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フレンチ・カンカン、というかラインダンスとの出会いは、おそらくは文明堂のCMだ。それから「ドレミファソネットどしたらできるの」で有名なso-netのCMだ。なぜかこのCMではおじさんの脚線美を見ることになるのだがそれはさておいて、Youtubeで検索すると今でも天国と地獄に合わせて踊る動画を確認できる。
本題に移ろう。Can-can dressについてはウィキペディアではおおよそこのように述べている。ドレスは基本的に何層にもなった大量のフリルがついていて、当時の下着の上に縫い付けられていた。脚は黒いストッキングや網タイツで覆われていた。つまり、レオタード姿のソネットのCMはフレンチ・カンカンではないのである。足の動きの速さからしてまるで違う。
衣装ではなく、カンカンダンスそのものについては、日本語版のウィキペディアと英語版のウィキペディアで書いてあることが若干違う。おそらく英語から訳したときの版が違うのだろう。
両者の記述を比べてみたが、フレンチ・カンカンにおける見せパンの起源はかなり曖昧らしい。足を思い切り上げてスカートの中が見えてしまう動きは、ショーの場では1820年代にアクロバット的な動きで知られるCharles Mazurierがバレエの大開脚を取り入れたことにさかのぼるようである。初期のダンサーは娼婦やセミプロの役者だけであったのだが、1890年代になるとムーラン・ルージュではトゥールーズ・ロートレックの絵で知られるLa Goulue(食いしん坊さん、的な意味)やJane Avrilなどの高給を取るスターが生まれた。La Goulueのページでは当時の衣装とセットの見せパンが確認できる。これらのスターの生活は華やかだが晩年は不遇であることもあった。この二人もビジネスの失敗や大恐慌で財産を失い、寂しく亡くなっている。
さて、カンカンは足を高く蹴り上げるので、当然スカートの中身が丸見えになる。しかも、それや当時としてはよりスキャンダラスであった。というのも、当時の下着であるpantalettesは衛生上の理由からクロッチ部分が開いていたからである。要するに性器が丸出しになるわけである。もっとも。そのあとにこんな記述がある。カンカンのための特別な下着を用いていたという記録はないが、ムーラン・ルージュでは下着の露出は禁じられていたことになっていた、と。どうもこのあたりの記録は曖昧というか[要出典]をつけたくなる箇所が多い。ウィキペディアは普段は自然科学の記事を読むことが多いが、そこよりも曖昧な記述が多い印象だ。文体もなんだか違う。
ところで、今のフレンチ・カンカンとして知られる、大人数の女性が10分以上高度な振り付けを続けるスタイルは、1920年代にアメリカで人気が出たスタイルを逆輸入したものでそうである。
実際、19世紀末からに20世紀初頭にかけては女性の脚部を見せるということでかなりスキャンダラスなものとしてみられていた。また、陰部を覆う白い生理用(?)下着と黒いストッキングの対照もエロティックだとして見られていた。さらに、体を折り曲げてスカートを後ろからまくり上げ尻を見せる動作もあったという。先述のLa Goulueはこの芸で知られていたとのこと。また、前の席の客の帽子を蹴り飛ばすほど近づいて、スカートの中身を見せることもあった。もっとも、顔を思い切り蹴られる危険もあったのだが。
結論から言うと、当時のフランスに見せパンそのものであったかどうかはわからないが、パンツが見えることは覚悟の上だった、ということになりそうだ。女性器が見えていたかどうかまでは根拠が怪しい。もっとも、今ほど表現が自由でなかった当時のこと、そんなことを文学や絵画で記録に残せたかどうかは怪しいものだ。ちなみに女性器を堂々と描いて当時の偽善的風潮に反発したクールベの「世界の起源」が1868年、ヌードでスキャンダルを生んだ「草上の昼食」が1863年である。
パリにはいくつも有名なキャバレーがあり、それは近現代の芸術や芸能に多大な影響を与えてきた。たとえば、ムーラン・ルージュで活躍した人物としてFrank SinatraやCharles Aznavourがいる。それらのすべてをここで述べるのは大変なので、地球の歩き方に広告が載っていたと記憶しているものをピックアップして簡単に述べる。子どもの頃、トップレスの女性が旅行ガイドに載っているのを見てドキドキしていたものだ。もっとも、その女性の姿はせいぜい五ミリくらいの大きさしかなかったのだけれども。
学生時代にパリを訪れたときには、そこには寄らなかった。一日中美術館で過ごしてぐったりしていたし、まだ女性経験がなくて図々しくなれなかったからだ。今となってはいい思い出である。
