はてなキーワード: 居合わせとは
ここ2~3年サウナに行くのが週末の楽しみになった。
けれど疲れた時や大きな風呂に入りたいなという気分の時に、近所のスーパー銭湯に行く程度だった。
生活圏内の地名をそのサイトの検索ボックスに入力しては、訪問するのが毎週末の習慣になった。
1軒は都内で最も温度の高いサウナを持ち、1時間1000円で入れるサウナ
もう1軒は3時間2000円かかるが、プールのように大きく冷たい水風呂のあるサウナだ
両店ともサウナとは店によって個性があって人気のお店には理由があるのだと、サウナ初心者を感動させてくれた。
しかし錦糸町とは千葉県民の自分にとって遠く、年に何度かは行くが訪問のレギュラーにはなれなかった。
所要を終えると、時刻は17時頃になっていた。
夏のはじめ頃だったので周りはまだ明るく、家に帰るには何となく早い気がした。
新しくもう一つできたという情報をレビューサイトで読んでいたからだ。
受付に行くと以前何度か訪問した時のおじさんと同じ人がいた。
受付のおじさんに目を合わせずに最も安いコースを注文する。
料金を支払い、ロッカーのカギを受け取ると、1階奥の更衣室で指定された番号のロッカーに荷物を押し込み、
館内着に着替え2階の浴室に向かった。
浴室は改装したとの評判だったが以前と景色は変わらないように見えた。
だが奥のサウナに向かって歩くと垢すりのコーナーだった場所にサウナが設置されていた。
早速そのサウナに入る。
サウナの中には先客がいて神経質そうなおじさんが一人で大汗をかいていた
私はおじさんと反対側に座ることにした。
サウナは高温で湿度がないタイプで、体力を奪いそうな熱の中でFMラジオが小さな音で流れている。
湿度のないカラカラ系のサウナだと汗が出ずらい私は、しっかり汗を出せるか不安になった。
私のサウナルーティンは12分サウナに入り水風呂に体が冷え切るまでつかり、浴室のベンチなりなんなりに座り休憩をする。
経験的にこの12分間で汗が出れば出るほど水風呂は気持ちよくなる。
カラカラ系のサウナだと、相性が悪いと体がきつくなるばかりで、汗が少ししか出ないことがあるのだ。
そうすると不思議なもので水風呂での気持ちよさは半減し冷え切るまで冷水の温度に耐えられなくなる。
そんな不安を覚えながら、サウナで流れているFMラジオに耳を傾けていると、滝のように汗が出てきた。
ほう、ここはどういう具合かわからないが、かなりの発汗を誘発するタイプなのだな、カラカラ系にしては珍しいな
そんなことを考えていると、おじさんがもう耐えられないという表情を浮かべサウナから出て行った。
そして入れ替わりにサウナハットをかぶった青年が一人で入ってきた。
青年は私の反対側の正面に座った。
痩せ型の優しそうな顔つきの男だった。
なんとなくだが深夜ラジオとか好きそうだな思った。
そんなことを考えているうちに滝のように出ている汗は勢いを増し、我慢の限界に近付いているような気がした。
まだ半分なのか、そんな絶望感を感じた時だった。
「このサウナすごいですね」
私はそう正面座る男に話しかけた。
知らない人としゃべるということが億劫になってぞんざいにその会話に返答してしまう
私の経験上きっと青年はめんどくさそうに思うだろう、そして場を取り繕うような返答をしてくるのだろう。
もしかしたら返答すらしない、そんな残酷なことを平気でするかもしれない。
優しそうな顔つきの男というのは、優しいのは自分の周りに対してで「他人」に対しては平気で残酷なことをするのだ。
「いやここは本当にすごいですね」
そう私にむけて嬉しそうに言った。
そしてさらに
「ここよく来るんですか?」
と聞いてきた。
私は自分のことを棚に上げて友達のいなさそうなやつだなと思った。
それからサウナを出ると青年と水風呂でも、2周目のサウナでも同じになった。
けれどサウナを出た後青年に話しかけるのは気恥ずかしく、できるだけ遠くに座った。
サウナに満足した私は風呂上りに、かき氷を食べようと食堂に行くとまた青年がいた
せっかくだから話しかけてビールでも同伴すればいいじゃないか、
そんなことが頭をよぎったがすぐにそれはとても無粋だと思いなおした。
注文したかき氷は予想よりも大きく、シロップがたくさんかかっていた。
そして食べるのに大変難儀した。
青年の遠くでかき氷を食べ終え食堂を出て、サウナをチェックアウトする
派手なネオンで装飾した看板の中華屋さんの間に挟まるようにチェーンの居酒屋が軒を連ねている
そのビルの地下でガールズバーや性的なマッサージをしてくれるお店がうごめいている。
呼び込みキャッチをよけながら、空を見上げるとあたりはもう暗くなり始めていた。
AEDを両腕につけてドカンでなんとかならないか?とか、なんで皆さん都合よくAEDの前で心肺停止の救助をする前提の話になるん?だいたいそんなのレアケースやん。
それと胸をもんで訴えられたら?ってのも、都合よく知らない女性の救助現場に居合わせる話になるのもどうかね?
