はてなキーワード: 菜食主義とは
動物保護団体が動物園を虐待と言ったり菜食主義推進団体が肉や魚を食べる人達にデモをおこなったり、日本では某団体がクジラやイルカの捕獲に抗議をしたり・・・
そういう持論を唱えてる人たちは1人の時はどうするのだろうか。例えばタバコ嫌いな人が禁煙の場所で吸っている人、電車内でマナーの悪い人などを見たら注意するのだろうか。
結局人で選ぶだろう。強面なら注意できないし自分より弱そうな人なら注意をする。トラブルに巻き込まれたくないもの。上記の団体の人もそうだろう。
行き過ぎた正義感を突き出すならどんな人にでも平等に言ってほしい。弱い人だけに言ってもこいつなら大丈夫という自己満足で終わってしまうのだから。
http://anond.hatelabo.jp/20160829171356
のブクマページ http://b.hatena.ne.jp/entry/anond.hatelabo.jp/20160829171356 を見たら、
「いくら不自然でも、石原さとみがかわいければいい。米国人受けなんか気にしなくていい」
という声が圧倒的に多かった。
しかし、市場規模で言えば、日本市場は世界のなかで圧倒的に小さい。
http://bylines.news.yahoo.co.jp/sakaiosamu/20160829-00061607/
数字で言うと、世界全体で 383億ドルで、そのうち日本は 18億ドルだ。比率で言うと5%弱だ。
http://www.animeanime.biz/archives/22585
こんな小さな市場で、こんな小さな売上げだけを得ていれば満足だというのは、あまりにも肝っ玉が小さい。怪獣は史上最高のでかさだが、東宝とファンの肝っ玉はミジンコのごとく小さい。ノミのキンタマというべきか。
こんなふうに日本国内における自己満足で、「泉ちゃんはかわいい」「さとみかわいいよさとみ」なんて言っているようでは、先が思いやられる。まともな CG の開発費用も出ない。
まあ、彼らは自己満足しているだけでおしまいなのだろう。世界的規模で 20倍の市場をめざすという発想には馴染めないのだろう。それならそれで仕方ない。
シン・ゴジラは、国内版とは別に、海外版を作るべきだ。そうすれば、外国人俳優を多用することで、多額の興収が海外市場で望めるだろう。
いや、いっそのこと、製作権を丸ごと海外の会社に売り出すべきだ。そうすれば、製作権を 10億円ぐらいで売れて、東宝は濡れ手で粟で大儲けできる。
その一方で、海外の映画会社は、10億円の代金を支払うことで、200億円ぐらいの興収を得ることができる。日本専用の庵野版シン・ゴジラは、海外ではたいして興収を得られないだろうが、内容はそのままにして、外国人俳優と外国版 CG を使った海外版のシン・ゴジラなら、200億円ぐらいの興収を得ることができる。いや、ひょっとしたら、300億円になるかも。
シン・ゴジラの脚本には、それだけの魅力がある。なのに、東宝には、それを生かすだけの資力もないし、配役能力もない。だったら、海外の会社に製作を任せるべきだ。自分で製作ができなければ、海外の会社に製作を任せるべきだ。そして、海外の会社に百億円規模の大儲けをさせた上で、東宝も1割ぐらいのおこぼれをもらえれば、それで満足できるはずだ。(コバンザメ商法)
無能な会社は、無能なりに、製作権を他社に渡すことで、少しは儲けることができる。おこぼれを。
石原さとみ役は、google:image:ナタリー・ポートマン で。興収 200億円なら、高額ギャラも払えるだろ。
【 ブコメ 】
Borom ナタリー・ポートマンにしたら「日系人のカヨコが祖母を不幸にした原爆投下を二度と行わせないために立ち上がる」ってシナリオ破綻するんじゃない?
ナタリー・ポートマンは、菜食主義で、ハーバード卒で、ユダヤ人。「虐殺されてきたユダヤ人の痛みがわかるから、原爆で虐殺されないように努力する」でOK。完璧だよ。
ニューヨーク版作ればいいのでは
何を以って海外版『シン・ゴジラ』なのかよく分かりませんぬ。単にゴジラを海外(ハリウッド?)で作れっていうことならそれはもうレジェンダリーピクチャーズ版がある、けどそういう単純な話?
