はてなキーワード: 横尾とは
リアコじゃなくても何故アイドルが結婚したらモヤっとするのか?自分なりの結論が出たので、書きとめておく。
これは私のオタクスタンスに基づく考えなので、すべての人がこれにあてはまるわけではないと思うが、「なんで素直に結婚を祝うことができないの?自分が推しと結婚できるわけでもないのにw」というお決まりのフレーズに対する答えの一つとなれば。
まず、私が信じている「オタクと演者の関係性」について述べたいと思う。
アイドル含む演者すなわちステージに立つ人間にとってのいちばんプリミティブな欲求は「見られたい」「愛されたい」だと思う。そして、それを満たしてあげる(敢えてこういう言い方をしますが)ことができるのは、ファンだ。
パフォーマンスを通して「見られたい」「愛されたい」というメッセージを放出する演者に対し、ファンはそれを受け取って、推しを見つめる視線や拍手や歓声という形で応える。時よっては熱い想いを送るファンに演者がファンサという形でさらに想いを返してくれることもある。こういう幸せな愛情の交換が現場では成り立っていると思っている。
アイドルがアイドルでいる限り、オタクは「身の丈に合った相手を好きにならなきゃいけない」とか「重すぎたら嫌われるかも」といった現実の人間関係における制約をすっ飛ばして無限の愛情を向けることができ、アイドルはオタクから注がれる膨大な愛情を受け止めてくれる。
愛情を受け止めてくれる(無視や拒絶をしない)こともまた愛なので、「受け止めてくれた」と感じられることによって、オタクはアイドルからの愛を受け取っている。(これはファンサや直接的な「ありがとう」の言葉に限らず、「愛してもよい存在」としてそこにいてくれること自体がアイドルからファンへの愛だと思う。)
これはオタクをすること以外では得られない関係性だし、おそらく演者にとっても同じく、ファンとの間でしか成立しない関係性だろう。私は、それが自分にとって最も尊い「愛」の形だと信じている。
(実際には推しに干されることもあれば、えげつない集金やクソみたいな運営に振り回されることもあり、綺麗事だけではない部分もあるが、この幻想を信じられるからこそ綺麗でない部分も飲み込むことができる。と私は思っている)
先ほどから「信じている」という言葉を何度も書いているが、この関係性は概念であり一種のロールプレイであり、言ってしまえば「幻想」である。
アイドルとオタクの間にこのような関係性が存在することをオタクが信じ、アイドルが信じさせて続けてくれることでこの「幻想」は成立している。
しかし、演者の結婚は、これが唯一絶対の「愛」の形ではなく、さまざまな「愛」の形の一つであり、相対的なものでしかないことを嫌が応にも突き付けてくる。
私の愛する貴方はステージの上でしか生きられない人間なのだと、ステージ上と客席で想いを交わし合うことで史上の愛を感じている人間なのだと信じたいが、実際にはそうではなかった。
それが明確にわかってしまうと、途端に自分の信じていたものが陳腐に見えてしまう。
芸能人の熱愛や結婚が発覚したときによく「ディズニーランドのミッキーが着ぐるみを脱いだ」という例え方をされるが、ミッキーが着ぐるみを脱ぐことはミッキーだけ問題ではなく、ディズニーランドという「場」への崩壊であると思っている。
(少なくとも私にとっては)推しの結婚は自分がオタクをすることの決定的な終わりではなく、パフォーマンスが好きな限り推しの出演作を観に行き続けるだろう。楽しむこともできるだろう。
でも、「ステージ上と客席で想いを交わし合うことが、私にとっても推しにとっても史上で唯一絶対の愛の形」という幸せな共犯関係のような幻想は失われ、二度と戻ってはこない。
結婚によって推しのすべてが損なわれるわけではないが、私がとても大切にしていて、推しとも共有できていたと信じていた一部分はポッカリ穴が空いたように失われてしまう。
国立新美術館の「古典×現代2020」に行ったんだけど、現代美術ってつまんねえなといまさら。
菅木志雄
宣伝動画で「来る人は美術館に石ころがあると考えませんから」なんて言っているけど、感覚が半世紀くらい遅れてんじゃないのこの人。いまどき美術館に石ころがあった程度で、なんも思わんわな。それとも現代美術ファンは、美術館に石ころがあったらびっくりするの? そんなんだったら、徳川美術館で水石「夢の浮橋」見たら、腰抜かしてしまいそうだな。まして国立新美術館は美術館ではなくて、美術館を詐称する展示場なんだが。
いい写真だと思うよ。インスタで流れてきたら迷わずいいねを押すだろうね。その程度。
棚田康司
円空と並べて展示してつらくなかったのかな? 作品の持つ力の差が歴然と感じたが。まあ、本人やファンが満足ならいいけど。
皮緞帳は粗大ごみにしか見えんかったというのは置いておくにしても、刀剣とのスケールの差が大きくて「組み合わせた壮大なインスタレーション」と感じ取るのは難しいな。現代美術ファンは器用だ。なお刀剣展示の照明ダメじゃね。刃文見える?
