はてなキーワード: 菜食主義とは
に、なると、とたんに0か100かになってしまう人が多いのはなぜだろう。
他の話題では割りとフラットな感じの人も、肉食についての話になると、とたんに極論しか語らなくなる。
僕が言いたいのは、こう、
「肉食を減らそう!菜食主義サイコー!肉を食うのは悪!」とかいうことではなくて、
『肉食を減らす』という一つの選択肢について語ることや考えることに対して、過剰なアレルギー反応を起こす人が多くないですか?
ということです。
だから、殺人を減らす努力を一切放棄する、とか普通はならないじゃないですか。
でも、肉食について語ると、
肉を食べて何が悪い。
植物なら命を奪って悪いのか。
人は生物を殺生せずに生きていくことはできない。
俺たちにできることは、奪った命を無駄にせず、
とにかく、俺は肉を好きなだけ食う!
要は
人は他の生物を殺生せずに生きていくことは不可能。だから俺は好きなだけ肉を食う!
みたいになるじゃないですか。
わかりますよ。
言いたいことはなんとなくわかりますよ。
それに、お肉からしか得られない必須栄養素とかがあるのもわかりますよ。
でもそれって、豚・鶏・牛・羊・魚などなど全種類網羅して毎日、食べないと摂取できないんでしょうかね。
なんだかんだ言いつつも、美味い!っつー快楽のためだけにいろいろ殺して食べてるわけで(それが悪いというのじゃないです)。
その快楽を少し我慢したら、なんかいろいろ少し良くなったりしないんでしょうか?(環境とか食糧危機とか)
という可能性について語ることすらNGな感じ、あるじゃないですか。
なんつーか、個人的な意見ではあるけど、捨て猫とか捨て犬とかの殺処分ってやっぱり悲しいじゃないですか。
ひどいなぁって思うじゃないですか。
その一方で、食うために育てられて殺される動物がワンサカいるわけで。
人間の快楽のためだけに殺されちゃう家畜が減るのも、やっぱり少しは良いことなんじゃない?とも思ったりするんですよ。
例えばですけど、食べる動物は鶏だけじゃだめなんでしょうか。
鶏なら禁止してる宗教も少ないですし。
鶏じゃなくてもいいけど、少し肉食減らそうか、みたいな話ってなかなか出ないですよね。
相変わらず批判が多いのでもっと納得してもらえそうな理屈を考えてみた。
霊魂が憑くという表現がオカルト宗教じみて理解し難いと言うならば、単純に豚や牛や犬猫には感情があるから、
「よくも殺したな~、苦しかったんだぞ、痛かったんだぞ」
って豚たちの怨念が彼の手から向けられている気がして、罪悪感を刺激されて、いたたまれなくなった。
自分自身も菜食主義者じゃないからこそ、原罪の自覚を促される気がして、つらかったんだ。
あと、豚殺せる人は、人間が同じような表情と動作と鳴き声を発して命乞いしても、
必要さえあれば容赦なく殺せるんじゃないか、私のことも・・・と思えたのかもしれない。
豚や牛だけでなく鳥にも感情があるのが分かるから殺してる人がいたらぞっとするけど、
あまり表情や体のつくりが豚や牛ほどは自分と似ていないからか、苦痛や悲哀を豚ほどはリアルに想像されない。
表情や体のつくりが自分と違いすぎて、その痛み方が自分の痛み方と同じかどうか分からないし、
子供や仲間が死んで悲しいとか、一生を幸せに生きたいとかそこまで考えてるように見えない。
昆虫に至ってはじたばた暴れても苦痛というより生化学反応でそうしてるだけに見えるし感情があると思えない。
植物は脳も神経もないし、若干動く種類もあるけど、基本的に光合成するだけの物体だと思う。
あるいは「自分が触れる生き物」だから殺されることにショックを感じるのかも。
興味深かったので転載。
Q1: 既に8人の子供がおり、うち3人は耳が不自由で、2人は目が不自由、2人は精神遅滞が見られ、そして本人は梅毒を患っている妊婦の知り合いがいるとする。あなたは、彼女に妊娠中絶を勧めるか?
