意味ではなく、大学進学以外の選択肢がないという意味で)だったので、美容系の専門学校に行った友達こそいなかったけど、メイク上手な子とかファッションがいつも決まってる子は結構美大に行っていた。美大に行ったらメイクとファッションが進化していて、アイラインとかめっちゃ大胆な色とか構図で引いてた。かっこよすぎる。
うちの学校は結構成績さえよければなにやってもいいよな感じで、そもそも生徒側も叱られるようなラインを間違える人はあんまりいないんだけど、結構自由にやらせてもらっていた。
そんな感じなので、自然体育祭とか文化祭、クラス対抗では女子の装いがガチになる。
手作りのカチューシャとか、こったヘアアレンジとか、メイクいつもより濃くするとか。
これは何もメイク好き・ファッション好きに限らなくて、「普段はノーメイクで学校来るけどこの日はメイクしちゃう」って子もいるし、「まったく経験ないけどやってみたい!教えて!!!」っていう子もいる。
私もそうなんだけど、うちの学校のメイク好き・ファッション好きはやたらとお姉さん気質が多かったのか、後ろの黒板に「クラス対抗ヘアアレンジします! メイクは○○まで」みたいなのを書いておいて、興味はあるけどやったことないからどうしよう…という子が声をかけてくれたら事前に教えるのも、当日早く来て武装するのも手伝うのをやっていた。
なにもうちのクラスだけではなく、クラスとか学年違っても同じ感じでなので校風だったんだろうな。
あと仲いい子とそのために安いスポンジとか綿棒とかヘアゴムとかアメピンとか割り勘で買って準備するのも楽しかったし、やっぱり武装含めてイベントだったんだなと思う。
あんまりよくないけど、「うちのクラスのほうが髪かわいいよね~おソロだし~~」とか言っていた。気分はプロデューサー兼メイクアップアーティスト兼スタイリストだった。
家に親のクレンジングがあるかわからない子には、ウェットティッシュみたいなタイプのクレンジングを百均のジップロックに詰めて押し付けていた。アフターフォローもばっちり。
こんな感じの雰囲気の学校だったので、友達の中でメイクしない子がいてもドラストコスメ巡りに付き合ってくれたし、男でもメイクしてみたい!という子にやったり、男子改造計画みたいなのを夏休みにやったり、デートの服を何人もの人間で選びに行ったり、初めてのコスメ会に行くのに付き合ったりと、かなり装うということに関して土壌が豊かな環境で育った。
でもイオンもないような田舎だからデパコスも全然なくて、みんなセザンヌとキャンメイクとKATEとメイベリンしか選択肢ないし、服もGUはないからUNIQLOとハニーズで何とかするしかない。
遠出して電車に3、4時間揺られないと一般的な駅ビルがあるような都市にたどり着けない。そんな場所のわりにみんな楽しんでいたと思う。
余談だけど、うちらが中学の時に高校の先輩方がイベントで女装してるの見て、これもイベントにならんかなと思って生徒総会で男装女装コンテストをネタで提案したらしっかり通ったことがある。3年生の時に実現したので1年分しか見れなかったけど、男装の方はガチレイヤーの人が優勝し、女装の方はうちのクラスの総プロデュース男子が優勝した。どんなもんだよ。
なので大学も社会人になっても周りは変わらずファッションとかメイクとか好きな人ばっかだったし、なんならジェルネイルが追加された。金ドブですよあんなん。あんな爪がかわいくなるなら何万円でも払わせていただきます…。
でもこれたぶん私の周りにたまたまそういう人が類友で集まってただけで、クラスにメイクしない子もいたはずだし、社会にはなおもっと興味ない人がいるはずなんだよね。
私は幼少期からこんななので、もう生まれ持った素質の民だと思うんだけど、友達の中には大学からメイク本格的に始めた子もいるし、職場にはメイク手抜きでいくって子もいるけど、みんな会うときはいつもお互いに「自分の中での最高値にかわいい自分で!」というのが共通してるんだよね。
髪型も髪色もネイルも服もメイクも、そのすべてを使って、「好きな人に会うときは最高値にかわいい自分でいたい」というのが我々のような人間の最たる欲求だと思う。私もすっぴん部屋着でスーパー行くし。
好きな人にかわいい自分を見せたい欲求がない人もいるのかなとここ数日のXを見て思った。かわいい服買ったらかわいい顔と髪型合わせたいし、好きな人に会うのにかわいい自分を自慢しないわけにいかないと思わない人がいるんだなと。
働いててメイクめんどくさいな~と思う体調の日もあるけど、メイク好きな私でさえめんどくさい日があるんだから、メイク興味ない人はいわんやだよね。私もオンラインゲームを毎日強制されたら死んでしまうと思うし。
