はてなキーワード: 過程とは
子供の頃から死ぬのは苦しそうだという恐怖がパラノイアのようにまとわりついていた。ある時気絶を経験してみて、死なんて案外こんなものなのかもしれないと思った。睡眠は死のイトコとはよく言ったものだ。身体的な苦痛に対する恐怖は薄れていった。恐怖は抽象的なものへスライドしていった。
「無」になることが怖くなった。
意識の断絶。経験したことのない状態。体験した者は一人残らず口が聞けなくなっている。これはどういう思考の過程で恐怖が薄れたのか忘れてしまった。どう足掻いた所で避けようもない。火の鳥や吸血鬼はきっと存在しない。ならば不安になったって仕方がない。考えるのをやめることでいつしか怖くなくなっていたのかもしれない。
存在を忘れられることが怖くなった。
無になっても、他人を介して自分に存在を繋ぐことが出来るのではないかと考えるようになった。それが成し遂げられないことへの不安だった。
大抵の人がそうであるように、自分という存在もまた忘れられれば初めから無かったかのようになってしまう。結婚して子供を残せば自分の存在を残せるかもしれない。でも4代5代も先になれば、誰も読みやしない墓石に刻まれた文字だけの存在になるだけだ。遺伝子を残した所で、それが自分のアイデンティティを為すものだとはどうしても思えなかった。それはただのモノだ。いつか朽ち果てる墓の中の骨と変わらない。そこに自分の考えや言葉や性格は何もない。そもそも血が途中で絶えない保証なんてどこにもない。
思春期の自己実現への焦燥感や全能感と合流して、偉大な存在になれば望みは果たされるだろうと思うようになった。教科書に乗るような存在になれば永遠になれる。誰も自分を忘れない。
しかし自分が大それた存在ではない事を薄々受け入れていく内に、この望みも薄れていった。ビートルズだって数百年先も人々の記憶に残っている保証はない。バッハだってカエサルだって仏陀だって、いつかは忘れられるかもしれない。
生きている間だけ存在し続けるのも、死後せいぜい数十年、数百年、数千年の間人々の記憶に留まるのも、永遠に比べたら誤差のようなものだ。それに身も蓋もない話をすれば地球だってどうせいつかは爆発するらしい。他人を介した方法でも、永遠の存在になろうとすることは諦めた。今思えば、地球がなくなっても宇宙へ住処を広げない可能性がないとも言い切れないけれど。
これらはすべて理屈の問題というよりは納得、受容の問題だった。
後悔を抱いて死ぬことが怖くなった。今に至るまでこれだけが怖い。
死は避けようもないが、しかしたった一度きりの生があるのもまた事実だ。
生きる意味などどこまで考えても見つからなかった。理詰めで問うていけばどれもこれも絶対的な地盤などなく、あやふやなものの上に成り立っていた。宗教というものの意義が肌感覚で理解できた。しかし自分なりに意義を見出す事は出来るはずだ。ならば心からの納得が欲しい。
死ぬ間際に人生こんなんで良かったのかという思いが頭を過る事に対して、強迫的な焦燥感を抱くようになった。
映画を見漁っても、友達付き合いをしていても、方々を歩き回ってみても、楽器を弾いてみても、曲を書いてみても、心からの納得は得られない。
それを振り切れるほどの情熱もないままに、存在の不条理なんていう目を向けてはいけないものを凝視し続けて頭がおかしくなってしまった。
情熱を持って生きるか、それが出来ないならせめて日々の気晴らしにかまけて人間存在の不条理など忘れ去ってしまった方がいい。
くだらない考えもほどほどに目の前の生活を淡々と送る。それが地に足のついた人生であり、そういうバランス感を模索していく事が人生の中で生き甲斐を見逃さないための誠実な生き方というものなのかもしれない。
