はてなキーワード: 進出とは
数日前の増田の場合は、男らしさから降りた男は「家庭進出」すればいいんじゃないの、という話だったよね。
稼いで家族を養わない代わりに、専業主夫として支えるということ。
なので男らしさから降りたら役立たずになる、というのは言い過ぎでは?
身の回りに働きたくて働いている人がいない
自分が生活するため、愛する人を養うため、好きなことをやっているとお金が入るから、贅沢のため、などなど、働く理由のほとんどはすべからくすべしといったものがほとんどであるように見受けられる
そして年収が低くても高くても、就労している人のほとんどが仕事を辞めたいと話す
女性の社会進出を謳う一方で、本当に心から働きたいと思って働いている女性はどのくらいいるのだろうか
六本木や広尾でランチを食べているとモンクレールのダウンを着て犬の散歩をする女性を何人も見かける
増田は人口五万人以上のとある市に暮らしている。生まれ育ったのもこの街だ。
これは年寄りから聞いた話でしかないのだが、この街にはかつて大型商業施設が出店を考えてるとかメーカーが大きな工場を建てようという話が出たことがあった。が、結局どれも実現することはなかった。
この街は元々個人経営の店が繁盛していて、以前は近隣の何もない街よりずっと栄えていた(ので周辺の町村より市制移行も早かった)。ゆえに商工会の影響力が強く、市長や市議の支持基盤となっているケースも多々あった。その商工会にとっては街の消費者や労働者を吸い上げるであろう大きな商業施設や企業の進出は当然受け入れ難かった。市の政治家たちも支持基盤を失うわけにはいかないので彼らの反発を無視するわけにもいかない。そして結局何も実現しないまま今に至った。
さて、今この街にあるお店というと、生鮮スーパー、コンビニ、セルフのガソリンスタンド、薬局、廃れ気味の家電屋、前は市内に複数の店舗があったローカルチェーンの飲食店は今は一軒のみとなった。あとは個人経営の古臭くて小さい店ばかり。新しくお店が出来たと思いきや、寂れていたり気付けば無くなってることが多い。
まあ食べて寝て日々の暮らしに必要なものを買い足すくらいなら不便はないが、休日にどこかに出かけようと思うとこの街には行く場所がない。
ではどこに行くか。近隣の街である。かつて何もなかった街には、何もなかった場所に進出した大規模商業施設がある。そこには大手アパレルの服屋、映画館、アミューズメント、大きな本屋、様々な飲食店。休日の娯楽になるものが揃っている。もちろんスーパーもあるので遊びに行きながら買い出しだって同時に済ませられる。
何もなかった場所にできた大規模商業施設は住宅とそこに住む人を呼び、その住人たちの需要を見越した真新しくてお洒落なお店を呼んだ。
数十年の時間をかけて、栄えた街と何もない街の立場はすっかり変わってしまった。
世の中には「大規模商業施設は地域経済を壊す」という話がある。総合スーパーや大きなショッピングモールなんかができると元々あった商店が死んでしまう、というあれだ。
実際そういうことは起きるのだと思う。というより実際に起きているからそんな話が出てくるのだろう。
しかし、地元の商店を守ったがために地域の活性化のチャンスを手放して、そのチャンスを手にした周辺の街が栄えいく隣で静かに廃れる街もある。
大規模商業施設を悪者のように言う人がどんな場所に住んでるのかは分からないが、一概に悪いものではないだろうと進出話が消えて今では寂れゆく街に住む人間としては思う。
特定されないようにぼかすけど推しがある創作活動を始めてしまった。
肩書きがついてその分野での大御所との対談なんかもあって喜ぶ推しを見ているとこちらも嬉しい。
めちゃめちゃ不出来というわけではないけど面白いかと言われると微妙……。
高いものじゃないしグッズの一種と思ってお金を出すのは全然ありなんだけど部屋の棚には置いておきたくない感じ。
私は推しの歌や踊りや人間性を推していたのであって推しが作る物までは推せない。
正直同じ思いの人は少なくないんじゃないかと思う。
でも界隈には「褒めなきゃ!」みたいな空気を感じてつらみがある。
私の心が狭すぎるのだろうか……。
例えば俳優業から興味が出て監督をしてみる人とか絵画や造形で芸術活動を始める人とか。
そういうのならまだ良かった。
監督業なら集団作業だし周りから手厚くサポートしてもらえるだろう。
アートも文脈次第みたいな世界だから推しが作ったと思えば良く見えるんじゃないだろうか。
