はてなキーワード: 弁当とは
あまり男性が女性がとは言いたくないのだが、女性作家の描く知的に早熟な少年たちというのは、エルサ・モランテの「アルトゥーロの島」なんかでもそうなんだが、男性が描くときはまた違った魅力を発する。サリンジャーの知的で論理的に自分を追い詰める子供たちとはまた別の硬さがあってよい。新城カズマ「サマー/タイム/トラベラー」の高度に知的でありながら情緒は年相応な少年少女もいい。
さておき、これは近親相姦のお話なのだが、印象に残っている描写は次の通り。主人公たちの仲間に大食漢の男がいて、しばしば生肉を弁当の代わりに食らっている。回りの女子生徒たちも面白がって彼に餌付け(?)していたのだが、ある女子生徒がブルマーを入れていた袋の中に隠していたウサギを、生きたままで彼に与えた。血まみれで凄惨な場面でありながらも、大食漢は実においしそうに平らげていた。
頭が良くてモテる男が主人公なのでいけ好かない。モテること、たくさんセックスすることこそが人生の目的になっているような奴は理解できない。なんか知らないやつにいきなり人の部屋をのぞき込まれ、「お前の人生にはエロスが足りない!」と叫んで出ていかれるような気分がする。しかし、これもまた祖国を追われた人間が、知性と皮肉で現実に適応しようとした姿なのかもしれないのだ。
それと、この本で感謝しているのは、さまざまな政治的な活動に対して感じていた居心地の悪さを、「キッチュ」をはじめとしたさまざまな言葉で言語化してくれたことだ。ポリコレを正しいと信じているのに、そこにあるどうにも解消できない居心地の悪さが気になる人が読むといいんじゃないかな。
あとは頭が良すぎて、多くの人が無視したり忘れていたりしていることが見えてしまい、幸せになれない著者みたいなタイプが読むと幸せになれそう。イワン・カラマーゾフとか御冷ミァハみたいに、頭が良すぎて不幸になるというか、自分の知性をどこか持て余してしまうタイプのキャラクターが好きだ。
死体から作られた怪物がただただかわいそう。容貌が醜悪なだけで化け物として追われ、創造主からも拒絶された彼の孤独を考えるだけで悲しくなる。まったく同じ理由で「オペラ座の怪人」も好きだ。どちらも間違いなく殺人者ではあるのだけれども、容姿を馬鹿にされたことがあるのなら共感せずにはいられないだろう。関係ないけど、オペラ座の怪人がヒロインから振られたことを受け入れられたのって、やっぱり正面から振ってもらったからだよな、と思う。音信不通やフェードアウトされたら怨念はなかなか成仏しない。
それと、これはSF的な感覚かもしれないが、人間離れした(時としてグロテスクな)姿を持つ存在が、非常に知的であるというシチュエーションがとても好きで、その理由から後述の「時間からの影」や「狂気の山脈にて」も愛好している。
架空の神話がショートショート形式で述べられていく。ただそれだけなのにこんなに魅力的なのはなぜだろう。彼の作品は基本的に短く、しょうもないオチの作品も割とあるのだけれども、時に偉大で時に卑小な神々の物語は、壮大な架空の世界に連れて行ってくれるし、すぐ隣に隠れているかもしれない小さな妖精の魔法も見せてくれる。
「あなたの人生の物語」とどっちにするかやっぱり迷った。映画「メッセージ」の原作が入ってるし、増田で盛り上がってるルッキズムがテーマの作品だってある。だが、寡作な人なのでこの2冊しか出していないし、片方が気に入ったらきっともう片方も読みたくなる。
表題作は、意識を持ったロボットのような存在がいる宇宙のお話なのだけれども、そのロボットは自分の脳をのぞき込んでその複雑な仕組みに心を打たれる。そして、世界を観察することで、何万年も経てばこの世界は滅んでしまうことを悟る。人間とは全く似ても似つかないロボットたちだが、やっていることは人間のサイエンス、真理の追求という営みと本質的には同じだ。何かを知ろうとする営為の尊さについて語っている。得られた知恵で、自分たちも世界もいつかは終わってしまうと知ることになろうとも、知識を求める崇高さは変わらないのだ。