多分、「普段仲の悪い義理の父」とか「突然倒れた徘徊老人」とか、そっちのほうが確率は高い。
あれだろ?結局、合法的に知らない若い女の乳を揉みたい妄想の裏返しなんだろ?リビドーだだ漏れが透けて見えるよ。
あとね、「AEDに従ってやれば胸を触らない」派の人、残念。胸には触ることになる。ただし。そう、但し書きがある。そうそう訴えられることは心配しなくて良い。
AEDの講習を受けたことも無い人が空論に空論を重ねて、ホント無駄。
ざっと現実的な対応のシミュレーションをしよう。消防署でAEDの講習を受けたら、まずこの流れのはずだ。
1.倒れている人発見→声をかけて意識がないか返事を待つ。呼吸はあるか。脈はあるかの確認。いきなりAEDとか心臓マッサージはやらないよ。
2.脈がなければ、近くにいる人を2人捕まえる。一人には消防署に連絡することを指示。倒れている人の性別とぱっと見の年齢を伝える。
もう一人にはAEDを持ってこさせる。コンビニが近くにあれば幸い。他に仲間を募ってもいい。一人で勝手にやる想定はしないことだ、これ重要。
3.さて、AEDが届くまでじっとしてるのか?届くまでとにかく胸骨を押せ。頑張って押せ。骨折の心配なんかするな。骨折はやがて治るが止まった心臓を放置すると戻ってこないよ。
よく事態を考えてみて。胸を触られたとかで訴えられたほうがまだいい。訴えられるように戻ってこれて良かったね、という話だ。(訴えられるかどうかはここで判断しないで最後まで読んでね)
痛い!とかギャーとか言えば、そこで終了。心配ないから。なんらかの理由で回復できたんだろう。でもまあ、1の状態を確認したあとでそうなってくれる確率は少ない。
心臓マッサージなどとにかく自己流でもなんでもいい。腕が辛くなり過ぎたら周りにいる人に替わってもらえ。
4.AEDが来たら音声指示に従えば良い。もってこさせた人にやらせてもいい。
というわけで、そもそも関係者=目撃者として巻き込んで、さらに救急隊員も目撃者になる。すなわち、皆証人だ。
救助の末に助かったら、皆、こう言うだろう、あなたがいなければ助かってなかったと。
また、そう言われるだけの行動をすればいいだけの話だ。
レアケースだってあるのでは?とか、レアケースが気になって行動できない。とか言ってる人は本当にそうかね?
レアケースでなければ…たとえば、君のおばあちゃんが君との散歩中に突然倒れたら?ちゃんと行動できるの?