展示会でオフ会するの楽しそうだし。
なのに……よりによって創作活動。
そりゃ歌や踊りだって一流ではなかったかもしれないけどそれでもプロの技術でうまく私たちに夢を見せてくれてた。
創作はその人の能力がもろに出てしまうし実力に対して不相応に持ち上げられているのも感じてしまう。
推しでこんなことを考えなくちゃいけないのがつらい。
思い出した発端はこれ、https://note.com/motoyamadadesu/n/nd2ec09ff5738
これ中受という、人の心の琴線に触れるテーマで子供のプライバシーを勝手に書いてたりの可燃性が強い文章で話題になってはいるが、実は昔から見かける構図。「嫁が馬鹿だから俺の息子(娘)が馬鹿に育ってしまう!」というのは大昔からある話でそれこそ平安時代から嫁が愚かだから子供も愚かだみたいに言われていたり。
そして、ひと昔前の昭和の日本では、嫁←姑間で繰り広げられる戦いだったように思うけど、父親の子育て参加により「俺の子(私の孫)が馬鹿なのは嫁が悪い」戦争に父親本人が参戦したということなのかも。男性の育児進出ばんざい。
話は変わるが、昭和~平成初期ぐらいまでに生まれた男性の中で、高学歴の人の、多数派が「自分より賢い女は面倒くさい」というマインドがあった。今はかなり薄れていると思うけど、かつては物凄くあった。
数年前に「東大女子お断りサークル」「早稲女お断りサークル」というテーマが話題になっていたが、要するに出会い目当てのチャラいインカレサークルに自分と同じ大学の女子学生がいると何かとうっとおしいし、そもそもガリ勉女とかブスばっかりだろ?というノリで、「自分と同程度の賢い女」を交際相手から排除する男子学生が、そこそこかなり多かった。
https://bunshun.jp/articles/-/52500 「東大女子はお断り」「他大女子へはバカいじり」…在学生も黙認する東大インカレサークルに残る衝撃の“男尊女卑”構造
https://www.koukouseishinbun.jp/articles/-/6172 「東大女子お断りサークル」が抱える二重の差別 「伝統」理由に罪悪感なし
https://www.todaishimbun.org/gender20190307/ 東大女子の参加を認めないサークル 東大内に少なくとも3つ
東大や早稲田に進学した女子学生は、入れるサークルの選択肢が男性に比して半分以下だ。インカレサークルはほぼ全滅で、「東大女子でも入れます!(たまーにある)」「女子は東大女子のみ!(ほぼ無い)」と謳っているいるサークルしか選択肢がなかった(「東大女子もいます」系サークルは強者東大女子のハイレベルなマウントが飛び交う恐ろしい空間でそれはまた別の話になるが)。
個人的なことを言えば無事?に、数少ない「入れるサークル」の中から温和なサークルに所属し、割とのんびりと楽しく過ごし、サークルとは別の場所(ゼミ)で穏当に彼氏を見つけ結婚して今に至るけれど、同級生の男の子たちの半数以上は、インカレサークルで他大の女の子をちやほやしたりしながら大学を出てしばらくして結婚したり、その子とはお別れしても「自分よりは賢くない女」知り合って結婚したりしている(同級生の男の子たちはなぜか結婚が決まった報告の時に彼女の学歴を言いがち。どこで働いてるかよりどこの大学出てるかを言う)。
そして彼らの子供が成長し進学時期になると嘆くのだ。曰く、嫁に任せられない、俺が忙しい時間を縫って勉強を見ると全然だめで愕然とする、俺が二人いたら一人は仕事をしてもう一人がマンツーでサポートできるのに(ほんまかいな)、本当に俺土地がつながっているのか(顔がそっくりですよ…)などなど。
自分から『頭の悪い女(便宜的にこう言いますが偏差値や学歴だけが頭の良しあしを図れる尺度ではないのは存じております)』を選んでおいて、結婚して子供が生まれたら「嫁の頭が悪くてさ…」って言われても、はぁそうすか、という感想にしかならない。そもそも友人の配偶者の学歴とか、友人の私が知る必要もないのに彼らは一様になぜか報告してくる不思議。妻からしたらそんな言い方を外でされてるのを知ったら悲しむだろうと思うのだが。
ところで、この「お断りサークル」、もう今は絶滅危惧だろうと思うけれど、ちょっと昔の「それが当たり前だった時代」でも、「お断りサークル」のある大学って限られていたのが面白かった。高校の同級生たちと進学後、大学でどんな感じ?と近況報告をしあったときに「お断りサークル事情」に傾向があって面白かった。20年ぐらい昔の話なので今は様変わりしてると思う。サークル活動自体が下火になってそうだし。
