はてなキーワード: 食文化とは
3話までの話は
第1話 ビデオテープ規格:VHS vs ベータ(おまけで コンパクトカセット vs エルカセット)
と二大巨頭の激突において、猫が敗者側に賭ける(そしてしくじる)という路線だった。
しくじり猫がバーテンダーになり、カクテルに関するデタラメなエピソードを披露し、
更には客にとって必要なこととは真逆の花言葉の嘘を話すしくじりをしましたという構成になって、ちょっと困惑。
煽り文も「少し趣向を変えまして」と書いてあったので、箸休め回かと一旦は納得したのだが・・・
第5話は幕末~開国の時代において、とある料理屋が魚料理だけを続けていくか、新たに肉料理をだすかの選択で猫がしくじるという話。
一見、魚 vs 肉 という二項対立の形にはなっているのだが、作中にも述べられているようにそもそも日本では長い間肉食禁止令が出されていたので、魚が負けるというよりは欧米の肉食文化を取り入れるか否かという変化の問題で、最初の3話とは毛色が大分違う。この話の中で魚は負けたが魚食文化の敗退ではなく、現に我々は肉も魚も食べる文化を今でも持ってる。
このように、4話5話で元ネタであるシュレディンガーの猫の「生きている状態と死んでいる状態が重ね合わさっている状態から、観測によってどちらかの状態に収縮する(そして本作の猫は必ずしくじる)」というコンセプトから外れてしまっている。
おっと、ここで聡明な読者の方々は
「ケッ、どうせ増田みたいな貧乏人は劣悪なチェーン店のハンバーガーしか食べたことがないだろう。
などと己の美食歴を開陳する前にまず私の言い分を聞いてほしい。
ここで私が言いたいのは個々のハンバーガーの質、――パンの焼き加減、肉の質、野菜の鮮度――などではなく、
一言で言ってしまうと、ハンバーガーとは食べる人のことを全く考えていない料理なのだ。
標準的なハンバーガーを味わうためには、パン、ハンバーグ、レタス、トマト…これらを一口で同時に食べる必要がある。
その目的のために我々は顎をただ疲れさせ、味蕾の本来の機能、食事の喜びを全く喪失してしまうのである。
ハンバーガーの形状というただこの一点――それでいてハンバーガーをハンバーガーたらしめるアイデンティティ――において、
ハンバーガーはそれ以前の全ての食文化に唾を吐く……堕落した妖怪となるのであり、
焼き立てのバンズ、国産和牛、無農薬野菜といった小細工は全て情報を摂取する現代人の玩具と成り果てている。
この文章を読んでいる幸運な読者のために、この悪魔から逃れる一つの手段をお伝えしよう。
「サンドイッチを食え。」
以上。
栗田「だってそうでしょう。ラーメンを食べる雰囲気と環境は、ありとあらゆる外食の中でも特別のものがあるわ。
屋台は言うに及ばず、専門店もみんなこぢんまりしていて、人気のある店であるほど混雑していて、とにかく落ち着いて食べるのを楽しむ雰囲気じゃないわ。
それなのに、やはりラーメンってに私たちは日本人は、心を引かれてしまうのよ。それはなぜかしら。」
栗田「ラーメンは日本の食物の歴史の中でも、長くて七十年か八十年しかない新参者だわ。
同じ新参者でも、フランス料理や中華料理が日本人の心を引くのはわかるわ。食文化として両方とも、最高のものだから当然だわ。
でも、中華料理を日本風に変形したようなラーメンが、日本人の心をこんなに引きつけるのはなぜかしら……
私、ラーメン屋でラーメンを食べている人を見るたびに、考えてしまうの。みなに暗い顔をして黙々と食べているわ。
食べる楽しみを享受しているとは思えない。何か罰でも受けているみたい。
そんな思いをしてまで、なぜラーメンに引かれるのか。それは何か、とても暗い情熱に突き動かされているからじゃないかと思うのよ。」
栗田「言わば先祖返りを求め、自分の祖先が流されて来たその大本をたどる情熱。
麺はどこから来たの? スープの味つけの基本はどこから来たの?
麺の上にのせる具はどこから来たの? その一つ一つがすべて異国から来たのは明らかなのに、自分の故郷から来たもののように、日本人に思わせるのはなぜなの?!