・電車
・コンビニ
人間、成長するにつれて段々と同じレベルの人としかつるまなくなる。
しかし、上で挙げたような場所は、別々の場所で生きてきた人達が同じ場所に居合わせる人生の交差点と言える。
そのせいで、普段は出会わないようなとんでもないモンスターに出くわす事がある。
特にヤバいのが電車遅延などで混雑した逃げ場のない場所で高ストレス下に置かれた場合と、災害時の避難場所のようにある程度混乱している上に長時間同じ場所にいるケース。
こうした時に、中学卒業以来出会っていなかった、全く常識の違う別の日本を生きてきた人達と人生が交差するのである。
避難場所での婦女暴行などがニュースや話題になることがあるが、それは犯罪者が混ざったのではない。そういうことするのが常識である層が混ざったのだ。
AEDがどうなのという話はよくあるんだけど、実際に出先で昏倒してAED使われたりした人ってほとんどいないんじゃないかと思う。
俺もAED自体は使われてはいないのだけど、おそらくてんかん的な発作で昏倒して、たまたま近くに居た人に救急車を呼んでもらってなんとかかんとか助かったみたいなことをここ1年で二度もやらかしたおっさんだ。
昏倒前後の記憶はまったく無くて、意識が再開したときには救急の人に確認されてるときということで自分がどういう風にぶっ倒れたかとかも全然わかんなくてそのあとその近くの人とかに謝りに行ったけど、ほんとびっくりしたみたいな反応ばかりで怒ってるような人もいないしむしろ心配してくれてるような人ばかりだった。
自分が倒れた場合以外で、他人が倒れたところにも居合わせたことがあったけどAEDがどうのみたいなことで即座に身体が動かないみたいな人は自分含めているとはおもうのだけど、後の訴訟とかを恐れてやらないとか言う人はごくごくレアケースなんだろうと思う。俺達のようなカスとちがってよのひとたちは結構良い人達ばかりだよ。
だって客層が悪いから。ウチの最寄りのサイゼリヤで初手で最悪な客と居合わせたせいでどうしてもそう思ってしまう。
そいつは一人利用の男で、PCや書類?みたいなのも持ち込んでいて、食事と仕事を兼ねて来ているらしかった。
そいつは食事しつつ仕事しつつノーマスクでずっとしゃべっていた。
大体はスマホ相手にだったが、途中でサイゼの店員が来て、その店員相手にもおしゃべりし始めた。知り合いというか、かつて職場かどっかで先輩後輩の立場だったみたいな感じだ。
どこの飲食店でも「お食事中以外はマスクの着用を」と言われるご時世だ。少なくとも私と私の連れはそのサイゼで注文時などはマスクありでしゃべるように言われた。
それだけでも気分は良くないが、最悪なのはこの客がデカい声でスマホの通話相手に延々パワハラだか脅迫だかわからんような詰めをやっていたことだ。
食事中に
「あのねお母さん、俺はずっとお父さんたちのためを思って動いてきたのね。それをあんたがそうやって突然邪魔するんじゃあ云々」
「いいからお父さん出して。代表者じゃないと、あなたじゃ話にならないから」
「いいから出せよ。出さないならもう知らないよ。大変なことになるよ。あんたそれでいいの」
みたいなことをデカくて威圧的な声で延々聞かされるというのは思ったよりきつい。きつかった。
「値段の割には美味い」はずの食事がみるみる不味くなっていく。
私は身内と利用していたからまだマシだったが、初デートでこれにぶち当たったらもう全部台無しだろう。
今年都内某所にできたばかりの店で、内装とか綺麗そうだからと利用したが、あれっきり行ってないし行く気ももう持てない。
サイゼ側もああいう客に一言注意するとかもなく、というか先述の通りむしろ店員がダベリに来ていてその後もスマホ通話が延々続けられるなどしたので、状況改善は望み薄だと感じた。
N=1にも程がある話とはわかっているし、サイゼ全店が最悪な客を取り揃えてお待ちしているはずがないのだが、しかし一度ああいう強烈な嫌な思いをするとなんかもう無理だな。系列でまるごと避けたいという気持ちがマジで強い。
こんなもん地上で爆発したらどうなるねん
https://www.youtube.com/watch?v=wtthhilAO3Y
昭和17年(1942年)5月、日本軍の攻勢により推移していた太平洋戦争は、後に戦局の変わり目として位置づけられる事になる「ミッドウェイ海戦」を目前に控え、重要な局面を迎えていました。
