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はてなキーワード: パスポートとは

2019-05-16

anond:20190516073418

子持ちの事攻撃してるけど老後のあんたの事支えるんだから〜的なブコメを見るとしょぼくれてしま

じゃあどうすりゃいいんだ

結婚もできない子供も作れない

でも働かなきゃ生きていけない

結婚しなければ半人前と見下されいつまでも独身だと痛い奴だと思われる

かと言って友達も作れないほどコミュニケーションをとるのがしんどくて自己肯定感がなくプライドが高く人との会話が怖い

itパスポートとか簡単資格しか取得できず簿記2級も5回受けて落ちる

2019-05-11

ロシア広島って似てるよね

友人が来週から旅行に行くんだけど、今までずっと広島に行くんだと思ってた。車で数時間距離なのに半年も前から計画立ててるから、どんだけ楽しみにしてるんだよって

今日パスポートの話しになって、実はロシアに行くことを知った

ロシア広島の違いを教えてください

2019-05-10

文系学問において資料実在証明するものとは何か

久々にビッグ研究不正ニュースktkr

ということでキリスト教思想史研究やってた人が研究不正で懲戒解雇された件について、報告書に目を通した上でちょっと書きます

今回調査委員会被告発者に求めたのは、以下の項目でした。

この「写し」というのはどういうことでしょうか? 資料のもの調査委員会が求めなかったのはどういうわけでしょうか?

歴史学者にとっては常識なのですが、他の分野の人にとってはどうかわからないので、解説してみます

そもそも文系はどんな材料を使って研究してるのか

これは人というか研究分野によるので、安易なことは言えません。文学哲学社会学人類学歴史学言語学とでは使う資料がぜんぜん違います

で、この被告発者の研究手法は、近現代を扱う歴史家の多くが採用している手法だと思います近現代史を扱う人たちは、

を主に史料として使います(「史料」ってのは、歴史を記録したナマの資料のこと。「資料」と呼ぶと後世に書かれた二次文献なんかも含む)。あるいは、上に書いたようなものをまとめて出版した本とかを使います

これらの史料の特色とは何か……それは、

ことです。

公文書館というのは、「お役所の書いた書類を保管しておく施設」のことです。これはどのくらいかというと半永久的にです。普通文明国ならどんなに細かな書類でも公文書館に保管されていて、(民主国家場合は)数十年して機密解除されたり(独裁国家場合は)体制崩壊して民主化したりすることによって「申し込めば誰でも読める」状態に置かれます。これによって我々はソ連時代領収書なんかをロシア公文書館で読むことができるわけです。ソ連ですら公文書を保管して後世の我々に見せてくれているというのに……いや、これは余談でした。

当たり前ですが、それらはその国(あるいは地方)の公的な記録であって、自分のものにして持ち帰ったりすることはできません。ではどうするか。多くの歴史学者

などの手段史料を入手して研究しています(ちなみに写真撮影もカネを取る公文書館結構ありますね。日本だとどうなんでしょ)。

昔の人が書いたものも、本とかなら古本屋さんとかで流通しているのを買うことができるかもしれませんが、稀覯書でなかなか手に入らなかったり、古雑誌バックナンバーとか揃えるの無理ゲーだったりするので、図書館に所蔵されているのを使うことが多いです。近場の図書館に置いてない? 相互貸借もさせてくれない? そういう場合は当たり前ですが所蔵している図書館がある街まで行きます。その図書館がある街というのが新幹線必要距離だったりパスポート航空券がないと行けない距離だったりすることも稀によくある(歴史学者研究費は旅費と本代に消えていく運命なのです……)。そして、辿り着いた図書館カメラをパシャパシャやったりコピーを黙々と取ったりするわけです(最近スキャナーが普及してくれてマジ嬉しい)。

なので、調査委員会は「一次資料の写し」を求めたわけですね。たとえ彼が清廉潔白研究者であったとしても、一次史料原本なんてふつうは手元にないわけですから

しかし、本来、彼は「一次資料の写し」を提出する必要などありませんでした。自分論文を黙って調査委員会に提出すればよかったのです。なぜでしょうか?

