はてなキーワード: 物言いとは
面接では必ず、最初に名前と所属を名乗る.所属を名乗っている以上、相手に失礼な態度を取ったり、物言いは出来ない.なぜなら、その会社に「うんたら大学院なんとか専攻は社会不適合者の集まりなのか」と思われては、後輩に迷惑がかかるためである.しかし、無所属になってしまえば、建前上はそういったことを気にする必要はない.もうそこの学生でないのだから.そうすることで、自分を表現しやすくなるというか堅くならずに済むというか、そういう効果があると思う.たとえば理解できない質問に対して不躾な質問で返したり、極端なところ話が通じ無さそうな面接官にくたばれと言ったりとか.
「オーストラリア火災ではウォンバットが自分の巣穴に火災から逃げてきた小動物を匿っている」っていう話があるらしいけど、識者によると「ウォンバットは近眼だからそのような行動に出るのはありえない」んだとさ。
その方がありえなくねえ? 近眼ってったって目は付いてるんだから近い所にあるものは見えるだろうし、近くにいる生き物の気配くらいは認識できるだろ。
コミュニケーションがどれほど取れるかの問題はあるにせよ、何か緊急事態で自分の巣穴なら助かると思っているという生物が近くにいるとするなら、「ワイの巣穴に来てもええで」のポーズをしてもおかしくねえだろ。
音楽はとてもいいなぁと思いながら聞いているんだけど、言葉のセンスが最悪的に苦手と感じている。
自分が初めて髭男を認識したのは、去年の高校野球だったと思う。
歌詞から推察するに、最初から高校野球に向けてのオファーだったのだろうと思うのだが、非常に気持ち悪い。
奇跡じゃなくていい 美しくなくていい
生きがいってやつが光り輝くから
愚直で確実な守備なんかや、場面場面に応じた集中力の切り替え、走り出す瞬間の判断力。
奇跡や美しいプレイが稀に起こった時に感動はするが、別段、それを求めている人は少数派ではないだろうか。
高校野球に、奇跡や美しさを求めているのではなくて、真剣さとか諦めない姿勢を称賛するのであって、奇跡だの美しさは後付けでしかない。
君の運命のヒトは僕じゃない
自分のコミュケーション能力とか相性の悪さを、運命という言葉で責任逃れしているのが苦手だ。
折り合わなかった悲しさはわかるけど、人生や目の前の決裂の責任を、運命とやらに押し付けるのが非常に傲慢だと思う。
別れるのは運命だったというなら、まだわかる。
しかし、運命の人じゃない、という言い方にすることで、まるで運命の人というものがあたかも存在するような、万能の存在があるような物言いに、そして、それが自分じゃなかったという言い訳は、筋違いというか、真摯に相手に向き合っていたのかと思うと、やっぱり気持ち悪い。
運命だとか宿命だとか、こういう言葉に引っかかる自分とは、運命とか宿命の解釈にかなりズレがあるんだろうと思う。
もやもやをいまだに言語化できないけど、髭男のこの二曲は本当に苦手である。
他の曲は歌詞をちゃんと見てないんだけど、たぶん引っかかるんだろうなぁと思ってるし、配偶者が好きなので、どうしても聞くときはあるし、相手にも苦手だということは伝えてあるし、宿命に関しては同意見だけども、ラジオでかかっちゃうともやもやするので、整理するために、言語化できない部分も含めて、ここに置いていく。
https://twitter.com/MaiaUmetani/status/1214483127445245952
大抵のアイドルはいつもニコニコしていて嫌われたくないよう貴方のことを否定しない
だから何を言っても自分は許されてると思いがちな人も多いみたいだが
そういう店に行けと思う
嫌われたくなければつまらない揚げ足を取らず寄り添えば良いのに
「「推し変しようかなー」とか言って脅しをかけてくるアイドルオタクやめろや」とぶちギレるアイドルプロデューサーの一連のツイートのうちのひとつ。