しかし、戦時中とは言え普段とほとんど変わらない生活を送っていたここ下湧別村の漁民にとっては、そんな国家の重大事など知る由もなく、折しもオホーツク海沖合に現れたニシンの大群の行方が目下の関心事でした。
ニシンの豊・不漁はその年の村民の生活水準にそのまま直結するため、その群の到来に村はにわかに活気づきます。
そんな5月17日、その日も沿岸では村の漁師たちが総出で網を仕掛けていましたが、その作業中に一人が波間に浮遊する金属製の樽状の物体を発見します。
そして、素人目から見ても異様な雰囲気を醸し出すその”水に浮く不思議な鉄の塊”がおそらく「機雷」であろう事に彼らが気付くまでにはそれほど時間はかかりませんでした。
思わぬ危険物の漂着に漁場は騒然となりましたが、「これが機雷であればなおさら放置しておく訳にもいかぬ」との”勇気ある”漁労長指示により網に掛けながらひとまず浜まで引き揚げる事にします。
数十分後、幸い移送途中で爆発する事もなく「ポント浜」の砂上に”恐る恐る”陸揚げされた直径約1.2m・長さ約1.5mの機雷と対峙した一同は、まず警察への通報が先決との判断により代表者が市街地にある派出所へと向かいました。
ところが、その時派出所では村の東側に隣接する「サロマ湖」内で時を同じくして発見された”もうひとつの機雷”を巡って既に大騒動となっていたのです。
”国籍不明”の危険物が二つ同時に漂着したこの”大事件”については、一帯を所轄していた「遠軽警察署」を経て直ちに「北海道庁警察部」へ連絡が取られましたが、意外にも警察部からの回答は「所轄署責任において爆破処理せよ」というまことに素気ないものでした。
実は北海道の特に日本海沿岸地域における浮遊機雷の漂着は当時それほど珍しくはなく、これまでの事例では当該所轄警察署の手によって難なく処理されていたという事実が、先の無関心とも思える本部指示につながる訳ですが、当地では前例がなく、ましてや爆発物処理の専門知識もない遠軽警察署としてはその対処方法に頭を悩ます事になります。
その後即刻開かれた署内幹部会議上では「軍の協力を仰ぐ」という策も提案されたものの、遠軽警察署長としては「他の署が自力で処理しているレベルの事案について他所の助けを乞う」などその自尊心が許しませんでした。
こうして、意地でも地元の手によって行わざるを得なくなった作業は約1週間後の5月26日午後1時に決行すべく、二つの機雷を「ポント浜」一箇所に集め、遠軽警察署の監督の下、その運搬・管理を地元警防団(警察や消防業務を補助する民間組織)に、そして爆破処理を管内にある「生田原銅山」の”発破技師”に依頼する事が正式決定されました。
しかし、この時署長の頭の中ではこれを機にもうひとつの”とんでもない”計画が進行中だったのです。
ここ下湧別村をはじめとする遠軽警察署所轄管内では普段大事件が発生する事もなく、平穏であるがゆえ警察署長の立場としては至って”退屈”な日々を過ごしていました。
また、生活のため日頃と変わらず農・漁業に勤しんでいる人々が、署長の目には「戦時中にも拘わらず危機意識がない不心得者」のようにも映っていました。
そこで、この機雷爆破処理作業を一般に公開、爆発の威力を見せる事で庶民の「戦意」と「国防意識」を高めると同時に、警察の威信を確固たるものにするべく画策していたのです。
かくして、村役場などを介し回覧や口コミで村内はおろか近隣地域にまであまねく周知されたこの”一大イベント”は、物珍しさも手伝っていたずらに人々の興味をそそり、更には当日わざわざそのために臨時列車が手配された事もあって、その日は爆破時刻の午後1時に向けて老若男女合わせて一千人規模の見学者が各地から現場へ向かっていたと聞きます。
さて、決行2時間前の5月26日午前11時頃、現場のポント浜では遠軽警察署長以下警察官9名と、署長命令によってなかば強制的にもれなく召集された下湧別市街及び近隣集落の警防団員約150名が事前集結していました。
二つ並べられた機雷を前に、あとは生田原から火薬の専門家が到着するのを待つばかりでしたが、しかしここに至って爆破方法を巡り現場が混乱する事になります。
通常、機雷の爆破処理というのは水中において一つずつ行われるのが定石であり、その日もそれに従って実行される予定でしたが、当日になってその事実を知る事になった漁業本職の警防団からの猛反対を受けます。
