はてなキーワード: にっちもさっちもとは
困って困って完全に困り果ててから助けを求めに行くんじゃない、ぞ!
沈みかけの船に一緒に乗る奴なんていない、ぞ!
沈み始める前の助けたら見返りがありそうな内に人に助けを求めるんだ、ぞ!
医者だって手術しても死にそうな患者よりも手術したら助かりそうな方を優先する、ぞ!
ピンチになれば今まで敵だった奴らが頼もしい味方になんて漫画の中だけの話だ、ぞ!
追い込まれたら敵は止めを刺しに来る、ぞ!
それを見て怖いからって仲間は逃げ出す、ぞ!
だからにっちもさっちもいかなくなるより前に助けを求めるんだ、ぞ!
そしてその助けが本当は不要だったとしても実際その助けで一命を取り留めたかのように感謝するんだ、ぞ!
昔の友人から久々に連絡がきて、当時の仲間で飲み会をするという。
仕事が忙しくて難しいから、行けそうだったら行く、と返したものの、
その日以降その友人どもからSNSの自分のつぶやきにコメントが頻繁につくようになった。
つぶやかなきゃいいんだが、籠りっきりの仕事をしてほぼ人に会わない自分にとっては、
気心知れた別の友人から、シャレのきいたコメントがたまにつくので、それも嬉しい。
人と会わない仕事だからこそ、友人とのささやかな触れ合いがとても大切だと実感する。
だが、真面目一辺倒な昔の友人どものコメントが並ぶようになって、思いのほかストレスになった。
冗談が通じない。
こちらに「知らなかったよありがとう」と言わせるようなコメントが投下される。
すでに知っているような古い内容の情報を、情強のごとくふるまってドヤアドバイスしてくる。
何かマスコミが騒ぎ立てると、同じ波に乗る。
ニュースに対して「世の中間違っていることが多すぎる!」と勧善懲悪を垂れ流す。
ボディーブローのようにジワジワとメンタルを削られ、
気心の知れた友人のコメントが激減した。
ああ、SNSで疲れる、とよく聞くが、これがそうなのか……と思い知った。
ユーモアの無い人、余裕の無い人とは会わないようにしてきた。
だからSNSは本当にプライベートな友人としか繋がらないようにした。
そして昔の友人どもは、とても愉快な奴らだった。
真面目に生きて、社会問題を考えて議論することが大人になることと思ってるんだろうが、
それは時と場合を選ぶもんだぜ?
人生遊んでる部分が無きゃ、息が詰まってにっちもさっちもいかなくなるぜ?
融通のきかない、自分の理想と思想と常識に凝り固まった大人になりてぇの?
それにしてもあんたら暇だよなぁ。
と言ってやりたいが、怖いから言わない。
人格疑われて終了だしな。
とうとう自分の住んでるくっそ田舎にまでアンチ安倍の街宣車走ってきたから聞いてみたくなった
僕にとって安倍政権のやってること、やろうとしてるこはこんなふうに感じられる
ようは「他国が戦争してて、そのせいで日本人がヤバイことになったら助けに行けるよ」ってことだと認識してるんだけど
それって当たり前じゃないの?
ってむしろ今までそんなこともできなかったの?
(街宣車もいってたけど)「9条があるから日本は平和だった」っていう理屈がわからない
そりゃ今の9条みたいな「反撃しかしないよ」から「バンバン侵略するよ」になったら戦争起こりまくるわけだけどそんなふうに憲法かわるわけじゃないんでしょ?
って話も聞くけど
そんなふうになるっていまいちピンとこないし
そもそも、(少なくとも僕みたいな)知識も体力もない雑魚を戦争に駆り出さないといけない状況になった時点で戦って死ぬか座して死ぬかくらい日本やばくなってて安保だの憲法だの言ってる場合じゃないんじゃないだろうか
・経済について
くらいの認識なんだけど
そういう意味ではずっとダメダメだった日本経済をよくしたんじゃないの?