赤い風車で名高いキャバレーで、ここを舞台にした映画は数知れず。トゥールーズ・ロートレックの作品群でも有名。著名なダンサーも多く、全員を紹介するのはとても無理だし、別のキャバレーにも出演していて、キャバレー別に紹介するとややこしくなるので端折る。
ところで、ウィキペディアだけからはヌードがどの程度ショーに盛り込まれていたかはわからないが、1893年の舞踏会に裸の女性がいたことがスキャンダルになったそうである。なんでもヌードモデルが活人画として周囲を歩き回り、裸の女性が深夜にテーブルに立っていたとのこと。一方、英国の劇場のように活人画、すなわち生きた人間で絵画を再現する目的としてならヌードは猥褻ではない、という意識もあったようである。例えば英国では劇場にヌードが現れたとき、当局が1930年代に裸の女性が動くことを禁じた。この禁令をかいくぐるために、モデルたちは活人画のように止まったままとなった(ストリップの記事を参照)。また、戦後日本でも「額縁ショー」と呼ばれるストリップのさきがけのようなものがあった。動かなければ猥褻ではないという謎理論がまかり通っていたのである。当時のGHQが何を意図していたのかはよくわからない。
これまたよくわからないのがゾラの1880年の小説「ナナ」では、ヒロインがヴェリエテ劇場でほぼ全裸を披露して観客を魅了するという場面があるのだが、実際のところどうだったのだろう? 本記事はカンカンについてなので劇場のヌードについては語りつくせないので、今後の課題としておきたい。
1889年開業、1915年に一度焼失するも再興し、ドイツ占領時代にも営業を続けて今に至る。
モネの絵画、「フォリー・ベルジェールのバー」の舞台としても知られる。また、黒人系の女性Josephine Bakerが活躍したキャバレーとしても知られる。バナナ型のスカート以外はほとんど身に着けていないエキゾチックな姿がオリエンタリズムの流行した当時ヒットしたのだが、後にその恰好が人種差別的だとされるようになり、そこからネグリチュード、黒人意識の発展にも寄与した。また、彼女は黒人の人権活動家としても知られている。最近、グーグルが彼女の生涯を記念するドゥードゥルをトップにした。
1869年に開業、1872年に今の名前になる。けばけばしい衣装で知られ、時としてヌードも披露されることで知られる。
映画「ファイアbyルブタン」で有名。セミヌードを含む映画の公式予告がyoutubeに上がっている。身体をやわらかな特殊素材のように扱ったショーは性欲やエロスの向こう側に行ってしまっており、すごいものになっているとしか言えない。リンクを貼ったら怒られそうなので検索してください。もちろん、そこまで独特なものではなく、もっとわかりやすいショーもある。
ユニークなのはそのショーの一部をyoutubeの公式チャンネルで公開していることだろう。かなり古い白黒のものまである。それと、公式ホームページ見ていたら驚いたのだけれども、リド自体には12歳以下の子どもでも入場できるそうである。ヌードやトップレスがないショーならOKなのか、それとも芸術のヌードならOKなのか。フランス映画、年齢制限がないやつでも割と普通におっぱい出てくるし、表現規制の国ごとの温度差を示す実例であるのかもしれない。
1946年開業。1920年代の人工的な砂浜をその前身とする。
「ストリップティーズ」の項目によれば1960年代に全裸のショーが行われた、とある。
現に、創業者であるアラン・ベルナルダンは芸術性を伴った女性のヌードショーを見せるという着想に至ったそうで、要するに最初から全裸である。
とはいえ、ただの全裸ではなく、巧みな照明技術により女性の裸体をキャンバスのようにとらえ、万華鏡のようなカラフルかつシャープな模様をダンサーの肌に映し出していることに特徴がある。ただ脱いだだけではないそうだ。1951年開業。
天国と地獄の曲を初めて聞いたのは文明堂のCMと、音楽ファンタジーゆめでだ。後者はCGの黎明期であったせいかサイケデリックな表現が多く、当時の感覚としても幾分薄気味悪いと同時に、今から振り返ってみると技術の未熟さ(失礼!)から来るアルカイック芸術のような独特の魅力があったように思われる。
ところで、この曲は地獄のオルフェとしても知られている。タイトルからすると、ギリシア神話のオルフェウスが死んだ妻を冥界から取り戻そうするとする話のはずだ。なのに、なんでこんな軽快な曲なのだろうと思って調べたら、ギリシア神話のパロディ的なオペレッタだからだそうだ。なるほど。