というのも、海中での爆破は一帯の魚介類を死滅させる恐れがあり、それは漁民にとっては明日からの生きる糧を失う事を意味しました。
彼らにしてみれば死活問題だけに警察側からの再三の説得や恫喝に対してさえ一歩も退く事は出来ず、しばらくの”攻防”の末、漁師たちのあまりの頑強さについに根負けした署長は陸上処理への変更をやむなく了承します。
粘った甲斐あって勝ち取った結果に安堵した警防団員たちでしたがその代わり、陸上で爆破するには現在近過ぎる二つの機雷を、誘爆させない距離として設定された約50mの間隔まで引き離す作業が待っていました。
こうして気乗りしないまま予定外の力仕事をする羽目となった彼らの心中には、これらが「既に機能を失った不発弾に違いない」という思いが一様にあったようです。
発見されてから1週間まったくの変化も見せなかったこの”錆びた鉄塊”に対して徐々に警戒心が薄れていった事に加え、ことサロマ湖から運ばれてきた方には、実は数日前に”命知らず”な村の鍛冶屋によってあろうことか持ち寄ったハンマーで叩くという危険極まりない試みがなされていますが、結果その衝撃にもびくともしなかったという事実も、「もはや危険ではない」と彼らを暗に確信させる要因になっていたのでしょう。
それぞれ多忙な仕事が待つ警防団員たちにとって、本業もままならない毎日を無理強いするこの”いまいましい敵”への扱いは、そんな思いもあってか最初と最後では大きく異なっていました。
初めこそその取扱いには慎重を期され、移動も衝撃を与えないように砂上をゆっくり”引きずる”方法がとられていましたが、この段階では労力を惜しんでか本体にロープが巻きつけられ無造作に”転がされて”いたと言います。
しかしやがて、鍛冶屋の”無謀な挑戦”を受けていない方、つまりオホーツク海で発見された機雷が、軟らかい砂から馬車道の硬い轍(わだち)の上に転がり出た瞬間…それは既に浜に到着していた気の早い数百名の”観衆”が見守る中で起こりました。
今まであれほどいかなる反応も示さなかった機雷が、まるでこの時を待っていたかのように火花一閃、大爆発を起こしたのです。
そもそも軍艦をも爆沈させるほどのその破壊力は当初の想像をはるかに超えるもので、破片は爆風に乗って障害物がない砂浜の中を数百メートルに渡り飛散、傍らにいた警防団員や警察官は言うまでもなく、一応安全を考慮して遠巻きに置かれた一般見学者の多くも無事ではいられませんでした。
爆発による黒煙が消えた後には、直径10m・深さ3mの穴と共に、周辺に斃れたおびただしい数の人々が残され、そのほとんどは瞬時にしてその命が失われたであろう様子が一目で判るほど現場は凄惨を極めたそうです。
現場から4kmほど離れた下湧別市街地でさえもその轟音と震動に激しく揺れたと言われるこの前代未聞の機雷爆発事故においては、死亡者112名・重軽傷者112名という未曽有の惨禍を見る事になりました。
そして、この”公開爆破”を企画した遠軽警察署長や、直前において爆破地点を変更させた警防団の代表者も、その過ちを悔やむ時間すら与えられないままこの日帰らぬ人となっています。
この大惨事により現場に居合わせた警防団員のほとんどが死傷し、下湧別村は多くの”働き手”を、そして家族にとっては一家の”大黒柱”を一瞬にして失いました。
「一体誰のせいでこんな事になってしまったのか」…機雷を放った知らざる敵か、現場に丸投げした道庁警察部か、それとも無謀な計画を立案した警察署長あるいは陸上処理を主張した警防団員か…もはやそれをぶつける相手もいない中、人々の行き場をなくした怒りと悲しみだけがポント浜には残されました。
合掌
ううむ。20年、男として見てもらえなかったことをご自分の責任のように書いていらっしゃるけど、それは周りの女性の自由意志でやっていたのだから、女たちが悪いって見方もあり得ると思う。増田が怒っていないなら、俺が代わりに腹を立てておく。
運を活かす、か——…
そのときは奇跡的な機会を得て、ビックリしたんだと思う。突然の事態に驚いて何もできないことは人間にはよくあること。悪いけど俺にはそれを怠惰だとは思えない。本当に選択のチャンスがあったなら、その時点でそれに気付いていたハズでしょう。あなたは女の子が降ってきた当時、第二の分かれ道の分岐を感じていましたか。自分には学習のチャンスがある、と認識していたんですか?