慶応は「お断りサークル」と明言しているところはほぼない代わりに見えないヒエラルキー(内部進学の子しかいない不文律があったり)があったとか、偏差値的にもう少し低い大学だと「お断りサークル」は減っていく代わりに、他大のインカレに入りたがる女子が多い(狩猟型女子…)という話とか。
なんにせよ、子供は半分が自分のDNAなのだし、妻をひたすら罵倒したところでそれを選んだのはお前だろう、以上の話が本当に出来なくて困るんだ。姑の文句なら「息子があんな嫁を選んできたから孫が馬鹿になった」と、理不尽ではあれどまだ理屈は通っているが。
未だに男は社会的強者としての役割、要するに「男らしさ」や甲斐性を持つべきだという思想が根強く残ってることに、どうにもならない気持ちになる。
社会が変わらないことについて嘆いているフェミニストの人達も、同じような気持ちを持っているのだろうか。
男は女に花束を渡すべきかどうかなんて、性的規範の最たるもののような気がする。
渡したい方が渡せばいいだけだし、花束についてはともかく、今の若い男性の過半数は「女性からアプローチしてほしい」と考えていることについてはどう思っているのだろうか。
この問題を解決する一点突破する方法があって、それははてなでもあまり評判のよろしくない男性の家庭進出、専業主夫を増やすことだと思う。
「専業主夫」とは、いまだに根強く残っている性的規範や性的役割の価値観を根底から覆す存在である。
まず男性が家事・育児を引き受けるということは、女性側が一家の大黒柱となることになるので、必然的に女性が社会的強者の役割を担うことになる。
結婚する前段階の恋愛においても、経済力を持っている女性側が告白やプロポーズなどのアプローチを「社会的強者」として担うことが求められる。
女性側がそれを拒否したら、男性は未婚を選ぶことになるので、ますます非婚少子化が進む。
社会は女性に対して、女性活躍の方向性の観点から「社会的強者」であることを要求するようになり、既存の性的規範は価値観レベルで解体されていくことになるのだ。
乳幼児死亡率が戦後30%を切り、60年代には10%を切って、どんどん子育てを頑張るようになってしまった
子供を死なせても「仕方ない」から「親の責任」になってきたわけだ
そうなると適当にできなくなる
2.核家族化により分担ができなくなった
そして労働時間は戦後の2300時間程度から、現在は1800時間くらい
500時間程度減ってるが、女性が1800時間増えていると考えると明らかに子育てに取れる時間は減っている
4.進学率の増加
女性の社会進出や権利向上がどれだけ進んできているのかの指標として何があるだろうか。
私自身は、女性から男性に対する容姿評価がどれだけ高くなってきているかどうかで計測することにしている。
一昔前では、女性が男性に対して容姿ジャッジするなんて考えられなかった。
しかし現代では女が男の容姿を評価するのは当たり前だし、男の容姿を揶揄する言葉がいくつも生まれている。
思いつくだけでも、不細工、ブサメン、モテない男、キモ男、チー牛。
一つの社会の中に強者と弱者がいると、強者は弱者を容姿ジャッジして抑圧するようになる。
今までの男性優位社会では男(強者)が女(弱者)を外見で差別する社会であったが、女性の影響力増大によって男性側も「弱者」の属性をまとうようになった。
男性アイドルなど、女性から性的消費される男性は今後もっと増えていくのではないか。
それは同時に女は男に(容姿を求める代わりに)経済力を求めなくなるようになることでもあり、専業主夫志向の男性にとってはいい話なのかもしれない。
弱者男性なんて言葉を作ってしまって、女も権力を持ったら男とやることは変わらないってことを証明してしまったね。
女性は男に品定めされたり、女はこうあるべきと決めつけられるのが嫌で、傷つけられて、男は下品だと思うくらい心底嫌だったはずなのに、それをされてこなかった現代の女は男を品定めするみたいだね。
確かに、平等と言えば平等になったね。公の場でも男は弱者女性をいじめて、女は弱者男性をいじめる。結果的に、いじめられる男が増えただけ。
レディーファースト、紳士…これに該当する言葉が女性側にあるか?ないよね。現状、女がただ傲慢になっただけに見えるけど、女性の社会進出は男女平等と言えるのかな?
