はてなキーワード: ナイーブとは
少し前のニュースだが
http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG0403L_U4A400C1CC1000/
最高裁が、この1年間に裁判員を経験した人にアンケートを実施した、というニュースなんだが、
そこに書いてある回収率を見て、ビックらこいた。
「回収率98.7%」
ヲイヲイ、今時、独裁国家の選挙でも、なかなか政権党への投票率は98.7%まで達しないぞ・・・
この手の世論調査、アンケートを実施したことある人ならわかるだろうが、
一般的に、世論調査やアンケートの回収率は、せいぜい50~70%である。
ナイーブな内容(例:男女交際の有無など)だと、回収率が10%未満、なんていう悲惨なケースもある。
(そういう調査は、もはや信憑性を持ちえない)
統計法で国民に回答義務があるような国実施調査でも、実際の回収率は70%切ったりしている。
例えば国民健康・栄養調査も、回収率は70%未満。
自分は、不摂生な人ほど国民健康栄養調査に協力拒否してしまうから、「国民健康栄養調査」データより、
実際の国民の健康状況は、不健康な方に傾いていると推測している。
・・・のような各種調査と比べると、この最高裁アンケートの回収率は、実に「優秀」である。
ここで「優秀」というのは、「独裁国家の選挙で、投票率や与党支持率が圧倒的」なのと同様の「優秀さ」、ということで、
ここまで異常な回収率を達成した、ということは、
1.最高裁が、回収に向けて対象者へプレッシャーを掛けまくった
2.もともと、従順な人、「お上には逆らわない」という人ばかりが、母集団になってしまった。
の2つのうち、どちらかだろう。(というか、両方だろう)
仮に最高裁が、アンケート回収のために、対象者(裁判員経験者)に「圧力」を掛けまくっているのであれば、
そのアンケートにおける回答内容も、「圧力」の影響があると考えていいだろう。
例えば「裁判員を経験して、良かったですか?」という設問に対して、
「やりたくなかった、後悔している」とは「言い出しにくい雰囲気・プレッシャー」があったのではないか?
実際のアンケート結果も、「経験して良かった」というお利口さん・優等生な回答が多数派になっているのだが、
そのような「圧力」があったとすれば、それをストレートに解釈すべきじゃないと思う。
そして、「お上に逆らわない、従順な人ばかり裁判員になっているのでは?」という仮説も、
というのも、裁判員呼び出しを欠席すれば「過料が取られる」とされているのだが、
(過料を取られた、というツイッターを見たことがあるが、下野新聞などは「これまで過料を課した実例はない」と報道)
⇒過料規定をストレートに受け取って、「お上に従わなきゃ」というマジメな人が、裁判員呼び出しに出席して、
「どうせ過料規定なんて、単なるおどしだろ?実際には過料を課したことないんだろ?」という不真面目な人が、裁判員呼び出しをすっぽかす、
そういう状況になっている。
まあ、法廷に「不真面目な市民」が紛れ込んでしまうのも考えものではあるが、
そもそもの裁判員制度の「理念」は、「できるだけ平均的市民の意見を反映した裁判の実現」を目標としている。
つまり、「不真面目な市民も含めた、平均的市民」の参加が「望ましい」のだが、現実は「マジメな市民、マジメ過ぎる市民」のみの法廷に化している。
なので、「アンケート回収率98.7%」という驚異の数値になっている。
「マジメな市民に偏っても、いいのでは?」という意見もあるが、覚醒剤案件で無罪判決が続出しているのは、
「参加する市民が、マジメ過ぎる」ということも影響していると思う。
人を疑うことを知らない市民ばかりが裁判員になってしまっていて、被告人の供述をそのまま解釈してしまうのだ。
いずれにしても、この「98.7%」という数字を、「高すぎて、逆にオカシイ」と感じる皮膚感覚が、マスコミには重要だと思うのだが・・・
強制されてないのに強制されてる!とか
そういう事言う人が多すぎる気がする。
書いてあることを正しく読みとるってのは普通の国語教育を受けてたら出来るはずのことで、
特殊な訓練やら才能やらはいらないと思うんだが、なぜこういう事になるんだろう……。
http://d.hatena.ne.jp/tyokorata/20140524/1400987657
記事は、艦これというゲームのブームに対して戦前回帰につながるのではないかという不安を抱く投書(筆者の解釈に基づいて要約。原典の確認を推奨)を批判するもの。
