はてなキーワード: くやしくとは
そこそこ伸びたものの、停滞したあげく「懐かしい」みたいな扱いになってるVtuberをやってる。
正直つらい。くやしい。自分と同じくらいに始めた人間や自分と仲の良いVtuberはどんどん人気になる。
Vtuberは、当たり前だが才能ある人間が多い。作曲、イラスト、動画、歌、喋りその他もろもろ。
観る側だった時は、そこが大好きだった。Vtuberになったあともそこが好きだった。でも最近はそこが苦しい。
なんで自分は絵が下手なんだろう。歌が下手なんだろう。ただ長くやってるだけで、惰性でやってるだけの、空っぽバーチャルYouTuberモドキだ。
自分を応援してくれている人にしっかりと目を向けることができていたあの頃は、今よりも登録者数もTwitterフォロワーも少なかった。だけど心はずっと温かかった。
今は、数字の上がり下がりに一喜一憂し、他のVtuberが炎上するたびに便乗してお気持ち表明する部外者Vtuberに辟易し、自分の活動では自分の力不足を毎日感じて苦しみ、心がじっとりと冷たい。
でも、今までよりも沢山の人に自分の創作物であり自分の分身であるキャラが応援されてる。だから離れたくない。
ここ以外に、多分行き場がない。価値を与えてくれる場所は多分ない。
それに、自分の活動で元気をもらったと言ってくれた人もいた。もう見てないかもしれないけど。
傷つける言葉を言って謝りもせずのうのうと活動してるあいつも、人をなんでもやってくれるマシーンだと思ってるあいつも、実力不足で身内の創作に呼ばれなかった悲しみも、全部全部全部のりこえてやる。
あの時もっと大切に扱っていればよかったと後悔させてやる。
そして、もっともっと力をつけて良いものをつくって、応援してくれている人を思いっきり笑顔にしたり、元気にしたりするのを死に物狂いでもやりつづけてやる。
価値を与えてくれた人たちに恩返しするために、どんだけ見下されても、変な嫌味言われても、ぜったいやめねえ
おわり
なぜやり過ぎてはダメなのか?
だいたい飽きるパターンは同じで
② 同じことをやっている作業に感じてくる
③ 負けてもくやしくない
①と②は自分で工夫、大型アップデートなどで解消される場合もあるが、
③の境地は完全に飽きている。
せっかく自分にとっておもしろいゲームを見つけたのなら長く遊びたいと思う。
ゲームをやってないときに、「今度はあれを試そう」、「あの場面もう少しだったな」などと想像が膨らんでるときは
楽しめている状態だと思うが、やり過ぎてるときにはそれがない。
オンラインゲームはアップデートでユーザーを飽きさせないようにしているが、
また、アップデートしたからといって飽きなくなるわけではない。
何でもできる強キャラ登場でキャラバランス崩壊などの大失敗アップデートですぐに飽きてしまう場合もある。
e-スポーツを見ているといろんな種類のゲームがあるが、あれは飽きないでそのゲームをやり続けて上手くなった人達なのかな思う。
そのゲームが好き ⇒ 好きだからやり続ける ⇒ やり続けても飽きない ⇒ 上手くなる
プロゲーマーは当然、飽きてもやり続けないとならないんだと思うが、
やり続けても飽きないってところが、最初の上手くなるポイントではなかろうか。
A. 同じゲームでも飽きない自信がある
B. 同じゲームで、飽きたがやり続ける決意がある
プロゲーマーの中には、最初はAだったけどBになった人もいるのではないかなと勝手に想像しているが、
飽きたゲームをやり続けるってホント辛いし苦行だと思う。私にはとても真似できない。
やっぱり、同じゲームをやり続けても飽きないって才能だなぁと思う。
ある作品のクリエイターだと思ってるから、そのクリエイターは四六時中その作品のことだけを考えているかのように考えてしまう
だから、読んでる作品とは別作品を連載開始とかしちゃうと、えっえっ!?作者の魂はどこにあるの?と思ってしまう