「大企業とか金持ちだけ得して庶民にはつらい」みたいな話も聞くけど
大企業と金持ちだけでも良くしたんならかなり頑張ったと思うんだけど
でも上げる場合上げない場合のメリットデメリットがよくわからないから(日本の財政は厳しいらしいし)仕方ないのかな?とも思う
・原発推進
電気代云々もあるけど、それ抜きにしても
福井県にとって原発が動かないことは「ただちに問題がある」ことなのだ
まあこれは僕(福井県民)の個人的な都合なので反対意見がでるのは仕方ない
と、まあ僕にとって安倍政権ってこんなことしてる、しようとしてる
と認識してる
ってことなら教えて欲しい
で、逆に僕の解釈はだいたい合ってるってなら
安倍政権に反対する人は
「今口に出して安倍政権がしようとしてることは間違ってないけど(僕には理屈で考えれば何も間違っているように感じられない)、今後正しい方向のまま進んでくれるという信用がない」
という理由で反対してることになる
で、そこで問題になってくるのは「なぜ信用できない」のか
ということだ
何か他の政治家や歴代首相と比べて信用できなくなるような理由があるのだろうか
一度病気で辞めたことあるけどあれってかなり重病みたいだから仕方ないことだし
僕はかなり胃腸が弱くて頻繁に苦しい思いをしてるけれど、あれが常に続いてるとか考えただけで恐ろしい
そんな状態で仕事、ましてや総理大臣なんてできるのはもはや人間じゃないと思う
もしそういう「他と比べて信用できない根拠」がないのなら
反対派は「ただなんとなく嫌いだから反対」っていう感情で行動してることになる
うん。俺はいらないと思ってる。米国人の友人と奨学金についての話をするとなんで奨学金なのに返すの?それ学資ローンじゃないの?と怪訝な顔をされる。
社会的に価値がある分野ってもう少し広くとらえるべきだと思うけどね。医療とかだけでなく。社会の多様性を尊重する立場からは。重要性に応じて比重を決めればいい。
貧乏人の小倅が身を立てる見通しのない学問をうっかり専攻しちゃって無駄なプライドばっかり育んじゃって大学出てるのにかえってにっちもさっちもいかなくなるってよくある話じゃない。俺はこういうパターンこそが格差を広げてると思う。
だから学資ローンの設計次第では、格差を狭めることができると思うんだよね。貧乏人の小倅は貧乏人の小倅らしく身を立てる見通しのある学問に励み、結果として自己の知性や努力にふさわしい高い収入や地位・尊敬を得る確率が高まり社会の格差はむしろ是正される。どう?
最近の悩み。
私は、口下手だ。
自分の感じたことだが、頭で整理をして、口に出して話すことに、自信が持てない。
適応障害(うつ状態)になって、昔の友人から、職場の人から色々と悩みを聞いてもらっている。
話をしている。
悩み事を人に打ち明ける。
「あなたのお父さんが亡くなられたことは、知っていたけど、まさか、死因が...そういうことだったとは、知らなかったよ」
そんな(ある種、期待通りの)温かい言葉を掛けて貰えると、嬉しい、話して良かったなと思う。
私としては、ほっとする。
口下手なりにも、通じて良かったなと。
でも、その後のアドバイスが、
「色んな人と話した方がいいよ」とか
「頭を整理するには、人に話す方がいいよ」とか
「機能不全家族の下に生まれた人でも、大人になってから克服は出来ると思うの。だから、話してね」
なんか、結局、話せって言われる。
もちろん、今まで、人に症状が軽い段階で、話すことが出来ていたならば、状況は変わっていたのかもしれない。
私一人の力では、にっちもさっちも、いかなくなったので、適応障害になった。
いざ、病気になっると、周りも理解を示してくれて、私の話に耳を傾けてくれるようになった。