解説は、次の問題を解いてから見てください。
Q2: 世界の指導者を選ぶときがやってきた。あなたの一票は、貴重な一票である。以下は、候補者に関する情報である。
候補者A: 不正な政治家と繋がりがあり、占星術師に助言を求める。彼には2人の愛人がいた。またチェーンスモーカーで、一日に8~10杯のマティーニを飲む。
候補者B: 会社を2回クビになった。いつも昼まで寝ている。学生時代には阿片をやっていた。一晩に1クオート(約1リットル)のウィスキーを飲む。
候補者C: 彼は勲章を受けた戦争の英雄である。菜食主義者で、タバコは吸わない。ビールを良く飲むが、これまで浮気をしたことはない。
http://anond.hatelabo.jp/20110606193049
肉っていうといかにも解体しているって感じでオムライスなんだろう。
でもデザートのケーキやアイスクリームに使われている牛乳や生クリームだって
元をたどれば母牛が子牛に飲ませるためのものなんだよな。
で、子牛がある程度大きくなれば授乳は終わってしまうから、牛乳を安定して供給するためには
母牛を妊娠・出産・授乳のサイクルを繰り返さなくてはならないんだよね。
子牛は母牛(主にホルスタイン)に負担にならないように黒毛和牛とかもっと体の小さい牛の精子を受精させる。
採算のために種牛とはいっても自然交配させないで擬雌台っていうので精液だけ取って
雌牛に受精させる。
生まれた子供は国産牛ではあるけど和牛ではないしホルスタンでもないので食肉用に。
そういったサイクルが繰り返され、母牛も老化すると肉食としてされる。
菜食主義については色々な信条や健康法やアレルギー対策でもある人がいるので一概に言えないけど、
現状の畜産業を認められないっていうのなら牛乳も飲めない(もしくは理解できる運営者からしか買わない)ってことになるよね。
一時期、畜産業を認められなくて(外食だけでは)肉食を避けていた。魚も養殖は避けた。
でも調べるうちにそういったスタンスなら牛乳も飲むべきではないと思って飲まなくなったけど、
肉食避けて魚も避けてって生活は自分には制限が多すぎて動物性たんぱく質やらなんやら栄養が足りなくって、
せめて放牧しているところから買ったのだけだけど牛乳も飲むし、肉も食べるし、魚も食べている。
まあ、こんな屁理屈こねてないで「オムライス食べられないんですぅ」って素直に(割り切って)いえる技術がないから
喪なんだよな…
http://anond.hatelabo.jp/20090530044416
http://anond.hatelabo.jp/20101005213121
自炊好きなので、日常生活での不便は感じていないのですが、菜食対応可能な場所はわずかなので、外国からの旅行者の方は苦労されていると思います。最近、自発的に外食するなら、菜食用レストラン(偶然近所に…)か、本格インド料理(人口の60%が菜食主義)の2択ですね。誰かご一緒する場合は、、、相手の食べたい物を食べてもらって、自分は横でお茶を飲みながら枝豆をつまんだりしています。
http://anond.hatelabo.jp/20101005213121
ご質問ありがとうございます。
8.栄養面で気をつけていることはあるか?
菜食で不足しがちな栄養素として代表的なものは、ビタミンB12とDHA/EPAがあるのですが、 前者は、海苔またはビール酵母。後者は、えごま油や亜麻仁油から摂ることができると聞き、海苔とえごま油は小まめに摂取してみています。タンパク質は、普通に生活する分には豆類ナッツ類からの摂取で1日の必要摂取量(成人女子50g)はまかなえますが、アスリートの方はむつかしいかもしれません。。
自分は今のところとくに問題がないのですが、食事と体調の関係は個人差も大きいので、一概には言えないんです。。私自身は、母方の祖父母が山深い村の出身で、母も子供時代は肉どころか魚すらめったに口にすることはなかったそうです。(その後、都市部に出てきてはじめて肉を食べたとの事。)そういう事も、自分の“肉なし魚なしで問題が起こらない”状態に関係している気がします。
9.肉風味(かつおぶしの香やコンソメやブイヨン)も苦手なの?
2年目までは、固形物抜きのおだしやコンソメ、大丈夫だったのですが、3年目あたりから“におい”の感じ方が変わって、受け付けなくなりました。
10.ぶっちゃけ外で食えるもの(外食もコンビニも含め)ってなくない?
お弁当を作れなかった日は、野菜ジュース+アーモンドなどのナッツ類にしています。満腹になると眠気で午後の能率も落ちるので、もともとお昼は"軽め”が好きなので。外食は、上述の通り、自発的に行くなら“菜食レストラン”か“本格インド料理”…つきあいでだったらどこへでも行き、お茶を飲んだり、枝豆を食べたり。
朝晩ちゃんとご飯をつくれる時期は、健康的な食生活を遅れていると思うのですが、忙しい時は結構ひどいです。
純粋に健康のためなら、100%菜食にするよりも、85~90%菜食+15~10%魚介類+0~5%肉類ぐらいが、日本人の体質にはあっている気がします。1度食べなくなると“匂い”の感覚が変わって体が受け付けなくなるし、そうなってくると(日本では特に)社交上の支障が出てくる場合もあるので…、家族や友人には勧めたいとは思いません。
http://anond.hatelabo.jp/20101005213121
“ベジ=本当は「肉食ってる奴らバカじゃないの?」って態度”とするのは、過度の一般化ではないでしょうか。
同じ東アジア圏内でも、『台湾の、人口の3割が菜食主義の素食文化』と、『韓国の、あらゆる部位を堪能する焼肉文化』…非常に対照的ですが、それぞれ歴史があり、優劣などなく、どちらも文化として尊重されるべきだと思っています。
多様な食文化に寛容な社会で『菜食主義』と名乗ることは、<ごはんorパン>程度の嗜好の表明にすぎないのですが、“郷に入れば郷に従え”の根強い日本で『菜食』を言うと、…-喫煙ルームに入ってきて黒ずんだ肺の断面図を掲げるような無神経な態度ー…、相手の気分を害する態度…と受け取られることがあるので、言い方や断り方にはすごく神経質になっています。
ベジタリアンなど許せない!と感じる方もいらっしゃるし、理解を示してくださる方も、もちろんいます。
これから日本の食に対する価値観がどのように変わっていくのか、それとも保守性を貫いていくのか、…見守っていきたいと思っています。
http://anond.hatelabo.jp/20090530044416
菜食主義者に聞きたい7つの質問
(1) :16歳の頃から、かれこれ10年以上ベジタリアンを続けています。
(2) :
もともと体調不良や、強い痒みを伴う発疹、不調時は嘔吐するなど、体質に合いませんでした。(血液検査で食物アレルギーも判明していたが、死に至るような重度ではない。)
その為、「好き嫌いはいけない。何でも食べないと大きくなれない」という学校や家庭の方針から、肉食を強いられてきましたが、高校に入って給食制度から解放され、体も十分に大きくなったため、自分の意志で徐々に一つ一つ除去物を増やしていき菜食へと変えていくことにしました。そしてそれは、<なんでも食べること>を美徳とした日本の社会で、時にはわがままな人間として彼氏や友人から理解が得られず…肩身を狭く感じる日々のはじまりでもありました。。
ですが、ネットで菜食レシピを探す過程で目にした『屠殺場の映像』や、大学の生物学部の授業で『世界の肉食が減少して、家畜の餌となる穀物が1割程度でも人間用にすることができれば、飢餓の問題は(カロリーベースの計算では)解決する』…と学び
『死なないレベルのアレルギーで、好き嫌いとして肉食を拒否すること』も1つの選択肢として、肯定されるのではないか…わかってもらえないことがあることは仕方ないけれど、自分は自分で続けていこう…と考えて、今も菜食の生活を続けています。
肉類、魚類、乳製品、卵類 です。 あとはアレルギー上、一部のフルーツもだめでした。
経験上、食事の場に「主義」を持ち込むだけで不愉快な気持ちをされる方もいるように感じました。ですので、初対面や浅い付き合いの相手でしたら、「軽いアレルギーですが体のことを考えて避けています。一緒にお食事を楽しめず申し訳ありません。」…とお断りして、お食事されてる隣で、お茶を飲みながらナッツをつまんだりしています。
よほど親しい方でないと、踏み込んだ話はしないですね。
(5) : 肉を食べることに対する抵抗はありますか?