すごい紆余曲折したけど、私からしたら「かわいくいたい」がたぶん人生で一番でかくて、そりゃ好きな人にかわいいと思われたらなお幸せなんだけど、一番大事なのは「自分が自分をかわいいと思えていること」なんだよね。
だからメイクしない人?興味ない人?の感覚がうまくわからない。人生で一度も「かわいい自分でいたい」と思う瞬間がなかったということだと思うから、たぶんその人はその人で「自分がこうだったら最高!!!」と思う指標があるんだろうなと思った。これは私の中ではある種の「エウレカ!」だった。
これが…多様性……となった。
多様性ってこんなレベルでいいよね。魚好きと肉好きがお互い存在してもいいように。私は今まで魚は生が一番おいしいと思ってたけど、世界には生魚食べるの生理的に無理な文化の人も嗜好の人もいるもんな。
だからさ、そういう「メイクガチで興味ない」っていう人がどうしてもメイクしなきゃいけないときにさ、スターターパック用意してあげるのもいいけどさ、私みたいな装いキチ(見方を変えればルッキズム)の人が横でバカみたいにメイクとかに金使って幸せそうにしてるのを見てもらってさ、こいつらがこんなに熱中してんだからいっちょ私も楽しむ気持ちでやったろうかなとか思ってくれたらうれしいなって。
どうせやらなきゃいけないなら楽しいほうがいいよ。勉強も仕事もメイクも。
だから今日からも私はストーリーでキチっぷりをひけらかすのを辞めないと決めたよ。フォロワー各位覚悟してね。
あとごめんメイク興味ない人の心情を勝手に書いたけど、全然違うって人もいると思うからそれはごめんね!!!!
タイトル通り教えてくれると嬉しいけど、それは私の知的好奇心が満たされたくて呻いてるだけなので、優しさとかではないので…。
俺のぼっち歴は相当なもので、プライベートで遊ぶ関係を友達と勘定するならばたぶん中学一年生ぐらいの頃に映画を見に行ったのが最後だ。(クラスで映画を観に行く話をしてるところに俺が空気を読まずに“自分も行っていいか”と訊ねたことでついていく運びになった。今にして思えば、彼らにとっていい迷惑だった)
大学生の頃同じゼミのやつからマクドナルドに呼び出されたことはあるが、どうだろう……友達だろうか…友達ではないな。
なんなら映画を観に行ったときも、俺は観てすぐ帰ったので(楽しくなかったのではなく、普通に映画を観て満足したらすぐ帰りたくなった)そのあとなんやかんやでそのことを突っつかれ、俺はやるせない気持ちになった。「帰るわ!」と言って、特に引き止められずに「ああそう?じゃあまた」と言われたのだからそりゃ帰るよ。
俺は高校も大学も友達と呼べる人間が一人も出来ないまま過ごし、わけのわからぬまま人生の一番自由な時期を、イヤホンが耳に刺さったまま一人で過ごした。
サークルは一時期落語研究会に属していたが、裏方だけやろうと思っていたのに字が汚すぎて題目の名前を書いた紙すら満足に書けず、あがり症のおかげで「時そば」を、客ではなく先輩の前で練習することすら出来ない始末。(なぜか、“枕”という、噺の前にやる些細な無駄話だけは少しだけ達者に話すことができた。20分ほど)どうしたものかと悩んでいたが、ちょうどそのとき部内の人間関係でトラブルが生じ、同級生が一人、先輩が二人やめたところで俺も便乗して辞めた。
暇なときはイヤホンで外界の情報を遮断してなんかしらの曲を聞きながらキャンパス内を徘徊し、たまに構内を出て無意味に一時間ほど歩き通してみたりした。
これで偏差値の高い大学に通っていたとかなら人と違う視点を持ったがゆえの孤立とか格好がつくのだろうが、普通に偏差値の低い大学に通っていたので、俺はぼっちで、しかもバカなだけだった。
どれぐらい偏差値が低い大学かというと、ここを出た某作家が著者略歴にうちの大学ではなく、所属していた他大学のサークルの名前を書いてしまうぐらい偏差値が低い。
とは言え、何も本当に音楽聞きながら歩くだけの学生生活だったわけではない。たまにラーメン屋巡りとかしてたし、ちょいと小銭があるときは雀荘に立ち寄ったり、また、本当に本当~~~に暇なときは、ネットに小説をチョロッッッッッとだけ書いたりしていた。半年に、ほんの六、七行ずつみたいなペースで。
そうしてある日、気付いたことがある。
俺は意外と、少なくとも感想文みたいなレポートを提出して怒られていた同級生よりかは、文というヤツが書けるのでは?と。
