はてなキーワード: 市井とは
・6年以内に台湾侵攻?みたいな話もある(眉唾だが、眉唾と思うのが平和ボケなのか?)
・振る舞い的にもタガが外れてる感があり、やばそう
・バイデンさんとプーチンさんがバチバチ口論みたいなのをやってたらしい
・政治が終わっとるっぽい
・もろもろ不満溜まってそう
これ大丈夫か?
俺、比較的安定した時代に、戦争とは縁のない国に生まれたのはラッキーだった!なんて思ってたが、死ぬまで何もないだろうとは言い切れない感じになってきた
日本がセーフだったとしても、先進国が関わるデカい何かがぼちぼち起きてもおかしくないよなあ
やべーっ!
身体鍛えといたほうがええんか?
最近の回転寿司チェーンに若干の不満がある。味についてではない。
私が不満に思っているのは「もはや回転していない」回転寿司店のシステムである(いささかレトロニム的だ)。客席の間を回転する寿司。野良の寿司…または市井の寿司とでも言うのか、その部分を完全に廃し、タッチパネルで注文したものだけがオンデマンドにベルトコンベアで流れてくるシステム、あれはなんとかならないのだろうか。
私が回転寿司屋に求めているもの、それは食事における主体性の放棄に対する受容である。
私はこのところ非常に疲れていて、何かを選び取る作業というのが苦痛で仕方がない。給与や役職、年次に見合わない過大な責任を預かる業務が続いており、そしてそれは自分の選択を誤ると最悪の場合他人を殺める可能性のある業務でもある。そのためか、最近は私生活でも自分から何かを選ぶこと、それを人や物に指示することが非常に億劫なのだ。あるいは一種の鬱状態と言えるのかもしれない。
それに較べて、かつての回転寿司屋というのはなんとも魅力的であった。お品書きや食券機に書かれた無数のメニューを選ぶために、考える時間や精神の負担を一切与えない世界!目の前に流れてきた食品を、興味があれば取りそうでなければ取らない。ルールがこれしかないのである。頼んだものと違うものが来ることもなければ、待てど暮らせど自分の注文した料理だけ来ないといったこともない。また、明快な従量課金制でサービスやお得なプランなどの介在する余地もない。私は、「回転寿司屋に行こう」という選択さえしてしまえば後は寿司屋の思うまま。あとは全てが寿司屋の主体性が支配する王国に暮らす歯車Aであり、なんの責任も問われない…!私が回転寿司屋を愛する所以はそこにあったのである。
それがこの頃どうだろう。回転寿司屋の絶対王政には幾分翳りが増したように思える。歯車Aではなく、主体的に選択しなければならない事項のなんと増えたことだろうか。私は食べたい寿司なんか選びたくないんですよ、この前まではそっちが提案してくれたじゃないですか。なんですか毎回、お取り忘れの無いようにだとか、寿司を取ったらボタンを押せだとか!座ってるだけで食べ物がアピールしてゆく、デブの走馬燈方式の何がいけなかったのですか。こんな江戸っ子の考えたサイバーパンクみたいになっちゃって、昔のあなたはどこへ行ったんです。
感染症対策やフードロス対策の意味合いとしても回転寿司の正常進化であることは自明のようではあるが、思考停止飯に魂の救済を求める哀れな限界社会人のために、ベルトコンベア方式を何とか存続してはもらえないだろうか。
同人界隈でどういう認識なのか知らないが、一時期の大量さは減ったもののぽろぽろと腐女子お気持ち長文が増田に流れる。
匿名でないと言えない、でも誰かに聞いて欲しい、あわよくば当人に伝わって欲しい、という文章を受け入れる場所は確かに少ない。
だが増田好きからすると、特定の属性を自己の代名詞として使う時点で anonymouse ではないのだ。市井の誰でもない人のなんでもない日常の澱を見たい。あの人たちは特定されたいんだかされたくないんだか細部は具体的な、自分の主張をすごく分かって欲しいけれど分からない人に否定されたくない、もうとにかく溢れ出す自意識のくどさが、誰でも無い人ではない、名前を隠しているだけの誰かで、なんかつらい。