主張の大方はなるほどそりゃそうだろうと思って読んでたのだけど、ひっかかるところが一点あった。
「構ってほしくて推し変をちらつかせてもアイドルは嫌うだけなので、そういう店に行け」とこの人は言っているわけだけど、“そういう店”ってつまりどういう店なのか。「気持ち悪いこと」を客が言っても、キャストは嫌ったり引いたり傷ついたりしないシステムの店とは。
多分だけど、この人は漠然とキャバクラとかの水商売を想定してる気がする(もっと漠然と、「いかがわしい系の店」とかかも)。
でも悲しいかな、キャバクラ嬢がキモ客クソ客のLINEを晒して笑い者にするのもよく見る光景になりました。まして「指名しようかなー別の娘にしようかなーどうしようかなー」なんてシーソーゲームをやってるつもりの客は普通にキャバ嬢も大嫌いだろう。アイドルに限らずね。
つまり、推し変をにおわせるなどして他人の気持ちをコントロールしようとしたり、過剰なサービスを求めようとする人間の行く場所なんてどこにもないということ。アイドルもキャバ嬢も笑顔の下ではそんな奴のことを嫌って怖がって蔑んでる。他の業界のどんな職業の人間だって。男だって女だって。誰だって。
残念無念。
あと、この人は多分“そういう店”や勤めてる人を、無意識にかどうか、下に見てることは伝わってくるね。これは助言だけど、よその業界のことをよく知らないままゴミ箱扱いしないほうがいい。
こういう物言いはどっかで跳ね返ってくる(現にこうやって言いがかりをつけてくる奴がわいてきたわけだし)。
「やたら物販で会話を粘ってくる…そういう店に行けばいいのに」だったらオッケーだった。
・出版の裏側
チャンネルの性質上ピー音や伏せ字も沢山あるがそれでも十分面白い
漫画家やライトノベル作家志望の人間からも多くの質問が寄せられるが
「まずはネットで腕試ししてから送ってこい」というのが最近の定番の返しになっている
ゲストはいつも匿名形式での参加となっているためコメント欄では推理大会が開かれる
女装に関してズブの素人だった人間が徐々にレベルアップしていく様子を楽しめる
最初はただ単にユニクロなどで買ってきたものを着るだけだったが
わずか一年の間にガチで女性にしか見えないレベルにまで到達してしまう
建築家のスキルを生かしてLEGOで家を組み立てるというチャレンジをしている
ただ単にガワだけを再現するのではなく機能性の高い本格的な住宅を建築中
”Primitive Technology”を連想するという人がコメント欄にもちらほらいる
・巷のデバッガー
街なかを歩いているときに見かけた様々なものを紹介するという動画を上げているが
見たものをあたかも”現実のバグ”であるかのように紹介するというユニークな手法をとっている
加えて豊富なゲーム知識と絡めて説明することでよりいっそうのおかしみを漂わせている
コメント欄では「これがゲーム脳か……」というような文言が定番化している
海外ファンからは映画マトリックスになぞらえてモーフィアスとあだ名されている
・ミニヨンズ
金と暇を持て余したアラサー兄弟がひたすらミニ四駆の限界に挑み続けている
回を増すごとにヤバさがインフレしているところも懐かしの少年漫画っぽくていい
人数を合わせるため、俺たち兄弟は一蓮托生ということにした。
「じゃあ、マスダが4位の場合は弟くんも4位ってことか」
「そうだ。3位以上は買出し組になる」
「え、それでいいの?」
「まあ……元はといえば、今回の集まりもこっち側の提案だし、それ位の“ハンデ”は背負うさ」
俺はあえて歯切れの悪い物言いをした。
「マスダたちが3位の場合は? ジャンケンで兄弟どちらかが残るって感じ?」
「んー、そうだな……」
ちゃんとした台本が用意してあるわけじゃないので、このあたりはアドリブ次第である。
「“なしなし”がいい?」