それまでは星新一とズッコケ三人組ぐらいしか読んだことが無く、他にはエブリスタでクソみたいな異世界転生系小説を読んであざ笑うというカス以下の習慣しかなかったのだが、それが思いのほか文章力の向上に繋がっていたのだろうか。「こういう文章を書かない」という手本は意外と役に立った。気がする。
エブリスタで小さい賞を取ってアマギフを三千円ぶんぐらいもらったりして調子づいた俺はもうちょっと色々書いてみようと思い、半年に一度ペースで書いていた小説で人と人がどうのこうのするパートに差し掛かり、そこを頑張って、ウィットとエスプリの利いた小気味良い会話文を作ろうとした。
出来なかった。
どうやっても平面的な、話している人間の人格が反映されない、ただの「文」にしかならなかった。読んでいて不気味だった。作品に思い入れのない声優が「あのキャラやってみて」と頼まれ、とりあえず声だけ出してみた。みたいな。あるいは同じ作品で共演する声優同士に、台本なしでそのキャラを即興で演じてみてくれ。と頼んだ時の会話のような…
とにかく形容しがたい、薄っぺらさが隠せない会話になってしまう。
要するに、三人称視点の文はてんでダメだった。『楽しそうな会話』が書けない。
反対に、一人称視点だとけっこう書けた。なのでレポートや論文はヒョイヒョイ書けた。あれは一人称視点で書く文章だからだ。だが小説は別だ。いくら一人称でも話の途中で主人公が人と会話をしなくてはならないときがある。これが本当にできない。
相手がどういう感情で主人公に話しかけているかを考え、主人公の受け答えでどう気持ちが動いて、気持ちに応じてどう対応が変わるかを考えてセリフを作る。すると、何を考えているかわかっている俺から見ればそれに気付かず喋っている主人公が妙にマヌケに思えてきて、そうなるとそのマヌケの一人称視点で綴られている他の文もマヌケな文に見えてくる。そしてどっと気が萎える。
なんのことはない。俺が普段人の感情の機微について推し量るような機会とほとんど出くわさず、機会があっても推し量る能力がないマヌケであり、そのマヌケぶりが主人公に伝染していただけのことだった。
好機を逃さず利用することを中国の故事で『奇貨居くべし』と言うらしいが、機会を利用する能力を養う方法まで故事は面倒を見てくれないらしい。(きかい。と打とうとして“きかお”とタイポしたら予測変換に出てきたので、意味を調べた後使いたくなった)
…とはいえ書かないと続きに進めないので、そこら辺のコミュニケーションパートはなあなあに、サッと流して次に進むのだった。
いろいろな作家の言では、脳内でキャラクター像をしっかり組めばストーリーと舞台の範疇で、頭の中で勝手に動いてくれるそうだが、俺の脳内に居るキャラクター達は揃いも揃ってマネキンばかりだ。俺の思い通りのポーズはとるが、決して動き出さない。
仕方なくマネキンのポーズを手作業でちょっとずつズラして、それを繰り返したものを描写して連続した動きを表現しようと試みるも、そうして出来上がったものは生きた人間の動きとは言い難い、不自然なものに仕上がる。どれだけ細かく刻んだストップモーションアニメも、自立して動く現実の映像のように滑らかにはなってくれないのと同じだ。どうしてもギクシャクする。
最近だとモグモグとか。ほほえましいはずの場面も食べてる音を感じてしまい台無し。
さっきは一口飲むことにゴクリとつけているのを見た。1ゴクリ20ccだからどうこうと。想像しただけでも気持ち悪い。
クチャラーは即射殺
永谷園は昔やらかしてた。それ以来認識してる範囲では永谷園とはご無沙汰だ。
昔の日本の映画はよく食べるシーンに音をかぶせてた。なんでつけるんだろ?気持ち悪さとセンス無さだけが残ってる。
落語も食べる場面にわざわざ音をつける。時そばなんて最悪でまったく集中できない。それだけ志ん生うまかったんだろうな。
実際に食べるときは多少の音は仕方ないし、そばやラーメンを無音で食べたりするほど不粋ではないと思ってはいるが、やはりわざわざ音をつけるのは嫌悪感しかない。
絵柄も似てる
うさぎドロップの絵柄とも似てる
1巻読んだだけだと切ろうかと思ったけど、2巻からの回想が面白くて読んでよかった
その後また現代に戻って一気に時間が飛んでからはそこそこ巻数もあってお話もあったはずなのにほとんど印象がない
回想部分が一番おもしろかったな
まあ全体としては回想も込みでトータルでストーリー考えられてるから過去編だけだと作者的には未完成なんだろうけど
あねさんの子どもの本当のちちおや のところでもちょっとひいちゃったし
うさぎドロップの第二部、あるいはラスト並に女作家のキモさを感じてしまった
落語はじゅげむと時そばとじょしらくって漫画とアニメがあることくらいしか知らなかったけど、それでも雰囲気で読めばまあしらんでも楽しめた
