はてなキーワード: 利便性とは
物価が上がれば外人様が買いたいものを気軽に買えなくなってしまうだろ。
そして外人様は母国で高い給与を得つつ、安い物価の日本へ遊びに来て高品質な商品を気兼ねなく買い込む。
物価だけじゃない、価格設定が愚かなくらい観光客に優しいのもポイントだ。
例えばコンビニの500mLコーラが150円くらいであることに着目しよう。
一方で1.5Lコーラが300円くらい。
それでも500mLは持ち運びしやすいというメリットがあるから買われるんだよなあ。
日本人もその辺分かってるつもりなんだろうけど、なんでか知らんが小分け商品に大した価格差を付けない。
まぁそのお蔭でちょっと持ち歩く用のペットボトル欲しいって程度の観光客には本当にありがたい。
コンビニ店員はクソなやつが多い。
特に深夜はひどい。いかにクソかは詳細に書く必要はないだろう。
よく、店員の苦情案件をみると、「店員がクソだ」か「クレーマーが悪い」とか、「サービスを求めすぎ」などの意見が見られる。
だが、私は声を大にして言いたい。「コンビニ店員はクソだ」、店員の〇〇さんがクソだって話じゃないことに注意してくれ。
最近はスーパーも24時間営業が多い中で、コンビニの利便性は登場当初より落ちている。もちろん地域差はあるが、私が話したいのは費用対効果の話だ。
コンビニのかものは高い。だから店員にサービスを求めるのは当然だ。
だが、店員のせいだけだはないのかもしれない。コンビニのバイトは社会で搾取される側の人間だからだ。
バイト自体がそういう性格のものであるのかもしれないが、彼らの扱いはあまりにもひどい。
イトーヨーカドーは赤字でもセブンが黒字だからイトーヨーカドーの正社員は食っていける。
もう一度言う、コンビニ店員はクソだ。
医大の点数差別の件である。ここに書きなぐってもうこの件については発言しない。批判者の正義のエサになるのはもうやめだ。
色んな場所で、外科系医師の窮状とそれを解消するための患者側の金銭面・時間面・利便性ひいては生命の犠牲が必要であることを発言してきた。
犠牲という言葉を使ったのは病院の集約を行い、足りない医師をなんとかしようとすれば病院へ着くまでの時間は長くなる。
それは脳梗塞治療など一時間早く病院についていれば助かっていた人が死ぬからだ。時間がかかる=死ぬ確率が高くなるからだ。
だがそれでもそれを「医療崩壊という脅し」「工夫が足りない」「現状維持への言い訳」「差別の容認」と捉える正義漢が後を絶たない。
女性減点の記事の一週間前に出てた「日赤で医師に200時間の残業を容認」という記事はここまで燃えていなかった。
要は医療界をなんとかしたいのではなく、差別というわかりやすい絶対悪を糾弾したいのだろう。
残業三昧の医師は嫌だ、医療崩壊は許さん、金は払っているだろ、工夫しろ。
最後に
医療業界は急性期病院の集約という形で動いている。来年辺りから病院の倒産・診療科閉鎖が相次ぐだろう。だが、最悪よりだいぶマシな選択だ。
正義の批判者様へ。これは正義のための犠牲だ。不便だろうが人が死のうがこれは金も人も不足している中で仕方がないことだと覚悟していただきたい。
この構造はもう10年以上前から続いており、負担を伴う改善策を出すたびに批判が殺到した。君らが喜んで金を出すことに期待はしていない。
残念ながら、この世の中には優秀な医者とそうでない医者がいる。
では、その違いは何なのだろう?
