はてなキーワード: ソーシャルとは
いや実際その通り
https://togetter.com/li/1568160
↑のような実例もある
ソーシャル火付けに失敗しても下手人が高校生ならなんとなくなかったことにされてしまうというのは確実にあるし狙ってやってる節もある
そんな野田に国民最高ー!で(多分)アシストする形になったインディアンスが本戦のネタ以外のMVP。田渕の明るさが素なのが浸透してきて、いつどこで見ても機嫌よく周囲に分け隔てなく接する人の良さが大会を明るくしたと思う。事前PVでハハハと笑った直後に「敗者復活見てろよクソッ」と涙声で建物を出る姿も印象深かった。今回の敗者復活、そしてトップバッターはインディアンスが間違いなく適任だった。
正直この反省会、来年から後回しにしようかなと思ってる。笑い飯や川島、土屋に一人ずつ小藪が振っていく構成なのでディスカッションにはならず広がらない。講評の内容も正直そこまで深くないし。ファイナリストのインタビューも小藪じゃなくてミルクボーイと話してるほうが見たいし、中継のラグもないのに。各組の時間も短すぎて内容薄い。福徳が泣いたり川瀬が死にそうになってた時はめちゃくちゃ面白かったが、今の形式ならもういいや。MVPもなし。
今年はソーシャルディスタンスのためにスタジオなのもあってワイワイ感が少なく、そのぶんガッツリ掘り下げるようなトークが多かったかも。
みんな良かったけど本戦だけでなくその後に漫才の定義いるのかいらんのか問題に巻き込まれてアホの攻撃道具にされた見取り図にお疲れ様の意味でMVPをあげたい。全組漫才ですといち早く宣言したのカッコよかった。
M-1が「4分の中にできるだけ多くのボケを詰め込み終盤に伏線回収とかして盛り上げる漫才」だけを漫才だと定義するような大会だったらここまで人気は出てない。邪道と呼ばれるものを堂々と評価してきたからこそM-1は面白いのだ。そんな妖怪大戦争だった今回のメンツで冷静に戦略を練り淡々とコマを進めたマヂラブが最終的に披露したネタが床を転がり回るっていうカオスなのが最高すぎた。今年は野田脚本による壮大なミュージカルに知らぬ間に全員が巻き込まれてたんだろうな。運命を味方につけるってのは実はこういうことなのかもしれない。本当に凄いものを見せてもらった。
MVPとか偉そうでごめんね。マヂラブおめでとう!
人気が殆どない駅の奥で電車待ってたら男が一直線に隣に来たよ。屋内だったよ。
そのまま電車乗ったよ。自分は電車最後尾の壁に寄りかかった。そいつそのまま俺の前に立ったよ。ほんっとに気持ち悪かったよ。デブ専のホモとか今時はやんねぇよ
ニュースで感染者数がヤバいって煽ってるけど、首都圏の電車見た?パンッパン。コロナ禍以前の状態だったよ。
何がソーシャルディスタンスだよ。列で間隔取ってもそこまで行くのにすし詰めの電車乗っとるわ
黒いマスクの殆どはウィルス飛沫を防がないのってみんな知ってるのかな?