ハリウッド演出ではないリアルなアメリカ版シン・ゴジラも見てみたい気がするが、日本版とはまったくちがうシナリオになるだろうね / リスク評価によっては、核利用は十分にオプションとしてあり得るかも
海外版は、シン・ゴジラの翻案やリメイクではなくて、現状のまんまです。翻案やリメイクなら、いくらでも勝手にやればいいが、別物となります。また、ヒットする保証もない。庵野版をそのままで、俳優の一部を欧米人にするだけだからこそ、成功が保証される。
なお、米国版だからといって、場所の設定を米国にすることはありない。場所の設定は日本に限られる。なぜなら「核爆弾を落とす」という可能性は、日本だからこそありえた選択肢だからだ。
庵野版では、核の使用について、「そこがニューヨークでも同じことをする、と彼らは言っていた」というセリフがあるが、実際にはありえない。同じことをするわけがない。仮にゴジラがニューヨークに出現したら、ゴジラがニューヨークを出たあとで核を使用するに決まっている。ニューヨークを出て、東京(など)に到着したら、その段階で核の使用を決断するはずだ。それが最も合理的だからだ。(自分たちが死ぬかわりに、他人が死ぬのだから、その方が合理的だ。)
というわけで、ゴジラが米国に出現したら、「核の使用」というオプションがなくなるので、映画全体の緊迫感はなくなる。だから、ゴジラが出現する場所は、「核の使用が可能な地域」つまり「白い人間の住んでいない地域」つまり「黄色い猿の住んでいる地域」に限られる。結局、ゴジラが出現する地域は、日本しかありえないんだよ。ゴジラが米国に出現したら、ゴジラ映画そのものが成立しなくなる。「ゴジラがニューヨークに登場する形でリメイク」なんてことは、絶対にありえないんだ。(少なくとも、シン・ゴジラに関しては。)
※ ついでに言うと、東京に核爆弾を落とすというのも、現実にはありえない。東京を出て、群馬か福島あたりに行ったあとで、核爆弾を落とすに決まっている。東京に核爆弾を落とすなんて、ありえないだろ。
わかっている。だから日本向けの会議場面は大幅にカットして、ゴジラのアクションシーンを増やせばいい。脚本にさらに加筆はしないが、一部は大幅にカットしていい。
いやいや。全部作り直したら、金がかかりすぎる。石原さとみのところと、CG のところだけを変えるだけでいい。あとはそのまま使う。(ただし大幅に短縮する。)
これだったら、撮影のコストはギャラ代プラスアルファぐらいで済むし、CG のコストは必要経費だけとなる。全部作り替えるほどのコストはかからない。
※ CG は現状のままでもいい。しょぼいけど。
なお、「細かすぎて伝わらない」というのは、問題ない。細かいところは伝わらなくてもいい。映画として失敗していなければいい。ちなみに、千と千尋や、もののけ姫は、日本丸出しだったが、世界中で受けた。日本的だとしても、普遍性があるものは、受けるんだよ。
(「国民性ジョーク」というのがあって、「米国人はこうした、日本人はこうした」という話をすると、世界中のどこの国でも爆笑を得る。日本人の愚かな国民性は日本人にしか理解できないということはない。世界的に有名だよ。)
【 参考 】
評判は? とても好評だ。詳しくは下記のトラバ。
猫にヴィーガン食を食わせたTwitter投稿が話題になっているが、菜食主義と言えば昨年、「僕が菜食をやめた理由」という記事がホッテントリ入りしていたことを思い出した。
http://neem.ti-da.net/e7306447.html
内容としては、慢性的な体調不良に悩んでいた菜食主義者が紆余曲折を経て菜食主義をやめ、今度は肉食(糖質制限)に転向したという話。肉食を疎んでいたものが今度は糖質を憎むようになったという感じで、そのジェットコースター並みの思考転換がなかなか読ませる記事で、方向は変わっても結局本質は変わっていないんじゃないか、これはこれで危険なんじゃと話題になった。
今回、そのひとのその後が気になり、久々に当該ブログを訪れた。最近は別ブログを始めたようだ。「僕が菜食をやめた理由」記事へのアクセスが相変わらずとても多いようだが、来訪者に向けこういった記事を書かれている。
どうやら現在は、穀類も肉類も野菜も、特に制限なく食べる暮らしをされているようだ。
ときおり、
「何を食べて良いのかわからない」
「⚪️⚪️についてはどう思いますか?」
といったメールを
情報が溢れすぎてて、様々な「全く違う主張」が
飛び交っているので、混乱するのも分かります。
ほんとに難しいですよね。
いつからこうなったのでしょう?
