はてなキーワード: 伝統とは
けどさ。
いまいろんなチャンネルができていて、「クッキーをフリマで売る」というというのは「そんなやつはうちの仕事の現場には要らない」という意味のまま、フリマや通販でクッキーを売りながらファンを増やした人が、屋号を作って、営業許可とって、年商増やして、税金のこともあるから会社にして…みたいなことが可能になっているんだから、それを「女性非難の典型だ」というふうに扱うべきじゃないと思うんだよ。
同じ排除の意味を残したまま、自由と成功と自己実現の象徴なんだよ? 「クッキーをフリマで」って、すごく良くない?
社会に様々なシーンやチャンネルがあるというのは、女性差別以前の多様性の問題として大きなテーマであり、その実現を進めることこそが、女性差別をなくしていくことなんじゃないかな。
あれに頭に血を登らせるひとこそ、典型のために不自由なままなんじゃないかと思うよ(そういうつらさに心を寄せる気持ちはもちろんあるけれど、だからこそこれを書くよ)。
日本にはながらく「ガレージ文化」が無かった。それがいまやっと、ミンネとかメルカリとかの安定を背景にして、様々なメイカーズの文化として育とうとしています。
メイカーズの…というとき、3Dプリンタの低価格化とかが話題にされてきたけど、それだけの話ではないです。手芸や工芸や食品など様々な分野で、個人起点のコミュニティ的なもの作りの場面が、いまあらためてやっと立ち上がろうとしているんです。
これこそ多様化で、多様性ではないですか? 「クッキーをフリマで」は、本当に男だからとか女だからということについての、是正するべき問題を象徴する話題ですか?
そんな時に「なぜクッキーか?」ということに納得できない人もいるかもしれないけど、それはきっと単に料理の分野にお詳しくないからだと思う。「粉モン」っていうのは、日本でも屋台などでそうであるように、象徴的に場所や装置をもたない、スタートアップの伝統的な手段なので、ここでクッキーが象徴的なイメージを担うこと自体に、おかしさはないです。
また、焼き締めた「粉モン」というのは、食料を美味しく保存可能にするための、基本的な方法です。
あと、元ツイートの前半の書籍の「御恵贈(投)」に文句言っているところについては「ふつうそれだけ言わずにコメントが付くし、そうであってもそうでなくても公共のためになる行為だ」「そのことをトロフィーみたいに感じるご本人自身に問題が」みたいな反論が多数あって(そもそもの話題はこっちだよ)話としては早々に終わってる。
それと、元ツイートの残りの編集論の部分については、おかしなことは言っていないよね。おかしいのは「いまそれを言ってどうするの?」ということだけであって。
そういうわけでさ。
「クッキーをフリマで」というのは、不自由の象徴であったかもしれないけど、いまは違う。
違うようになろうとしてる。それはここで潰したらいけない、すごく貴重で将来につながる話として、音を立てて育ってる。
そうやって意味を反転することができたものって他にどれだけあるだろう? (反転しきっていないからこそ、こういう解説文が要るのだということは分かっていて書くのだけれど。)
「クッキーをフリマで」をもっと大事にしたい。喜びたい。あれはいっときの非難の対象にして消費し尽くして良いようなチンケな言葉じゃない。
追伸)クッキーとビスケットその他の呼び名の違いは習慣的なものであって、製法で呼称を区別することはできません。だからここではクッキーに統一しました。
最近の何の積み重ねもない新人を華々しくデビューさせてどんどん活躍させる流れは
いやお前らはプロデューサーじゃないんで、お前らは公式関係者じゃないから何もできないんで、キャラクターを生かすも殺すも決めるのは全部こっち(運営)なんで、
もう「推しが活躍できないのはPの努力が足りないからだ!」なんて自分や他人を過剰に責めるアイマス独特の異常なきっっもち悪い伝統()アイマスの洗礼()を止めてせっかく付いた新規ファンをドン引きさせて逃がすような真似をするな、自分の立場を思い知れ、お前らはプロデューサーではない、キャラクターの出番を操作できる立場にはない、っていう運営なりのメッセージでもあるんじゃないか?
リアルでも名刺だの営業だのなんだのやってるけどさ、あんま意味ないんだよ、あれ
自分を本物のプロデューサーと思い込んでる精神異常者ごっこはもう止めにしないか?
