はてなキーワード: 雑貨屋とは
路上はキャッチと風俗のスカウトだらけで、声かけ禁止のアナウンスは流れているけど、警官はめんどくさがって交番に引きこもったまま見て見ぬふり。
一等地に建つ西武百貨店には、高級ブランド店はたくさん入っているけど、客はぜんぜん入ってない。
東急ハンズの渋谷店はなんか煤けてて、品揃えもあんまりよろしくない。同じモール内に本格的なホームセンターも入ってたりする郊外店と比べるとその差は歴然。ロフトなんかの雑貨屋も同様。
本屋に関しては、新宿池袋どころか川崎にも負ける。大型書店といえば、妙に薄暗いMARUZENジュンク堂くらいか。
映画に関してはTOHOシネマズがあるけど、なんかボロいところが多いよね。
あとはどこにでもあるようなチェーン店と、郊外チェーン店の狭苦しい劣化版ばかり。
おっさんたちは「マイルドヤンキー」とか言って都心に行かない若者を馬鹿にしたりしてるけど、結局、こんなスラムみたいな街にわざわざ出向く理由なんてないんだよね。清潔で安全な豊洲や船橋や川崎ではできなくて、渋谷でしかできないことなんてほとんどないんだから。映画とかなら木場や日の出や流山でも十分だし、むしろ郊外でできて渋谷でできないことの方が多い。
それでもなお渋谷とかに行く理由があるって言うなら教えて欲しいかな。しょうもないクソ煽り系の商売的な理由くらいしか俺には思いつけないんだけど。もしかして老人のノスタルジー?
東京に行くついでに寄ってみたらショボくて笑った。神戸に勝ってるのって、中華街だけじゃん。まず、近代建築がショボい。銀行建築だけだよね、横浜が誇れるのって。神戸の北野みたく、個性豊かな個人の住宅が残っていない。まあ関東大震災があったから仕方ないけど、ちょっと肩透かしを食らった。てか横浜は街並みが汚いよね。神戸の旧居留地のが開けてて綺麗。あとさ、みなとみらいにある日本丸って建造も母港も神戸なんだよね。横浜があまりに名所がないからって、貸してあげたみたい。
それに、繁華街も神戸の方が密度があって栄えているイメージ。横浜はでかい箱物って感じ。横浜が誇る人口だって、面積広いだけじゃん。あと、東京のベッドタウン(笑)で稼いでいるだけ。なんかさ、横浜って東京の属国みたいな感じだよね。頭があがらないイメージ。その点神戸は、大阪や京都に対しても胸を張って誇れるものがあるし、内心下に見ているよ。
あとさ、横浜は古着屋が少ない。神戸は多い。横浜にファッション文化が根付いてない証拠。横浜ってイオンモールっぽいんだよ。過去から脈々と受け継がれる若者文化がない。大阪から神戸に服買いに行く人は沢山いるが、東京から横浜は全くない。ルミネ(笑)が横浜の限界だもん。オシャレなカフェとか、雑貨屋とか神戸のがダントツに多い。街ゆく人も、神戸の方がオシャレな美男美女が多い。そういうのは、横浜は全て東京に奪われてる。関西みたいな文化的分担がない。『ヨコハマ買い出し紀行』よりも『神戸在住』の方がセンスいいしね。
だいたい、横浜国立大学ってほぼ単科大学じゃないか。国立なのに早慶に蹴られるし。その点神戸大学は総合大学だし、旧帝大にも肩を並べる大学。関西の政財界に多数OBを排出している。レベルが違う。
あと、神戸は山があるところが素敵。横浜みたいなぼんやりとした平地とは違う。六甲山ではスキーが出来る。海もあって山もあって、おまけに歴史があって栄えている街なんて神戸ぐらいしかない。あと横浜は言葉が汚い。下品。なんだダベって。神戸のようなモダンでハイソな感じがない。田舎の港町そのまま。
まあ総合すると、
正直横浜より博多の方が魅力あるよね。なので、総合的には神戸>博多>横浜くらい。
追記
あ、俺は厚木出身神戸在住だから、横浜のことも神戸のこともよくわかってるよ。横浜初めてみたいな書き出ししたけど、実は高校の時に何度も行ってます。その上での評価です。
追記2
おいおい、東京に近いのは、横浜じゃなくて川崎だぜ?だったら川崎の方が都会になるやん。あと横浜は「ぼんやりとした平地」と表現しただけで、真っ平らとは言ってない。まあ神戸と比べて見なよ。横浜なんてメリハリない平地だから。
