はてなキーワード: 物差しとは
SNSで相手をブロックすることなんて日常に溢れていて今更言及する必要もないが、自分自身の心の整理のために書く。
Aは自然と周囲に人が集まるタイプの人物で、サークルで部長を任されるくらいに人望が厚い。
Aは活動的な人間で、複数のサークルに所属していて(いわゆる『兼サー』)精力的に活動しているらしい。
大学に入学した当初、Aの面白そうなツイートを見て興味が湧いた私は彼女にフォローを飛ばして、その後Aからのフォローが返ってきた。このフォロー/リフォローの前後はあるいは逆だったかもしれない、正確なことは覚えていない。
フォローした当時はAとは一切面識がなく、Aのアカウントの中の人がAであったことはサークルに入ってしばらく経ってから知った。
サークルでのAと私の関係は至って普通で、大きな諍いが起こったこともなく日常的に会話もする、サークルの終わりに二人で食事に行ったこともあった。
私に対するAの態度は特別でもなければ嫌っていることもない普通のそれであった。
Aに不信感・嫌悪感を抱き始めた切っ掛けは、ごく小さな彼女の言動だった。
Aが危なっかしい手付きで作業していたので「ここをこうした方が良いんじゃない?」と親切心でアドバイスしたところ彼女は「人の揚げ足を取らないでよ」と返してきたのだ。
この時は相当衝撃を受けた。『揚げ足』という言葉は格上や同等の人間に対して使われることは少なく大抵は格下の人間に向けて使う言葉だからだ。(似たような言葉として”調子に乗るな”という言葉がある)
私は同学年のAと対等にありたかったし対等に見ていた。
しかし、この時「どうしてそのような言葉を使うのか、もしかして私はAから見下されているのではないか」という小さな猜疑心が内に芽生えた。
それ以降、Aと会話する度に彼女の言動一つ一つに違和感を覚えるようになった。
Aと議論しているときに彼女が当事者であるにも拘らず「どうどう」と茶化すように私のことをあやしてきたこと。
Aと話の流れで食事に行くことになった時、彼女はスマホを弄って一向にその場から動こうとしなかったこと。
約束を守らないこと等々。
私は自身が繊細で被害妄想の気があることを自覚しているので何度も猜疑心を打ち消したが、こうした出来事が積み重なって『Aは私を見下している』という結論に至った。
あるとき私がTwitterで「リアルの知り合いをブロック解除したらギスギスするよね」というツイートをした際、Aが空中リプライで「ブロックして相手が傷つくと思っている人って自己肯定感高すぎるでしょ」といったツイートをした。空中リプライではなかったかもしれないがタイミングから観て、私のことに言及しているのは決定的だった。
どうしてこの人は人に対して攻撃的で自分の物差しでしか人を見れないんだろうと思った。
確かに私は自己肯定感が低いフリをして自己肯定感が高い最悪な人間だ。が、それ以上にAにツイートを見られたくなかったから私はブロック解除がしたい。
とりあえず私はAのツイートから、彼女は彼女が見下している私ごときにブロックされても傷つかないしギスギスすることはないのだろう、と推測してブロック解除した。
ブロック解除した瞬間は解放感に似た爽快なものがあったが、これからのことを考えると憂鬱でもあった。
Aとの関係も表面上は今まで通り続いていくと思う。
きっと寂しいのだと思う。
寂しいという感情は、自分の存在価値が認められていないと思った時に起こる。
けど多くの人が他人を認められるほど精神的な余裕を持っていない。
また、他人に認めてほしいという願望とは「他人の物差しで生きること」を意味します。
批判や不満ばかり言ってしまうのは貴方自身の劣等感が原因です。
自分は他人と比べて劣っていると思うから他人を攻撃して批判しないと自己を肯定することができないのです。
最終的に自己愛がゼロになり他人を傷つけないと生きていけなくなる。
見る角度を変えれば善人にも悪人にもなる
勝手な思い込みによって、根拠のない劣等感を育てる暇があるなら、自分のことだけにフォーカスし、自己鍛錬に集中した方が有意義だと思いませんか?
他人と比較する癖がなくなれば、他人を批判する癖もなくなり、自分を裁くこともなくなります。つまり、不安になることも、孤独を感じることも、自己否定することもなくなるのです。
人は皆 仲間です。全ての人を愛せる人間になりましょうよ。
稼ぎでもなく時間でもないよ。そういう定量化できるものではなくて、激クサいけど愛とかそういうものがベースにないと家庭を運営し続けるのは難しいだろうと思ったんだよ。
家事分担って、現実は、お互いが納得できるゾーンの中で分担をするしかない。で、お互いの納得できるラインを決めるための物差しのメモリが、誰にとってもフェアで平等なメートル法みたいな決まりがあるわけじゃないし、「家事分担のライン決めにおけるメートル法」がそもそも紛糾して決まらないんじゃないかと思うしね。じゃあ夫と妻の間で「ちょうどいいライン」を引く作業は、かなり個人差があるもので一般化しないほうがいいんじゃないかというか、家事分担に関しては、どの目盛単位で量るかよりも、量るのをやめて感情ベースで話し合う方が、1周回って逆に健全なのではと思った。
男性が、じゃなくて「お互いが」だと思うよ、現代社会では特に。だから少子化なのだろうけど、そもそも、誰がどんな人の子供を産みたいかは本人の自由であって、少子化の改善なんかよりも圧倒的に優先されるべきことだと思うよ、私は。
“転売屋”は本当に“悪”なのか?
