はてなキーワード: 菜食主義とは
ていうか「出羽守」(「外国では」をやたらにふりかざす)人、はてなに3人くらいしか常駐してないんだけど。
僧侶がふつうにいる日本にいる限り1回も聞けない・目にできないようなニュースをとりあげて
なんかこうめんどうな印象操作とか狙ってそうだから近寄りたくないなーーっておもいます。
そもそも何があったんよ。興味ないからソース貼らなくていいけど。
ひきつづきそちらでどうぞだよ。
特殊な敵ひきつれてここを戦場とす、さあかかってこい、なんて迷惑千万だよ。
肉にアレルギーある人、甲殻類アレルギーや肉類アレルギーの人、正統派糖質ダイエットなど、実質菜食主義にせざるを得ない人も、
障害者はそのほとんどが自身が望んでハンディキャップを持つようになったわけではないという理由から社会として配慮しなければならないのは理解できる。だが、ビーガンは自分が望んで野菜だけを食ってるだけなので、配慮する必要はないだろう。
それとも、もしかしてLGBTの問題と同様にビーガンは望んで菜食主義をやっているわけではないのだろうか。それならば障害者のように配慮してくれという主張は理解できるのだが。
菜食主義=ベジタリアンなんだけど、ベジタリアンの中が複雑に別れているみたい。
オボ・ラクト・ベジタリアン (Ovo-lacto-vegetarian) 乳卵菜食
乳製品と卵は食べる。
ラクト・ベジタリアン (Lacto-vegetarian) 乳菜食者
乳製品は食べる。牛の胃の消化液であるレンネット(凝乳酵素)は食べない。
オボ・ベジタリアン (Ovo-vegetarian) 卵菜食者
卵は食べる(鳥や魚介類などの違いは問わない[要出典])。無精卵に限り摂る者もいる。
乳製品・卵、蜂蜜等の動物性食品を一切食べず、食用以外の、皮革製品・シルク・ウール、娯楽等の動物使用も排除する。食用以外の動物使用を避けないヴィーガンをダイエタリー・ヴィーガン (Dietary Vegan)という。
西洋では主にヴィーガンと同義で使われるが、インド社会においてはラクト・ベジタリアンを言う。
オリエンタル・ベジタリアン (Oriental Vegetarian) 仏教系の菜食主義者
ダイエタリー・ヴィーガンの一種[19][20]で、動物性食品のほか五葷(ごくん)を摂らない。食用以外の動物利用を必ずしも避けない。
フルータリアン (Fruitarian) 果食主義者、果物常食者
ダイエタリー・ヴィーガンの一種[21]で、果物、トマト、ナッツ類等、木に実り植物の生命に関わらない食品のみを食べる(例:桃は収穫後も木は死なないが、大根は死ぬ)。より厳格に、熟して落ちた実しか食べない人々もいる。
サラダバーのような形式で数種類の好きなミックスサラダを詰めてお持ち帰りすることができるお店。
自分は菜食主義者ではないが、時たまおやつ感覚で野菜をたくさん食べるのがすきだ。
以前ヴィーガンの友人に連れられて行った薄らオーガニックレストランで、1600円のサラダバーガーを食べた数時間後に激しい空腹に苦しめられながら街を歩き回った経験があるにも関わらず、だ。
だがそんなことはどうでもいい。それはそれとしてサラダで満たされた箱を開ける。重要なのは今だ。
サラダになにが入ってるか確認せずに適当にいろいろ詰めた箱なので中身はわかってない。要はサラダバーを殴ってドロップしたアイテムだ。
無慈悲にもサラダの死体をフォークで突き刺し、口に運ぶ。ベビーリーフ、ケール、玉ねぎ......多種多様な野菜が鳴く音がシャキシャキと小気味よい。
突如、フニャッとした。フニャ?
小粒の、やわらかい皮の内側に確かな甘さを宿すそいつは間違いなくレーズンだった。
レーズンよ、そこはお前の居場所じゃない。気づいていないのか?