「いや、“ありあり”でいいだろう」
「じゃあ、サイコロ振って」
麻雀の取り決めには様々な“あり”と“なし”があるが、仲間内のお遊びでこれらを細かく確認することはない。
“ありあり”とした場合、面倒なので他のものも“あり”とするのが俺たちの中で暗黙のルールだった。
例えば、頼りない照明しかない、このような場所で麻雀をやる場合は“イカサマもあり”となる。
つまり今回のルールは喰いタンあり、役の後付けあり、赤牌あり、ピンヅモあり、喰い替えあり、イカサマありの“ありありありありありあり”……
舌を噛みそうなので、俺たちは気取って“ブローノ・ルール”と呼んでいる。
ちなみに、ここでいう“俺たち”とは“俺と弟のみ”を指す。
もちろん“イカサマあり”を知っているのも“俺たち”だけだ。
麻雀をやったことがあるならば、誰しも一度は考えたことがあるだろう。
運要素の強いこのゲームで、果たして打ち手の強さがどれほど関係するのか。
一説には、麻雀に勝つのに必要なのは運であり、負けないために必要なのが実力だ。
そのどちらもコントロールできるのがプロだが、素人の俺たちはもっと泥臭くやるしかない。
「カン……よし、ドラ4だ」
牌のすり替え、積み込み、出来ることは何でもやった。
少し練習した程度の拙いものだったが、この暗がりだからバレることはない。
更に、みんな夜更かししているから頭が回らず、視野も狭まっている。
多少、露骨にやっても誰も気づかない。
「それロン」
「えー、マジかあ」
「マスダ早いなあ」
もしバレた場合、交友関係に新年早々ヒビが入るという相応のリスクを背負っているからな。
それに、これはこれで神経を使うし、楽勝ってわけにもいかない。
あんまり目立つような勝ち方をしたら疑われるので、適度に手を抜く必要がある。
そのためには、相手の手牌を把握することが肝要だ。
「あ~暇だな~」
俺たちが打っている間、弟は退屈そうに、いかにも落ち着きのない子供といった感じで山内を歩き回る。
「日の出まだかな~」
その手には双眼鏡が握られているが、覗き込んだところで見えるはずもない。
「ねー、次は打たせてよ……」
「……この局までは待ってろ」
こうして相手の手の内を見たら、俺たちにしか分からないサインでそれを知らせる。
傾向さえ分かれば十分だ。
「ちぇ、そっちがきたか……マスダ、それロン」
そんな調子で派手さこそないものの、終わってみれば俺たちが1位だった。
弱者や被害者をやたら持ち上げて、自説の棍棒として使ってる奴を見かけると、正直オエッてなるんだけどさ
それは「人の痛みがわかるから弱者や被害者は優しい」みたいな物言いを、ぜんっぜん信用できないからなんだわ
たまたまそいつがそういう風に生まれたり、偶然事故に遭ってしまったというだけで、別にそいつらがみんな聖人として生まれたわけでもないし、まして迫害や事故のおかげで聖人になりましたなんてことないでしょ
少なくとも俺ならそうはならない
迫害してきた奴には復讐したいし、事故の原因を作った奴からは金ふんだくって土下座してもらいたいし、なんなら関係ない奴でも、弱そうで殴り返してこないようならぶん殴ってウサ晴らししてえって、心のどこかで思っちゃうわそりゃ
それは強者の価値観への迎合がどうとかいうのよりもっと単純な話で、ぶつけられたマイナスというのはどっかからプラスをもらうか、さもなくば他者にマイナスを移さなければ、心のバランスが取れないからだ
むしろ実際の被害以上に被害者意識こじらせて、普通の人よりよほど凶暴になる可能性だって十分あるだろうに
だからなんだわ、オエッてなるの
それより先にとっととケアして、まずそいつのマイナスを埋めてやれよって思っちゃうわけ
つーかぶっちゃけあんたらそれわかってるよね、十分理解してるよね
だからお気に入りの奴が被害者ポジション取ってる分には、いくら口汚く暴れていても持ち上げちゃうんでしょ?