田根剛
中では唯一作品を展示していなかった。仏像展示の演出のお仕事。動く照明と録音された声明だけのインスタントでチープな演出。本物の宗教儀式が、さまざまな工夫を凝らして神秘性を演出しようと努力しているのに比べれば、子供だましみたいなものだ。
おもしろいパロディではある。こっちはツイッター映えか。アニメーションは途中までしか見てないから何とも言えない。
印象うすい
さすがに力のある作品で見応えがある。ただ、「針のない時計は〇〇(忘れた。時間の超越とかそんなんだった気がする)を意味します」みたいな作品解説を読んで、深いなあなんて思わなきゃならないとしたら、俺には現代美術は無理だ。
古典の方は見応えあるよ。念のため。
【追記】
「古典×現代2020」について、古典側も含めて、もう少し詳しく書いてみる。
仙厓の作品は掛軸1つ。円相図といって単なる○が書かれている。○には悟りや真理、仏性、宇宙全体などと宗教的・歴史的にいろいろな含意があるようだ。添えられた賛がいい。「これくふて御茶まひれ(これ食ってお茶を召し上がれ)」。
洒脱だねえ。かっこいい。この作品初めて見たんだけど、賛を読んで、ふわっと心が軽くなるような感じがして、ああいい作品を見たなあと。
それに比べて菅の作品。それっぽい思わせぶり以上の何かだとは思えないな。解説聞いたら納得や感動するの、これ?
川内の写真は数が多くて辟易した。いちいちつきあってられんわというのが1番の感想。前回インスタ云々と書いたけど、でかく引き伸ばした写真とかもあり、それはそれででかい会場で展示する意味はあるのかもしれない。ただちゃんと選抜してくれ。花鳥画の方は6幅なんだよ。
花鳥画の方で目を引いたのは、森蘭斎筆/梁田象水賛の牡丹図(神戸市立博物館蔵)。背景に大きく描かれた太湖石は伝統的な描法。手前の牡丹は西洋画の影響をうかがわせる陰影がついている。でありながらうまく調和していると思う。おもしろい。賛は読めんかった。誰か教えて。
棚田の作品には全然目が行かなかったんだよなあ。円空いいなと思ってただけだった。荒々しさというか生々しさというか、そういうのがいいよね。というわけで、棚田作については何も言えない。
いちおう言っておくと、もともと円空あんま好きじゃなかったし、今回で好きになったというわけでもない。それでも円空ばっか見てたのだ。
mitimasu 冷たいドブをさらって原石を見つけるのが楽しくないなら向いてない/刀剣は手に取って角度を変え光の当て方を変え…という見方ができない以上、どこの展示もそんなもんだと思うけど?国立新が特にひどいのか知らんが
刀剣の展示は、1つ1つに小さなスポットライトが当たっていて、それを刃文のところに乗せるように見ると刃文が浮かび上がるようになっているのよ。そして横にスライドしながら刃文を見ていくと。刀剣博物館でも東博でもなんでも、刀剣展示ってのはそういうもの。
今回の展示ではそのスポットライトがなかったはず。だから見えない。
ひょっとしたら俺が見落としていただけなのかもしれない。また、刃文の見えない展示もありだよねってことなのかもしれない。いずれにせよ、日本刀にそれほど興味ないからなんでもいいんだけど。
会場内で配られていた「アートのとびら×作品リスト」なるガイドブックに、別の機会での皮緞帳の展示の写真が載っていて、それで見るとこの作品なかなかよさげなんだよなあ。ライティングが異なる。あと中央にぶら下がって振り子のように揺れていた首がないのがいいのかな。