そういう難問に対する答えを探したいという情熱が、意識の下に潜んでいて、それが日本人をラーメンに引き寄せる、と考えると、なんだかつじつまが合うような気がするの。」
だからしゃーない
アメリカはカップル文化だけど日本にはそれが無いので独り身は気楽だなどと考えているのであれば君は何も分かっていない。アメリカでも独り身だからと窮屈な思いをすることはない。どれだけ独り身の人間がいると思っているのだ。日本とは一人で行く場所が違うというだけだ。日本にお一人様文化があると考えるのは違う。それは君が東京でしか暮らしたことがないからだ。東京のような大都会はアメリカには基本的には存在しない。ニューヨークが最も近いが他の都市は基本的に日本基準からしたら田舎だ。ニューヨークならお一人様でも気軽に暮らせる。君はどこにでも行ける。他の都市は基本的に田舎なので外食には車が必要だ。そして値段も高い。わざわざ一人で行くのではない。外食とはそもそも友達や恋人や家族と行くものだ。君がアメリカのカップル文化と呼んでいるそれは単純にアメリカの食文化の乏しさを指しているのだ。
①最近政府の一部審議会とかYOUTUBEやWEBで公開されてるのすごいありがたい。資料充実してて助かる。
ポンチ絵は詰め込まれていて読みづらいけれど、いろんな課題が共有できるようにそれなりに苦労してつくってあるのがよくわかる。
何かの課題について、今の議論のベースラインはここ、国の共通認識はここいらへん、というのがはっきりわかるのがいい。
長時間勤務で頑張りアピールとかタバコ部屋とゴルフ場とサウナで決まる人事とか、そういうの減ってきてて助かる
通勤は自分の場合減ると運動量が減るし、通勤が苦にならないように住居決めてるからプラスマイナス両方の効果
③生鮮流通の進展
日本酒とか、醸造系のデリケートなの昔なら絶対口にできなかっただろうな、っていうものが割と簡単に飲めるようになって食文化がとても広がった。
特に甘酒とかどぶろくとか。日本酒の封切りからちょっと置いたあとの味の変化とかデリケートな楽しみができるようになったのは流通が進歩したからだと思う。
煎茶なんかも最近のかなやみどりとかゆたかみどりとかその辺のスーパーで普通に買えるお茶でも昔飲んでいたものとは全く別次元で暮らしが豊かになった。
https://yururito-sengoku.com/sengoku9/bushinikushokuji.html
『腹は減っては戦はできぬ』という言葉があるほど、戦国時代の武士にとって食事は大切なもの!
食事をとらなければ力がでない!
力がでないという事は動けない!
動けないという事は戦に勝てない!
そう、食事は戦に勝つ為のパワー!
食事を怠れば死、あるのみ!
それなのに、なぜか戦国時代の武士達は肉を食べるという事をあまりしていなかった?!
なぜなのか??
戦国時代、肉を食べるという事はどういう事だったのでしょう??
そもそもの話…、
戦国時代より昔から、日本人は仏教の影響で肉食文化にあまり馴染みがなかったようです。
とはいってもまったく肉食文化があったわけではなく、これにいたっては身分の高い人がその傾向にあったようです。
歴代の天皇は『肉食禁止令』なるものを出していたそうで、公家などの貴族なんかはこのお触れを守り肉を食べる事をしなかったそうです。
『肉食禁止令』なんかがあるくらいだから、肉食は普通に行われていたと考えられるわけですが、
ってな感じで魚が副食の定番となっていったそうです。
ちなみに鯉や鯛なんかが高級食材だったらしい。
そんな武士達の食事の常識を変えたのが、キリスト教文化を日本に広めに来た宣教師だといいます。
日本人ってなんで肉食べないの?
肉、美味しいんだよ?
首回りのピラピラした衣装やマント、動物の毛皮なんかの南蛮アイテムは流行に敏感な武士達に多大なる影響を及ぼしました。
食うしかねぇだろ。肉!
戦国時代になると南蛮文化の影響を受け、肉はなんか食べちゃダメという感覚が薄れていったといいます。
動物であれば猪、豚、ウサギ、狸なんかが食べられていたそうで、鳥であれば雉や鶴、小鳥なんかが食べられていたそうです。
基本的に、食べられるものは何でも食べちゃうというスタンスであったそうな。
しかし、意外にも現代では超メジャーな牛肉は食べなかったそうです。
牛は農耕に使う生き物。
食べるもんじゃない。
という常識があったんですって。
ちなみに馬も食べなかったそうです。
牛同様に、
という感じだったそうな。
ちなみに猫や犬、猿なんかのペット系は現代と同じで「食べるもんじゃない!」という感覚がちゃんとあったんだって。良かった…。
豊臣秀吉、虎の肉食べてたらしいよ。
豊臣秀吉は虎の肉を好んで食べていたそうです。
戦国時代で虎といえば『加藤清正の虎退治』が有名ですが、朝鮮出兵では秀吉のご機嫌を取る為、他の武将達もこぞって虎を討ち取ったと言われております。
武将達は討ち取った虎の肉を塩漬けにして日本にいる秀吉の元へ送ったそうですが、あまりの量に秀吉は
もういらない…。
とウンザリしていたそうな。
ちなみに虎の肉は滋養強壮に良いとされていたそうです。
その味やいかに・・・。
雉や鶴、小鳥なんかは食べられていたと言われていますが、実はこれまた意外にも鶏肉を食べていた記録はないらしいです。
鶏は昔から日本に存在する鳥、手軽かつ美味しいのになぜ昔の人は鶏肉を食べなかったのか…??
白く美しい体に映える真っ赤なトサカは『日の出』を連想させ、日本の『旭日信仰』に通じるものがあるからというのと、
毎朝正確な時間に鳴いて日の出を告げるのが、当時の人々には凄く不思議で神秘的に感じていたそうです。
鶏様は神の使いに違いねぇ!