それでいて、気に食わない奴が被害者ヅラしてると急に「他人を叩かない聖人でなければ被害者とは認めない!」みたいなこと言い出しちゃうわけ
昨日書いた「あなた方は恥を知ったほうがいい」への反応で気になったことがあるので書くわ
(元増田の話とはほぼ関係ないのでツリーにのせないよう参照はしない)
あの文章は実験だと思ってほしい。「この文にあなたはどう反応するか?」という実験だ。
卑怯だ、性格が悪い、と思うかもしれない。でもじつはさほど唐突でもない。あの文はそもそも元増田の文章に対してあなたはどう反応したか、を問い、自省をうながすものだった。つまり趣旨は最初から書かれていた。
それに必要なことだ。僕も含めて僕たちは「自分を顧みる」能力がとても弱い。でもその能力はとても大切だし、その能力の欠如が世の中を悪くしていると僕は感じている。
前の文でもこの文でも一貫して問題にしているのは「あなた」だ。僕じゃない。
でも前の文へのブコメの多くは僕や僕の文へのコメントだった。あれだけ自省を促してたにもかかわらず。まぁ仕方ない。そういうもんだ。人間の多くは自分を顧みるのがとても苦手だ。自分を顧みたくないから、わざと他人の気になるところに目を向けたりする、それも習性だ。
ましてやあんな長文で、あんな強い言葉で、あんな極端な物言いをしていれば、そこに言及したくなるのは人情ってもんだろう。もちろんそうなるだろうなって思って書いた。
そういうノイズを掻い潜って自省に辿りつけた人は凄いと思う。そういう人はなかなか居ない。実はこんなこと言いながら僕も苦手なんだ。自分を顧みるの。だからあなたは凄いと思う。尊敬する。
つまり前の文のテーマは凄く短く言えば「自省」だ。あなたたちに自省を強く促しつつあの手この手で邪魔し、最後にはそれまでの刃を自分に向けて「自省」のポーズも軽く取ってみる。
僕はあれを読む人に、自分の加害性や暴力性について振り返ってみて欲しくて、または振り返る能力が本当にあるか問い直して欲しくて、あの文を書いた。
これをマウントだと思って欲しくない。今自省をできてるか問われてるのはあなたもだけど、僕もなんだ。僕もジャッジの対象だ。
この文に対して、またあなたは「僕について」書こうとしてるかもしれない。でも待ってほしい、それはとっても勿体無い。
僕について、つまり他人について言及したくなる重力からなんとか逃れてほしい。それで、もし前の文や元増田の文にコメントしていたら、自分のコメントを見返してみよう。3回くらい読んでみる。どうだろう?
そこに何か問題は無いか、偏見が入っていないか、誰かを傷付けていないか、今度は僕は線を引かない。自分で引いてみて、どういう線ならアウトで、どういう線ならセーフだろうか。その線が適切かも含めて考えてみる。
こういう自省は今日だけ必要なものじゃない。前の文でも書いた通り、日常のあらゆる場面で自分の言動が誰かを傷付けていたり偏見が入っていないか自分でチェックしてみるのはとても大切だ。
たしかに面倒臭い。そんなことやってられるか、って思うかもしれない。でも、そろそろやらないといけない時代が来てると思う。やろう。
「つまり前の文は、元増田の悩みをダシにして、全然別の目的で実験してた、ってわけ?」って疑問には応えるべきだろう。
そうではない、というのが答えだ。元増田の悩みはよく分かるし、彼が救われてほしいと思う、これは本心だ。
そして彼の苦しみの、遠い原因は、やっぱり多くの人の「自省のできなさ」なんじゃないかと思う。
ではなぜそんなに遠い原因を選ばなければならないのか、その背景には僕側の事情がある。つまり、僕は「彼に彼女をあてがえ」と絶対に言いたくないし、かと言って僕も含めた社会が意識しないうちに植えつけたかもしれない意識で苦しんでる彼に、彼だけに努力を求めるのは間違ってると思う、という事情だ。
この事情により、僕は彼が彼女を得る以外の方法で幸せになる道について考える必要があるし、しかもその方法は彼だけに原因や行動を求める物であってはならない、という複雑な制約がかかる。
その結果、彼以外の者(とくに僕自身)に原因の一端があるのではないか、ということを考えてみる必要があるし、それが「自省」に繋がる。
別にリアルで元増田が僕の知り合いかもしれないって心配してるわけじゃない、でも彼のような悩みを抱えている人は世の中にはいっぱい居るだろうし、僕の周りにもいるかもしれない。だから彼の悩みは僕に無関係ではない。
さて、また長文になってきたぞ。
さっき「長文はわざと」みたいなこと言ってたけど、いや、まぁわざとではあるけど、元々素で長文になりやすい傾向はあるんだよね。その点については本当にゴメン。