https://blog.takanori1750.work/entry/2019/03/08/220615
https://blog.takanori1750.work/entry/2019/05/03/195056
下の記事は上の記事とあまり内容は変わらないがこの人はかなり転売をありがたがっているようで全肯定派とすら自称しており、繰り返し同じ内容を書きたいほど強い思いがあるらしい。
増田は転売について全否定でも全肯定でもないが、最近ネットでは思考停止して全否定している人の声がかなり大きくなり、
それらはすべて嫉妬による怨念のようなものが動機としか思えないほどに感情的な意見ばかりで、理性的な意見を見たことがない。
このエントリは転売をする側の意見ではなく、転売に手を出す側の意見だ。
このエントリでは
「そもそも正規の入手方法自体が非常に困難である(場合がある)」
「七面倒な要素はすべてクリアして商品が手にさえできればお金はいくら払ってもいい」
について、答えを出しているように見える。
結論である「そもそも運営の売り方が悪い」には諸手を挙げて賛成する。
「本当に好きなら関係ない、正規の方法で買う人だけが本当に好きな人だ」と声高に主張する人は、じゃあそれが海外限定グッズなどだったら買うために渡航するのだろうか。(もちろん欲しいと思ったうえでの話)
もし海外限定が理由で買わないならば、あなたの"好き"は大したことのない程度だと自分で言うことになるのだが、そもそも他人の"好き"の物差しを勝手に図ってあまつさえそれを押し付ける資格などあるのだろうか。
別に増田が騙されやすい阿呆だの屁理屈だのなんだの言われても全く構わないのだが、それを言う前に先のエントリのような転売全肯定派に対して【理性的に】反論してみてくれないだろうか。
増田がこのエントリに騙されているだけなら目を覚まさせてほしい。特に、転売を躍起になって否定するほど熱量を持った人に。
ちなみに"特定興行入場券の不正転売の禁止等による興行入場券の適正な流通の確保に関する法律"が6月から施工されることは既に知っているので重箱の隅をつつかないでほしい。
おこがましいことを3つ書きます。長々と。
「教養がない」と思ってることを思ってると思います。たぶん。彼女がどんなに鈍い人でも。
「教養の無さ」、もっと言うと知的生命体として、彼女を一段下に見ている感は
ふとした瞬間に相手に伝わっていると考えた方がいいと思います。
(敏い人であれ、愚鈍な人であれ)
彼女はあなたとの結婚生活において、あなたの言語化してないボンヤリした侮辱を受け続けることになります。
しかし、たぶん彼女はあなたのそういう態度を許しているのではないでしょうか。
この点、あなたは彼女に一つ「借り」をつくっている・と考えて欲しいのです。
今後、起きるであろう人生のつまずき、アンラッキーな事柄に見舞われたとき、
「君は教養がないから」(知的に劣っているから)役に立たない・という趣旨のことを、
口から出そうになる誘惑に耐え続けねばならないということです。
之が難しい。
簡単なことのように思われるかもしれませんが、
不運な時というのは通常とは異なるストレスがかかって、忍耐力も落ちています。
夫婦共通のトラブル時にはクリティカルヒットになる可能性が高く、
そういうトラブルや困難というのは、「来る」ことを前提に考えた方がいいです。
ではどうすればいいか。
まず彼女への不満の根に「教養のなさ」がくるということは、意識的であれ・無意識であれ、
あなたという人が、本来は知的な生き方というものに一定の価値を置いてらっしゃる人であるということ。
人を測る尺度の一つにすぎず、また(長い人類の歴史でいえば)割と新しい・他の要素と代替可能なものであること、
(昔はもっと「狩りや獣肉を捌くのがうまい」とか「洗濯が早い」とかの方が価値があった筈です)
この事実をつよく我が身に刻み込むことです。
ところで、全く話はかわりますが、
色々あると思いますが、以前読んで感心した台詞があったんですよ。
正確には思い出せない(すみません)のですが、
全身クタクタで動けない・精神的にももうダメだと挫けそうになったとき、
「ああ、それはそうだな」って、この歳になると分かります。
当たり前のこと、ともすればバカっぽく見えることも、淡々とできる人というのは強い。
そして、そういう強さが必要になるときは、だいたいが人生の正念場です。
でもコレは「知性」や「教養」だけでは測れない要素ではないでしょうか。
いざというときに、そういう「支え」的な役割をパートナーに過剰に期待するのは良くないかもしれませんが、
あなたが異なる価値観でもって彼女を見、(侮辱でなく)尊敬の念をもって接していれば、
少し長くなりました。
まとめますと、他人を測る物差しの一つ「教養」を彼女にだけは取っ払ってください。
そして(最初のうちは自分を騙す感じで)異なる価値感でもって相手を見、
信頼と尊敬の念で接し続けるようにしてください。
それはあまりに突然だった。
イベントの最後には有名な選手の試合があり、ワクワクしながら待っていた。
「別れてください」
見事にノックアウトされた。
ボクがフラれた話など出来るわけがなく、未だに言えていない。
私はここ5年、彼女のために生きてきたと思う。
これから私はどのように生きていけば良いのだろう。
復縁の可能性はないと言われたから、理由なんてもはやどうでもいい。
でも私が経験したことは、珍しいことではなく、もっとつらい経験をしている人はたくさんいる。
世の中の人は、どうしてこんなに苦しい痛みに耐えらえるの。
どうやったら立ち直れるの。
頭の中は真っ白だ。
「また彼女作ればいいじゃない」と人は言う。
しかし、なんて私は女々しいのだ。
フラれてからは毎日のように飲み歩き、先輩、後輩、友達に気持ちを吐き出す日々。
生きる理由が見当たらなく、闇の中に沈んでいる。
