はてなキーワード: 個人主義とは
零細会社の経営者をやっているが、やはり従業員の会社への帰属意識ってのは年々弱まっていると思うんだよね。
入ってくる従業員が、みんなアルバイトレベルの意識の人ばかりというか、
「私はこれをやれと言われたのでやりました。おわり。」みたいな人間というか、
まあただ従業員の質が落ちてるだけかもなぁ。
うちみたいな零細はやはりメンバーシップ型雇用というか、良くも悪くも”会社の一員”であるという高い意識を求めてるんだよね。
「会社」としてやるべきことはなにか、その中で自分は何ができるだろうか、そういうことを常に考えていてほしい。
会社の前でよくわからんけど老人がうずくまっていたら率先して手を差し伸べられる人でいてほしい。
会社の前にクソ迷惑な犬のうんこが落ちていたら誰に言われるでもなくさっと拾って掃除できる人間でいてほしい。
そういうことよ。
シンエヴァを観ていて、ケンスケの優しさとは適度に距離を置くことで、トウジのそれは助けを求める声を待たずして大丈夫か、と気にかける事だ、と思った。それは「お前冷たすぎひん?」「いや今は放っといてやれよ」みたいな台詞で端的に表されていた。
二人共、そのそれぞれの優しさは14歳の頃から既に持ち合わせていたんだと思う。基本的なスタンスは変わらないけれど、昔はともすればドライ、ともすれば無神経に見える、バランスを欠いたものだったのではないかと感じる。
では大人になって何が変わったかと言えば、自分の信じる優しさとは別種の態度をも取り入れた事ではないかと、特にケンスケについてそう思った。
彼の成長は、適度な距離感を重んじる人間がともすれば押し付けがましさを嫌って躊躇してしまうような「頼ってくれよ」という言葉を言えるようになった事だと思う。
センシティブな状況で、それでも一歩踏み込んで友人を気に掛ける勇気を手に入れたという事だ。
私もケンスケと同じ類の、人間関係において誠実さとは適切な距離感を置くことに尽きると確信しているタイプだ。世間の人間からはドライと言うような態度も特段非難されるようなものだとは思わない。頼まれてもいない余計なお世話をする前に、まず他人の問題を無闇に決め打ちしない距離感を覚えてくれ、とでも言いたくなる人間を多く見てきたから。自己責任論をグイグイと他人に押し当てるのは如何なものかと思うが。
ただ、時には機を見極めて一歩踏み込むべき場面もあるんだろうと思った。
(語弊を恐れずに言えば)前時代的な密接な関わり合いと、無闇に他者に立ち入らない個人主義は、どちらが優れているというものでもない。それぞれに安心と独立、煩わしさと孤独がある。要はバランスの問題だ。
中庸は大事だ。これぐらいの立ち位置で良いだろう、という所に居座り続けて安心感を得るよりも、常にバランスを考え続けられる人間でありたい。
まあシンジくんが立ち直ったのは彼らの優しさや人との関わりもさる事ながら、決定打はキーパーソン周りの関係だった気がしなくもないが……
補完計画思想の悪役の倒し方って、何か大切な存在を失ったのをきっかけに
「人間の汚さやエゴの衝突がダメなんだ。だったらみんな平等に溶け合ってしまえば良い。それこそが幸せな世界だ」
みたいな事言い出す奴が
「いや君にも悲しい出来事があったのだろうけど、極端な思想に走って人を巻き込んじゃいけないよ。そうやって人の悪い部分ばかりに目を向けてないで、適度に人を信じようよ。あの時あなたが過ごした幸せな時間は紛れもなく本物だったんじゃないの?」
つって説き伏せられるパターンが多い気がする。
それ以前に、そもそも余計なお世話だよっつって突っぱねるパターンはあんまり見ない気がする。
人の数だけ考えはあるし、そのそれぞれが対等なのだから、人には立ち入ってはいけない領域がある。私は現状に満足なんだし、あなたの幸せ計画は過ぎたパターナリズムだ。それが個人主義ってもんとちゃいまっか?つってお説教したって良いと思う。