そう頭で思っていても、情熱の燃料にもならない湿った焦燥感がどうしても捨てられず、後生大事に抱えている。これを捨てたら比喩ではなく石ころと同じ存在になってしまうように思えてならない。石ころと同じ存在になってしまうのはとても恐ろしい。仏教はそれを肯定しているらしいが、何をやっても納得してくれない心がそれだけは強く否定している。
思えば初めからそうだったのかもしれない。子供の頃から、普通に楽しく生きていれば、生きている実感を見逃さなければ死になんて目も向かなかったかもしれない。鬱病の素質があっただけかもしれない。
世の中の人間は意識的にでも無意識にでもこんな事は踏まえた上で、バランスよく自分なりの賢い生き方をしているのだろうか。まあ他人のことはどうだっていい。
といったような考えに10代の大半と20代の少しを費やしたが、同じような内容が大学の哲学系の講義でサラッと語られていた。
読書をしていればこんな考えに時間を浪費する事もなかった。車輪の再発明だ。無学の悲劇だ、と笑われそうだが、自分はそう思わない。そこには単に理屈だけではない実感が乗っている。価値観のDIYのようなものだ。拙くとも自分で辿り着いた事に意義がある。今更のポジショントークなのかもしれないし、それのせいでバカみたいに勝手に苦しんでるんですけど。
弊社で受託しているソフトウェア開発プロジェクトが終了間近となり、納品物をまとめる作業をしている。
納品物の一つにはFOSS (Free and Open Source Software)、俗に言うOSS、の説明書がある。
増田はこれまでで受託開発企業を3社ほど転々としてきたが、これをきちんと納品している会社は過去には見たことは無かった。道義的責任として、「このソフトウェアはこんなOSSを使ってます」という説明は顧客に対して為されるべきだとずっと思ってた。もちろん、納品時ではなくてプロジェクトの初期で実施するのが良いと思うけども。
経済産業省が公開している「情報システム・モデル取引・契約書(第二版)」という、受託開発の契約書の雛形が存在する。この雛形の中では次のような条項が提案されている。
https://www.ipa.go.jp/digital/model/model20201222.html
(FOSSの利用)
第49条 乙は、本件業務遂行の過程において、本件ソフトウェアを構成する一部としてFOSSを利用しようとするときは、当該FOSSの利用許諾条項、機能、開発管理コミュニティの名称・特徴などFOSSの性格に関する情報、当該FOSSの機能上の制限事項、品質レベル等に関して適切な情報を、書面により提供し、甲にFOSSの利用を提案するものとする。
2. 甲は、前項所定の乙の提案を自らの責任で検討・評価し、FOSSの採否を決定する。
3. 乙は、FOSSに関して、著作権その他の権利の侵害がないこと及び契約不適合のないことを保証するものではなく、乙は、第1項所定のFOSS利用の提案時に権利侵害又は契約不適合の存在を知りながら、若しくは重大な過失により知らずに告げなかった場合を除き、何らの責任を負わないものとする。
開発者は「こんなFOSSを使ってます、それはこんな機能があって、こんだけ人気があって信頼がおけるものです」みたいな説明をする義務を負う代わりに、万が一そのFOSSがバグったりしても責任が限定される、という話だ。
もしも受託開発の契約書にこのような条項があったとしたら、きちんと利用しているFOSSの説明をしよう。しなかったとしたら、後で不利益があるかもしれないし、それ以前にその仕事は技術的に真摯なものではないと言える。
護憲政党は思想・信条の自由とか基本的人権を無くそうとはしていません。
改憲しようとしてる保守政党こそが、今の日本国憲法を無くそうとしている
「党内の人間をどう扱うか?」などというのは、実際
東京五輪誘致に官房機密費を使ったと事実を語ると問題にされるとか
一般の日本人には有害なだけで、いかに自己中心的に利権を図るか
政党政治では、党の方針に沿わない者は他の党へ行ってくださいは仕方ないのでは?
