はてなキーワード: 冷徹とは
いけすかねえメリケン大企業・Googleが慇懃無礼な態度でもったいぶって出してきやがった、機械学習をいかしたコロナ感染者予想
日本政府がウンチみたいな振る舞いを繰り返し、ライオンを目の前にして地面に頭を突っ込むダチョウのごとくふるまっている中、世界のインテリジェンスの中枢にして最先鋒たるGoogleさまがお出しになった忖度も何もない冷徹予想がいっそうの輝きを放っていたことは認めざるを得ない
しかし、蓋を開けてみるとどうだ
ウザ無能カス企業Googleのチンカスマヌケゴミ予想は大外れも大外れ、わが日本国はその遥かに上をいったではないか!
胸がスッとしたんだ俺はマジで
世界一を目指そうぜ!
櫻井の声だけ思い浮かべるととても合いそうなんだが、実際聴いてみると中村よりも弱い感じがした…
でも一部分聴いただけじゃなんとも言えないよなあ。
櫻井だと穏やかな時に冷徹過ぎるイメージがあるんだよ。ぬくもりが足りない。
「ウソをついている味だぜ」の辺りはピッタリだろうけど。
(なお、データはけんゆう様作成の「将棋棋士成績DB」を参照しています。けんゆう様には感謝を申し上げます)
年齢 | 棋士 |
---|---|
67 | 大山康晴(A級/27位) |
66 | |
65 | |
64 | |
63 | |
62 | |
61 | |
60 | |
59 | |
58 | |
57 | |
56 | |
55 | |
54 | 有吉道夫(A級/22位) |
53 | |
52 | |
51 | |
50 | 加藤一二三(B1/13位)内藤國雄(A級/17位) |
49 | |
48 | |
47 | 米長邦雄(A級/8位) |
46 | |
45 | |
44 | |
43 | |
42 | 中原誠(名人/3位) |
41 | |
40 | 淡路仁茂(B1/18位) |
39 | |
38 | 真部一男(A級/50位) |
37 | 青野照市(A級/7位) |
36 | |
35 | |
34 | |
33 | |
32 | |
31 | |
30 | 高橋道雄(A級/12位)福崎文吾(B1/20位) |
29 | |
28 | 谷川浩司(A級/1位) |
27 | 南芳一(A級/5位)島朗(B2/14位) |
26 | 神崎健二(C2/19位) |
25 | 塚田泰明(A級/11位)中田宏樹(C2/16位) |
24 | 森下卓(C1/2位) |
23 | |
22 | 阿部隆(C2/10位) |
21 | |
20 | 佐藤康光(C1/5位) 先崎学(C2/15位) |
19 | 羽生善治(B2/6位) |
18 | 屋敷伸之(C1/9位) |
中原誠(名人・棋聖・王座:この直後8/1に屋敷伸之に棋聖位を奪取されます)谷川浩司(王位)羽生善治(竜王)米長邦雄(王将)南芳一(棋王)
このシリーズで一番の縦長ですが、その原因は言うまでもなく大山康晴です。この2年後69歳でA級在位のまま死去。ほんの数年前までは羽生善治ならそれに並びうるのではと思われていましたが、さてそれが達成できるかは見ものです。私も健康に気をつけてせめてその歳までは健康に生きていたいと願っております。あと、有吉道夫・内藤國雄の西の両巨匠もまだまだ指し盛りですね。ご両名はそれぞれ74歳、75歳まで現役を務めました(内藤は規定による引退を待たずの自主引退)。このお二人が関東在住でしたら、2020年において長老格として加藤一二三だけがメディアを独占する、ということもなかったのではないかなあ、とも。
