はてなキーワード: メインストリームとは
金額はあまり気にする必要はないと思う。こういう挫折は部活とか習い事とかで学ぶ人が多いけど、それだって年に何万もかかるだろうし、年3万としても5年で15万円だからね。
普通は年月をかける挫折を一瞬で受けたからショックも大きいだろうけど、初めて独りで社会に出たのだから失敗する方が普通だし。
ニコニコで馬鹿にされてた作曲中学生も後にプロになってるんだから、続ければ何かのスキルは身につくよ。
それが人生の役に立つかはわからないけど、無駄なスキルはあって悪いものじゃない。
これから誰かがVtuberをやるときにサポートもできるし、動画を作る人の手伝いもできる。裏方で活躍するのも面白いよ。
何かの自己表現をしたいなら、今回のことを反省して足りなかった部分に注力するとか、メインストリームは無理そうだからアウトサイドな方向に挑戦してみるとか、活かし方は色々ある。
他の人気がないVtuberの中でも再生回数の多い動画をたくさん集めて検証して、なんでその動画だけは人気なのか考えてみるとか。
そういう理由は大抵一般化できるものだから、他の自己表現にも結構活かせるよ。
ただ、ユニークなことをやろうと思ってたけどできなかった、ってところに拘るのは前向きじゃないからあまりよくない。
できなかった何かを実現できるように進めていくなら前向きだけど。
アメリカでやってる「ロックの殿堂」のフォーマットをそのまま持ち込んで「日本版ロックの殿堂」という
殿堂入りアーティストを毎年決めるイベントをやってほしいんす。
理由 その1
今、日本で音楽を評価するのって、オリコンランキングとかレコード大賞とか売り上げを指標にしたものしかないっす。
日本の音楽にも、商業ベース的に成功してなくても、その後の音楽に多大な影響を与えているアーティストも存在してるはずで
理由 その2
お笑いって、M1グランプリやキングオブコントが出来てから、圧倒的に面白くなったと思ってるっす。
それまでのお笑いを評価するのは、人気だったり好感度だったけど、賞レースができたことで、
皆が、本当に実力のある漫才や、面白いコントをやる芸人は誰なのか考えるようになった。
ほんで、人気や好感度がなくても、実力ある芸人がちゃんと評価されるようになって、更に面白くなったっす。
日本の音楽も、皆が売上以外の指標を意識することで、ちゃんと実力のある人が評価されるようになって、
もっと盛り上がって欲しいっす。
理由 その3
まあ、別に「ロック」の殿堂じゃなくても「J-POP」の殿堂でもいいんだけど、
でも、本場のロックの殿堂も、「ロック音楽に多大な影響を与えたアーティスト」を殿堂入りさせてるから
日本でロックって、あんまり認められてないけど、やっぱポップスがメインストリームだけれども、
例えば、先日亡くなった西城秀樹とか、アイドル歌手としての評価ももちろんすごいけど、
ロックスターとしても、もっと評価されるはずなんす。でも、それを評価するとこがないんす。
今も、フェスとか盛り上がってて、バンドも沢山出てきてるけど、
それはテレビとかメインストリームには余り出てこないし、一般的な評価はされてない気がするっす。
だから、日本の音楽界をロックという切り口で評価して、見直していくってのは、
そのアホが他の子たちの教育を受ける権利を甚だしく侵害してるからや思うねん。
おそらく大阪市はまだマシな方で、大阪南部の私の地元は更にヤバい。
特に中学がヤバい。不良という名のアホが学校のメインストリームになるもんやから
小学校までよう勉強できとった子らもそっち側に引っ張られてどんどんアホになりよる。
中学卒業まで高い学力を維持できるんは染まらへんかった奴だけなんやけど
そういう奴は高確率で不良グループから犯罪まがいのイジメに合うから卒業までにドロップアウトする奴もいて
更に女子には性被害の危険あってもう教育の場としては地獄としか言いようが無い。
我が一君万民の世界に類を見ない単一民族共同体の絆をDisるガイジンどもと裏切り者の出羽守どもと日々戦ってるに決まってるでしょおおおおおお!!!!!
