恋愛工学そのものは好きだった。ラポールやリフレーミングの概念を知ったのは、恋愛工学だ。それらは今日でも役に立っている。
しかし、恋愛工学に群がる彼らのことは嫌いだ。できれば人生でもう二度と関わりたくない。
彼らは自分たちの持つ物差しが絶対唯一なものと信じている。モテ・非モテというシンプルな構造だからこそ分かりやすい。恋愛工学を使ってたくさん女性を抱いたり、生涯添い遂げられるような相手を見つけた人が偉い。偉い人はサロンを始めたりして影響力を誇示する。それを達成できない者は下に見る、そしてモテ・非モテ軸を否定する者は迫害する。そんな連中だ。
そも、これだけ文化が発展した現代で、男の序列だけが旧世代のまま進化していない。にも関わらず、彼らは人に対する影響力でしか人を見ない。影響力のある人(そしてそれが自分の考え方に合う場合のみ)にしか敬意を表さない。分かりやすいのがモテ・非モテ軸だ。
自分が勝てる土俵でしか戦わないというのは、何事においても正解だと思う。おそらく彼らは、自分が勝てるモテ・非モテ軸の価値を下げたくないと思っているのだろう。
彼らはセックスをすることができない人を貶す。「本当はセックスしたいと思っているのに」彼らの口癖だ。
恋愛工学を学んで、確かに幾ばくかの女性とセックスをした。だからなんなのだ。そこに求めるものはなかった。相手が自分のことを好きでいてくれるほど、自分の心は空虚になっていく。
彼らには理解できない思考だとも思う。彼らはモテ・非モテ軸がなくなったら、勝てる土俵がひとつなくなってしまうのだから。
恋愛工学が人を性犯罪者にするのではなく、もともと「権力のヒエラルキー」とか「支配欲」が強い人が集まりやすいだけだと思う。
包丁が殺人に使われたからといって、交通死亡事故が起きたからといって、包丁や車を悪くいう人は多くない。恋愛工学の概念を悪用する人間、しかもそれを悪と思っていない人間がいるのが根本的問題だと思う。
だから、僕は彼らのことが嫌いだ。
恋愛工学を使ってたくさん女性を抱いたり、生涯添い遂げられるような相手を見つけた人が偉い。 彼らはセックスをすることができない人を貶す。 だからこそ、恋愛工学批判には人一...