ヒカルの碁みたいな感じ
まあそこいらの若手にできるもんじゃねーよな一応マジな落語のアニメの声優なんて
そっかやまちゃんか
ホモっぽさもそこそこあったけど不快なレベルではなかった・・・と思う
うーん面白くなかったわけでもなかったけど特段おもしろかったわけでもなかったなあ
目標達成から約半年、特にリバウンドもなく体重をキープできているのでダイエット成功と言って良いと思う。
成功要因を自分の中で整理しておきたいので、増田で手法を晒してみる。
人生でまともに何かを成し得たことなどないし、怠惰で自堕落な生活を今でも送っている。
俺のダイエット手法の全てと言って良い。毎朝体重計に乗り、記録する。ただそれだけ。
「いつまでもデブと思うなよ」に書いてあった通り全部食べたものまで記録できれば理想だが、俺は2日で挫折した。
呑みの大好きな俺が口に入れたもの全てを酔っている状態で記録するなんて出来る訳が無い。
そんなこと意識してたら酒がまずくなる。ストレス発散にならん。
暴飲暴食をすれば、次の日体重が必ず増える。その時に、今日一日どれくらいなら食べてよいか自分の中で概算し、実行する。
節制した次の日に体重計に乗って、予測通りの結果が出ると意外と楽しいものだ。
これを3日間、1週間、1ヶ月と続けていった。体重計に乗らない日があると気持ち悪い、くらいまで習慣化できればベスト。
体重ログアプリは腐るほどあるし、デザインが好きなのを使えばいいと思う。
1ヶ月ぐらいしてグラフで確認してみると、自分の日々の積み重ねがバカにならないことを実感できる。
初めのうちはカロリー計算もやっていたが、1ヶ月もするとそれも必要なくなる。
1ヶ月もやってりゃ、大体どんなものをどれだけ食べれば体重に跳ね返るか予想がつくようになるからだ。
巷にはライザップのような短期間の過度な食事制限を行うことを基本方針としたダイエットや、
糖質制限など特定の食事を摂らないことを推奨するダイエットが流行っているが、俺には全く理解できない。
なんでダイエットごときでそんな無理をしたり我慢したりしなきゃいけないのだ?
そもそも短期間の過度な食事制限は、強靭な意志の持ち主であれば3ヶ月程度は持つかもしれんが、必ずその後にリバウンドが待っている。
また、特定の食事を摂らないことはどう考えても栄養面でリスキーだ。
俺はダイエット期間中でも呑みの誘いは一切断らなかったし、好きなものを好きなだけ飲み食いしていた。
もちろん、暴飲暴食後は必ず体重に跳ね返るので、翌日無理のない範囲で帳尻合わせをしていた。
この「無理のない範囲で」というのがとにかく重要。ここで過度な食事制限を行えばストレスが溜まり絶対に破綻する。
昼飯時そば屋でセットを頼んでいたのを単品にする、晩酌時にツマミを少し減らす、程度で十分。
「3ヶ月で20kg減らす!」ではなく「1ヶ月に1.5kgぐらい減らせればいいなぁ〜」ぐらいの心持ちで行こう。
初めの2,3ヶ月は1ヶ月に0.5kg〜1kg程度の微減程度だった。
しかし、会社の先輩に誘われて週一でフットサルを始めてからは1ヶ月に1.5kg〜2kg程度、多い時は3kg程度減らすことができた。
運動をすることの効果はおそらく2つある。一つは新陳代謝が良くなること、もう一つはストレス発散になるので食事量が自然に減ること、だと思う。
正直言って、フットサルをしなくても2,3年間基本方針①と②を継続すればダイエットには成功していただろう。
しかし、部活も何もしてこなかった俺にとって単純にフットサルは楽しかった。
知らない人でも和気藹々と楽しくボールを追いかけたり、仲良くなった人と一緒に呑みに行ったり…
無理なく1年で目標体重を達成できたのは、明らかにフットサルの影響が大きかったと思う。
ズボラな自分が、コツコツ何かを行って結果を出す喜びを知ることができたのは本当に良かった。
言い古された扱いになるがクラシック音楽と日本の伝統文化は共通点が多い
まず、落語は古典のボリュームの多さである。時そばやじゅげむのようなレパートリは
得てしてクラシックで言えばバッハやモーツァルトといっても過言ではない。
落語は噺家の解釈によって話の結末やちょっとした表現がかわるがクラシック音楽によ
っても再現性を大事にする研究や、古楽器を用いて当時の音や編成を再現するピリオド
奏法。
または逆転の発想として「もし今現在作曲家が生けていればこう作曲しただろう」という
解釈のもとに再現性よりも表現性重視のネオピリオド奏法なんてものもある
噺家によって解釈が変わるのはまさに指揮者が変わって表現が変わるクラシック音楽そのも
のといえるであろう。