曰く、
例の朝日の投書の何が怖いかというと「嗜好は自由であるべきだが、私個人は受け入れがたい」と「戦争の恐ろしさを真剣に考える若者であってほしい」が矛盾していること。
戦争反対も『嗜好』の一種に過ぎませんぜ、ご老体。
……いったいどこが矛盾しているというのだろう。
いちおう念のために書いておくが、私はこの投書の危惧が妥当であるとか、そういう事を言っているのでは全くない。
そうではなくて、「嗜好は自由であるべきだが、私個人は受け入れがたい」と「戦争の恐ろしさを真剣に考える若者であってほしい」とが矛盾していると考えることの一種のナイーブさを指摘している。
両者が矛盾しているという考えは、おそらくは「嗜好は自由であるべき」と言いながら「戦争の恐ろしさを真剣に考える若者であ」ることを押しつけている、という解釈に基づくものだろう。
そのことは、続く「もしそれを『戦争反対』の美名のもと強制すれば、戦前と同じですぜ」との文言からもうかがうことができる。
しかし、投書の主は「戦争の恐ろしさを真剣に考える若者であってほしい」という「希望(意見)」を表明しているに過ぎない。
若者に対して「戦争の恐ろしさを真剣に考えよ」と言っているわけでもなければ、「戦争の恐ろしさを真剣に考えない若者はけしからん」と言っているわけでもない。
ブログ主はこれを強制と捉え(ているように思われ)、剰え「人格批判一歩手前のところまでやらかしてる」とまで断ずるのである。
いくらなんでも神経質に過ぎるのではないか。
無論、意見の表明も基本的には賛同者を増やすことを目的として行われるものである以上、他者の考えに対する一定の干渉ではある。
しかし、コミュニケーションとは本質的に他者への干渉であって、そのこと自体が「強制」として一概に否定されるべきではないことは勿論であるし、意見表明による他者の考えへの干渉が許されないとすれば、民主主義が成り立たないことにもなる。民主主義とは単なる多数決ではなく、構成員間の議論、すなわち他者の考えへの相互干渉によって合意を形成していくことが当然の前提とされているからだ。
そういうわけで、「強制」とは、単に相手に干渉するというにとどまらず、相手の意思に反して無理に何かをさせることをいうと一般には解されている。しかるに、意見の表明は相手方の意思に反して何かを強いるものではないから、「戦争の恐ろしさを真剣に考える若者であってほしい」は「強制」にあたらない。
人格批判云々については論じるまでもなかろう。
以上のとおりであるから、「嗜好は自由であるべきだが、私個人は受け入れがたい」と「戦争の恐ろしさを真剣に考える若者であってほしい」とはなんら矛盾してはいない。ブログ主におかれては、他人の意見を重く捉えすぎず、数ある意見の1つ程度に受けとめてはどうか、と提案させていただく。
戦争反対も『嗜好』の一種に過ぎません
と述べながら、一方で、
などとも述べるようなことをいうのだと思う。
関数本と称したデタラメ本なんかどれだけ高く平積みしたところで、どうでもいいと思ってるよ。間違って買っちゃった初心者は右往左往するだろうが、きっといつかは正しい知識に戻ってくるだろうし、それで諦めちゃう人はどのみち辞める定めなんだろう。たとえQiitaとかで議論を吹っかけられようと、話し合いが成立しないと判った時点で席を立てばいい。煽られようとワザワザ付き合ってやる必要はない。でも実際のお前らは腹を立て、戦い、傷ついてPTSDになって、数スレを消費した。そんなナイーブなお前らが、今回の事件は何故かスルーできた。
悪意のカタマリだろうと、他愛のない道化はむしろ放置でいいと思うんだよ。色んな奴がもっと好き勝手に書くべきだ。ちゅーんさんはモナド本を書いていいし、漫画で解説する関数型があっていいし、遅延評価の解説本は望まれている。市井のプログラマーは素人技術本を書いていいんだ。関数型プログラミングの繁栄はそういう態度の先にあると思う。選択肢は多い方がいい。その中で、何が本当に重要かは読者が決める。ヘンテコリンな奴をありのまま受け入れる寛容さは必要だと思うんだ。
でも今回のはそれに収まらない。重要さのレベルが違うだろ。どこぞの馬の骨じゃない。あの子は日本Haskellコミュニティの若手ホープじゃないか。今は女性関係で腹を立てているだけかもしれないが、将来トップに立った彼に「あなたのライブラリは負の価値しか持ちません」っつって包丁画像突きつけられたらどうする。Slackでは「勉強会に参加する学生が少ない」とか嘆かれてたけど、俺が学生なら、もはや頼まれても行きたくない。彼女に言及しなければ安全? 俺はそんな風には全然思えないし、正直不安だよ。
