はてなキーワード: 聴覚障害とは
いついかなる時でも暴力絶対反対というならまだ分かるんだけど、BLMの時は暴力を肯定する人がかなり多かったから矛盾を感じるんだよな。
しかも皮肉なのが、よりによってアカデミー作品賞を取ったのが聴覚障害をテーマにした『CODA』だって事。
あの作品は主人公こそ健聴者だけどその家族は聾者で、手話によらなければコミュニケーション出来ない。
そういう人達が侮辱されたらどうするの?少なくともその場で直接には言い返せないよね?
後日準備をして丁寧に抗議するしかない?そうこうしているうちに相手が何処かに行ってしまって行方知れずになるかもしれないのに?
「言葉で言い返せばいい」という理屈は言葉を適切に効果的に使える人に限定されるよね。
CODAの予告編にも下品な言葉で言い返すシーンがあったけどさ。
また、女性が侮辱された時にその夫や恋人が怒って行動に出るのも家父長制だとか言うのも。
じゃあ女性は男女の間には体力差腕力差があるのに、男から侮辱された時には常に自分一人だけの力で立ち向かわなければいけないの?あるいは力を借りる事が許される相手は女性だけ?
最近気がついたんだけど、夜の8時45分とかにEテレでやってる「手話ニュース」てのがホント有能。
今まで、オレは聴覚障害じゃねーしNot for Meだね!って思ってザッピング中にチラッと見ても、まじまじ視聴することはなかったんだけどさー。
ちょうどその時間どこの局もおもんない番組ばっかだったんで、ちょっと気まぐれ的に「手話ニュース」見たんよ。
そのときどきの「最重要な時事ネタ」だけ(ほんの少し、季節の話題とか和み系もあるけど)淡々と要点だけ簡潔に報道してくれて実に捗る。
「街の声」とかいう、どーでもいいそこらへんの通行人が述べる感想とか、キラーン!だのシャキーン!だのジャジャーン!だのと余計な効果音が付いてたりとか、声優の声色で印象操作だとかが全くないのがものすごくスッキリ。満点だわw
ハラスメントとされる行為の中には「それは一般社会でも犯罪だろ」というものもあれば、「それは別に一般社会では犯罪ではないだろ」というものもある。無断で尻を触るなどは一般社会でも強制わいせつ罪にあたるし、服を破くとか持ち物を壊すとかの嫌がらせをしたら器物損壊罪になる。しかし、では例えば「無視をする」というのはどうか?
一般社会において、私が誰かから何度か声をかけられて無視したとしても、それ自体はなんの犯罪にもならない(それが犯罪になるならこの世はナンパ師の天下になってしまう)。しかし、若く健康で聴覚障害を持たない大学教員が、自分が指導している学生からの再三の礼儀にかなった問いかけをガン無視したとしたらどうか。これはハラスメントではないか。
一般社会において、二人きりで食事をしようと持ちかけることや他者に愛を告げること、あるいは「セックスしよう」と誘うことは完全に自由である(それがダメなら親友に「おい、今度サシ飲みしようぜ」というのもダメになってしまう)。しかし、たとえば上司が(とりわけ異性の)部下にこれらを持ちかけたら紛れもないハラスメントということになる。
つまり、「一般社会では自由だが、職場などの特殊な環境では処罰の対象となる行為」というのがあるわけだ。それらは本来自由な行為であるのだが、一定の条件下では処罰の対象になってしまう。ということは、その範囲はなるべく厳密に設定されなきゃいけないということになる。だって、本来自由であるはずのものを罰するんですよ? その条件はきちんと決めておく必要があるでしょう。
アカデミックハラスメントは、「研究・教育機関、および学会等の学術組織において、立場が優越的な者から下位の者に対して行われるもの」と定義されるのが一般的だ。
たとえばある人物の公表された論文に「くだらん論文だ」「こんなのなんの価値もない」「こんな非生産的な研究にカネと労力が注がれているのは嘆かわしい」ということはまったく自由である。公開された論文については誰もが言及する権利を持っているからだ(表現の自由)。しかしそれを指導教授が受け持ちの院生に言ったらアカデミックハラスメントになる。
もしこの定義を崩せば、たとえば大学教授であるナンパ師が見ず知らずの女子大生に声をかけるのもアカデミックハラスメントということになってしまう。それはどう考えてもおかしいだろう。アカデミックハラスメントというのは、あくまで学術的機関・組織での権力関係に基づいて設定されるべきものだ。
では、大学でも学会でも縁がない非常勤講師やテニュアトラックの助教に誹謗中傷された任期なし准教授は「アカデミックハラスメント」の被害者なのか?