この表だけ見ると谷川浩司の周りにずらっと名前があって多士済々。しかもタイトルホルダーやタイトル経験者、A級在位者が多い。特に南芳一にいたってはこの前後数年でタイトル5期を重ねるなど最充実期といっていい活躍。にもかかわらず「谷川世代」という呼ばれ方はついにされず、しかもその後の歴史を見るに多分それは正しかった。1991年を最後に、福崎文吾まで含めてこの年代の棋士は谷川以外誰一人タイトルに届きませんでした。そういう意味では、棋界の「見る目」というのは冷徹なほどに的確です。また、もしかしたら2020年における30歳前後の棋士たちへの評価に重なる部分があるのかもしれません。
この表だと塚田泰明とは1つしか年齢が違いませんが学年では2つ、プロ入りでは3年度下なので、55年組よりは「羽生世代」に近い位置づけをされる森下卓。昨年木村一基が初タイトルを奪取するまでは「無冠の帝王といえば森下か木村か」と言われる存在でした。この年24歳、C1在籍ながら準タイトル戦格の全日本プロトーナメントを制しています。棋界一の律儀者とも称される物腰の柔らかさとじっくりとした矢倉を得意とする棋風で人気も高く、一般棋戦優勝8回、タイトル挑戦6回を数えながらついに54歳の今日までタイトルに手が届いていません。そのことについては本人の口からも幾度か語られてはいますが、それを判定できる人はだれもいないのでしょう。書かずもがなの無内容なことながら、それでも一筆書かずにおれないところがあります。
はい、30年前にもうこうやって出てくるわけですよ。この表の中には名前ないですけど村山聖と森内俊之はレート的にはすぐこの下にいますし、郷田真隆と丸山忠久はこの年の4月に新四段になったばかり、翌91年4月には藤井猛が、同10月には深浦康市が四段に上がってきます。そして屋敷伸之が上記の通り、2回目のタイトル挑戦中で中原から棋聖を奪取し史上最年少タイトルホルダーに輝く。上は大山から下は屋敷まで、そして中原・谷川・羽生の3人のスターを抱えるこの時期の「幅の広さ」はその前後には見られない豊穣さといえましょう。
レーティングという指標で見るなら、実は羽生は藤井聡太よりもほんの少しだけ早い17歳6ヶ月で全棋士中1位になっています(88年3月、藤井聡太は2020年2月に17歳7ヶ月。この比較こそ数字遊びに過ぎませんが羽生のほうが藤井よりプロ入りが遅く勝率も低いのに対局数と勝数の要素でこうなっています※追記:eloにせよglickoにせよ「将棋棋士の場合は」全体のレートがマイルドにインフレする(対して大相撲力士のレーティングは目立ってインフレしない)ので攻略する頂の高さは羽生より藤井の方がずっと高いのでした。その分藤井のほうが増やしやすくはありますが)。この時期は、ちょうど羽生にしては珍しい「不調」といえる時期で、もしかすると当時史上最年少でのタイトル獲得に伴う環境の激変の影響が出ていたのかもしれません。この年の秋には谷川の挑戦を受けた竜王戦で防衛を果たせず、年明けの棋王戦で南から棋王位を奪取してすぐにタイトルホルダーに復帰するものの、「前竜王」の呼称がなくなった現行の方式であれば、この4ヶ月弱ほど「羽生七段」になっていたということになります。そういう意味では、藤井聡太のここから1年ほど、あるいは高校を卒業したあとの1年くらいの動向には注目すべきでしょう。これまでは学業優先で免除されていた普及活動、将棋連盟主催のイベント、タイトル戦主催者企画のシンポジウムや講演会の依頼、単著の執筆依頼、テレビ出演への依頼などがそれでなくても多い対局の合間に豪雨のように降ってくるわけですから。
宗教や説話は古来から民間における知識の伝達手段となっていた。どうしてそうすべきかはわからないが教祖様が言うから、神様がそう託されたから、あるいは妖怪が出るからと行動を制限してきた。