何年も続けていると、体がうけつけなくなるみたいです。
(6) : 菜食習慣をする前と後とで、周りの人の反応は変わりましたか?
菜食に対しては「なんで?やめなよ!」「付き合いづらい…」「誰か芸能人のマネしてるの?(笑)」など否定的な反応が主でした。
が、アレルギー性皮膚炎はよくなりました。
(7) : 菜食主義者でない人たちのことをどう思っていますか?
それぞれ様々な理由で、(アレルギー、主義・信条、文化、信仰、好き嫌い"←私はコレ”など)、一定の割合で菜食を必要としている人がいます。ですが日本人のベジタリアンに対する認知度・理解度は、西欧諸国やアジアの他の仏教圏の国に比べて低いと言わざるを得えません。日本は、何でも食べることが美徳とされ、食に対する選択肢の狭められた社会になっています。
様々なニーズがある現実にそくし、それぞれ食事に対し異なる価値観を持つ多様な人々を許容する“懐の深い”社会として、、日本でもベジタリアンが非難されず、選択の1つとして受け入れられてほしい、と思っています。
菜食主義者でない人に、“菜食主義者になれ!”と思ったことは、本当に一度もなくて、“あなたにはあなたの食事への価値観があり、わたしにはわたしの価値観があります。”と、思うのです。。
長々とすみません。
ネット上の知り合いが、おそらく死んだ。
その人と知り合ったのは今年4月頃。はてなを通じて知り合った。
その時には既に、末期がんで助かる見込みがないと診断されて1年半以上経過、
いつ死ぬか分からず、延命治療は望まず、痛み止めも拒み続けた人だった。
私とは考え方がおよそ異なる人で、実際に顔を合わせれば絶対に嫌いになっただろうと思う。
菜食主義者だったその人を、第一印象で拒まずに可能な限り理解したかった。
自分と相入れぬ思考を持つその人を受け入れて、自己満足したかったのだ。
エゴの塊。これから生きて行く上でそうそう重要なヒトではないのだ。そんなものだろう。
Twitter等でゆるく交流を続けてきた。
一ヶ月前、その人は何も呟かなくなった。
その人のツイートが途絶えて半月経った頃、ああ、死んだのだな、と感慨もなしに思った。
針の穴ほどの喪失感。それが薄く浅く確実に広がっていった。
数年前、友人を亡くした時は、お見舞いに行ってあげれば良かったと後悔した。
それがただの自己満足で、臥せる人にとっては大した意味を成さないと、そう気づいたのは最近だ。
私にとってどうでもいい人。その人も、死の直前に私のことなんて塩ひとつまみ分も考えちゃいなかっただろうけど、
淡い、だが確かに喪失感としか言いようがない感情が、波紋のように広がり反響している。
どんな人でも死んではいけない、死ぬのは寂しい。いなくなっていい人なんていない。
切込隊長のブログ記事「なんかエコ活動とかやってる奴がいるけどさ」に、ブクマを見るとほぼ全面支持なのに驚いたのでちょっと書いてみる。「エコ」がこれほど不人気となると正直、日本や人類の未来は暗いと思わざるを得ないからだ。またその一方で、そうなるのも仕方がないのかなと諦観する気持ちもある。理由は、グリーンピースをはじめとする「環境保護団体」には確かに、隊長が指摘するような非合理性と偽善性がつきまとっており、一般人が不信感を抱いて当然だからだ。
なお、私は環境問題の専門家ではなく、市井の理工系の人間に過ぎない。ただ、多少の科学知識があればこの程度のことはわかるはずだということを示すためにこの記事を書いている。
隊長曰く、
なんかみんな、エコバッグ持ってたり、スタバとか逝ってマイカップ持ち込んで飲んでたり、してるけどさ。
本当にエコとか考えてるなら、風呂の回数減らせよ。一日おきでいいだろ。ドライヤーも使うなって話だ。マイカーでぶんぶん通勤してる奴が、得意げになって使用済み天ぷら油の再利用とか言ってて馬鹿なんだろうかと思う。
これは全くその通りと言わざるを得ない。ここでは話を単純化してCO2の削減についてのみ考えることにすると、生活の中でCO2を直接的・間接的に最も排出しているのは自動車と光熱費(特にエアコン)であるのは余りにも明らかなのだ。CO2は基本的に炭素を含むものを燃やしてエネルギーを取り出したときに排出される。そして、物理を少し学んだことがあれば自明のことなのだが、日常生活の中ではものを動かしたり熱したりというのが圧倒的にたくさんエネルギーを使うことなのだ。そして、50kgぐらいの人間1人を動かすために、1tぐらいの乗り物を使い、そしてゴムタイヤでアスファルトの上を走る自家用車というものがいかに、たとえば鉄道と比べればエネルギー効率が悪いかは明らかなわけで、エコバッグとかマイカップとかをやっていても車通勤をしているだけでおつりが来るぐらいのCO2を排出することになる。
つまり、個々人が「忍び難きを忍び、堪え難きを堪え」るような「エコ」活動は自己満足以外の意味はほとんどないのだ。