創作する人はある程度そういう部分を抱えているのかもしれない。それ自体はまあいい。でも常駐者が好まないものを場違いに投げてスルーされるよりは、同人界隈の人が常駐している場所に投げた方が、お互い幸せなんじゃないですかね…。
例えば Pawoo の匿名モードを作って、タグなり発言者の属性( Pixiv 投稿作品のタグとしてつけたことがあるタグを発言のタグとする)で検索できる場所とか。
知らないけれど増田が偶然伸びて界隈の話題になることを望むよりは、界隈専用の増田の中でこれは分かるとか何いってんだコイツとかやっていた方が有益なのでは。
民間病院のコロナ患者受け入れ率が低い状態で医療崩壊などというのはけしからん、といった風潮を感じるようになった。
実際民間病院のコロナ受け入れ率は2割程度で、8割近くベッドがあいてるじゃん、そこに入院させなさいよ、という事であるが、これがどれだけ荒唐無稽か説明してみたい。
コロナの治療自体はこういった病院でも概ねできるだろう。ecmoみたいな特殊技術じゃなければ、最近の若い医者はみんな人工呼吸器の使い方くらい知っているし、そもそもコロナに特効薬はないので、薬の使い方も決め打ちで頭を使わなくても済む。じゃあ何故受け入れないかといえば、戸田中央総合病院の例を見れば明らかで、感染対策が難しいのだ。万全の対策には相当頭を使うし、ルールが決まっても皆が守らない事には意味がない。職員全員の練度が求められるのだ。そんなクオリティを担保できる病院がどれだけあるかといえば、今コロナを受け入れている病院以外は軒並み非適当だろう。
あなたが飲食業だとしよう。高級店で働いていれば問題ない。市井の大衆店で、そこの席空いてるなら、じゃあ料理は高級店が指導するから、客に高級店と同じような満足度を与えろと急に言われるようなもんだ。
あなたが運送業だとしよう。普段家庭向けの配送をしているところに、トラックが空いているなら、指導するから高級絵画を美術館間で配送しろと言われるようなものだ。
国内のルート取引がメインの商社マンに、指導するから中国ルートを新規開拓しろ、というのだ。
もちろん出来るところは出来るのだ。しかし、できなかった時、つまり院内クラスターが発生した時、こんな病院で働いてられるかとスタッフは一定数離職するだろうし、あそこの病院はやらかした所だから、といった噂はしばらく病院経営に陰を落とすだろう。ただでさえ病院が潰れてもおかしくない時代に、あえてそんなリスクに手を出す民間病院が2割もいる事に驚きつつも、受け入れている病院への畏敬の念に堪えない。
コロナを受け入れていない8割の病院も、コロナ以外の病気を治療するために、コロナ受け入れ病院から流れてくる患者を普段の業務に加えて受け入れているのだから、人的にも物資的にも余裕があるわけでもない。どこぞの教授が言っているようにインセンティブさえあれば受け入れるというものでもない気がするのだが。
現状コロナによって確実に医療は崩壊に向かっていて、これはどこかをチョチョイといじればなんとかなるというものではない。唯一確実な方法は、新規感染者を減らし、感染の収束を待つしかないのだ。
キッツ
理想を捨てられない上に自分の価値が下がるとこまできちゃったわけやろ
付き合いたいわけ?とか30に聞かれたらそりゃ引くわ。寧ろ女側は経験値積み終わって妻として向いてるアピールするべき年齢やのに
世間の男が決める“自分の価値”とやらにどうして合わせなければならない? 理想を捨てなければいけない理由は何?
“経験値積み終わって妻として向いてるアピールするべき”————なぜそんなことをするべきと考えるのか。
「まともさ」は同調圧力だ。
理屈を説明して他人の行動を変える見込みがないとき、同調圧力は有効に働く。
市井の多くの人は、飛沫感染を防ぐため…のような科学的理由で付けているのでなく、「周りのヒトが付けているから」という理由でマスクをつけている。そういうアンケート結果があった。
そんな生き苦しさが本当に必要なの?
