はてなキーワード: 弊害とは
せっかく昔免許とったのに事故起こすのが怖くて全く運転してない。
ヨボヨボの年寄りとか免許取りたてのJDが親の車をガンガン乗り回してても俺にはできない。マジ無理。
たぶんドラレコで撮られた事故動画を日常的に見ているのが良くないのだと思う。ドラレコ普及の弊害だ。
事故動画を好き勝手に摂取してはいけない。他人の事故はエンタメではない。
もし少しでもハンドルが逸れたら人を轢いてしまうかと思うと本当に恐ろしい。
俺もマイカーでソロキャンとかしてみたいよ。車載動画も好きで良く見ている。でも運転は駄目だ。
家族を人質に取られて犯人に運転を強要でもされない限り決してできない。自分本位な理由で運転できるほど俺の中のハードルは低くない。
完全自動運転早くしてくれ。頼む。
もしくは俺の家族を人質に取ってくれ。何回か乗らせてくれれば多分大丈夫だと思うから。でもしばらくは助手席に乗って見ててね。
金銭以外にも対価関係があって広告として事業者の意思が介在してたら要件に該当する可能性はあるのでは?
そこだけちょっと気になった
報告書には
>「事業者と第三者との間に事業者が当該第三者の表示内容を決定できる程度の関係性があり、当該第三者の表示について、事業者と第三者との間に第三者の自主的な意思による表示とは客観的に認められない関係性」があるかどうかについては、事業者が第三者の表示に対して支払う「対価」についても考慮されるところ、「対価」については、金銭又は物品に限らず、その他の経済上の利益(イベント招待等のきょう応)など、対価性を有するものが含まれる。
ってあるのは違う?
ただ今回の件は対価があることで事業者が第三者の意思を拘束して広告を行ってるのではなく、人的関係に基づいて第三者が自主的に紹介したものだと思うが。
それにこの場合は消費者も中立的な第三者の意見であるとは誤認しないであろうと考えてステルスマーケティングの弊害は生じにくい場合で規制範囲から外れると思う。
先に言っておくと、雑に書けば殴られる形で集合知が集まるという例のやつのつもりで書いてるのでみんな気軽にボコボコにしてくれ。
女流棋士の話題になるとはてなではジェンダー論と安易に結びつきがちで変な論争が起こるため整理されたいと思い、増田の見解を書く。
そりゃ一般人に比べたら強いに決まってる。
プロ棋士は強ければ男でも女でもなれるし門戸も平等に開かれている。ただ、その門戸を突破した女性がまだ一人もいないのが現状であり事実である。
⚫︎なぜ男はプロ棋士になれるのに女はなれてないのか
とんでもない天才がひしめき合う世界なので、毎月数日コンディションが落ちるという生物的違いがとんでもない大きな差になるのかもしれない(対局日当日がその日に当たることももちろんあるだろう)。将棋とは関係ないところで男性相手に鎬を削るということにプレッシャーを感じるような「女は男を立てなくてはならない」「女は男に勝てない」等の刷り込みを社会生活のなかで学習しているということはあるかもしれない。後述するが女流棋士という枠の存在の影響もあるかもしれない。とは言え、プロ棋士になれるかなれないかの奨励会は勝敗がすべての世界であり、男の成績に下駄を履かせたりみたいな差別は一切存在しない結果がすべてである。
⚫︎女流棋士とは何か
そこで登場したのが女流棋士という枠だ。日本将棋連盟の役割はなにも「将棋が強い奴を選り分ける」だけではない。「より多くの人に将棋を楽しんでもらえるよう普及活動に励む」も日本将棋連盟及び棋士を生業とする人間の立派な役割だ。
そしてそうなってくると将棋界が男しかいないむさ苦しい世界だという事実は都合が悪い。別に門戸は開いているはずなのに、女性プロ棋士は一向に誕生しないのである。
こうして生まれたのが女流棋士という枠だ。プロ棋士とは別枠で、プロ棋士にはなれないけどちゃんと将棋を理解してて将棋が好きで将棋が強い女性には将棋を生業として生活できるように女性枠を設けますよ、という話だ。
これは、普及活動という点で男女差はなるだけ埋めたい女性にも将棋は楽しいものだと思ってもらいたいというそのままの意味でのアファーマティブアクションだとも言えるし、まあ解説やイベントの際に華を添える客寄せパンダ的なところがあるだろう点ももちろん否定しない。
