はてなキーワード: 宇野とは
スゴイやつらは突然変異だよ?
時々知能が高い猿がいるだろ?
そんな感じだよ
ましてや、
言ってはいけないよ?
猿どもわかった?
テレビの人へ。「日本人スゴイ!」じゃなくて、「羽生選手すごい! 宇野選手すごい!」だから。— Shoko Egawa (@amneris84) February 16, 2018
現在、フィギュアスケートの男子シングルは世界ランクワンツーが羽生と宇野、今回五輪に出る田中刑事も15位。女子シングルに至っては、世界ランク15位以内に日本女子が5人も入ってる。これは、メドベデワ、ザキトワを抱えるロシアの5人より多い。フィギュア女子はスター不在とか言われてるけど、正確に言えば、全員強すぎて際立って最強ってのがいないだけ。
つまり、現在フィギュアスケート最強は日本といえるんだが、ペアとアイスダンスは全くパッとしない。ペア世界ランク25位の須藤オデ組は男性が日本国籍じゃないし、五輪に出てる須崎木原組は世界ランク38位。アイスダンス14位の村元リード組の次は53位だ。
フィギュアスケート自体競技人口が多い競技ではないけど、少なくともシングルは地方大会にそれなりの人数が集まり、全日本の枠を争う程度には人口がある。
でもペアは、地方大会じゃもう誰もいない。「ペアでやってる」ってだけで自動的に全日本に出れるレベル。そんで、全日本に出てくるのも3組や5組くらい。
その人数でも世界ランク50位以内には入るんだから、大したものだとは思うけれども。世界的に見れば、シングルよりペアのほうが人気あるからね。
だいぶ乗り遅れてしまったのですが、まあいいかと思いつつ済ませていたら、悶々と思いを抱き続けることになったので、もし同意していただける人がいらっしゃったらと思って書くことにします。
はあちゅうさんの告白や年末に放送された「ガキの使いやあらへんで」の特番の影響もあって、日本においてもポリティカル・コレクトネスについてだいぶ議論されるようになってきました。議論が起こること自体は、自分としてはいいことなんかじゃないかと思っています。
そして、ポリティカル・コレクトネスによって提起されている思想・信条についても基本的に自分は賛同しています。人種・民族によって差別をしないこと、性的差別をしないこと、セクハラ・パワハラやその両方をしないこと、LGBTQの人も同等の権利が認められるようにし、偏見を解消していくこと……私はこうしたことについては賛同しています。
けれど、日本でのポリティカル・コレクトネスの語られ方――こういう言い方だと大雑把過ぎるかもしれませんが――例えば、以下のような記事を見て、すごく違和感を覚えたのです。
http://shiba710.hateblo.jp/entry/2018/01/09/073000
ぜひ読んでもらいたいのですが、簡単に言うと年末に放送された、ダウンタウンさんの年末恒例の番組「ガキの使いやあらへんで」の特番で浜田雅功さんがエディー・マーフィーの顔真似をするために「ブラックフェイス」をしたのが「笑えない」と述べておられます。音楽ジャーナリストの方のブログなので、まあそういうこともあるかなと思っていましたが、先日、朝日新聞の論壇時評の委員を務めていらっしゃるような方もこちらのブログを参考文献として挙げていたので(ちなみに私は朝日新聞批判論者ではありません。肯定派でもありません)、そこまでなのかと思いました。ポリティカル・コレクトネスが日本でこうやって語られてしまうのは、私としては「どうなんだろう」と思ったのです。