恋愛至上主義が今の日本にあるかどうかについて、僕は複雑な立場だ(少なくとも前の文よりは、ね)
今僕は日常で恋愛至上主義みたいな空気をそれほど感じない(少し感じる時もある)、でも学生時代はそれこそ元増田のように苦しんでいたし悩んでいた。
これは時代の経過だとは思わない。ライフスパンの経過だと思う。つまり今、恋愛至上主義に苦しんでいない僕と同時代に、中学生高校生大学生達の一部は恋愛至上主義に苦しんでいるんじゃないかと思う。学生のうちにそういうことに悩むのはまぁよくある話だ。
今苦しんでる彼らも、僕と同じように、いつかマシになるかもしれない。でも、だからといって、今の彼らの苦しみが存在していいものだとは全く思わない。
もちろんこの心配自体推測にすぎないんだけど、でも、たとえば、思い出してほしい、男性の多くは女性がどれだけ痴漢の被害に遭ってるか知らないし、一部は、言われても何かしら理由を付けてそれを無視しようとする。
人間は自分とは違う集団の被害を見くびったり、それを軽視しようとする傾向がある、と僕は思う。僕たちが彼らの苦しみを「大したことない」と思う時、そういう心の動きは果たして働いてないと言えるだろうか? 過去に同じ苦しみを抱えていた僕でさえそれをもう忘れかけている。僕達は彼らの苦しみを知らないし、測ることもできない。
ましてや、遠因として僕も加害者のリストに入っているかもしれない。だから今僕がそれに苦しんでないからと言って、「恋愛至上主義は無い」なんて軽々しく口にはできない。
気付いた人もいたみたいだけど、挑発的な物言いについてはグレタ・トゥーンベリをパロディとまでは行かないけど意識はした。
つまり「自分のコメントを顧みろ」というメッセージに対して、そのメッセージの装い(言い方、書き方、態度、長文である事、等々)に人はどのくらい気を取られるものだろうか? ということ。
最後に、文というものはただ単に読まれるだけの客体物だと思っているかもしれないけど、本当はとても怖いものだ。
それが悪文であるか美文であるかに関わらず、あなたがそれをどう読み、どう反応するか、というのは人によって大きく変わるし、つまり「あなた」が物凄く表れる。
しかもそれは文だけじゃない。いろんな物があなたを見てるし読んでいる。
それを意識して、これからの日常、いろんな場面で、他人ではなく自分自身の言動を見つめ返して欲しい。「本当にこれで良かった?」「何か間違ってない? 傷付けてない?」と問い直し続けてほしい。
あ、書き忘れてたので追記、
前回も今回も何度も問題にした「自省」について、類い稀なる能力を持っているのが元増田だと思う。
1つ目の文から自分の苦しみを詳らかに見つめ直そうとしていたし、2つ目では僕だったら反発したくなるようなコメントにすら真摯に受け止めて「自省」しつつ対応していた。
はっきり言って、上から目線で褒めてる場合じゃないんだよ。僕の見るかぎり、彼の自省能力は僕達あなた達をはるかに凌駕している。少なくとも身の程を知った上で褒めたほうがいい。
そして前にも書いた通り、彼のその能力は決して恋愛に換金されずとも、それ単独で素晴しいものだと僕は思う。
恋愛どうこうという価値観を取り払ったとき、彼は、僕にも、あなたにも、見くびられるべき人間では絶対に無いと思う。
ある意味では、彼の事が「どう見えてしまうか」という事が、その人がどれだけ恋愛至上主義的な価値観を内面化してしまっているかの尺度になるんじゃないかな、と思う。
8月に日本でオリンピックがあるから4月の大会を延期するという
オリンピックが急に決まったわけでもないのに今更感
というか普通逆では?
五輪ロスを考えたらオリンピックの後に開催するリスクの方が大きい
今回そのチャンスをみすみす逃した
ONEにとってそのくらいにしか日本開催に大して魅力や価値を感じていないということなのであろう
実際はリスケではなく4月の日本大会の中止ということなのでしょう
8月以降に無理やり二大会押し込むことも無理ではないかもしれないが
特に日本のONE運営は青木にダメだしされるほど評判が悪いので
そんな運営に短いスパンで日本大会を仕切れるとはとても思えない
今年の10月の日本大会が台風の影響があったことを考慮に入れても
それでここにきての大きな方向転換
一部で埼玉スーパーアリーナを押さえられなかったからでは?
との憶測もある
埼玉スーパーアリーナ開催を匂わせていたのは一体なんだったのか?
なんにしても
もしそういう理由であったとしたなら
程度の重さしか感じない
埼玉スーパーアリーナ絶対取るぞ!
という意気込みも
埼玉スーパーアリーナ押さえられなかったけど
なんとかしよう!