そのガイドブックには、「同じ部屋に展示されているのは、美術品としてケースに入れられている刀剣です。刀剣はかつては武器、または切る道具でもありました」とある。これ書いた人って、刀剣の展示を見て、自分の体が切られるようなぞくぞくする感覚を味わったことがないのか。もうちょっと古典の作品としっかり向き合おうよって思う。
前回子供だましだと書いたけど、ツイッターみると評価高いのよね。意外だ。
他の作家と違って、この人は作品を制作せず、仏像の展示演出を手掛けている。演出手法は光と音で、具体的に言えば動き変化する照明と録音された声明だ。
立体物の屋内展示で照明が固定されているということに以前から不満がある。屋外ならば太陽の位置で影の付き方が変わって見え方が違ってくるからね。たとえば上野の国立西洋美術館に行く楽しみの1つが、今日はロダンの地獄の門がどんな表情を見せてくれるのだろうかということだったりする。
だから今回の田根の試みのうち、照明を変化させる、動かすという点自体は評価したい。ただその変化のさせ方や動かし方については、もう少し考えがあってもよかったのかもしれないと感じた。
正面下方から照明を当てる瞬間があるけど、これはいい、というか正しい。お堂に安置された仏像は、下の方に置かれたロウソクの火に下から照らされる。だから仏師もそれで映えるように仏像を作っているはずだから。しかし、仏像の周囲にいくつかのピンライトがあって、それが上下に等速度直線運動してるってのはどうなのって思った。
まあ、しかし照明の方はまだいい。音の演出の方はちょっとひどいのではないか。録音された声明をスピーカーで流しているんだけど、音響についての工夫がまったくないのね。仏像に向かって右手、部屋の奥の方にスピーカーがあってそこから流れているんだなってのがわかる。どこからともなく聞こえてきて展示室内を包み込むような感じに聞こえるとかそういうの全くないの。音響について完全になめてる。
さらに言うと、仏像の展示位置が低いと思う。立って見ると正対するほどの高さ。一般に仏像は高い位置に据えて、仰ぎ見るもの。その下からの角度で見て映えるように造られているはず。この仏像の一番映える角度がどのあたりかは知らない。しかし今回正面から見て違和感を覚えたから、下からの方がいいと推測する。そういった点、たぶんこの人なにも考えてない。
出品しているのが大きく2種類で、うち1つがアニメーション。これは半分くらいしか見てない。なにも惹かれるところがなかった。
もう1つは、冨嶽三十六景のパロディ「ちょっと可笑しなほぼ三十六景」で、いくつかの作品を元ネタの北斎作と並べて展示していた。
北斎の冨嶽三十六景は三十六景といいつつ、追加があって全部で46図ある。一方パロディ版が全部でいくつあるのかしらないけれど、きっちり36ではないからなのか「ほぼ」とついている。三十六景といいつつ平気で10枚追加したあげく、三十六景のまますました顔をしているところの江戸っぽさ(前近代っぽさ)と、きっちりでないので気になって「ほぼ」とつけてしまう現代っぽさの対比が興味深い。
それはさておき、このパロディけっこういいのだ。うまくて唸らせるし、おもしろくて笑わせる。
でもね、「和紙にインクジェットプリンタ」なんだよ。実物見る意味なんて全くないからね。前回「ツイッター映え」と書いたのはそういう意味も含んでいる。なんつーか、いろいろ退化してるね。
伝統×現代アートという切り口から、伝統的な作品の「もの」性を再発見していく展覧会だと思いました たとえば皆川明×尾形乾山の展示を見て、私は初めて乾山の器の「素材」を認識しました そうか、これは焼き物だったんだ!という新鮮な驚きがありました
ちょっとびっくりしたよね。乾山見て焼き物だとわからないような〇〇〇がありがたがってるのが現代美術ってことなのかな。