程よい温度のお風呂に浸かり、人生は何だろうと物思いにふける。
たった460円で、こんなに気持ちが安らぎ、リフレッシュできる場は他に知らない。
販売終了間近のフルーツ牛乳に思いをはせながら、コーヒー牛乳を一気飲み。
恋愛工学そのものは好きだった。ラポールやリフレーミングの概念を知ったのは、恋愛工学だ。それらは今日でも役に立っている。
しかし、恋愛工学に群がる彼らのことは嫌いだ。できれば人生でもう二度と関わりたくない。
彼らは自分たちの持つ物差しが絶対唯一なものと信じている。モテ・非モテというシンプルな構造だからこそ分かりやすい。恋愛工学を使ってたくさん女性を抱いたり、生涯添い遂げられるような相手を見つけた人が偉い。偉い人はサロンを始めたりして影響力を誇示する。それを達成できない者は下に見る、そしてモテ・非モテ軸を否定する者は迫害する。そんな連中だ。
そも、これだけ文化が発展した現代で、男の序列だけが旧世代のまま進化していない。にも関わらず、彼らは人に対する影響力でしか人を見ない。影響力のある人(そしてそれが自分の考え方に合う場合のみ)にしか敬意を表さない。分かりやすいのがモテ・非モテ軸だ。
自分が勝てる土俵でしか戦わないというのは、何事においても正解だと思う。おそらく彼らは、自分が勝てるモテ・非モテ軸の価値を下げたくないと思っているのだろう。
彼らはセックスをすることができない人を貶す。「本当はセックスしたいと思っているのに」彼らの口癖だ。
恋愛工学を学んで、確かに幾ばくかの女性とセックスをした。だからなんなのだ。そこに求めるものはなかった。相手が自分のことを好きでいてくれるほど、自分の心は空虚になっていく。
彼らには理解できない思考だとも思う。彼らはモテ・非モテ軸がなくなったら、勝てる土俵がひとつなくなってしまうのだから。
恋愛工学が人を性犯罪者にするのではなく、もともと「権力のヒエラルキー」とか「支配欲」が強い人が集まりやすいだけだと思う。
包丁が殺人に使われたからといって、交通死亡事故が起きたからといって、包丁や車を悪くいう人は多くない。恋愛工学の概念を悪用する人間、しかもそれを悪と思っていない人間がいるのが根本的問題だと思う。
だから、僕は彼らのことが嫌いだ。
どうせこれからしばらく生き甲斐絶つなら、これまで抱えてきた感情とその感情を向けてきたあらゆる対象もろとも心中するくらいの心づもりでいようと思ったので巨大感情をぶつけてから一時撤退することにしました。
誰が見てくれなくてもいいけど見てくれた誰かが刺されてくれたら、それで好きだったその人から嫌われてももう良いやという気持ちで文章にします。
後を濁す気満々で申し訳ない。
(一部方々におかれましては重複してお伝えしている内容ではありますが良かったら今一度受け止めて下さい。)
(一度鍵垢でべらべら喋って怒られたことをまた喋ってるのでいよいよ距離を取られたら寂しいなあと思っていますが極力これきりにしたいので許して下さい、出来ればやっぱり嫌われたくないです)
というのも数値や関係が一目で可視化されている文化圏の中で交流を兼ねながら創作活動をするということが自分には致命的に向いてないと思ったからです。
数値が見えるというのは時として嬉しいものなんですが時としてすごく残酷だと思います。
とりわけ数値で自己と他者とを比較できてしまうという点においては自身の実力を図る手段であり、時として自信になり得る要素でもありましたが、交流していくにあたっては自分にとってはデメリットでしかありませんでした。
まず、自分の創作物というのは贔屓目も謙遜も抜きに見ても、描けない人から見たら描けてはいるもの、絵の上手い人から見たら稚拙だと思われる傾向のものだったと思っています。
なまじ創作物に解釈や感情を埋め込む行為に関しては長けている方だと思ってはいたので、そのときのジャンルやCPによっては目に留めてくれる人が多く、その中にはとても絵の上手い方もいらっしゃった、くらいの。
その辺りの側面はひとまず抜きに、「好み」とかの話でなく、絵の技術的な側面において「絵を描いている人込み」で比較的誰が見ても「絵が上手い」と思われるものを生み出せる技術を私は持っていませんでした。
主観的なものなんだから一概にそんなことはない、なんて言い出せばそうなんですが創作活動を続けていく中で「絵を描く層」を限りなく客観視したとき自分が感じた自身の立ち位置は少なくとも「どちらかといえば上手くない」というものでした。
(「上手くない」「どちらかといえば上手くない」「「どちらかといえば上手い」「上手い」の4段階として)
私が今から話すのはフォロワの中でも上記4段階において「上手い」に属する人=神絵師の方々に対しての感情です。
「神絵師」という判定こそその人の主観でいくらでも変わる認識ですがpixivで1千ブクマを安定して得てるとかフォロワが何万居るとかそういう数値的なものでなく、此処で記す「神絵師」というのはあくまで『絵の技術的な側面において「絵を描いている人込み」で比較的誰が見ても「絵が上手い」と思われるものを生み出せる技術を持てていると私が判断している人』というものであることをまず始めにご理解下さい。
前述の通り、私は自己の脳内ヒエラルキーにおける絵が上手い人種ではありませんでしたが、
前述の通り、なまじ創作物(主に漫画のことなんですが)に解釈や感情を埋め込む行為に関しては長けている方だと思ってはいたのでそこを見てくださった方であったりあるいは横の繋がりであったりで神絵師の類にあたる方々との繋がりがそこそこにありました。
絵がどうとかどうでないとかありにしても無しにしても、とにかく自分と繋がって関係を築くことを良しとしてくださった方なわけですから、その時点で神絵師だとかそうじゃないだとか抜きに交流していければ完結する話なんですが、自分に関してはそれができなかった為しちめんどくさいことになりました。