漫画やアニメで作者の予想に反して大人気が出たキャラがいるとする
そしたら「こいつが人気投票で1位!?そんなに人気なのか、じゃあ出番増やすか」「こいつさっさと殺す予定だったけど延命させるかな」って作者もいれば「いや、人気とか関係ないんで。こいつは中盤で死ぬキャラなのでその通りに死なせます」「こいつが人気とか不本意でムカつくから出番も減らしてやろう」って作者もいるだろう
それと同じだよ
それでも、公式が気まぐれを起こして自分の推しをちょっと厚遇してくれる可能性を勝手に期待せずにはいられなくてこの一票に賭けてみる、ただのいちファンだけどファンとしてできる限りのことをする、アイマスファンも早くその程度の距離感になればいいんだ
りあむ達には感謝している
キンプリSSS2章第4話のあらすじ。
マダガスカル支社に出向を命じられたカケルは、大自然の中で十王院グループの一員として働くメリナに出会います。
都会には全くない雄大な自然を目にしたカケルの「大自然を尊重するというのが良いと思うけど」という何となしの発言に対し、「それは自分達に貧乏でいろということだ。そうやってお前達は搾取を続けるんだろう」と敵意を向けるメリナ。
「世界で一番綺麗な景色が何か知ってるか? 飛行機の上から見る東京の夜景だよ」
「俺だって東京の街で遊び歩きたい」と熱意のこもった眼差しでカケルに語るメリナは、別にふざけたことを言っているわけではありません。あの光はそこにいる人達の生活や仕事があって生まれるもの。たくさんの人がそこに生きている証なんだとカケルに伝えます。
それでも決して彼は「東京に住みたい」とは言いませんでした。ただ「この国を東京みたいにしたい。そのためには今はお前達の力を借りるしかないんだ」と、真剣な目で大きな目標を語ります。
一見すると「発展途上国の幸せを先進国の人間が決めつけてはいけない」ということを訴えているように見えて、
むしろ「発展途上国の人たちだって先進国みたいになりたいのだ」と決めつける構図になっている。
しかも、そのアニメを作っているのは日本という先進国の人間なのだ。
マダガスカルは、かつてはフランスの植民地であり、独立後も先進国の経済支配に晒されてきた。
マダガスカルの伝統的な家屋は先祖の住処である西に戸口を開くものであったが、フランス植民地政府は戸口を幹線道路を向くように命令した。文明観において社会進化論が支配的であった当時の西欧では、「未開」の後進地域に文明を移出する「文明化の使命」があると観念され、文化の一方的な押しつけが何の疑問もなく行われた。
ある韓国企業が全トウモロコシ用耕作地の3分の1に及ぶ土地を99年間租借する契約を政府と結んだことが発覚する。露骨な新植民地主義への反発や、島の土地を「タニンヂャザナ(先祖の土地)」として大切にする価値観と相容れない政策への失望から、2009年3月に暴動に発展した(2009年マダガスカル政治危機)。
外資を受け入れるにしろ、自国文化を守るにしろ、極めてセンシティブな政治的問題であることは明らかである。
マダガスカルから遠く離れた日本人が、アニメにマダガスカル人を登場させて「マダガスカルを東京みたいにしたい」と言わせていいものだろうか?
……今回の件で問われているのはこういうことであろう。
ここの郷土芸能を初めて見た時、すげー!かっこいいなー!と思った。
今住んでいる場所は何百年と続く行事がいくつもあって、町内ごとに色々な郷土芸能がある。
ニュータウンみたいな場所にある実家では、住民一体となった伝統行事はなかった。
だからこの地域は新鮮で神秘的に見えた。みんな一芸を持ってて良いなと思った。
でも田舎の郷土芸能とか行事は、その土地にずーっと住む人しか参加できない。街中の祭りとは全然違う。
観光客を歓迎するのはごく一部かつ表面的なやつだ。
真に地域に根ざした行事は、3世代以上その町内に縁があるか、コミュ強な移住者でなければやんわりとハブられる。
毎年、町内で行事をしてる音は聞こえても参加できない。知らないうちに開催されていて、うちはスルーされている。
人間関係も休日も全て地域に捧げる覚悟ができたら参加できるかもしれない。
この地域の全てが嫌ならハブられも平気なんだけど、文化や郷土芸能は好きなんだ。
ずっとよそ者でいられたら気にしないで済んだのかなー
今日、ギリシア神話として知られる神々と英雄たちの物語の始まりは、およそ紀元前15世紀頃に遡ると考えられている。物語は、その草創期においては、口承形式でうたわれ伝えられてきた。紀元前9世紀または8世紀頃に属すると考えられるホメーロスの二大叙事詩『イーリアス』と『オデュッセイア』は、この口承形式の神話の頂点に位置する傑作とされる。
巨体は星々と頭が摩するほどで、その腕は伸ばせば世界の東西の涯にも達した。腿から上は人間と同じだが、腿から下は巨大な毒蛇がとぐろを巻いた形をしているという。底知れぬ力を持ち、その脚は決して疲れることがない。肩からは百の蛇の頭が生え、火のように輝く目を持ち、炎を吐いた。
半人半蛇だけど「炎を吐く邪悪な蛇」のイメージにはなっているかも。
ラードーン(古希: Λάδων, Lādōn)は、ギリシア神話に登場する、林檎園の黄金の林檎を守っていた、100の頭を持つ茶色いドラゴン。
(中略)
口から炎を吐き、一説では顎の関節が尾にある為、体全体が口のようになっており、百の首を持つといわれている。
と、Wikipediaには書かれているが、ラードーンが火を吐くかどうかは定かでない。
何が出典なんだろ?