このコラボレーションは2種類に分けることができて、1つは独立ケースに乾山作が収められており、その上に大きく平たい円筒状の布(皆川作)がぶら下がっているというもの。6セットあった。これは両作を同時に視野に納めるのが難しく、あまりうまくいっていないように思えた。
もう1つは、小さな様々な端切れが継ぎ接ぎされた数メートルはあるかという布の上に、ところどころ乾山作の陶器陶片が置いてあるというもの。ごちゃごちゃしたものの上だと乾山は映えないなというのが感想だけど、皆川明、というかそのブランド「ミナ ペルホネン」は明らかに自分がターゲットではない(というかそもそも初めて聞いた)ので、これが素敵だという人がいるなら、その感想についてどうこう言うつもりはない。
乾山の作品では「色絵石垣文角皿」(京都国立博物館蔵)がお気に入り。モダンな味わいがある。かわいくてすてきだ。
この展覧会に行った理由は蕭白。蕭白が4作出てたら行かざるを得ないよね。で、行ってみたら現代美術作品がつまらなくて、ひどい言い方だけど抱き合わせ商法にあったような気分になったわけ。
新出の游鯉図の眼がリアリティあって見事だった。群仙図屏風(東京藝術大学蔵)が、個人的に蕭白と言えばこうのって作品で大好き。
宣伝動画のなかで横尾は、人間の本質・魂の表現が蕭白の作品の中にこめられた重要なメッセージで、現代人が見失ったものだみたいなことを言っているんだけど、これ賛同する人ってどれだけいるんだろ。まったくピンとこない。
行ったよ。特に第1部はすてきだなと思う絵が多かった。ただ基本的に個展っていまいちよね。いろんな人の作品が見れた方が楽しいな。そのなかに数点ドイグがあったら、より魅力を感じたかもしれない。個人詩集よりアンソロジー読んだ方が楽しいし、好きな詩がより映えるよねみたいな感じ。個展だとその作家をどのように位置づければいいかもわかりづらいし。いまああいった絵を描きつつ評価されているというのは、いったいどういうことなんだろ。
yama_bousi 現代美術で自分が好きな人は、淺井裕介氏、高松和樹氏、蔡國強氏、ちょっと古いのではキースへリング、藤城清治氏、あとドールの世界とか凄いなあ、と思う。現代美術とは違うがぴろぴと氏は大好き。
この1年で横尾さんのことをもっともっとだいすきになれて、着いていきたいと思えた自分の感情と比例するかのように横尾担のことが苦手になってしまったのは間違いじゃなかったんだなってこの2〜3日で確信できました。
元々、横尾さんに対する考え方が同担でも合わない人が多くて、色々な場面でわたしは少数派なんだなぁと思うことが多々ありました。それを理解していたからTwitterでは鍵垢でひっそりと横尾さんに関する呟きをしつつ、マイノリティーでもこういう人も居るんだよ〜って自分なりに横尾さんを、キスマイを応援していました。これからもそうするつもりです。
今まで他メンバーと比較しても少ない方だった横尾さんへの歓声も、声を出すか出さないかなんて個人の自由だから声を出したいと思っている自分が出せばいいことだと思っていました。
1年前の新潟初日、いつも以上に横尾さんへの声が少なくて、やっぱり同担減った、他担から歓声も出ないほどやらかしてしまったんだなあって思いつつ、いつも通りオレンジ色を付けて横尾さんへの歓声を上げて、横尾さんの団扇を持ち続けました。 後ろの席にいた他担に「横尾担とかまだ居るんだ」「あいつ反省してんの?」ってこっちまで聞こえるように言われても、言い返したいのをぐっと堪えてその声を消すくらい自分なりに横尾さんへ声を出しました。