好きな作品についてや日常の雑談について語るにあたっては「同じ路線の感性」があれば絵の良し悪しとか関係なく楽しめます。
でも、関係を持った人たちが「絵を描く人」である以上、日頃の会話の中にはどうしても「自分たちの作品について」の話題が時として出てきます。
特に女性間で顕著なんですが作品を作る人という括りであればどっちにしろこういった話題が出てくる瞬間が私はとにかく苦手でした。
「Aさんは本当に絵が上手い」「そういうBさんの絵に私は憧れてるんだよな」
フォロワの間でそういう話になる度に私は心底しんどくてたまりませんでした。
そういう流れになるたびに身を潜めて出ていかないようにしました。
実際Aさん、Bさんは自分の中では神絵師で、私自身本当に大好きな作品を生み出す方々ではありましたがその流れで私が「わかる、AさんもBさんもどっちも最高なんだよな」とか話題に乗るなんて死んでもできませんでした。
万一にでも「そういうムツさんだって漫画上手いじゃん」とか言われたらそれがその人にとっての本心であろうと私は本当に死にたい気持ちでいっぱいになるからです。
それがその人にとっての本心であろうと。
何でしょう、流れの中とかでなくふと出てきた言葉だと真に受けられるんですけど。
万一にでも気を遣われたという可能性が拭えない流れの中で褒め言葉を貰うのは作品に限った話でなくて苦手なんですけど作品に関しては過剰になってしまいがちです。
というのも私は自分の中で完全に勝手に「神絵師」と「そうでない自分」とを区切ってしまっているからだと思います。
私はいくら親しい人であったとしてもその人が自分の中で神絵師という括りとして認識されているだけである一定の話題に対してはその人達に対して勝手に距離感を感じてしまっているように思います。
そういう垣根抜きに自分の作品を良いと思って下さってる方に対してその認識が失礼なことなんだと分かりながらも区切らずにはいられませんでした。
自分のことを目に留めてはくれない神絵師が多いのは自分が神絵師ではないから、という落とし所が必要だったからです。
…例えば、金銭的な問題を考えなくて良いものとするのであれば安くて味はそこそこのものより高くておいしいものばかり食べていたいと思うのは普通の感覚だと思います。
性格が同じような人であれば顔が普通の人より良い人を選びたいと思うのも普通の感覚だと思います。
自分の絵は誰が見ても上手いものではないから絵の上手い人が自分の作品を見てくれているというのは基本的にすごいことだと思っていて、ありがたいことだと思っています。
(絵を描く人描かない人関係無しに、自分の作品を見て下さってる方々には感謝しかないのですが「顔の良い人達とばかり付き合いのある顔の良い人が普通の自分と付き合ってくれている」ことが特にすごいという話です。)
普通、神絵師はそうでない自分の作品をまず目に留めようとしないんだという当たり前の現実をそれでも私には受け入れて納得するための理由が必要でした。
作品柄であったり人脈であったり、万人が見てくれる創作物なんてまずありません。
ただ、割合的な問題としてやはり「自分と繋がりのある神絵師達」と繋がりのある神絵師には私は見て貰えない傾向にあったなと思うので。
尚、ここまで誰がどうとかそういう話でなく自然の摂理の惨さを私が受け入れるのが下手くそという話です。
誰も悪くはなくて強いて言うなら勝手に意識している自分ただ一人が悪いです。
「作品を見てくれる人が一定数いる」という事実がまず本当にありがたいことでその点については本当に本当にありがたいと思っていて、
正直、神絵師でない括りの中で自分の作品を見て何かを感じて下さった方は本当に多い方だと思えていて、自分はむしろ贅沢な類なのだと思っています。
贅沢な類だと思えていたからこそ神絵師の括りには居なくても自分は創作者としての現状にはとても満足していました。
それでも自分が神絵師の括りには居ないことで発生する「見て頂ける人の母数・持てる関係性の上限」に対する現実は神絵師とそうでないものの区切りがあるという根拠を踏まえておかないと納得しきれませんでした。
だから私は神絵師になりたいとかそういうわけでなく(いや朝起きて気付いたらなってたとかならなりたいですけどそもそもとして私は絵を描くのが好きなわけでなく自己解釈をアウトプットする手段として絵を描いてるタイプなので絵を描く努力とかしたくないから結論として「なりたいわけではない」になるんですが)、それでも「見て頂ける人の母数・持てる関係性の上限」が自分より大きいという意味で「神絵師」という人達が羨ましいと思っています。
(ある神絵師に先日とうとう「神絵師になる努力もしてないのに羨ましいって感情を一方的にぶつけてくるのはずるいと思う」的なことを言われてしまいましたが神絵師になりたいわけでもない(=厳密にはなるための努力を諦めきっている)のに一方的に理不尽な感情をぶつけるのは確かにずるいなと思いました。本当にごめんなさい。)
そんな具合で、私は自分の中で持てているものを見て頂けてることを最大限ありがたいと思いながら、それでも自分では持てないものを持てる人達を私は心底羨んで憧れていて、大好きだと思いながらも一線を引いてしまっていてそんな一線が交流をすると、時々とてもめんどくさい感情を自分の中で生み出していました。
最近だと神絵師分類のフォロワ2人と限界さぎょいぷで盛り上がっている最中「次のイベントどうする~~申し込もうぜ~~」みたいな流れでやいやいするまでは良かったんですけど
「隣接しよう~~~」ってなったとき正直私は心底死にたいと思っていました。