鶏様を食べたら天罰がくだる!
という事ですね。
こんな感じなので、鶏の卵を食べていた記録なんかも見当たらないそうです。
肉が普及しだしたとはいえ、戦国時代の武士の普段の食事はと比べると極めて質素でありました。
しかし、それには…
長期戦になればなるほど兵糧の確保も大変なわけだし…
数日間食事がとれない状況になったとしても大丈夫なように、1日2食で体を慣らしておくのだよ。
このような理由があったと言われているようです。
とは言ってもその1日2食の食事量は凄まじく、1回の食事で2合半のお米を食べていたそうな…。
ちなみに米は米でもそこらの武士は玄米を食べていたんですよぉ。
ちなみにおかずは、魚や大根や芋の煮物、菜物入りの味噌汁なんかがあったそう。
玄米と漬物だけという質素なメニューの時も多かったらしいので、その時の経済状況や食料事情、それぞれの地域で結構格差がありそうですね。
世界各国から様々な食料を輸入してる現代とは事情が違うもんね。
日本国内だけじゃなかなか賄えないし、食糧難とかもあるよねぇ~。
ちなみに、いざ戦が始まると白米のほうが玄米より早く炊けて消化も良いとの理由で足軽たちも白米を食べていたんだとか。
白米に味噌やネギや野菜を混ぜ、雑炊にして食べる事が多かったよ~!
兵糧がん
そば粉に酒やはちみつ、すり胡麻を混ぜて蒸し、それにきな粉をまぶしたもの。
みそ玉
煮干し
干し飯
畜産技術の進んだ現代でさえ、1グラムのたんぱく質を育てるのに13.5グラムの植物性たんぱく質が必要と言われ、家畜が食べた量の9割近くは、何らかの形でロスされ、その割りに育つのが遅く、肉牛になるには3年程掛かります。
文化人学者のマーヴィン・ハリスによれば、食の傾向はすべからく「損失」と「利益」によって決定されるそうです。
人々が牛肉を食べるのは、まだ利益が損失を上回っているからに他なりません。
恐らく、何らかの形で損失が上回った時、現在の牛肉食文化は転換を余儀なくされるでしょう。
ぐぐったら1・2時間の違いらしい
https://www.do-yukai.com/meal/27.html
https://www.gohansaisai.com/fun/entry/detail.html?i=680
鶏なら二十羽殺すところ、肉牛なら一頭殺せばいい。
命を大切にするなら、断然肉牛を食べた方がいい。
大型のエキゾチックアニマル・経済力動物を飼ったり、野生鳥獣を保護するならば、
でも、SNSや映像的な映えを狙って、上記の条件(1〜5)を満たしていないのに、
大型のエキゾチックアニマル・経済動物を飼ったり、大型の野生鳥獣を保護するヤツがYouTubeやTwitter上にいたりなんかするわけですよ
そんでですね、彼・彼女らが言うには『飼えなくなったら食べればいいじゃん』って言うんですよ
まぁ確かに犬猫などの愛玩動物と違って、食べても法的に問題は無いですし、
増田の親世代(60代)なんかだと、子ども時代に家で飼ってたはずのアヒル・鶏がいつの間にか居なくなってた、
そして食卓に上がってたと言うのがギリ発生した世代じゃないかな?って思います
ただね?それ以下の世代は、親が農業・畜産業の従事者でもない限り、命のやり取りとは距離がある世界に生きてきたはずなのですよ
犬食文化がある国のド田舎ですらペットとしていったん飼った犬は食いませんし、食う人は非難されます
で、『飼えなくなったら食えばいい』方向じゃない人らは、何をするかというと、『施設に引き取らせればいいよ』方面に舵を切ります
というか施設のオーナーの提供・サポートを元にやっているビジネスアニマルYouTuberってそれなりいますよね?
犬猫のかわいいSNS映えする時期だけ飼って、年をとって動画映えしなくなったり・視聴者に飽きられたら施設に引き取らせるよ!って
フツーに大炎上する案件だと思うんですけど、エキゾチックアニマル・経済動物だと許されちゃうのでしょうか?
繰り返しますけど、親が農業・畜産業の従事者でもない限り、命のやり取りとは距離がある世界に生きてきたはずなのに、
不快というよりは怖いです
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数ある中からわざわざ増田を選んで『サイコパス怖』とお気持ちを書いてるので、多少は汲み取れない当たり屋(←なお、誰も増田を読めとは頼んでいない)に付き合いましょう
b:Id:hilda_i “そんでですね、彼・彼女らが言うには『飼えなくなったら食べればいいじゃん』って言うんですよ”えぇ……、言うの?
b:Id:choosyf 彼らって複数形だけどサンプル数1だったりして。
b:Id:Arturo_Ui 「大型のペットはどういう環境で飼うべきか(=飼えなくなったらどのように処分すべきか)」と「飼っているペットを食用に供してもよいのか」、2つの論点を切り分けるべきかと存じます。