ここで、もう1つの大事な話をします。

文系に「実験ノート」はない

もちろん分野によります心理学みたいに人を対象とした研究だとしっかり実験ノートつけるように言われるかもしれないし、考古学とかは発掘時の状況を克明に記録しておくことが重要だったりするかもしれない。でも、少なくとも近現代史みたいな分野では、実験ノートをつける、という習慣はありません。

私は一度も、理系で求められるような意味での実験ノートを書いたことはないし、書けと言われたこともないし、書いていないことを理由に責められたこともありません。もちろん史料ノートに筆写したりはしていますが、そのノートだって別に厳密なものではない。普通研究においてノートは使いますが、それは高校までのノートと一緒で、鉛筆で書いてもいいし、好き勝手なやり方で書いていいし、なんなら途中で破ったりしてもいいごく普通ノートです。最近ノートじゃなくてパソコンとかを使って研究上のノートを取ってる人も多いんじゃないかな(手書き疲れるもんね……)。

なぜか? と言われれば、

です。

まり、「もとになった資料」というのは、理系のように自分実験室の試験管の中にしかないものではなく、別の誰かが保管してくれているものなのです。

理系学問において標準化された改竄不可能な形で実験ノートをつけなければならないのは、自分実験室の試験管の中にしかオリジナル資料がないからですよね? しか文系場合は、少なくともここまで説明した近現代史場合は、オリジナル資料はどこかの政府管理している公文書館とかどこかの大学図書館かに保管してあるわけで、そこに辿り着くまでの情報さえ明記してあればそれで十分なのです。これはドイツ連邦共和国ベルリン連邦文書館の何々というファイルに保管してある何というタイトル史料だ、とわかれば、チェックのためにはそこに見に行けばよいし、これは19世紀に書かれたほにゃららという新聞に載っていた記事である、と書いてあれば、その新聞が所蔵されている図書館を探して読んでくればいいわけです。

なので、別にどんな方法ノートを取ろうが自由なわけですね。最終的に読者がその元になったデータを見つけられるようにしておけばいいわけから

ゆえに、歴史学論文や著書には膨大な注がつけられます引用した史料のそれぞれについて「どこに保管されている史料なのか」「なんという本の何ページに書いてあることなのか」ということを書かないといけません。

なかには、史料自分の手元にある場合もあります。多くの場合それは「昔の人が出版した商業出版物」なので(たとえば、極端な例ですが『わが闘争』)、他の誰かも持っていることが多いです。もしそういう史料捏造とかしちゃうと「俺もこの本持ってるんだけど、お前が引用してる箇所見つからなかったよ?」という怒られが発生します(なお、捏造ではないですが誤訳指摘は受けたことがあります。コワイ! でも覆面査読なのにこの文献の誤訳を指摘できるってことはあの人しかいないじゃん……ってわかっちゃう! 文系世界基本的に狭い!)。「むっちゃ少数しか発行されなかった自費出版の本」とかが典拠になっている場合もあります。こういう史料典拠にするのも仕方ない場合があるんですよ……典型的には、そこまで有力ではなかった政治家とか在野の知識人とかを研究したい場合、彼らが出してる本は全部自費出版というのがありえます(あと、言語学とかだと、たとえば与那国島方言研究したい場合に一番の参考資料になるのは与那国島のお年寄り自費出版した方言辞典だ、みたいな例がありまして……与那国町が進めてる辞書出版プロジェクトむっちゃ楽しみ)。ごくごく稀に、古本屋歴史上の人物が書いた手紙の山をまるごと購入できた、みたいな奇跡があって、モノホンの一次史料研究個人の所蔵になっている場合があります。これはねえ……もう本当に個々の研究者の良心を信じるほかないよね……若手研究者だと色んな大学を移り歩くこともあるだろうから所属してる大学図書館寄付しろとも言えないしね……原史料出せって言われたときにすぐに見せられるようにしておいてね、定年退職するときは勤務校の図書館に置いていってよ、とお願いするくらいしかできない感じはあるよな……

さて、長々と書いてきましたが、要するに、捏造を疑われた研究者がきちんと注で出典を書いていれば、彼は論文調査委員会の人たちの前に突きつけて「ここに出典書いといたから、見に行って確かめてこい」と言えばそれで済んでいたのです(それが生データにあたるものなので。実際、今回の調査委員会ドイツに問い合わせたりしていますね)。もっと言えば、彼本人から話を聞く前に、調査委員たちはまず典拠との照合作業を行って、彼が誠実に引用したこと、つまり彼が研究不正に手を染めてはいないことを確認してくれていたでしょう――もしも彼が潔白であったならば。