そこで嫌と言えば良かったのかもしれないですけどフォロワ2人的には「仲の良い人が隣に居て欲しい」以上も以下もない感情から出た提案でしかなくて、そこに自分みたいな神絵師だとかそうでないだとかの汚い区切りとか全然加味されていないことが完全に分かっていたので自分の薄汚い感覚でNOとは言えなかったし言ったとしてその理由が「神絵師の隣は現実を思い知らされて嫌だから」だとか完全に「えっ…」て感じだと思うし自分自身、垣根抜きに親しい付き合いをしてくれる二人と気の合う関係を築けてることが何より嬉しかったからNOなんて言いようがなかったんですけど。
神絵師にサンドされた日には死ぬと思っていましたが実際サンドされて死にたいと思っていました。
ジャンルでの活動が長く、自分の本を楽しみにしてくださってる方が一定数いてくださったことは知っていたので両隣は大盛況で自分のスペースだけ閑古鳥なんて事態にはならないことは分かっていたんですがそれでも胃は少し痛かったです。
実際、両隣のフォロワと繋がっているもの自分とは繋がっていない神絵師の方が自分のスペースを避けて両隣に挨拶しているとことか見えたりしたので。
よく見てるなって感じですけど私はたまに神絵師フォロワのフォロワを覗いてわあ、こんなに神絵師からフォローされてる…とか思いながら薄暗い感情になったりとかする性悪自滅くそ野郎なので
(いやでも必要なんですよ…とある神絵師(私は一方的に好きなだけ)の作品についての話を神絵師フォロワ(神絵師とは相互)とするにあたって相手は相互フォロワの気安さとして喋るけど私は一方的に好きな人としての温度差がそこにあることを予め認識して精神を防護しておく必要があるから…)
この辺りをくまなく喋ると大体「見なくて良いとこまで見て、考えなくても良いとこまで考えすぎてるところが生き辛そう」って言われます。
本当にその通りだと思います。
いやそれでもそうやっていろんなところに目を向けるからこそ自分を見てくれる一人一人に対する有り難みを感じられているとも思っていて、だからこそ持てる力の範囲でも自信を持てているとも思っているので私は一長一短なんだと思っています。
逆に自分なんかよりよっぽど「見て頂ける人の母数・持てる関係性の上限」が遥かに広い神絵師のはずなのに自己肯定感の低い人達見ると本当に嫌になります。
大体そういう人達って軒並み「ネットの外のリアルの自分が人間的に問題がある」ところを引きずってるんですけど、そうでなくて、少なくともネットにおける「絵が描ける」ことそれだけで「描けない人」がどう逆立ちしても手に入らない沢山の自信の種と関係の間口がごろごろしてることに気づいて欲しいなあと常々思います。
いやまずフォロワの多さといいねの多さとブクマの多さに目を向けて欲しい。
あいつら大体「カップリングの力だから」「旬のジャンルだから」「女の子だから」とか何とか言うんですけど、過大評価を真に受けない保険にしてるんだか知らないですけど、私からしたらその発言は軽はずみだとしても本当に好きな人も多くて付けてくれてるであろう何百何千の人達からのいいねを蔑ろにしてるようにも取れるから私はそうやって付けられる自信を一向に付けない人を見るのが腹立たしくて嫌いです。
(と思う感情すら自分の劣等感を正当化するためのエゴだと言ってしまえばその通りだとも思うので押し付けるのは良くないですよね、本当に各位には申し訳ない。でも言わなかったとしても内心そう思ってることには変わりなかったです。)
でも気の合う話ができて一緒に居て楽しいと思う人達だってその人達です。
私はその人達の人柄が好きで作品が好きで絵柄が好きで、何より一緒に居て楽しいと思えるからこそ、少しでも自信を持って欲しくてついついそういう感情を吐露しがちなんですが先日いよいよ怒られました。
そういう感情はネット上では見せたくなくて、少しでも信頼してる自分だからこそ打ち明けた部分だったのにSNSで鍵垢で、主語こそださなかったもの特定されかねない形で引用してしまったので。
本当に申し訳ないことをしてしまったなあと思うと同時、それでもやっぱり私は大好きなその人がいつまでも持てる自信を持てないままでいることが嫌で嫌で仕方なかったです。
という感情だけ主張しておけば何かまだ良い感じな風に見えなくもないんですけど私そこに対して「自分の持てないものを持ってる人が自信が無いと惨めな気持ちになる」ってろくでもない私情までぶつけてるから駄目なんですよね
すいません、ごめんなさい、結局私は自分の感情をエゴ込みで吐き出さずにはいられない性分のクソ野郎でした。
でも本当に、もうどうしたら伝わるのか私には分かりませんがそういう感情を吐き出した人達のことが、自己肯定感が低いところを除けば私は本当に大好きです。
前述したようにその神絵師当人にとっては「親しい人との関係」の中に自分の神絵師物差しみたいなくそ概念を突っ込まれて区別した上で会話をしてしまうから、私個人が抱く劣等感由来のあらゆる感情って本当に仲良くしていく上で心底不要なものなんだなと痛感しています。
それでも私にとっては自信の糧になった部分もある切っても切り離せない要素です。
そこを踏まえない友達付き合いを私が徹底できれば何よりなんですけど、付き合いを続けていく中でどうしても一方的な劣等感を押し付けてしまう場面というのは今後どうしたって出てきてしまうように思っています。
冒頭で述べたように極力これきりにしたいとは思いますけど性根としてそういう感情が根付いてることには変わりないです。
ああ、なんか、そういう見方をされていたんだなあと感じてしまったらどうしようもないのかもしれませんがこんなくそみたいな性根を抱えた自分とも、また喋ったり遊んだりして頂けたら嬉しいなあと思います。
自分のことだと思ってる思ってないに関わらずとにかく私というろくでもない人間と関係を築くことを良しとしてくださってるあらゆる方々、本当にいつもありがとうございます。
本当にろくでもない性悪なので自分から遊びに誘うことも憚れる上、実際これからしばらくイベントを断つ身の上でお会いできる機会なんてフォロワが関西に遊びに来てくれるときくらいしかないと思いますが遊びに来た際には誘って頂けたら喜びます、と誘い受けをして締めたいと思います。