今朝たまたま、弱者男性が幸福になれるロールモデルの話で微かに盛り上がってるのを発見した。
何人か曰く、男性はまず幸福である必要があって、それが結婚を引き寄せる、らしい。でもモテない男性はほとんど幸福じゃないって現実がある。だから、モテない男性なのに幸福だって様子を見せられれば、それがそのまま希望になる。
俺やあなたにとって、あるいは弱者男性増田たちにとって、こういう話に居合わせたのは、機会、第一の分岐なのではないでしょうか。どこに続く道なのかは、わからんないけども。
17歳の時から10年以上大阪府に滞在していたため、日本語が堪能。「日本での生活を通じて、人間として大切なことを学んだ。日本の歴史、文化を心から尊重している」と語り、「親日家、日本通と呼ばれることは気分がいいものではない。日本人にとっては私は外国人にしか見えないかもしれないが、日本は私の第二の故郷。同じ日本人として接してほしい」と語っている[21]。 千葉真一と親交があり、千葉がハリウッドに拠点を移してからは、セガールが流暢な大阪弁で「千葉先生、居てはりまっか?」などと、頻繁に千葉へ連絡している[22]。淀川長治とも日本語で対談を行い、淀川の「日本語がお上手ですね」に対してセガールは「恐れ入ります」と応えた[要出典]。初主演作品の『刑事ニコ』のオープニングシーンおよびコンベンションセンターでのシーンや、2005年公開の映画『イントゥ・ザ・サン』では日本語の台詞を用いているほか、いくつかの作品では日本語の単語を台詞のなかで用いている。2008年正月、『奪還 DAKKAN -アルカトラズ-』のテレビ放映時に出演し、「あけましておめでとうございます」と挨拶をしてから、日本語で映画のみどころをアピールした[出典無効]。しかしコメントの締めの日本語を言い間違えたあと苦笑いをし、「日本語はもう20年ほど話していなかったため、忘れてしまった」とやはり日本語で語っている[出典無効]。それでもコメディアンで画家のジミー大西がテレビ番組[要文献特定詳細情報]のロケーション撮影でアメリカを訪れた際、たまたま現場に居合わせたセガールはジミーに「おう。元気か」「自分、大阪はどこ?(ジミーが関西弁を話していたため)」「ウチはどこや」「新宿か。新宿のどこだ。四谷か。そうか」などと話しかけ、流暢な日本語でやり取りをしていた[要出典]。『情報プレゼンター とくダネ!』[いつ?][出典無効]に出演した際、シルヴェスター・スタローンが『ロッキー・ザ・ファイナル』の製作を発表したことについてコメントを求められ「彼は最近仕事がないから」「品のある年の取り方をして欲しい」と答えた。さらにデーブ・スペクターとパパラッチ問題について語り合った際は、デーブとのやり取り含め、すべて日本語だった。日本のテレビコマーシャルにも多数登場し、日清食品のカップうどん・ごんぶとのCMでは日本語で演技を行い、アリナミンAの爆走する車の屋根につかまり「こう見えても、疲れまんねん」と言うCMシリーズでは娘・藤谷文子と共演した。大阪在住時に阪神タイガースのファンとなり、タイガースの低迷期に朝日放送のインタビューで「今年もまた負けたらしいのう。わしゃ、もう情けないわ」と大阪弁でコメントしている[要出典]。