という気概も感じない
これまで見てきてONEはどうも時々やることがラフなことが見受けられる
エラー&トライとはいい加減さを正当化する随分と便利な言葉ではあるが
と疑いたくなるようなお粗末さが時々垣間見られる
採算が取れなさそうなので止めた
ということでしかないのであろう
それをそのまま言うと大ごとになるので
だとするとオリンピック後も本当に開催されるのか結構怪しげだなと
思わざるをえない
だとしたら本当はこの一年で日本人は勝負に出なければいけなかった
日本を特別扱いし優遇してくれる時に結果を出しておかなければならなかった
しかし一年たって今年印象に残っている日本人選手をあげろと言われたら
メインイベンターを任せられそうな選手がいまだに青木しかいない
「負けたけどDJとそこそこやれた俺凄い!」
ではちょっと寂しい
こっちはDJを知り尽くしているが
DJはこっちを全く知らない初手合い
なのでDJも最初は様子を見るしある程度こっちができるのは当たり前
かと思うと一本極めきらない塩試合で満足してしまっている上久保選手
じゃあUFC上がりのベテラン秋山選手と岡見選手をつれてきたものの
やっぱり賞味期限切れは否めない
修斗とパンクラスから大量にチャンピオンを独占してはみたものの
キック勢も大して振るわない
大沢さんは身内びいきが過度なのが気にかかる
一回目の試合は猿田選手が判定勝ちだがチャトリから物言いがつき
再戦してのKO負けでやっぱりパシオの方が強かったね
で話は完結している
パシオと再戦したいならもう一回一から実績積み直してこないとおかしい
ファンもこう短いスパンで何度も猿田vsパシオを見たいとは思っていないだろう
その結果今年のONEを振り返ると
あれだけ日本人が出場したにもかかわらず
これはかなり重症といわざるをえない
この一年見てきて本当にONEに出場している日本人選手には危機感がない
出場できてお金がもらえることが当たり前だと思っていて
凄くもないのにすげー!すげー!とすぐ言うし
やばくもないのいやべー!やべー!と軽々しく言う
萎えるだけなのでやめてほしい
もうちょっとちゃんと客観的に厳しい意見が言えるご意見番が必要
くらいに軽く考えている選手がいそう
前途したようにオリンピック後の方が五輪ロスなどの懸念もあり開催にはリスクがある
本当に開催されるかなど蓋を開けてみるまで分からない
だから2020年の前期半年で選手達は例えそういうマイナス要素があったとしても
日本大会開催にはそれを上回るメリットがあるということをONE運営に印象付けなければならい
しかしそういう危機感を持っている選手があまりいそうな気がしない
だとしたら日本にかけているリソースを中国やインドに集中した方が全然賢いのである
つまり現状いつONEが日本市場を撤退しても何も不思議はないのである
(つづく)
【日本大会中止に見るONEにおける現状の日本の位置に関して思う事2】
https://anond.hatelabo.jp/20191213200448
【日本大会中止に見るONEにおける現状の日本の位置に関して思う事3】
https://anond.hatelabo.jp/20191213200532
人のことを好きになれないことに気づいた。
彼氏だ彼女だという以前の問題で、最近は友達としても…深く知ると嫌いになってしまう。
一度好きになるとまっすぐだと思う。この人についていきたい、この人になら酷いことを言われても我慢できる、だって離れたくないから。我慢して面白い自分でいないと捨てられてしまうから。
でもそれは例外。あくまで理想化しているに過ぎないことも多く、基本的には「人と深い付き合いができない、人を好きになれない」と捉えて間違いないだろう。
浅い人付き合いなら楽しめるが、もっと仲良くなりたいと思うのに、すぐ相手のことが嫌になってしまう。
この人の物言い嫌いだなぁとか、こういう所は人としてどうかと思うとか、こういう考え方は自分とは合わないとか、この人の価値観は許せないとか……。
とにかく、内面に求めるものが多い。きっと、人とはこうあるべき、人として正しいのはこうだという価値観が強いんだろう。
そしてこういう価値観は、歳を重ねるごとに強くなるのだろうな…と思う。
子どもの頃なんて、好きか嫌いかでしかなかった。正しい正しくないの軸もあったかもしれないがブレッブレだった。特に自分は奔放な子だったから、あまりそういう感覚はなかった。
でも次第にその「こうであらねばならない」という感覚が自分を縛り、心の中で他人も縛り、他人に対して感じる当たり前が増えていって…。気がつけば、「自分は正しいのに何故周りはそうでないのか?」みたいな、独裁者か何かのような心理になっていく。