そこで、話すようにしているのだが。
サボってた訳じゃなのに、な。
かなり整理して、良く考えてから話をしているつもり。
(だから、以前とは、違った回答や反応も、もらえている。)
勇気を出して話したのに、これで、終わりたいと、思ったのに。
また、色々な人に口下手だと悪口を言われて傷つくリスクを犯したくはないのだ。
これ以上の失敗はしたくない。
これ以上、傷つきたくないから、話をしたくないのだ。
話題としては、自分の家族の重い話でなくとも、世間話でも結構、気を遣う。
そう、私は、世間の人に気を遣って生きてきたのだ。
それなのに、報われないのは、コミュ障だったからだと、気がつき始めた。
何か、良いことを陰で行っても、見ている人は見ていたのだが、
報連相が出来る方が、やっぱり、いいのだ。
ちょっとした立ち話で、打ち合わせを、さっと済ませることの出来る器用さが、重宝されるのだ。
でも、私にとって話すということは、困難を伴うことなのだ。
前は、口下手だったのに、良くなったねって言われたいのかな。
※以下の文章には、性暴力に準ずるような描写が含まれています。ご注意ください。
学生の頃、友人(男)宅で酒を飲んでから寝ようとしたところ、その友人に手コキされたことがある。
その友人が同性愛者だということは知っていたし、なぜか同じベッドで寝る流れになったのも後から考えればおかしな話なのだが、まさか自分が男に好かれているとは思っていなかった純真無垢(=童貞)な当時の僕は、素直に同じベッドに入ってしまったのである。
最初は冗談で局部を触ってきているのかと思ったのだが、だんだん本気になってきて、どこで止めていいのかわからなくなってしまった。眠ったふりをしてやり過ごそうとしたが、結果的にされるがままの状態になってしまった。そしてそいつは「起きてるんでしょ?」とささやきかけてきた。
今ではこのときのことを平気で思い出せるし、「文章に起こしてみると、なんだかエロいシチュエーションだなぁ。相手が男であることを除けば」と感じる余裕さえあるが、当時の僕にはもちろんそんな余裕は無かった。
しかも具合の悪いことに、僕の局部はそれなりに反応してしまっていたのである。
酒に酔っていたせいだろうか?いや、正直に言おう。僕の局部はそいつの手コキによって確実に快感を得ており、その快感を脳へと伝えてしまっていた。お、この文章、ちょっと村上春樹っぽくね?「僕のペニスは、確実にその快感を脳へと伝えてきていた」。って、どうでもいいか。つーか冗談でも交えなきゃこんなこと書いてられないっつーの。話を戻します。
そして同時に、快感が存在するという事実が、恐ろしいほど不快だった。男に手コキされて感じている。そのことが、僕の心に深い混乱をもたらした。お、また村上春樹っぽくね?そうでもないか。
またしても正直に言おう。僕は「いっそ出してしまえばこの不快から逃れられるのではないか?」とさえ思った。でも、不快が快感を上回っていたせいか、出ることもなかった。
結局にっちもさっちもいかなくなったので、思い切って寝返りを打つ振りをして強引に背中を向けたら、なにもしてこなくなった。
あまりにショックだったので、その後のことはよく覚えていない。翌朝は何ごともなかったかのように一緒にサークルに行った(そいつとは同じサークルに所属していた)のだが、それ以降、そいつと会話することも目を合わせることもできなくなってしまった。別の友人たちに「何かあったのか?」と聞かれたので、仕方なく、ごく数人にだけ「性的なことをされた」ということだけを伝えた。
なぜそいつを直接糾弾しなかったのか。もちろん、そいつのサークル内での立場を貶めることが僕の本意ではなかった、という理由もある。