もっと言うと、今の横浜なんて江戸時代はクソショボイ寒村だったからね。栄えてたのは現在の金沢区の方。横浜市は歴史を偽造するために後から金沢区を無理矢理編入させたって噂。現在の中心部で比べるなら神戸の方が江戸時代はまだ栄えてたよ。歴史を勉強しようか。
それにさ、関西に来てから横浜がウザすぎるんだよね。神奈川出身って言ってるのに「横浜?」て聞き返してくる確率8割以上。横浜じゃないから神奈川って言ってるのに!その度に厚木だよ、へーわかんない、の繰り返し!そりゃ、誰だって横浜嫌いになるって。こっちにきて余計に横浜嫌いになった。
まずいのいちに言いたい。
自分の周囲にも結構いるが、「30代半ばを過ぎて“可愛くならなきゃ”の呪縛から逃れたら、今まであんなに憎かった可愛いものが悪くないなと思えるようになった」というケースは多い。問題は「美醜」の基準そのものじゃないんだよ。「可愛い・キレイetc」に過剰な価値付けがされる結果として、他のさまざまな評価軸が軽んじられている、というアンバランスさであり、その表出方法の問題でしょう。可愛いもの・美しいものを愛でる楽しさまでも全否定する、という態度もそれはそれでナイーブすぎる。
ものや人をかわいいみにくいと思うのは基準じゃありません感性です感性は無理に否定したり変更したりする必要はありませんと何べん言ったらわかるんですか。
いっぺんしか言ってませんがいっぺんで理解しましょうね。横入りしてる立場なんだから。
全く自覚はありません。というかどこがどう何故極端なのか説明して頂きたい。評価軸と感性とをごっちゃにしてるから「随分極端」に見えているだけでは?
というか元増田のところの「『人の能力は美醜と関係なく評価する、そんな簡単なことが何でできないんだオラオラ』というおシバき」だってガッチリ美醜の評価軸を無効化してるじゃないですか。
このおシバき自体も超特殊で極端で一種理想主義的なお叱りの例だとか思ってるわけですか?
苛烈な市場競争に晒され続けて疲弊している人に向かって、「いったん降りましょう」とアドバイスする時、それは一時的に「市場における優劣」という評価の場から距離をとってみようという話であって、市場という場(やそこでの評価基準)そのものの無効化を訴えているわけじゃないよね?
「市場における優劣という評価」が人生全般において絶えずされる可能性があるということは元増田も認めているところです。
つまり「距離をとってみる」という比喩が意味するところの避難先が無い。
無ければ作れ。自分を軸に。というのが元増田の言らしいですが、肝心の避難所形成の方法である「心中ランキングの廃棄」ができないとかほざいているうちは作れません、という話であるだけです。
元増田が言いたいのは、「美醜」という基準が前面化している社会状況がまずおかしいが、その状況は当然容易には変えられないから個々人の側で距離の取り方を再考しよう(=自衛)、という話だと理解している。「美醜」という基準そのものはおそらく無くせないし、そもそも無くす必要がない。数ある評価軸のなかで「美醜」による判断、「可愛いか/不細工か」みたいな評価ひとつでその人のもつ他の美点を丸ごと否定してしまう風潮だったり、あるいは、それを内面化して自身の存在が全否定されたかのように感じてしまったり、そこから「降りる=負け」だと思い込むような価値観、といったものが問われているのだと思う。
何が「問われている」のかがよくわからないというか、どうしてここまで「風潮」「社会状況」を個々人と切り離してしかも対立させて考える事ができるのかが理解できません。
美醜という基準が前面化しているという社会状況があるならば個々人の心中にもそれは基準化されて内在している可能性は高いし、それを個々人が「距離を取る」ようにするならば個人レベルでは必然的にその基準を捨てる・無効化する方向になると結論できると思われますが、何でそこで「距離」という比喩に逃げ込んでしまうんですかね?
それとも比喩ではなくて物理的にある種の人やメディアとの接触を断つことを指してるわけですか?
