はてなキーワード: フリーターとは
まずはじめに言うと私はアスペルガーでもないし、発達障害でもない。数回検査をして、違うと診断が出ている。
小さい頃から太っていて、カンが強く、思い込みは激しく、怒りっぽい。友達は少なかった。中学は半分不登校だった。高校はランクが低いところをだましだまし通っていた。ニート、引きこもり、の前座としてはよくある話だ。
20代はずっとフリーターだった。10~15万円の給料をもらって、実家からでないまま遊んだり、勉強もすこしはしただろうか。一年務まればいい方で、数ヶ月でクビになった。クビを宣告される前は私も体調を崩すようになっているので、ショックはあったけれどもう通わなくていいのだと思うとほっとしていた。そして何ヶ月かニートになり、また金がなくなると働き始める。その繰り返しだった。職場では、遅刻とまではいかないが、いつもギリギリに到着していた。同僚との仲も徐々に悪くなっていった。それでも大きく態度に出さなかったのはとてもありがたかった。もしかしたら鈍感すぎて、いじめには気がつかなかっただけかもしれない。
そんな中、20代後半になって唯一長く務まるバイトに出会った。数年続いた。給料もまぁ、仕事の時間を考えればそこそこ貰えた。趣味や、ツイッターでできた友達と遊んだり、楽しかった。それでもこの仕事も突然ダメになった。体を壊したのだ。
原因が分からずに、病院に行った。いくつも病院を回って、どうやらこの症状はメンタルから来ているらしい、とわかった。意味がわからなかった。この仕事でストレスを感じることは他の仕事に比べればほとんどなかった。
仕事は体力仕事なので、体が動かなかったら働けない。けれど仕事は溜まっていて、人が足りなかった。出られないか?と何度も言われた。私も、行ったところで仕事にならないのを認めなくなくて仕事に行った。仕事は終わるはずもない。誰かに肩代わりしてもらうしかなかった。そんなことをズルズルとやって、結局数ヵ月後に退職した。
なおしたかった。働きたいと思っていた。しかし、それが何年も続くとどうだろう、私の中にあった怒り、欲求は薄れて、ただのボンクラが出来上がってしまった。もともとボンクラだったのかもしれないが、それが輪にかけてボンクラだ。
動けないならネットの仕事をすればいいのに、と思ってサイトに登録してもみたが、結局ダメだった。趣味を仕事にしてみたら?ダメだった。
トライアンドエラーを繰り返すうちに、どんどんと自分がダメなものなんだなぁと自覚させられる。自分が自分に期待をして、頑張ってみないか?と思うのももう嫌になってしまった。
それでも不幸なのだろうか、と思ってもそうではない。通院の結果少しずつ動くことはできている。趣味の友人とネット上で楽しく交流させていただいている。両親はいるし、持ち家もパソコンもスマホもある。月に少しおこずかい(30代が!ここは笑うところだ)を頂いている。
大変あまっちょろいと本当の不幸の方にお詫びする。私は、ただ障害を負っただけのクズなのだ。辛いことも、未来のことも何一つ考えない。今が楽しければそれでいいとバイオリンを弾き鳴らすキリギリスなのだ。
…本当は、未来のことを考えないこともない。でもわからない。時折、家族と喋る。これから何をすればいいと思う?どうすれば?そんなことを言われても、何をすればいいかなんて全く考えが浮かばない。本当に、何一つ、わからない。
小説だったらこういうとき、主人公は血のにじむような努力や優秀な頭脳を使って困難を打ち負かしていくんだろう。素晴らしいハッピーエンド。私はどちらもすることができない。私のような人間は物語には登場しない。
夏にバイオリンを弾くキリギリスは、冬には寒さで死んでいく。私の家も決して裕福ではない。両親からは、私たちが働いているうちは援助もできるが、定年になったら無理だ。と言われている。定年まではあと数年だ。きっと私の夏もあと数年なのだろう。願わくば冬の辛さを味わうのは、少しだけがいいと祈らずにいられない。
なんで?新卒一括採用から通年採用に切り替えるって要は今まで一括してやっていた事をバラバラにやるだけの事だから、別にすぐにでも就職しようと思えばできると思うんだけど。
「大学在学中に就職先を決める」から、「卒業してから就職先を決める(その中には長年無職だった人や、一旦他に勤めてやめた人も入る)」に変わるだけだよ。
年齢を問わず新人として受け入れてそこから教育していけばいいんだから。
それとも新入社員を一度に教育しないと駄目だから教育時間が取れず、必ず即戦力採用になるって事?