作者コメントとかで、ゲームしましたとかどこどこ行きましたとかあっても、いやそんなことやってる暇あるなら書けよ作れよと思ってしまう
いやおかしいのはわかってる
アイドルがうんこするわけないってのと同レベルのことだって気がするけど
複数作品同時並行でやられると一個あたりにかける熱量はそんだけ減ってしまうってのは絶対あると思う
他のことでインプットしてから作品でアウトプットってのもあるってのもわからんでもないんだけどでもなんかくやしくもある
おれがみついだ金で何あそんでんねんみたいな
いや俺がおかしいのはわかってんだけど
作品への魂のコメ方っつーかブラック企業の社畜並に働けと言ってるんだ俺は
そうあるべきだしそうあれるからクリエイターでくっていけてるんだろって
いってることわかってくれる人はきっといるはず
『かぞくいろ -RAILWAYS わたしたちの出発-』 有村かすみ「死んじゃったの!」子役「あきらちゃんがいなくなればよかったのに!」
『人魚の眠る家』 篠原りょうこ「死んでるなんて誰にも言わせない」 西島「まやかしにすぎなかったんだ」
『七つの会議』 香川てるゆき「()この野郎!」片岡「どういうつもりなんだ!」 この映画、狂言師主役で落語家も歌舞伎役者も出てる…
『マスカレード・ホテル』 生瀬?「聞けやコラ!」笹野「何だと思ってるんだ!」長澤「ホテルマンじゃありませんよね」
『飛んで埼玉』 あり(よく聞き取れず)
『フォルトゥナの瞳』 (脇役)「ザケンナヨ!」 神木「あおいにはわかんないよ!」
『鈴木家の嘘』 加瀬「(聞き取れず)」(一徳をなぐりながら)
『生きてるだけで、愛。』 菅田「えい(うおー)」(ノートパソコンをガラスにぶん投げる直前。音量控えめ)
『こんな夜更けにバナナかよ 愛しき実話』 大泉洋 俺が人生楽しんじゃいけないのかよ(全体的に叫びとしては弱め)」
『LDK』 なし 音楽邦画ではない (別バージョンの予告がこれからできる可能性はある)
『愛唄 -約束のナクヒト-』 なし
『雪の華』 中条「恋人になってください!」(弱め) やっぱり音楽映画、後ろ3/4~4/5、盛り上がるあたりでサビが代替するので叫びがない
結婚して子供は二人。妻は専業主婦。都内の持ち家に住んでます。
よほどの物好きでなければ読みもしないでしょうが、よほどの物好きのために書き起こします。
少し年の離れた兄が2人。
父親は高度経済成長期に鉄くずで一山あてて、わたしが物心ついた頃には外車を乗り回して手広く商売を始めていたいわゆる実業家だった。
兄たちは私立高校に通うも大学には行かずに親が与えた飲食店のそれぞれのオーナーになった。
学校が終わると遊びに出かける友人たちを尻目に店を手伝わされる毎日。
日付が変わる頃家に帰ることもあって遅刻の常習犯。授業中も居眠りが基本。
ところが与えられた商売がうまくいくはずもなく、飲食店はいつも閑古鳥。
それをいいことに給料はろくにもらえず、そのくせ毎晩の様に遊び歩く兄を見てフラストレーションを貯める毎日だった。
エスカレーター式で高校に行くも、そんな生活サイクルでは勉強がうまく行くわけもなく高2で単位をとれず留年せずに中退。
ところが世はまさにバブル崩壊直後。
手堅い商売だけを続けていればいいものを、株式投資に手を出した父親は持ち家から事業の全てを一瞬にして失う。
兄たちの飲食店も当然のように廃業。兄弟それぞれがそれぞれに肉体労働を始める。兄弟とはこの頃に絶縁状態になった。
修行期間という理由でボロアパートの一室を与えられた以外に、給料は3万円のみ。
免許を持っていなかったので現場までの移動はかろうじて眠ることが許された。
ところがこの仕事も、1年後に職人がこぞって夜逃げしてしまったために職人部隊のみ解散。
退職金(とはいっても今まで手渡されてなかった自分の給料だが)を80万受け取って、補償もなしに家を追い出される。