しかし今にして考えれば、僕は「あること」を恐れて、自分がされたことをなるべく他人に教えないようにしたのだと思う。
それは、他人に「なぜ本気で抵抗しなかったのか?」と思われてしまうことへの恐怖だった。このへんは、女性の性暴力被害者が泣き寝入りしてしまうのと同じ構造なのではないかと思う。
そしてなにより僕は、いかに不快のほうが大いに上回っていたとはいえ、現実として、実感として、快感を覚えてしまっていた。そのことも、僕の心を挫かせた原因だったに違いない。
その後そいつからは、「どうして無視するんだ」というような手紙を頂戴した。おめーのせいだろうと思ったが、それでも無視していたら、今度は「好きだった。あんなことをしてゴメン」という手紙を寄越してきた。いちいち手書きの手紙を手渡してくるあたり、ずいぶんとガーリーなやつだったなぁ。どうでもいい。
結局サークルは辞めて、そいつのことは卒業するまで無視し通した。というか、「そいつを避けようとする無意識の働きに任せるままにした」と言ったほうが正確か。
後々になって、その事件の前にそいつとやりとりしたメールを読み返してみたところ、どうもそいつは、僕のことが好きだということをメール上でほのめかしていたらしい、ということがわかった。その時のやりとりはだいたいこんな感じ。
友人(男) 「好きな男の人がいる」
僕 「Aさん(先輩の名前)?」
友人(男) 「違う」
僕 「あぁ、だいたいわかった」
このとき僕は、そいつがBさん(別の先輩)のことを好きなのだろうと勘違いして「だいたいわかった」と言ったのだが、どうもそいつはこのやりとりで、自分の気持ちが僕に伝わったと勘違いしたらしい。しかし何度も言うようだが、当時の僕はまさか自分が男に好かれるとは夢にも思っていなかったのである。このへんはあくまで推測なので、本当のことは分からないのだが。
で、僕はそいつの家にのこのこついていき、酒を飲み、同じベッドで寝てしまった。そいつにしてみれば、きっと「お泊り」気分だったに違いない。悲しい恋のすれ違い。しかも相手は男である。
こういう経験があるので、僕は性暴力の被害者に対して「被害者にも落ち度があった」というようなことを言うべきではない、と考えている。誰だって、24時間365日、性暴力に注意しながら生きることは出来ない。まして友人や恋人というのは、本来そのような警戒をしなくていいような相手であるはずだ。
今回僕が遭遇したように、被害者の側が「そんなつもりはなかった」というケースもきっと多いに違いない。よっぽど自信過剰な人でない限り、「まさか自分が好かれるわけがない」と思って生きているはずで、そのような考え方は落ち度というより、むしろ「常識」の範疇に入るものだろう。
その事件が僕にもたらした精神的ショックはあまりに大きく、そのあとの1年間くらいの記憶は今でも曖昧だ。数日間、食べるものの味が全くしなかったことは覚えている。あとその直後の正月に、「あんなことがあっても、年って、開けるんだな」となんとなく思った。意味はよく分からないが感覚は伝わると思う。
そしてその後数年間は、不意にその夜のことを思い出してしまう、いわゆるフラッシュバックに悩まされた。もし心療内科を受診していたら、立派にPTSDと診断されていたのではないかと想像する。そのせいでだいぶ性格が暗くなった気がするが、元々暗かったような気もしないでもない。
今ではフラッシュバックが起こることは全く無くなり、このような文章を平常心で書くことも出来るようになった。
もちろん、忘れるためにはそれなりの努力が必要だったし、色々なものを犠牲にしなければならなかった。同時に関係のない色々なことも忘れてしまったような気がするが、なにせ忘れてしまったことなので、忘れてしまったことを思い出すことは出来ない。