ダイバーシティに悩まされない日本の良さを褒めてくれるガイジンは今のところalt-right(アメリカ版ネトウヨ)みたいな低偏差値連中ぐらいだけどさ、
ダイバーシティのせいで母国が無茶苦茶になっているこの時代に多感な青年期を過ごした世代が西欧世界の主役になるころには、
「やっぱ多文化主義は糞だわ、日本を見習おうぜ」という意見がナチ扱いされずにヨーロッパの政界・学界でメインストリームの一角を占めるぐらいの地位を得ると信じているよ。
高知市職員ですが、以前のエントリーが思った以上に反響がありましたので、書きます。
以前のエントリー
https://anond.hatelabo.jp/20180728154743
https://www.kochinews.co.jp/article/203672/
高知市の横田寿生教育長が31日付で辞任。7月上旬の西日本豪雨のさなかに、北海道へ市幹部ら7人で競馬旅行していたことに批判が高まっていた。岡﨑誠也市長が記者会見して発表。
7月4日から発生している豪雨災害のさなか、今回辞任した横田教育長、教育次長、総務部の弘瀬優総務部長、諸石信広総務部副部長、その他副部長級2人、課長級1人の合計7人が函館に競馬観戦の旅行に出かけていたことが発端です。(この7人というのが、競馬好きで20年以上の付き合いで趣味で、全国の競馬観戦をしている「有馬会」のメンバーであり、後述しますが、事実上の高知市役所の人事権を牛耳っているメンバーでありました。)
このうち、横田教育長と弘瀬部長は、災害対策本部のメンバーであることから、庁内外はもちろん、市民からも非難の声が集まり、全国区のニュースとなりました。
ここで、誤解してほしくないのが、単におじさん7人が趣味で競馬旅行を行っていたのが問題ありません。公務員だからといって、競馬をしてはいけない、という理由は無いと思います。ただ、タイミングが最悪だった。豪雨災害で西日本を中心に被害が発生しており、高知県内では3人が死亡している最中、この7人は競馬観戦をして、すき焼きに舌鼓を打っていたということ、道義的責任が生じるとともに、公務員にとって最もと大事な「信用」失墜行為にあたるということです。
なお、出発した時点は大きな被害は出ていなかったと、それに代理を立てて準備をしていた等、一部弁明していますが、これもおかしな話です。
というのは、そもそも災害対策本部というのは、当該自治体における防災対策の最高意思決定機関であり、避難所開設、避難指示、避難勧告といった市民の生命に直結する、非常に重要な決定を行う機関です。
責任が非常に重いのでそもそも課長、課長補佐といった代理で務まるわけがありません。そのような理由もあり、大きく報道されました。
後述しますが、この報道に対して当の教育長が「道義的責任はない」と開き直ったことから、市議会の与党会派「新風クラブ」「市民クラブ」「公明党」が激怒し、公明党出身の市議会議長も市長に文書で申し入れをする構えを見せたことで、事態は急変しました。
今回、競馬旅行にいった有馬会のボスである横田教育長は道義的責任はない、と高知新聞7月28日付朝刊においてコメントしていました。
「(旅行期間中は)学校も休みで行事もない。用意周到に必要な指示を出し、態勢を敷いていたのえ、(私が不在でも)特に支障なはなかった。道義的責任も生じない」という認識を示した。
避難所として小中学校は機能するにかかわらず、教育委員会トップと思えない軽い認識で、道義的責任を生じないというコメントには、失望しました。
しかし、冒頭のニュースにあるように、本日付で横田教育長が辞任しました。
長年、高知市役所において、人事課長、財務部長を歴任し、最終的に教育長という副市長クラスの特別職として君臨していた男のあっけない退場でした。最終的な肩書が「人事の横田」「競馬旅行の教育長」という肩書とともに。
今回の競馬旅行事件は、教育長の辞任をもって幕引きとなるでしょう。本来的には、職員の人事権や綱紀粛正などを統括する総務部長が一定の処分を受けると思いますが、今のところ、減給程度で終わるようです。
しかし、有馬会のナンバー2である弘瀬部長がこのまま総務部に留任ということは、ありえないと一般的に思いますが、仮に弘瀬部長こそ、次期副市長の最有力候補であり、やもすれば、市長の呼び声も大きいので、ここでキャリアに傷をつけるのは、何としても避けたいところでしょう。