ダウンタウン、好きだったんですよ。
蛇足を補足しました***************************
https://anond.hatelabo.jp/20240116110533
訴訟をうけて更に心に湧いた感想を書きました(24/1/24)
https://anond.hatelabo.jp/20240124115643
以下本文*************************************
中学生~就職するぐらいまで。80年代の後半から2000年すぎぐらいがピークで好きだった。
東京に住んでるんだけど、雑誌で「今大阪ではダウンタウンっていう面白いコンビがいる!」という記事を見かけて、大阪に住む従弟にお願いして4時ですよーだのビデオを送ってもらってクラスの友達と見たりしていた。関東地方だとなかなか見られなかったから渇望感もあって、東京で見られる番組が始まった時はすごい熱中して見てたなぁ。夢で逢えたらも深夜の1回目から見てたし、ガキの使いも第1回から、ごっつええ感じもパイロット版の時から楽しみで、レギュラー番組始まってもリアタイで見てた(彼氏とデート中でも今日はごっつリアタイするから帰る!といって家に帰ってた)。笑っていいともも録画して見てた。現実で追っかけしたりはしなかったが(面倒なので)、ガラの悪い言葉を使い攻撃性の高い悪いことをだらだらと話すガラの悪い二人組が新鮮だったし、実際とても面白かった。
面白かったんだけど、どうしてかいつの間にかあまり見なくなり、そして「あーあ」と思ってしまうようになった。なんでそんな風に自分が変化したのか、大昔の面白くて夢中だった時の記憶を掘り起こしてたのだが、そうすると、今回の事案にもつながるような「あー松ちゃんのこういうところ嫌いやー」って思うところがリアタイ当時から結構多かったなと思い出してきた。嫌いなところが結構あったのに、それでもダントツに面白かったんだけどね…。
松ちゃんはかなりの癇癪持ち。癇癪発動中のシーンが苦手だった。「ごっつええ感じ」という番組は日曜20時~毎週1時間のバラエティ番組で、コントと企画コーナーのほかにチーム対抗でゲームをやるコーナーがあった。そのゲームでうまくいかないと松ちゃんは簡単に不機嫌になり癇癪を起こす。持っている道具を投げたりとかする。なんで面白がりたくてTV見てるのに不機嫌な人を見続けなきゃならんのか…とチャンネルを変えることもあった。今思うと、短気の癇癪持ちは年を取っても治ってないどころか悪化してたんかなと思う。
彼らがまだ若手のころ、深夜で大喜利の番組(ダウンタウン汁、だったかな)をやっていた。もちろん松ちゃんは面白かったが、同時にそこそこの打率でドン滑りもしていた。大喜利のセンスは実は本人や周囲のイメージほどは高くないんじゃないかなと当時から思っていた。その番組だと突出してたのは板尾で、コンスタントに打率がいいのは今田、たまにすごい面白いのは東野。ほんこんさんは当時も今も変化なく面白くなかったがそれはまぁ今回の件とは関係ない。
この「松本的ファイトスタイルの大喜利」は今のお笑いの礎になってることは確か。でも一方で、みんなが大喜利楽しむようになって、松ちゃんより大喜利上手い芸人たくさんいるね…とも思う。いい時代になった。
松ちゃんは、ドン滑りしたあと照れてかわいくなってる時もあるが、えーなんでぇ!とデカい声で不満を言ったりジャッジをしていたハマタに悪態付いたりしたり、回答席に並ぶ後輩たちに嫌味を言ったりと滑ったあとのおムズガリがすごかった。この癇癪が発動していると、何でこんなの見てるんだとお笑いの世界から正気に戻り私はTVを消して寝ちゃう。