あと良かったら前述の記事同様に拡散の上、思ったこと述べて貰えたら嬉しいです。
賛否や縁を切りたい等内容は問いませんのでご意見ご感想お待ちしております。
ここまで吐き捨てきってしまって、またSNSというかツイッターをフォロバする形で性懲りも無く再開するかは正直ちょっと分からなくなってきましたが、ひとまず今まで本当にありがとうございました。
またお会いできたら嬉しいです。
それでは。
どうせこれからしばらく生き甲斐絶つなら、これまで抱えてきた感情とその感情を向けてきたあらゆる対象もろとも心中するくらいの心づもりでいようと思ったので巨大感情をぶつけてから一時撤退することにしました。
誰が見てくれなくてもいいけど見てくれた誰かが刺されてくれたら、それで好きだったその人から嫌われてももう良いやという気持ちで文章にします。
後を濁す気満々で申し訳ない。
(一部方々におかれましては重複してお伝えしている内容ではありますが良かったら今一度受け止めて下さい。)
(一度鍵垢でべらべら喋って怒られたことをまた喋ってるのでいよいよ距離を取られたら寂しいなあと思っていますが極力これきりにしたいので許して下さい、出来ればやっぱり嫌われたくないです)
というのも数値や関係が一目で可視化されている文化圏の中で交流を兼ねながら創作活動をするということが自分には致命的に向いてないと思ったからです。
数値が見えるというのは時として嬉しいものなんですが時としてすごく残酷だと思います。
とりわけ数値で自己と他者とを比較できてしまうという点においては自身の実力を図る手段であり、時として自信になり得る要素でもありましたが、交流していくにあたっては自分にとってはデメリットでしかありませんでした。
まず、自分の創作物というのは贔屓目も謙遜も抜きに見ても、描けない人から見たら描けてはいるもの、絵の上手い人から見たら稚拙だと思われる傾向のものだったと思っています。
なまじ創作物に解釈や感情を埋め込む行為に関しては長けている方だと思ってはいたので、そのときのジャンルやCPによっては目に留めてくれる人が多く、その中にはとても絵の上手い方もいらっしゃった、くらいの。
その辺りの側面はひとまず抜きに、「好み」とかの話でなく、絵の技術的な側面において「絵を描いている人込み」で比較的誰が見ても「絵が上手い」と思われるものを生み出せる技術を私は持っていませんでした。
主観的なものなんだから一概にそんなことはない、なんて言い出せばそうなんですが創作活動を続けていく中で「絵を描く層」を限りなく客観視したとき自分が感じた自身の立ち位置は少なくとも「どちらかといえば上手くない」というものでした。
(「上手くない」「どちらかといえば上手くない」「「どちらかといえば上手い」「上手い」の4段階として)
私が今から話すのはフォロワの中でも上記4段階において「上手い」に属する人=神絵師の方々に対しての感情です。
「神絵師」という判定こそその人の主観でいくらでも変わる認識ですがpixivで1千ブクマを安定して得てるとかフォロワが何万居るとかそういう数値的なものでなく、此処で記す「神絵師」というのはあくまで『絵の技術的な側面において「絵を描いている人込み」で比較的誰が見ても「絵が上手い」と思われるものを生み出せる技術を持てていると私が判断している人』というものであることをまず始めにご理解下さい。
前述の通り、私は自己の脳内ヒエラルキーにおける絵が上手い人種ではありませんでしたが、
前述の通り、なまじ創作物(主に漫画のことなんですが)に解釈や感情を埋め込む行為に関しては長けている方だと思ってはいたのでそこを見てくださった方であったりあるいは横の繋がりであったりで神絵師の類にあたる方々との繋がりがそこそこにありました。
絵がどうとかどうでないとかありにしても無しにしても、とにかく自分と繋がって関係を築くことを良しとしてくださった方なわけですから、その時点で神絵師だとかそうじゃないだとか抜きに交流していければ完結する話なんですが、自分に関してはそれができなかった為しちめんどくさいことになりました。
好きな作品についてや日常の雑談について語るにあたっては「同じ路線の感性」があれば絵の良し悪しとか関係なく楽しめます。
でも、関係を持った人たちが「絵を描く人」である以上、日頃の会話の中にはどうしても「自分たちの作品について」の話題が時として出てきます。
特に女性間で顕著なんですが作品を作る人という括りであればどっちにしろこういった話題が出てくる瞬間が私はとにかく苦手でした。
「Aさんは本当に絵が上手い」「そういうBさんの絵に私は憧れてるんだよな」
フォロワの間でそういう話になる度に私は心底しんどくてたまりませんでした。
そういう流れになるたびに身を潜めて出ていかないようにしました。
実際Aさん、Bさんは自分の中では神絵師で、私自身本当に大好きな作品を生み出す方々ではありましたがその流れで私が「わかる、AさんもBさんもどっちも最高なんだよな」とか話題に乗るなんて死んでもできませんでした。
万一にでも「そういうムツさんだって漫画上手いじゃん」とか言われたらそれがその人にとっての本心であろうと私は本当に死にたい気持ちでいっぱいになるからです。
それがその人にとっての本心であろうと。
何でしょう、流れの中とかでなくふと出てきた言葉だと真に受けられるんですけど。
万一にでも気を遣われたという可能性が拭えない流れの中で褒め言葉を貰うのは作品に限った話でなくて苦手なんですけど作品に関しては過剰になってしまいがちです。
というのも私は自分の中で完全に勝手に「神絵師」と「そうでない自分」とを区切ってしまっているからだと思います。