だとしても最初は簡単な仕事をするバイトで入ってそこから仕事を覚えて正社員になるというルートが当たり前のものとして成り立てば、特に問題はないんじゃないかな?
新人(年齢を問わず)は非正規→その会社に慣れたら(特別な有能でなくとも真面目に働けば)正社員、というのが当たり前になればいい話。
今は(特に大企業に)中途で入ろうとすると非正規しか道が無く、そこからどれだけ経験を積んでも正規には上がれないってのが問題なんじゃない?
新卒採用制度のない海外では若者の失業が多いらしいが、それが本当にそんなに問題なら海外はさぞ地獄絵図だろうと思うがそうはなってない訳でしょ?
海外は若者の失業率が高い、らしいがその若者は中高年になってもずっと失業しているんだろうか?それは聞いた事がないから年を重ねるうちにどこかでちゃんと就職できてるんじゃないの?
なら、海外では若者の失業率が高くとも社会が回るようになっていると思われるだけで、日本もそうなるだけの事じゃないか?
日本の問題は新卒で躓くとその後も這い上がれず、若いニートやフリーターがそのまま中年無職や中年フリーターになってるって点でしょ。
失業が若い時の一時期のもので留まりそれから改善していく社会と、フリーターや派遣になるので見た目の失業率は低く抑えられているがその後も一生懸命働いても正社員にはなれず一人前として認められないまま中年になる社会と。どっちがいいかっていったら前者だと思うんだけど。
(あと、一括採用に限るとしてもそれを大学在学中の学生に限定する必要は全くなくない?年齢制限をせずに募集し、皆さん来年の四月から一気に働いてくださいとすれば、教育の手間暇も別に今と変わらない。大学出立ての若者と同じ条件で、三十代ニートや四十代主婦も採用すればいいだけの話)
昔は色々やって今こうして働いているが、振り返るとやはり学歴が助けてくれているな。
ということが結構ある。
その間はずっとフリーターだ。
バンドを辞めて元の業界でまた働こうかなと思ったのは32歳ごろ。
ここで、新卒2年弱で辞めて、バンドやってた32歳を採用する企業があるのか?