聖水を水鉄砲でかけ、モスクでクラスターを作る始末、挙句の果てにコロナは礼拝を休むための言い訳にならないとか言い出す。
もちろん今全世界的に礼拝等の行事が変化していることは認めよう。だが遅い。上記のような例が出てくる時点で統率がとれていない。
クソ舐めやがってあれだけ強かった宗教はどこに行ったのか。
ところで科学はとても冷徹な思想であり、信仰だ。これは今現在、先人達の努力による確からしいことを教義にしている。
事実と現実のみを重視し人間の情緒が入り込む余地はない。故に科学には人間の不安を解消することはできない。
科学者は今現在ある情報で最も優れている行動をするしかない。が、その行動が後から見て正しいかは決してわからない。それでも自分の感情を無視して(あるいは今はこれが最善手なのだからこうすべきだと信じて)行動する狂人である。
大衆は今の状況で打てる最善手だとわかっていても最善手を打てない。科学は不安を解消してくれないからだ。大衆にとって事実がどうなっていてどのような機序で物事が起こるかなんてどうでもいいことだ。
今感じているどうしようもない、目に見えない、自分の手には負えない不安を解消してくれればそれでよい。それなら自分の信仰に縋る。信じれば救われる、名言だ。
一般的に教義は不変だ。信仰の神秘性が薄まるから。信仰の神秘性を投げ捨てて宗教を構築することはできないだろうか?
刻一刻と変化する現代において不変の教義はもはや時代遅れである。
今までの教義を検討の後2秒で投げ捨てて新しい知識を伝える手段が必要だ。科学にまとわりついた冷気を覆い隠して大上段から託宣を行う存在が必要だ。
売上関係なしに楽しいことしてたほうがいいと思うよ。折角の休みなんだから。
収入が少ない系は転職したほうがいいな。まあいまコロナだから転職環境は絶望的だ。だけどもコロナから回復したときに備えて準備ぐらいはしておいたらいい。
残念だけどこの世の中編にやる気や情熱を持って歩むと足元見たりおだててはめ込もうとしたり、周りを見れないことをいいことにはめ込もうとするゴミが大量に湧いてくる。
商品が良くても、さらにそれが顧客と結びつくだけでは足りないんだよ。正直そこまで行けているの自体稀だとは思うが。顧客に配慮するのと妖怪共を冷徹に見分けて切り分ける。危ない人間や環境から冷徹に逃げるスキルが要る。
なんかちょっといいかなとか、収入が足りないなぐらいなら先に転職をして、趣味を楽しむ人生を歩んだほうがいい。趣味として儲かるとは言えないものなにか作って売ってたのしい。変なやつから逃げれなければやめるぐらいならいいが。
※ただの長い愚痴吐き。
出来の悪い漫画みたいなアホな話だけど、嘘ならもっとマシな嘘をつく。
悪役令嬢とひとくちに言っても色々なタイプがあると思うんだけど、「甘やかされて育った生意気なお嬢様」と言えばいいんだろうか、とにかくそういうキャラクターを彷彿とさせる顔と声をしている。
・小学生の頃から、不良と仲がいいちょいワル系の教師には、ファーストコンタクトでいきなり「お前はさぞ甘やかされて育ったんだろう、俺が根性を叩き直してやる」と言われてわざと冷たくされたり悪いこともしてないのに罰則を与えられたりされる(後に「誤解だった」とか言って謝られる。クソが)。
・うちは貧乏なのに、大人からも子供からもなぜか私が金持ちであることを前提に会話される。大人はたいてい初対面でいきなり説教や威嚇をしてくることが多い。
・中学生の頃、試験で学年1位を取ったら「あいつの親が教師に金を積んで成績を買ったらしい」「あいつは教師と寝たらしい」と学年中で囁かれる。
・ろくに話したこともない相手にいきなり「内心私たちのことバカにしてるんでしょ」とキレられることが多い。
「A君のこと好きなんだけどA君って増田さんのこと好きみたいなんだよね」