私はいくら親しい人であったとしてもその人が自分の中で神絵師という括りとして認識されているだけである一定の話題に対してはその人達に対して勝手に距離感を感じてしまっているように思います。
そういう垣根抜きに自分の作品を良いと思って下さってる方に対してその認識が失礼なことなんだと分かりながらも区切らずにはいられませんでした。
自分のことを目に留めてはくれない神絵師が多いのは自分が神絵師ではないから、という落とし所が必要だったからです。
…例えば、金銭的な問題を考えなくて良いものとするのであれば安くて味はそこそこのものより高くておいしいものばかり食べていたいと思うのは普通の感覚だと思います。
性格が同じような人であれば顔が普通の人より良い人を選びたいと思うのも普通の感覚だと思います。
自分の絵は誰が見ても上手いものではないから絵の上手い人が自分の作品を見てくれているというのは基本的にすごいことだと思っていて、ありがたいことだと思っています。
(絵を描く人描かない人関係無しに、自分の作品を見て下さってる方々には感謝しかないのですが「顔の良い人達とばかり付き合いのある顔の良い人が普通の自分と付き合ってくれている」ことが特にすごいという話です。)
普通、神絵師はそうでない自分の作品をまず目に留めようとしないんだという当たり前の現実をそれでも私には受け入れて納得するための理由が必要でした。
作品柄であったり人脈であったり、万人が見てくれる創作物なんてまずありません。
ただ、割合的な問題としてやはり「自分と繋がりのある神絵師達」と繋がりのある神絵師には私は見て貰えない傾向にあったなと思うので。
尚、ここまで誰がどうとかそういう話でなく自然の摂理の惨さを私が受け入れるのが下手くそという話です。
誰も悪くはなくて強いて言うなら勝手に意識している自分ただ一人が悪いです。
「作品を見てくれる人が一定数いる」という事実がまず本当にありがたいことでその点については本当に本当にありがたいと思っていて、
正直、神絵師でない括りの中で自分の作品を見て何かを感じて下さった方は本当に多い方だと思えていて、自分はむしろ贅沢な類なのだと思っています。
贅沢な類だと思えていたからこそ神絵師の括りには居なくても自分は創作者としての現状にはとても満足していました。
それでも自分が神絵師の括りには居ないことで発生する「見て頂ける人の母数・持てる関係性の上限」に対する現実は神絵師とそうでないものの区切りがあるという根拠を踏まえておかないと納得しきれませんでした。
だから私は神絵師になりたいとかそういうわけでなく(いや朝起きて気付いたらなってたとかならなりたいですけどそもそもとして私は絵を描くのが好きなわけでなく自己解釈をアウトプットする手段として絵を描いてるタイプなので絵を描く努力とかしたくないから結論として「なりたいわけではない」になるんですが)、それでも「見て頂ける人の母数・持てる関係性の上限」が自分より大きいという意味で「神絵師」という人達が羨ましいと思っています。
(ある神絵師に先日とうとう「神絵師になる努力もしてないのに羨ましいって感情を一方的にぶつけてくるのはずるいと思う」的なことを言われてしまいましたが神絵師になりたいわけでもない(=厳密にはなるための努力を諦めきっている)のに一方的に理不尽な感情をぶつけるのは確かにずるいなと思いました。本当にごめんなさい。)
そんな具合で、私は自分の中で持てているものを見て頂けてることを最大限ありがたいと思いながら、それでも自分では持てないものを持てる人達を私は心底羨んで憧れていて、大好きだと思いながらも一線を引いてしまっていてそんな一線が交流をすると、時々とてもめんどくさい感情を自分の中で生み出していました。
最近だと神絵師分類のフォロワ2人と限界さぎょいぷで盛り上がっている最中「次のイベントどうする~~申し込もうぜ~~」みたいな流れでやいやいするまでは良かったんですけど
「隣接しよう~~~」ってなったとき正直私は心底死にたいと思っていました。
そこで嫌と言えば良かったのかもしれないですけどフォロワ2人的には「仲の良い人が隣に居て欲しい」以上も以下もない感情から出た提案でしかなくて、そこに自分みたいな神絵師だとかそうでないだとかの汚い区切りとか全然加味されていないことが完全に分かっていたので自分の薄汚い感覚でNOとは言えなかったし言ったとしてその理由が「神絵師の隣は現実を思い知らされて嫌だから」だとか完全に「えっ…」て感じだと思うし自分自身、垣根抜きに親しい付き合いをしてくれる二人と気の合う関係を築けてることが何より嬉しかったからNOなんて言いようがなかったんですけど。
神絵師にサンドされた日には死ぬと思っていましたが実際サンドされて死にたいと思っていました。
ジャンルでの活動が長く、自分の本を楽しみにしてくださってる方が一定数いてくださったことは知っていたので両隣は大盛況で自分のスペースだけ閑古鳥なんて事態にはならないことは分かっていたんですがそれでも胃は少し痛かったです。
実際、両隣のフォロワと繋がっているもの自分とは繋がっていない神絵師の方が自分のスペースを避けて両隣に挨拶しているとことか見えたりしたので。
よく見てるなって感じですけど私はたまに神絵師フォロワのフォロワを覗いてわあ、こんなに神絵師からフォローされてる…とか思いながら薄暗い感情になったりとかする性悪自滅くそ野郎なので
(いやでも必要なんですよ…とある神絵師(私は一方的に好きなだけ)の作品についての話を神絵師フォロワ(神絵師とは相互)とするにあたって相手は相互フォロワの気安さとして喋るけど私は一方的に好きな人としての温度差がそこにあることを予め認識して精神を防護しておく必要があるから…)
この辺りをくまなく喋ると大体「見なくて良いとこまで見て、考えなくても良いとこまで考えすぎてるところが生き辛そう」って言われます。
本当にその通りだと思います。