財産を失ってから口を利かなくなった両親が住む葬儀場のようなアパートに身を寄せるも、口を開けば喧嘩が始まる両親に挟まれることが限界になり自室に引きこもる。
ダイヤルアップとテレホーダイでインターネットを始めて昼夜の生活が逆転する。
引きこもりを始めて1年。夜間の日雇いで食いつないぎつつも20歳になったときに貯金が底をついてしまったために日中の就職を考える。
まだ個人でパソコンを持っているのが珍しい時代だったために、ハッタリだけでソフトウェア系の会社に入社。
プログラマーではなく営業職だったために、そこでタイピングから文書作成などの基礎をみっちり教わる。
しかし務めていくうちに社長がキャッチセールス(ソフトウェア抱合せ販売系就職斡旋詐欺)方向に傾倒しはじめ、会員からの指摘で警察が介入する事態になりあえなく倒産。
22歳にて再び露頭に迷う。
その後再び1年間引きこもり。フレッツISDNが始まった頃で、起きたいときに起き、寝たいときに眠る生活をするうちに日にちの感覚を失う。
その後、パソコンを使えるという話を聞きつけた親戚(工務店とは別の親戚)からぱちんこの事務を頼まれる。
急遽事務員が長期間の入院をすることになり替わりの人間を探しているとのこと。
当時、ぱちんこそのものを見下してはいたが、寮を与えられ正社員として採用してくれるという言葉に心が動いた。
一日でも早く家を出たかったし、高校中退引きこもりの自分が正社員として働ける日がくるとは思ってもいなかったからだ。
入社して早々にわかったことは、会社全体としてかなり管理が杜撰ということ。
オーナーはものすごく人がよいのだが、その人の良さにつけ込んで働いている人間かかなり好き勝手やっている状態だった。
一応引き取ってもらった恩があるのでできることから少しずつ改善を始めるも、当たり前のように古参と衝突した。
人は人、自分は自分の精神で、自分の受け持った仕事だけはきっちりと無駄なく効率化した。
当然働いているふりをしていた人間はそれが明るみになり、オーナーも少しずつおかしいことに気づき始める。
入社して1年で事務周りの全てを見直して最低限度の効率化を達成。
それと同時に働いているふりをしていただけの人間は勝手に居場所を失いいなくなった。
その頃には自分がいなくても事務が回るようになっていたので、その実績を買われてか今度は店舗に異動。
20店舗近くのチェーン店を持つグループ企業の、旗艦店のリニューアルがあるということだった。
いざ入ってみるとここも上から下まで相当腐敗していることがわかる。
ぱちんこ業界としては最も隆盛の頃で黙っていてもお金がどんどん入ってくるような時代だった。
とはいっても競争が激化してきていることもあり、そのままでは当然おいていかれてしまう状況だった。
リニューアルを目前にして、やらなければならないことは山積みのまま。
オープン直前の2週間は職場で数時間の仮眠を取るだけの生活が続いた。
リニューアルはなんとかうまく行ったもの、オープン後も課題は山積みのままで誰よりも早く出社して誰よりも遅く帰る日々が続く。
当時はなんて無責任な!と憤ったものだが、今思えば働いているフリをしていれば守られていた地位が突如脅かされたのだから当然のことなのかもしれない。
ここだけの話だが、教えられる相手もいないまま手探りでぱちんこの釘を担当することになったことで、この旗艦店ではしばらくの間、全くの素人が釘を担当していた期間が存在する。
当然毎月の利益は破茶滅茶で、リニューアルの人気だけで売上が保たれていたような状況だった。
ただ、そのせいで、今度はとうとう休みすらまともに取れなくなってしまった。
毎日出社して数百台の釘の打ち替え、勤務日はホールのシフトに組み込まれてしまうため、事務作業は公休日に行った。
(一応断っておくが、釘の打ち替えは直ちに違法ではない。無承認変更にならないために適正を維持することもホールの義務といえるからだ。)