…いや、だからどうしろって言う意見はない。どうすればいいかは判らない。お前らの冷静さにビックリしたというのが感想だ。他人が頭ごなしに言っても伝わらないだろうし、本当に必要なのは排斥することじゃなくて、自分の考えを親身になって聞いてくれる仲間だと思う。ただ正論でねじ伏せるのでなく、それでいて「単なる腰抜け」じゃない誰か。
彼はスレ民でもあった筈だが、ム板のこのスレはそういう話に適さないだろう。俺たちが場を提供することはできない。勝手だが身内に期待したい。圏論の話ならいつでも歓迎です。
以上、スレ汚し済まなかった。コードをポイントフリーにする作業(たのしい)に戻ります…
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この文章は当初2ちゃんねるプログラム板Haskellスレに投げる予定だったが、スレ汚しになると判っていて書くのもどうかと思い、失礼してこちらに置きました。あとリツーイータビリティ。(この記事はリンクフリーです)
まずいのいちに言いたい。
自分の周囲にも結構いるが、「30代半ばを過ぎて“可愛くならなきゃ”の呪縛から逃れたら、今まであんなに憎かった可愛いものが悪くないなと思えるようになった」というケースは多い。問題は「美醜」の基準そのものじゃないんだよ。「可愛い・キレイetc」に過剰な価値付けがされる結果として、他のさまざまな評価軸が軽んじられている、というアンバランスさであり、その表出方法の問題でしょう。可愛いもの・美しいものを愛でる楽しさまでも全否定する、という態度もそれはそれでナイーブすぎる。
ものや人をかわいいみにくいと思うのは基準じゃありません感性です感性は無理に否定したり変更したりする必要はありませんと何べん言ったらわかるんですか。
いっぺんしか言ってませんがいっぺんで理解しましょうね。横入りしてる立場なんだから。
全く自覚はありません。というかどこがどう何故極端なのか説明して頂きたい。評価軸と感性とをごっちゃにしてるから「随分極端」に見えているだけでは?
というか元増田のところの「『人の能力は美醜と関係なく評価する、そんな簡単なことが何でできないんだオラオラ』というおシバき」だってガッチリ美醜の評価軸を無効化してるじゃないですか。
このおシバき自体も超特殊で極端で一種理想主義的なお叱りの例だとか思ってるわけですか?
苛烈な市場競争に晒され続けて疲弊している人に向かって、「いったん降りましょう」とアドバイスする時、それは一時的に「市場における優劣」という評価の場から距離をとってみようという話であって、市場という場(やそこでの評価基準)そのものの無効化を訴えているわけじゃないよね?
「市場における優劣という評価」が人生全般において絶えずされる可能性があるということは元増田も認めているところです。
つまり「距離をとってみる」という比喩が意味するところの避難先が無い。
無ければ作れ。自分を軸に。というのが元増田の言らしいですが、肝心の避難所形成の方法である「心中ランキングの廃棄」ができないとかほざいているうちは作れません、という話であるだけです。
元増田が言いたいのは、「美醜」という基準が前面化している社会状況がまずおかしいが、その状況は当然容易には変えられないから個々人の側で距離の取り方を再考しよう(=自衛)、という話だと理解している。「美醜」という基準そのものはおそらく無くせないし、そもそも無くす必要がない。数ある評価軸のなかで「美醜」による判断、「可愛いか/不細工か」みたいな評価ひとつでその人のもつ他の美点を丸ごと否定してしまう風潮だったり、あるいは、それを内面化して自身の存在が全否定されたかのように感じてしまったり、そこから「降りる=負け」だと思い込むような価値観、といったものが問われているのだと思う。
何が「問われている」のかがよくわからないというか、どうしてここまで「風潮」「社会状況」を個々人と切り離してしかも対立させて考える事ができるのかが理解できません。
美醜という基準が前面化しているという社会状況があるならば個々人の心中にもそれは基準化されて内在している可能性は高いし、それを個々人が「距離を取る」ようにするならば個人レベルでは必然的にその基準を捨てる・無効化する方向になると結論できると思われますが、何でそこで「距離」という比喩に逃げ込んでしまうんですかね?