先に挙げたブログについては大きく言って二つ、違和感の覚えることがありました。一つ目は「笑えない」と断じていることです。自分は笑えない、その意識を持たないとダメなんじゃないかとおっしゃっているように私は読みました。けれど、ポリティカル・コレクトネスが海外で提唱されることになった背景を考えてみれば、すぐに分かることだと思うのですが、いじめやいじりが「笑えない」のではなくて「笑えてしまう」ということ、その残酷さを考慮しないと、本当の意味でポリティカル・コレクトネスが提唱するものは、そこに根付いていけないのではないかと思うのです。もちろんのことですが、「笑っていい」ということではありません。でも、日本では「笑えない」という啓蒙的なアプローチをすること自体が本当の意味での理解を生まないのではないのでしょうか。
それに関連して二つ目ですが、こうした記事が分断のマッチポンプになっているのではないかということです。ブラックフェイスは様々な視点で見て多くの人に誤解されうる表現です。私はそれが今回、指摘されることになったのはいいことだったと思っていますし、日本の民法のテレビとしては不適切だったと思います。
では、あのシーンが、もしくはあの番組自体が、人種差別的なメッセージがあったかというと、そんなことはないというのも大抵の人は分かっているのではないでしょうか。重ねていいますが、だからブラックフェイスをやっていいということではありません。でも、あのシーンで「笑った」人はそれなりにたくさんの方がいると思うのです(松本さんは後日「浜田が悪い」と言っていましたが、らしいコメントだと思いました)。そして、そういった人々が人種差別の意識を持っているかというと、そういうことではないと思うのです。
けれど、先に挙げたようなブログが掲載されて話題になることで、笑った人と「笑えない人」の分断を生むことになります。私も笑った人間の一人です。ブラックフェイスだから、即座にアレルギー反応のように自分の感情を拒否したわけではありませんでした。罪を犯した側からこうしたテーマについて提起するのは分かる気もするのですが、自分は罪を犯さなかったとわざわざ言う人の言論には正直、違和感を覚えてしまいます。そして、結果として、そういう意見が人種差別の意識がまったくない人に対しても線を引き、分断を増加させていくことになるのではないかと思うのです。
一昨年のアメリカ大統領選挙について海外からの報道を見ていましたが、私はなぜドナルド・トランプ大統領が勝つことになったのか、腑に落ちていませんでした。けれど、今回の一件を見ていて、すごく分かる気がしました。「ガキの使いやあらへんで」の特番のブラックフェイスに笑った私は、いわゆるポリティカル・コレクトネス陣営から見れば、人種差別主義者ということになるのかもしれないと思ったのです。
そして、先ほどのブログの執筆者と別の方が対談されている原稿が掲載されていて、更なる違和感を覚えました。
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/54106
——
柴 テレビの話題では、2017年の大晦日に放送された『絶対に笑ってはいけない アメリカンポリス24時』でのブラックフェイス問題が、年明け早々、世界中の主要メディアで報じられるという事態が起こってますね。
宇野 うーん、あれに関する国内の擁護コメントとかを見てると、ちょっと絶望的な気持ちになってくる(苦笑)。
柴 というと?
宇野 簡単に言うと、あれを擁護するということは、「これからも日本は文化的鎖国をしていこうぜ」って話でしょ?
確かに文化的鎖国をしたところには様々な既得権も存在していて、そこで生活をしてきた人はその構造を変えたくないんだろうけれど、さすがにもう無理なんじゃないかな。
宇野 それもあるし、多くの日本人が誤解しているように思えるのは、ポリティカル・コレクトネスの問題って、別に政治的、社会的な問題だけじゃなくて、逆らうことのできない商業的な要請でもあるんですよ。
好成績を続けている『スター・ウォーズ』の主要キャラクターが女性や黒人の若者なのもそうだし、去年世界で最もヒットしたアメコミ映画が『スパイダーマン』でもヒーローが総結集した『ジャスティス・リーグ』でもなく、単独女性ヒーローの『ワンダーウーマン』だったのもそう。