広告の手配から店舗の販促、部備品の発注からセキュリティまで事務作業のほぼ全てを一人で行っていた。
休み無し、一日の労働が17時間を超える日が3年ほど続いた頃、とうとう身体を壊した。
その頃には店舗のナンバー2まで歴代最速で上り詰めていたが、逆を返せばまったく後戻りができない状況に追い込まれていた。
その後は一ヶ月間自宅療養になった。
絶対に休めないと追い込んでいたのは自分だけで、休みから明けてみると(満足できるか出来ないかは別として)業務のほとんどは滞りなく行われていた。
それをきっかけに、部下を信じて、6割の完成度でも容認できるようになったことで、やっと休みを取ることができるようになった。
そのさらに1年後、28歳のときに新店舗立ち上げのリーダーに選ばれた。
準備期間を経て新店オープン直前の1ヶ月から1年間、再びまともに休めない生活が始まったが、以前のように一人で背負い込むのはなく、部下たちにうまく割り振ることで精神的な負担はうまく分散することができた。
営業も安定したオープン2年目、十分に下が育ったと実感できた31歳のときに本部に異動になり店舗業務から外れ、グループ全体のマネジメントを担当することになった。
家族手当や住宅手当などを含めて初めて年収が一千万円を越えた。
ただ、結婚するまで貯金はなかった。ほとんどが部下たちとの交際費で消えてなくなっていた。
自分が上り詰めると同時に居場所をなくした上司達が次々に辞めていったために、今では親族役員を除けば実質社内で1番の地位、本部長を務めている。
ただ、ぱちんこ業界の先行きは暗く、今のままではこの収入を維持することは難しいだろう。
ここまで目を通してくれた物好きな方はお分かりの通り、わたしの人生から学べることなんてものはない。
学歴なんてものは持ち合わせていなかったし、かと言って中退後に真面目に働いたわけではなく、むしろ社会と断絶した生活を送っていた。
成人した後、必要に迫られてがむしゃらに働いた時期はあった。しかし、今思えばそれは行き過ぎていたし、実際に身体を壊す直前には死ぬことばかりを考える毎日だった。
あの時、ぱちんこを見下したまま誘いを断っていれば、今の自分は絶対に存在していないだろう。
ただ、自分の後にも先にも、この会社でこんな働き方をした人間は一人としていなかった。
それが自分の生き方が他人の模範にはならなかったことを端的に表していると言えるのではないだろうか。
言いたいことは一つ。
どんなに成功していようとも年寄りの話なんて良くも悪くも半分も聞いていれば十分だということだ。
なぜなら、彼らは努力の結果生き残ったのではなく、生き残った結果、自らを肯定しているだけだからだ。
どんな道を進もうとも、そこには必ず運がいたずらをする瞬間が存在する。
そのちょっとしたいたずら次第で、人の人生なんてものは簡単に変わってしまうものなのだ。
努力が無駄とは言わないが、努力に見返りの約束を求めることだけは無駄だと断言できる。
ただ、もし付け加えるなら、何かの選択を迫られた瞬間、それが自分にとって燃え上がることのできる選択かどうかを考えて欲しい。
その覚悟がなければ、運によってもたらされた結果に後悔を繰り返す人生になってしまうからだ。
自分にしてみれば、今の生活がどうであれ、青春時代を親兄弟に台無しにされたことが今でもくやしくてならない。
あの時あの瞬間しか味わえないものはいくらお金を積み上げようとも買い戻すことはできないからだ。
なぜあの時にもっと親兄弟と戦わなかったのか。その結果が例え無駄だったとしても、戦うという選択をしなかったことだけが今でも一番の後悔として自分を苦しめ続けている。
他人は関係ない。自分がより輝ける選択を続けられることが、辛くても苦しくても、例え早々に死を迎えることになったとしても、幸せと言えることかもしれない。
もうどうしようもなくて。