それとも比喩ではなくて物理的にある種の人やメディアとの接触を断つことを指してるわけですか?
感性の徹底排除や無効化は生半なことでは完遂できませんが、ランキング無効化はそれと比較すれば別に難しい事ではないです。
「自分の評価軸を自分自身に移す」というのは、自分の外部(他者)の視線を完全に排除することではないはずだし、そもそもそれが可能だと考えるのは幻想にすぎない。「美醜」を含めたさまざまな評価軸を、自分の納得のいくバランスでの組み合わせとして選びとることが重要なのであって、「美醜」を必ずしも棄てねばならないとは思わない。
自分の外部の視線を完全に排除するっていうのは幻想かもしれませんが結構誰でもやってますよ。
まず他者の視線が内在化されてるっていうのが、具体的かつ極端に行くと「ここの雑貨屋のかわいい雑貨が好きなわたしかわいい!」っていうタイプの思考法であるわけで、みんな別に普段こういうカンジで生きては居ないだろうし。
http://anond.hatelabo.jp/20140411195417
一貫してランキングの有無自体を隠し通して口に態度に出さなければいい、ということにしたいみたいですが隠すだけでは無効化されないので全く無意味です。
「美醜」という評価軸そのものを無効化せよと言ってるようだけど、それが随分極端な立場であることを自覚しているんだろうか。
苛烈な市場競争に晒され続けて疲弊している人に向かって、「いったん降りましょう」とアドバイスする時、それは一時的に「市場における優劣」という評価の場から距離をとってみようという話であって、市場という場(やそこでの評価基準)そのものの無効化を訴えているわけじゃないよね?
この増田が主張してるのは実質的にそれ(市場を無効化しなきゃ無意味だ!)と同じことだと思うんだけど。
元増田が言いたいのは、「美醜」という基準が前面化している社会状況がまずおかしいが、その状況は当然容易には変えられないから個々人の側で距離の取り方を再考しよう(=自衛)、という話だと理解している。「美醜」という基準そのものはおそらく無くせないし、そもそも無くす必要がない。数ある評価軸のなかで「美醜」による判断、「可愛いか/不細工か」みたいな評価ひとつでその人のもつ他の美点を丸ごと否定してしまう風潮だったり、あるいは、それを内面化して自身の存在が全否定されたかのように感じてしまったり、そこから「降りる=負け」だと思い込むような価値観、といったものが問われているのだと思う。
心中のランキングを捨てられなければ、自分の評価軸を自分自身に移すということはできず、「かわいいorかわいくないゲー(以下クソゲーと略す)」からは降りる事も降ろす事もできません。心中に他者を比較するランキングがあるということは、人を外部目線から評価して順位付けする視線が完全に内在化されているという事だからです。
自分の周囲にも結構いるが、「30代半ばを過ぎて“可愛くならなきゃ”の呪縛から逃れたら、今まであんなに憎かった可愛いものが悪くないなと思えるようになった」というケースは多い。問題は「美醜」の基準そのものじゃないんだよ。「可愛い・キレイetc」に過剰な価値付けがされる結果として、他のさまざまな評価軸が軽んじられている、というアンバランスさであり、その表出方法の問題でしょう。可愛いもの・美しいものを愛でる楽しさまでも全否定する、という態度もそれはそれでナイーブすぎる。
「自分の評価軸を自分自身に移す」というのは、自分の外部(他者)の視線を完全に排除することではないはずだし、そもそもそれが可能だと考えるのは幻想にすぎない。「美醜」を含めたさまざまな評価軸を、自分の納得のいくバランスでの組み合わせとして選びとることが重要なのであって、「美醜」を必ずしも棄てねばならないとは思わない。
科学は「あるべき」論を欲しない。それが求めるのはただ「である」の集大成であって、科学が科学者に「あるべき」姿を望んだことなぞ金輪際ない。「あるべき」姿を求める行為は常に人と社会の関わりの間でのみ起こりうる現象であり、すなわちそれを求めるのは科学でなくて社会なのであるからして、まるで科学そのものの原理として、「あるべき」姿のごとき、ともすれば宗教のタブー・律法のようなものが存在するかのような議論は、極めて非科学的と断ずる他ない。