学生時代、自分は女性に冷たくされる文学が好きだった。からかわれたりもてあそばされたり馬鹿にされたりする作品のほうが好きだ。そのほうがリアリティがあったから。寝取られ文学が好きなのもそれが理由だし、谷崎潤一郎の作品も同様の理由で好きだ。
自分を馬鹿にしていた少女が突然しおらしくなり、自分に近づいてくる。いったいどうしたことか、と思って期待しながら読んで、絶望に叩き落されるがいい。
「ライ麦畑」でホールデン少年が感動した本。アフリカの植民地で暮らす女性の視点からその生活を書いている。友人のイギリス人が亡くなったとき、まるで故郷をしのぶかのように墓が深い霧に包まれたシーンがとても美しい。
個人的には、当時の基準からすればアフリカの人々に対して丁寧に接しており、評価も概して公平であるように感じた。ところどころ「有色人種特有の」といった表現があったり、アフリカを前近代社会とみなしたり、古い進歩史観は見られるし、植民地の支配者側からの視点は批判的に読まなければならないが、色眼鏡の比較的少ない観点に心を動かされてしまったのは事実だ。
植民地時代のアフリカって、宗主国以外の人もたくさんいたこともわかって面白い。当時は英領東アフリカだが、そこにはスウェーデン人もいればノルウェー人もいる。古くからの貿易相手としてのインド人だっている。独立後、彼らは日本人が満州や朝鮮半島、台湾などから引き揚げたように、撤退したのだろう。植民地について理解するためにもおすすめ。
はまった。十代の頃にとにかくどっぷりとはまった。今でも表紙のエルフ文字を使って誰にも読まれたくないことをメモするレベルではまった。
確かに話の展開は遅い。重厚に過ぎる。設定を語るためのページも多い。しかし、この長大な小説を読むことで、開始数ページで読者をひきつけなければならない現代の小説からは得られない、長い旅をしたという実感を得られるのは確かだ。小説家には良き編集者の助言は必要だが、今のように急ぐ必要のなかった時代もあったことは忘れたくない。
「李陵」や「弟子」や「山月記」じゃなくてなんでこれなのか、という声もするのだけれど、自意識過剰の文学少年の思っていることをすべて言語化してくれているので推さずにはいられなかった。十代の頃の感受性は、何よりもこうしたものを求めていた。親の本棚にこれが積んであったのは幸運だった。
これは「三造もの」と呼ばれる中島敦の私小説的の一つであり、世界の滅亡や文明の無意味さに対する形而上学的な恐れや不安が意識の片隅にある人間なら確実に刺さる内容だ。最後の説教パートもさほどうっとうしくない。なぜなら、きっと文学少年・文学少女たちは、その言葉を無意識のうちに自分に投げかけてきたからだ。
膨大な知識と華麗な文体を背景にして、あらゆる性的な乱行を正当化してしまうのがナボコフの作品の一つの特徴である。語り手ハンバート・ハンバートは十代前半の少女を性の対象とする中年だ。自分の初恋の思い出がどうこうとか述べているが、それだって言い訳だ。
しかし、この作品はただの小児性愛者の物語ではない点が油断ならない。少女ロリータはただ性的に搾取されるだけの存在ではなく、自ら性の冒険に乗り出す。清純で清楚な少女という幻想は、最初からハンバートの夢想の中にしか存在しない。ハンバートにはロリータの内面や考えなど最初から見えていなかったし、見ようともしてこなかった。
ただのスキャンダラスな本ではない。これは一人の身勝手な男性の心理の解剖である。
「ごんぎつね」の作者として知られるが、こんなふざけたタイトルの話も書いている。しかし、これは「自分は常に正しい、正しく道徳的であらねばならない」としてきた子供の挫折を描いた小説であり、この社会が弱者にあらゆる責任を擦り付けている様子を全く卑近な話題から告発した話なのだ。自分がした屁の責任をかぶらされた、いつも屁をこいている少年への同情と軽蔑は、僕らの弱者への姿勢そのものじゃなかろうか。
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遺伝学の発展が少し早かったパラレルワールドの未来を舞台にした愛憎劇であり、変身ヒーローものでもある。ただのSFと違うのは、さまざまな文化が変容を受け、再解釈を受けて受容されることまでもプロットの一部として組み込んでいるところだ。さらには疑似科学や陰謀論と社会の関係も描いている。今、読まれてほしい作家の一人だ。