では、本当の「エコ」とはなにか。上に書いたことからおわかりだろうが、エアコンや冷蔵庫を高効率のものに買い換えさせ、人間やものが移動する必要を減らしつつ、できるだけ自動車に依存しないように路面電車の整備や業務のIT化を進めていくといった社会構造の改革をするほかない。同時に、エネルギー源をできるだけ化石燃料に依存しないように、その方面での技術開発も進めていくことだ。
要するに、「エコ」とはどこまでも今後のエネルギー・資源戦略の話であり、マクロ経済、都市工学、そしてエネルギー工学といった堅い分野の成果を積み上げていく話なのだ。本質的に、「忍び難きを忍び、堪え難きを堪え」たり、経済成長を否定したり、科学技術を悪と糾弾したりするような話ではない。
ちなみについでに言うと、温暖化CO2原因論に対する懐疑論も跋扈している(どういうわけか、池田信夫氏を筆頭にラディカルなリバタリアンは判をついたようにそうなのだが)が、化石燃料の枯渇を見据えればどのみち取らねばならない対策は同じである。だからそのことは考えなくてよい。
もう一つ、隊長の書いている
「環境を考えて、太陽電池パネルをつけました」とかさ。太陽電池パネルを生産するのにまず二酸化炭素やエネルギーロスがかかるっつーの。
はよくある誤解で、最近では太陽電池では余裕でエネルギーの元が取れるようになっている。
ではなぜ、このような誤った「エコ」のイメージとそれにたいする反感がここまで広まってしまったのか。それは、グリーンピースに代表される環境保護団体の姿を考えてみるとわかりやすい。彼らの中には菜食主義、呆れるほど不合理な反捕鯨運動、経済成長や科学技術や物質文明への否定的評価、そしてオカルトじみた「スピリチュアル」といったイデオロギーへの親和性が強く見受けられる。これは本来、上に述べたように「エコ」と必然的な結びつきはどこにもない。にもかかわらず、世間では「エコ」というと、もっぱらこうした偽善的で胡散臭い印象ばかりがはびこってしまっている。これはなぜなのか。
答えを書いてしまうと、これは近代現代欧米に特徴的な「ニューエイジ」と呼ばれるある種の疑似宗教的社会運動の産物なのだ。ダーウィンの進化論などの影響によりキリスト教的思想基盤が揺らいだ後、既存の価値観を否定し、オルタナティブを「東洋」に求める動きが西洋社会には発達した。それが「ニューエイジ」なのだ。西洋にはなぜか、日本のあらゆる事物を「禅」に結びつけ、むやみやたらと親日的な人(それでいて捕鯨のこととなると途端に北朝鮮まがいの反日戦士になる)が多いが、これも一つには「ニューエイジ」の影響である(日本がそれを利用した面も多分にある)。このほか、北京オリンピックへの反対運動の旗印がなぜ「チベット解放」ばかりで「ウイグル解放」ではなかったか、本質的に同じ宗教の分派であるイスラム教があれほど嫌われる一方で紛れもない異教徒であるダライ=ラマがなぜあれほど尊敬されるのか、そういったことにもこの「ニューエイジ」が背景にある。そしてついでに言えば、オウム真理教とか船井幸雄とかはたまた「水からの伝言」といった訳のわからないものは、日本にこうした「ニューエイジ」が「逆輸入」された結果であるといっても間違いではない(早い話、オウム真理教が伝統的な漢訳の仏教用語ではなくサンスクリット語やパーリ語をカタカナ書きした用語を使っていたのはこのためだ。これが「阿吽真理教」であったり、ホーリーネームが「マイトレーヤ」や「マンジュシュリー」ではなく「弥勒」や「文殊」だったらあれほど信者を集めたかどうか想像してみるとよい。オウムは仏教の原理主義でありつつ、伝統回帰ではなく伝統否定なのだ)。
少し脱線気味になったが、要するに「エコ」を敵視している人は戦う相手を間違えているのである。グリーンピースをはじめとする「ニューエイジ」運動がキモいことには何の疑いもない。ああいう偽善的かつカルト的なものは叩いておくべきだと私も思う。しかし、「エコ」全体を一緒くたに攻撃するのは誤爆もよいところなのだ。
鳩山内閣のエコ政策が嫌悪されたのはこう見ると当然の話だ。鳩山氏の「いのちを守りたい」というエコ政策は、本物の「エコ」のような国家戦略ではなく、もっとナイーブな感情に端を発していて説得力がまるでなかったからだ。鳩山夫人のオカルト嗜好ともども、これも「ニューエイジ」の影響の産物である面が多分にあり、国民が偽善臭を嗅ぎ取ったのはおそらく当たっている。
しかし、エコは本来国家戦略であり、未来にわたる豊かな生活を保つために不可欠である一方で、日本の国益にも繋がる可能性をも秘めているのだ。上に述べたように「エコ」のためには重工業の技術力が強く求められるのだが、これは日本の得意分野であって、中国や韓国といった新興国に対して優位を比較的強く持っている分野でもある。同様の事情を抱える独仏が「エコ」に梶を切り、オバマも「グリーン・ニューディール」を提唱しようとしているのはこのためなのだ。日本政府がこの方面に消極的なのは、重電産業に身を置くものとして実に歯痒いものがある。どうか、もっと事実を冷静に理解し、お涙頂戴物語としてではなく国家戦略としての硬派な「エコ」の推進の世論の形成に手助けをしてくれる人が一人でも増えて欲しいものだ。