というところだ。ブランク期間およそ8年。しかもその時は売り手市場でもなく、
ここで、学歴が役にたったと思っている。
学歴のおかげでブランクのある私でもそれなりに面接まで行くことができた。
それなりの国立大学理系を卒業していたということが、面接へのきっかけに
なっていたと当時のエージェントも言っていた。
それなりに人生の元のレールに戻ってこれるのだ。
Googleに入れるのはIQが高くて、地頭のいいサラブレッドだ。
有名私立、もしくは国立大学に頑張ってはいることをお勧めする。
言ってみれば「夫婦が考える自分達らしい都市型生活」という縛りのためだけに、経済的な困窮や育児の負担や様々な不自由に耐えている感じですね。
さっきの計算式で言えば、収入が高くても望む生活水準やその維持コストが高すぎて、利潤が常にマイナスになってる感じ。
核家族は、新しい家族のあり方ではなくて、日本で言えば高度成長期〜バブル期だけの徒花かもしれません。。
経済が急速に発展し続けている国家の、しかも都市部の高収入層だけに許される、特異な形式なのかも。
今の日本は古い習慣から抜けられないだけで、「フリーター」という生き方のスタイルと同じように、「核家族」もとっくに破綻してる可能性も。
働くのが嫌だった。
だから大学に行きたかった。だが家にお金は無く高卒で働かなければならなかった。
学生時代にバイトした事が無いし、したくもなかった根性なしなので突然社会に出て働いて…なんて我慢が持つ訳無く正社員だった期間は僅か半年だけ。
後はずーっと契約社員だったりフリーターの繰り返し。しかもここ三年程、半年も仕事を続けられた試しがない。
今は自動車メーカーで期間従業員として働いてる。もう辞めるが。
喪女過ぎて恋愛はおろか結婚なんておとぎ話みたいなもんで自分にはとんと縁が無いと思っている。
言い訳なんだけど小さな頃から何をするにしても不安症状が続いた。
人に話し掛けるのが未だに怖い。報連相が出来なくて皆から呆れられる事がしばしば続く。人に話しかけるより怒られた方が私にはいいのだ。
フリーター時代は休める時に適当休むか予定がある時に休むという感じだったので、特に土日休みとか気にしていなかったが、
就職してからは土日祝日休みになり最高な気分!と思ったのは一瞬だった。
人が多い。どこへ行っても人が多い。
平日はたいして混んでいない定食屋やラーメン屋が嘘のように混んでいるし、公園にも人が多い。
映画なんて満足に見れたもんじゃないし、行きつけの居酒屋も激混みだ。
そんな感じなので土日は家で落ち着くようになってしまったところで嫁が言う。
「というわけで久しぶりに平日休みを思い出そう」
最高だった。
ラーメン屋も。映画館も。公園も。焼き鳥屋も全然混んでいなかった!!
半々なのかな。
宝くじで数億円当たった。
嬉しいぃいいいいいいいいいいいいっっっっっっっっっっ!!!!!!!
私はもともと怠け者で、フリーランスと称してフリーターのような
これから働く気なんてまったくない。
おかしくなりそうになった。ファストファッションではなく、
でも本当に買ったとしたら? それを続けたら?
すぐにお金は無くなるだろう。
というわけで数億円は手付かずにして、
大金を使うという快楽がそこにあるのに我慢しなくちゃいけないという辛さ。
働けばいいのに働く気が出ない。
言ったら大変なことになるだろう。絶対人が変わると思う。
私がこんなに変わったのだから。
私が上手くできる自信は全くない。むしろマイナスにしてしまいそうで
何もしていない。現状、貯金だけ。
アドバイスが欲しいわけではないけど、とにかく誰にも言えないので
吐き出してみた。不幸ではないと思うが、正直幸せではない。
身にしみてわかった。でもああはなりたくない。
しかしクソ忙しい時期を目前に辞めるつもりなんてなかったんです
みんないい人だし迷惑かけたくなかったので最低でも4月中、というかGWまでいるつもりでした
別にいいよねえ、辞めてほしくなかったら準社員にしてくれたはずだもの
まあいいんですそんなことは、全部どうでもいいんです
バイト先の先輩に怒られた。
「ぜんぜん駄目、そんなんじゃ仕事の邪魔だから、いない方がマシ」
ショック死するかと思った。
一ヶ月くらい前にも同じこと言われて、その時は素直に頑張らないと!って思えた。
先輩も憎まれ役というか、厳しい教育してくれているんだな…とか、前向きに受け止められた。
今回はもう無理。
まあ。
どれだけ頑張ったか、なんて無関係だわ。結果を出せない奴が悪い。
出来ない奴って、どこに行っても駄目なので怖い先輩から逃げても何も変わらない。
現にフリーターやってる私は嫌なことから逃げ続けた人生の落第生みたいなもんだ。
ネットでは逃げるのも恥じゃない!みたいな風潮あるよね。
学生じゃないし、自殺するタイプでもない。ただ文句を言うだけなので案外しぶとい。
しぶとい私は翌日、上司に当たる人にバイトを休む旨を伝えた。先輩に会いたくないから。要するに、逃げた。
上司はめちゃくちゃ良い人で話の分かる人だった。
休みを勝ち取った!