仁木稔の作品は僕の好み、ストライクど真ん中なんだけど、世界史や文化史、自然科学や物語論の素養がないと(かじるレベルでいい)作者の構想を味わい尽くすのが難しいので、滅茶苦茶売れる作品にはならなそうだというのは認めざるを得ない。現に舞台もラテンアメリカで日本人になじみが薄いし、シリーズの別の作品は中央アジアだ。それでも、伊藤計劃と並んで、社会学なんてつまらないって誤解を解いてくれた大きな恩がある作家だ。早くこのシリーズの最新刊が出ないか、今か今かと待っている。
明治十一年の日本の都市から農村を実際に歩いて見聞した手記である。率直に衛生状態の悪さやはびこる迷信を批判している箇所はあるものの、その率直さが当時の日本がどんなだったか身びいきなしに教えてくれる。現代日本人が近隣の、例えば東南アジア諸国を見聞して不満がる、偽ブランドの横行や衛生状態の悪さ、家畜との同居や騒々しさなどが明治の日本ではごく普通だったってことは知っておいていいと思う。
著者は北海道にも足を延ばした。アイヌ民族について日本人よりも好意的に描いている場面もある。しかし、当時の西欧人の感覚でよくわからないのだが、「粗野な外見だけどとても優しい目をしている」と褒めた民族のことを、別のところでは「将来の可能性を閉ざされ民族である」と書く点だ。もしかして、かつての人々が持っていた、文明と野蛮の間にある壁・差異のイメージは、僕らが直観するよりもはるかに深刻な差別意識を内包した、強固な偏見に根差したものだったのかもしれない。単純な軽蔑どころではない、もっとひどい無理解に基づいた恐ろしい何か。同じように、キリスト教によってこそ日本の悪習は絶えるという発想がどこから来たのか。そういうことを考える意味でもおススメしたい。
とても面白かった。父の暴力を遠因として、あらゆる動物的なものを嫌悪するようになった妹と、ただやり過ごすことで生きてきた姉を軸に描かれた三連作。壊れた夫婦の描写に優れる。
妹は最後には精神を完全に病んで、何も食べられなくなるのだけれども、彼女が持つ植物になりたいという妄念が、本当に精神病の患者さんを観察したんじゃないかってくらい、細部にリアリティがある。
姉はおとなしいのだが、自分はただ忍従し、やり過ごしてきただけで、自分の人生を全く生きていなかったのだと、夫の裏切りによってやっと気づく。夫は夫で、そのおとなしい妻に対して息苦しさを感じている。他の家庭のように、怒鳴り散らしてくれたらどれほど楽か、と嘆くのだ。
韓国ってよく叩かれているけど、日本と同じように家族のしがらみとかとかで苦しむ描写が多いので、意外とわかりやすい気がする。
日雇いのオッサンやら派遣の大学生やパートのおばちゃん達山程見たけど、仕事出来ない奴って共通の特徴あるんだよね。
うちの職場では朝礼後にみんなでラジオ体操するんだけど、仕事出来ない奴はまともにラジオ体操が出来ない。
面倒臭いからテキトーにやってるとかじゃない。本当に"ラジオ体操が出来ない"。
膝を曲げ伸ばした後に急いで腕を振るか、腕を振った後に急いで膝を曲げ伸ばしてる。
腕を上下に伸ばす運動のところなんか「発作かなにか起こして苦しんでる人を表現した創作ダンスか?」ってくらい手と脚がバラバラにバタバタ動いてて、リズム感が一切ない。
それからこれはコロナが流行してから気がついたんだけど、ラジオ体操がまともに出来ない奴ほどマスクも正しく着用できない。鼻を出したり、顎につけたりしてる。
一応本社から言われてたから軽く注意してたけど、仕事が出来ない奴は皆一様に「息苦しいんです!」って逆ギレする。
リモコンが嫌いだ。特にテレビのリモコンが嫌いで、家にはテレビを置いていない。
父は酔うとリモコンを投げてきた。あるいはテーブルに叩きつけて大きな音を出して威圧してきた。これから殴るぞ、という合図である。程なくして怒声が響き、私は父の前に正座させられる。今日は私の番らしい。まずは頰に一発、腹に二発。理由は知らない。土下座して身体を守りながら許しを請う。トップバリューの4L1500円の焼酎を片手に暴れ続ける父の姿はまさしく怪物だった。