ちなみに出身大学ともあまり関係はないと思っている。東大や京大を出ようとアホな医師はアホであり、カネを積めば入れると言われている私立を出ても優秀な医師は優秀だ。
実は、医師が遭遇する多くの場面において両者にそう大きな違いはない。
診断・治療に対する各種ガイドライン等が(内容の是非はともかくとして)かなり整備されてきており、医療機器の進歩も相まって、大抵の場面においてどんな医者が診察・検査・治療を行っても結果に大きな違いが生じない状況がかなりできあがってきている。
ただ、残念ながらあくまで多くの場面においてであり、すべての場面で違いが出ないわけではない。
むしろ、多くの場面で違いが出ない分、違いが出る場面では如実に優秀さの違いが結果に表れる。
重症患者の管理や急変時の対応、難しい症例における診断能力、年末年始など繁忙期の救急外来の待ち時間などなど、決して頻繁に遭遇するわけではないが避けては通れない状況においては優秀さがその結果にコミットする。
当たり前と言えば当たり前の話だが、うまくいっている時は誰がやってもうまくいくが、うまくいっていないときは優秀なやつがやらないと最終的にうまくいかない。もちろん優秀なやつががんばってもうまくいかないことも多々あるが。
一見したところ合理的な制度に見える複数主治医制がイマイチ広まらないのもここに理由がある。
”あなたの主治医は女性が交代でやりますがいいですか?~東京医大女子減点問題が迫る「患者改革」”
という記事がはてブで大いに叩かれているが、内容の是非は置いておいて、ブクマのコメントを読むと多くのはてなユーザーは複数主治医制に賛成らしい。
だが、実際に自分が患者もしくはその家族になったときに、諸手を挙げて賛成してもらえるかは甚だ疑問だ。
もちろん、診断や治療がうまくいっている時はいい。別に誰が担当しようとほぼ変わりない。
問題はうまくいっていない時だ。
ひどくざっくりした例えで申し訳ないが、ほぼ同じ経験年数の優秀な医師A、普通の医師B、アホな医師Cという3人で患者の主治医をしていて、担当医は研修医で基本的に指示したことしかできない、指導医は外来で忙しくて基本的に入院患者は任せっきりという状況を考えてみる。
担当患者の一人が急変して集中治療室に入室して厳密な管理が必要になったため、当直帯や休日も3人の主治医のうち誰かが交代で病院に常駐して対応することになったとしよう。
優秀なA医師が綿密な治療計画を立てて、B医師・C医師とも積極的にミーティングをして治療方針を共有し、当初は治療がうまく進んでいるように思えたが、やはりこうした状況で急変はつきものであり、当直帯で急激な状態の悪化があった。
そのとき病院にいたのはA医師で、適切な検査と対応によって何とか状態は持ち直し、患者家族は「やっぱりA先生は優秀で頼りになるわ」と胸をなでおろした。
ただ、その後は状態が不安定になり、一進一退を繰り返す状況になった。
今度はC医師が病院に残っている時に急変が起きた。A医師は優秀なので、考えられる限りの状況とその対応法を電子カルテに申し送りとして記載して家に帰ったが、急変の状況はA医師も予想していなかったものだった。
C医師も考えられるだけの検査を行って原因と対応法を探るが一向にわからない。
そうこうしている間に患者の状態はどんどん悪化していき、患者家族にも「大丈夫か?」と不安が募っていく。
C医師は自分だけでは対応できないと考えて指導医に電話するが、指導医も「電話ではよくわからないからとりあえず病院に行くけど、私も集中治療は得意じゃないからちょっと対応できるかわからないけど・・・。A先生に相談してみたら?」と言うのみ。
担当医の研修医が不安そうに「C先生、どうしましょう?A先生呼びますか?」と言ってくる。
患者家族も「この前状態が悪くなったときはA先生がうまくやってくれた。このまま死んじゃったらどうするの!早くA先生を呼んで!」と怖い顔をして言い出す始末。
アホながらも責任感の強いC医師はなおもA医師に電話しようか迷っているが、その間に「このままでは患者さんが死んでしまいます。C先生が呼ばないなら私が呼びます!」といって夜勤の担当看護師がA医師に外線で電話をかけて状況を説明し、A医師がダッシュで来院。
レントゲンと各種データを確認して人工呼吸器の設定を変更し、何とか状態は改善したものの依然予断を許さない状況。