いや違う。これは「全面的」こそがキモだ。動物に対するサディズムはよくないという社会的合意が日本にあるのは明らかだから、苦痛の低減が「部分的」には「罪」を減殺するという意識があるのは間違いない。ただ、その「部分的」の比重が問題だ。少なくとも日本では「気休め」程度以上に受け取られることはまずあるまい。
それは果たしてどうでしょ?「人道的な屠殺」などが偽善と反発される文脈は、肉食や捕鯨についての現行のあり方が批判された場合の反発などが主だと思うよ。逆に現行のやり方と比べて残虐と見なされる振る舞いであった場合には、容易に激しいバッシングが起こるよ、日本でもね。
つまり、日本で「気休め」以上に受け止められると単純に言うことはできない。整合的な理論として「気休め」に過ぎないって信念を持っているわけではない。
意味がわからん。あんたこそ「反証が必要」だろうが。こちらは「根拠がない」と言ってるのに、ないことを証明できるか、そんなもん。
動物の苦痛の低減が倫理的意味を持つことは、認められているものとしてこの議論は進んでいると認識している。
もちろん、この前提を疑うことは可能だし、疑う議論も実は多いし、そういった議論にも、個人的には面白いと思ってますが
今、私たちがやっているやりとりの範囲内では、この前提自体はどちらも否定していない、と理解していますし、それが一般的価値観であることも合意されている。
一方、「業の自覚」の倫理的価値についてはあなたの側しか認めていない。
つまり、「動物の苦痛の低減」には、一歩のアドヴァンテージがあるわけよね。
だから、あなたが行うべきは、以下の二つになる。
2.「業の自覚」の価値が主張。この罪悪感は、実際の動物への配慮につながるから価値があるのではなく(むしろそれは偽善として非難される)、頭の中と口先だけで完結するだけであっても、現実の動物の苦痛を低減することに匹敵するだけの価値があることの擁護。
ちなみにあなたが1を選択した場合、こっちはアニマル・ライツの人たちの代弁で議論するか、もうちょっと別の方向でゲームを続けるかちょっと悩んでいる。アニマル・ライツの議論の流用の方が頭使わなくてすむから楽だし、文脈にも合ってるけどね。
こっちが「日本はアニマル・ライツが徹底された国だった」と主張しているものとして、それに反論しているの?それこそ藁人形だよ。
ああそうか、すまなかった、では何を言いたかったか説明してくれ。
あなたが、”動物への配慮”を重視するものと考える西洋的発想のアンチテーゼ的世界として持ち出してきた東洋像への反論。アンチテーゼとして成り立たないことさえ、示せればそれで議論としては十分。
「何の倫理的問題もない」とはこの議論の中では誰も言ってないと思うのだが、この議論の外にはそういう考え方をする人もいるので、
彼らには彼らのロジックがあるのですよ、とだけ言っておきます。知ってた上で言ってるのかもしれませんが。
私がイラつくのは罪悪感を感じることや「感謝の気持ちは大切だよね」的感性それ自体じゃなくて、それで「菜食主義者」や「アニマル・ライツ」みたいな非論理的な連中を論破できると自信満々な連中なので、論理的整合性の外側での実践やおしゃべりはどうでもいいです。
ついでにいうと、「アニマル・ライツ」が肉食主義を論理的に完全に論破できるとも思ってないです。
だから、「業」論者がアニマル・ライツを超えるもっともらしい論理大系を示してくれれば、それで十分。
要するに君が理解できるか理解できないか、が基準なのか?
したがって、これにはその通り。
一般的な原理主義研究では、原理主義の特徴はその選択性にあるといわれていると思いますが(たとえば、近代的なものに対する反対物として、伝統の中から選択的にその”本質”を選び出す、とか)。
広義で大雑把な欧米の動物愛護的精神を指すのであれば、”西洋”の文化的土壌の一部であるのは論理的に自明でしょう。なぜならそれは西洋の文化の一部だからです。
そのあとに「それを指摘することに特段の意味はない」と書いたのを繰り返します。そこに意味はない。グリーンピースでも何でも日本にもいるんだから、日本の文化の一部でもある。
なんでそんなに話を拡げたがるんだかさっぱりだ。
え、私が広げたの?元増田の時点で、論理的に論破してやったぜ!な人なんだからそこが起点なんだけど。
それを否定するとなるとタリバンを否定する根拠がなくなるわけだが、そんなものを当人以外の誰が認めるというんだ?理屈のための理屈はよせ。
「普遍でないものを拒否する権利」がタリバンにあり、タリバンの存在がタリバンを批判する価値観の普遍性を否定している。よってタリバンはタリバン批判を拒否する権利がある。って話?
当人ってのは私のこと?