数ヶ月に一度、よその病院に通院して受ける特殊な処置をしないと、
とあるインプラント器具がダメになる、という事情を抱えている。
そんな状況でコロナが出た。病院本体ではなく、付属の施設でだ。
叔母のいる病棟と施設の間で行き来のある医師たちは陽性にならなかった。
そのため、叔母のいる病棟のスタッフはPCR検査の対象にもならなかったそうだ。
替えの効かないスタッフを維持するために検査を控えている状況だと私には思える。
他の病院でやってくれるところをみつけるのも難しい。
年内にできなければかなり危ない状況になる。その点を汲んで、
昨日の時点では通院を受け入れると言ってくれていた。
関連施設とはいえ、同じ建物だそうだから、そういうところからは受け入れられない、
という一点張りだった。その点も昨日の時点で説明していたのに。
最後の陽性者が回復してから二週間後なら受け入れられるということだ。
要するに年内はギリギリ。一人でも新たに出ればほぼ無理。
そもそも着いてから言うことか? 昨日と今日で状況が変わったわけでもないのに。
二週間後なんかそっちでコロナが出ていたって全然おかしくない。
昨日の夜でも今日の朝でも一報入れてくれれば、わざわざ連れて行かずに済んだのだ。
本当に警戒しているのなら、不要な対面の機会を作るべきではないと思うのだが。
別に悪いことをしているわけでもないのに。
通院先にしたって、悪いのは手際だけで、受け入れないことは何も悪くない。
今のところは久しぶりに顔を見れた安堵感が勝っている。
こんなケースは、いま日本中にあるのだろう。
通常なら受けられた治療を受けられずにいる人たち。
この状況は何によってもたらされたのか?
もちろん全てはウイルスのせいだ。それはわかっている。
それでも、いま現実に医療の現場で起こっている判断が正しいものだとは思えない。
現場の判断が歪んだものになるのは政策のせいでも世論のせいでもある。
感染者に過剰なスティグマを押しつけ、危機を煽ればタダで行動を制限させられる。
感染拡大はろくな正業についてない連中のしていることで、そこを塞いでも社会は回る。
それで一時は感染者を抑えられた。でもそんなものは長くは続かなかった。
経済的困窮を盾にとって過剰な行動制限を否定し、補助金で外出を促す。
コロナなんて所詮ただの風邪で、若ければ無症状で済むんだから社会は回せる。
それでいくつかの業種は一息つくことができた。でもそれも長くは続かなかった。
どうしてこんな極端なものの言い方ばかりがまかり通るんだろう?
だからって感染を恐れて通常必要な医療行為を控えるほどではないとか、
誰がかかっても助かる可能性はあるが、
あえて流行を拡大するような行動を促すべきではないとか、
言ってる人がいなかったわけでもないと思うんだけど、
現状を見るかぎり、どうも中庸なところで意志統一するということができないみたいだ。
影の薄いリーダーは消え入りそうなぐらい影を薄くし、
それに直面させられる医療者たちの心の負担を考えたことはあるか?
コロナに関わる言説はどれも虚しい。
無視できるものの多い人間ほど声が大きいというだけのことだからだ。
私たちは疲れ切っている。そして棄てられつつある。
芸術はさ、やりたい人が自分の金で勝手にやりゃあいいじゃん。材料とかもあるもん使って創意工夫すりゃいいじゃん。芸術家は「描かずにはいられない」「作らずにはいられない」「演奏せずにはいられない」生き物なんでしょ。
ほんなら、国から支援されなくたって発表の場をわざわざ用意されなくたっていいんじゃないの。普通に就職して、寝食削って作りゃあいいじゃん。追い詰められた人間が魂削って描いた物の方がいいのできそうだし。
まあ、建築系の人ぐらいはいてもいいかなと思うけどさ、画家とか彫刻家とか1人で勝手にやっててくれって思うよね。
絵が飾ってある空間、要る?