このマスクならファッションに影響がじゃねぇよそのマスクでこっち来んな
俺はただ風邪ひきたくねぇんだよ
というのは冗談で、コロナのおかげで学校行かなくなって良かったと思ってるいじめられっ子のみんな。
良かったね。
無意味な学校行事やクソみたいな学校の規則に頭を悩ます事もなくなったよ。
何ら興味の無い科目の授業中にモニター越しにゲームしたり薄い本読んでてもバレなくなったよ。
逆に興味のある事を好きなだけ学べるようになったよ。ゲームを作ったり、プログラミングをしてみたり。
普段お世話になってるママンのためにお料理の勉強だっていいんじゃないかな。
近現代史を一切教えようとしないクソみたいな世界史の授業よりはるかに有意義だよ。
ソーシャルディスタンスのおかげで声のデカいスクールカースト上位ゴリラにドッヂボール中剛速球を顔面に喰らう事もなくなったよ。
政府がうんこなのは置いといて(置いとけないけど)国民の危機感が無くなってることのほうが問題な気がする。
さっき鬼滅の刃を見に巨大商業施設に行ってきたけどもう激混みでコロナなんてみんな忘れてるし外出自粛しようとしてる人もほとんどいないのではないか、自分を含め。子供は走り回ってるしフードコートも満席だし(昼飯食べようと思ったのに諦めて帰ってきた)。4月には外出しないようにしていた人ばかりだったけどもはや完全に日常に戻っている。ソーシャルディスタンスを守って並んでる人もほとんどいなくなってたし、こりゃもう政府の対応云々を抜きにしても感染は止まらないだろうなとなんかもう諦めてるよ。Gotoトラベルをストップしてももう普通に旅行行くでしょみんな。そのくらい緩んでる。
けれど一方で医療体制はこれまでにないほど逼迫しているみたいでもう駄目だこりゃって感じなんだけどみんなコロナ怖くないのかな。軽症でも症状としては相当苦しいと第一波の時に報じられてたし高齢者ならなおさらよ。だからもう両親には会えないしで、状況は何も変わっていないどころか緊急事態宣言下のころよりもむしろ悪化してるのになぜこれほどみんな緩んでるのか不思議でならない。
と、そこそこ高めのアソートを配りながら、ただただ平謝りの人がいた。どうやら少し前にコロナにかかって、職場復帰初日なのだという。
東京の感染者はすでに1日500,600人のレベルになり、いくら「ソーシャルディスタンス」、「3密」、「マスク着用」などと心がけても、経済活動が続く限りは誰でも、いつでも罹っておかしくない時期にきた。
風邪になったって、インフルエンザになったって、誰もそれらにかかったときに責めることなんてしないけれど、今時点のコロナはまだ、そんな病気までにはなってないみたい。かからないに越したことはないけど、かかった人にも優しい世界であってほしい。
新型コロナウイルス(COVID-19)の流行で頻出するようになった言葉。
日本語の生成が追い付いてない。
たとえ訳語がなくても呼びやすい略語があれば良いが、それもない。
例えば「PCR検査」を毎度毎度「ポリメラーゼ連鎖反応検査」とか“polymerase chain reaction test”とか表記したり発話してたら面倒臭いじゃん。
ソーシャルディスタンス、「ソーディス」はなんか語呂が悪いし「SD」では伝わりづらい。
「密です。」が近い使われ方だが「ソーシャルディスタンス」と1対1では置き換えられない。
エッセンシャルワーカーもそう。「エッワー」では語呂悪いし「EW」ではわかんない。
日本語だと「医療従事者、介護や保育の仕事にかかわる人、宅配業者、スーパーの従業員、公共交通機関で働く人、ゴミ収集業者など
市民の生命と財産を守る為、社会を支える必要不可欠な仕事に従事している人達」と長ったらしすぎる。
真っ先にコロナ慣れしてる姿を垂れ流しているテレビがそれをいうかね。
マスクどうした
とくにひどいのは、同一グループ、たとえばお笑いの相方同士だったらそういうの全く無視で座らせる番組が多すぎること。
コンビ同士だからって寝食ともにしてるわけじゃないんだからそれはあかんでしょ。
あんなのみてたら若い人に限らずそこまでは大丈夫なんだなって勘違いして当然。
自分たちの影響力知らないわけないですよね?その上で世間だけ切り離してコロナ慣れを批判的に報道するのはああそうですか以外に感想でなくないですか。