ポリティカル・コレクトネスに配慮しない作品が、だんだんお客さんから見向きされなくなってきてる。
――
引用ここまでです。
アメリカではもう白人だけのアイドル・グループはありませんし、映画やドラマにおいて人種的多様性を反映させることは前提になっています。それを日本に安易に当てはめようとすること自体が私としては拙速過ぎるのではないかと思うのですが(将来的にはそれを考えないといけない事態もあると思います。そして、『ワンダーウーマン』の議論についても割愛します)、一番違和感を覚えたのは「ちょっと絶望的な気持ちになってくる」という言葉でした。
例えば、日本におけるヘイトスピーチを見た時、確かに私も「絶望的な気持ち」になります。けれど、それを第三者に伝えるときに私は「絶望的な気持ち」という言葉を使いません。いろんな人がいますし、どんな可能性があるかも分かりません。もっと複雑で込み入ったニュアンス、嫌な言葉で言えば、玉虫色の言葉を使うのではないでしょうか。隣人を含めたテーマです。ポリティカル・コレクトネスはそれを変えていく運動でもありますが、本当に自分の問題になった時に「絶望的な気持ちになってくる」といったような“威勢のいい”言葉を使うことはないのではないでしょうか。けれど、「ガキの使いやあらへんで」や『スター・ウォーズ』といった、自分からは飛距離のある場所では、そうした言葉を使ってみせる。それっておべんちゃらのように聞こえてしまいます。
伊藤詩織さん、ひいては司法の問題、LGBTの婚姻についての問題――程度の問題ではないですが、「ガキの使いやあらへんで」よりも私たちが考えなきゃいけない問題はまだまだあります。
「ガキの使いやあらへんで」の特番でのブラックフェイスはやってはいけないことでした。けれど、もっと語りにくいけれど、考え、話し合って、変えなきゃいけない問題があるのだと私は思っています。そこには時間軸も入ってくると思います。明日からすぐに変わることはありません。1年後にかわっている保証はありません。では、いつ変わるのでしょうか? そのために必要なのは威勢のいい言葉ではないと思います。
その1 https://anond.hatelabo.jp/20171222214049
その3 https://anond.hatelabo.jp/20171230165300
非アナルのソフトなやつを放り込んでみる。今年結構お世話になった姫川ゆうな。めっちょかわいいちょうどいいロリ具合。前半のマイクロビキニのとこで抜いた。
この娘も今年かなりハマった。めええええええっちゃかわいい。白肌が美しい。
この作品で顔面ロリなのに身長がだいぶ高いことに気づいた。アナル舐めさせられてるシーンで抜いた。
これで鈴村あいりにハマった。バックでつかれながら切ない顔でカメラを睨むのがいい。
かわいいかわいい。セーラー服の下に紐みたいなV字水着着せられてるのがよかった。
りんの方で抜いてたけど、今年はしおりの方もイケるようになった。りんは今年スカトロ堕ちした。
これは良い。さすがのアナルヤリマンの羽月さんの肛門でも赤く腫れるハードさ。
前貼りしてるからそこにはアナルしかないっていうの最高。あとどう見ても無理のある女子高生コスプレやってて恥ずかしくないのかな?
終盤の連続AFのところで抜いた。
アムカ痕みたいなんが太腿にある?黒タイツで公衆便所fuckがよかった。
100発目のご褒美にありさちゃんの最高のアナルフィスト。途中までしか入ってないけど、ケツが悲鳴をあげている。肛門だるだるでかわいそう。
アナルに挿れたまま連続14発中出し。最後抜いた時にすごい量の精液がケツから噴出。
ガチ露出。全裸コートでコンビニ。遠巻きから撮影。いーみなーいじゃーん。
対面座位でアナル掘られまくった肛門を自分でさすってんのかわいい。
しばらく可愛い娘続きでちんこを甘やかしてきたのでゲテモノをねじ込んでみる。
すげえブスだしすげえ豚だし、いったい誰がこんなゲテモノで抜くんだ?