大ベストセラーのエッセイも読んだ。それなりに面白かったのだがそれよりも賢さがあまり感じられない文体で、分かってはいたが正直少し引いた。たけしの週刊誌連載はたけしが喋ってるだけでライターが書き起こししてるが松本は自分で全部書いている、というのが喧伝されていたが、喋り起こしの方が口語体の雰囲気が残って逆に賢くなさが目立たなかったんじゃないか。当時は大学生で中学生相手の塾講師をやっていたのだが、中学生の作文みたいな感じだな…と思った。内容や主張は、まぁTVで日々見聞きしてることとそこまで差がなかった。
知的ではない、ということで言えば、ダウンタウンはタモリとの相性が良くなかった。笑っていいともが楽しくなかった、というのは後に本人も言っていたが「タモリを中心に和気あいあいと出演者がしゃべっている」のが嫌だったという趣旨のことを言っていて、改めて、まぁそうだろうなぁ…としみじみする。
松本人志と高須光聖の放送室というラジオ番組が始まって、しばらく聞いていた。思えばこのラジオ番組が、私にとっては好きなタレントではなくなっていく過程の番組だったんじゃと思う。ラジオ番組の中で悪い遊びをした話などが語られていて、こちらは社会人になっていたので、芸人とは言えうーん何か、と思うようになっていたのもある。「悪い遊び」は要するに今般話題になっているような遊びだったんだろう、高須氏はどちらかというとその遊びには混じってはいない様子で、「悪い遊びの話を適度にマイルドにして話させる」役割。そして内容がやばすぎそう…となると「ええなー自分、でもほどほどにしときーや」とか言っていたので、一部のブコメで「女衒の放送作家って高須ジャネーノ?」というのは、知らんけどたぶん違うと思うで?と言っておきます。
高須氏に諫められた後の松ちゃんは聞く耳持たず、俺が一番正しい!と叫んだりする。例えば社会問題(アメリカが嫌いだという話とか、女性差別度の強い話など)テーマの時も、あまり行き過ぎないように窘めるニュアンスの合の手を入れる高須っちゃんに松ちゃんがだんだんイライラしてキレる、というのも、年に両手の数では足りないぐらいはあったと思う。やっぱりイラチよね…「間違ってようが、どうあっても俺が正しい!」という感じだった。知性がね、ないんだよな…
音楽番組「HEY!HEY!HEY!」を見ていて、本当に音楽興味ないんだなぁこの人、と思っていた。長渕剛は好きらしいので、音楽に興味がないというよりも自分と異なるものには興味がないのかもしれない。
そもそもあの番組は歌番組のはずなのに歌の尺が短い(ダウンタウンとのトークが皆さんのお楽しみでしょう?という)異色の番組だったのだが、トークの中でアーティストが創作の苦労っぽいことを話し出すと、松ちゃんのトークのギアが1段さがって熱くなっていくことがよく有った。俺たち生み出すもの同士の苦しみありますよね!と。まぁそうかもしれんけど、トーク番組なのだしゲストの話もっと聞いてよ…乗っかるならお互いの生みの苦しみを面白おかしく喋るのが仕事じゃん…と思うのだが、松ちゃんはただ共感するだけのことが多くて、なんていうか「特権性」をアピールしたいんだろうなと理解した。当時はダウンタウンの人気が権威化しつつある時期だったのでアーティストの方が「松ちゃんと僕たち同じ生みの苦しみ抱えてますよね!」とヨイショ成分も混じえつつ盛り上がっていたから、まぁいいんだろうけど。
そしてこれも「俺は特別なのだから特別扱いされるべき」という、おそらく彼が今でも思っているだろうことを補強していってしまっていただろうなとも、まぁ後付けだけど、考えたりする。