でも概して実感を伴わない理屈ではなく、自身の幸せを思い出す事、他人の幸せをその目で見る事で初めて納得が得られるというものだし、そういうナラティブで解決するのがフィクションの良さでもあるしな。それを余計なお世話、という説得に落とし込むのは難しいのだろうか。
そもそも個人主義を利己主義と同一視してる人間が世の中に多いから、あまりピンと来ないというのもあったりするのだろうか。多ければこそ、そういうオチにしたって良いと思うのだけれど。
ちょっとズレるけれど旧劇のオチは一度補完計画を始めてしまった上で、「これはやっぱり違う」と実感を伴って答えを決める所に好感が持てた。人と関わるのも大事だよね、という凡庸な所に着地したシン〜より。別にそんなんフィクションに語られずとも実生活で学べば良いし、学んで来るもんやろって思う気持ちがあるんで。
って感じ。
こちとら社会を支える性なのに、どーしてセルフケアなんぞしなくちゃならんのか。
自分らの責務を放り投げて、結局その尻拭いまで俺らがやらされる。
男性は社会をメンテしてください。自分自身もメンテしてください。
——…あのね。
いい加減にしてほしい。
ハッキリ言って、「お互い支え合う社会」理念から目を逸らすための開き直りにしか見えない。
恋愛とか個人の行為ではポイ捨てして「誰をどんな理由で好きになってもいいんですよ」とか言って個人の自由に開き直ってるよな。
自分たちは気づいてないかもしれないけど、欺瞞は全部、バレている。
子供にどういう話をすればいいかは専門外だし、子の性格にもよると思うが。
哲学とか倫理の話をしちゃうと、その子が言ってるのは、いわゆる個人主義というやつだ。
個人の利益と自由を最大化したいという方向性で、最終的に自己責任論に至るやつ。
それって、普通なにによって論駁するかというと、正義とか美意識とかだ。
世界の全員が無法になったら、お前も殴られることになるし痛いだろう……みたいな自己利益保全の考え方だと、結局その子の言う通り、自分自身が強者である限りむしろその方が望ましいだけだ。論理的に反対できなくなる。今のお前のように。
そうじゃなくて、「弱者をなぐってるとかダサすぎる」とか「戦隊レッドがそんなことすると思うのか」とか「人を助けるのが良いことでその逆は悪いことなんだ」とか。
そういうことを話していく必要があるだろうなと思う。
究極的に言えば、子供を増やそうという国家的なキャンペーンは「お国のため」であるわけじゃん
現代はますます個人主義になり自由に人生を設計できるという中で、このキャンペーンは時代に逆行してる感じが強い
こういうのって日常でも発生する
「部の存続や発展のため、部員に時間を削って勧誘活動をお願いします」と言われてやる気を出す人は少数派で、何なら反発もするかもしれない
なぜなら卒業するまでは持つから、別にどうなろうとしったこっちゃなく、「部長なんとかしなよ」で終わるんだ
加えて「勧誘成功した人は優遇する」となったら何のための活動かわからなくなる
「昔」を知らない現代っ子の勝手な想像になるけれど、ドラえもんの空き地みたいなガキの遊び場って、最近になってから物理的に無くなったというより、「遊んで良い場所」なんて元々大してありやしなかったんじゃないかって気がする。
立ち入り禁止の場所に入って見つかれば怒鳴られるだろうし、ギャーギャー騒いでれば苦言の一つも呈されるだろうけど、そんな事はお構いなしに遊ぶ。入って良いとも悪いとも書かれてなければ遠慮なく入る。
対して今は、認められた場所や金を払った場でルールを守って「正しく」遊ばないと気が済まないんじゃないかって思う。それが出来ないなら、家でゲームする方がよっぽど魅力的という。