細かい投薬の調整や人工呼吸器の設定の調整が必要なため、A医師は結局その後1週間は泊まり込みで患者の対応に当たることになり、B医師とC医師もシフト表に従って病院に泊まってはいるものの、看護師は「A先生が泊まってるならA先生に相談しよう」と言うことで、シフト表を無視して何かあれば時間関係なくまずはA医師に電話をかけるように。
患者家族も「A先生が対応してくれるなら安心」と言うことで急変時の怖い顔はどこへやら。
その後患者さんはA医師の献身的な治療によって何とか状態を持ち直し、集中治療室を退室して一般病棟へと戻っていきましたとさ、めでたしめでたし。
だいぶデフォルメして書いたが、これと多かれ少なかれ似たようなことは日本全国津々浦々で起こっている。
同じ医療職で看護師ではチームによる交代勤務ができるのに、医師ではなぜできないんだと言われているが、看護師の業務については教育や指導によって個人の技量をある程度均一化できるが、残念ながら、ここで書いたような医師の「優秀さ」は教育や指導で何とかなるものではない。いかに優れた教育をしようと、到達できるレベルには限界がある。
一定の基準は保証されているものの個々人のレベルが大きく異なり、しかも置かれた状況によっては求められるレベルが限りなく高くなるということが、医師の業務と看護師の業務の根本的な違いであり、多くの人が思っているように医師の交代業務が浸透しない理由だと思う。
一定の基準が保証されているのであれば、それで満足すべきだと言うのが理屈ではあるが、人間はそんな単純なものではない。
選択肢がないのであれば納得するしかないが、眼前に別の優れた選択肢があるのであれば、理に適っていなかろうが、それを選びたくなるのが人情というものだろう。
上に書いたような状況で、理屈に従って「A医師を呼んで!」と言わない自信がある方は大手を振って複数主治医制に賛成と言ってもらっていい。
自信がない方は少し考えて欲しい。
A医師が身を粉にして奮闘した結果として得られるのは、自分の優秀さで患者さんを良くしたという大きな達成感と幾ばくかの時間外労働に対する報酬、そして周囲からの高評価のみである。
治療を受けた患者さんや家族の負担は変わらない。今の日本では誰に治療を受けようがかかる医療費は同じである。患者さんが呼び出し手当を払うわけでもない。
A医師のことだから他の担当患者や外来などにも迷惑をかけないようにしっかりやっていただろう。
色々なところで言われているが、現在の医療において「利便性」と「成果」と「医療者の労働環境を含めたコスト」の3者は残念ながらトレードオフの関係にある。
現状ではこのうち「コスト」、しかも「医療者の労働環境というコスト」に負担がのしかかっている状態で何とかバランスが取れている。まぁ、そよ風程度でもう崩れそうであるが。
極論すれば、この「医療者の労働環境というコスト」を最も多く払えるのが若い活きのいい男性医師と言うのが、東京医大の女子減点問題に端を発する一連の問題の原因の大部分を占めている。
この問題を受けて、この「医療者の労働環境というコスト」を減らせば良いという意見が声高に聞こえてくる。全く以てその通りである。このアンフェアな関係を早く何とかして欲しい。
ただ、そのコストの総量が減った場合にどこがそれを補填してくれるのだろう。
AIを含めたテクノロジーの進歩で状況は劇的に変わるかもしれないが、すべての医師を「優秀」というレベルまで持って行くには到底至っておらず、現状は実用面ではまだまだ未来の話としか言いようがない。
とにかく、リソースが限られている以上、夢のような解決法がないことだけは確かである。
医療関係者だけでなく、多くの人が当事者として今後の医療のあるべき形を考えて行って欲しいと思う。
「優秀な医者とそうでない医者の違い」とかいうタイトルのくせに結局この話か、と思われた方におかれてはタイトル詐欺で誠に申し訳ない。
だが、現在のシステムの崩壊によって結果的に患者さん側に「利便性」や「成果」のコストを押しつけるようなことはできればしたくないと多くの医療者が思っていると思う。
その医療者の端くれとして、微力な自分にできるのはこうして増田として自分の考えを書くことくらいなんだよ。
ここまで読んでくれてありがとう。
一番少ない要素に充実度合や幸せ感が合わさる、と提唱している学者や専門家さんはいませんかね?