乳はでかいが汚いし、パイパンだがなんの救いにもならない。
もうちょっと頑張ってくれればアナルローズ女優だったのになあ。
最後の最後までavから足洗えなかったセックスモンスターの全盛期。
今年のヒット。謝罪に来て土下座してるアリスがプライパンの柄の部分をケツに突っ込まれるシーンが最高だった。あと篠田ゆうも。
ロリアナル最高。
アナル綺麗。
篠田ゆうは後背位の姿勢が素晴らしい。
犬でアナル。?。
めっちゃかわいい。アナルきつくて痛そう。もっと痛がればいいのに。
きったねえ豚アナル。
けつまんこ。
いい具合にブスで抜ける。
二人ともタイプなので抜けすぎる。
このぐらいのブスが変態度が増してよろしい。笑顔がないのもすごく良い。
鼻フック人間馬車。屈辱。
顔面はいまいちだがロリパイパンアナルという俺得。アナル酷使しすぎて脱肛しちゃったアナル女優。
フィストされながら白目向いてんの最高。
顔面はC級なのになぜか好き。
最初から肛門めくれてる。正常位で黒人さんにケツ掘られて白目。
有本紗世にしては控えめ。もっと頑張れや。
TOHJIROは素晴らしいな。ジャケ写の「売女」って札貼られてるのがたまらん。
可もなく不可もなく。
かわいいだけ。
薬でもやってんのかって。
アナルタイヤ引きがたまらん。F級アナル女優がきっついことやらされんのを蔑みながら見るのが好き。
引退-復帰-アナル再解禁してから一層アナルが汚くなった肛門おばさん。きったねえなあ。
苦悩の梨?でケツを裂くところがいい。
拘束バックAFなど。ケツのサイズに比べてアナルのサイズがおかしい。
ことしの新作で期待してたんだが、顔面偏差値2のくせに内容もソフトでおもんなかったです。アナルヤリマンって。
豪速球でアナル堕ちしたお姉さん。常に演技過剰なんだよ。
めちゃくちゃに肛門荒らされとおるで。
もっと激しい方がいい。
弱そうな肛門が壊れていく様がたまらん。
随分古くからのアナルローテーションメンバー。藍山みなみがエロすぎる。
ぐるぐるまわされながらひたすらアナル。
美人だと思ってたけど、ババアだな。ケツおばさん。
クセになるロリアナル。
随分昔のヤバめの娘。ハードなのやりすぎて@@裂傷とか聞いた。
泉まりんにトドメさしたやつ。過呼吸起こしてるシーンで抜いた。
長谷川ちひろとか10年以上前だけどいまだに好き。
大量のおもちゃ見せられて、どれ挿れたことある?って聞かれて「全部」って答えるシーンで抜いた。
めっちゃくちゃかわいい。なんであんなにハード路線だったのか、闇が深い。
ゲロイラマ。
マジで騙されて監禁されてマジでめちゃくちゃされるやつ。バッ●ーの会社。
ひとりでアナニー。えっろい。
箸休め。感想なし。
これは名作。宙吊りアナル。
バイブは細いけどみんなにしっかり見られながらケツ責められるのがいい。
これは名作。鳥籠みたいなんに挿れられて吊るされて浣腸されるシーンで抜いた。
これもいいですよー。ましなほうのババアナル。
有本のくせに生温いアナルやってんじゃねえよ。
宇野常寛の「母性のディストピア」が刊行されることを記念して、私が宇野にブロックされた時のことについて書こうと思う。
立命館で「サークルクラッシャー研究」なんてしょうもないことして卒業後サラリーマンやりながらミニコミの編集から身を立てて今や地上波キー局のコメンテーターにまでなったんだから。NHKじゃ時の人として特集まで組まれたよ。誰彼かまわず喧嘩を売って、使えそうなオヤジには取り入って転がすホステススタイルは誰にも真似できるもんじゃない。
で、ブロックされた時の話だけど、メンション飛ばしたり、引用RTしたりしたわけじゃない。
おそらく彼のシンゴジラの批評についてくさしたツイートを宇野がエゴサーチして見つけたんだと思う。
ツイートの内容は「宇野はいつまで大澤真幸や宮台慎司の残飯整理してるんだ」みたいなもの。
ブロックされた時、まず「小せえな」って思った。
普段、テレビのコメンテータとしての発言が炎上すると「耳障りの悪いことには耳をふさぐ愚民どもめ」みたいなこと言ってるくせに批判されるとこれかよと。尊敬してたのに見損なった。
次に「宇野はいつまで大澤真幸や宮台慎司の残飯整理してるんだ」って私の批判は妥当かどうかって自己反省をしてみた。