いま、ぼんやりと廃人生活を謳歌している、この私は良き両親がいて好き勝手やれる恵まれた側なのだ。
働かずに生きてるとか最高!
急に休みをもらったことに対する、同僚への迷惑や申し訳なさは感じない。
みんなが思っても口に出さないことを先輩は言ってのけたのだから、私がいないことでスムーズに仕事をしているんだろう、たぶん。
悔しいなー
先輩やバイトや世間とか色々から逃げきっても、自分だけは残るんだよね。一番いらないものが最後まで居座ってる!
くそげーかよ、って叩き割りたい。
ッあぁ~~~これ書いたら大人の人にめっちゃ怒られるかもしれない。でももういいや。もういい。もう嫌だ。だから書きます。 口調とかもあまりきれいじゃないかも、ごめんなさい。 私は自分が絶対に正しいとは思わないし自分と違う考え方の人に対してどうこう言うつもりもないのでそこだけご承知願います!
人間って生まれてからたくさんのものを獲得して生きていくものだと思ってる。 たくさん選んでたくさん捨てて積み重ねてきた時間がその人を作る、よく聞く話。そんな中で生まれた瞬間から決まっていてどうしても覆せないものって一つだけある。
親
って言われているもの。誰から生まれるか、どこで生まれるかなんて誰も選べない。
逆に親も子を選べないのもまた事実で、これを皮肉って『ガチャで出てきたはずれが自分だ』みたいなこと言う人もたまに見かける。
そういうわけで『親を好きになれなかった』話について。
その引っ越し、自立とかきれいごと抜かしてるけど親との同居に限界を感じて決行したものだった。 実家がどういうところだったか、少しだけ書くと 2017年夏(当時20歳)の時点で
•自分の部屋がない
•昼間は机が置いてある2.5畳の仕切りのないスペースで生活
•就寝は祖母と一緒の布団
•窓を開けてはいけない
•カーテンも閉め切る
•オーブントースターの温度設定は使い終わったら母親の使う温度に戻さなければならない
などなど。
母親も祖母も私がいうことを聞かないとすぐに怒鳴り散らすのでとにかく怒らせないように生活するのに必死だった。それで今でも大声で人を怒鳴りつける人が苦手。
これでも成人してよくなったほうで小学生頃なんか今思えば地獄度段違い。
母親が19の頃にデキ婚で私が生まれて小学生のころに離婚していて、次の男が一時期実家に住んでいたこともあった。いわゆる『ママの彼氏』。
「これから私たちの生活を支えてくれる人」って紹介されたこと。
誰だったんだろうあいつ。
見た目的にはホストっぽかったけど今となっては素性はよくわからない。 私が8歳当時なら母親はちょうど30手前くらいで離婚もしてまだまだ遊べる年だったんだろうな、と。
最初のほうは仲良くしてたと思う。私の目の前でいちゃついてて、それ見てたら男が母親いじめてるみたいに見えて止めに入ったら怒られてのけ者にされたりした。懐かしいなぁ。 そんな生活も長くは続かず1年経たないうちに仲が悪くなって男は出て行った。
そっから家に男が入ってくることはなかったので本当に父親という存在を知らずに育ってきた。 だから好きになった人や付き合った人に父親みたいな安心感を求めがちなんだって最近になって気づいた。
祖母も同居することになったのはそのあとで働く母親の代わりに家事全般をやってくれた。 それだけでも本当は感謝しなきゃいけないというか、感謝はしてるんだ。それは本当。 働いて私を育ててくれたのは母親で、そのことも理解しているつもり。
祖母は祖母で私が拒食症になって口に入れたもの目の前で全部吐き出してしまった時はブチ切れて木の棒で全身あざだらけになるまで殴ってきたけど書くとさらに長くなるから割愛。(重視すべきは体調不良よりも作ってくれた親への敬意 という考え方)