僕の考えとしては、「質を考える」ことと、
と最近は思うようになりました。
なかなか体調が改善しない」という人は、
とりあえず細かいことは置いといて、
一度頭をリセットして、
「とりあえず食事を楽しく、気楽に食べる」
「過食がとまらない」という人が多いです。
そういう人は、特に。
思っている以上に大きいです。
私自身は食への関心が薄い方であるから、この方の食や健康への情熱には共感できないところは多い。けれど紆余曲折の末この方が至った、「とりあえず食事を楽しく、気楽に食べる」という言葉には妙な説得感を覚えて、なかなか快い気分になったので、この増田を書いた次第である。
あるいは、去年の記事一番伝えたかった事:しあわせごはんとおやつneem やベジタリアンの言い分:しあわせごはんとおやつneem (タイミングとしては、「僕が菜食をやめた理由」を書かれた後に投稿された補足記事)も読んでて面白かったので補足しておく。
ミニマリストのブログを見ると、彼らに子供が居ることは少なくないようだ。
彼らの子供は、親が実践しているミニマリズムというライフスタイルについてどう思ってるのだろう。口ではその時はパパママ大好き、物減って広くて遊べてすっきりしていい、と言ってるかもしれないが、思春期すぎる前の子供なんて、精神的にはパパママにおんぶにだっこのまともな判断能力のない子供だ。
自分がそうだったが、親が特殊なライフスタイルや特殊な教育方針をとっていると、子供に思わぬ不利益が振りかかることが往々にして起こる。
自分の場合、具体的にはゲーム買わない主義で、テレビ置かない主義で、菜食主義だったが、学校でテレビやゲームの話についていけなかったり、牛乳有害説を根拠に給食のとき牛乳を飲まないように言われていたし、そのせいか友達が少なかった。それがコミュ障に発展したのかもしれないし、俺がチビなのはたんぱく質不足が原因なのかもしれない。一方で菜食主義のおかげか病気をしたことはないし、しょうもないテレビに時間を費やさなくてよかったとも思う。プラスマイナスでどっちにころんだかは自分にもわからないが、今では適度に肉を食い、適度にゲームをする普通の家庭のほうがよかったと思っている。
世の中にはミニマリズムに賛同する人もいれば、ありえない、人間じゃない、馬鹿みたい、不便だろ、自己満足だ、といった印象を抱く人もいる。どっちが正しいのかはわからないが、ミニマリストが少数派であることは確かだ。親が少数派。なかなかしんどいことだ。親はそこまで考えて行動しているんだろうか。
どう思う?
うぐぐ、俺の右手には封印された悪魔が、、みたいな考えを持って人に見せつけるやつもさ、
あれは分別ある人間が分別ないから中二病なんだよね?幼稚園児とか小学二年生がかめはめはーとかレイガン!!とかやっても痛々しくはないだろ?
で、卒業するじゃない。いつかは。
ヤンキーも偉ぶりたいのか、もてたいのか、オラオラしたいのか、分からんが、50なってもヤンキーっていないでしょ?卒業したんでしょ?
いや、ずっと地方に留まって土方とかやってると40とかでもヤンキーみたいな人はいるとしてもさ。昔は悪かったぜーって犯罪自慢する馬鹿が。
あれもベクトルが違うだけで、中二病じゃないの?だって大体中学からだろ、ヤンキーって。だから、あれも一種の中二病だと思うんだがなあ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E4%BA%8C%E7%97%85 Wikipediaみるとコーヒーを上手いと思わないのに飲み始めるとかも中二病なんだな。
あー!!WIkiにはもうDQN系、サブカル系、邪気眼系ってあるやん!!ほら、ヤンキーも中二病なんだよ!!