感性の徹底排除や無効化は生半なことでは完遂できませんが、ランキング無効化はそれと比較すれば別に難しい事ではないです。
「自分の評価軸を自分自身に移す」というのは、自分の外部(他者)の視線を完全に排除することではないはずだし、そもそもそれが可能だと考えるのは幻想にすぎない。「美醜」を含めたさまざまな評価軸を、自分の納得のいくバランスでの組み合わせとして選びとることが重要なのであって、「美醜」を必ずしも棄てねばならないとは思わない。
自分の外部の視線を完全に排除するっていうのは幻想かもしれませんが結構誰でもやってますよ。
まず他者の視線が内在化されてるっていうのが、具体的かつ極端に行くと「ここの雑貨屋のかわいい雑貨が好きなわたしかわいい!」っていうタイプの思考法であるわけで、みんな別に普段こういうカンジで生きては居ないだろうし。
普通の人が、昔ながらの小さな個人商店(お花屋、雑貨屋、ケーキ屋、など)を開いて、のんびり仕事をする事が出来ない。
普通の人がどんどん貧乏になるから、そうした個人店で物を購入する事ができなくて、大量生産格安の大型店でしか物を買えなくなる。
で、大型店の経営陣に巨万の富が一極集中する。この悪循環をどこかで止めないと世界は崩壊すると思う。
言いたいことは分かるが、タイトルに「幸せ」とかいう曖昧な言葉を使うから、本来言いたいこととは関係ない批判がいっぱい飛んできているように思える。こういう議論をするとき「幸せ」とか言うワードを使ってはいけない。
幸せかどうかはともかく、個人商店が成り立たなくなって、amazonとかイオンとかに一極集中、寡占状態が進みつつあるのは事実。そして、これが長期的に世界の崩壊を招く可能性があるというのも、決してありえない予想ではない。
オートメーションとITによって仕事がなくなり、失業者が溢れる社会は、急にはやってこなかったが、確実に進行している。たとえば、普通の会社でネットビジネスをやっても、amazonが扱うような商品を扱っている限り、コスト面でamazonに太刀打ちできない。これは、「ソフトウェアはコピーのコストが低い」というものすごく基本的な事実に由来している。ビジネスの多くがIT化されると、規模が力となり、弱小勢力は淘汰されるようになる。イオンがITを使って経営を物流を効率化している傍ら、中小スーパーはそれよりも何世代か前のシステムで効率の低い経営をせざるをえない。
こうした中、寡占が進み、人々の「労働」が大きな変化を強いられるのは間違いないだろう。新石器革命や、産業革命を誰も止めることができなかったと同じように、この流れはもはや誰も止めることができない。こうした流れが、新しい形態の経済への緩やかな移行を意味するのか、劇的な世界の崩壊を意味するのかは誰にも分からないが。
僭越ながらMDPhDのわたしが申し上げると、過眠、無気力、それはうつだ。雅子様の適応障害のようなものか。
うつ症状の原因は単極性うつ病やストレス性に限らず、甲状腺機能低下症や副腎不全、自己免疫性疾患、糖尿病だってあるので、まあまれではあるが、インテリジェンスの高い奥様なら一度病院にかかってもよいだろうと思う。ほかに原因がないなら抗うつ薬が出るだろう。
ところで少し切り分けをしたいのだが、それがご本人が仮説提起され、トラバで論じられているように、奥様が都会から田舎に引っ越したことが原因なのだろうか。
私の妻であるが、ロンドンに一緒に行って同じようになった。控えめに言ってもロンドンより都会であると言える街は日本にいくつもないだろう。Cath kidstonだってなんだってあるから雑貨屋に困るわけでもなく、まぁ飯は基本的にはまずいけどおいしい紅茶も飲めるわけで、食が極めてつまらないということもない。後者は少し自信がないけど。
結局、異なった環境に適応できなかったというそれ以上のことではないと考えられる。単なるエピソードで、統計をとるべくもないが、パリで言えばパリ症候群などという似たような症状をきたす疾患概念を提唱している精神科医もいる。
でまあベストの解決策は、以前適応していた環境に戻ることなわけで、私の妻も帰国して全快である。
妻を思うなら転居したら。でなければ別居してから考えよう。
お嫁さんは専業主婦をしていて、いまのところ子なし。
俺は研究者で、パーマネントゲットしての引っ越しなので、いい話ではあった。
しかし、その結果、お嫁さんの地元で、俺らが去年まで住んでいた、わりと華やかな地方中核都市を離れ、
そこから XXX km ほど離れた X 県の第 X の街 (田舎) に移ることになってしまった。
研究者なので、なんの縁もない遠方の田舎に行くこともあり得たし、高齢ポスドクになって失職することもあり得たわけで、
この結果はかなり悪くないと思う。