プロ棋士になれるほど強くないやつでも、女なら女流棋士にしてあげるよ、それが女流棋士だ。
前項で書いた通り、女流棋士は必要により作られた女枠という認識ではある。が、閉ざされた男だけの世界に急遽都合の良い女が駆り出されたわけではない。平等な勝負の世界で女性が勝ち上がってこなかったので「これはまずい」と設けられた枠なのである。
女流棋士という概念自体は経緯を踏まえてもまったく悪いものではないのだが勿論弊害はあると増田は考えている。
まず一番大きいのは、プロ棋士を目指すための奨励会員と女流棋士を兼任できる点だ。つまり女流棋士のリーグ戦を戦いながら、奨励会でも戦う。女流棋士になれば解説やイベントなどの仕事も発生する。一方で奨励会で戦う男たちは「ここで勝てなかったらすべてが終わり」の人間たちだ。勝敗へのこだわりや思い入れに差が出るのは推して知るべしだ。
プロ棋士になるための奨励会での勝負への準備という点で言えば女流棋士も兼任できるという二足の草鞋が大きなハンディキャップになることは想像に容易であるし、女流棋士という生き方を選べることそのものが「逃げ道」として機能してしまうこともアファーマティブアクションという理想が善く機能することはいかに難しいのかという話にも繋がっていくのだと思う。男が一般職を選ばないとか、チルドレンと呼ばれる女性政治家とか、色々な類似例が想起されるが、完全実力主義の将棋の世界ですらアファーマティブアクションによる功罪は発生するのである。
ジェンダーを考えるための将棋などまったく馬鹿馬鹿しいが、全くすべてが勝負の世界である将棋界がどうなっていくのかというのは、その点においても興味深く思っている。
チー牛っていう言葉を見ると、その日初めてチー牛というネットスラングを知った上司が「そういうふうに揶揄される男の子は誰にも危害を加えてないのにバカにされるのは可哀想だし、企業が美味しいものを食べてほしいと願って開発したものを悪口に使うのはなんかやだね」みたいに言ってたのを思い出す
SNSやってない(かどうかは知らんけど)人の考えってこんな感じか、自分は毒されすぎてるなと思った記憶
(追記)
自分も悪口的なネットスラングは使わないし良くも思ってないし、チー牛に関しては自分にコンプレックスある人が人を下げて自分が上がった気になるため・自分はそうじゃない存在だって思うために使ってるんだなーと思ってるけど(実際見た目も中身も良い人がチー牛使ってるの見たことないし)
前略
ASDとADHDを併発していることを成人になってから診断でわかって、思い返せば度々動きがキモいなどもよく言われていたことを思い出した
診断がおりてから10年経って、定型発達のひとや運動神経がいいひととの日常的な身体の動きの違いがわかってきたので、小さい頃の自分にやっていてほしかったことを書き連ねます
過度な集中やトランス状態に入ると無意識のうちに口呼吸になっていることがある。
そのまま日常的に口呼吸になってしまい(扁桃腺が大きくて喉風邪ひきがちだったのもあるけど)、結果アデノイド顔の出っ歯になってしまった。
中学生の時に矯正歯科を受けさせてもらい、矯正装置に舌先を上顎につける部分が付けられて習慣化した。
可能なら夜寝る時に口呼吸を防ぐテーピングもやったほうがいい。
猫背だと上手く呼吸が取り込めてないことがある。
見目も良くない。
この姿勢をよくするだけでやたらと人にモテるようになった気がする、美人だと言われることも増えた。
その一環でか歩き方はふにゃふにゃしてるし、どこでもつまずきがち。
弊害として、前腿と脹脛に負荷がかかり、どちらも太くなってしまった。
色んな運動をやってきたけど体育は嫌い。唯一水泳だけ続いてる。
小学生の頃に通っていたイトマンが良かったのだと思う。体育では教えてもらえない身体の小さな動きからフォームまでわかりやすく教えてもらったおかげで上達も早くて楽しくできた。
今はエンジニアの仕事をしていて、どうしても肩首や腰に負荷がかかってる感じがあるけど水泳するとすっきりする。