『ヨブ記』(ヨブき、ヘブライ語:סֵפֶר אִיּוֹב)は、『旧約聖書』に収められている書物で、ユダヤ教では「諸書」の範疇の三番目に数えられている。ユダヤ教の伝統では同書を執筆したのはモーセであったとされているが、実際の作者は不詳。高等批評に立つ者は、紀元前5世紀から紀元前3世紀ごろにパレスチナで成立した文献と見る。
『ヨブ記』によれば、レヴィアタンはその巨大さゆえ海を泳ぐときには波が逆巻くほどで、口から炎を、鼻から煙を吹く。
(中略)
その姿は、伝統的には巨大な魚やクジラやワニなどの水陸両生の爬虫類で描かれるが、後世には海蛇や(それに近い形での)竜などといった形でも描かれている。
ドラゴンになったのは後世。
プリニウスの著作で唯一現存しているのが、自然と芸術についての百科全書的な37巻の大著『博物誌』である。自然界の歴史を網羅する史上初の刊行物であった。
(中略)
プリニウスの『博物誌』10巻には、サラマンドラは斑点を持つ小さなトカゲで、雨が降ると現れるが晴れると姿を消し、体が冷たく火に遭うと溶けると記録されているが、これはサンショウウオに関する記述と考えられている。
また、『博物誌』11巻にはピュラリスというキプロスの炉の炎の中でしか生きられない動物が登場しており、精霊のサラマンダーはこちらに近い。上記の通り、炎を操る特徴からファイアー・ドレイクと同一視され、ドラゴンとして扱われることもある。
『ベーオウルフ』が成立した時期は、作品内部にも外部の言及としても成立の時期を特定する記述が存在しないため、必ずしも明らかではないが、8世紀から9世紀にかけての間に成ったと考えられている[3]。
第一部でベーオウルフは巨人(ドラゴンとも言われている)グレンデルとその母親と戦い、第二部では炎を吐く竜と死闘をかわす。 なお、インパクトが強くかつ謎の多いグレンデルとその親に関しては言及されることが多いが、炎を吐く竜に関してのものは少ない傾向にある。だが、同時にいわゆる「ドラゴンの約束事」(財宝を蓄え守っている、翼を持って空を飛ぶ、火を吐くなど)をほぼそろえている珍しいドラゴンでもある。
スラヴ民族は文字を持たなかったため、伝えられた神話を民族独自に記録した資料は存在しない。スラヴ神話が存在した事を記す資料として、9世紀から12世紀の間に行われたキリスト教改宗弾圧の際の「キリスト教」の立場から記された断片的な異教信仰を示す内容の記述が残るのみである。スラヴ神話は地方により様々なバリエーションがあったことが近年の研究により明らかになっている。
ズメイ・ゴルイニチ(「山の息子の竜」の意)の場合、3つ首以上、多ければ12の体幹を持つと表現され、火や毒を噴くなど、歴然とした一般の「竜」のイメージで描かれる。
『アングロサクソン年代記』はアングロサクソン史を古英語で綴った年代記の集大成である。編纂は9世紀後半のアルフレッド大王の治世に、恐らくはウェセックスにおいて行われた。
「火の竜」を意味する名前の通り、炎をまとい、口からも炎を吐く。空を飛び、それが現れる時は辺り一面、昼のように照らされる。曇天の空に不思議な光が走る時はファイアー・ドレイクが飛んでいるのだとされた。
隕石という説があるらしい。
『イヴァンまたは獅子の騎士』(イヴァンまたはししのきし、Yvain, le Chevalier au Lion)は、1170年から1181年頃にかけてクレティアン・ド・トロワにより著作された散文騎士道物語であり、アーサー王伝説を主題にした5作品のひとつである。
イヴァンは旅の途中で火を吐く大蛇と獅子が戦っているところに出くわす。イヴァンは問答のすえ獅子に加勢し、大蛇を倒した。これに恩義を感じた獅子は、イヴァンと行動を共にするようになり、イヴァンは獅子を連れた騎士とだけしか名乗らなくなる。