公募に出す時も、内定が出てからも、結婚前のお嫁さんは応援してくれたし喜んでくれた。
で、赴任と同時に新婚生活を始めたわけです。
結婚当初からお嫁さんは、日中ほとんど寝て過ごし、過去のことを思い出しては無駄にうじうじ悩むだけの生活をしていた。
家事はだいたいこなしてくれるけど、週に3日くらいは夕飯を作らない。
無趣味だし、好きなことも特にないので、毎日何をしていいかわからないらしい。
何していいかわからないので、何もせず、結果的に無気力になり家事ができなくなるというサイクルのようだ。
俺だったらネットやったり、ゲームやったり、筋トレやったりで毎日楽しく時間を浪費できると思うのだが、お嫁さんはそうではないらしい。
もともとお嫁さんは高校教師をしていたのだけど、別に先生になりたかったわけじゃないし、先生するのもそれなりに大変だし、
またやろうとは思わない、と言って働こうとはしていなかった。
最近になって、パートに出たけど、田舎のおばちゃんが嫌で、二か月たたずに辞めてしまった。
で、だ。
先週もお嫁さんの実家に帰ったのだけど、帰りに、あーやっぱあの町は暗いよね、とか、地元はやっぱりいいよね、とか、
人がいるっていいよね、とか言い出した。
それには同意するけども、今だって商店街の近くに住んでいるし、スーパーだって二軒あるし、おばあちゃんとかおばちゃんでよければ
何ぼでもその辺を歩いている。
街が暗いのはまったくその通りだけど、それは俺が帰ってくる直前に焦ってスーパーに行くから真っ暗なわけで、昼間太陽がでていれば
当然明るい。
それに、お嫁さんが望むなら、毎週だって地元に連れて帰ることだってできる。
不満はわかる、だけども不満だけ言ってても何も変わらない。
どうも、話を聞いていると、お嫁さんの中では、「あれが欲しいのに手に入らない」とか「あれが欲しいときは気軽に地元に帰ればよい」とか、
そういう問題ではないようなのだ。
「田舎の人になってしまった」という屈辱感のようなものが問題のようなのだ。
お嫁さん自身がはっきりそう言っているのではないけど、
「かわいい雑貨屋もこのへんにはない」「ああいうのを気軽に見れる今までは恵まれていたのだな」「見るだけで心が落ち着くんだけど」とか、
そういうようなことを話す。
「それが欲しいのなら、買いに行こうよ」と俺が言ってもそういう問題ではないし、欲しいわけじゃない、という。
「県庁所在地に行けばあるから、そこに遊びに行こうよ」と言っても、別に行きたいわけじゃない、という。
そのような話から、どうも、田舎に暮らしている、という事実こそが問題なんだろうな、と認識するようになった。
何が手に入るとか、都会へのアクセスとかは問題じゃないっぽい。
俺が新婚当初からずっと言っているのが、この県の県庁所在地であり XXXX 都市の市に引っ越すことだ。
俺の通勤はじゃっかん大変になるし、住居費も交通費も増えるが、お嫁さんがそれで日々幸せなら全く構わない。
それに、将来子供ができて大きくなったときに、すこしでもよい教育環境におきたいと思えば、絶対引っ越した方がよいと思っている。
しかし、お嫁さんは、それをしたいとは思わないそうだ。
まあ、そうなんだろう。
だって、お嫁さんの地元の地方中核都市に比べ、X 県の県庁所在地なんて格下だもの。
今住んでる所より格段に都会になるとは言え、地元より格下の街なら、プライドは満たされないままなんだろう。
それに、住居費やらがあがって、街で物欲が刺激されるなら、当然お嫁さんには働いてもらわなきゃいけなくなる。
それも嫌なんだろうな。
じゃあどうすればいいんだ。
都会の大学に移れるようにがんばってはみるけど、なかなか難しいですよ。
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あと、お店とか少ないところに住んでる、とくに大人たちはどこで気晴らしするの?
大学進学と同時に実家を出てしまったので正しい回答が出来る自信はないが、個人的な意見で答える。
「お店とか少ないところ」の「お店」ってのは、スーパーじゃないよな?
とりあえず、実家にあったお店というのは、こんなだよ。
スーパーはある。
ドラッグストアはない。
小さな薬局があった。
コンビニは、高校に入った頃に出来た。
お菓子屋はあった。
服屋というのは、高校指定の制服とかジャージとか売ってる店を指すならばあった。
雑貨屋に相当する店というと、文房具とプラモデルを売っている店があった。
食器を店頭販売もしている窯元があった。
スナックもあった。(入ったことがないので詳しくはわからない)
そして、それらは点在していて、モールや駅前商店街という一角に集まってるわけじゃない。
言い忘れたが、駅はない。
パチンコ屋があった。
あとは、神社とか、寺とか?