しかし今回の件では、注に不備があったので調査委員たちは注から出典を辿ることができませんでした。そこで被告発者に「写し」を求めた結果、元となる史料そもそも存在しない、捏造されたものであることが判明したわけです。

注をしっかりつけろよ! まことにごもっとも。特に今回のケースは注の多い学術書であり、注の不備は申し開きができません。しかし、しかしです、この背景には、日本出版事情が絡んでいるのです。

「注がない本」問題

今回の被告発者は、学術書のほかに新書も書いていました。多くの新書には、参考文献リストはありますが注はありません。そして日本には、「研究者が書いた真面目な学問に関する本だが、注がない」というのが一定数あります(一応言っておくと、ここではauthor-date方式みたいな「厳密な意味での注じゃないけど、ともかくも出典を示す機能を担っているもの」も含めて注と呼んでいます)。実はこれ、文系あいだでも問題視されていることなのです。

文系学者が書いた学問に関する著書には、明白に書誌情報として区分されているわけではないですが、いくつかの区分があります第一にいわゆる狭義の「学術書」。むっちゃ小難しい語彙で書かれてて、先行研究とか新規性かに一言及して、参考文献を何十ページも載せてたりするやつです。読者は同じ学者、あるいはその卵。これで注を省くのは論外です。第二に「教科書」。これは学生さんとか初学者向けに易しく書き、内容には特に新規性を求められておらず、包括的な参考文献はなくとも読書案内がついていればそれでよし、という感じでしょう。注は別になくたっていい。

そしてこの2つのあいだには、「一般向け」という広大なグレーゾーンが広がっています

あなた読書好きで、少々お硬い本にも興味があるのなら、中公新書とか講談社選書メチエとかそういったレーベルを聞いたことがあるでしょう。岩波書店青弓社社会評論社といった出版社の名前を聞いたことがあるでしょう。実はこの辺、色々な種類の本が入り交じるグレーゾーンなのです。

これらのレーベルで真面目な学術書出版する人もいます講談社選書メチエでも、末尾にビッチリ注がついてたり参考文献リストがあったりするやつあるでしょ? ああいうやつ。一方で、こういうレーベル一般向けの概説書・入門書を書くことに使う人もいます。よく中公新書で、包括的タイトルで薄めの本を見ることがあるでしょ? 今回の『プロテスタンティズム』もそれですね。そして、一般向けの解説を書きながら、さり気なくその中で新しい見方提唱したりする人もいます学術的な新規性のある内容を、一般受けしそうだという理由で限りなく一般向けの本の体裁で書く人もいます最近のやつだと『姦通裁判』マジお勧め)。

さて、こういう本を出す上では、内容は著者の完全な自由にはなりません。編集者は、もちろん学術的に正しい内容を求めているのでしょうが、彼らにとって重要なのは「売れること」です。そのために「一般向けにもうちょっと柔らかい言葉遣いで書いてください」とか色々と内容に介入してくるわけです。文体くらいなら別に構わないかもしれませんが、彼らの中にはこんな要求をしてくる人もいます「注なんてつけたら一般読者に嫌がられます、注は省きましょう」

こうして生まれるのが、「学術的に新規性が高く面白い内容を扱っているのだが、注がない」という一般書の群れです。

もちろんこういった本にも参考文献はあり、「注はないけど、典拠を探しながら読めば典拠がわかるような書き方になっている」本もそれなりにあります(たとえば、はてな太郎の説によれば、と本文中に書いてあれば、注がなくても参考文献リストはてな太郎が書いた『増田研究』という本を探し出せる)。ただ、やっぱりそれは注がある文献の出典表示の厳密さに比べれば一段劣るわけです。