大人が寛容かルーズだったというのもあるのかもしれない。子供も精神的にタフだったのかもしれない。
最近はやめろと言われてやめる、「ダメ」と言われて諦めるような規範意識がメチャ強いというか、ある種潔癖じみた考えで生きてるガキが多いんじゃないかって気がする。子供に限らず、というかそもそも親のそれが内面化されたのかもしれない。
道端で遊ぶガキがうるせえカス、じゃあ他にどこか遊べる場所があるか考えてみろカス、というのはどちらの言い分も真っ当だし、解決する術がその場で出る問題でもないので、互いに常識の範囲で曖昧なままにしておく。という事をせず、どちらが正しいかで論争を起こす大人は珍しくない。
人の土地に勝手に入っちゃいかん、みたいな他者とその拡張の尊重は個人主義の原理原則だし、それは大事な社会性だと思うんですけど、規範ありきで生きるというのも些か人間性に欠けるなって思う。
安全の問題も、理屈として分かっていても言葉だけで実感を伴う事は難しいだろうし、取り返しの付く範囲で実際に痛い目を見てみる事ってかなり大事だと思う。納得って滅茶苦茶大事なので。
私もガキの頃、友達と石を投げ合うとか傘で本気のチャンバラをするとかの割と危ない遊びをしていた。サッカーやバスケなんかじゃ解消されない、衝動的で強烈な欲求に従ってだ。言葉なんかじゃとても抑えられない。
かなり楽しかったのだが、事前にお互い怪我したって良いと了承していたって、それでも相手が痛そうにしていると申し訳ない気持ちになった。
現代っ子が理性だけで規範を理解し納得までできるのなら無論それに越した事はないのだが、子供の好奇心や衝動とは実感のない言葉だけで抑えられるショボいものなんだろうか。
https://www.sankei.com/article/20230220-PQDZSMO6ORMX5GHJ5BHHAZOCGM/
同性婚法制化は和式リベラルが「ウリ」や「棍棒」にできるイシューではもはやない。
なんで自民支持の若者は同性婚法制化に賛成なのか。悪い大人に騙されてふだんうっかりウケーカしてしまってるだけで本当は政治的に正しい、よい子なのか。
とりあえず思いつく理由は以下の三つ。
周りに疎まれても法の許す範囲で己を貫こうよというのではなく、後ろ指さされるリスクを取ってまで他人に干渉したくないよという、空気の個人主義。
マイノリティ当事者が社会に権利上の訴えをしていく上でそれはむしろ壁になる。自分のことで他人を巻き込んで騒ぐのはどうかと思いまーす。でも天王山的なポイントを越えると追い風になるんだな。鈍重で無責任な羊の群れ。
同性婚の法制化は既存制度に「同性でも可」と機械的に付け加えるだけで済む話ではない。法体系の中でいろいろ軋みというかハレーションを起こす。そのいちいちにパッチしていかなければならない。
外付け拡張でとりあえずどうにかするだけじゃなくて、根本のところにも手を入れる必要がある。
「じゃあそうすればいいじゃん」というのが若い世代の感覚だろう。憲法にだけは触れずにという宗教上の理由による謎ルールを共有していないので。
若い世代ほどドメスティックなものや伝統的習俗を疎んじる傾向というのは普遍的なものではない。大きな波がある。ざっくり言って80年代末くらいからは「伝統、むしろカッコイイ」フェイズだろう。
その流れになんとなく乗って、二人の契りをお国が裏書きしてくれる制度にイニシエーションとしての価値を置いている。個人の選択として生涯未婚だとしても「結婚に何の意味があるかわからない、興味がない」のではなく、いろいろ事情があった上での決断としてそうするに過ぎない。
同性婚の法制化推進は、国が認める正式な婚姻という枠組みを重視する点では「保守」的センスにむしろ沿っているのだ。