自分は同性愛者なのではないかと悩んだこともあったが、今のところは男性を好きになったことはないので、今のところは自分は同性愛者ではないと思うことにしている。別に同性愛者になりたくないわけではない。でも誰だって、特に若い頃に、自分の性的指向がわからなければ真剣に悩むだろう。関係ないが今の自分は女の人が好きすぎて困っている。というかおっぱいが好きだ。巨乳も貧乳も好きだ。
そんなこんなで色々あったが、現在の僕はそれなりに元気に暮らしている。若干社会不適合気味だが、いちおう日々努力しながら、心と身体だけは健やかに生きている。
……いや、もうひとつだけ正直に言っておきたいことがある。思い切って言ってしまおう。
冒頭のあたりで「エロいシチュエーションだなぁ」と形容したところの文章を書きながら、僕の局部は少しだけ反応してしまっていた。
いや、冗談ではない。このことには何か重大な問題が隠されている気がする。どうして僕の心は、身体は、興奮を覚えてしまったのか。同性愛者じゃないのに。
よくよく考えてみた結果、ひとつだけ合理的に説明できる仮説を思いついた。少々はばかられる内容だが、せっかく匿名なのだから書いてしまおう。
性暴力は、暴力であると同時に、エロいものなのだ。抵抗できない人間を、ムリヤリ犯すのは、エロいことなのだ。
もちろん、許されざる行為であることは間違いないが、それでも、エロいことに対して、人は興奮せずに入られないのではないか。
今の僕には、この仮説を受け入れられるだけの余裕があるが、これって、ほんとうはものすごく恐ろしいことなのではないかと思う。
もしも重大な性暴力の被害を受けた人が、そのことを思い出して「エロい」と感じてしまったら、どれほど心が傷つくだろうか。
「心が嫌がっているのに、身体が反応してしまう」というと、まるでエロ漫画のセリフみたいだが、そのような経験が、どれほど深く人の心を混乱させ、苦しめるか、その一端を、僕はほんの少しだけ知っている。冒頭のあたりで書いたとおり。
性暴力被害者の中には、自殺をしてしまう人もいるそうだが、もしかすると、そのようにして心を痛めて、自らを物理的に傷つけてしまう被害者もいるのではないか……。
本人の意志に反してムリヤリに快感を与えることは、場合によっては単純な暴力を与えるよりも、もっと深く人を傷つけることになる、と思う。「ねじまき鳥クロニクル」で「ワタヤノボル」が「加納クレタ」にしたように(って記憶だけで書いてるけど合ってる?)。
というわけでみなさん、性暴力は、決して、しないでください。
STAP騒動を笹井の視点で、ギャンブルとリスク管理の側面から考えてみると、リスクミニマイゼーションではなく期待値の大きい方を選択して破れた、ように見える。
敗因は小保方が稀代の嘘つきであったこと、また稀代の無能研究者(実験音痴・パソコン音痴)であったことである。
小保方とそのケツ持ち(おそらく西川が中心)に、「酸浴あるいはその他の刺激による、遺伝子導入によらない、細胞の初期化と多能性獲得」の可能性を聞いて、燃える。
この時点ではおそらく純粋な科学的探究心と幹細胞研究トップランナーとしての野心の両方が刺激された。
笹井が論文の構成を考え、小保方にそれに合うデータ出させる、という共同作業が開始された。
笹井は極めて優秀なので、中にはかなり怪しいデータがあると気づいていたが、「酸浴による初期化」というメインストーリーが本当であれば、
一流誌に論文さえ載せれば、莫大な予算でこの領域を牽引して独走状態に持っていけると考えた。
① 怪しいデータを無視して論文を完成させる → すれば莫大な予算と名声、仮に不正データが露呈してもコリゲンダム程度かな?