サブカル系に関しては一生中二病の人多いね。コーヒーやら酒やら音楽やら文学やらアニメやらなんでもいいが。
あーあと、ベジタリアンもね。
ベジタリアンの84%がまた肉を口にするようになっていることが判明(米研究) http://karapaia.livedoor.biz/archives/52179817.html
>>最近、動物の権利保護を目的とする団体がアメリカで実施した調査では、ベジタリアンとヴィーガン(完全菜食主義者)を合わせた84パーセントが、最終的には野菜だけの食生活を諦めていることが判明した。その内、53パーセントは半年以内、30パーセントはたった3ヶ月でベジタリアン生活に挫折している。
>>ベジタリアン生活を断念した経験のある人からは、「友人からの理解を得られず、変わり者と思われることに耐えられなかった」。という声が多く聞かれる。調査によれば、63パーセントが「周囲と大きく異なる食事が嫌だった」ことが理由で肉食に戻っている。また「肉の誘惑に勝てなかった」といったこともベジタリアン生活に挫折する大きな要因だ。43パーセントが「”純粋”な食事を続けることが難しかった」ことを挫折の理由に挙げており、特に鶏肉への渇望感が最も強いようである。
>>しかし、先月発表されたアメリカの研究では、かえって糖尿病が悪化する可能性が示唆されている。さらにオーストラリアの研究では、喫煙や飲酒が少ないにもかかわらず、ベジタリアンは一般よりもうつを患うリスクが18パーセント高いことが判明している。またパニック障害や不安障害のリスクも28パーセント高い。
クソワロww
はてブは手斧を持ったモヒカンが背景全無視で「行為」を断罪する論理荒野のパラダイスだが、
手斧を投げつける手法が「個人攻撃」に見えることが多くのドラマを生み出しているとも言える。
平たく言えば「オマエの主義は知らんが、その論理展開の主張は気に入らん」という投擲だ。
「オレの生き方サイコー」なら良いが、それに「他の生き方はダメだ」と続けてクサスのが良くないってのを観て
なんかそれもまた違くね?と思ったのが、この批判を書くに至った理由だ。
自分の主張を補強するつもりで、他の論を持ってくるなんてことは、良くある。
論文は大抵「過去の研究ではこう言ってる」「が、俺は違うと証明した」「が、俺は新たに良い手法を見つけた」みたいなのばっかりだ。
つまり、比較することそのものは、別に批判の対象になるようなことじゃない。
比較が雑だったり、優位を主張する部分に誤りがあるから、批判の対象になるわけだ。
コレは結局のところ「スタートの立ち位置が変だから、組み立てが変」なんじゃなかろうか。
例えば、「菜食主義者」の「菜食主義」そのものは、「手段」だ。
宗教上の理由から「肉食を避ける」菜食主義者と、健康上の理由から「肉食を避ける」菜食主義者とは、
外側から見える行動そのものは変わらなくても、その思想的な背景である「目的」は、大きく異る。
例えばミニマル・アート(Minimal Art)は、視覚芸術におけるミニマリズムだが、これは縛りプレイと呼んで良い。
徹底的に削ぎ落としたその先にも表現はあるはずだという、抽象美術の一つの縛りプレイの形といえる。
これも目的は「アート」の追求であり、色数を減らすのは手段の一つにすぎない。
手塚治虫のブッダで覚えている人も居るだろうが、コーサラ国にスダッタという富豪が居た。
ブッダの説法を聞いて感動し、ハコモノを建ててブッダを誘致しようとした人だ。
ジェータ太子の土地を譲ってもらう条件の「土地を金貨で敷き詰めたら」を素で実行しようとした人だ。
必要最低限のモノだけを残して全ての財を金貨に変えて土地に敷き詰めまだ足りないと実行し続けた奉仕の人だ。
「目的」が明確で、「手段」としてミニマリズムを実践した人、とも言える。
最近はてブを騒がす「ミニマリスト」達には「目的」が見えない。
知り合いのヒンドゥー教徒は、結構ユルイヤツが多い。日本に来てる時なら酒は飲む、とか。
手段である「主義」は、厳格な人間でなければ、そう厳密に守ることでもない。
(もちろん厳格な人が、厳格でない人を批判する事は、ままある)
本人の主義に関してアレコレ言うことは(同じ主義を持つ集団でなければ)、無意味な干渉にしかならないだろう。
ただし、それは「相手もまたそうであろう」という暗黙の了解に基づくから、そう言える。
ヒンドゥー教徒の知人は、仏教徒に仏教の戒律に関して「バカげている」という話はしない。
当然、仏教徒の知人も、ヒンドゥー教徒に対して「その食の制限は意味が無い」という話はしない。