誹謗中傷の被害者ではあるだろう。それは正々堂々裁判に訴えて賠償金をもぎ取ればよろしい。それについてはなんの異存もない。しかし、同じ大学の同僚ではなく、学会で顔を合わせているわけでもなく、直接の権力関係があるわけでもない(むしろ被害者の方が立場が強い)場合には、それはアカデミックハラスメントとみなされるべきではない。
そしてアカデミックハラスメントではないのなら、自ずと罰されるべき発言の範囲も違ってくる。上に挙げた「くだらん論文」の例を考えてほしい。これを指導教授が院生に対して執拗に言ったら学内でお叱りを受け、場合によっては戒告などの処分に発展するだろう。だがもし、これを評論家が大学教授に向けて言ったのだとしたら、地裁から最高裁までのすべてで「単なる論評であり誹謗中傷とはいえない」との判決が出るはずだ。論文を読み、それをどう評価するかは自由だからだ。「こいつは無能な研究者だ」というのはどうか。指導教授が院生に言ったら一発でハラスメントだろうが、評論家が具体的に論文を引いてこいつの言ってることはおかしいと指摘した上での話なら、自由な論評の範疇ではないか。「彼女はどうしようもないバカな極右だ」「彼は救いようがない愚かなフェミニストだ」というのはどうだろう。「某教授のやってることはニセ科学だ」「某教授のジェンダー研究なんてまともな学問じゃない」はどうか。さすがにこのへんになると裁判でも危ういかもしれない。しかし、これを評論家が言うことすら許されないのだとしたら、言論の自由とは、表現の自由とはいったい何なのか。
現代のベートーヴェンとか騒いだのはNHKとその視聴者であって本人に非は無い。
マスコミの取材で事実が歪められて報道されるのは普通のことであり、取材を受けた者がいちいち指摘していたらキリがない。
まして、佐村河内はただの作曲家であって、マスコミの事情に通じているわけでもない。いざ映像が出来上がれば「事実と違うけど、こんなものか」となるのが普通。
ということである。佐村河内の名義で発表することは両者合意の上である。当然だが新垣にギャラも支払っていた。
冷静に考えて、この行為に何の問題があるのか理解できない。およそどんな業界でも普通に行われている100%正当な行為だと思う。
そもそも、曲聴いて良いと思ったなら、ゴーストライターだろうがなんだろうが関係無いのでは?
最後に、佐村河内が実際は聴覚障害を持っていなかったとか言う奴もいるが、これはあり得ない。
聴覚に対して精密な検査をするのだから、演技で難聴になれるわけがない。また医者が診断書を偽造するのは当然処罰の対象になる。わざわざそんなリスクを負ってまで、難聴認定するメリットは無い。
例えばアメコミなんかだと「黒人ヒーローや女性ヒーローを出せ」と言って、実際にそういう作品も増えてきている訳で。
日本の作品だって聴覚障害なら「君の手がささやいている」や「聲の形」、車椅子なら「パーフェクトワールド」や「ジョゼと虎と魚たち」、自閉症なら「光とともに…」、など障害を扱ったフィクション作品は色々ある訳で。
感動ポルノとか揶揄されながらもそういうものに励まされたという当事者もいるんだよ。
「統合失調症に対する偏見を助長するな」とフィクションに対して言うのなら
「統合失調症の人が普通に学校に通って青春したり恋愛したり、仕事をして生活していったりヒーローとして活躍したりするようなフィクションを増やして欲しい」
という主張では何故ダメなのか。
いや実際需要あると思うけどね?