いやそれでもそうやっていろんなところに目を向けるからこそ自分を見てくれる一人一人に対する有り難みを感じられているとも思っていて、だからこそ持てる力の範囲でも自信を持てているとも思っているので私は一長一短なんだと思っています。
逆に自分なんかよりよっぽど「見て頂ける人の母数・持てる関係性の上限」が遥かに広い神絵師のはずなのに自己肯定感の低い人達見ると本当に嫌になります。
大体そういう人達って軒並み「ネットの外のリアルの自分が人間的に問題がある」ところを引きずってるんですけど、そうでなくて、少なくともネットにおける「絵が描ける」ことそれだけで「描けない人」がどう逆立ちしても手に入らない沢山の自信の種と関係の間口がごろごろしてることに気づいて欲しいなあと常々思います。
いやまずフォロワの多さといいねの多さとブクマの多さに目を向けて欲しい。
あいつら大体「カップリングの力だから」「旬のジャンルだから」「女の子だから」とか何とか言うんですけど、過大評価を真に受けない保険にしてるんだか知らないですけど、私からしたらその発言は軽はずみだとしても本当に好きな人も多くて付けてくれてるであろう何百何千の人達からのいいねを蔑ろにしてるようにも取れるから私はそうやって付けられる自信を一向に付けない人を見るのが腹立たしくて嫌いです。
(と思う感情すら自分の劣等感を正当化するためのエゴだと言ってしまえばその通りだとも思うので押し付けるのは良くないですよね、本当に各位には申し訳ない。でも言わなかったとしても内心そう思ってることには変わりなかったです。)
でも気の合う話ができて一緒に居て楽しいと思う人達だってその人達です。
私はその人達の人柄が好きで作品が好きで絵柄が好きで、何より一緒に居て楽しいと思えるからこそ、少しでも自信を持って欲しくてついついそういう感情を吐露しがちなんですが先日いよいよ怒られました。
そういう感情はネット上では見せたくなくて、少しでも信頼してる自分だからこそ打ち明けた部分だったのにSNSで鍵垢で、主語こそださなかったもの特定されかねない形で引用してしまったので。
本当に申し訳ないことをしてしまったなあと思うと同時、それでもやっぱり私は大好きなその人がいつまでも持てる自信を持てないままでいることが嫌で嫌で仕方なかったです。
という感情だけ主張しておけば何かまだ良い感じな風に見えなくもないんですけど私そこに対して「自分の持てないものを持ってる人が自信が無いと惨めな気持ちになる」ってろくでもない私情までぶつけてるから駄目なんですよね
すいません、ごめんなさい、結局私は自分の感情をエゴ込みで吐き出さずにはいられない性分のクソ野郎でした。
でも本当に、もうどうしたら伝わるのか私には分かりませんがそういう感情を吐き出した人達のことが、自己肯定感が低いところを除けば私は本当に大好きです。
前述したようにその神絵師当人にとっては「親しい人との関係」の中に自分の神絵師物差しみたいなくそ概念を突っ込まれて区別した上で会話をしてしまうから、私個人が抱く劣等感由来のあらゆる感情って本当に仲良くしていく上で心底不要なものなんだなと痛感しています。
それでも私にとっては自信の糧になった部分もある切っても切り離せない要素です。
そこを踏まえない友達付き合いを私が徹底できれば何よりなんですけど、付き合いを続けていく中でどうしても一方的な劣等感を押し付けてしまう場面というのは今後どうしたって出てきてしまうように思っています。
冒頭で述べたように極力これきりにしたいとは思いますけど性根としてそういう感情が根付いてることには変わりないです。
ああ、なんか、そういう見方をされていたんだなあと感じてしまったらどうしようもないのかもしれませんがこんなくそみたいな性根を抱えた自分とも、また喋ったり遊んだりして頂けたら嬉しいなあと思います。
自分のことだと思ってる思ってないに関わらずとにかく私というろくでもない人間と関係を築くことを良しとしてくださってるあらゆる方々、本当にいつもありがとうございます。
本当にろくでもない性悪なので自分から遊びに誘うことも憚れる上、実際これからしばらくイベントを断つ身の上でお会いできる機会なんてフォロワが関西に遊びに来てくれるときくらいしかないと思いますが遊びに来た際には誘って頂けたら喜びます、と誘い受けをして締めたいと思います。
あと良かったら前述の記事同様に拡散の上、思ったこと述べて貰えたら嬉しいです。
賛否や縁を切りたい等内容は問いませんのでご意見ご感想お待ちしております。
ここまで吐き捨てきってしまって、またSNSというかツイッターをフォロバする形で性懲りも無く再開するかは正直ちょっと分からなくなってきましたが、ひとまず今まで本当にありがとうございました。
またお会いできたら嬉しいです。
それでは。
モテない男が積極的にアプローチするとキモいと言われる、みたいな話があるけれど、積極的をそもそも勘違いしている。
相手の女性に対して、何がどう好きで一緒にどうしたいのか、を説明することが出来ない。
どこがどう好きなのか言えないのであれば、積極的にアプローチしても、それはただヤリタイだけと捉えられても仕方がない。そして、ヤリタイだけでがっつく男をキモいと言われてもしょうがない。そこに容姿は関係ない。
ところで、モテない男は全てを受け入れる聖女を望んでいる、みたいな話がある。
私が思うに、どちらかというと、モテない男は全てを受け入れるのが愛情だと考えていて、相手にもそれを求めているような気がする。それで聖女を望んでいると見えるのだろう。
現実的に容・性格・社会的地位など全てを受け入れることは難しく、個々人の物差しで減点法でも加点法でも合格点なら十分としているのに、モテない男はそれを知らない。
減点があっても加点がそれ以上なら魅力になり得る事を知らない。
とりあえず、まずはセックスがゴールではないと考えを改めるべき。