お互いに違う宗教を信じていても、相手のことを尊重しているからだ。
(敬意を持った上で、教義上の疑問点を話す、なんてことはある)
最近はてブを騒がす「ミニマリスト」達には「他者の主義に対する敬意」が見えない。
結局のところ、目的も無く、自覚的に自身の主義を捉えることもないので、想像力が無いのだろう。
そうした場合、「自分もそうだから、相手もそうだろう」と想像してしまっても、無理はない。
というよりも、想像することそのものが出来ないのだろう、と想像できる。
全く知らない宗教団体と事前知識無く出会うことになった時に、何がタブーかなんて想像も付かない。
自分以外に配慮出来ないのは、何も「最近はてブを騒がすミニマリスト達」に限った話では無いと思う。
あれは「症状」みたいなもので、クシャミと同じたぐいの「結果が目に見える形になっただけ」では無いか。
それは「自身の立ち位置に無自覚」で「他人の思想的背景を理解しようとしない」という、結構怖い人達なんではないか。
つまり、インド人のベジタリアンに向かって「夏バテなら肉を食べれば元気が付くじゃない」と無邪気に言える怖さだ。
きっとその個々の無自覚さは、ソコココで小さな軋轢を生み、全体としてその母集団の信頼が失われていく。
最近はてブを騒がす「ミニマリスト」達には「自分の主義に対する思い入れ」が見えない。
自分の正しさを証明するために、他人の主義を引き合いに出すのは、それそのものは別に悪く無い。
他者に敬意を持っていれば、引き合いに出す際にぞんざいに嘲ったりすることは、出来ないだろう。
人間がさ、食べ物に感謝しろとか言ってるのももうなんか違うようにおもうよ。
そりゃしないよりはしたほうがいいのかも知れないけど、やっぱり人間の傲りじゃないの。
人間以外の生き物は自分の食べるもの、摂取する栄養に感謝なんてしてないとおもうね。聞いたことないから知らんけど。
生きるのに必要だから食べて生きてるだけでしょう。食物連鎖のほぼ頂点になってしまったんだからごちゃごちゃ言ってないで楽しく食べればいいじゃないの。粗末にするとか、痛めつけて殺すとかしなければさあ。
その肉が、かつて生きていて、(殺されて)死んで肉になったっていうことを知っている必要があるのは、それを知らないで粗末にあつかって無駄にしてしまう可能性があるからであって、かわいそうにおもうためではないんじゃないかと。無駄にしてしまうのは悪いことだからね。そりゃね。無駄に殺すのは意味がないからね。無駄じゃなけりゃいいんだよ、だって食べなきゃ生きていけないんだから。
もちろん生産者に対する感謝っていうのはあるしあってしかるべきだとおもう。人間どうしのやりとりだから、たとえ対価との交換だとしても、お互いに感謝しあうってのは円滑なやりとりのために有意義だろうし。
そもそも感謝ってコミュニケーションのひとつだとしたらおもにヒトヒト間でのみ成り立つものじゃないの。
動物ともコミュニケートできるよ! って言いたいひともいるだろうけど、人間ってのはコミュニケーションの何割かを言語がしめる生き物なんだし、(表情や仕草やその他もろもろの)非言語の部分も、人間とそれ以外の動物とではもともとの造形が違うから、正しくコミュニケーションとれてるって言えるのかわからんよなあ。人間どうしでさえ怪しいってのに。
なにが言いたいかっていうと、「動物を殺すなんてひどい!」っていう立場の菜食主義に対して、「わたしたちは動物(や植物)に感謝して食べている」と反論する非菜食主義に違和感をおぼえるっていうそんなようなことで。
感謝すれば食べていい、生命を尊重すれば食べていい、っていう言いかたには、(食べるためとはいえ)動物あるいは植物を殺すのはやはり悪いことだという、なんていうか後ろめたさみたいなものが含まれているようにみえる。
何度も言うけど好きに食べたらいいとおもうよお! 粗末にしたり、痛めつけて殺したりしなければいいとおもうけどなあ。
かつてその肉が生きていたのだと理解していることとその肉に感謝していることとは別物だし感謝したからなにになるっていうんだ、必要なぶんにとどめられるように理解しておくことのほうが重要だよ。感謝って言葉がどうも上滑りしてるようにかんじる。
へんに「生命を尊重して食べている」って姿勢をみせるから菜食主義を煽るんじゃないの。
生きるのには食べることが必要なんだよ。ただただそれだけだよ。
よくアニメやゲームの暴力シーンやエロシーンが子供に悪影響をどうこうって話あるよな。
ネットじゃ脊髄反射的にそんなバカな話があるかって反応帰ってくるけど、