なかなか完了されない
エラー報告レシートが出てくる、PayPay側にも金額が増えていない
万札が飲まれた
横の受話器とって連絡しろと画面に出る
レシートには他に連絡先窓口が書いて無いので仕方なく備え付けの受話器取る
備え付けの受話器とってもつながらず
受話器置いたりとったり、2-3回でつながる
オペレーターへ電話が繋がっても周りがうるさくて声がよく聞こえない
電話が難しい、後で連絡できる他の手段はないかを尋ねるが無いと言われる
オペレーター(バイト)が偉そうなオペレーター(上長)へ変わる、早口
聞き取るだけで精一杯で上手く返事ができない
返金は
1、今アルソックが金持ってATMに向かうので待つ(30分ぐらい待ってくれとのこと)
2、後で銀行振込
今回は3で返金してもらった
脳が焼き切れるぐらい疲れた……
世の中は電話口だと4桁の数列が聞き取れなかったり、
聞くことと話すことが同時にできないガイジ用にできてないのはそうなんだけど
金回りのトラブルサポートが電話オンリーなのはほんとどうにかして
IQ120あっても耳が悪いだけですごいガイジ扱いされるのつらい
いや、ガイジ扱いでもいい
ゆっくり話してくれたり聞き返してもうろたえたりしないで
ただ繰り返し淡々と話してくれる人だと助かる…
めっちゃいいひと~~ありがてぇ~で終わり。
たいていそうじゃないので、いきるのつらい
Twitterで聴覚障害を理由にAPEXを断られた人のツイートが話題になっているけれど、個人的にはすごくキツいなと思ったので書く。
まず断られた理由はもう明白で、APEXに置いて音が聞こえない/聞こえづらいっていうのは大きなハンデになるからだ。足音や弾の音を聞いての動きの判断が求められることもよくあるゲームで、それが出来ないっていうのは大きい。知り合いと一緒にやるなら意思疎通をキーボードで打ってる余裕なんてないのでボイチャが鉄板だが、難しいなら新たな方法を考えるか意思疎通もできずに各々好き勝手にやるしかなくなる。
つまり、障害を持った一人の為に「ゲームのレベルや勝率を大幅に下げないといけなくなる」わけだ。APEXなんてバトロワゲームやってる人間は皆レベルの高いプレイがしたいし勝率を上げたいんですよ。多人数でやるほど熱意があるなら尚更。でも一人の為に我慢しないといけなくなる。本当に言葉を選ばずに言うと、他のプレイヤー全員がつまらないなあと思いながら障害持ちを接待してる状態。
偶に聞く知的障害が入ってきてテーブルゲーム卓が死んだとかゲームサークルが崩壊したとかの原因もこれ。余程障害持ちに人望があるかそれでもゲームが上手いかしない限り、耐え切れずに障害持ちを追放するか他のメンバーがゲームを辞めてしまいグループが消滅するかの二択を迎えることになる。
これは障害持ちに限った話でもなくて、そもそもゲームってのは腕前に分かれて楽しむもので、初心者指南でもなんでもなく普通にゲームや競技を行うとき、チーム内で過度な実力差があったらつまらなくなるのは当たり前で、PvPゲームには大抵同じくらいの実力の相手とマッチングするシステムがあるし、スポーツだって地域のクラブチームから本気でプロを目指すようなところまで自分の実力に合ったところに入る。
今日ゲームを始めたけど一番上のランクの人と戦えない!差別だ!とか、やっとドリブルができるレベルだけどサッカーの世界チームに入れてもらえない!差別だ!って言わないでしょ?
それはもうゲームを楽しく、やりやすく成立させる為のルールであってみんながするべき我慢だから。
もっと言えば足に障害があって走れない人間が、趣味で集まってるサッカーチームに入れるか?彼に合わせてサッカーしないと差別になるのか?
無理だろ?足に障害がある人間はサッカーしちゃダメなんじゃなくて、障害を持っている人向けにルールを変えたりレベルを落としたスポーツの集まりがあるだろ?ゲームも同じなんだよ。やっちゃダメなんじゃなくて、同じ状況、レベル同士の人とやるべきなんですよ。
だけどこれがゲームの話となるとひっくり返る。みんなで楽しくやるのがゲーム!差別だ!受け入れろ!って言い出す。無理。楽しくないから。楽しくなかったら辞めるから。「楽しくなくても障害持ちの人を楽しませるようにする」のは趣味じゃなくて接待であり仕事だから。断った人がミスったのは言い方だけ。同じレベルの人たちとゲームしててください。押し付けてくるな。
https://twitter.com/yuuta4920/status/1363434410993836035?s=21
読んで貰えば内容はすぐわかるが、簡単に言うと
「聴覚障害を持つツイート主が、フレンド?と次にいつゲーム(おそらくAPEX)ができるかを聞いたところ、聴覚に障害があることを理由に断られた」というものだ。