こうしたレオタード姿のラインダンスはカンカンではないと述べたが、それではこれはいつからあるのか調べたい。おそらく日本国内では宝塚歌劇団と関係している。また、バーレスク的なものとの関連について知りたく思う。そもそもバーレスクとは何か、僕はよくわかっていない。日本語版のウィキペディアのバーレスクの記事には、乳首と陰部に前貼りを貼っただけの姿でパフォーマンスをする女性の写真がある。リンクは張らないが、鍛えられたきれいな体だなあ、僕も筋トレ頑張らなきゃなあ、とは思う。しかし、欲望はそこまで感じなかった。隙がないのである。
まずリーダーのマスダ
彼は特別これといって
秀でた一芸があるわけじゃないわ
ところどころ知性は感じるけど
基本的にはガキっていうか
良くも悪くも年齢相応
でも決断力があるのよね
うちのチーム個性は強いけど
主体性っていうのかしら
まとまりがないの
でもマスダはビシッと
次に何をしたいか
そのためにどうするべきか
方向性を定めて
真っ先に行動してくれる
次に紹介するのは参謀役
みんなミミセンって呼んでる
聴覚が敏感でね
普段は耳当てをしてるの
ひとたび外せば
あらゆる音を拾うソナーと化す
その聴覚もすごいけど
仲間の中で一番アカデミック
不可欠なブレインよ
お次は戦闘要員
いつも白黒の服を着てるから
みんなシロクロって呼んでる
こいつだけタメじゃないのよね
というか年齢不詳
仲間の中で一番ノッポで
たぶん大人だとは思うけど
控えめに言って破天荒
背は高いけど背伸びしてない
まーそれなりに楽しい奴よ
それしか能がないけど
それだけなら誰にも負けない
……あー実は
仲間もう一人いるんだけど
アンタ如きにゃ言えないわ
それにね
その子って繊細なの
複雑な子なのよ
そーいう子は置いてかれがち
単純な奴らは構わず進んじゃう
わたし達は違うけど
仲間としては気にかけるわよ
たまに立ち止まって周りを
皆のことを見ているから
あの子の歩調も知っている
でも仲間だからといって
踏み込みすぎはよくないわ
良い関係性を保つには
いいかげん、スターのトップコメントのスクラムをなんとかしないとアカン。
収入だのなんだのありとあらゆるものがまとめられて順位にされてしまう世界に住む皆様、今日も元気ですか?
高レベルにおいて種族値が与える影響は大きすぎるため、個体値とレベルがMAX前提だとたとえば素早さ勝負だったらテッカニン、色々な方面を考えるとドラパルトが最強になります。この結果すばやさでのティアーを考えると最上位はドラパルトともしかしてワンチャンいろいろな使い方がある勢しかいなくなり、種族値が低い皆さんは絶対超えられない天井が生まれてしまいます。はいガラスの天井が自然に発生する理屈です。
②個人単位、一人称視点単位で見ると努力値とレベルがモノをいう。
統計グラフ、大体右が上って書き方が多いと思うんですけど、我々個人個人が収入増やしたいとか色々考えると結局努力と行動、レベル上げと努力値稼ぎしかないんですね。
ガラスの天井の上のトップ層とか同一レベル同努力値での属性の偏りとかはあるんですが、グラフを属性で見ても仕方ないんで我々は努力するより仕方なし。グラフの右3/4位置の黒人白人やら男女の比率には差があるかもしれないがお前や俺が3/4に入ってるかどうかはお前や俺の努力次第なんですね。こう四天王とかチャンピオンとかジムリーダーを倒す分には種族値さがあってもある程度レベル差あればどうにかなるっしょ。ある程度のレベルならレベル差で勝負できるっぽい。
③ありとあらゆる属性に下位はいるが、全体としての下位になるのはある特定の層の下位。ガラスの天井の逆がある
努力が最終的に種族値の問題になってしまうのと同様に最下位王決定戦もまた種族値の問題が発生します。この世で一番足が遅いのはツボツボのLv1すばやさ低下性格ですね。なんと同レベルのカモネギの半分しかないっぽいすね。
「最下位層」は概ね努力でどうにかなる範囲ではありますが「下位層」争いから抜けるのは難しい。100レベルのツボツボは50レベルのデリバードにすばやさ負けるっぽく、まぁ辛いね。どうしよう。まぁ努力しかないんですけど
それはそれとしてこの世にはすばやさ低下性格どころかすばやさもなんも生来足や羽が障害でなくて0みたいなパターンとかもありそれも厳しい。
という事を
https://note.com/hima_kuuhaku/n/n96d934bfbea5
を読んで思いました。
こう仕事ガチ勢の皆さんが生理とか通常レベルだとどうでも良いだろみたいな事をおっしゃってまして、それがどんな形のデバフでも統計に表れないって事はなくね?って私は思ったんですがまぁ書いた人の方が私より頭良いからなと思いつつ、このような人たちがどんな風にもの考えるのかを考えたらこういうのが出てきました。
もしかして、めちゃくちゃ過疎ってる??