ごっつええ感じがTV局との複数のもめごとで終わり、コントのDVDを作った(面白かったよ)が一部の好事家にしか受けず、カルト的な人気があった深夜番組(一人ごっつシリーズ)をやっていたが、長く続けられる番組ではなく(発想力だけで何でも何とか出来るほどの天才ではなく。まぁそれができたら人間ではないと思うし)、ある時期から映画を作る方向に向かっていった。
あまり評判が良いとは言えない「大日本人」を作る前から雑誌で映画評の連載をしていた。これが、知識不足による滑り気味のツッコミと的外れな評論も多くあまり面白くなくて、会社においてあったその雑誌をたまに見るたびに、これ映画作るとしたらやばいんじゃないかな…と思っていた。映画は総合芸術です、という言葉の真偽は分からないけど、少なくとも2時間近くのストーリーを作って落ちまで持って行く、というのは、彼には向いてない仕事だったんだろう。映画進出については、まぁ色々思惑(吉本が映画祭やりたいからとかね)もあろうが、たけしを意識したのかなぁ…どうだろう、でもたけしにある知性とリリシズムが、松ちゃんにはないんだよな。
そういえば、当時、たけしと松ちゃんの対談を何度かしていて、聞き出したい松本&はぐらかし哲学するたけしの噛み合わない対談が 面白かった。たけしは年を取るとお笑いは続けられない、反射神経が衰えると言い、それに松ちゃんは食いついてた。じゃあ筋肉付けていこう、ということだったのかな、知らんけど。
頭悪くても金が無くても面白くできるのがお笑いであって、もっと言えばそれこそがダウンタウンが生み出して作り上げていったお笑いだった。とにかく面白かったし、今だって当意即妙なコメントとかやっぱり抜群に面白いと思う。
それまでの芸人の世界では、知性の代わりに師匠について修行するという手段があったわけだが、師匠がいない吉本芸人の第一号でもあった彼らが見せてくれた発想の笑いはとても新鮮で切れ味が鋭くかっこよかった。
でも物理的に年を取り、そして社会も思ったより速いスピードで変化している時に、知性も修行による積み重ねもなく、他人と対峙し自分と向き合い笑いを作り続けていくのは、やっぱり簡単じゃなかったんだな。
発想って心身の老化とともに多くの場合は衰えるし、ウィークリーで進むメディア、デイリーで流れていくウェブの世界で「王様」でい続けるのは難しい。「松本、動きます」の宮迫騒動の時にもばれてしまったがSNSの使い方も絶望的にダメだし。
若いうちはアナーキーさとして好意的にみる人もいた(それが理由で嫌いな人もいた)、気に入らないものすべてに噛みついていくスタイルは、今のように「お笑いの権威」のようになってしまったら、単なる癇癪持ちのハラスメントでしかない…。権威を捨てるかハラスメントを捨てるかしないと、社会面ニュースに頭の悪さを露呈するコメント垂れ流す仕事ぐらいしかできなくなっちゃうじゃん。
爆笑太田じゃないが「椅子からコケる王様」をいつか演じることができればいいけど、まぁあんまり期待はできないかなぁ今のところは。
松本人志がお笑いの世界からいなくなったらどうなる、という声もあるみたいだけど、まぁ全然ダイジョブじゃないかなぁと思う。島田紳助はレギュラー何本も人気番組抱えてて引退したけど、お笑いもバラエティ番組もマストゴーオンだ。M-1の審査員も紳助引退からの復活で積極的に若返りを図っていて、むしろ松ちゃんいなくても大丈夫な筆頭だと思う。今の若手は(口ではもちろん最大限の敬意は言うだろうが)「松本人志に評価される」ことの重さもかなり軽くなってると思うし。