職場近くがよく撮影に使われるのだけど、道路両脇に窓を締め切ったロケバスを山程並べて、そこからぞろぞろ人間が出てくるところを見てると本当に頭のおかしい業界だと思うよ。
伊東園ホテルズのマスク未着用宿泊拒否をめぐる案件について : マスク未着用途中降機乗客の記録
まあ、マスク付着用は宿泊拒否の理由にはならないはずだ、との主張そのものは法的に正しく、正当だ。
しかし、そのように主張する行為は、感染症対策として行政が人々にお願いしていることに反しており、不当だ。
マスク着用がコロナ予防に資するのはもはや全世界の共通認識だ。
現在の政策は「人々の合理的な自助努力をお願いする」ものであり、その期待に反するという意味で不当だ。
不当だけど、お願いでしかないので野放しにせざるを得ない。伊東園ホテルは法的には強引でかなり微妙なことをしたと思うが、
政府のいうことにおとなしく従う日本人の国民性への期待だけで、
自粛だの要請だので、感染症対策っぽいことをやってきたかもしれないが
本来、こういう面倒な輩を法的なルールでコントロールしてこそ感染症対策だ。
めんどくさがらずに、とっとと旅館業法を改正して、感染症予防措置の項目を設けるべきだ。
もちろん合理的な対策を講じれば、開催によるコロナリスクはかなり最小化できるだろう。
なぜならば、この一年、日本でやってきた対策というのは、合理性のひとかけらもないものだった。
ただひたすら恐怖に訴えて活動の自粛をうながすやり方だったからだ。
人々にコロナの恐怖を植え付けて、マスコミを通じて、おびえさせ
燃え盛るような夜の真っ赤な都庁を映し出し、いずれはニューヨークやイタリアと同じ地獄に向かうと国民を煽った。
それによって、何ら法的な強制力ももたない政府が国民に自粛を呼びかけるだけで、
人出を減らすことに成功した。
人々の視点からみれば怯えて自粛することが成功体験ともなった。一方で、飲食業界を奈落の底に突き落とした。
恐怖をあおる戦術はいまも継続中で、医療崩壊の現場と人々への影響がセンセーショナルに報道されている。
コロナに怯える人は、ソーシャルな場に拒否反応を示し、リスクを過大に見積もる一方、
怖がったところで仕事柄、人と接触を回避できず生活が成り立たない人々もいる。
そうすると認知的不協和を引き起こし、受忍せざるを得ないリスクについて過小評価するようになる人が当然現れる。
そこで、怖がる人と怖がらない人にふるい分けられ、必要以上に自粛するグループと、ソーシャルディスタンスを軽視するグループに二極化していったともいえるかもしれない。
後者のタイプは、恐怖に耐性ができたこともあり、恐怖作戦は絶対に効かない。行動を変えようがない。
にもかかわらず、政府と報道機関はさらに恐怖をあおることでなんとか変心させようとしているようだ。
その煽りの余波は、むしろ自粛を続ける人たちをさらに刺激し、ビビらせる一方で、
疲れて認知的不協和に耐えきれなくなった人から次々とリスクを過小評価するようになり、ますます恐怖作戦が効きにくくなる悪循環に陥っている。
他方、運よく自粛環境に恵まれた人は、報道がますます怖いことを言ってくるようになってきたという印象でしかない。
この一年ですっかりコロナ恐怖に煽られた俺からみれば、バッハ会長は鬼である。
「バッハよ、お前の目には、自宅療養を強いられた末、突然亡くなった家族の姿が目に浮かばんのか!」みたいに
なにもかもが論理的なつながりがなくても、恐ろしいものを煽るものとして合成されてしまう。
いまさら合理的な対策などを説得されても、恐怖から自粛した体験しか持たない俺にとっては、
何を聞かされても鬼でしかないのだ。
感染症を科学的に理解し、リスク回避を合理的に考える絶好のチャンスだったのに、
それができなかった。
この一年、十分に科学的素養を蓄え、啓もうされていれば、オリンピックに対するここまでの拒絶意識は生まれなかったような気がする。
オリンピックを開催することがもはや止められないのであれば、
できうる対策をとったうえで開催した場合、どのような結果になるかについて
結果を予測する、というのは、あらゆるリスク管理の最初の第一歩のはずだけど、
緊急事態宣言の延長の可能性を記者から問われ、「仮定の話には答えられない」と答えた首相の発言はそれを象徴している。
何か対策を行うにあたっては、見込まれたリスクをある程度は受容せざるを得ないことは間違いないはずだ。