①戦後の日本をささえた「大きな物語」は失効したから、これからは中間共同体に依って自立して生きていくことが大切だ。
②村上春樹ファンとか高橋留美子ファンとか、母性に依存した惰弱なオタクは死ね。
前者については大澤真幸や宮台慎司90年代前半から言ってきたことで、これをいまだに繰り返しているのは芸がない。後者についてはそもそも誤読だが、百歩譲ってもほっとけよっていう程度でイキるような話でもない。そもそもこうしたマチズモ的な言説そのものが「大きな物語」への郷愁であり、まさに自家撞着に陥っている・・・とか書けば宇野風批評いっちょ上がり。安っぽい。
宇野のサブカル批評は対象を都合よく解釈、編集、捻じ曲げてこの1か2のどちらに接続するだけのものだ。
映画評論家の町山は「評論って串焼きみたいなもので、客観的なディテールや背景の事実などをできるだけ集めて、最後に自分の主観という串で貫く。集めた材料の量や質、それを外さずに貫けるかどうかで味(面白さ)、強さ(説得力と喚起力)が決まる」って言った。
宇野の批評は串ありきで、串に合わせて都合のいい材料を集めているだけだ。
考えれば考えるほどブロックされるようなことを言った覚えはない。
何がいいたいかというといちいち裏垢でツイート読むの面倒だからブロック解除してほしいのと、どうせくだらないんだろうけど「母性のディストピア」読むってこと。
あと教養のない若者は仕方ないと思うけど、あまり宇野の批評とか真に受けないようにな。
以上。
私はアニメの絵コンテが好きです。そこには監督や演出家が考えた「生」の表現があるからだと思います。最近買った絵コンテは、最近でもないですが『君の名は。』のちょっと後に公開された『この世界の片隅に』です。絵コンテは片渕須直監督と監督補の浦谷千恵さんによって描かれています。そこにはあの濃い原作をどうアニメーションに落とし込むかの筆致が出来上がった映画以上に濃く感じ取れます。
原作があるのですから、原作の駒を貼っても良いわけです。少し古い作品になりますがTVアニメ『魁!!クロマティ高校』は意図的にかどうか漫画の切り抜きで絵コンテが構成されていました。基本的にはこちらが例外で、絵コンテは監督や演出家が「表現」としての設計図の役割を持っています。
『この世界の片隅に』の絵コンテは原作漫画の魅力に加え、数年にもわたって監督が広島に通って得た膨大な取材の結果が通りの一本一本、呉の港に列ぶ戦艦一隻一隻まで、絵コンテを読む魅力に溢れています。
『君の名は。』についてはどうでしょう。さすがにパクりや盗作とは言い過ぎと思います。ただ、宇野鋼之介監督は「(新海)監督の中でキチンと変換できていればそれはオリジナル。」と軟らかく書いていますが、キチンと変換するというのは他の作品のカットを持ってきてトレスすることでしょうか、と疑問もわきます。あの三葉の家は箱で書いて「宮水家右手側面・設定参考」で良かったと思うのだが。庵野秀明は引用の名手と思っていますが、新海監督ほどには迂闊ではないように思います。オマージュなら隠そうともしませんし。
さて、この騒ぎの収穫は以下のレビューが読めたことです。
「 君の名は。 - Hold Fast that Which is Good」
http://yokimono.hatenablog.com/entry/2016/09/11/220139
これだけは新海監督に対して声を大にして言いたい!
で、最後にひとこと。
https://anond.hatelabo.jp/20170731152739
「個人的なことは政治的なこと」というフェミニズムの主張において、個人的なこととはpersonalであって、privateのことではないらしい。
原文はたしかに、"The personal is political."となっている。
で、具体的に何が違うわけ?
エマ・ワトソン関連で、クソフェミっぽい宇野ゆうか(id:yuhka-uno)というヤツが主張していたから、めっちゃ気になったんだけどさ。
フェミニズムでは伝統的に、personarlとprivateがどのように区別されてきたの?
本人に直接聞けばいいのかな……。知っている人、おしえてくれ。
「個人的なことは政治的なこと」という言葉のことを仰っているのだと思いますが、元の言葉は「personal」であって「private」ではなかったはずですが…