これに関しては、研究者も出版社もそれぞれに問題があります研究者サイドは簡単に「注を省け」なんて要求妥協すべきじゃないし、そもそも「著書を出版する」ことが、博士論文を見るためにはわざわざ学位を授与した大学国会図書館に行くほかなく出版して書店流通させることが最も良い研究成果の流通のさせ方だった時代であればともかく、各大学リポジトリを持っていていくらでもディジタル研究成果を公表できる時代にあって本当に重視されるべきか考え直す必要があるでしょう(でも、欧米出版社でも学術出版は盛んなので、これは日本だけの問題じゃないんですよねぇ。今でもオックスフォードケンブリッジハーバードコーネルといった有名どころのUniversity Press学術書出版しまくってます学術書研究業績として重視されるのは人文系では割と世界標準なので……)。

一方で、出版社は注をもっと重視するべきです。というよりも、日本出版社やジャーナリストノンフィクション作家は注をつけなさすぎます。先日、ボブ・ウッドワードトランプ大統領についてのルポルタージュ出版しましたが、体裁も内容もおおよそ学術的とは呼べない一般書そのものの本なのに、きちんと出典を示す注がついていました。出版社は、学者に注を削れと言うべきではなく、ノンフィクションを書く作家記者たちに注をつけろと言うべきでしょう。

とはいえこれは一朝一夕はいきません。そもそも知の折り詰めである新書」という形態が割と日本独自のもので、そういう一般学術を橋渡しするレーベルが広く一般読者に読まれていることの重要性というもの鑑みると、簡単になくせとか言えません。私も色々お世話になってるし。人口1億人ちょいの書籍市場ではどうしたって限界があり、色々な本を出すのではなく折衷的な本を1冊出すのが経済学的には最も合理的という考え方だってあるでしょう。ただ、やっぱり一般書にも(それこそ講談社ブルーバックス岩波新書レベルにも)注を入れるようにする、というのは必要だと思うのですよね。

さてここまで「注がない本」問題について解説してきました。でも何が一番言いたいかというと、

注はあなたの身を守るためにある

これ。これに尽きます。注はちゃんとつけよう。もしもあなた捏造者でなくとも、研究不正をしていなくとも、実験ノートをつけない我々の業界において潔白を証明してくれるのは注だけなのだから。注だけが資料実在証明してくれるのだから。本の売上よりも、あなたの保身のことを考えよう。あなたが、部屋が汚いとかハードディスクがお亡くなりになったとかパソコンの買い替え時に行方不明になったとかの色々な理由で、史料の「写し」を紛失する日はきっと訪れる。そのときに、これまでのあなた研究の誠実性を証明できるのは、人文系学問においては、注だけなのだ

以上です。駄文に長々と付き合ってくださりありがとうございました。続きはanond:20190511125053で。

2019-04-27

anond:20190427005837

私は短大卒で

マイクロオフィススペシャリスト

日商簿記2級

ビジネス検定

ITパスポート

資格を取ったけど、事務正社員仕事ほとんど落とされた。

派遣事務をやったあとにjavaを独学でやって、未経験からシステムエンジニアになった。

システムエンジニアデザイナーは細かい打ち合わせや会議取引先とのコミュニケーションもあるし、チームワークが大事仕事

ひとりで黙々やりたいなら絶対に向いてない。

食品加工とか警備員とかどうでしょうか?

2019-04-26

日本パスポートが信用されている理由経済力だとしたら

10年後には無価値になってるのかね

それとも信用性が高い理由戸籍をまんま共有してるとか何か別の裏取引でもあるのかね

東大生の母が上野千鶴子祝辞を読んで思ったこと。

我が子はいわゆる発達障害児だった。小さい頃から東大を目指してがんばってきたわけではない。周りの子供と同じように田舎公立中学校へ通ったし通塾などはしたことがない。本人が「自分と話が合う人が多そうだから」と希望したので高校私立へ進んだが、受験直前も夜10時には寝ていた。彼にとって、中学までの学校生活はつらいことも多かったと思う。けっこうトラブルもあった。高校では水を得た魚のようで、本当にほっとした。同級生我が家より裕福な家庭の子弟が多かったが、特に疎外感をもつほどではなかったようだ。

夫はサラリーマン、私はパート主婦で、東大へは「行かせてやれないことはないが余裕はない」レベル経済状況だ。本人が東大を志望し合格した時は、もちろんうれしかったが不安も大きかった。彼に一人暮らしができるレベル生活能力があるとは思えなかったし、十分なサポートをするだけの時間的経済的余裕が我々夫婦にはなかった。危惧したとおり様々なことがあった。今も、このまま無事社会にでて自立してくれればと祈るような気持ちだ。