みたいな感じ。
女子同士の噂では私の名前が出てくるのに、実際に学生時代告白されたことはない。
・高校の時、部活で、ほぼ練習を見に来ないし仲良くもない顧問にいきなり「お前って箸より重いもん持てないんだろ」等と言われる。
・自称サバサバ系女子には初対面でめちゃくちゃ嫌われる。びっくりするほど嫌われる。
・出会った人のほぼ100%に「初めは全然気が合わないんじゃないかと思ったけど話すとイメージ変わった」と言われる。まあイメージが変わったならいいっちゃいいんだけど、本当〜に毎回毎回「こいつ気が合わなそう」というしらっとした目で見られる→一生懸命高慢じゃないアピールをする→なんとか気を許してもらえる→とっておきの打ち明け話みたいに上記のことを言われるのステップをいちいち踏まなきゃいけないのがじわじわしんどくなってる。
まあ、五体満足だし、飢えてもいない。
派手顔なので派手な服に顔が負けないのはありがたい。たいした悩みではない。だけど共感してくれる人のいないようなニッチな悩みなので地味にフラストレーションが溜まる。
【追記】
「なんじゃそりゃ」「うんち」で流されると思ったんだけど思いのほか共感が得られて嬉しいです。ありがとうございます。
・縦ロールなのか?→母似で天パではあります。伸ばすと縦ロール風になります。ストパーかけたこともあるんですが、毛が細くてコシがないのと、受験ノイローゼで抜毛症になったのでストレートにすると落ち武者風になっちゃうんですよね…。
・笑顔を意識とのご指摘ありがとうございます。第一印象が高慢に見えてしまうのは見た目だけではないですよね、確かに。痛いところを突かれました。
・イメージ湧かん→ドンピシャで誰似というのはないんですが、強いて言えば「大草原の小さな家」のネリーオルソンの頬をもう少しふっくらさせた感じでしょうか。冷徹そうというよりわがままそうな見た目なんですよね…。
先述したとおり別に大した悩みではないんですが、縦ロールコメント等のおかげでなんだか癒されました。ありがとうございました。
この世界の人間は二つに分けられる。死んだ猫の重みを知っている人とそうでない人である。
数年来の友人に向けてこの文章を書いている。あるいは、見せずにしまっておくかもしれないけれど。
この話を始める前にまず記憶というものについて書いておきたい。人間にも二種類いるように、記憶もまた二つに大別できる。つまり、忘れても思い出せる記憶と、忘れてしまったきり思い出せなくなる記憶である。
記憶というものは原理的に忘却の可能性を含んでいて、それがどんな尊い記憶であれ、厳然と忘れられうるのである。とは言え、尊い記憶は大体忘れた後でも思い出せるのだ。
例えばそれは親愛なる友人に関する記憶だったり、あるいは情愛を抱いた誰かに対する記憶だったり――そういう類の記憶だ。
これから話す記憶は、恐らく後者に分類されるものである。死んだ猫の重みに関する記憶は、恐らくは一度忘れてしまえば二度と思い出せない記憶である。つまり、その記憶は僕の人生においてそこまで重要な記憶ではないということになる。
タフな人生を生きようとする人間の功罪の常で、僕は重要な記憶とそうでない記憶を峻別することができる。多くの場合その判断は極めて正確だ。
僕は自分にとって重要な物事とそうでない物事を多くの場合峻別できると思っているし、何よりも、自分にとって重要な人間とそうでない人間を峻別できると思っている。そこが功罪なのである。人間は自分にとって重要な人間とそうでない人間を並置し、比較し、時に冷徹に判断する。いざという時に切り捨てることのできる人物と、そうでない人物を頭の中の整理棚に分類する傾向がある。とは言え僕は冷酷な人間を自認してる訳ではなくて、基本的に分け隔てなく親切に接することをモットーにしてるのだけれど。それでも、自分にとって大切な人物とそうでない人物は分けて考えなくてはならないと考えている。