もちろん議論の過程で、不当に正論が切り捨てられるのはよくないですが
その辺はどこの党でもそんなものかと。
平気でデマを流しますが、パチンコ推進議員連盟で検索してみてください。
問題にしているのだと見えます。同和利権政党を「オール与党」と
批判していた共産党が「野党共闘」をはじめる方がむしろ問題なのですが
中心にいるのは小池晃です。
小池晃は「世界連邦」でも保守政党やエセ革新などとつながります。
その過程で無辜の女性を傷つけるんですよね。拙いアプローチとか言って。
女性は一人でいるだけで赤の他人に脅かされるリスクがある。これが男女不平等でなかったら何なの。
これも何度も言ってるけど、女性性はモノじゃないです。
天才の思考過程を追跡せずに、名言として読むのは,ウンコを鑑賞することでしかない、ってのは分かりやすくいい表現だぜ。「ウンコという言葉使ってるから価値がない」とか言い出すんなら、バタイユもモーツァルトも諦めな。「ルソーも下品すぎて許せない」とか言い出しそうやね。
「強力な人の思考が言葉になる過程を追跡」というのは自分も大好き。だから「ダイジェストではなくちゃんとした本をしっかり読みましょうよ」という意見にも賛同しかない。
しかしさ、そこまで教養のある人が「ウンコ」という小学生みたいな侮蔑用語を使ってしまうのは正直言って違和感がある。
なんというか、もっと品と知性と教養を感じさせる、一見すると貶してるように見えないのに、よくよく読んでみると実は「ウンコ」と言ってるのと変わらない……みたいな洒落た言い回しをしてほしい。勝手な願望だけど。
うん。「何か言ってそうで何も言ってない文」はChatGPTで大量生産されるようになってるから、自分の内部の感覚をなんとか捻り出す作業はAI時代にはこれまでよりも重要。そのためにも、「ニーチェ名言集」みたいな捻り出したウンコを鑑賞するような本ではなくて、ああいう強力な人の思考が言葉になる過程を追跡するのがいいと思う。
出産したあとは、世の中で一番難儀な「子育て」という過程が待っているわけで、そんな親や家庭に「おめでとう」だなんて言う気がしない。
それは、未知に旅立つ冒険者に対して「おめでとう」と伝えるくらい不可思議なことだと思う。
(「頑張れよ!」ならまだわかるが、それもプレッシャーとなるわけで、やはり良くない言葉だろう。)
でも子どもを生んでくれたことは、この社会の成員の一人として「ありがとう」と伝えたくはある。
なので、「ありがとう」は伝えたいと思う。
何とかするためにまずは状況を整理した方が良さそうと思いつつも、良さげな出力先がないのでここに書く。
小さい頃から家庭事情が複雑だったこともあって、希死念慮はずっとあるけど、やりたいことを見つけて散らしてきた。
最近は何をしても気持ちが晴れないし、楽しいと感じられることもなくなってきた。いわゆる鬱っぽい感じ。
何が悪いんだろうか。
【自分の状況】
今までは疲れるまで体を動かせば大体のことはどうでも良く感じて乗り越えられたけど、最近はそうならないのがまずいと感じている。
食べたい物を毎日食べているけど、美味しいとは感じても幸福感はない。ギターを練習して上手くなっているのは感じるけど達成感的な喜びがない。
アニメ・マンガ・小説で笑ったり、泣いたりもするけど、すごい刹那的な感情の動き方しかしない。
ゲームの三国志シリーズで7割ぐらい支配するともう惰性でクリアできるのが見えてしまって萎えるみたいな状態が続いているような感じがする。
いきなり働けなくなっても困らないし、特に頑張るべき理由がないのが良くないような気もしている。
人と話す機会が増えれば改善しそうな気もするけど、離婚したばかりということもあって、恋愛的なものは気が乗らない。
ペットは旅行に頻繁に行っている状況では飼いづらい。しかも独り身になったからなおさら。
学生時代の友人とは生活スタイルが違いすぎて気軽に話せるような感じにはなれない気がしている。
何らかのサークルに入るとかミートアップに参加するみたいなのも考えたけど、
知らない人と会ったときに自分のことを話して、相手のことを聞いて仲良くなっていくみたいな過程が億劫でやる気が出ない。
教育機会に恵まれない子供たちへの金銭的支援(団体への寄付)をずっとしているのだけど、