大学進学と同時に実家を出てしまったので、成人男性成人女性がどこでどう気晴らしをしてるかはよくわからない。
田舎はパチンコくらいしかとよくいわれるが、当時高校生だった自分には経験がなかった。
パチンコ屋もどんどん潰れてたので、田舎の娯楽を独占してるというわけでもない気がする。
で、どこでといわれると、圧倒的に「家で」だ。
「だれだれんち行こーよ」
だった。
都会っ子でも小学生とかはそれだろ?
高校くらいになると、原付乗って出かけるということを覚えたりだけど、基本は「誰々の家に行く」が遊びの基本だった。
そんなノリで異性を連れ込んじゃうし、ホイホイやってくるもんだから、デキ婚率が高い。
出かけるとなると、ミニバンに乗って、今で言えばイオンがあるような大きな街まで。
アメリカじゃバーベキューセットが、日本の田舎ではホットプレートになり、フローリングの広い部屋が、畳に布団で引き戸に代わる感じ。
オープンカーにタンクトップとキャミソールの男女が4人乗ってヒャッハーのアメリカの風景が、スウェットのガキどもがミニバンでNHKFM聞きながらで田んぼ道。
当たり前だけど、田舎にも一定の割合で他人と遊ぶのが嫌いなやつがいる。
一人でテレビゲームしたりとか。
俺もそっち側の人間だった。
慣れだよ慣れ。
言うまでもなく都会の方が便利。
ピザが食べたけりゃピザ屋に電話一つ、セックスがしたかったらデリヘルに電話一つ。
でも、休日はゲームして、明るいうちから風呂に入って腹いっぱい飯食って、ちょっとだけ飲んで、寝て、それで幸せだし。
わざわざ、映画行きたいとか、ディズニーランド行きたいとか、そういう願望が湧いたことがないのでちょっとわからん。
(ディズニーランドは行ったことがないのでなんともいえんが)
http://anond.hatelabo.jp/20130424205318
を読んで、自分のことかと驚いた。
都会人ぶるつもりも文化人ぶるつもりも無いけど、何か違うんだよ田舎は…。
速度が遅いというか。強いアイデンティティが求められる気がしてつらくなる。
必要最低限のものだろうが嗜好品だろうが、選択肢が少ないから「自分らしさ()」を示すのが難しい。
自分らしさなんてものはないんだけど、"目紛しい情報の中から選択すること"がせめてものそれだったから、田舎に行くと自分を保っていられなくなる。
自分は東京で生まれ育って、中学校の頃から遊ぶといえばいわゆる都心の繁華街だった。
高校以降は、新宿や渋谷で学校帰りにプラッと映画見たり本屋寄ったりってのが普通だった。
それが当たり前だったからいろんな文化の「あ、いまの"ノリ"ってこんな感じなのか〜」を常に敏感に察知してた。
別に察知なんてしなくてもいいんだけど、最近服屋さんでこの柄よく見るな〜とか、その程度の。
移り変わりまくる流行にビシバシ攻撃されながら、時にのったり追いかけたりして過ごすのが自分にとっての普通。
流行を否定したり、日本では日の目を見てない海外の文化に傾倒したりとかもする。でもどれも軽い感じでやってるから、田舎にいってしまってその流れと分断されると一気にさめてしまう。自分の中の感情が無くなってしまう。
学生だからお金もないんだけど、毎週末都心に出て来てはプラプラしてたな。
映画見て、カフェいって、雑貨屋いって、本屋寄って帰る…みたいな。
21時ぐらいの田舎の駅前、活動終了してます感がたまらなく寂しかった。
歌を録音して、動画を作って、題名に「歌ってみた」の文字を添えてニコニコ動画にアップロードしている。そんなことをもう3年ぐらい続けている。
多くの「歌い手」がそうであるように、私もボカロ曲やアニメソングなどを主に歌っている。でも、最初からそうだった訳ではない。一番最初に「歌ってみた」のは戸川純の「諦念プシガンガ」だった。戸川純ファンと思しき人々から辛辣なコメントが次々に投稿されたので、怖くなってすぐに削除してしまった。今にして思うと、それほど激しく攻撃されたわけではないけれど、不特定多数からネガティブな感情を突き刺されることに慣れていなかった当時の私は、すぐにパニックに陥ってしまったんだと思う。