ノバルティス社の臨床試験データ偽装は何が問題だったのか。言うまでもなく、効果の不確かな薬品をそうでないと偽って売り出そうとした商業的な詐欺の片棒をかついだことであり、すなわち社会的行為としての罪であって、決して科学として「あるべき」姿を犯したからでも、タブーを破って神の怒りを買ったからでもない。科学はいついかなるときもその「あるべき」姿を自ら求めることはなく、従って「あるべき」ように見える科学のあり方に反したことそのものが罪になることなどあり得ない。
論文の剽窃もまた、何故か当たり前の様に科学そのもののルールに反した行為のように語られているが、実際のところそれの何が問題であるのかと言うと、単に労働市場の競争原理にもとる行為であるからに他ならない。誰が誰を剽窃し功績を偽ろうと、それは科学の「である」ことの積み重ねそのものには何の直接的な影響もないし、それを利用するものにとって、正しい知識が誰から得られたものであるのかを気にする意味はない。ただ、金銭や名誉という社会的なインセンティブが人間としての科学者に間接的な影響をもたらすのみである。
不思議な現象は、科学哲学の立場からこれらの「あるべき」論を押しつける風潮のあることである。しかし、科学哲学は科学がどう「である」かを論じるものであって、科学がどうで「あるべき」かを論じるものではない。哲学に出来るのは、それが「科学と呼べるのかどうか」を「哲学の外」(主に科学の現場)から持って来た観察を元にすりあわせることだけであって、「哲学の中」で決まった「あるべき」論を元に「これは科学」「これは科学でない」と勝手に現場の事象を振り分ける様になってしまっては、宗教原理をもとにありとあらゆる森羅万象を解釈する妄信と何ら変わらなくなってしまう。
科学論文の不正、捏造が批判されるべきでないなどとは言わない。言うはずがない。しかし、このように本当のところ何が問題であるのかは社会的行為として誰が誰に罪を負うのかを個別の事例として見なければはっきりとは言いがたいものであって、それが「科学」であるが故に「いかなる瑕疵も許されない」、「たった一つの不正が信頼を揺るがす」などとヒステリックに騒ぐのは、ナイーブと言うか原理主義的と言うか、非常に危うい日本人の知的状況を浮き彫りにするだけのものに見える。科学をもって「信頼を損ねる」などと、信じるか信じないかの問題にしようとしてしまう勢力を前にして、「科学も所詮現代の宗教」とシニカルに眺めていれば良い状況とは、自分にはとても思えない。
ほんと、ナイーブなトーシロさんは結論を焦るなあ。
STAP細胞と呼べるものが実際にあってなおかつ論文に全然不正のない、現時点で完璧な成果だったとしても、
10年後20年後研究が進んで「やっぱ役立たずのカスでした」くらいのことだってある(逆も然り)って認識がないんだろうな。
マジ割烹着に騒ぐのと同レベルで意味がないんだよこの手の成果に現時点でゴタゴタ言うのは。
それだけ。
理想主義的な、ある意味で原理主義的な科学観に支配されたナイーブな文系諸子(意外なことに、他分野の理系の方々にもいるようであるが)には想像もつかないことかも知れないが、理系という世界には、未だに共有不可能な個人の資質に依存した「職人肌」の世界が存在する。
宇宙やら地球やら、読んで字のごとく天地開闢から存在する”自然界”を観察して研究するだけが自然科学ではない。”自然界”には今まで存在しなかったモノを「作ってナンボ」の世界があるのだ。
誰も成功させたことのない難しい外科手術に果敢に挑んで成功させるスーパードクター、デバイスやソフトウェアを生み出し世界を革新的に変えてしまうスーパーハッカー、複雑な現象を説明するシンプルな物理法則をある日突然思いついてしまう理論物理学者。本当の意味での科学の”前進”は、地道な積み重ねもさることながら、こういう人たちの仕事があってこそのものである。
昨年のノーベル賞を受賞したヒッグス粒子の逸話をもう忘れてしまっただろうか。ヒッグス博士だけではない。ノーベル賞を受賞するような実績と言うものはおしなべてこの種の、天才の”奇想天外な思いつき”、”職人的な仕事”の賜物である。
