はてなキーワード: 社会福祉とは
結婚制度なんて国のパターナリズムから生み出された差別と偏見の温床なんだよね。
誰と誰が愛し合うなんていちいち法律で指図される謂われなんかないし、国も国でいちいちカップルに減税とか余計なお世話。
この際同性愛異性愛関係なく結婚制度自体解体してしまえばいい。
同じく、軽度のクローン病と精神病で精神障害者手帳貰って社会復帰している者です。
一応、精神障害者手帳の申請用医師診断書に、他の病気を書く欄があって、精神科医に事情を説明すればそこにクローン病と書き加えて貰えます。
国の審査でどこまで合わせ技一本が認められるかはブラックボックスの中ですが
そういう記入欄があるということは、精神障害の単騎で申請するよりは通りやすくなっているはずです。
そもそも精神障害者手帳の申請のチェック事項は、日常生活・社会生活を送れているかどうかの選択枝を選んでいくだけで
原因とか、特に問われていないし。
大半の医者は、治療することと、患者が社会に出られるように図らってやることの狭間で、判断のバランス取ってくれているので
「この患者が社会福祉に助けられず詰んでいる」と判断したときには、型に嵌った診断書ではなく工夫して書類を作ってくれたりします。
ズルではありません。だって、クローン病が治療法も原因も不明の難病である以上、
頑張れないのがクローン病から来ることかメンタルヘルスから来ることかなんて、判別不可能なのです。
頻繁にトイレに駆け込もうが。
社会福祉の恩恵を受けやすい精神病に寄せても、バチは当たりません。
精神科の主治医が、学会で症例報告とかする時の倫理はまた別問題で、厳密に考えた方がいいでしょうけど。
そして、働くにしても最初の稼ぎは、生活保護基準以下でしょう。
才能を疑うようで申し訳ありませんが。
やはりクローン病対応の障害者用グループホームを探して、世帯を分けて住むことをお勧めします。
役所の障害者窓口で相談すれば、消化器疾患に強いグループホームを紹介してくれます。
町に一つはある「障害者就労支援センター」みたいな所でも相談しましょう。
親があなたを扶養できるかなんて、親の自己申告でしかないのです。
幾ら親に収入があろうが、「養っていたら我々が最低限度の文化的生活を維持できなくなる」と言えばそれで扶養義務から外れるのです。
親に差押えとかありません。
(
ただ、御父上が自営業とのことですが、都道府県・市区町村との取引が多いと、田舎の場合業務に支障が出るかもしれません。
俺はこれと、地方だから車を手放せない、クレジットカードは欲しいという理由で生活保護以下の収入で食いつないでいた時期がありました。
御父上の名誉の問題になるなら、2,3隣町のグループホームを探すのも手です。
)
親と世帯を分ければ、社会保険も親の扶養から国民健康保険になり、保険料基準が自分の所得になります。
精神科でも自立支援医療制度を使った場合の月額上限が、かなり下がります。
◯結論
杉田水脈氏の意見全体に賛同するわけではないけれど、「LGBTは生産性がないから、結婚制度による社会的優遇には適さない」という主張は、重要な主張であって、暴言・失言扱いで軽く片付けられる話ではない。
LGBTの結婚を認めるかどうかは、社会の制度設計の問題としては非常に難しく、かつ、本質的な問題をはらんでいる。そして、賛成にしても反対にしても、「非常に難しい」ということを認めた上で、議論しないとそもそも議論そのものが非生産的なものになってしまうのだが、最近の論争を見ていると、まさにそういう非生産的な議論になっていると思う。
◯議論
そもそも結婚は個人間の契約だという立場に基づけば、結婚に対する公的支援は、せいぜい、公証人制度のような形で、契約の正当性を担保する程度の話のはずで、結婚した人を税制、社会福祉の受益者として優遇する措置自体が、平等原則に反するという見方もできる。
では、なぜ結婚制度があるのか。平等原則に反する優遇措置には、理由がなければいけない。これを正当化するロジックとして、2つの立場が考えられる。
1. 結婚は次世代の子供を産み育てる個人の営みを、公的に支援するためのものであり、公共性の観点から、結婚した人を優遇することの正当性が確保される。もちろん、結婚制度を利用しながら、子供を産まない、育てないことで差別されるべきではないが、結婚制度を最初からそうした目的で利用することは、制度上期待されることではないという立場。
2. 結婚は、個人の親愛の情に基いて、生活をともにしたいと考える個人の性質に基づく普遍的な権利であり、子供を産むか、育てるかという個人の選択とは切り離されて考えられるべきであるという立場。
最近、社会の風潮としても、特に「リベラル」の立場からの主張としても、2の立場が取られることが多い。でも、1はそんなに間違っているのだろうか?契約の保証という観点からは、2の立場も理解できるけれど、たとえば、配偶者控除など税制上の優遇制度を、2だけで、1と切り離して正当化できるのだろうかという問題はあると思う。
また、2の立場が理念として正しいとしても、むしろ、それはLGBT<だけ>を結婚制度の枠内にしようという中途半端な仕組みではなく、友人同士であっても、3人以上であっても、共同生活をする人たちが、社会的に優遇を得られる制度に一般化することでしか正当化されないのではないかという疑問がわく。そして、この立場は、(陰謀論的な意味ではなく)結果として結婚制度の解体という方向に結びつかざるをえないとも思う。