続けていきたい。
水泳できないときはnintendo switchのフィットボクシングをやってる。これもフォームの指示が的確で汗をしっかりかくとすっきりして気持ちいい。
他にも伝えたいことがあった気がするけど忘れちゃいました。
わりと有名な企業なんだけど、俺が所属してる事業部は今年の売上が好調で、中期計画で「2025年度に達成します」と言ってた売上高をすでに超過するのが確実な状況。そして従業員は急には増えないので利益率も高い。
これが小さな会社なら「臨時ボーナスだー」とかなるんだろうけど大企業ではそうはならない。できるだけ売上を抑えて(可能な案件は来年度に繰り延べるとか)、特に必要でもないとこに金使って利益減らそうとし始める。
なんでそんなことするかというと、今年の実績をベースに来年の目標値が設定されてしまうから。
今年の秋ごろまでは、有料の外部研修とか、サブスクのネット研修とかを推奨するぐらいでまだまともな金の使い方してたんだけど、いよいよ金余りが確実になってくると、希望者全員にiPadを配る(数百万)、希望者全員の社用スマホをiPhone15に新調する(数百万)、事務フロアの全面リフォーム(数千万)とかになってきた。ずいぶん景気のいい話だけど、べつに会社全体が好調なわけじゃないんだよ。
なぜマッチングアプリをやったか。それは女性についてよく知りたかったからだ。
25歳の時に初めて付き合った彼女に振られ、どうしたら付き合い続けられるか、どうしたら価値を提供できるか考えた。
単純にセックスに対する興味があったと言うのもある。
結果どうだったかといえば、ある程度女性の需要や気持ちは把握できるようになった。
2年間で合計60人程度の女性とデートをし、20人強の女性とセックスをできた。
セックスの欲もある程度満たされ、数を追うこともなくなった。
マッチングアプリをやるメリットは、やはり試行錯誤ができることだろう。
セックスのやり方だと、耳舐めは効果的だが嫌う人がいる、gスポットよりその奥のほうが好まれやすい、人によりガシマンしないと感じない人もいる、クリで感じる人は多いが、20%くらいは中が開発されてない。
デートだととりあえず男が店など全部決めるのは当たり前、価格の配分は男の後輩と飲む感覚で決める(5000円の会計なら自分が3000で相手2000)などなど。
ラインの頻度や相手との距離感は同じで、距離感は保ちつつ好意を伝えるのが重要など。
余裕があるのは大事だが、ある程度ガッツいて承認欲求を満たさないとヤれない、などなど。
全て紙に書き、pdcaを回すことで最終的に80%の確率でセックスできたし、彼女化するのに重要なのは一人暮らしというしょうもない知識もできた。
恋愛工学をベースにPDCAを回したが、恋愛工学でもdisりは上手く作用しないこと、そもそも恋愛工学はアメリカの「ゲーム」という本が元で、disりではなくネグレクト、つまり「引き」が重要で、そちらは有用に作用すると学んだ。
ただデメリットとして、アプリで遊んだ後2人と付き合ったが、「サービス精神でしか付き合えなくなった」というのがある。
自分の自慢話や考えは不要、中身がある男ではなく中身がありそうに見せるのが重要、真剣な話や不安を想起するような話はしてはいけない、などなど。
気にかかることがあっても、言わない方が関係性が続くことも知っている。
実際は彼氏彼女になれば、「気になる部分」を言っても関係性は続く可能性が高いのである。
しかし、セフレ経験が長く瞬間的に「言ってはいけない」と思い言えなくなるのだ。
マッチングアプリをやって遊んだことは後悔していないけれど、相手の気持ちがわかるようになった分、自分の気持ちを伝えることができなく、わからなくなった。
ダサさというのは自分のセンスと相手(世間)のセンスの差で起こる
この条件下ではダサさは生じない
ダサいというのは思い通りの服を着れないか、思い通りに着たのに世間からダサい認定された時に生じる
このとき、「自分では良いと思っているのに世間ではダサいと思われている」ことに気づき、それを認めなきゃならない