そんな中、新潟で団扇を何十枚も広げて横尾さんの誕生日をお祝いしている同担を見かけました。正直悲しくなりました。誕生日を祝うことはいいことだけど、なんで会場でそんなにスペースを使ってやるんだろう。例え人が少ないところだったとしても会場のこと、周りの目なんて考えず、お祝いしたい気持ちよりただ自分が目立ちたいからやっているようにしか見えなくて。横尾さんが何をしても叩かれている状況で、なんで横尾さんを支えるはずのファンが火に油を注ぐようなことができるの。大好きな人がお祝いされているはずなのに、凄く嫌な気持ちになりました。
きっとネットでも荒れるんだろうなって思いながら恐る恐る検索をしたら、愚痴垢や他担からの邪魔だとか小馬鹿にする意見が目に入って、でも同担は「すごい!」とか「横尾さん愛されてる」「嬉しい」とか自分が思っていたことと真逆のことを呟いている人が多くて、本当にショックでした。
一度そう思ってしまってからは、同担の色んな言動に対しても違和感を感じるようになりました。昔からよく見かけていた「横尾担は声出せないから」「横尾担は見守るタイプだから」という言葉をあのミューコロに入った後ですら言い続けてる。声が出せないのならそれで構わないけど、歓声がないのは私の責任じゃないよだって横尾担だから。横尾担はみんな大人しいから声出せないんだもん!そんな主張を未だに続けてることが信じられなかった。
横尾さんが歓声が欲しがってると推測してネットで盛り上がれるのなら、なんで去年現地でもっと声を出してくれなかったんですか。横尾さんが客席に対して挨拶をしても他メンバーより反応が薄くて、悲しくなったのならなんでその場で盛り上げてくれなかったんですか。
わたしが入った回数こそ多くなかったけどどの公演も歓声は少なかった。1人で入ることがほとんどだったから、1人の力じゃ何も出来ないんだって公演中に虚しくなることが何度もありました。
でも「声が出せない〜」って言っている割に、会場の外では身内で固まって騒がしくしているオレンジ色の集団を何度も見かけました。
他にも「横尾担は礼儀正しい、上品な人が多い」と言いながら、銀テを取るために後ろの席から走ってくるオレンジ色の洋服を着た人。横尾さんの脇毛♡臑毛♡今日のパンツの色は何色だった♡とか下品な話を鍵もかけずネットでも現場でも堂々と話す集団。挙げ句「横尾担はみんなドMだよね!変態だよね!」と仲間意識を持ちたいのか、勝手に皆を一括りにしていましたね。
もちろん他担にもこういう層は一定数居るとは思いますが他担のことはわたしには分かりません。
横尾さんが髪の毛を伸ばせば横尾担ですら「切れ、短髪にしろ」、パーマをかければ「似合わない」。好みもあるけど、そこまで頭ごなしにたかが一ヲタクが束になって否定する必要性はありましたか?
ネタだとしても、大好きな人に対して使われる下品な言葉は見ていて良い気分にはならないし、長髪も好きだったわたしは、長髪も好きだよと言っても全方向から否定され続けた去年の5月辺りは本当に地獄でした。
なにより味方だと思っていたはずの同担が1番の敵だった。
現場ではテンションも上がって周りが見えなくなる気持ちもわかるから目を瞑ることもできる。
でもネットでは、Twitterでは、嫌でも目に入るしそれを避けてもまた別の人が同じようなことを呟いている。ファンだけじゃなくて、テレビで横尾さんを気になった人が検索をかけたら簡単に出てくる。「横尾さん」と検索をしたら愚痴垢の誹謗中傷と「いい歳した大人」を自称している横尾担の気持ち悪いツイートしか見かけなかった時はショックでした。
ネットの誹謗中傷を見て横尾さんが傷付くと思うことが出来たのなら、自分達の気持ち悪い下ネタや妄想、横尾さんへの卑猥な言葉を本人が見てしまったら…という考えはできなかったんですか?