Twitterの「いいね・RT」とは違って、はてなスターは数百、数千に届かない。
いや。めんどうな工作をしなくても、左翼とフェミが仲間同士でつるんでスターを送り合えば、超簡単にトップブコメを確保できるんじゃない?
離職率はめちゃくちゃ高いよ。でもみんなすぐにはやめない。職歴に響くし、中小企業でもでかい方だ。
おまけに不況のこの時期というのもある。
それでも長くて3年とかで辞めていく。離職率の高さで回らない仕事も発生する。
ただ辞めるにしても後の残った人がかわいそう。1年でも可哀そう。
もう行き場のない年齢の人とかも囲ってるからベテランも可哀そう。
そのホッテントリに挙がってたからなんでも見に行くとかいうのをやめたら?
炎上案件のぞいて怒りの感情ポルノみたいなもので楽しむのはくだらないと思わん?
俺は増田にはいるけどホッテントリ経由では絶対に増田に来ないよ?
なぜならNGにしてるからね? その他のゴシップ的なサイトも同様にね?
俺がはてブトップを開くときは有意義な情報を収集したい時だけなんだよ?
増田にいるときはそうではなくて、チャット的な暇つぶしをしたい時なんだよ?分かる?
増田トップをリロードして流れていくのを拾っていくのが真の漢の増田道であり、本当に楽しい増田の使い方なんだよ?
お分かりになりましたか?
そういうわけで予想ゲームに参戦
→凪七さんでファイナルアンサー
か、な。。
ブラ男になって2年半ほど経過した。
胸はほどほどに成長してアンダー92、トップ103。Aカップブラがやや窮屈になり始めている。
そもそも骨格の違いから、フィットするブラを探すのは困難だが、それでも捜索の旅は続いている。
まずはサイズを拡張するための延長ホック。これで、アンダー85までのブラが選択肢に入るが、見た目の可愛いブラや有名なブランドのブラはだいたい80ぐらいでサイズが無くなる。まあ、商売だから仕方がない。
大きいサイズ、で検索してもなかなか目当てのブラには辿り着かない。Dカップぐらいからのラインナップになるからだ。
運良くアンダー90のAorBカップがあったとしよう。しかしそれはノンワイヤーの締め付けがきついブラだ。私が欲しいのは完全にフィットするワイヤーブラだ。アンダーバストにフィットするブラのつけ心地は感動的ですらある。
バストの内側、谷間が出来るほどのボリュームは無いが、うまく寄せてくれるブラは良い。両胸の間に隙間はあるものの、ちゃんと山を形成してくれる。ブラは偉大だ。こんなに心地良いものを女は独り占めしていたなんて!という気分になる。
この街にはアツギの基幹工場があるり、国内生産品のほとんどはこの工場で作られている。
神奈川の海老名市に本社がある企業がどうして本州の果てに工場を持ったかというと、約50年前に市長が頭を下げて工場誘致したからだ。
まともな働き口といえば公務員と原発と自衛隊と病院ぐらいしかない街において貴重な働き口だった。
俺が高校生の時の人生初のアルバイト先にこの工場を選んだおかげで、どんな環境か知れた。
ストッキングの染色液で鼻を突きさすような刺激臭がする工場内。
仕上げ処理に高熱処理が必要なため常に火傷と隣り合わせの生産ライン。
そんな工場もコロナ禍で1000人弱いる従業員の1/3の人員削減を余儀なくされる。
同市の労働人口は3万人前後であるから、単純計算で同市の失業率が1%強増加しかねない。
市長がアツギ社長に雇用継続を直談判したり、地元職安が対策本部を設置するほど大問題になっている。
ちなみのこの市長は「GOTOキャンペーンは政府による人災だ」と言った市長である。
春のマスク不足騒動時に工場でマスク生産して全市民に無料配布していた。
その折には「市の誇りであるアツギブランドをPRしましょう」とも言っている。
https://twitter.com/mutsurepo/status/1253919973241581569
だから不買する人はすると思ったし、それは消費者の権利だからどんどん自由にやればいいと思う。