無論「作ってナンボ」はなんでもかんでも思いつきで作ればそれで良いというわけではない。作った”モノ”が訳に立たねばならぬ。具体的に言えば、その”モノ”を叩き台にして、実用、研究、下世話な話では商売が将来的に渡って発展するかどうかにその評価はかかっている。
叩き台になるのは”モノ”である。もちろん知識の共有には言語化は欠かせない。しかし、結局使える”モノ”がなければ、論文だけいくら取り繕っても役には立たないし、逆に”モノ”さえあるなら、論文などと言うものはオマケの説明書のごときものにすぎない……それが、「作ってナンボ」の世界である。
原理原則で言えば、論文の誠実な執筆、厳密な論理によった世界観の構築は科学を支えるひとつの柱である。しかしながら、「”モノ”があるんだから、理屈がどうであろうとあるものはあるんだよ」と言う楽観的な自然体もまた、”自然”科学という理念の欠かせない骨子なのである。
その点で言って、現在のところSTAP細胞に関連して「将来的な展望」を本当の意味で否定するような話は、今のところ何も出ていない。もちろん”モノ”自体がやはり使えない代物である可能性は0ではないが、「論文が」「コピペが」などと言うような議論はまさに薮の周りを叩いているだけに過ぎない。
現在本当の意味で冷静に事態を見守っている人々の大半は、このような科学と言うものの素朴な実態を知っている。かといって「論文なんか屁の突っ張り」などと言うのもいささか乱暴に過ぎるので、今はあまり声も上げずに温和な進展を期待している。これこそが、実はナイーブな文系(一部理系)諸子の読めていない科学界の空気の実態である。
「ハッカーと画家」のポール・グレアムはハッカーに論文を書かせることの愚を語った。ついこの間(今さら、何故か)ネットの文系知識人界隈で流行っていた様に見えるこの著者のメッセージは、残念ながら、読者には伝わっていなかったようだ。
これはあんまりにも簡単にまとめ過ぎだと思った。だから問題点を整理したい。
まず虚構新聞についてだが、虚構新聞に関しては一貫して「態度の問題」だと思っている。
「おもしろくない」「住み分けろ」という批判ははっきり言って無意味なもので、そんな批判が通用してしまうなら
インターネットの人々はみな自分の「おもしろさ」を絶えず気にして、自分の所属するクラスタに閉じも篭もってしまう。
私はずっと健常者のそのような焼き畑農業的な、未来の無くなる、人の行動を制限する言説には反対してきた。
私はインターネットでドヤ顔を見たいのである。カオスを見たいのである。みなが「住み分け」をするのならインターネットをやる意味が無くなってしまう。
ことこそがインターネットをやる喜びだ。それが嫌ならmixiにでも行けばいい。
虚構新聞がいくらつまらなかろうが、釣りをしようが、基本的にそれに罪は無い。
たとえばアグネスちゃんに対する侮辱記事でもそうだが、「あんな記事を書くってことはそれなりの覚悟をしたんだろうな」
と、第三者は思うわけである。「おっ虚構が喧嘩するのか」とテンションが上がって来るのである。
ところがユニセフが「ちょっとー!男子ー!」程度の抗議の声を挙げると虚構は音速のスピードで亀のように首を引っ込める。
その後は自分のホーム(ツイッター)でずぅうううっとグチグチグチグチ、自分の仲間を相手に「おれ悪くないやんな?」「全然ついてへんや~ん」
と愚痴を言うのである。ツイッターは公開されてるので、我々はそれを読める。そうすると我々は「なんと卑劣な男なんだ・・・」という感想を抱いてしまうのだ。
「自称人権家」などと、かなりの侮辱の言葉を使っておきながら、ユニセフが少し腰を上げると「怖い怖い!まったく・・・風刺も許されないのか・・・(困惑)」。とか言ってるのだ。
「その程度の覚悟しかないのなら、最初から名無しでやっとれ!」というのが私の感想だ。
2ちゃんねらーが名無しで自称人権家と揶揄するのは良い。だが名前を出してやるのならそれなりの責任感を持て。
自分を前面に押し出しますけど責任は2ちゃんねらー並みで、なんてのは許されないはずだ。
これは大彗星ショッカーのようなサードブロガーや、体調わる子を筆頭とするはてな女子にも言えることである。