シンプルに、こんなこと言う人もいるんだなぁぐらいの感想だったのだが、そのときふと思いついたのがタイトルの内容である。
さて、知っている人がほとんどだろうが、人狼というゲームの概要を説明しておこう。ある村の中に狼が隠れており、村側は狼を追放し、狼は村側を喰うことでお互いに勝利を目指すというのが基本的なルールだ。
このゲームにおいて、最も基本的かつ重要なのが話し合いである。村側は役職の能力やそれが語る内容を元に狼を特定し、狼は逆に特定されないよう騙る。これが人狼の醍醐味といってもいいだろう。
このとき、人の心を察することが苦手な発達障害の人間はまったくもって不利ではないだろうか?なにせ各人の思惑を予測しつつ、自分の意見を言わなければならないだ。
もちろん人狼にもパターンというものがあるので、それを抑えておけばどうにかなることも多い。ただ不利であることには違いがない。
ここで本題である。「チームまたは多人数参加のゲームにおいて、障害によって不利があるとき、身体障害の場合は擁護されるが、発達障害は擁護されないのではないか?」ということだ。
もし「発達障害で人狼ゲームをしていたら参加を断られるようになった」というツイートであれば、擁護の声一色になるとは思えない。
これはそのまま身体障害者と発達障害者への社会の目線に繋がる。
うつ病は甘えや怠けではないと言われて久しい現代でも、人間の「心」というものは気の持ちようでどうにかなると思っている人間がほとんどなのだろうと思う。
先週はブルマーの紺色の起源について調べた。ブルマーはアメリカでも紺系統の色だったが、現在の色になる過程で日本の伝統色の影響を受けた可能性について検討した。本記事では、臙脂色・小豆色・赤色のブルマーがいつごろから存在しているかについて調査する。また、他の色のブルマーについての情報があった場合はそこにも触れる。
主として https://www.buruma-joho.com/という個人サイトに掲載された、映画やドラマに出てくるブルマーの色について調査し、おおよそ何年までさかのぼれるかを検証する。ただし、あまりにも近い年代のものは省いた。すべてを引用しても年代の特定の役には立たないし、2000年以降のブルマーはほぼファンタジーに属するからだ。ブルマーにまつわる映画作品を網羅したい方は、ぜひ上記サイトをと参照していただきたい。どうして個人の記録ではなく映像作品で確認するのかといえば、ブルマーが日常的に存在していた当時の映像作品には、コスプレ的で奇抜なブルマーは出てこないと考えられるからである。また、個人のサイトやツイートは消える可能性があり、文字による証言だけだと正確さが担保できないためである。また、盗撮画像を使うわけにはいかないのはもちろんだ。
なお、バレー部のブルマーとそのほかの学生のブルマーについては、分けて考えたい。
加えて、プロのバレー選手の映像は多くなるので、赤ブルマーについては泣く泣く割愛した。
「オシャレ泥棒」1989年 https://www.youtube.com/watch?v=COpUgdGuoLE
「としごろ」1973年 https://www.youtube.com/watch?v=zRDoJFgS_wA
「青春の構図」1976年(女子大生。乳房の露出があるので直リンはしていない。各自で探してください)
「燃えろアタック」1979年 https://www.youtube.com/watch?v=qHFnZx0LT6Q
「転校少女Y」1984年 https://www.youtube.com/watch?v=li46Tlzuz_w&list=PLVxbaLcthhB1CAwMgrZhIykFQHl4rya9-&index=37
「挑戦」1963年 https://www.youtube.com/watch?v=krbJ1MBYXTo&list=PLVxbaLcthhB1CAwMgrZhIykFQHl4rya9-&index=5赤、青、緑三色のブルマー。
「典子は今」1981年 https://www.youtube.com/watch?v=Eh-8MVOJ6Ig濃緑で、芋ジャージの緑とは違う。障害者の社会参加を訴えたドキュメンタリー。
「蘇れ魔女」1980年(バレー選手)。Youtubeに動画はあるが緑ブルマーは確認できず。
「時をかける少女」1983年 ttp://wainn.jugem.jp/?eid=1364
ところで、先ほど両腕のない女性の映画を紹介したので、せっかくだから話そうと思う。以前NHKで「アニ×パラ」と称して https://sports.nhk.or.jp/paralympic/video/81d717ec76b544d8922c17f10889dee6/ 車いすの少女が陸上選手になるショートムービーを放映していた。また、警視庁か何かのポスターでも、ブルマー姿の義足の選手が被写体として用いられていた。義足の陸上選手を扱ったポスターはイラストも実写も検索すればいっぱいあるし、中西麻耶選手はセミヌードも披露している。