必須アミノ酸9種類のうち、8つを120単位くらい十分摂っても、のこり1つを60単位しか摂っていないと、結果全部を60単位摂ったときと同じようにしか利用されない。アミノ酸の桶とは、木桶の円周上の板が一箇所でも壊れていると、水位がそこより上にあがらない例えです。
人生も、健康(肉体と精神と)・自由な時間・経済力・資源・社会の利便性・治安や相互信頼・天地などの環境・自分の教養や技能、幸せな考え方と、どれか欠けていると、その最低なもの以上の享受は無理なのではないかと。お金はあるけど自由な時間がないとか、お金は山ほどあるがマトモなものが売られていない、天才で技術もすごいが病気、とか
規制増えたのは、「もっと安くて質の良い医療や保育を提供しろ」と言うそれの利用者の意見を汲んだからでしょ。
保育なんてもろ分かりやすいじゃん。
利用者側のもっと保育園増やせ、(昔なら許されてた躾なんかでも)それは虐待だもっと丁寧にやれ、利用時間も伸ばせもっと利便性良くしろetc…
という要望に応える為にどんどん仕事増えたけど保育料は規制で決められてるから上げる事が出来ず、
人件費足りないので人も増やせず薄給激務で保育士が逃げ出してるのが現状。
その本質は徒弟制度の職業訓練所である。卒業生のほとんどが臨床医となり、いくらかの変わり者が研究者となり、その他民間企業や行政方面に進むものはごくわずかしかいない。卒業後の進路にこれほど偏りのある学部や学科はあるだろうか。その上、彼らの存在そのものが日本の医療という非常に重要なインフラを支えるための貴重な資源であり、したがって大学の使命はおおむね優秀な医師を社会に送り出すこととなる。卒業生の8割が医療系コンサルに進む医学科があったとして、社会はその大学の存在を認めてくれるだろうか?優秀な頭脳を持っていても重大な持病を抱えていたり、虚弱であったりするものばかりの大学の存在を認めてくれるだろうか?40歳で医学部に入る再受験生だらけの大学を認めてくれるだろうか?誰も循環器科や消化器外科に進まない大学を認めてくれるだろうか?結果、大学受験は就職活動、就職試験の役割を担う必要が出てくる。つまり優秀なだけでなく、臨床医として有能であろう人間を選別するシステムが大学には必要であり、それが入試時の面接であったり各種のハードな実習や研修であったりするのだ。その結果、社会を維持するために若い男性が優遇される結果となるのは自明であるように思われる。大体、多浪や再受験生がその年齢に応じて減点されていることはすでに明らかな事実だ。国立、公立大学にあっても露骨にそうなのである。年齢差別、男女差別、疾病差別、地域差別・・・あらゆる差別がそこにはあるのだろう。
無論、日本でのペーパーテストの公平性への信頼感は貴重なものであり、それをないがしろにし揺るがした今回の事件は大きな問題である。だが純粋な公平性を保つためには前述の問題、つまり、実質的に現場を支えることのできる医師が減ることをも許容しなくてはならなくなるだろう。面接をなくせば、性別や年齢の記入欄をなくせば、公平になる。それは正しい。だがその結果、現状で年に数千人しか生まれない医師が実質的に減ってしまうことになるのだ。定員を増やせ?それもいい。それは必要なことだろう。だが無論莫大なコストがかかり、それは医療費の高騰にも繋がりうる。医師の給料を下げろ?そうすればすぐに医師は減るだろう。多くの現場を支える医師は金銭のためというよりも、技術に対する向上心や人々から向けられる尊敬の眼差しのためにその過重労働に耐えているのだ。
今までの医療界は、おそらく他のインフラ業界もそうであろうが、数多の犠牲の上に成り立ってきた。個人の健康や幸福を犠牲にしても医師として過重労働に耐えつつ名誉や金銭、達成感などを追い求める人々と、そんな医師の過程を支える家族と、健康でヘビーな労働に耐えるという能力が欠けていたため医師になれなかった人々の犠牲の上に。だが我々は進歩し、そのような個人が社会のために犠牲となる時代を脱しようとしている。少なくともそう試みようとしている。それはなんの疑いもなく素晴らしいことである。だが、そのためには手放さなければならないものも多くあるに違いない。その一つが現代日本における医療の高度さや利便性であっても、驚いてはならないのだ。
今まで外出する時は、原付二種のスクーターでニケツしていたが、妻の妊娠を期に二人でバスを利用するようになった。
しかし、今までほとんどバスを使ってこなかったからか、不便に感じることが多かった。
まずバスの路線が非常に多く、乗りたい路線の最寄りのバス停がどこにあるのか探すのに一苦労。
アプリもいくつか試したが、乗りたい路線バスのホームページを見ないと分からなかったり、
挙句には、バス停に来たバスの運転手に「このバスは〇〇に止まりますか?」
って確認しないといけない。
さらに、気を抜いていると、降車時に両替するはめになり、背中に冷たい視線を浴びることになる。
もうバスに乗るのがめんどすぎる。
みんなバスをどうやって乗りこなしてるの?
ケーキ屋だのパン屋だのコンビニだので当たり前のようにおいてあるがアレ美味くないよな?