婚姻の制度的枠組みをいじるということは「そもそも結婚ってなんだっけ」という原理的問いを前景化させることだ。「同性カップルだけ婚姻届出せなくてかわいそうだよね」「そうだね、じゃあ同性もOKにしよう」だけで話は終わらない。じゃあポリガミーは? そもそも必要なもの?と続くことになる。
そもそも婚姻は法律より前からある。当たり前のことだが、結婚とは原始時代からの土俗的慣習と現代法のアマルガムなのである。
生活者は忙しい。制度なんてうっかり変えてみればいいんだよ。それで人生狂う人も出るかもしれないけど、法律ってそういうものだから。実社会で対照実験はできない。
フランスは家事育児を安く移民労働者に委託できたり、家庭の食事は冷凍食品が基本、個人主義のプライバシー、などいろいろ法制度が整ってやってるのですぐに手本にはできない。
ととのってない日本では事実婚への無茶ぶりがすぎて事実婚の人たちが俺たちにも結婚優遇をうけさせろっていわざるをえなくなっただけなのでアウト。
貧乏日本で家庭という最低限の保護たてまえを政府に選ばされてるだけなのにそれさえ統一教会の純潔主義で対象を最小限にして国民全員からはとりあげようとしてるのわかれや。
ゆだるぞカエルども。
2022年5月20日に日本政府は、屋外では基本的にはマスク着用は必要ないと明示されており、屋内においても特定の条件下でマスク着用は必要ないとされた。
しかし、屋外でのマスク着用はすぐには無くならなかった。あまりにもマスクをしている人が多い。
世界的にコロナ禍が収まりつつあるのに、なぜマスクを着用し続けるのか?なぜ日本人はマスクを外さないのか?
日本は集団主義文化であり、個人として何をしたいかという話の前に、集団として何をするべきか、ということを考える。暑い時期でどんなに不快でも、日本ではほとんどの人は外出時にマスクを着用し続けていた。これは集団主義の文化でよく見られる状況であることがすでに証明されてしまった。一部の現実逃避系馬鹿は、「日本は個人主義だ!」と発狂しているが、現実を見たほうが良い。
しかし、今回は政府が国レベルの集団としてメッセージを出したにも関わらず、多くの人はマスクを着用し続けている。
要するに、権力者よりも影響力を持つ「他人の目」というものがあるらしいのである。
北米などで一般的に見られる自己観は、「個人は他者とは独立した主体的な存在である」と考えられる。
それに対し東アジアなどで一般的に見られる左翼的な自己観は「個人は独立した存在というより、他者との境界線が曖昧で、他者との接点が動機づけや認知のトリガーになる」と考えられている。
日本では相互協調的自己観、つまり左翼思想が主流であり、その為、「マスクをするのか、しないのか」という判断に関しても、他者の存在が影響してくると考えられる。
マスクを外さない左翼系日本人を見ると、「他人の視線」という憶測を自分で作り出していることに気づく。
マスクについて、「他人の目」で身動きが取れない状況は、社会的にはクソに決まっている。
とりあえず現状維持をするという判断が行われると、多数派がマスクをし続けているという現実が続いてしまうのである。そのこと自体が「マスク着用は正しい」という間違ったシグナルを発生させてしまう。集団主義者は、そのシグナルを連鎖させるのである。
「現状維持」になってしまう日本の左翼集団主義系文化そのものであり、これはマスクにかぎらず、組織の中でも社会の中でも、日本の至るところで見ることが出来るものである。
集団レベルの文化を変革するにはどうすればよいのか。この文化のメカニズムを理解した上で、何をどうすれば人々は現状維持ではなく、変革に向けて動くのかということを考える必要がある。
人々が「他人の目」を意識すること自体をどうやって変えるのか。あるいは「他人の目」を人々が気にする前提で変革が進むような設計を考えなければならないのか。