② 怪しいデータを突っ返して小保方を問い詰め、関係を終了 → 自分を含め幹部が採用の責任を問われる
ここで①を選び、論文発表直後から疑惑にさらされる。第一の賭けに負けたのである。
小保方に確認し、肝のデータである奇形腫の免疫染色が流用であることを知る。
この時点で小保方が全て捏造であることを笹井に白状したかどうかは定かでないが、笹井であれば「全てが捏造であり虚構」だと気付いたはずである。ここで第二の賭けである。
① 全て虚構でしたと言って謝罪する → 論文共著者および理研CDBの権威は失墜、Natureおよび姉妹紙からは出禁、研究費獲得もかなり厳しい。
しかし駒沢&下村など過去の例を考えれば、少なくとも小保方以外は科学者として退場というレベルの厳しい責任追及はない。
② 些細な取り違えであり現象自体はリアルフェノメノン → ウソをつき通せればフェードアウトできる。無理ならみんな終わり。
この時点ではSTAP細胞がES細胞であったというゲノム解析結果などは出ておらず、直接証拠が露呈することはないと踏んで、②に賭けた。
会見で笹井は実によくやった。
客観的データからはかなり不利な状況であったものの、天才的な頭脳でディベート力を遺憾なく発揮し、記者の質問の論点をずらして、自分の主張を堂々と述べた。
ほぼ全ての専門家(広くは医学生物学者、狭くは幹細胞研究者)が、「完全に虚構だろう」と思っていた状況から、
少なくとも私はあの会見で自信が揺らぎ、「あれ、やっぱりSTAP現象自体はリアルフェノメノンなのかな。いやいやそんなわけあるかい。
でも論理的には筋が通っているし・・・。」ぐらいまで揺さぶられた。
その辺は近藤滋さんのtwitterを参照。http://whatisascientist.blogspot.com.au/2014/04/blog-post_18.html
その後、8番トリソミーやアクロシンGFPなどとんでもない解析結果が続々と出て、科学的には完全に虚構であったことに疑いの余地がなくなる。
http://anond.hatelabo.jp/20140312225618
おれこれ書いたものだけど、やっぱり言ったとおりだ!と思うと同時に泣きたくて泣きたくてしょうがない。
もう構造的にどうしようもない。こんがらがったタコ糸でほどきようがない。かといって糸を切るハサミもない。ヒーヒーいいながら糸を歯で噛みちぎっても、あまりに膨大な糸がからんでるから一本一本噛みちぎってたららちがあかない。そもそも噛みちぎる気力のある人がもういない。
STAPだとか小保方だとか早稲田だとか、そういう話題になるし、たしかにそれらは酷いけども、それだけじゃないんだ。
もう本質的に日本の科学のシステム、特に生命系(嘘やインチキがバレにくい)はどうしようもない状態だ。理研が全然動かないのはなぜか?黒幕がいるから?違う。
黒幕なんていない。もう構造的に動けない。にっちもさっちもいかない。動いたら負けだから。何か言ったら負けだから。負けたら二度と復活できない構造だから負けるわけにはいかない。だから、動けない。動かない。
研究者にも家族はいるお金はいる。だから動けない。正義感をつらぬいてジリ貧になるより、正義感をおさえて生きる道を選ぶ。その選択を責めることはできない。
理研の中にだってまともな人はいる。けれども、そのまともな人が犠牲になることがわかって担ぎ上げることができるだろうか?