「30代でオシャレしてるOLwwwあたしゃああならんわよw」
といった他者disや、無神経で中途半端な思考を、デトックスと称して、世界に公開してるわけである。
もちろん年収○○万円の男も、結婚してない奴も、30代のOLもブチ切れるわけである。
年収○○万円の男や、結婚してない奴や、30代のOLの友人が居る人たちも怒る。「俺の友達はそんなこと言われるほど悪いことしてねぇ!」
するとどうだろう。
「なんかみんな怒ってて怖いぽよ・・・」
「ここは私のブログです。好きなことを言って良いはずです」
ところが、はてなユーザーとしては
「え、それなりのことを言ったんだから喧嘩するつもりだったんでしょ・・・?」と、肩すかしを食らうわけである。
「あれ、え・・・?誰かをdisってそれで終わり・・・?disりっぱなしジャーマン・・・?」
となるのである。はてなユーザーから見れば、彼らはとても不可解な存在だ。
「炎上するのが嫌ならそんなこと言わなければいいのでは・・・?」
しかしはてな女子は懲りずに、誰かをdisる記事を上げ続ける。そして炎上し、「何でみんな怒ってるの・・・?」を繰り返すのである。
これではコントである。だから一部のユーザーは、「PV数を上げるための釣りでは?」と疑念を抱きはじめる。当たり前である。
ところがどうも彼らは釣りをしているようではなさそうだ。
彼らはナチュラルボーンで誰かの悪口を言い、そして殴られて涙目になるのである。
虚構新聞は殴られる前にツイッターに引っ込むが、サードブロガーやはてな女子たちは引っ込まず、殴られるがままである。
はっきり言って頭が痛くなる光景だ。
20、30、40代のオッサンオバサンが、「誰かの悪口を言ったら返ってきますよ」という基本的なこともわからずにインターネットをやっているのである。
つまり、虚構新聞と一部のサードブロガー、一部のはてな女子の問題というのは共通していて、それは「態度の問題」なのである。
「名前を出してそれなりのことを言うのならそれなりの態度を示せ。それが嫌なら匿名で。」というのが私の意見である。
さて、淫夢であるが、これは匿名文化である。そして私のスタンスとしては、「匿名文化とは悪質で無責任で良い」というものだ。
今、かつての2ちゃんねるの匂いを少しでも残しているのは淫夢のみであり、このゴキブリと暴走族を混ぜたような集団を私は愛している。なぜなら
ことを私は苦に感じないからである。全く知らない人から全く知らない知識をブチ込まれる、こういう体験をできるのは実は淫夢文化である。
最近のインターネットはそういう体験をどんどんできなくなっている。健常者が増え、グーグルとアマゾンが幅を利かせている。
「あなたにおすすめ」「あなたに合ってるのはこれ」と押し付けてこられて、視界が狭くなっているのが今のインターネットである。
そういう環境において、淫夢のような集団はとても貴重だと感じている。
ただ、昨今においてはツイッターなどの影響もあり、ゴキブリにも暴走族にもなる覚悟もないのに淫夢民を自称する中高生大学生が増えてきている。
彼らは健常者であり、濃ゆく汚かった淫夢文化をどんどん綺麗に薄めていっているという現状はある。
2ちゃんねるがとても薄い場になってしまったように、淫夢も薄い集団になっていくのだろうという予想は既にしている。
以上が私の考える、虚構新聞と淫夢とサードブロガーの問題点である。
私がインターネットで要求するものは、クオリティでも住み分けでもなく人々の態度や覚悟である。
ところが昨今炎上する虚構新聞、サードブロガー、はてな女子は、いずれも態度や覚悟がなっていない。
態度や覚悟さえあれば、いくらでも好きなことを言って良い世界であるのにも関わらずだ。
「誰かの悪口は言いますけど私の悪口はやめてください」はいくらインターネットでも筋が通らないはずだ(匿名になるしかない)。
体調わる子ももう少しふてぶてしかったら、とても面白いブロガーになったのに、虚構と同じ類のナイーブさを露呈してはてなから退場していった。
今後第二第三のわる子やはてな女子を生み出さないためにも、この「態度と覚悟の問題」は言い続けていこうと思っている。
http://anond.hatelabo.jp/20131223150721