それに、現在の岡崎市長の最側近でもあり、かつて、弘瀬部長が課長時代に、同和問題で部落解放同盟に糾弾された際も処分はせず、現在の総務部長のポストにつけたことから、その信頼の強さがうかがえます。
よって、道義的責任は生じないと言っていた横田教育長が辞任したことは、有馬会トップの座を弘瀬部長に禅譲することも意味します。
高知市役所も結局、組織でありヒエラルキーが存在し、派閥も一定存在します。そのような派閥で最大の力を誇るのが、有馬会です。
有馬会は、報道ではただの競馬大好きクラブといったような趣ですが、そうではありません。(ちなみに有馬会の由来は、有馬記念から来ています)
そのメンバーが、今回のニュースで明らかになったように、教育長、教育次長、総務部長、総務副部長、さらに副部長級があと2人、課長級が1人と上級幹部ばかりです。
今回旅行行ったのは、有馬会の中でも有力メンバーであり、その他にも有馬会のメンバー、もしくは有馬会「系」の派閥も存在しています。
彼らの力の源泉は、財政課、企画課、人事課、行政管理課といった役所内の中枢出身者ばかりということです。
では、なぜ有馬会がここまでの力を持つようになったのか?これは、前市長にまで話はさかのぼります、が、長くなっても仕方ないので機会があれば書きます。
ただ、一般的に役所の世界で出世したければ、上記のセクションに配属され、市長に最も近い派閥に属することです。
役所という世界は、実力云々というよりも、どこに配属されていたか?ということが重要ですので、下手を打たずレールにいれば、そこそこのポジションにありつけます。そのメインストリームが有馬会というわけです。
今回の教訓を単なる、競馬大好きおじさん達の軽率な行動というレベルで片づけるのではなく、このおじさん達が庁内で権力を握り、人事権を牛耳り、誰も文句を言えなかったという事実です。普通の職員ならば、台風災害中に旅行には行きませんし、まさか役所の仲間と行くなんてありえません。異常です。異常ですが、そのように感じないほどの空気が役所内にはありました。
なので、今回の報道でも職員も「大げさすぎる」という意見も一定数あったので、役所内世論も完全に2分していました。なので、今回議会の指摘があったのは、不幸中の幸いです。ある意味、民主主義の自浄作用が働いた形です。しかし、この災害中に飲み会というニュースは、既読感がみなさんあったと思います。あえて言いませんが、同じことが今回、悲しくも私の高知市役所でもありました。
では、指示で動くのは誰でしょうか?動くのは、主事、主査補、主査、主任、係長、課長補佐、課長といった人々です。部長、副部長といった上級管理職以下の職員です。上司が部下を見るように、部下も上司を見ています。とはいえ、職務命令があれば動きます。これがルールだからです。気に入らないという個人的に思いはありますが、役所という完全タテ社会では、それが言えない空気があります。
高知市は、これから全国でも例をみない、高知県ほぼすべての市町村が連携中枢都市圏を構成する巨大プロジェクトを進めており、そのフロントランナーが高知市です。そんな他市町村を束ねる役割を担う高知市でこのような報道があったことは悲しく、情けなく、それ以上に怒りを感じます。
現場の職員は、災害時だろうと、市民の暮らしを守るということ一番に考えております。これまでの高知市は三位一体改革や前市長の極端な積極財政による財政危機のため、職員給与がカットされるとともに、職員数も減らされて中核市でワーストクラスとなりました。
つまり、しわ寄せは少ない人数で、時間外手当も限られている中で現場は工夫をしてきました。だからこそ、今回の事件は、これまで築き上げてきた高知市の矜持を深く傷づけているのです。それが職員の綱紀粛正の大本営である総務部長、副部長ということが、何ともいえない気持ちになるわけです。
いろんな反応があってうれしいです。幾つか同意もあって、承認欲求がめっちゃ満たされます。
なお、健康関連に関しては同意したいのですが、私は私怨で書いておりますので、巻き込まないようスルーいたします。ご容赦ください。
疎外されてる感じがするんだよね。
勝手にこっちがそう受け止めてるだけだけど。
酒嫌いがその気持ちを加速させるのは、酒を飲んでいる人が楽しそうでトクしてそうってのもあるよな。
そうそうその通り!