そういうわけで『産み育てた恩があっても殺す権利はない』というのが持論で、言ってしまえばこの世に生まれた瞬間から、 へその緒を切られたその瞬間から私は母親の体の一部ではない一人の人間になったはずなんだ。 その事実を『感謝』とか『育ててくれた恩』とかとごちゃまぜにして見えないところに押し込むことは私にはできなかった。
そして労働に費やした分子供と親が触れ合う時間が減ることで親子という関係に不具合が生じるのもまた事実だ。
私は本当に親がわからない。
親もしばしば私のことを「わからない」と怒鳴りつける。
今歩み寄れないのは間違いなく幼少期に信頼の基盤がつくられていないからなのにまるで私が親を突き放しているかのような物言いで、 そこに「親不孝者」という便利な言葉を着せてことあるごとに罵られてきた。
母親の中には親子とはかくあるべし、という理想像があって、何もしなくてもそこに収束するのが普通だと思っているようだった。 だから自分は普通で私が異常なんだと言って私を矯正したがった。
生まれて何年たっても私はまるで親の一部かのように扱われていた。 いい学校に入っていい会社に入っていい大人になるための第一歩として幼稚園のころから通信教育の教材をやらされた。 幼稚園の頃病弱で、入院している私のベッドのそばで
「こんなに頭の悪い奴なんか見たことない!」と叫んで帰っていく母親の姿はなぜか今も鮮明に思い出せる。
小学生のころは学校のすぐそばに煙草を買いに行かされて、同級生に見つかって噂されて、勇気出してそれが嫌だと親に伝えたら 「身勝手な奴だ」と怒られ、「親のためにこんなこともできないなんて」と貶されたことがあった。
服は短くても1週間同じものを着せられてた。長いと1〜2ヶ月くらい同じものを着てたと思う。当時皮肉抜きで「その服本当に好きなんだね」って言ってくれた友達のことをたまに思い出す。大人になっても1度着た服を洗おうとするとめちゃくちゃ怒鳴られた。
私はとにかく母親の思い通りにならないと怒られてた。当時はよく泣く子供で泣くとさらに怒られた。 私が大きな声を聴くと自然と涙が出てくるなんてことを親は知らないみたいで、もうそのころからまともに意思疎通をはかろうなんて気持ちすら持てなかった。
中学生になるとひたすら成績を気にしだした。テストの成績はクラス順位5位以内でないと怒られた。「他の人はできるのにお前は何でできないんだ」が常套句だった。
幸いそのころは勉強が楽しかったので学校の成績は良かった。 しかし受験勉強が始まると私は親ではなく私のために勉強しなければならなくなった。過去問は学校のテストよりはるかに難しくて思うように点数が取れなかった。 もう手一杯で親のご機嫌取りのために数字を気にしている暇なんてなかった。数字が下がると怒鳴る頻度は上がって以前みたいに勉強が楽しいと思えなくなった。
結局中学の好成績を生かして公立の高校に推薦で入学した。 ひざ下まであったスカートをひざ丈まで上げたら烈火のごとく怒られた
「そんな恰好をするな!不良め!誰とつるんでいる!」 挙句の果てに「そんなに妊娠がしたいか!」と。 スカートの丈をひざまで上げただけで。 意味がわからなくて怖くてたまらなかった。
親のなかでは
ひざ丈のスカート
=男にもてたい
=恋人ができる
=セックス
=妊娠
という式があるらしい。
一番成績がいいのは1組、悪いのが7組だと信じて疑わなかったので3組になったときも説教された。いくら違うといっても聞く耳は持たなかった。