箱に入れないとダメなケーキに比べて袋に突っ込んだだけで持ち運べるという利便性だけで並べられてる欠陥スイーツだろ。
中にドロッとしたクリームが入ってるだけという下品さ。三十年前のクリームが舐めれれば満足という時代ならともかく今時これはないわ。
周りの皮もフワフワとかザクザクとか色々あるけどスポンジやクレープ生地のようなクリームとのマリアージュというのはほとんど感じられない。
スイーツと言ってシュークリームを出されたときのガッカリ感。味は二の次で取り回ししやすいのにしましたって感じで、食に対してそういう感じなんだこの人って思われちゃうよ。
だいたい好きな甘味でシュークリーム上げるやついるか?知名度に比べてびっくりするほどいないから。みんな無意識には気づいてるんだよ。この食い物のいい加減さに。
これだけ色々技術が進歩したのに、恐らく19世紀末くらいから利便性が全く向上していない物がある。
時刻表のことだ。
とにかく、乗り換えが絡んだ時に読みにくいことこの上ない。
必ず到着時刻の後に乗り継ぎの出発時刻があれば分かりやすいのに、前後にあると見落としのリスクが一気に上がるので困る。
乗りたい列車の出発時刻をクリックして乗換駅の到着時間を覚えてそれを元にその駅の時刻表を別に見て…って、本になっている時刻表と大して変わらない。
ちなみに列車の乗り換えごときで、スマホアプリを入れてまでは使いたくない人。
プリインストールされているgoogleのやつは地図という余計なものは出すくせに、普通列車だけで行くという細かいカスタマイズができないのでダメ。
現役の書店員だけど先日バズった六本木TSUTAYAに暴言吐いてる人やその取り巻きがあまりにもアレなので暴言を吐きます。
あのさ、本って一年で何冊出版されるか知ってる?「読書好き」を自称するんなら当然知ってるよなあ。
七万冊だよ。七万冊。
それを365日で割ると1日200冊弱の本が出版されるんだよ。なあ、これ、タイトル出版社著者内容その全てを把握できると思うか?それに加え既刊本もあるんだぜ?社割でいくら本を買おうが一人の人間に把握できる量じゃないんだよ。口頭でタイトルだけ伝えられても、表記もなにもわかんないの。今までお前が口頭でタイトルを伝えただけで書店員が対応してくれてたんだとしたらそれは単に運が良かっただけだ。広い広い出版業界の観察範囲がその担当した書店員と偶然合致しただけ。
頼むから口頭でブワーッとタイトルだけ伝えてこっちが即座に対応できなかったらキレる前に、もう少しタイトルやISBNを紙に書くとか考えてくれないかなあ。
あと残念だけど六本木TSUTAYAのように純粋な書店としての機能以外を持つ書店って今後増えてくと思うぜ。
Amazonの登場で書店は半ば息の根を止められたような物なんだわ。「単に新刊買うだけだったらわざわざ書店に足を運ぶ必要ないなー」って書店員やってる俺も思うもん。「ほしい商品をすぐさま見つけて購入する」という利便性はどう足掻こうがリアル書店はAmazonに勝てそうにない。
利便性では勝てそうにないならどうするか。その他の価値を自ら創出して生き残るしかないじゃないか。
お前やお前の取り巻きが散々「オサレ()」と馬鹿にしまくってるTSUTAYAの店作りも、その生き残り戦略の一つなんだよ。
ひとつ聞くけど、TSUTAYAに足を運んだ客がお洒落な空間を味わいその雰囲気と気分の高揚の中で本を選んでお前らに何か迷惑かけたか?なぜ「意識高い系()」と自分とは異なる消費スタイルの客をそこまで嘲笑しまくる?なぜ自分とは解釈の異なる棚作りをしただけでそこまで発狂する?
お前らが嘲笑している六本木TSUTAYAに足を運んでいるその人達は、競合他社である俺達もほしくてほしくて堪らない、出版業界にお金を落としてくれるご新規様なんだよ。なにをきっかけにしても良い。とにかく「書店に足を運んでくれる人」をどんどん増やしていかないと書店全体の未来はないの。
そんな貴重な新規客を嘲笑するオメーらみたいなスノビズム拗らせた排他的な人間が市場の縮小に拍車かけてんだよ。「書店とはかくあるべし」「読書とはかくあるべし」と勝手に定義して業界を私物化してんじゃねーよ。書店はお前らのための空間でもあるけどお前らのためだけの空間ではないんだわ。「全てのジャンルはマニアが潰す」だとかなんだとか言ってた人いるよな。お前らまさに「業界を潰すマニア」そのものだぞ。
不毛な「暴言」なんて吐いてる暇があるんだったら他の書店に行ってどうかその店を買い支えてやってくれ。お前やその取り巻きはTSUTAYAのターゲット層ではないんだ。なにか本を買うんだったらダーウィンの「進化論」とかお勧めだよ。