マスクを外さない街中の人たちを見ると、社会設計の不全さを見ているような気持ち悪い感じがする。集団主義の左翼連中は、「カレー味のカレー」を少数派が食べているところで、「ハハハ、カレー味のウンコを食うことこそが正義!みんなそうしてるから」などと言うのである。
2022-02-24
被害者であるウクライナの心配をいっさいせず「ロシア人が差別されたらかわいそうでちゅう」とかいうあり得ない心配ばかりする偽善者リベサヨどもを許さない
ウクライナの悲劇から学ぶべき事は、そういう甘ったるい考え方だからロシアに侵略されるのだ。
差別はダメでちゅう多様性でちゅうとか甘い事を言ってロシア人を受け入れたからウクライナは何世代もロシア人が居座ったのを根拠に「ロシア人が住んでるからそこはロシアの領土だ」とかいう論理で侵略されてるんだよ。
こういう事があってはならないから、ロシアだけじゃなくどの国の人間だろうと、外国人が一定の土地に集団で居住することを許してはならない。
個人として日本が好きで日本に来てる外国人を「外国人だから」という理由で排除するのは差別だし陰湿なムラ社会でありキモい。
しかし、ある特定の国の人間がある一定の地域に集団で住み着き日本の中に他国の飛び地みたいなのを作られたら、それは侵略だ。
欧米の偽善者リベサヨ国家はみんな中東やアフリカから安易に移民を受け入れてそれやられてる。
集団になったらもう「その国や民族と、1人1人の個人は違う」なんていう甘い理屈は通らないんだよ。
最初から侵略して国をぶんどる目的で組織的に計画されてんだよ。
そういうのを、何百年もかけて何世代にもわたってじっくり成功させたのがロシアによるウクライナ侵略だ。
同じ民族が同じ作戦を別の国でもやらないとは絶対に言い切れないんだよ。
「国家と国民は違う」とかいう幻想も、日本や欧米の一部のような数少ない先進国でしか通用しない。
たいていの国はいまだに、国家や民族あるいは宗教がまとめて「ひとつの人格」であり、1人1人の構成員はその細胞にすぎない。
勘違いするな。
「プーチンが独断で決めたことであり、ロシア国民の大半は戦争に反対しているはずだ」とかいう擁護も、根拠が無いし、
そのプーチンを圧倒的な支持率で大統領に選び続けているのがロシア国民なのだから、
プーチンの決定は全ロシア国民の総意であると見なされるべきだ。
何よりもまず「何よりもまず真っ先にやらなきゃならないのが、ロシア人が差別されないようにすること」だなんて言ってる時点で普通の国なら「お前はロシアの工作員だな」と見なされて外患誘致罪に問われる話なんだが、
一方的に攻撃を受けてる被害者のウクライナ人はいっさい心配せずロシア人が差別されるのばかり心配してる時点でどう見ても中立なんかじゃないのはバレバレなんだよ。
お前らはホロコースト博物館の前で「ドイツ人を差別するな!」と叫ぶのか?ネオナチかよ?
慰安婦像に「日本人を差別するな」と落書きしそう。ネトウヨかよ?
普段はネオナチやネトウヨを批判してるリベサヨがロシアの事になると急にネオナチやネトウヨと同じ理屈でロシアを擁護するんだから、リベサヨの親玉が誰なのか誰でもわかるわこんなの。
何よりもまず真っ先にやらなきゃならないのはウクライナへの支援だ。
それでロシア人が「差別されたー傷ついたー」とか言い出したら絶対に甘やかすな。
そもそもいまだに「ウクライナがロシア人住民を差別したから悪いんだー」とかいうロシア側のプロパガンダを真に受けてる奴らがいるのだが
それをふまえるとまだ誰もロシア人差別なんかしてないのに「日本でロシア人が差別されるぞ差別されるぞ」と騒いでるのは何の目的かって
世界のどこかに向けて「ここでもロシア人が差別されてますよ!早くここにも軍隊を派遣してください!」というメッセージを発しているのだよな?