話が前後するけれど、私が「歌ってみた」を始めたそもそもの動機は、ざっくりした言い方をしてしまうと、チヤホヤされたかったからだ。いや、チヤホヤとまでは行かなくても良い。ただ、自分が起こしたアクションに対して、誰かから何かしらの肯定的なリアクションを返してほしかった。
当時の私は実生活があまりパッとしなかった。地方の大学を卒業して、それなりに名前が知れた電機メーカーに入社して、東京に配属されて、そこでずっと働いていた。それ程極端に忙しいわけでもなく、賃金にも満足していた。会社での人間関係も悪くない。
しかし、仕事を終えて、職場を一歩離れてみると、途端に宙ぶらりんになる。
たまに職場の飲み会に参加したり、数少ない友達とご飯を食べに行く以外には、特にやる事がない。やりたい事がない。資格の勉強をしてみたり、ジムに通ってみたり、ライブや映画を観に行ったり、ウクレレを練習してみたり、色々と手を出してはみるものの、それでも一人の時間を持て余す。新しい友達を作りたい。でも、友達をどうやって作れば良いのか分からない。恋人もずっといない。友達の作り方も分からないけれど、恋人の作り方となると見当もつかない。今となっては誰かを好きになるという気持ち自体がよく分からない。
決して不幸ではないし、普通に生きていけているけれど、その普通さに、波風の立たなさに、だんだん気持ちが押しつぶされていくような感覚を覚えながら、毎日を過ごしていた。
そんな時、キリンジの動画を観たくてYouTubeを検索していたら、どこかの少女が自宅で撮影したと思われる動画に行き当たった。顔が見えない角度でギターを弾きながら「エイリアンズ」を歌っている動画だった。冷やかし半分の気持ちで再生してみると、ものすごく上手くはないけれど、原曲の雰囲気を大事にしながら丁寧に歌っていることが伝わってきて好感を抱いた。
その動画は、元々はニコニコ動画にアップロードされたものを本人がYouTubeに転載したものだった。ニコニコ動画の、同じ動画にアクセスしてみると、コメント数は50程度で「雰囲気が良いね」、「頑張っている」といった、私が抱いたのと同じような感想がぽつぽつと付けられていた。
それ以前にもニコニコ動画の「歌ってみた」の存在は知っていたけれど、若い子達が派手なアレンジの曲を大げさに歌った動画に対して、賛否ともに過剰なテンションのコメントが弾幕のようにつけられているような、私とは世代も文化も違う人達が集まる場所だと思っていたので、この「エイリアンズ」の、まるで地方都市の駅前の暖かな路上ライブのような雰囲気は意外だったし、好ましくも感じた。
それから何週間か、毎晩ニコニコ動画で自分が好きなミュージシャンの名前の後ろにスペースと「歌ってみた」という文字を付けて検索して、色々な「歌い手」の動画を観て回る日々が続いた。多くの動画は、3桁に届かない程度のコメントしかついておらず、お世辞にも盛り上がっているとは言えなかった。
だけど、どの動画にも、最初に観た「エイリアンズ」と同じように、「歌い手」達に対して押し付けがましくない程度に好意を伝えるコメントが並んでいて、それらのコメントを眺めていると心が落ち着いた。同じ音楽を愛する人たちが集まって、それこそ「ニコニコ」しているような、楽しさがそこにあった。
でも、多くの「歌い手」は決して歌や演奏が上手なわけでは無い。色々と動画を観ているうちに、「この程度なら私でもできる」と思う事がだんだん増えていった。そして、ある動画を観ていて「何で普通に歌っているだけで、みんなから褒められるんだ。ズルい」と思った瞬間に、私は我慢できなくなった。すぐさま、Googleで「諦念プシガンガ コード」を検索した。自分で歌ってみるならこの曲だと、実はもうずっと前から決めていた。この曲なら、私が弾ける唯一の楽器であるウクレレでも似合うはずだと思っていた。
しばらくの間、家にいる間はずっとウクレレで「諦念プシガンガ」を練習した。夜中にウクレレの弦が切れたので、慌てて池袋で一番遅くまで開いている楽器屋に駆け込み、ウクレレの弦を3セット、そして、思い切って19800円の新しいウクレレも買った。今まで使っていたのは雑貨屋で買った1980円のものだった。
毎日毎晩、練習した。そして二週間。私は、今まで殆ど使ったことがなかったパソコンの動画撮影機能を起動させて、最初に観た「エイリアンズ」の彼女のように、自分の顔が映らないようにディスプレイの角度や、座る位置を調節して、目一杯緊張しながら「諦念プシガンガ」を、歌ってみた。三回目の撮影で、声がひっくり返らず、音程も飛ばず、ウクレレも殆ど間違えなかったので、それをアップロードした。