さて、そんなこんなでこの記憶は恐らく僕の人生においてそこまで重要な記憶ではないと、僕ははっきりと峻別している。
大した記憶ではない。道の真ん中で白い猫が轢かれていた。静かな初夏の日和だった。
その肉体の損傷は一見して分からないが、恐らく内臓が酷く傷ついたのであろう、鮮血が周囲には広がり、血溜まりを作っている。既に絶命している。絶命してからどれくらい時間が経ったのだろう? 正確なところは分からないのだけれど、多分一時間と経ってはいるまい。白い猫はまだ綺麗だった。制限速度の高くない、幹線道路から外れた細い道路だったことが幸いしたと見え、多くの車はゆっくりと車を走らせていた。つまり、道路の真ん中で横たわる猫を、更に醜く変形させる前に、彼らはハンドルを切ることができたのだ。
猫は口と目を半開きにしていた。その筋肉の運動はとっくに停止している。
僕は当時学生で、自宅への帰路にあった。青々と晴れた日だった。白い猫の横を通り過ぎる時、僕は猫のことを横目で見た。
猫のことしか頭になかった。アパートからその猫のいる場所までは数百メートルの距離があって、僕はあらゆる意味で当事者ではなかったにも関わらず保健所に連絡をした。住所をある程度正確に伝えて、電話を切った後にキッチン棚を漁り、そこから掃除用のポリエチレン製手袋を取り出した。
再び自転車に乗って猫のところに向かった。数百メートルの距離。時間はそれほど掛からず、辿り着いた時には猫は最初のままの姿勢を保っていた。相変わらず見える範囲には傷一つなかった。
僕は歩道に自転車を停めて、車列(鮮血を目の当たりにし、おっかなびっくりハンドルを切って迂回する車列)が十分に途切れたタイミングを見計らって、猫のところに駆け寄った。それで、僕は猫の脚を掴んで、車に引かれる心配のない路端へと引きずった。
そう、引きずったのである。
抱きかかえた訳ではない。単に引きずったのだ。鮮血が道路に擦れて跡を作った。
猫は筋肉が弛緩した所為か失禁――脱糞していて、その茶色の飛沫がポリエチレンの手袋に付着した。
そこには愛情は無い。僕の人生に残留するべき温かい思念というものは存在していない。
だから、この記憶は決して僕の中に残留し続けることはないだろう。人生のいずれかのタイミングで忘却され、その後決して思い出されることはないだろう。
僕は猫にそれ以上傷ついてほしくなかっただけである。
猫が道路の上でぐしゃぐしゃになっている姿を見たくなかっただけである。
ある種の同情みたいなものはあった。でも、それは決して愛情ではない。僕は見ず知らずの猫に、しかも既に生命の無い猫に、愛情を抱ける類の人間ではない。
僕は猫を引きずって、車に傷つけられる心配の無いように、路側帯の辺りまで移動させると、手を離した。そして、そのまま保健所の車がやって来るのを待ち続けた。
初夏の晴れた静かな日和である。時折、眼前を通り過ぎる車の運転手がギョッとした顔で、猫と道路の中間辺りから続く血痕を見遣るだけである。僕は猫から少しだけ距離を空けて、偶に、盗み見るように視線を向けた。本来の当事者である近所の主婦達が歩道で、遠巻きに何かを話している。さっきの僕の行動を彼女らは全て見ていた。
やがて、彼女らの内の一人の若い主婦が僕のところにやって来て、保健所には一応連絡したんです、と言った。僕は短く返事をした。
彼女は元の場所に戻っていって、相変わらず主婦達と何かを喋っていた。僕は、その場で保健所の到着を待ち続けた。
やがてやって来たのは、ゴミ処理車であった。内部に回転する鉄塊こそなかったものの、それは紛れもなくゴミ収集車であった。