東洋って大きな括りで出しておいて、現代日本固有って意味で使う人間とまともに会話を成り立たせる自信がない。
そうだね。君の主張は現代日本にはない、だったね。それも事実ではないけど。
むしろそういうものはあるが、生類憐れみの令に見られるようにそういうものは弊害の大きさ故に「定着しなかった」という歴史的事実が何度も繰り返されてあるわけだよ。そしてそれに対する代替の思想がむしろ支配的に定着してきたわけであってだな。
定着してない?たとえば「生類憐みの令」が完全にそのまま続いたかどうか、というなら否だろう。ただ肉食の低減等は現実に起きたし、牛馬への配慮も一応は行われていたよ。
西洋的発想に対抗する形で提示された東洋的発想というからには、ヨーロッパに比べて動物福祉の実践が小さかったことを示さないといけないので、「生類憐みの令などがパーフェクトに定着したわけではない」というのは反証として不十分。
もっとも、東洋で君が行ったように、君が西洋という言葉を極めて操作的に定義しているなら、比較対象は歴史的ヨーロッパ一般ではなくなるけど、そこまで察してくれと言われても、困る。
俺は最初から「横だけど」と言って入ってきているわけであって、あんたが最初にレスした元の人間と同じ発想だと最初から決めつけられても困るわけでね。
横から入ってきたって、それ以前からの議論の文脈を無視されると困る。
というか「人道的な屠殺の方がおぞましい」ってのが君の感じ方(西洋人wを説得できるとは考えてないにせよ)だったはずなのに同意しないんだ。
あのな。「人道的な屠殺の方がおぞましい」っていうのは俺の主観なんだよ。「犬や猫を食うのはおぞましい」というのと同レベルのな。俺は独善的菜食主義者じゃないからそういう考えを普段は口に出さないし、まして人に押しつけようとはしない。しかしあんたは最初からその考え方を
牛や豚相手には単なる自己満足にしか思えない。
ましてそれを大事なこととかいって偉そうにするのはやめて欲しい。
と切り捨てて、一方で独善的菜食主義者の意見は「自己満足でない」かのように「まだ納得できる」と言ったじゃないか。そのダブスタが気にくわない、というより単なるブーメランだと言ってるんだよ。
何がブーメランなのかわからない。
とりあえず、あなたは、その双方の主張が等価だということを示す必要がある。
どっちも等価であるっていうメタな視点を取れば上位に立てるっていう考え方こそ独善でしょ。
「どっちも等価」という”あなた”の主張を擁護しなければならない。
上位から裁定できる超越的な神の座から語ってるつもりだった?
それこそブーメランだよ。
ついでにいうと、実践的には自分も「食べることに感謝してる」人にいちいち文句つけて回らないよ。
自慢げに「業」を振りかざして周りを見下し、「馬鹿どもを論破できる!」って高言してる人には、たまに文句をつけることもあるが。
あっそうですか、俺の言葉の使い方はあなたの「普通」ではありませんでした。以上。おしまい。
「動物の苦痛などに配慮するのが西洋的発想」でそれをオゾマシイと感じるものとして提示された「業を自覚する東洋的発想」が前近代日本から存在していたとするためには、君の出してくる根拠はあまりに見当はずれと言ってるだけですが?
動物への配慮一般への反証等が必要になるんだよ。
意味がわからん。誰も日本では「動物に配慮する発想自体がない」なんて言ってないぞ。むしろそういうものはあるが、生類憐れみの令に見られるようにそういうものは弊害の大きさ故に「定着しなかった」という歴史的事実が何度も繰り返されてあるわけだよ。そしてそれに対する代替の思想がむしろ支配的に定着してきたわけであってだな。
私が君にからんだんかい!
途中から入ってきて前提を無視されも困る。
俺は最初から「横だけど」と言って入ってきているわけであって、あんたが最初にレスした元の人間と同じ発想だと最初から決めつけられても困るわけでね。
というか「人道的な屠殺の方がおぞましい」ってのが君の感じ方(西洋人wを説得できるとは考えてないにせよ)だったはずなのに同意しないんだ。
あのな。「人道的な屠殺の方がおぞましい」っていうのは俺の主観なんだよ。「犬や猫を食うのはおぞましい」というのと同レベルのな。俺は独善的菜食主義者じゃないからそういう考えを普段は口に出さないし、まして人に押しつけようとはしない。しかしあんたは最初からその考え方を
牛や豚相手には単なる自己満足にしか思えない。
ましてそれを大事なこととかいって偉そうにするのはやめて欲しい。
と切り捨てて、一方で独善的菜食主義者の意見は「自己満足でない」かのように「まだ納得できる」と言ったじゃないか。そのダブスタが気にくわない、というより単なるブーメランだと言ってるんだよ。
俺から見れば「人道的な屠殺」こそが「業を感じる」よりもよっぽど自己満足なわけ。要するに「独善的菜食主義者の意見と普通の日本人の意見は単なる主観の問題、どっちもどっちじゃないかよ」と言ってるだけなんだよ。どっちが正しいなんて視点はあんたが勝手に持ち込んだことだ。
前近代とか言い出したのはあんたなのでどうでもいい。
まさか西洋化後の近代日本を持って「東洋的価値観」の代表と言うわけ?