それでも懲りずに、「歌ってみた」動画をアップロードし続けた。一週間から二週間かけて、歌を決めて、練習して、撮影して、公開する。そんな生活サイクルが自分の中で定着してきた。ネットで検索してコードが分かる曲の中で、自分にも歌えそうな好きな曲を選んで、少しずつ歌ってみた。再生数もコメント数も少なかったけれど、動画にアクセスする度にちょっとでも再生数が伸びていたり、一つでも新しいコメントがつくと、無性に嬉しかった。「新曲待ってました」というコメントが目に入ってきた時は涙が出そうになった。この人は、私の歌を待っていてくれた。私のことを待ってくれていた。それは、初めて感じる種類の喜びだった。
そのうち、オーディオインターフェイスやマイクを使うようになった。パソコン標準の動画撮影機能の音質では物足りなくなったのだ。初めてそれらの機材を使って録音したときは自分の声がはっきり録れすぎていて、その生々しさに怖気づきそうになった。「どうにでもなれ!」という気持ちで公開すると、「ものすごく聴きやすくなった」という暖かいコメントが返ってきた。再生数が伸びる速さが、少し上がった。
「ボカロを歌ってみてほしい」というコメントがついたので、ウクレレで試しに「メルト」を歌ってみたら、再生数がさらに跳ね上がった。初めて、再生数ランキングの下の方に自分の動画が表示された。否定的なコメントも「諦念プシガンガ」の時とは比べ物にならない程の数が寄せられたけれど、それ以上に好意的なコメントもどんどん書き込まれた。生まれて初めて「萌えた」と言われた。
多分あの時、私は、気持ちの上で一線を超えたんだと思う。
すぐに私は、ボーカロイド関係のウケが良さそうな曲を選んで歌ってみるようになった。私のウクレレの腕では弾けない曲ばかりだったので、出来合いのオケを使うようになった。歌の練習だけで済むようになったので、ずっと楽になった。再生数もさらに増えた。コメントも増えた。それまで自覚していなかったのだが、私の声は一定の人々の「萌え」をくすぐる要素があるらしい。そういう人達のコメントを眺めることが、たまらなく快感だった。最初からこうしていれば良かったと思った。「ウクレレじゃないと魅力が半減」というコメントも投稿されたけれど、しばらくは見て見ぬ振りでやり過ごし、やがて「ウクレレ」をNG設定して自分の目に触れないようにした。
それまで日常的に使っていたTwitterアカウントとは別に、「歌い手」としてのアカウントを作った。最初は「新しい動画を公開した」といったアナウンスに使っていたのだけれど、少しずつ他愛のない呟きや、自撮り写真を載せるようになった。
フォロワーの人たちは私のちょっとしたツイートにFavをつけたり、リプライをくれたりした。私が精一杯角度や光を工夫してボロが出ないように撮影した顔の一部や、素肌を撮影したボンヤリした写真に「100万回保存した!」と反応してくれた。
Twitterは、ウクレレで弾き語るよりも、オケにあわせて歌うよりも、ずっとずっと楽だった。準備もいらない。練習もいらない。ただちょっと踏み込んだ事を言ったり、気を引くような写真を見せるだけで、肯定的なリアクションが返ってくる。最初はウサギのイラストをアイコンにしていたけれど、途中からTwitterで知り合った絵師の女の子が私をイメージして描いてくれたという、素顔の私とは似ても似つかないウサ耳美少女の画像に変えた。フォロワー数が激増した。
先週、ある男の子に会った。
その日、私はお台場で開催された岡村靖幸のライブ会場にいた。満員の客席で、開演を待ちながらスマートフォンで「今から岡村ちゃんのライブ♪」などとツイートしていると、後ろから肩を叩かれた。まだ二十歳にもなっていない程度の、知らない男の子だった。そして、彼自身のスマートフォンに表示された、私が投稿したばかりのツイートを指差しながら、不安げな顔で、口の動きだけで「◯◯さん?」と、私の「歌い手」としての名前を呼んだ。血の気が引いた。