これにはコミュ力や空気を読む力が要るので、陰キャはこの壁が苦手である
あと謙虚さがない人もこの壁が苦手、周りにイエスマンが固まってるとか
(私は大学生だった、中学生はそれ以前「お母さんセレクト」だった、お母さんセレクトはセンスが前時代でありダサさの象徴である)
あるいはマネキン買いとか、ファッション雑誌丸パクリのような、何かしら解決策を見つけられた人も良い
それ以外のセンスのない人は苦しむことになる
ファッションは非常に難しい、言語化されていないし、個人差もあるし、時代によっても違う、足し算すればいいわけでもない
おまけにほとんどの人はスタイルが良いとか美形であるというポテンシャルもないから有名人の真似をしてもダサいままだ
(服がなんでも合いやすい人、服がなんでも合いにくい人がいる。後者は地獄だ)
調べるのがとても難しい
とにかく勉強し、色んな人の意見を聞いて試行錯誤していくしかない
この時調べるべきは一般的な知識もそうだけど、自分にそれがあってるかどうかも調べなければならないから難しい
つまりセンスの良い友達や家族と服の話をするとか、複数の店員にひたすら聞いて深掘りして聞いていく必要がある
(私はぼっちだったので後者を選択した、店員は嘘もつくから複数の店員の意見を総合する必要がある)
自分のスタイルを崩さず、オリジナリティを突っ走り、かつスタイルが良く美形な人、あるいはキャラクター的である人
なんならフォローされ真似されたりもする
服に悩んでる人は究極彼らに成りたいのだが、成れないため悩む
ただ、戦略的に天然を装ってる人もいる
これは物差しで測れない領域に行くと人のセンスセンサーはバグるので、それを狙ってる人だ
毎日同じ服を着るのもこれに該当すると思う
「◯◯さんはそれでいいと思う、むしろそれでいてほしい」と言われたら勝ちだ
養殖と呼ぼう
市場調査をし、自分にとってそれなりに最適解である服を選べるようになったとする
ここまで到れる人は6割は居ると思う(苦手な人にはこの割合が信じられない)
当然都会の方が多い、都内の大学生あたりは若いうちにここまで来ている
ただ、ここまで来れた者たちはほとんど同じ格好になる
すると残酷なことに、いつしかダサい認定されていることに気づいてしまうんだ
真似する人・空気読む人という姿勢がまずダサいとまで言われてしまう
(キョロ充とか呼ばれることがあるが、天然との対極にいる存在だ)
ここから「無難からの脱却」をする必要が出てくるが、下手にやると壁2に逆戻りする
この先は本当にセンスが要る
無難から脱却した人たちというのは、ある程度センスが有る人たちばかりだ
「センスよく見られたい」などという邪なモチベーションで来た者には出せないものをもっている
センスない者は結局その「どれをパクるか」を選択しなきゃならないわけだが
そのファッションというのは結局その人やその人の属するコミュニティ、TOPにとっての正解であって
その条件を間違い、安易にパクると途端にダサいゾーンに入ってしまう
センスを一回パクってみるとわかるが、見る人次第で「いいね」という人と「ないね」という人が出てきてしまう
ある場面ではおしゃれな人達からおしゃれ認定されるし、他の場面では直接ではなくとも間接的に「アレはないよね」と言われてしまう
人の顔色ばかり伺って最適解を探そうとしてきた人はここで壊れる
結局自己満足で服を着ていたセンスある人が正しいんだと気づいて、じゃあ今までの苦労はなんだったんだと思い、でも自分が自己満足で着ると酷いことになるんだよなー、などとぐるぐるし始める
この壁を突破して、「無難+自分のポリシー+TPO」という自分なりに答えを出せる人はそう多くないと思う
究極言えば服は「どう見られたいか」「どうありたいか」という哲学的な話になってくる
「界隈の無難」を使い分ける手だと思う
界隈のユニフォームみたいなのあるだろ?あれをその場に応じて使い分ける
化粧もそれに応じて使い分ける、キャラクターも使い分ける
ここらへんが凡人の限界であり、ここでいいんだと思う
これを「擬態」と呼んでいる
(私はここの割り切りがどうしてもできず、ちょっとオリジナリティを出そうとして浮いて羞恥するザコである、羞恥するのはポリシーがないからだ)