わたしはこの1年、他担や愚痴垢からの横尾さんや横尾担を傷付けようとしているのがあからさまだった悪意ある言葉の数々より「横尾担はみんなこうなんです!」って逃げ道を作って、配慮もモラルもない気持ち悪い発言や行動をし続けていた同担と「横尾担」として一括りにされていた方が苦しかったし辛かった。過去形じゃない今でも辛いです。そんな中でもわたしが横尾担を続けられるのは横尾さんを見ていたいという気持ちが辛さより優っているからです。
これからもずっと横尾担で居ることは胸を張って言えるけど、きっと同担を信じることはないと思います。全ての同担がそうじゃないことはもちろん分かっています。でもこれ以上嫌な気持ちにはなりたくないです。
自分自身の懐が狭いことは十分すぎるくらいわかっているけど、自分やその身内が楽しければそれでいい、横尾さんを自分たちが楽しむためのおもちゃだとしか考えていないと思わせるような言動を「応援」という言葉を利用して正当化し続けてきた同担がわたしは苦手です。
歌も下手、ダンスも下手、愛想ない、素行も怪しい、アイドルに向いてない横尾くん 音痴とか料理とか動物とか俳句とかアイドルじゃないところで頑張ってる(音痴を頑張る?)けど、15年くらい何してたの? まずアイドル頑張ろうよ
Kis-My-Ft2の横尾くんが歌っていた。
そして音程を外してみんなに笑われていた。
まるで、音痴の私が歌った時に笑われているかのようでものすごく恥ずかしくて嫌な気持ちになった。
そういうバラエティは沢山ある。
芸人だから、アイドルだから、なんて境目を私が勝手に決めつけるのはよくないと思う。
それでもアイドルであるはずの横尾くんが笑われていることに耐えられなかった。
そもそも横尾くんは笑われるためにアイドルになったのだろうか。
もしかしたら私が勝手にUTAGEを歌番組だと思っていただけで、UTAGEはバラエティだったのかもしれない。
私は横尾くんのファンではないけれども、どうせなら横尾くんが歌が上手くなるように練習して、その練習風景とかを放送すればいいのにと思った。
丸ぼうろ(まるぼうろ)は、佐賀県佐賀市を代表する銘菓の一つ。「丸芳露」「丸房露」などと記載される場合もある。
丸ぼうろの起源には様々な諸説がある。丸い形をしたボーロ(葡: bolo)という言葉から「まるぼーろ」となった説や、
ヴェネツィアの商人で東方見聞録に日本を含めた東洋を紹介した事で著名な「マルコ・ポーロ」が語源となっているなどがある。
製法についてはポルトガルの北部の都市であるフェルゲイラスに伝わる郷土菓子である「カヴァカ・フィーナ・デ・カルダス」
(葡: Cavaca Fina de Caldas)という焼き菓子が起源となっていると言われる。
現在に伝わる日本の丸ぼうろのルーツとして完成させたのは佐賀市伊勢屋町の横尾家の祖先が17世紀後期に完成させたものを
ルーツとする「北島ルーツ説」、あるいは鶴屋の二代目店主太兵衛が17世紀中期に長崎にてオランダ人より製法を直伝に学んだと
される「鶴屋ルーツ説」が発祥の双璧となっており、そのルーツがどちらが先であるかは定かではない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%B8%E3%81%BC%E3%81%86%E3%82%8D
まーこれ読めば狂ったように批判する人が多いだろうなっていう内容を雑に書き殴る。その内気が向けば、徐々に加筆するかも。特定の人が見れば誰が書いたか分かりそうな・・・。
デマは不安を煽るものが多いが、中途半端にインテリな奴が根拠薄弱な安全情報を流したりする例も。原発に対する非科学的な恐怖感に対する反動化だろう。無闇に恐れることはないという主張が勢い余って無闇に安全だというデマに繋がるのだろう。どっちにしてもデマは大迷惑なので止めて欲しい。
切込隊長こと山本一郎までその中に入ってしまったのが、人間の能力の限界を感じさせる。彼は結構賢い部類に入ると思ったんだけど、それでも人間の能力は個人レベルでは限界値も低いようだ。知能や倫理のネットワーク化が人類の課題。相互に補完・訂正し合って相乗効果を高められるか否か。
国同士が協力できずに地球規模でまとまれないのは、人類にとって地球が最大単位だから。それ以下の単位では、争いはあっても、学習によって視野を広げればまとまることも可能。そう言う意味でも宇宙開発は意味がある。地球よりも広い範囲を自然な意識内に収められれば、地球規模で人類がまとまれるだろう。
あと、デマに関しては、どこそこの教授が言ったからとか、米軍情報だからとか、そういう理由で信じた人が多かったが、やっぱりそういうのに弱いんだなと。 MITの教授だけど実は原子炉や原子力工学は専門外で物理の先生ですらなくマーケティングだか何だかの先生だと後で分かったりということがあった。デマに対する方策として、「信頼できるソース」というのがあるけど、これは肩書きとか機関名の権威に盲従しろってことではない。あくまで、自分の頭で総合的に情報分析・判断する際に、どういった情報を取捨選択するかという際の目安でしかない。取捨選択の判断基準としては、学問的手法によるのが適切。仮に優秀な学者が唱えた説でも、それは学説に過ぎないという当たり前の事実。あと学者の情報と現場を知ってるエンジニアの情報を組み合わせることも考えて欲しい。