翌朝リビングにはボロボロのリモコンが置いてある。破片をセロハンテープで繋ぎ合わせた、テレビ用の黒いリモコンだ。セロハンテープが何重にも重なり、触るとベタベタする。
壁には穴が増え、何やらドアも軋んでいる。しかし母は何事もなかったかのように私と妹、そして父のお弁当を作っている。
それでも、私はリモコンが嫌いだ。
日中はマジでやることないって言っていて、実際オンラインゲームを数ヶ月で2000時間とかプレイしていた
メシはしっかり作ってくれていたけど、俺(一人っ子)はわりと袋麺とか好きなタイプで、父は土日もそこそこ家を空けていたので、そんな感じの適当飯の日も多かった 俺はそれで十分喜び、うまいうまいと食っていた
弁当作ってくれたり、洗濯毎日やったり、その辺はまあ大変そうだと思うし感謝もしてるが、週5の40時間労働(ホワイト!)と比べたってあれの方が大変そうだとは思えん
俺が物心ついてなくてガチの幼児だった頃は大変だっただろうけども、そんなんせいぜい5〜6年だしな
5〜6年大変な仕事をすればあとは働かなくていいっていうんならそれは全然アリだよな
母、パートとかバイトの類は一切やってなかった 内職もしてなかったと思う
あれ見てると、専業主婦って勝ち組じゃねえか?という気がどうしてもしてしまうんだよな
家に縛りつけられるっていうんなら父も割とそうだったしな
つか、旅行ときどき行ってたような気がする 家に父しかいないことはときどきあった
なんつうか、羨ましいんだよな
もはや時代も違うんだろうけど、アレになりてえ
俺も毎朝弁当作って子供を送り出したあとは適当にダラダラゲームとかやりつつ夕方まで過ごし、あとは飯作って終わり!って生活やりてえよ
どうやってもやれる気がしねえ
私は今まで大きな思い違いをしていた。
田舎より、中途半端な都会より、そんなものより文教地区のタワマンが立ち並ぶ街(かといって若者の商業施設が立ち並ぶわけではない街)の方が何倍も、人に対してフラットなものの見方をしているということに気づいた。
いわゆるそこは環境の良い比較的お金持ちの街だった。本当にそこのママたちはフラットだった。
例えば子どもが保育園に行く家も、普通の幼稚園に行く家も、お受験をする家も、インターに行く家も、ほとんどが同じ割合でいたので、あらゆる家が“普通“だった。
0歳から保育園に行くと言っても誰も「可哀想」なんて言わない、幼稚園受験をすると言っても「そんな小さいときから…」なんて言わない、インターにいっていても「じゃあ英語しゃべってw」なんて言わない。
誰かの家に遊びに行く時も「うちはあそこのタワマンだよ、来てね」「うちはその横だよ」「いいなー、うちは賃貸だよー(笑)」そんな感じで誰も「うわ、タワマン?金持ち〜っ」なんて言わない。
旦那さんが医者でも弁護士でも社長も普通のサラリーマンでもどれも全く珍しくない。
お昼ご飯に、コンビニ弁当を食べていようか、2000円のステーキ弁当を持ってこようが誰も気にしない。「わー!お肉美味しそう!それどこの?」「あ、それコンビニの新商品!?セブン?明日それにする!」というような感じだ。
この街に引っ越す前、私は別の地に一軒家で住んでいた。文教地区でもなければ、近くに受験幼稚園もない、昔ながらの土地に最近子育てが世代が多く入るようになったような地域だ。
その時に散々言われた。
家の前を通った顔も知らない人たちに「うわっでかい家!金持ちはいいな!」「はぁ…金持ちが」
子どもを学区外の学校に通わせると「金持ちいいな」「ボンボンw」「うちは普通の家だから、そんなお金ないし」「あそこはお金持ちだから」
そんな事を散々言われた。
引っ越しをして本当に心が穏やかになれた。もう周りから差別されない、どんな家庭環境でもそれを“普通”と受け入れて貰える。それがこんなに尊いこととは。
子育ての話がぼかさなくても出来る、子どもの誕生日プレゼントに何をあげたいか相談出来る、息抜きにホテルランチに行こうと話が出来る、高いから無理!と笑いながら断れる、幼児から習い事をしていても「教室楽しい?いいね!」と子どもに話しかけてもらえる。