完全に諦めたらここになる
最強である
「解脱者」と呼ぼう
ひどいと「新しい服を3回着たらもう着れない」みたいな人もいる
女子に多い、友達にいるがバカジャネーノと思いつつちょっと可哀想でもある
無垢な幸せ者がカッコいいと言う服、それはつまりダサい服である
その人に好かれる最高の服はダサい服であり、無難な服ではない、そこが面白いと思う
足しすぎないとか、色を合わせるとか、Aラインだの、骨格だの
それらは一見虎の巻に見えるが、これを覚えても実践との差がある
それに、これらを超越してるセンスの人たちも当然いる(例えば大阪のおばちゃんとか)
厄介なことに、これらを超越してるセンスの人の中にもセンスが良い人がいる
これまじ
ただし体型をよくするとそれをアピールしたくなる病気にかかるから注意でもある
(筋トレしてみるとわかる、私はダイエットに成功した時細くてピッチリした服を求めてしまった)
次に出てくるのは「こうしたほうが良いよ」である
心を強く持たなきゃならない
極稀に「母がセンス良い」という家庭があるがただのラッキーな者なので妬んでやろう
しかし父母世代のセンスの中にも光るものが必ず有り、それはやがて復刻する
復刻した時、ダサい認定していた世代は着れないが、その下の世代は着るので、そうやって流行のレイヤーができる
むしろ子供世代が「父母世代センス否定の呪い」にかかってるからこそ、更にその下の孫世代は安心してそれが着れるわけだ
それは下の世代のウケはいいけど、同年代からのウケが最悪になるから
ボーナスが出ないから惨めだとか、30代男で年収700万円が低いとかさあ、上見すぎじゃね?
いろいろとデータが出てくると
はてサの言い分が、「結婚にこだわるのをやめよう」みたいにスライドしてるんだけど
(金銭的・制度的問題なのだという自説に固執したいみたいなのだけど)
例えば、イケメンヤリチンが10人孕ませたとして、10人の父として扶養費を出せるわけがないんだから
んで、そういう制度にしてまで女様に子供を産んでくださいませという方向だと
今でも、離婚して女様は生活保護を申請し、裕福な生活を「一家で」営む人がいるようだけども
個人的な感想だけども、そこまでして国体を維持しようとするくらいなら
アメリカだってフランスだって(弊害はともかく)そうして国体を維持したわけさ
多分、フランスはもう少ししたら民族構成がガラッと変わると思うぞ
女様を優遇して平身低頭お子を産んでもらうことに全力になるくらいなら
変な話、持病持ちで慢性的に離席リスクのある人は、就活ではそのように遇されると思うんだよ
ここに対して
例えば二人生むとしたらば
これを通常の人と組ませる場合、在籍してるのに戦力にならないという人員を抱えることになる
人員補充したくても、子持ち様が復帰したら仕事がなければならないから、それも難しい
常に余剰人員を抱える事になり
それはサービス対価へ跳ね返ることになる
自己肯定感とは、自己を倫理的に肯定するという意味だ。(自己の物理的な存在感が問題である場合、病院に行った方がいい。それは離人症だ。)
しかし、ヒュームの法則を見ればわかる通り、「である」から「べきである」を導くことはできない。
つまり、何らかの客観的根拠から自己を倫理的に肯定する推論はあり得ない。
仮にあなたが「年収が一億円だったり、容姿が水準以上であれば自己肯定感を持てる」くらいに単純な精神を持っていたとしよう。
そのうえで、何ら自分を肯定できそうな事実が見つからないから悩んでいると。
そんなもので満足するなら「私は日本人だから価値がある」とでも思っておけばよろしい。
(すぐにこの解決法の問題点を指摘するので「私は日本人であることに肯定的感情を持ってないが」みたいな感想は仮に思っても、言わなくて結構です)
しかし、もしも「私は日本人だから」「私は年収一億だから」「私は美人だから」「私は○○コンテストで大賞をとった」「私は毎年○万円寄付している」
といった方法で自己肯定感を基礎づけた場合、むしろそのメリットよりデメリットの方が大きいだろうことは容易に想像がつく。