実は、私自身も今なら発達障害者と言われていただろう人間だ。親や周りからぼこぼこにされながら生きてきた、という恨みのようなものも抱えている。反面、「出来が悪い普通の人」として生きてこられた自分は「恵まれている」という思いもある。我が子は、東大に入ったことで、かえって生きる道を狭めてしまったのではとすら考えることがある。

彼は「東大なら自分能力が生かせる」「自分と同じような人、もっとすごい人と出会える」という希望を抱いて東大入学したのではないだろうか。しかし、本当にそうだったのか。上野氏の祝辞は、彼に響いただろうか。東大にあの言葉が響く「恵まれた」学生が多いのなら、私は失望しかない。「恵まれた」とカッコ書きにするのは、彼らを恵まれていると思えないからだ。肥大化したエリート意識を持ち想像力が乏しく、東大合格によって自分の将来が約束されたと誇らしく思う人々、上野氏の祝辞言及された社会の諸問題や「恵まれない人」のことを今まで考えたこともなく、「初めて考えた、心に響いた」と思うほど無知で愚かな人々…彼らは本当に「恵まれている」のか?

いわゆる裕福な家庭で小さなから学力を高める教育を受けてきた子、そういう子に負けずに「エリート」へのパスポートを得ようとがんばってきた裕福ではない家庭の子東大にはその二者しかいないのか? いってみれば「東大くらいしか行き道がなかった」子は少数なのだろうか。学問の道ならば自分の生きるすべがあると希望を抱いて入学する人々は、この大学には数少ないのだろうか。

上野氏の祝辞は少なくとも私には響かなかった。全体に雑で学者なのか疑わしく思う。「自閉症マザコンのせい」といったとんでも発言で名を馳せた人らしいですね、と皮肉をいいたくなった。「弱くダメな人、他者からまれないとみなされがちな人」を社会にどう包摂していくか、そもそも「弱くてダメ」「恵まれない」とみなしていることに間違いはないのか、そこに価値がないのかを考えることが学者仕事では。

人選をした東大もどうかと思う。コミュ力が高くてはったりが効く外部の人間を人寄せパンダのように登用するのはやめて、大学でしっかりと研究をして実績を積んだ人々を縁故世間受けなどと関係なく登用していくほうが(されていないとはいっていない。実態を知らないので)、長い目で見れば大学価値を高めていくのではないだろうか。

2019-04-25

anond:20190425152112

パスポートを見せられた高齢女性はどのような反応でしたか

日本人ですが?」で会話が終わったのですか?

白人風の女性が降りた後、高齢女性はどのような様子でしたか

anond:20190425153321

いや、苛立ってないとおもうよ。

すぐさまパスポート見せたってことは普段そういうのに遭遇してて(ここからゲスパーから「私ってそんな外国人みえる~?w」とか言ってて「また外国人に見られた」とかいちゃうようなタイプだろ。

苛立ってるように見せかけて心の中で承認欲求に満たされてるに違いない。

anond:20190425152357

ガチレスすると日本国内でもパスポートがないと碌にサービスを受けられない地域存在してるぞ。

最も有名なのだ北海道ニセコ。あとは都内にも…神奈川県にも…埼玉県にも…

anond:20190425152112

夜中に町をプラプラしてたら警察に捕まった。

パトカーが俺のそばに止まって警官が2人出てきて俺を囲んだ。

警「ドゥーユーハヴパスポート?」

俺「ノー」

すかさず確保される俺。

警「ニホンゴワカル?」

俺「はい

警「どこから来たの?」

俺「…ぐんま」

警「ミャンマー?」

俺「ぐんま」

警「グンマーね。ビザは持ってるの?」

俺「持ってないです」

警「はい、じゃあパトカー乗って」

パトカーに乗る俺。

警「名前は?」

俺「山田太郎仮名)」

警「日系人?」

俺「日本人です」

警「え?」

俺「日本人ですよ」

警「…えっ?」

俺「免許証ます?」

免許証を見せる俺。絶句する警官

警「…すいませんでした…不法入国の人かと思って…」

警「…あの、その、お顔とかが、ちょっと外国の方みたいだったので…」

俺「帰っていいすか?」

警「…はい…。お気をつけて…」

それでやっと解放された。

その日を境に俺のあだなは「ネパールからグンマー」になった。

anond:20190425152112

パスポートって国内の移動でも持つもんなの?