確かにお前はパンやオートミールをはじめとした穀物とは仲がいい。
自身が持つ甘さゆえケーキやアイスクリームのような連中ともやっていけるだろう。
チーズとの組み合わせや、ビーフカツレツの上に松の実と共に鎮座する姿には高い潜在能力を感じざるを得ない。
だがサラダは違う。お前は野菜そのものが持つ甘みから明らかに浮いている。
久しぶりに連絡が取れた2人の友人との再会の予定をがんばって立てようとしたが他の2人が大して乗り気でなかった時のような甘みだ。
ひよこ豆やオリーブはお前が場に馴染めているかのような振る舞いをしている。だが気づいていないのはお前だけだ。
レーズンは自分だ。周りも人間関係が下手だと言うから安堵していたら、実際には場に根差している共通意識のようなものに1人だけ干渉できていなかったことに気づく前の自分だ。
2人の仲を取り持とうと空回りしていた自分を俯瞰して見てしまう前の自分だ。
このレーズンは気づいていない。気づかないままに酸の海に消えてしまうのだから幸せなのかもしれない。
レーズンを胃に落としながら、お店に陳列されたサラダの中で居心地がよさそうに座るレーズンのことを考えた。
彼らはいつか気づくだろうか。
これはNL呼称は同性愛差別か否かを議論する記事ではない。「NL呼称は同性愛差別」というのを前提として語っていく。
そしてこれは、「NL呼称は同性愛差別だからやめろ!何故言い訳ばかりしてやめない!踏んでる足をどけろ!」とイラついてる人達に読んで欲しいものである。
私自身はNL呼称を使わない、というより、一度でもそういう反差別界隈に身を置いてしまうと、気が咎めて使えない。だが、それを押し付けるつもりは全くない。指摘されて反発したり尚使い続ける人を差別者だと言うつもりはなく、むしろその気持ちに深い理解を示すからこそこの記事を書いた。
たとえばエコ活動家に「車は排気ガスを出すから環境に悪い。車使うのやめろ」といわれたらどうだろう。
ここまででなくても、エコ生活をしようと強く訴えられることに、エコや環境にさしたる関心を抱かない多くの人は「えー、そんなこと言ったって」「めんどくせー」という感想を抱くだろう。
だって、排気ガスが環境に悪いことはわかるけど、車は便利だしエコ云々を考えるのはめんどくさい。環境への悪影響が地球がとか言われたってピンと来ない。スケール大きすぎるし目に見えないし。自然破壊してるって言われても自分は自然が好きだしそんなつもりはない。自然の危機なんて全然わからない。まだまだ自然は豊かじゃないか。それにみんなやってるし、自分一人がエコ生活したところで何も変わらないし無駄じゃないか。排気ガスを出さない車?そんなものおいそれと買えないよ。
そこへ「お前は環境を破壊し生き物たちを踏み付けにしている悪魔だ。踏んでる足をどけろ」といわれたら。「やばい、そう言われないようにしなきゃ」ではなく、そう言ってきた人を遠ざけるようになるのではなかろうか。だって、そう言わない、自分と同じ人が多数だし。
他に「動物を助けるために肉食やめよう、動物を殺さない本物そっくりの偽肉食べようと菜食主義者に言われ、断ると残虐な動物殺しの肉食者めと言われる」という例も考えた。植物がどうのと別の議論に発展しかねないからやめたけど。
NL呼称に話を戻す。差別だ足を踏んでると言われたってピンと来ないし、NL呼称は便利だしやめるのはめんどくさい。みんな「NL」で通じてるしずっとこの言葉を使ってきた。男女カプとかいうのめんどくさいしNLBLGLって綺麗に並ばなくなるじゃないか。HL?そんな言葉みんなに通じないし、聞かれていちいち説明するのもめんどくさい。それに、自分一人が使わなくなってもみんな使ってるから変わらない。
車使う人が自然を愛しているように、NL呼称してる人も大事な同性愛者の友達がいる(それを言うとアイハブアブラックフレンズ論法になる)しなんなら自身が同性愛者だったりする(この場合益々反発が大きかったりする)。だから、足を踏んでる差別者といわれるとそんなつもりはないから怒る。ノーマルって表現が問題?そうかもね。でも平気な同性愛者多いよ。自分も平気。足踏まれてる同性愛者はどこだよ、その足は、その痛みは本物なの?ちょっとぶつかって怒るチンピラじゃないの?ああめんどくさい、ブロック。
このように、「目に見えないピンと来ない赤の他人の踏まれた足とやら」よりも「明らかである自分のめんどくささ」を優先する。それを責められる、心当たりのない人がどの位いるだろうか?
「何故足を踏まれた側がそのように慮ってやらねばならんのだ」?そうだね。環境破壊の被害を被る生物達が、人間のめんどくささを慮ってやる必要なんてない。足を踏まれている同性愛者がNL呼称の人に慮る必要も多分ないんだろう。だけど、いわゆる「アライ」の人は別じゃないの?
ああでも、「マジョリティの差別者にいい顔したって甘やかすだけ」みたいな認識があるのかも…うん、結局この話にオチはない。同性愛者と異性愛者がわかりあえないんじゃなくて、NL表記が許せない人と使いたい人が分かり合えないんだろな。でも、めんどくささと自分勝手さはきっと万人に共通してると信じたい。だから、これを書いた。
あとNLだとまだ「ノンケラブです!」って言い逃れできてもノマカプはもう言い逃れできないな。ノマネコカプ?なんて…ないな、うん。