こういう議論全体について、自分が言いたいのは、2はダメで1が正しいということではなくて、これがすごく難しい問題だということ。1と主張するにしても、2と主張するにしても、そこには掬いきれない問題があり、それを無視して片方の立場の主張をしてもそれは空虚であるということ。
その上で、昨今の論争について言うと、「LGBTに生産性がない」という言葉が独り歩きしているけれど、そもそも結婚制度は、社会の「生産性」のために設計された制度という見方もできるし、現状の結婚制度はむしろそのように設計されている。結婚制度を自体を解体して、「共同生活支援」のような制度を目指すのなら話は分かるけど、そうじゃないのであれば、「生産性」という言葉尻をとらえて批判するのは、態度として一貫しないだろう。
自分はどちらかというと、杉田水脈氏のような「エセ保守」は滅びてほしいと思っているし、擁護したくもないのだけど、批判する側がきちんと批判できてなければ、批判したつもりでも、むしろ彼らを助長させることにしかならない。だからこそ、この論点に関しては、杉田水脈氏の側にも一理あると指摘したい。
確かにLGBTの人達を救済するのであれば、少子化対策としてではなく人道的見地からの社会福祉給付金の形であるべきだと思う。
障害者自立支援法のような法整備をきちんとして、その上で税金を使うというのであれば、世の中の理解を得られる。
初めからそれをしないで少子化対策だとお茶を濁している理由ははっきりしているんだよね。
本当に人道支援として税金を使うとなると、LGBTを障害者と同じ扱いにすることになるから。
正直言って、国民のほとんどの本音としては「LGBT=知的障害者と同じ」という認識だけど、それをはっきり言うわけにはいかないから。
それは違う、という反論が来るだろうけど、「障害者自立支援法のような法律の精神は一体何だろうか考えてみればいい」と最初に書いておく。
子なしカップルは社会福祉への寄与度が低い…は、その他の条件がまったく同じな子ありカップルと比べた場合には、正しい。
ただ、予算がきつい場合の税制優遇を考える際には、まず救済が必要な弱者が人道的な観点で、次に社会福祉への寄与度の高い者が投資効果的な観点で優先されるべきだとは思う。
現在のLGBTが“国家による救済が必要な”弱者かどうかは、議論しない。
さて、繰り返すが、子なしカップルは社会福祉への寄与度が低い。
なぜか。
まず、社会のインフラ(道路・教育・医療など)を誰でもが享受可能な形で維持するのに必要な金額は、もちろん人口によって上下するが、下限がある。
次に社会インフラを賄う税金は、法人が納めるものと個人が納めるものに二分される(関税も含め)。
法人税は法人活動が好調であれば伸びるが、不調であれば萎む。そして法人活動は、辿っていくと必ず個人消費にぶち当たる。
個人消費は個人需要によって天井が決まり、個人需要は人口に比例する。
まぁつまり、外需が異常に伸びまくってる特殊な状況を除き、人口減は法人由来の納税額を減らす。
法人由来の納税額が減るとなると、同水準のインフラを維持するには個人由来の税金で賄わなければならなくなる。増税だ。
加えて、税の担い手である人口の少なさは、ひとりひとりの税負担を重くする方向に作用する。
まぁこれは年金問題でみんな知ってると思うので詳しくは述べない。増税だ。
そういう訳で、人口減少すると辛いわけだ。
逆に人口が増える時は、人口ボーナスという言葉があるくらい、色々な物事がうまく行きやすい。
今まで書いたことの裏返しで、ひとりひとりの税負担も軽くなるし、規模の経済でさらに大きな果実を手に入れやすい。
まぁそれも無条件に…というわけではないけど話が逸れるので割愛。
よって、他の条件が同様ならという注釈付きで、子なしカップルは相対的に社会福祉への寄与度が低い。
ただし、予算面で余裕がある国なら、社会福祉への寄与度が低いことは問題にならない。だって余裕があるから。
リフレ派の言うことは国家デフォルトに近いので、そりゃできるかも知らんが一度やられたら俺が銀行頭取なら二度と国債は買わない。
でもこの先も社会福祉費はしばらく増大してくし人口も減っていくので、国債を買ってもらわないと予算が工面できない。少なくとも現状で百兆円は刷れない、刷れないんだよ。
https://twitter.com/navisl_zvezda/status/1013306763288850433
気になったのでこの人のツイートを遡って読んだが、底辺層出身と自称している。
そこでこの話を思い出した。
「社会の底辺から階層を上ると、努力しない底辺が許せなくなる」
http://toianna.hatenablog.com/entry/2016/08/11/132518
底辺層、いわゆる社会福祉を必要としている階層出身者が、社会福祉を否定するようなことを言う。
それはそれで非常に残念と思う反面、世の中にとっては都合がいいのかもしれない。
社会福祉ほど面倒なことはない。
それを同層出身者が否定してくれるというのは非常に強い根拠となる。ある意味「ありがたい」。
そして個人的にも救われてる。
というのは、私はどちらかと言えば裕福層出身の人間だが、自分の恵まれた環境に負い目を感じるようなことがあった。
(皮肉ではない。まじな話)
自立支援(精神通院)の申請しようと思ったんだけど、区民税の所得割が23万5千円をちょっと超えてたから受けられないみたい
マジかよ〜〜〜〜〜!