この後の描写についてはあっさりしたもので、その車中からスタッフが二名降りてきて、主婦らに挨拶をした後に黒いビニール袋を広げ、手早く猫をその中に入れた。そして、車両の収集スペースにその袋を入れると、瞬く間にその場から去っていった。
僕はそれを見届けた時にやけに安心したのを覚えている。これで、道路の上にもんじゃ焼きのような物体が出現する可能性はなくなったのだと、そう考えていた。僕はそのまま自宅に戻り、猫の糞の付着したポリエチレンの手袋を処理した後で、日常のルーチンに戻っていった。
多分、この記憶は僕の人生に残留することはないと思う。単純に、この話の主旨は、僕が猫の死体の重みを知っているという、そのことを主張する他にない。教訓と呼ぶべきものはそこにはない。
しかし僕自身にとっては多少の教訓と呼ぶべきものはある(どっちだよ)。
多くの場合、我々の性向とか心の働きのバイタル部分に作用するのは、僕がここまで延々と語った記憶の類ではなく、誰かへの愛情の記憶であり、誰かからの愛情の記憶である。
そういうものを欠くと、我々のバイタル部分は鈍化する。必要以上に鈍化し、何らかの問題を引き起こさずにはいられなくなる。記憶というものを二種類に大別した時に、我々の性向に最も強く、最も好影響を与えるのは、明らかに「思い出しうる」方の記憶だ。そのことに疑いはない。
とは言え、最近の僕は少しだけその考え方を改めることになった。
これまで僕が延々と語ったこの記憶は、凡そ間違いなく僕によって忘れ去られるだろう。そして、二度と思い出されることはないだろう。このテの予想が外れることは僕に限ってまずあり得ない。この記憶は僕のバイタルとは無関係なのだ。この記憶によって僕が行動を規定されたり、何らかの関連行動に走るということは――この文章を書いていることを除けば――まずあり得ない。僕にはそのことが手に取るように分かる。
でも、と思うのだ。
この記憶は、翻って言えば、忘れられるまでは僕の記憶に残り続ける(トートロジー的な文章だ)。僕は、そのことに少しだけ意義を感じてしまいそうになるのだ。
記憶には二種類ある。忘れられた後に思い出しうる記憶と、そうでない記憶である。前者に比べれば、この世の中においては後者の記憶の方が圧倒的に多い。この世界の殆どの記憶は後者、つまり他愛のない記憶によって構成されていると言っていい。それらは例外なく忘れ去られる運命の途上にある。
それでも、と僕は思う。
その記憶は、忘れ去られるそのタイミングまで、じっと待っている。
僕の記憶の中で息をしている。
猫の視線の色を、僕は今のところ忘れていない。奇妙に硬直した、黄色い瞳。
多分、僕の記憶の中に、未だ留まっているところの猫は、待っているのだろうと思う。
僕が猫のことを忘れ去るその時を。
じっと、誠実に、待っているのではないかとそう思うのだ。
それはいとも容易く心まで貫通し、
人の情緒を狂わせる。
使用に制限はなく、許可も要らないが方向を見誤ると人的な被害が出る。
威力がどれほどなのか、愚かな人間は相手の強度を知らず試したがる。
貫通した人間が血を流して倒れる様は愉快で、自分が強くなった気にすらなった。
一発撃てばもう一発。援護が来る。
そうして宙吊りにして自由を奪った。防戦一方の相手は顔を撃たれ続け、もう男か女かも判別が出来ない。
それは仮想の敵、ターゲットでこの遊びは血生臭さに飽きたら終わるのだ。殺した快感だけ欲しい、罪悪感は要らない。冷徹になるのに邪魔なだけだから。
後頭部に銃を突き付けられて初めて、自分も誰かの敵だったと自覚する。発砲音。鮮血は周囲に舞い散る。
いつも通り死がもたらされた。
そう、皆呆れるくらいに儚い。