小保方の出現は必然だった。突然わいてでたわけじゃない。マグマが地表をわってでるように、地中で溜まってたんだ。小保方をどうにかしても、違うところからマグマはふきでるだろう。そして、残念ながらマグマの噴出をとめることはできない。もう始まってしまったから。
マグマに飲み込まれることがわかっているのにどうしようもない。
どんなに悔しくても、悲しくても、どうしようもない。救うことができない。
「富士山が見える」のと、「最後の1戸で、大幅値引きしてくれた」から、購入した。
(不動産会社としては、最後の一戸のために社員を現場に貼り付けるのは人件費の無駄だから、
多少割り引いても在庫一掃したがるようだ)
でまあ、眺望的には快適に過ごしていたのだが、先日から雨漏りが始まっている。
何回か管理会社に言っているのだが、「原因ルートの特定がなかなかできない」と言いやがる。
最近では炭酸ガスを室内から送り込んで、それでルートを探知する技術もあるらしいので、
その技術を使ったら?とアドバイスしたら、「それは呼ぶだけで30万円かかる」と言いやがる。
このまま雨漏りが解消しないと「売るに売れない」「貸すに貸せない」ということで、にっちもさっちもいかくなる。
自分は「賃貸より分譲派」だったが、こんなリスクがあるんだったら、賃貸を続けた方が、良かった。
「鉄筋コンクリのマンションの雨漏りって、(世間が想像するより)多発している」ものらしい。
人々は「木造戸建だと雨漏りするが、頑丈で近代的なマンションは絶対雨漏りしないイメージ」を
持っているが、全然そんなことはないとのこと。
最上階は、直射日光の影響でコンクリの熱膨張伸縮が激しいので、細かいクラックが入りやすく雨漏りはしやすいとのこと。
そんなこと知ってたら、最上階なんか買わなかった。別に最上階にこだわってたわけじゃないので。
またネットで「雨漏り」を検索すると「治せない雨漏りはありません」という業者ばかりヒットする。
これも「実際は、なかなか原因究明できない雨漏りが多い」のが現実で、「治せない雨漏りはない」という業者は、一種の誇大広告らしい。
どうしようもなくなってしまっている人がいて
にっちもさっちもいかなくなっているのが
わかりきっているのに
救わずとどめを指したのは私だ
35歳、まともな功績もない
機転が効かず、気も効かない
そしてそれに気づけない
一念発起しても能力は変わらない
馬鹿は簡単には治らない
職場の片隅で
仕事も与えられず
居心地が悪そうにしている
彼にとどめを指したのは私だ
彼は使い物にならない
一緒に仕事はできない
何かを任せられない
自分で首を締める
視野が狭い
視点が低い
あげればきりがないけど
それでも、彼にとどめを指したのは私だ
この後味の悪さはなんだろう
建前だけでもにこやかに接した方が私の気は済むかもしれない
でも彼はそれで
ここまでどうしようもないまま来てしまったのではないか
周りのオブラートを本気にして、自省の機会すら与えられず
こんなに出来ない大人になってしまったのではないか
違うな
多分幾度となくこんなことがあって
できないから
変わらないんだろう
一度は彼を叩き直すと約束したが
それが気がかりなのか?
ちょっとしっくりきた
コスパが悪過ぎるが
彼の丸まった背中に刺さって
私は後ろを向いていても彼から目が離せないでいる
あくまで人づてに聞いた話なので、どこまで本当か分からないけど、ある大学のサークルで、秋入学でやってきた中東出身留学生(イスラム教信者)に酒と豚肉の飲食を強要させたってことで大問題になっているらしい。
ことの顛末はこんな感じ。
2013年に秋入学でやってきた日本文化(というかアニメ)が大好きな留学生M君が、オタク系サークルに思い切って入部。
不慣れな日本語を使いながらも趣味を通じた友情をはぐくんでいたと思っていた時期に、学園祭の打ち上げがあり、まぁパーティの一種ってことで興味がてら参加。
そこで、ジュースとサラダしか食べないM君をみかねて?か、友人(だと思っていた)男子学生Aが、
「ここは日本でアラーも見ていないし、酒と串カツたべちゃえよ笑」と軽口をいったところ、
「絶対うまいから食ってみろよ、他のイスラム教徒も食っているんだから」と学生B、Cもこれを扇動。にっちもさっちもいかなくなり、串カツを食べなければならなかったらしい。