大学は必ず行け、しかし国立以外許さないと言われた。自分でも裕福じゃないのはわかっているから学費の負担を少しでも減らしたくて志望を国立に絞った。 しかしここでも親の謎理論は炸裂、大学に行ったこともないのに「私大は頭の悪い人間が行くところ。落ちこぼれが金で大卒の資格を買っている。」とご高説を垂れる。 この辺まで来るともう物事の判断がつく年齢になってしまった私には親のめちゃくちゃな説教は気持ち悪くて仕方なかった。 知らないものをぼろくそにこき下ろすのも、進路の悩む私に寄り添うどころか選択肢を狭めて重圧をかけるのも鬱陶しい。
結局興味のある分野に近いコースの国立大に入学して3年が経とうとしている。 実家から離れた大学に通うことも気に入らなかったらしい。 「もっと近くにあるだろうが」
帰りが終電になればまた怒られ、
「美術なんかやって何になるんだ」
といった風な小言も絶えなかった。
掘り返せばきりがないくらいこの手の嫌な思い出は出てくるのでこの辺にしておこう。積もり積もって今の私を形作っている思い出たちだ。
場所もない、理解もない、朝は母親と祖母による自分の悪口で目が覚める。 ストレスばかりが溜まって心も体も限界だった。
2年次の後半はほとんど学校に行けなかった。 家にいると親に対する嫌悪感で頭痛や吐き気が止まらなかったので出来るだけ外にいた。
学校終わりはバイト、予定のない日は大きい本屋をうろついてたまに本を買って近くの喫茶店で読んだ。
もうどうしようもないと思って3年次は休学手続きを取って1年間フリーターみたいに働きながら家を出た。
講評の当日深夜につらくて泣きながら教授に「授業を休ませてください」という旨のメールを送った日からもう1年が経ったらしい。
実家を出ることに関しては強行突破でかまわないくらいの心意気だった。 どのみち自分には帰る場所なんかないのだから居場所を作るしかないと思ってのことだった。
親には一言も伝えずに休学、
お金を貯めて部屋まで決めて、
もう後に引けない状態で家を出ることを伝えた。
自分の判断能力と精神的の限界、苦しみ続けた20年間を鑑みてもうこれが自分に残された最後の、そして最善の手段だと思った。
「自立したくて家出た」なんていうと「行動力があるね」と言われることがあるけれどその実
ただ「実家にいたらいつ精神崩壊するかわからないから生きるために逃げ出してきた」くらいが正しいんだろう。
少なくともこの半年、
「家に帰りたくない」なんて1度も思わなかった。
時間潰すために夜の公園で電池なくなるまでスマホいじることもなかった。
自分だけがいる部屋で誰の目も気にすることなく笑ったり泣いたりできた。
窓を開けて部屋の換気ができた。
たったそれだけの事だ。
私はたったそれだけのことをするのに21年苦しんだ。
春の暖かい風が部屋の中に吹き込んできたとき「生きててよかった」と心から思った。 ようやく自由になれた気がした。
家を出たら出たで大変なことはあるけど、少なくとも今のところは後悔なんかしていないと言い切れる。 誰かが掲げてた『苦労はできるだけ少ないほうがいい』という主張はまったくその通りだと思う。 部屋の窓を開けるのに21年かかるなんてばかばかしくてやってられない。
ただ、21年かけて開けた窓からは確かに未来が見えた気がした。 自分の人生はこの1度きりしかないのだから、自分が幸せになるために生きなければもったいない。
4月から大学に戻る。仕送り0で学びながら働きながら「家賃を払わず整形手術のローンを組む同居人」と共生、というか矯正。それから休んだ1年分の学費を貯めなければならないのでやることは山ほどある。大好きなお絵描きができないかもしれないがそういうフラストレーションは学校の課題へのモチベーションに変えよう。
レールを外れて生きていくっていうのはそれ相応の覚悟が必要で、残念ながら社会はそういう人間には優しくない。
こんな文章垂れ流したら知らない人に「この程度で甘えんな」「自分なんかもっと大変だ」「大学まで行かせてもらってるくせに」って言われそうだけどそれでもいいや。