何でそれが平安時代の肉食禁忌令などの反証になるのかわからない。
というか、君の言う「動物も植物も東洋的価値観では」理論だと罪の意識にさいなまれるのは漁師よりもまず農家でなければならないのだが。
どっちにしても、「いのちの食べ方」とか「ブタがいた教室」なんて映画に象徴されるように、現代日本でそういう生物観が支配的なことは君も認めざるを得ないだろう。
そういう「動物も植物も同じ」「人道的屠殺は偽善」って主張の人が君みたくそれなりにいることは確かだが、「いのちの食べ方」とか「ブタがいた教室」はどちらも動物の話でしょ。
あとの点はもう面倒くさいから君が勝手に勝利宣言してくれ。俺は菜食主義は正しいか正しくないかなんて議論には興味ないんで、好事家だけでやってくれればそれでいい。
こちらとしては議論の適切さにしか関心がないので、立ったら最初っから首を突っ込まなきゃいいのにと思うわけです。
菜食主義や動物福祉が正しいと言ってるのではなく、元増田みたく薄弱な論理で勝利宣言する連中が気持ち悪いので。
誰がそんな主張した?
大事なのは何を殺して食べるか、とかではなく
自分の命を大事に生きることでしょうよ
この人。そこからの流れなんだが。いまさら誰が、と言われても困る。
俺からすれば「人道的な屠殺」という偽善の方がよっぽどおぞましい。
要するにこれは西洋風の信仰(人間は動物を獲って食っても構わないが、同時によき支配者・管理者たるべし、)と、東洋風の信仰(植物・動物問わず生き物を殺すことは本来は罪である、殺してしか生きられない業の重さをかみしめよ)の対立の問題なわけよ。だから、どっちが正しいなんて決められないし、決めるべきでもない。
太字の部分が重要。要するに、向こうの信仰からみてこちらの生物観がおぞましいように、こちらから見て向こうがおぞましいということもあるから「どっちもどっち」であり、そこから先には立ち入るなという話だよ。
ただそこっから、前近代の日本が「動物を食べるのも植物を食べるのも同じ罪だから云々」な文化だって主張を成り立たせるのは誤りだろう。
前近代とか言い出したのはあんたなのでどうでもいい。
一応肉食禁忌の流れは平安時代からあったはずだが、色々な変遷はあっただろうけど。でもそれでさえあなたのいう「東洋的発想」の反証には十分。
とりあえず法然が漁師になにを言ったかぐらい調べてからそういうことを言ってくれ。どっちにしても、「いのちの食べ方」とか「ブタがいた教室」なんて映画に象徴されるように、現代日本でそういう生物観が支配的なことは君も認めざるを得ないだろう。あとの点はもう面倒くさいから君が勝手に勝利宣言してくれ。俺は菜食主義は正しいか正しくないかなんて議論には興味ないんで、好事家だけでやってくれればそれでいい。
誰がそんな主張した?もう一度俺が書いたことを抜粋するぞ。
俺からすれば「人道的な屠殺」という偽善の方がよっぽどおぞましい。
要するにこれは西洋風の信仰(人間は動物を獲って食っても構わないが、同時によき支配者・管理者たるべし、)と、東洋風の信仰(植物・動物問わず生き物を殺すことは本来は罪である、殺してしか生きられない業の重さをかみしめよ)の対立の問題なわけよ。だから、どっちが正しいなんて決められないし、決めるべきでもない。
太字の部分が重要。要するに、向こうの信仰からみてこちらの生物観がおぞましいように、こちらから見て向こうがおぞましいということもあるから「どっちもどっち」であり、そこから先には立ち入るなという話だよ。
勝手に独善的菜食主義者の裏返しみたいな俺様文化帝国主義者にしないでくれ。
あなたのいう「感謝の気持ち」や「業を背負う」ことが大事って主張は、「人道的な屠殺」だの動物福祉だのベジタリアンを偽善と見下す以外に何の意味があるのかわからない。
明らかに俺は「東洋風の信仰」と「西洋風の信仰」という風に相対化して書いてるわけで、東洋風の「信仰」こそが「大事」なんて思ってるわけないだろ。つまらんいちゃもんはよしてくれ。
「妄想」だのなんだのとずいぶんな言われようで、それに対して一々事細かに反論していたらまた感情逆撫でされるだけだと思うので、論点と関係ある部分のみ。
東洋ってどこの東洋?まず前近代の日本は違う。伝統仏教的にも動物と植物は区別されてて、そのために(動物を殺さない植物だけ使った)精進料理なんてものができたわけだし、前近代の日本では仏教的な発想のせいで肉食は抑制されていたよ。
元々「現代の日本」がどうであるかだけが重要なのであって他の点は本筋と関係ないのでスルーしても良いのだが一応一言。
植物と動物は区別されていたが、植物が生物扱いされていなかったというのは誤り。これは過激な菜食主義者でも普通は人間と動物を区別するというのと同じこと。「山川草木悉有仏性」という言葉を見ればわかるとおり、むしろ「山」とか「川」のような、現代的視点では無生物であるものまで生物扱いされていたと考える方が正しい。それからジャイナ教では根菜や球根を食べない。
あと、この文脈でイスラム圏を「東洋」に入れて考えるのはどう考えても言いがかり。確かにそういう言葉の使い方も歴史的にはあったけれど、宗教的も文化的にもアラブなんかは「西洋」とはるかに同質であるのは明らかなわけで。インドネシアやウイグルになると事情は若干異なるけれども。
そもそも「前近代」と一括りに言っても、たとえば戦国時代と生類憐れみの令以降では全然違う。肉食禁忌の江戸時代でさえ、「肉食は抑制」といいながら魚や鳥は食べられていたし、なんだかんだと理由を付けて兎は鳥扱いしたりして、抜け道はたくさんあった。それに、馬肉や猪肉はなし崩し的に食べられるようになっていったわけでね。
「厭う」ってあのな。漁師だってサディストじゃないんだよ。「もっとマシな方法があるからそれを使えば」という建設的な提案なら聞く耳も持つだろうよ。単に「人道的な屠殺」というのが見え見えの口実だから依怙地になってるだけだろうに。屠殺方法が「人道的」だったら批判がやむかと言ったら絶対別の口実がでっち上げられるだけなんだから。
そもそも、日本人が奴らに反発するのは「お前が言うな」という心理が一番強いだろう。人間に対して「人道的な屠殺」という言葉を使った奴らにまさにナチスというのがいるんだが(ガス室は人道的な処刑法だと強弁していた)、「牧場での牛や豚の屠殺は人道的だからいいんだ、それに対しておまえらの屠殺方法はなんだ、野蛮人!」というのは、まるでヒットラーがスターリンや毛沢東やポルポトをえらそうに罵倒してるようなもんではないかね。
他人を見下すための「罪の意識」って何の役に立つの?