より直接的な関わり方として、学習ボランティアとかでもするかなと少し考えたりもしている。
主義主張と関係ないテーマ(200年後に AI はどれだけ発達しているかみたいな)で気軽に会話できれば楽しそうだけど、
なんかそう都合よく会話相手が見つかるイメージがわかない。ChatGPT の会話モードがもうちょっと進化すればベストなんだろうな。
小学校の時。昭和の終わりだからいじめとかからかい合いが普通にあった
他にも無視とかばい菌扱いとか色々なバリエーション。暴力は少なかった(無くはなかったけど)
ずっとからかわれてる(言葉が軽い、暴言を投げつけられてる)数人(基本的に容姿由来)がいて、
愛嬌のあるチビ、優しくて強い巨漢、などは言い返したりしばくぞと叫びながら追いかけたり
暴言を投げてリアクションを楽しむというよくない遊びに発展していった
毎休み時間に始めるのは一人か二人ぐらい。なんか面白そうだから混ざって行って、で5人くらい
反撃しない場合は面白がられず構って貰えないのであえて反撃するようなやつもいたはず
増田は顔のパーツに難があってそこを弄られていた
あまりにバリエーションが少なかったので、相手は工夫して色々な容姿弄りをしてくる
その中で後頭部の形状についてのいじりがあった
COMPLEXでもなんでもななかったのだが、一応ルール上嫌がって対応しているうちに気付いた
自分への悪口をこっちに誘導出来たら少しはダメージが通る顔弄りが減る
当時は自分だけそうやってズルしてると思ってたけど、元々弄られてたやつら(誰が見ても容姿に難がすごい)以外への攻撃はそもそも軽かった
さらにたとえシリーズが流行り、髪の毛が焼きそばみたいなどたとえ先がそこまで下品? 悪辣ではなく、
「やーい、やきそば」「なんやと、このメロン!」みたいになってった
とはいえ、親の職業や家の臭さなど普通に弄ったらあかんとこも弄ってたし、いじめはなくならんと思う
上記はおまえのかーちゃんでべそ的な悪口のための悪口でまだマシで
そこに本質を混ぜたりするとより言う側に快感が与えられるのだろうなと、地名カタカナ表記とか、法損金氏用語になる過程とか考えてて思った
ゆらゆらしてる
解決策を考えてみてる
いじめ先を人間以外に担ってもらう(いじめてくんみたいないじめたくなるロボット)
「著作物だけでイラストの描き方を学んだ」場合というかだいたいがそうだと思うが、絵の描き方を勉強する過程でサルまねやトレースを行う行為自体は著作権法では制限してない。トレパクとか模写自作発言とか無断転載(+自作発言)くらいの事態が起きたら著作者の権利を侵害した行為として評価がくだる
"画風パクり"が著作権含めどの権利を侵害してるのか?みたいな話は生成AI以前もたまにやってたが、だいたい特定の絵についてトレースや模写をしてなくて"参考にした画風の持ち主の名を騙っていない"ならとくに問題なしという結論が出たはず
そっすね
動作として"入ってるデータのみ"を使った出力ならば、盛り込んだデータ数に関わらず「引用部分が従である」が成立しないので引用が成り立たないという話。
「学習モデル」って書き方は混乱するか。ここでは生成過程に注目していたので「モデルデータ」とかにしたほうが分かりやすいか。後で書くけど「すり替えて」はおらず「学習する段階の話」ではない
AIは新たに自分の頭で考えた要素を付け足さず、モデルデータから選んで切り貼りする以上の動作を行っていないので「著作物を引用した新たな著作物」とは言えず「転載物の集合体」として扱える(と考える)。モデルデータの中身が全部無断で使われた著作物なら、モデルデータの中身が6組なら無断転載6件、100億組なら無断転載100億件ってこと
なんで引用かそうでないかを考えたのかは「引用が成立するなら権利侵害ではない」は無断転載か検証するにあたりだいたい確認するから
多分「学習と引用をすり替えてる」前提に立ってこれを書いてて、かつ「AIの学習は人間の学習と同じ」にこちらが乗っかったからめちゃくちゃ面倒くさいことになってると思うので、もう「AIの指す"学習"と人間のやる勉強とかの学習は全く別」って観点で話進めるね