そんなことをふと思ったのは、修論発表会も終わって、ちょっと余裕できたからアニメでも観ようと思って、
TUTAYAでふしぎの海のナディアを全巻借りてきてオールで一気見したから。
やっぱこれ名作。
25年も前の作品とは思えない。
OPで真っ青な空を背景に白鳥が画面内に飛び込んでくるシーン、
「あ、美しいってこういうことなんだ」
と子供ながらに思った、あの気持ちが鮮やかに蘇った。
もし小学生のころに、ナディアを観なかったら、今の自分は無いだろうな。
ジャンを見て、そうか、こういう男が物語の主人公になるんだ、と思ってから、電子工作にハマって今に至る。
一方、俺の隣で毎週一緒にナディアを観ていた妹は、ナディアみたいな女になりたいと思ったのか、
自分は卑弥呼の生まれ変わりなのだと思い込んだらしくて、家中に謎の呪符を貼り付けていたが、
気がついたら不登校児になっていた。
最近はマイルドヤンキーだかなんだか知らないが、そういう文化圏で男にサファイアを貢がせている。
これはこれで立派なもんだ。
俺達は極端な例かもしれないけど、やっぱり子供の頃に観たアニメって子供のその後の人生に多大な影響を与えると思う。
でもそれは、ただの暴力描写とか、残酷描写とか、そういうんじゃなくてさ。
ようは、感動、なんだよな。
自分に感動を呼び起こしてくれた何か、が子供に影響を与えるんだ。
ごく平凡な子供は滅多なことじゃ感動しないだろ。
「感動」を取り締まればいいと思うよ。
ということが出ていた。とても悲しくなったのと同時に怒りを覚えた。
クジラは減っている種もあるが逆に増えている種もある。
だ、この理由には本当に自分は怒りを覚える。
これもやっぱり批判の的にされたこともあった。
理由はやっぱりかわいそうだから。だ。
絶滅種を守るという1点においては自分は納得できるし、それに対して
大切なことだと考える。
しかし、かわいそうだからという理由においてはまったくもって納得できない。
頭わいてんのか?と思う。
だが、これはかわいそうだからヤメロ!とは言わない。
この違いはなんだろうと思う。
菜食主義者も肉は食べないが植物は食べる。植物だって生きている。
動物を食べるのが可哀そうだという理由で食べない人はアホかと思う。
獣のにおいや色が駄目で純粋に嫌いで食べない人もいる。
そういう人はいい。好きに食べればいいと思う。
なぜ?公然と命を差別している行為なのに誰も何も言わないのだろう?
クジラが可哀そうだから殺すな?増やせる家畜はかわいそうではないと?
同じ生きている命なのに?
これは自然の摂理であり地球に生まれた以上絶対の法則だ。原理原則と言ってもいい。
もうお前は何も食わずに死ねと思う。かわいそうだと思うならもう何も食べるな。
この地球に生まれた時からおよそ生き物は他の命を食らって生きるという罪を背負う。
仏教では業というし、たしかキリスト教でもあったと思う。人は罪深い存在だと。
ただ、祈ることで救われるとかだったか?
きっと人は無意識的にこの業を背負っていることを意識していて、だから祈るのだと思う。
こういうのを聞くと金のにおいしかしない。きっとなぜ犬の肉を食う中国には何も言わず、
クジラなら声高に正義感たっぷりにクソみたいな命の差別をする発言をするのか?
理由は簡単だ。
こういうNGO団体とかがどういう資金で動いているかはわからないけど、きっとこんなバカな
ことをすることで、お金が儲かるのだろうね。
ほんと、クソみたいな人たちだ。
カナダは微妙なところだけど、基本海外は宗教的な意味合いでの菜食主義者も居るし、
宗教が当たり前なのもあってそういう思想が当たり前だと思われてるから。
でも、日本って、元々菜食主義みたいな食事だし、いくらでも野菜だけでも生きていけると思うけど。
スーパーとかの惣菜でも普通に野菜だけで美味しいもの沢山あるし。
普通に肉食べる人でもそれだけで満足できたりスルじゃん?
海外で「ベジタリアン食」ってのはあるけど、別に美味しいかと言われると肉食の人は絶対敢えて食べないわ、ってレベルだったりするし。
俺は痛みが伴わない仕方でなら(不安や恐怖等の苦しみもないならよりよい)
都合いいね。あんた、生まれた時からいつか食われる運命だよ、って言われて育てられて、それで恐怖や不安を感じないかい?
それとも、「家畜」ってのは生まれてからずっと騙されて生きてるから別にいいんだ、って話かい?
ちなみに、どんなに大事に育てられた牛だとしても屠殺スル時には必ず大きな痛みを伴うが、それはいいの?
麻酔かけて殺すわけではないんだけども?