IT系の会社を何社か転々として、おかげさまでなんとか大手の企業にまで潜り込むことができた。
もういいかげんこのあたりで骨うずめるぞー、とのんびりを自分に言い聞かせつつがんばってたら、新卒の女性社員からパワハラだセクハラだという讒言が上司に上がってきた。もちろん事実ゼロなのだけどその部分の説明はどうでもいいからとりあえずパス。
上司はおろおろしてとりなしてくれたのだが、こういうのは一言でも表に出たらぜったい自分には勝ち目がないし、今後職場がギスギスするのにも耐えられない。即「辞めます」と言って退社した。慰留は断った。
けっこうデカいサービスを中心になって立ち上げたので、今でも広告を見ると胸が痛む。いなくなったあとは戦略的に迷走していて市場で苦戦中だ。
まあでも、そんなのは彼らがどうにかできることだ。ほんとうに困っているなら自分をあのとき辞めさせなかったろうし。
自分はそのあとひまつぶしに一人会社を登記から自前でやって立ち上げたりしたけど・・・どうしても怖くなる。
どこへいってもなにをやっても、けっきょくはあの新卒女性社員のように見た目がよかったりウケがよかったりする人間が鶴の一声かけさえすれば、自分などあっという間に消されてしまう。
とてもくやしくなる。
うちの会社はG社にならって20%プロジェクトがあって、自分の好きなプロジェクトに業務時間の20%を自由に使って良いということになっている。優秀な人が多い会社だから、入社前はそういうすごいエンジニアが自由闊達に意欲的に20%プロジェクトに取り組んでいて、それが新規プロダクトの開発にも生かされているのだろうと思っていた。
入社してみると想像していたのとは違った。まずほとんどの人が20%プロジェクトをしていない。というかまずほとんどしていない。新しく入社してきた僕が、新しいプロダクトを作ってそこそこ流行ったら、やられたー、それは自分が先に考えつきたかった、みたいな反応があるのではなく、すごいね、みたいな。そもそもくやしくもないらしい。
しかしそういう人でも仕事ができないわけではない。むしろ僕よりできる。会社での評価もよい。そこのギャップがしばらく理解できずにいた。
しかし先日ふと気がついた。仕事ができるかどうか、やるべきことを人より上手にできるかどうかという能力は、やらなくてもよいことをやるかどうかという能力とは関係もないのだと。両方持っている天才もいるが、前者だけ持っている人でも会社で出世できるし、後者の能力が多めで前者が少なめの人は会社の中ではあまり評価されないのだと。会社としてはやるべきことしてくれるひとのほうがありがたいのだが、このあたりを勘違いしていると、会社にとって有意義な活動(20%プロジェクト等)をやっているのに自分は評価されない! といろいろ誤解が生じてくるだろうから、会社としては20%などは過剰にアピールしないほうがよいかもしれない。
着実に成果を上げていって脱線しない人というのは正直僕としてはよくわからない人なのだけど、そういう人からみると僕のような脱線ばかりしている人というのは理解できないのだろう。どちらがいいとか悪いとかではなく、いろいろな人がいるのだなと気づいた正月だった。
げんきであかるい、いっしょうけんめいな担当者。
社会ではまだまだ若手も若手に属する20代前半の武器は多分こんなもの。
期待にこたえるために頑張ってきた。
だが、ここにきて疲れた。
締め切り守らないデザイナーへの催促も、
同僚の進捗確認も、
すべてが面倒くさい。いきることですら。
かんじにへんかんするのもめんどうくさい。
たいぴんぐ も めんどう だが もうすこし。
よかれとおもったことがうらめにでる。
きたい された こと に こたえられない くやしく かなしく みじめで ひりき で
おのれの むりょくさに なすすべもなく。
3000年、ただひたすらねていたい。
くやしいっ……!
くやしくて、死にそうっ……!