これは私のような存在、中の人の気持ちも知ってるし、外の人の立場でもあるので書いておこうかと。もっとも中の人、外の人にも色々いるんだが。
絶賛する声が大きすぎて怖い。もちろん、気持ちは分かる。だから絶賛を非難する気はない。
しかし、まず第一に彼らはそれが仕事であること。つまり平時より課せられた使命であること。特に自衛官は我が身を顧みないことを宣誓し署名している。だから義務を果たしているに過ぎない。
念のためにもう一度書いておくが、それでも彼らに感謝するという気持ちは充分分かる。そうした過酷な義務を大阪市バスの運転手よりはるかに安い給料で遂行してくれるのは確かに有り難い。
が、しかし、彼らには宣誓に応じた義務を給料と引き替えに果たすというのが役割だということを忘れないで欲しい。
度を超えた絶賛は、自衛官らにとっても国民にとっても不幸なことだ。彼らは超人ではない。肉体的・精神的に被災者以上に過酷な状況の中で作業を続けることは、自衛官などなら平気だという訳ではない。
精神的に余裕のない被災者から容赦ない罵声を浴びせられることもある。自己完結型の組織として自前で用意した環境を享受すれば非難される。自分の家族も行方不明のまま。大量の遺体が腐り始める。理不尽なことが山ほど降りかかってくる。
そんな現場にいる人達をヒーロー扱いするというのはやや失礼なことだとさえ言っても良い。もっとも彼ら自身は何とも思う余裕もないだろうが。彼らに報いる方法は、彼らが充分能力を発揮できるような環境を平時の間に整えることだ。はっきり言ってしまえば、毎年の予算を増やすこと。そしてそれが有効に使われているか、官僚の都合が優先されていないかチェックすること。彼らに感謝すると言いながら、予算には関心を持たない人は多いのではないか。年々減っていく予算をどう思っていたのか聞いてみたい。いや聞きたくないわ。予算に関しては全体の額だけではなく、内訳も非常に重要。イージス艦とか支援戦闘機とかMDとかも大事だけど、もっと地味なところは蔑ろにされがち。柱の浮いた廃墟のような倉庫とか、すぐちぎれるペラペラの個人装備とか、歩いてるだけですぐ部品がなくなる小銃とか。今や第三世界と呼ばれた国々の軍隊の装備にも劣る点が多々ある。ハイテク装備にだけ目を奪われるとこうなる。
自衛官らを超人扱いして有り難がるのはやめよう。頑張ってくれてる同じ日本人として感謝しよう。
コンプレックスの強い人がそれを軍隊のロマンへの心酔という形で発散したがるというのはよくあることなんだが、今の日本では主にネトウヨがこれに該当する。極端な国粋主義というのは軍隊の内部よりも、外部から内部に浸透してくるものだと考えている。三島由紀夫が自衛官に冷笑されたのは当然。軍隊ではああいう人は一番浮く。井上和彦とか話にならん。ああいう人はヒーローを語ってその尻馬に乗ろうとしてるだけ。
連日の過酷な状況を伝える暗いニュースの連続で、自分自身は直接被災していないにも関わらず、心が参ってしまう人が続出。見なきゃ良いんだけど気になるから見てしまうんだろうね。そういう人はなるべく民放のセンセーショナルな番組を見ないようにした方がいいと思う。とかく人の不安や恐怖やらを煽りがちなので。情報は1日1回、NHKのニュースを見て、後は新聞の一面でもざっと眺めれば充分でしょう。
ネットの情報は読み解くのに相当のリテラシーと時間が要求されるのでこういうときは実はあんまり実用的でない。
んで、自主規制とか自粛とかいわれる物が行きすぎというのも分かるが、わざわざ話題を逸らすこともないとも言える。そういう訳でこの文章を書いている。
遺体を映すべきだという声をよく聞くけど、それは要らないと思う。それを見てたらどうなるの?慣れるの?そんな場面を見なくても震災から学ぶことは十分出来ると思う。
以下加筆するかも・・・・多分しない
日本の先駆的研究者、松浦祥次郎氏も再考を迫られたことを明かした
不可欠であっても数は減らせる
M9レベルを基準にすることについての国民の合意を確認しておく必要
数十兆のダメージか→国民皆でかなりの負担をすることになる(全員が「被災者」でありサバイバー)
今の日本に必要なのは抽象的な協力概念ではなく、国民が賢くなって賢い政治を選択すること
戦後政治を変えるのは震災前から喫緊の課題であったがもう猶予は一切無い
今、間違った復旧・復興をすると取り返しがつかない→反面、新しい街作りの機会
補償にも効果測定は必要(効果は補償された人・されなかった人・国民全体の人心の安寧も含む)
その防止策は?