やはり外患誘致罪だわ。
2022-02-25
「ロシア各地で反戦デモ」とかいうプロパガンダに騙される偽善者リベサヨどものチョロさは異常
全員晒してやりたいところだが、晒すと必ずセットでロシアのプロパガンダを拡散することになるから晒せない。
ロシア各地で反戦デモが起きて平和を愛するマトモなロシア人が逮捕されてるぞーとかいうの大喜びで感動して拡散してる奴ら全員チョロすぎて許さない。
ロシアはあらゆる情報が統制されプーチン政権に都合いい情報しか流れずちょっとでもプーチンの気に触ったらジャーナリストだろうと何だろうと「消される」国であり
なおかつロシアはアメリカ大統領選にも影響及ぼすほど世界中に高度な情報戦を仕掛けて大成功してる国なのを忘れるなよ。
ロシアから来る情報は全てロシアに都合いいプロパガンダと見なすべきであり、真実なんかひとつも無いと思え。
「ロシア各地で反戦デモ」とかいう情報を世界中にタレ流すことで得するのは誰だよ?
「悪いのはプーチンであり、国家と国民は違う!」などと簡単に騙されて、要するに「ロシアにも反戦平和主義者がいることに免じて、ロシアを許してあげよう」と声を揃えてるんだよ!
ロシアから「ロシアで反戦デモ」とかいう情報が流れてくるのは、それがロシアにとって都合がいいからだ。
「国家と国民は違うからロシア人を差別するな」なんて甘い事を言ってると世界中がロシアに侵略されてめちゃくちゃにされるんだよ!
プーチンは全てのロシア人から支持されてるからずっと大統領をやってるんだ。
ロシアというのは、プーチンが頭で全ロシア人がプーチンの手足でありプーチンの細胞なんだよ。
日本人や欧米人は生ぬるい「自由」とか「個人主義」という幻想のぬるま湯に浸かっているから、全体主義国家の恐ろしさを忘れているんだよ。
日本だってつい70年くらい前まで天皇のもとに全ての国民が一体になってたのに。
「個人」という概念は存在せず、全ての国民がひとつの「国家」という「人格」なんだよ。
甘く見るな!
2022-02-26
他の戦争で一方の国民を「差別するなー」と騒ぐの今まであったか?
例えばイラク戦争のとき「悪いのはブッシュであってアメリカ人ではない!国家と国民は違うからアメリカ人を差別するな!」なんて言ってた奴いたか?
1人もいなかったぞ。
2ちゃんねるの偽善者リベサヨどもは全員声を揃えて「アメ公を皆○しにしろ」と大合唱していた。
今回だけなぜか「ロシア人を差別するな!」がこんなに湧いてるのはあきらかに異常だ。
ベア(ベースアップ)には団体交渉が必要だった時は盛り上がったんだよね
むかしは、5月になるとメーデーのデモが撮影されてたけど、いまやらんもんね
安保(1960)とか、全共闘(1970)とかがあって、共産主義が「新しい」と思われてた時代
そういう時代の潮目に「医療生協での業務中の政治活動」が問題視される
そういうのが読めなくなって行った結果だな
今じゃ、共産系の活動には施設を貸さないとかが起こりえる組織になってしまった
組合活動はもっとドライに、組合員の利益を第一に行われるべきなんだけど
それで人々が離れると
労働者の武器を手放してどうする肉屋を支持する豚だ、と他人を揶揄し始めるようになる
主張を通すのは政治だ
分かってないのはお前だ
と、ドヤ顔するアホが居るんだが
特定政党への投票を要請したり、デモの参加を強制したりするから忌避されんだよ
本当
とか、まじめにいってるんだから
市民を嗤う前に
自民とコネクションを持って、市民の側に立ってロビー活動できる労働者のための互助組合ってのを
一回作ってみればいいんでないかな