普段持ち歩くのなんか保険証免許証ぐらいだわ

バス高齢女性白人風の女性が話していた

日本語お上手ですね。留学生ですか?」

すると白人風の女性が鞄からあるものを取り出した。

正真正銘日本国パスポートだった。

「生まれも育ちも日本ですが?」

白人風の女性は苛立ちながらバスを後にした。

itパスポート、基本技術者、応用技術者の順番で取らないとダメなんだろうか。

ほぼ未経験からプログラマー転向したいんだけど、ITの基礎知識あやふやなのでそこを補うつもりで資格取っておきたい。悩む。

2019-04-24

外務省貴様らがパスポートの偽造チェックを行うことは認めない。よって公開鍵を公開しない」

これだけじゃねぇの

anond:20190424130233

マイナンバーカードがもう少し身分証明として使いやすかったらなあ。別に納得して返納したんならいいんだけど、警察の人が説得する気持ちちょっとわかるなあ。友達免許取って20年一回も運転してないけど持ってるよ。使ってないじゃんっていうかもしれないんだけど、身分証明として免許証が一番便利なんだもんなあ。

同僚に免許持ってなくてパスポート身分証明してる人いるけど、パスポート重要書類から免許取っておけば良かったなって言ってたよ。マイナンバー身分証明しようとしたけど、確認する側が受け取ってくれないんだって。もう50代だから免許取らないけど不便だよって言ってたよ。

免許取って2年だと身分証明としての便利さ実感してないうちに返納しようとしてるんじゃないかと思って警察も止めたんじゃないの?まあ返納したら返納した証明はもらえるんでしょ?ならいいんじゃない。

2019-04-04

燃え尽きちまった哀しみに

やりたいこと、というか、趣味を探してる。

燃え尽きてしまって、空っぽになった毎日があまり空虚で。

仕事は幸いなことに、自由時間たっぷりあるノマドワーク。お金トントンだけど、充分すぎるほど恵まれ環境

煩わしい人間関係もなく、仕事ストレスはない。

だけど、空っぽな今埋められない。

思い立って、しまなみ海道サイクリングにきた。初心者向けの半日コースクタクタ

体力ある方だと思ったけど、向いてない?

二度としない。

景色は素晴らしかたから、フェリーアイランドホッピングベスト

合わなかった事が分かった、それも大事経験

来週は友人とUSJ

アラフォーにもなって遊園地の楽しさに目覚めてしまった。

からお互い独身なのか?

大人が楽しめる遊園地もっと増えればいいのに。

GW本業休みなので、日雇いバイト入れまくる予定。

人混みに出掛けるなんて冗談じゃない。

ここでお小遣い稼いで、台湾に弾劾旅行計画中。

行こうと思って1年以上たってパスポートすら更新してない。

このままではいかん、と友人に宣言

とりあえず、行ってみる。

、、、もうね、必死

リア充アピってる人並みに頑張って探してる。SNSやってないから誰にアピールする訳じゃないけど。

人生目標なくしてから、糸の切れた風船のように寄る辺なくて。

まっすぐやりたいことにわき目もふらず突っ走ってきた人生に突如訪れた空白。

仕事もおかげでマイペースにやれてるし、これからのこと考える時期なんだと思う。

趣味らしい趣味もなかったから、何して良いのか。

定年退職したおじさんのような気分なのかも。

家に閉じこもってたら、おかしくなりそう。回遊魚のごとく、動いてないと息が詰まる。

次、何しよう?

2019-03-31

憂鬱

他人会社仕事して

丁度いいから合間に仕事関係の人の所に挨拶件、打ち合わせの段取りを組んで

家に帰って別枠の仕事進めなきゃな…と憂鬱になり。

Readmineにスケジュールを並べ。

合間に、忘れていた個人事業主雑務をこなして。

かと思うと、海外出張に行くので、保険やら、パスポートやら何やら急いで準備して。

ホテルで寝転がりながら「私の前に天使が舞い降りた」と「プーと大人になった僕」を観る…

そして、気がつけば1週間が終わる。

…ふと一息ついて、「何やってんだろうな…」と漏れる。

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