実際には食べたふりであって、そのあとすぐにトイレに行って吐き出したらしいが、留学生M君はそれ以降、サークルに行くこともなくなり、また、ふさぎ込んでしまい帰国を考えているとのこと。
上記の事件の話をしてくれた友人Rは、そのM君のチューターで、とりあえず、これを学生課に報告、またそのサークルに怒鳴り込みに行ったらしいのだけれど、学生Bからは謝罪と同時に
「けど、Mも豚肉美味しいって言ってたましたし・・・(注・改めて書くがMは食べてない)」と言われたらしく、その信じがたいほどの宗教タブー意識の希薄さ、非常識さに愕然としたとも言っていた。
まぁ、ハラール表示とかもないので、日本では日本人と普通に飲食すること自体、ハードであり、M君はそこら辺の疎外感もあって帰国したがっているらしいのだけれども、
それにしても、2chのコピペを信じた馬鹿に宗教のタブーを破らされて更に美味しいとまで言わなければならなかったM君の気持ちを考えるとほんと悲しい事件だなと思う。
なんかその学生たちに、ペナルティとかないのかなぁ。不公平な気がする(なお、学生課からは、宗教問題には立ち入らないのでと返された模様)
追記 翌日、友達Rと一緒にM君に会ってきました。
追追記 M君はいったん帰国となりました。
顕名でやっている自分のブログで書く元気がまだないので、リハビリを兼ねて、増田に書いてみるか。
私は40代前半のこの歳になって、いままでの人生の矛盾が一気に噴き出してきて、にっちもさっちもいかなくなってしまった。
仕事も手につかなくなり、ニート同然の生活をして数年。貯金も底をつきはじめて、いよいよ自分の人生の方向性を決定しなければならないことになった。
二つほど選択肢はあるのだが、どちらも一長一短で、決め難い。
ここで、選択Aと選択Bとしておこうか。
いままでの自分なら、Bを迷わず選んでいただろうが、最近、加齢に伴う体力の衰えを実感し、また親もめっきり年老いていくのを見ると、ひるむ気持ちがある。
情けない話だが、それも正直なところ。
===
退屈な田舎で生まれて、自分と気の合う子供も大人も見つけられなかった。学校の成績だけはよかったが、なんで自分が生きているのか、その意味を見いだせなかった。学校行事も死ぬほど退屈だったし。同級生たちは成績のことで悩んでいたけど、あまり勉強しなくても成績のよかった私には彼らの気持ちを理解するのが難しかった。…そんなこんなで、ほとんど友人もいなかったね。
大学を卒業するときも、やりたいことが特になくて、たまたま内定が取れた大企業に入ったけど、もともとやりたいこともなかったから、すぐに辞めてしまった。その後、アルバイトを転々としながら、IT技術者となって飯が食えるようになったけど、IT技術者も別にやりたいことではなかった。というか、年齢を重ねるごとにつらくなっていった。受託開発の関係者間の調整の難しさは、本当に厳しいね。
ただ、私にはある種「趣味」といえるようなものがあって、それが自分が生きる気力の源になった。それについては具体的には言わないことにするけど、この「趣味」に私は29歳の時に出合った。この「趣味」に没頭している限り、私は生きているという感覚を味わうことができる。
===
私は、この半年間、諸事情でこの「趣味」に没頭できない状態にある。そのせいで最近の私はまるで生きる屍みたいになっている。上の選択Bは、この「趣味」に生きる選択肢だ。ただ、この「趣味」はカネばかりかかって、なかなかそれで飯が食えるかというと怪しい。それとは距離を置いて、無難な選択Aに生きるほうが合理的なのもわかっている。
===
…と書いてきてよくわかったけど、やっぱり私は選択Bをとるしかないね。選択Bで生きていけるかどうかはわからないけど、少なくとも選択Aをとれば、この先死ぬまで「生ける屍」状態が続くことははっきりしている。だったら、まだ可能性のあるBで行くしかない。
やれやれ…。選択Bをとるのはかなりいろいろ面倒くさい。自分が年を取ってきたことは認めざるを得ず、以前ほどのエネルギーもなくなってきている。でも、やるしかないんだろうね。いったん、一歩踏み出せばふたたび勇気や元気が湧いてくるかもしれない。そんな気がする。