区民税って生命保険入ったりマンション買ったりふるさと納税したりすれば控除されるから福祉受けられたわけでしょ?
マジか〜〜〜〜〜勿体ねぇ〜〜〜〜〜〜
人より多く税金払ってるのにそのせいで社会福祉が受けられないってマジかよ〜〜〜〜〜!
ちょっと追記:
自立支援医療(精神通院)てのは精神科にかかった診療費や薬代が1割負担になる制度ね
精神科の薬ってベラボーに高いから自立の妨げにならないように公的に負担してくれるための制度だと思う(専門家ではないので間違ってたらごめん)
まだ犯人の事についてあまり情報が出ていないのであるが、社会から孤立した人物の、社会に対する唯一の接点がウェブサービスであったとすれば、社会福祉を強制的に導入できる契機はウェブ企業による刑事事件化しかない。これが普通のアル中で隣近所に散々迷惑をかけるような事案であれば、ご近所さんの通報で警察や行政が問題を認識できる。実生活上において問題を起こさなければ、地元警察や行政は問題を認識できない。
このように書くとウェブ企業に慈善事業の負担を負わせるのかとか、警察に通報したからと言って問題が解決できるわけではない、と思う人もいるかもしれない。しかし、増田への投稿が犯人によるものであれば、犯人は、はてな本社にも行こうと考えていたのである。はてな本社や社員の安全上も必要ではないか。確かに、はてなには他人を低能と罵ることでしかコミュニケーションできない人物を受け入れる義務はない。とはいえ、拒否した場合、逆恨みでお宅訪問を受ける可能性がある。どうせ訪問を受けるなら、相手が何者かわからないで不意打ちを受けるよりは、何者か認識できていた方がまだ被害を減らせる可能性も出てくるのではないか。そもそも、相手が本当にどれだけヤバイか実はヤバくもないかなんて、相手が何者か認識できなければ、評価しようがないではないか。
例えば、って話なんだけれども。
”男らしさ”だとか、”優しい”だとか、”誠実”だとかっていう単語が制限された状態で恋愛を言語化するサービスって―流行らない。いや流行らないだろうけども―それなりに人気を得たりしないだろうか。
実のところ恋愛なんて、大体は何の知見も与えてくれない、性風俗の代替案、もしくはロマンチックラブの証拠づくりにしか過ぎないしょうもないことだと、改めて定義づけることはできないだろうか。
いや実際一部の恋愛は素晴らしいと思うし、セックスや無償の愛というものによるエンパワメントが存在することも知っているけれど、
それはあくまで一部で、世の中で語られている恋愛の話なんて、自分の経験を自分自身が否定したくないあまりの言い訳にしか過ぎないことが多い。
そして一方で、こうやって僕が恋愛を矮小化するのだって、慎重な僕の行動たちを肯定する言い訳でしかないのかもしれない。
僕らは恋愛という関係を強固に言語化するほど性愛の進化が定まっていない。なぜならそもそもで人間が一夫一妻制で進化したのはつい最近のことで、それは性感染症を防ぐためだったり、戦いによる無駄死にを減らすためだといわれているわけだけど、コンドームや社会福祉の登場で、その進化の状況も途上でひっくりかえろうとしている。進化による損失を補うシステムによって、僕たちは僕たちの進化すら否定するような状態になっている。実はポリアモミーやアセクシャルは進化の最先端にいる人たちで、当然淘汰されるのはアセクシャルだけども、それが一定数発生するのであれば、ゴミどもが言っている”本能による”事実上の多夫多妻制などが出来上がるのかもしれない。
ここでいっておかないと、勘違いをされるので表明しておくと、本能に基づくとされる多数の異性との交際に僕は寄与しない。本能によるならばあなたが生まれた時点の一夫一妻を主張するわけで、本能でいろんな異性とヤるという考え方は、性についてなんら思いを巡らさなかったという表明にしかすぎない。そうでないのならばポリアモミーもしくは、進化した人類だからというべだ。そこに違和感を覚えるのであれば、あなたは性欲のために進化の過程にある人間を騙し、所属する団体に打撃を与える行為を行った、ただの加害者に過ぎない。ここでいう加害とは、モノガミーの考えを抑圧した、あるいはそういった洗脳によって客観的に相手をレイプしたということにある。