場所は確かに難があるが、では財政難の中でどの選択肢を採れるか
庁舎近辺を徐々に再開発するのは無理?庁舎が来れば需要も生まれるのでは?
数々の地震に耐えた現庁舎も今後はさすがに不安(そこが出発点だったはず)
他にもあったけど、ありすぎて忘れた。とにかく考えさせられたことが多すぎて全部覚えてらんない。不安を煽るつもりはないが、もはや崖っぷちであることは事実であると認識した上で勇気が必要。
こういうアホなりにも真面目に考えてびっしり(というか8行おきじゃなく)書かれた文章(つっても作文程度だが)より、どっかの歌手が書いた5行くらいの詩を読みたがるのが大衆なんだと思ってるけど。
きっちり考えるより、分かりやすい言葉に感動してる方が圧倒的に楽だという誤謬の根本原因をどうするのかまで考えないとな。それは俺なんかより、インテリが考えるべきことなんだけど。インテリというのは優れた思考力を与えられている分、俺たち愚民を導く責任があるんだよ。ワンフレーズで国民を先導ならぬ扇動する政治家とか論外。
で、NHKの水野解説委員と横尾アナウンサーには萌えた。彼らは常識的なインテリだと思う。他にもテレビに出てる人でもいいこと言ってる人はいるし、それが放送されているのだから、まだマスメディアには存在価値が残っている。
追記
読めば分かると思うが、私のこの文章が歌手の安っぽいフレーズより有用だという主張をしているのではない。下らない物が結果的によい効果をもたらすことは良くあるし、私から見て下らない物が世の中のためになる価値ある物かも知れない。しかし、そういった価値判断以前に、単純に、真面目に書いた長文より情緒的なワンフレーズがとっつきやすく、それだけで満足してしまうことによる誤謬の可能性というのは大きいという構造の話。いずれにせよ、その辺はこの文章の主題ではないんだけれど。
NPOユニバーサルデザイン研究機構(http://www.ud-web.com/oshirase3.htm)の横尾氏からのメールを http://npo-uniken.posterous.com/46132557 より転載し、読みやすいように整形+強調しました。文章は原文ままです。
http://npo-uniken.posterous.com/46132557 があまりに読みにくかったんでコピペして自分用に整形したついでに増田に上げてみたんだけど、まさかそのまま元サイトに再コピペされるとはおもってもみなかった。どうやら http://anond.hatelabo.jp/20110317150033 ってことらしいので、ここにあった整形板は削除しました。ユニバーサルデザイン研究機構によるボランティア活動については下記あたりがいま出てる公式情報だそうです
なんか最近最初少しやって積んであるゲームがすごく多い。ちょっとやっては新しいのを買ってる。
たまたまこんなインタビューを読んで
http://getnews.jp/archives/60012
横尾:
最近、色んなゲームでそうなんですが、最初の30分をプレイすると残りの10時間とかが想像出来てしまいます。大体、ザコ戦がこのぐらいで、ボスが何体で、とか。そうなるとモチベーションが下がってしまうんですね。ゲーム業界に長く居るせいか年をとったせいかよくわかりませんが、そういう気分になる事が多くて。
ああ私もそうなのかな、と思った。
「あのゲーム進めようかな、でも進めたくないな」
と思ったことにふと気がついた、
飽きて積んでるというより、積極的に話を進めたくなくて積んでいるという気持ちに今日初めて気が付いた。