けれど悪いのは本社の管理体制と意識であるのに、それで地方の工場側が苦しむ結果になるのは、どうしてもやるせないと思ってしまう。
注:「本州最北端の駅」とググると三厩駅としている記事がトップにでるけど間違いです。
下北駅:北緯41度16分
ツイッターで話題になってた同人女の感情最終話と、同じくツイッターでバズってた今朝の読売の記事を見て思ったこと。
「自分より上手いとは言えない」人が自分より評価されて辛いという気持ちはよくわかる。
それに対する回答は、「他人からの評価ではなく、自分自身を基準にして段階的に進んでいき自己肯定感を高める」という、腐るほど聞いた内容。
そうしていくうちに他人が求めていることが分かり、それを提供できる実力が身につき、真の評価につながるというものだ。
その究極が、同人女の感情に出てくる綾城さんみたいな存在だろう。
ただ、そう言われてしまうと、じゃああの「自分より上手いとは言えないのに評価されてる人」は、上記のプロセスを、少なくとも自分自身よりは先へ進んでいる人格者であり、だから評価されている、ということになる。
そして、自分はそんなアイツよりもガキであるという事実に、より惨めな気分になり絶望する。
本当にそうだろうか?
読売の投稿者のいう「自分より上手いとは言えない人」がどんな人物なのかは知らないが、私が思うに、単に界隈に上手く溶け込めているコミュ強なだけな気がする。
その人は、自分自身と同じ惨めな状態から、上に書いたプロセスを乗り越え、ついに今の地位についた……とは思えない。9割がたは、普通にしてたらそうなっただけだろう。
カースト上位の者は、あらゆる煩悩を克服した人格者集団というわけではなかろう。自然とそうなっただけのコミュ強。
上位集団の中でウケる話題(ある意味、内輪ネタ)を、下位の者が提供するのは難しい。
クオリティに優れていても、どうしてもズレが生じ、「へー、すごいね。で?」で終わる。
綾城さんレベルになればようやく、カースト上位の者を含め広く全体に評価されるようになる。(一部の捻くれ者を除いて。)
その綾城さんですら、本当に凄まじい努力の結果ああなったのかは、分からないけど。
似たような葛藤を経験してはいるんだろうけど、才能と人格が元々圧倒的に優れているのに違いはないだろうし。
界隈で幅を聞かせている、ギャーギャーうるさくて絵が割と描けて評価されてるムカつく奴は、単にある程度の絵の才能とコミュ力の才能があっただけで大した人格者ではない
界隈で重鎮ぶっている、絵が結構上手くて発言も支持され、たまに公式に苦言も呈しちゃうしオレも苦労してきたんだよみたいなこと言っちゃうムカつく奴は、単に結構な絵の才能と中庸な意見力の才能があっただけで壮絶な過去を克服して現在の地位を築き上げたわけではない
界隈で聖人ぶっている、絵が上手くてなるべく不快な発言をしないよう気を遣い、たまに自戒めいたことを言って実質的に周囲へのロジハラになってるムカつく奴は、単に絵の才能と元々穏やかな性格の才能があっただけで修行僧みたいな生活しているわけではない
そして、こいつらは大したことはない!と思えても、自分はこいつらより絵の才能もコミュ力も劣るし、自己肯定感形成プロセスでも周回遅れという事実は変わらないということが分かり、絶望するのだ。
諦めて絵の練習をしても、数年後、いいね数が少し増えた自分にしかならないだろう。記事でいうところの「真の評価」など得られるはずもなく、現在の惨めな状況を認め、ネガティブな感情を感じないようにするしかない。
で結局、そうなるにはどうすればいいのか?それを他人の意見に頼っている時点で永遠に自己肯定感は身に付かない。
歳を重ねれば少しずつ落ち着いていく……が、それだけでは完全に解決しない。
むしろ遅ければ遅いほど自己肯定感を身につけるハードルは高まっていく。
と、こんなことを言っている惨めな自分も含め、ほぼ全ての人には「相対的に下の者」が存在し、妬まれているかもしれない。
界隈の実力者ももっと上を見て妬んでいる。だからこの手のあるある話を見て「わかる〜」とか言う。クソが。