僕は素直に美しいと思ったし、義足の機能美にも魅力を感じた。義足は隠すべきもの、障害は隠蔽すべきもの、そうした空気がなくなっていくのを感じるのは、僕としても嬉しい。しかし、そこに難しさがないわけではない。美しいと思うこと、セクシーだと思うこと、障害者に対する態度、こうした扱いの難しい問題がぎゅっと凝縮されているからだ。障害のある選手が自分の身体や努力を誇りに思う気持ちと、そうした選手に憧れ、称賛すると同時にどうしてもブルマー姿に萌えてしまう自分の率直な気持ちとの間に、どのように折り合いをつけていくか。あるいは、特にアスリートではない障害者に対してどうふるまっていくか。特段「美しい」わけではない多くの障害者にどんな態度を取るか。様々な障害を抱えた人々と関わりながら生きていくうえで、考え続けばければならない問題だ。麻痺した身体を公共の場で堂々と見せた、とある活動家のことを思い出す。特段「美しい」わけでなく、それどころか「痛ましい」という印象すら与えてしまう身体。痛ましいと思うのはこちらの上から目線だが、スポーツで称揚される「美しい」身体とは別の身体が、隠蔽されてはいないだろうか。
今の職場は身体障害や聴覚障害のある人、あるいは精神障害のある人と働く機会があり、毎日が学ぶことの連続である。意外と「普通」だなと思ったり、逆に思いがけないところにつまずきポイントがあったりで、どうやったら一緒に働けるかは調整の連続だ。でも、いろんな人と働ける機会があると、気づかなかった偏見から自由になれる機会も多く、ダイバーシティってそのためのものなんじゃないかって思う。みんな仲良く、というきれいごとよりも、もめたり話し合ったりして、どうやったら一緒にやっていけるかを考えるのがきっと大事だ。そうしたら、道ですれ違った障害のある人により上手に配慮できるんじゃなかろうか。
本当のバリアフリーとは、障害があっても普通に隣で働くことだけでなく、ブルマーと義足の組み合わせに何の屈託もなく素直に萌えることなのか。茶化したような問いだが、パラリンピックにおける障害のある身体の宣伝的な側面も含め、真剣に考えたい。パラリンピックに出ることのない、大多数の障害者はパラリンピックをどう感じているのだろう?
前回の記事では、スク水がハイレグ化した90年代(ttps://www.footmark.co.jp/about/id001575.html)に臙脂ブルマーが生まれたのではないかと推測していた。だが、実際にはそれ以前に臙脂ブルマーは存在していたことが確認できた。その後、バレーボール選手のブルマーが学生のブルマーに影響を与えたのか、さらにブルマーの色が自由になる雰囲気があり、それが同時にスク水のハイレグ化を生んだのか。おそらく前者は正しいと推測されるが、後者の確証はない。そして、ファンタジーだと思っていた白ブルマーの存在も確認した。
今後は、同じ赤色でもどのような幅があったかについて調べたい。臙脂、赤、小豆色は少しずつ色が違う。現に、個人がアップロードした写真には、蛍光色に近い青・赤・緑のブルマーが確認できるものがあり、上記映像作品には登場しない色のブルマーが一定の範囲で分布していた可能性が検討できる。また、企業の公式情報や新聞紙などの証言から上記内容を補足し、フィクションからのデータだけに頼らない、実際の臙脂ブルマーが誕生した年代についても調べたい。新聞は白黒が多く、苦労しそうではあるが。
さらに、イギリスなど諸外国には赤ブルマーがなかったかも調査せねばなるまい。
加えて、身体障害が憐れみの対象やスティグマではなくなっていく過程についても気にかかるところである。美しかろうがそうでなかろうが、「健康」であろうがそうでなかろうが、そして「猥褻」であるかどうかにもかかわらず、自分の身体を見せる権利を改めて問い直したい。
綾野剛は良い男ですなぁ
と思うのだけど、
何故このドラマって妊婦の両親・義両親とか出てこないんだろう……
出産時親が来てる人ってのも既に少ないの??私の周りだけ??
自分の娘(息子のお嫁さんだとしても)大変な障害があるなら妊娠中含めフォローすると思うんだけどなぁ。
赤子の鳴き声が聞こえないって結構致命的だと思うのだけど…まぁその辺今は色々フォローする道具もあると思うけど。でも出てこ無さすぎて不自然。
妊婦が亡くなった時もご主人が1人赤ちゃん抱えて退院って……フォローできる人が他にいないのーーってか自分の娘(ry)であっても亡くなったら病院行くでしょ……
私は実母に思いっきり甘えたし、私の周囲も自分たちだけで……というのが少数だからそう感じるのかなー
まぁフィクションだしーーーーー