ゾーニングの問題にしちゃうと、いろんなものへの規制の歯止めが利かなくなりそうで、ちょっと違うと思っています。嫌いなものが目に入るのは仕方ないと思う。
だけどアルコール関係は、あまりにもしつこいというか、圧力が強すぎるというか。「お前も好きだよな!な!な!」っていう感じがね……。
ホッピーでいいじゃん
調べたらビールの代替飲料のようですが、ビールをクソ不味いと思っている人が好きになるような要素のあるものなんですか?
なるほど。私とは逆なんですね。行けるお店がたくさんあって羨ましいです。
カラオケで大声を出すのは好きですが、会話となると、何度も言い直さなくちゃならないのがとてもストレスですね。
僻みだと最初に宣言してるので、そこはどうかスルーしてくださいお願いします。
自分が世間のメインストリームから外れてるものに対して、自分への配慮を望むのは自己中心的な発想以外の何物でもない。あんたは自己中だ
社会というものは、各自の利益が食い違う場合には話し合って落としどころを探していくものでしょうし、まず意見表明の段階で「自己中だ」って人格攻撃されるとは思いませんでした。
いやそれやるなら「イケメンやカッコイイ男だけしか出てこなくて、ブサイクな男は女オタク世界から排除されているのは、テレビや映画などのメインストリーム文化と共通であるが、やっぱり表現がストレート過ぎるのである。だから、男性たち(特にリベラルの男性たち)に敵視されやすい素地がある。」だろ
元民進党候補者である青地まみ氏の「パブリックエネミー」騒動について、少々遅くなってしまったが、少しこの問題に便乗して自分の思うところを色々書いてみたい。
まず「パブリックエネミー」という言葉であるが、前都議選で民進党から出馬して落選した青地まみ氏が「オタクをパブリックエネミーとして認定したい」という内容のツイッターを書いたことで、ここ数日ほど炎上したらしい。青地氏が民進党から立候補して落選した経緯から、民進党や立憲民主党にも批判の矛先が向けられているとのこと。
パブリックエネミーとは、公的な敵だと社会全体で認定する行為である。
炎上自体に関しては、日本の野党らしくありふれた光景であり、特に目新しさはない。リベラルな価値観を共有しているはずの人間が、オタク全般のことを「萌え豚」という蔑称で書いたらしく、そのオタクを社会の敵認定してやりたいという趣旨のツイートをした。
まあ日本のリベラルは、口では平和だ人権だと高潔な思想を掲げていても、実際は偽リベラルのレイシストに過ぎないといういつもの平常運転です、本当にありがとうございましたというだけの話。
本題はここからであるが、なぜオタク全般は、社会から(特に女性たちから)目の敵にされやすいのだろうか、ということ。パブリックエネミー認定とは「公的な敵」とみなすということであり、上記の青地氏には多数の批判も集中したが、青地氏を擁護するツイートも多かったとのこと。
賛否両論があるにせよ、オタクの存在を忌々しく思っている一定数の人間が世の中には明確に存在しているということでもあるよね。
オタクが社会から嫌われやすい属性集団だと思われやすいのは、やはり犯罪集団みたいなものだと思われているからだろうか。確かに、宮崎勤事件などオタクの中で重大犯罪を犯した一部の人間がいることも事実であるし、それは受け止めるべきだろう。
しかし、社会全体でみた場合はオタクは性犯罪を犯しやすい属性ではないはずである。一番性犯罪を犯しやすいのは、オタクとは正反対の野球部やサッカー部などの運動系の人間ではないのか。
例えば福田元事務次官やTOKIOの山口元メンバー、女性問題で辞任した米山新潟県知事の三者はオタクとは正反対の人種である。
それでもオタク全般が性犯罪者予備軍として扱われてしまう一番の理由は、オタクが扱っている創作物の性表現がストレートすぎるからではないか。