身体の奥から絞り出すような掠れた声。これほどまでに悔しがる声を、かつて聞いたことがない。
TVアニメ『響け!ユーフォニアム』は、そういうお話だ。本気で高みを目指し練習に練習を重ねた――なのに届かなかったことがくやしくてくやしくて涙があふれてくる、そんな物語だ。
主人公の黄前久美子は、コンクールの京都府大会に向けた合奏の練習中に、顧問の滝からとあるパートの演奏から外れるよう指示される。そこはかつて質の低さを指摘され、改善を約束したパートだった。久美子は努力を重ねたが、滝が求める精度にけっきょくたどり着けなかった。
うまくなりたい。
うまくなりたい。
うまくなりたい。
うまくなりたい。うまくなりたいうまくなりたいうまくなりたい。うまくなりたい。うまくなりたい。うまくなりたい。うまくなりたい……!
うまくなりたい! 誰にも負けたくない! 誰にも……! 誰にもっ……!
後から後からあふれてくる涙に頬を濡らしながら久美子は知るのだ。
中学のとき関西大会への切符を賭けたコンクールで敗れた際、同輩の高坂麗奈が流した涙の意味を。その辛さを。「本気で全国いけると思ってたの?」と問いかけた自分の目の前で彼女がどんな気持ちでいたかを。
それを知った久美子は、「期待すれば恥をかく。叶いもしない夢を見るのは馬鹿げたことだって思ってた」自分と決別する。「絶対、全国に行く」と、ためらうことなく口にする。たとえ努力した者すべてに神様が微笑まない世界だったとしても。努力し、戦うことを選ぶのだ。
選ぶ、ということ。
TVアニメ『響け!ユーフォニアム』は、当人の選択とそれに伴う責任を重要なテーマに掲げている。
最も判りやすいのは冒頭だ。
顧問に就任した滝は、部員たちに部の目標を選ばせる。全国を目指すか、楽しい思い出をつくる部活動にするか。選んだ以上はそれに向かって努力してもらうことを言い添えたうえで。部員たちは多数決のすえ前者を選んだ。待っていたのは低レベルな演奏に対する容赦ない指摘だった。部員たちは反発したが、滝は取りあわなかった。「あなたたちは全国に行くと決めたんです」と。滝の厳しいながらも的確な指導によって演奏技術の向上を実感した部員たちは彼に信頼を寄せていく。
終盤にはもっと重要な意味をもってそれが描かれる。合奏のトランペット独奏パート、その奏者を巡るオーディションのやり直し。
奏者は麗奈にいったん内定したが、敗れた三年の中世古香織を慕う吉川優子の「噂になってるんです。オーディションのとき、先生がひいきしたんじゃないかって」という発言によって、滝は希望者に対する再オーディションを認める。そして香織がそれに手を上げたことからもう一度やる、ということになったのだ。
ここで面白いのは内定している麗奈の意向を滝が確認しなかったことだ。本当なら麗奈の気持ちが重視されるべきだろう。何せ一度はその座を勝ち取っているのだから。しかし滝はそれを訊かなかった。
その理由は、“選ぶ”ことによって“責任”が麗奈に発生してしまうからだろう。麗奈は本来それを負う必要がない。だから滝は回避した。彼の内面を推し量るなら、オーディションに不正があったのではと疑問を持たれた自分が責を負うべきだと考えたのではないか。
再オーディションの場でも“選択”と“責任”が遡上に上がる。どちらを奏者にするか、滝は(ひいきを疑った)部員たちに選ばせようとする。「全国に行くと決めた」あなたたちは、今の演奏を聴いてどちらがそれにふさわしいと思いますか、と。
しかし部員たちはどちらも選ばなかった。だから滝は香織に訊く。「あなたがソロを吹きますか」。香織は言う。「吹かないです。吹けないです。ソロは高坂さんが吹くべきだと思います」と。
香織が肯定していたら、恐らく滝はそのまま香織に吹かせただろう。香織では先の大会に進めない公算が高いと判断していても吹かせただろう。どちらも選ばなかった部員たちに文句を言う資格はもうない。部員たちはそういう“責任”を負わなければならない。そして香織も、もし吹くのであれば部の成績の是非を逃げ場のまったくないとこで負う覚悟がいる。滝はそれを問うたのだ。香織は否定した。