「他人を見下すため」という理由付け自体が言いがかりなので反論の必要なし。
遅くなってごめん。
http://anond.hatelabo.jp/20091011030744=http://anond.hatelabo.jp/20091011033130です
http://anond.hatelabo.jp/20091011140528
気持ち悪い偽善、というのはわかるけれど、この考え方はそもそも他の生命の犠牲なしには生きていけないという事実に対して感じてしまった罪悪感を軽減させるためのものでしょう。
もとの罪悪感がないところで服用されると副作用がでちゃう薬のようなものだと思う。
菜食主義者とかに対して、侮蔑を振りまくような人達を想定していた。
個人的に罪悪感を感じてそれを低減させるためにそういう考え方をとっていて、他人を攻撃しない人のことは考えてなかった。
言われてみるとそういう人にはいちいち嫌悪感を感じないかも。
http://anond.hatelabo.jp/20091011203011
横から悪いけど、そんなこと言い出したら、犬や猿を食べる民族だっているわけだからね。特に犬を食べる民族はすぐお隣にいるわけだが、君はそれを否定するわけか?
だいたい、知能が本当に重要なら、知能が相対的に高いとされる豚や牛よりも、相対的に低いとされる猫を食った方がいいということになる。でも、向こうの連中は「猫を食うのは野蛮人」だと思ってるわけで、そこでもまた破綻してるんだよ。
向こうの連中って誰?色々な意見を一まとめにして矛盾とか言ってもしょうがないよ。
俺からすれば「人道的な屠殺」という偽善の方がよっぽどおぞましい。
要するにこれは西洋風の信仰(人間は動物を獲って食っても構わないが、同時によき支配者・管理者たるべし、)と、東洋風の信仰(植物・動物問わず生き物を殺すことは本来は罪である、殺してしか生きられない業の重さをかみしめよ)の対立の問題なわけよ。だから、どっちが正しいなんて決められないし、決めるべきでもない。お互いを尊重して口を挟まないことが重要。でないと、ヒンドゥー教徒が「牛を食うな」とか、ムスリムが「豚を食うな」と言って介入してきてますます収拾がつかなくなるよ。
こっちはちゃんと私の意見への批判だね。
要するにこれは西洋風の信仰(人間は動物を獲って食っても構わないが、同時によき支配者・管理者たるべし、)と、東洋風の信仰(植物・動物問わず生き物を殺すことは本来は罪である、殺してしか生きられない業の重さをかみしめよ)の対立の問題なわけよ。
いや自分は西洋人ではないんだけど、西洋風の発想と言われてもな。
東洋ってどこの東洋?まず前近代の日本は違う。伝統仏教的にも動物と植物は区別されてて、そのために(動物を殺さない植物だけ使った)精進料理なんてものができたわけだし、前近代の日本では仏教的な発想のせいで肉食は抑制されていたよ。
中国についてはちょっと調べてみないとわからない。インドについては伝統仏教的な考え方のルーツで、基本的に慈悲の対象として想定されるのは動物で、植物は例外的。イスラームも動物愛護的な発想がある(審判の日に、人間に殺された動物が自分の殺害の不当性等を、神の前で訴えると言うハディース)が、植物の権利って話は聞かない。
何がおぞましいのかよくわからない。西洋的だから?
罪を自覚すると言いながら、動物の苦痛を低減させることさえ厭う、自称「罪の意識」の方がおぞましい。一種の自慰行為だよね。
他人を見下すための「罪の意識」って何の役に立つの?
だから、どっちが正しいなんて決められないし、決めるべきでもない。お互いを尊重して口を挟まないことが重要。
でないと、ヒンドゥー教徒が「牛を食うな」とか、ムスリムが「豚を食うな」と言って介入してきてますます収拾がつかなくなるよ。
西洋と東洋の対立って話自体があなたの妄想だし、現実的にお互いに口を挟まないなんて事は不可能。
ヒンドゥーが聖なる動物について「牛を食うな」はともかく、ムスリムがただの宗教的禁忌に過ぎない「豚を食うな」を押し付けてくるなんてわけがないじゃん。
http://anond.hatelabo.jp/20091011163548
ベジタリアンがアウトともセーフとも言ってないよ。ベジタリアンにはその反論は無効だと言ってるだけで。
http://anond.hatelabo.jp/20091011203305
個人的にはベジタリアン叩きの方ばっかりよく見るんだが。
http://anond.hatelabo.jp/20091011204130
自分を含むたいていの人にとって、DNAかどうかってあまり関係ないと思う。
人間と区別できない社会や精神を持った宇宙人と遭遇したとして、その宇宙人が遺伝を担う物質にDNAが使われてなかったとしても、その宇宙人を犬やネコより人間扱いするだろうさ。
http://anond.hatelabo.jp/20091011205224