博物館はいいよ。学びが深まる。科学館もいい。図書館も大事だ。小さなコンサートホールも町に一つぐらいあっていい(異論は認める)。でもさ、美術館、圧倒的に要らないよね。
必要な人はいるんだろうけどさ。「じゃあ、買えば?絵。」って思っちゃうよね。2000円のチケットで見に行ってないで、市井の絵描きの書いた絵を買った方がいいんじゃないの?芸術振興ってそういうところじゃないの?
貧乏人にも手が出せるように?じゃあサイゼみたいに壁にデカデカと印刷しとけよ。とか思うけどね。中国からレプリカ仕入れて、モナリザでもピカソの絵でも飾りまくりゃあいいじゃん?贋作に価値がないのって結局偽札に価値がないのと一緒だよね。「本物にもなんの価値もないから」でしょ。どこぞの大金持ちコレクター(とそこから金を引っ張り出したいバイヤー)の付けた値段を芸術的価値だと思い込んでるなんておめでたい話だよな。
税金は無限にあるわけじゃないんだよね。ちょっと子育て支援、ちょっと障害者に福祉を、って話になったら途端に財源が〜なんて話になるのに、芸術の話になると黙るよね。国が貧しくなりゃ芸術どころの話じゃないんだけどね。既存のものの存在意義は熱っぽく説明するけど、これから必要なものの話はできないんだよね。そういうところが日本をダメにしたんじゃないかな。俺は芸術みたいな贅沢品を身にまとって先進国ぶってないで、全部売っ払って(ってのは比喩として)なりふり構わず這い上がる努力をすべきだと思うよ。
そもそもさ、ルーベンスの絵の価値がわかる国民よりも、水素水に騙されない国民のがよっぽどいいよね。美術の時間とかあったら、科学教えたほうがマシだと思うよ。トレードオフじゃない、比べるものじゃないとか言うのかもしれないけど授業時間なんて普通にトレードオフだしさ。小学生の図画工作なら楽しみにあってもいいかも知れないが、中高生に2時間も美術要らないだろ。その2時間で理科でも数学でも社会でもやったほうがマシだろ。
美術館も要らないから科学に回せばいいし、美術の時間も要らないから理数に回せばいいよ。将来的に本当に役に立つものは何かよく考えるべきだよ。救われました〜とか個人的な体験談じゃなくてさ。芸術がなくなったから衰退してるんじゃなくて、衰退してるから芸術がなくなってんだよ。で、芸術にこの衰退をなんとかできますか?って話だよ。
数年前から思っているのだが、異性との関係で、こちらから行動を起こさなくてはならないのがツラい。
正直、聞きたいことがない。「相手の関心に関心を持つこと」が、簡潔な愛の定義だとしたら、愛は枯れているのかもしれない。
仕事は研究と編集なんだが、研究は男女とわず、みな内容があるので面白い。作家らもまた世に問う内容があるから関わっていて楽しい。
しかし、いわゆる市井の一般女性の話が、何一つ面白く感じれない。美容とグルメと芸能ゴシップに興味を持てない。
明らかに性欲も減衰しているが、たまに伴侶を求めたいと思うも、上掲の理由で、あぁ…となって終わってしまう。
法律をもって・権力をもって表現自体を規制することを「圧力」と考えます。
法的根拠に基づいて出版物を差し止めたり、特定の表現を行った企業・人物に対して刑事罰を実施することは、企業の自由判断を蝕む「圧力」であると言えます。
一方、一般の消費者によるいかなる批判・抗議活動においても法的拘束力はなく、それに従うか否かは企業の自由判断によるものです。
(日赤は宇崎ちゃんコラボをやめませんでした。amazonは三浦瑠璃CMをとりさげました。いずれも自由判断)
これを「圧力」と断定することはできません。
>それから「人事案件なら圧力ではない」という俺ルールの正当性の証明はどこで読めるでしょうか?
「人事案件は圧力ではない」とは申しておりません。「"人事"と"市井の消費者による批判"とは直接的には無関係であり、人事によって発生した労働者の損失の賠償責任を消費者に求める(=「"批判"を"圧力"呼ばわりする」)べきではない」と申しております。