もちろんこれは責任を押しつけあったという話ではない。
何かを求めるのであれば相応の代価がいる。全国か楽しい部活か。全国を求めるなら苦しい練習とそれをしてなお届かなかったときの悔しさに対する覚悟がいる。『ユーフォニアム』とはそういう物語なのだ。
ところで『ユーフォ』がエロティシズム溢れるアニメだと言われて否定するひとは少なかろう。もっともあからさまなのは8話。夏の大吉山にノースリーブのワンピースで登った麗奈は、コケティッシュな魅力を見せつけながら久美子に“愛の告白”をする。夜景をバックに、裾を風や座ったときのはずみで翻しながら。あるいは久美子の唇を白くほっそりとした指でなぞりながら。正統派の黒髪美少女は、匂い立つような色気をまといながら、中高と同じ吹奏楽部に所属しながら顔見知り程度だった少女に真正面から迫っていく。
これは何なんだろう? 百合? サービスシーン? 半分ぐらいはそうだろうが、それだけではないように思う。
『ユーフォ』はキャラの欲望を隠さない。久美子の「うまくなりたい」を始めとしてみんな何らかの欲望を持っている。「特別になりたい」「三年間やってきたんだもん、最後は吹きたい」「あすかが思ってるわたしの一歩先を、本物のわたしが行きたい」「あたしさ、塚本のことが好きなんだけど」「みんな吹きたいんだ」「コンクールに出たいんだ」「全国」。
だから肉体は、欲望の主体がちゃんとそこに存在していることを証明するかのように、画面いっぱいに生々しく描かれる。
終盤はもっと直截だ。
炎天下での練習。頬を火照らせ汗を滴らせながら練習に励む彼女たちは、ときに渇きを癒そうと喉を鳴らしながら水を飲む。それらのシーンは例外なく艶めかしい。オーディションに勝って奏者に選ばれたい、今は手こずってるパートをもっとうまく吹けるようになりたい。喉の渇きは、そういう欲の隠喩表現だ。ときに口元を濡らしてしまうほど勢い良く飲むのは満たされることを強く欲してるからだ。
あの夏の夜。これから山に登ろうというのに、麗奈はノースリーブのワンピースにヒールサンダルという格好だった。対する久美子はTシャツとショートパンツにシューズというラフな出で立ち。片やデート、片や気心の知れた友だちとのお出かけのよう。その落差は気合いいれておめかししてきた麗奈の“欲”を際立たせる。
『響け!ユーフォニアム』は、何より絵でその強さを表現している。
音楽マンガには演奏の素晴らしさを聴衆のリアクションによって表現する手法がある。『ユーフォ』でもサンフェスへの出場を賭けた合奏や、サンフェスにおけるマーチングの際にこれが用いられた。アニメだから音そのもので質の高低は表現可能だし実際されているのだが、強調表現として使用されたのだ。
しかしながらラストのコンクールでは聴衆の反応がいっさい描かれない。いったいこの差はなんだろうか。
冒頭でも述べたように、『ユーフォ』は努力に努力を重ねたのに鳴らしたい音へとたどり着けなかったことやオーディションに敗れコンクールへ出られなかったことがくやしくて涙を流してしまう物語だ。
努力そのものには何の価値もない。滝も誰も努力したことを褒めない。努力の末に響かせた音にのみ評価が下される。聴衆は、久美子たちの努力を一切しらない。ホールに響き渡るあの音が努力の末のものなのかそうでないのか一切しらない。
しかし我々は知っている。努力をし、欲をむき出しにしてぶつかり合ってきた先にある音だと。滝に叱責され、炎天下で汗を滴らせ、楽譜に「全国」と大きく書き込み、がむしゃらに努力してきた先にある音だと。だからそれはきっと素晴らしいのだ。みんなが積み重ねてきた努力を知る葉月が「いっすね……」と呟く音はきっと素晴らしいのだ。
そこに聴衆のリアクションはいらない。ステージの上でまばゆい光を浴びた久美子たちが響かせる音、それは素晴らしいに違いないと我々はもう知っているのだから。