美人や可愛い女だけしか出てこなくて、ブスな女はオタク世界から排除されているのは、テレビや映画などのメインストリーム文化と共通であるが、やっぱり表現がストレート過ぎるのである。
だから、女性たち(特にリベラルの女性たち)に敵視されやすい素地がある。
今の社会は、女性たちから敵視されると社会的生命を失いやすい状況になっている。私達は知らずのうちに、そんな社会の中を生きている。
特に、この20年間の間にセクハラやコンプラの法整備などは進んだ。それ時代は社会が良くなることでもあるから歓迎すべきだろう。
男全般を痴漢予備軍だと見なす女性専用車両や、女性の申告によるセクハラは認定されやすいことなど、思いつこうと思えばいくらでも思いつく。
そんな社会風潮という根拠があるからこそ、オタク全般を「パブリックエネミー」に認定しようという政治的主張も生まれてしまうのではないか。
「オタクは女性の敵だから、社会の敵認定したい」ともっともらしい事を言っているけど、それはナチスドイツやボリシェビキのユダヤ人虐殺と同じ構図だからね。
萌えのメインストリームである、著しく発達した女体&幼い精神性を具備したキャラが本当にキツい。
女体に関しては言うことはない。たわわに実った乳房、プリプリの臀部。マーベラスだ。
あれ、「社会」という概念自体が男性的発想ではないのか?と考えるようになった
そもそも「社会」とか「生活」とかなど、あらゆる人間における「概念」は、古来からずっと男性優位の人間史において形成された価値観であり
根源的には「人間の歴史」自体が元々「男性優位の人間社会の歴史」なのもしれない
無論女性が人間のおよそ半数占める以上、「歴史」に女性が全く関与していないといえば嘘になるが、あくまでサブストリームであることは否めない
従って、その男性優位の歴史から生み出された、「社会」や「生活」に限らないすべての「概念」が男性的発想ではないのか?と考えることは自然ではなかろうか
そうすると、昨今の「女性の社会進出」などに代表される、「女性を男性と同じメインストリームに上げる」ような行動を行う際に考慮しなければならないのは、
人間が有史以来築き上げた「男性優位の価値観」に薄く上塗りする程度の「女性の価値観の導入」をして、果たして「女性のメインストリーム化」となり得るのだろうか?
という疑問が沸き立つのも当然ではある
真の「女性の社会」をなすためには、人間史の歴史修正を含めた価値観の「刷新」が必要ではないか、と考えるようになった
元来の女性は(男性がサブストリームになった)世界で、どのような歴史を紡いでいったのであろうか?
「言語」もあったのだろうか?もし無いとしたら、どうなっていたのか?無い世界はかなり想像に難い
そもそも「発想」という概念も男性的であると考えると、女性社会はもしかしたら「発想」をしない世界になっていたかもしれなく、それはどんな世界か?
そもそも果たして「女性」は「女性と男性の性差」を「顕在化」させたのであろうか?
「子孫」は?男性の必要性を考えることもしなかったのか?そもそも「考える」という行動も男性的なので、それすらしなかったのか
若しくは我々男性、または男性社会で生きてきた我々全人類では考えもしない世界を作っていたのではないか?
人間史が存在するのかはたまたしないのか、科学も物理法則もない、ただ「概念があるのみ」の世界…と言いたいがそれすらあるのかどうかもわからない
「宇宙人は居るのかいないのか」という疑問は宇宙人の有無を調べることで解決するのが男性的発想
もしかしたら女性的発想は「宇宙人」という概念を作らない、「有無の判別」もしない、「解決」に意味をなさない、「疑問」は存在しない
代わりに「rutnqnoxh」なモノを持ち「7aehm8cef」なことをして「eriuqymo」をfirxqlxfzulする世界なのかもしれない
それがどんなことなのか、我々男性、または男性社会で生きてきた女性含めた我々全人類は、誰もその境地にたどり着くことはできない