彼が誰だったのか、何でそこにいたのかは分からない。たまたま、私のことをフォローしていて、客席で私のスマートフォンの画面を見て気付いたのか、あるいは以前から岡村靖幸ファンを公言していた私に会うためにライブ会場にまで来たのか、今となっては分からない。彼は、名前を呼ばれて凍りつく私の顔をしばらく見た後、そのまま振り返って、他の観客の間を押しのけて、客席のずっと後ろ、私から見えない位置にまで移動してしまった。
全身が震えた。姿を見られた。
岡村ちゃんと同い年の、歳相応の容貌の私の姿を、私の子供でもおかしくないぐらいの男の子に見られた。
もし、彼一人がネット上で私のことをバラしたとしても、恐らく多くの人は真に受けないだろう。写真を撮られたわけでもなければ、私が自分で「はい、歌い手の◯◯です」と認めたわけでもない。
頭では分かってる。絶対大丈夫。今までと何も変わらない。
でも、あれから一週間。私はニコニコ動画にもTwitterにもアクセスできずにいる。
この世界にたった一人だけでも私の生身の姿を知っている人がいると思うと、私はもう、私とは似ても似つかない萌え声ウサ耳美少女歌い手の◯◯になれない。
そして、全てのきっかけになった「エイリアンズ」の歌詞を思い出す。
この星の僻地で、私が自分自身にかけた魔法は、あの日、あの一瞬で解けてしまったのだ。
人間ってどいつもこいつも視野が狭いのよ。いま情報社会だからなおさら。全部情報を追いかけるなんて無理。
そんななか視野の広い人間が得する。というか一人勝ちする。誰も勝てないんだよそういう奴には。これが新時代の常識。
音楽も色々聞かないとダメなの。すんごい凝り固まった音楽の聴き方してる雑魚が多すぎ。
少しでも視野広げるために24時間聞かないとダメ。24時間聞いて頭を音楽にしないとダメ。
音楽で稼げないのは理由が簡単なんだよ。何も新しくない。分かる?何も新しくないから心に響かない。
なぜ新しいものを作れないか。圧倒的に視野が狭いんだよ。すごく単純なことなんだけどな。
あと音楽以外も情報をたくさん入れないとダメなんだよ。これもアタリマエ。
俺は音大じゃなく美大で音楽やってたけど、音大に入らなくて良かった。いろんな芸術分野の人と知り合えたから。
だいたい音楽って何だ?感覚を伝えるだろ?いろんな感覚を知ってる人間が勝つんだよ。
表現力がいくらあってもダメ。伝えたいものがないと。いてもたってもいられないくらい伝えたいものがあるかどうか。それが新しい曲を作るこつ。
ところが今の音楽業界は文字文化にかなり縛られてる。文字文化。
作曲家の肩書き、作品の能書き、2chの落書きによって狭くなってる。凝り固まりすぎなんだよ。
コリをほぐすためにもっと音楽以外の情報も摂取しよう。世界をもっと知ろう。
世界は物凄く広いのに対して自分が今日体験したことがいかにごく一部に過ぎずワンパターンなものか考えてみるがよい。もっともっと世界を知らないといけない。
そのためにはたくさん「映像」を見よう。君たちが毎日利用しているYouTubeはとても良いものだよ。その可能性に気付こう。
文字文化も心を豊かにするけど1万人日本人がいたら9999人はまだ文字文化にハマるのは早い。映像体験があまりに足りてないんだよ皆。
映像も文字や言葉の少ない映像をもっと見よう。言葉以外の部分にもっと興味をもとう。
YouTubeだけでなく自分の足であちこち出かけることも勿論不可欠だよ。旅行行け旅行。特に「店」は素晴らしい場所だぞ。雑貨屋とか。
ドラクエで言うメタルスライム。映像体験の経験値が一気にあがる。毎日新しい店を開拓してどんどん世界を知ろう。
でも汁だけじゃダメ。子供のように世界理解をゼロ再構築する気持ちで。世の中にはいろんな「価値」があるから。
ただ見聞を広げるだけではダメ。価値を知らないと。そのためには凝り固まった理解の枠組みを解きほぐさねばならんのだよ。
まず笑おう。笑いとは枠組みの破壊である。そして興味をもとう。興味をもって日常の物事をよく観察しよう。新しい驚きを見つけよう。さまざまな感覚をコレクションしよう。
曖昧模糊とした日常の中に埋まった輝かしい宝を見つける。それを日々積み重ねていろんな感覚を知ってる人が勝つんだよ。ものすごく単純な話。
おさらいするよ。音楽24時間聴くのは繰り返すがアタリマエ。音楽以外の世界のことを広く情報集めしてようやく人と差が付く。