「著作物だけでイラストの描き方を学んだ」場合というかだいたいがそうだと思うが、絵の描き方を勉強する過程でサルまねやトレースを行う行為自体は著作権法では制限してない。トレパクとか模写自作発言とか無断転載(+自作発言)くらいの事態が起きたら著作者の権利を侵害した行為として評価がくだる
"画風パクり"が著作権含めどの権利を侵害してるのか?みたいな話は生成AI以前もたまにやってたが、だいたい特定の絵についてトレースや模写をしてなくて"参考にした画風の持ち主の名を騙っていない"ならとくに問題なしという結論が出たはず
じゃあ「生成AIは画風パクりだからセーフやろ」という話が上がってくると思うが、これは先に上げた「転載物の集合体」であることを考えれば"画風パクり"とは全く違うものであるので、画風という観点で判断してはいけない
AIに便宜上"学習"(Training)って言葉を使っているのでややこしいのであって、いわゆる学習モデルも実態は「入力パラメータ用ファイル集」なので"学習の成果"とは意味合いが違う
かなり前の方の増田でやった「学習モデルの再頒布禁止」という話については「生成AIを動かすために学習モデルを作る」ことは権利侵害にあたらないが「無断転載素材入り学習モデルの頒布」はガッツリ権利侵害だぞって話(これに"学習"って言葉つけないといけないからややこしい)
ただ生成AIのシステムもコンピュータープログラムである以上「プログラム動作時のデータ処理の流れを追うログ出力コードを盛り込むことは不可能」なんてことはない
だからそんなことできないの
まさかそちらから具体的なアルゴリズムの名前を出してくるとは思わなかった
ニューラルネットワーク(以下NN)の内部動作は、人間が指示を出してNNから返された出力を見て「どんな考え方したらこんなアイデア出てくるんだよ思考回路マジわからん」というのがだいたいなので、これも便宜上「ブラックボックスだね~」と言っているにすぎない
NNがたとえば古代アステカ文明の遺跡から発掘された謎の箱をパソコンに繋いだらAIになったとかいう代物なら間違いなくブラックボックスと呼んで差支えない
だが実態は"アルゴリズム"なので、NNはなんでも作れる不思議な箱ではなく、入力層・多層の中間層・出力層を設けた計算手順にすぎない。NNの参考書読んで人力で計算しても(時間かかるし高難易度関数のオンパレードだが)再現可能ではある
参考にしているStableDiffusionも動作原理もアーキテクチャも明らかなので、人間に再現不可能なブラックボックスではない。プログラムを実装してるのがエリートのプログラマであるってだけの人間だし
生成過程からして「多量の既発作品のみで構成された出力情報」ということになり、本人(=AI)が手を入れた部分が極端に少ないか無であり、
間違い
そもそも「手を入れた部分が極端に少ないか無」というのは要するに「既存の絵とそっくり」ということだが、人間がわざわざ寄せるようにプロンプトしない限りそんなことは基本起きない
もしそっくりなら基本的には人間の操作に問題があるということになる
追えない
そんな技術持ってるなら億万長者になれるぞ
まだその「人間の学習過程と同じだから問題ない」論使ってるのか
わざわざ学習モデルの頒布公開に的を絞ったのに生成物まで話を広げるって言うならそのベースで書くわ
AIと人を同一視していいのであれば、生成過程からして「多量の既発作品のみで構成された出力情報」ということになり、本人(=AI)が手を入れた部分が極端に少ないか無であり、またその他引用の要件を満たさないんで「転載」扱いで「AIが権利侵害を行った」とみなせる
人間の目では分からないレベルのデータなんだからいいだろうと思うだろうが、AI自体は内部処理を把握してるんで「どこにどの既発作品を持ってきた」か追えるんで、人間と同じ視点に立たせるのであれば転載の責任は負える
人間と学習過程が同じとするならなおのこと問題なんだよ。著作権侵害については親告罪で、権利者当人が立件しない限りは罪状は成立しないが、その事実をもって(立件するための証拠を作るのが困難である点から目を逸らし)生成AIは受け入れられるべきものとか言って踏ん反り返ってるからそこらじゅうで議論が加熱してるんでしょうよ