『黄金伝説』(おうごんでんせつ、羅: Legenda aurea または Legenda sanctorum、レゲンダ・アウレア)は、ヤコブス・デ・ウォラギネ(1230頃 – 98)によるキリスト教の聖人伝集。1267年頃に完成した。
その時代、エチオピアの町では一人の魔術師が権力を持っていた。彼は常に恐ろしい二匹のドラゴンを連れていて、自分にはむかう者にけしかけていた。あまり大きなドラゴンではなかったが、口や鼻から火や燃える硫黄を噴出し、人や家を焼きつくしたので誰も魔術師に反抗できなかった。その噂を聞いたマタイは魔術師の元を訪れた。魔術師はマタイにドラゴンをけしかけたが、マタイが十字を切るとドラゴンは地面に倒れて眠り込んでしまう。
同じく「黄金伝説」に書かれている、有名な聖ゲオルギウスが退治したドラゴンは、毒を吐くが火は吐かない。
聖マルタが退治したタラスクは、「燃える糞を撒き散らす」と言われているけど、これ英語版では確認できなくない?
タラスクは、レヴィアタンとボナコンの子供なのだが、ボナコンの特徴である「燃える糞」が、日本語訳されるときに混同されたのでは。
といったところから考えると、5世紀くらいまでは「火を吐くドラゴン」概念は薄かったが、
8〜9世紀頃から伝承として語られはじめて、10〜12世紀頃にはすっかり定着していたという感じだろうか。
なぜ火を吐くようになったのか?
サラマンダーは、火をより大きく燃え上がらせる能力があり、火山の溶岩の中に住んでいるという伝承もある。
ズメイや、ヤコブのドラゴンは、吐く息から硫黄の臭いがするといい、火山を連想させる。
ドラゴンには「地を這うドラゴン」と「空を飛ぶドラゴン」の二種類のイメージがあるが、
蛇や蜥蜴からは空を飛ぶイメージがしづらいことを考えると、隕石からの連想には説得力がある。
そこから火を吐くように変わっていったことを考えると、これも自然な解釈に思われる。
うーん、わかんね。
追記。
「フンババの咆哮は洪水であり、彼の口は火を意味し、吐息はまさに死である」というのは単なる比喩なのでは。
品田悦一「緊急寄稿「令和」から浮かび上がる大伴旅人のメッセージ」https://t.co/pJ5h6OzBpYhttps://t.co/alM7GI002L
すげぇ、品田先生ガチだな pic.twitter.com/CJ3ZW9tZvj— GEISTE (@J_geiste) April 5, 2019
品田 悦一(しなだ よしかず、1959年1月30日[1] - )は日本の日本文学研究者。東京大学総合文化研究科言語情報科学専攻教授。専門は日本古代文学(歌謡・和歌特に『万葉集』の東歌)。
群馬県出身。東京大学大学院人文科学研究科博士課程単位取得退学。聖心女子大学文学部教授などを経て、2004東京大学准教授、2011年10月教授。初の単著『万葉集の発明』では、『万葉集』が近代国民国家の文化装置として「国民歌集」の地位を与えられるようになり、「創られた伝統」として成立していくことになった過程を研究。同著は中国語訳もなされた。斎藤茂吉の万葉集享受の研究でも知られる。
お前こそゲームやってるか?
そうだね、その時点で
これは間違いだってわかるよな?
ここはっきり間違ってる時点でエアプ確定なんだからごねてもむだだぞ
誤魔化そうとすんな
別に娘でも息子でもどっちに発現しても良かったのがたまたま息子、ってゲーム内ではっきり言われとるし
「勇者になれないただの勇者の介添え人」という立場はパパスや主人公すらそうなんだよ
これでなんでビアンカと娘だけがハブられてるって話になるんだ?
勇者ではない花嫁から天空の血統を伝えられてんだぞ?なに言ってんだ?
勇者は女系から生まれたんだからそこを断っちゃうほうが後世怖いから割と全世界がそれを望むよ
わかった?