そうした混迷の中で僕たちは恋愛を言語化することによって、いったい現在なにを恋愛とするのか、という定義づけを求めているのでないかと思う。いやよくわからん。
しかし、定義づけによって、はしごを外されると恐怖している人たちに一応言っておくが、そのサービス自身があなたの恋愛を抑圧することではない。世の中はレールから外れた人間でも生きることを許されたシステムとなっており、現在それを目指して努めているのだから、たとえそうでない恋愛であっても社会はそれを許容してくれる。なんかもっと書きたいことがあってそれがこの話のコアな気がするけど、酒を飲んで面倒になったからここまでにする。
シロクマ先生がFGOにハマってGWを溶かした記事を書いている[1]。
私はアニメ鑑賞と友人とのささやかな旅行でGWが終わってしまったので、このまま明日会社という辛さを紛らわすために総括したい。
このGWは久しぶりにアニメ鑑賞漬けだった。普段仕事していると、隙間にアニメ鑑賞を楽しむというよりは仕事に全部精神を持って行かれてアニメや娯楽を楽しむ余裕がないという感じ。
だからまだ自分が映像作品を見て楽しいと思えることが嬉しかった。意外と引きこもってアニメを見るのも体力いるんだよなあ。
読書もTVバラエティも楽しいけれど、やっぱりアニメが面白い。なんでかなあと思って浮かんだアイデアをメモしておく。
いますぐこの現実から抜け出したい、そんな願望を20分間x12回分だけ叶えてくれる[2]。
制服着た学生が出てくる学園モノも悪くないけど、やっぱりファンタジーとかSFが好き。
こういう作品は今ここにある「日本の村社会」から抜けだしていくような感覚がたまらない。
日常の中では決して触れることの出来ない謎解き、バトル、アクションといった要素がドーパミンを出しているのだと思う。
主人公は大抵「強い」。困難にぶち当たることもあるが、だいたいハードルをあっさりと越えていく。
強い魔術師だったり、特殊な能力が使えたり交換不可能な立場を持っている。
日々日常の中で感じる、会社の中では誰でも交換可能という虚無感から物語の中では無縁で居られる。
ほとんど絶対に主人公はたいした理由もなくヒロインに好意を抱かれている[3]。
好意にも幅があって、現代のテンプレートに則った「恋愛感情」やら「保護欲の発露」とか「優しさへの報酬」であったりする。
小学生男女のような恋愛感情に分化する前の「ふわっとした好意」が私は好きなのだが、素直に言えない系が多いですね。
露骨な恋愛感情の描写は苦手。だって自分にその経験が無いのだから。
とにかく、大事なのは主人公が「ただ存在するだけで好意を抱かれ続ける」という状況であり、それがとっても快感なのだ。
大した理由なく好意を抱かれるのは、自己肯定感の擬似的な充足何じゃないかと思う。
本来誰がなんと言おうとも、自分には価値があると言い張れるヒトが強いんだけど自分はそうじゃない。
アニメはそんな心の隙間を満たしてくれる疑似体験を与えてくれているんだろうと思う[4]。
アニメを心理的に分析して、「承認欲求を満たしたいヒトにはコレ!」「自己肯定感がミルミル満たされる傑作!」みたいなラベリングをしたら面白いと思うんだけどやっている人はいないかな?
こんな感じです。ちなみに私は気が強いけど情け深い感じのお姉さんキャラが好きです。
みなさんはどうですか?
明日からはまた日常が始まるんだけど、疲れない程度に頑張るよ。みなさんもお元気で。
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普段はゴリゴリの老害思考なんだけど、時折魅せるシロクマ先生の慧眼が光るオタカルチャー考察は好きだ。
まあ、その場合は