はてなキーワード: 棲み分けとは
基本的に自分は「ポルノとしての性的消費」と「芸術表現としての性描写」には質的に差異があるという立場を取っている。
ラノベやBLなどのポルノは対象の人格をリスペクトするだけのものがなく、都合のいい世界の中でお人形遊びしている(そこに暴力性、差別性などがある)。芸術表現として許容される性描写は深い人間理解と同時に理解不十分というせめぎ合いの中で生まれる(個々人の人格のアンビヴァレンツ、曖昧さ、捉えきれない無限性。もちろん古典では雑な性描写もあるが、今回は女性の人権が拡大した現代の話)。
ラノベやBLによくある都合のいい男性描写女性描写自体が他者の尊厳に対する暴力であり(テンプレキャラクター化とでもいうか)、それを象徴するかのような下手で誇張された表紙は刺激の強いグロテスクな表現だ。ただし、これはポルノ商品に限らず通俗的な「物語」全般に常に含まれる問題でもある。今回ラノベやBLが取り上げられているのは、ポルノ商品はこういった暴力がより際立ちやすいという性質を持っているため。行き過ぎたポルノ商品は芸術表現としては到底擁護不可能であり、全年齢向けで平積みするのは不適切だと考え、適切なゾーニングを求める。
ポルノ商品も社会には需要があるので表現や出版自体を規制することは権力の暴走でもあり絶対に許されるものではない。しかし行き過ぎた暴力を自由として認めることは同時に他の誰かの自由を侵害することにもなり、そこに闘争状態が生じる。だから適切なゾーニングをして被害を受ける人の数を減らすよう努力し、穏やかに棲み分けられるようにしようという話をしている。ゾーニングされてもポルノ商品を求める人は問題なく購入できるし、同時にポルノ商品を求めない人たちはポルノ商品によって無差別な暴力を受けることをゾーニングによって回避することができる。デメリットは購入者にほんの一手間余計な手続き(のれんをくぐるなど)を要求するということがある。想像力の豊かな人はゾーニングが表現規制の引き金になってしまうと危惧するが、それは権力を監視することによって回避するしかないだろう(そういった監視が面倒だという議論はあってもいいが、個人的にはまったく感心しない)。
また、「ポルノとしての性的消費」と「芸術表現としての性描写」を明確に区別することが困難であるという議論はあるだろう。まず間違いなくパラドックスが生じる。完全な境界線を引くことはできない。グレーゾーンは常にある。しかし完全な区別ができないからといって、不完全な区別まで不可能というわけではない。その辺りは政治の問題になってくる。全か無かの話ではなく、程度問題になる。だから冷静で建設的な議論が必要だ。
オタクが「こいつ話にならないな」と思うのは勝手だが、こういう考えの人間もいるということだし、社会の一員として生きて行くということは、こういう考えの人間とも折りあっていかなければならないということだ。フェミニストの言い分が100%通ることもないだろうし、オタクの言い分が100%通ることもないだろう。完全に論破して終わりではなく、妥協点をどこに見つけるかという議論が必要だと思われる。
女性向けエロが男性向けエロと比べて問題視されにくいのは、現実で性的な被害にあっているのは主として女性であって、女性から男性への性暴力というのは体格や筋力の差などからあまり考えにくいということがあると思う(もちろんパワハラなどを利用した男性の性的被害の事例がないわけではない)。歴史的に見て陵辱されてきたのは常に女性であって、男性ではないという事実がある。
女性側による男性の性的消費はたしかに倫理的に問題はあるが、男性はそれを見て「女に犯される」という恐怖を抱くことはほとんどない。せいぜい、「気持ち悪い」「不快だ」程度の感情が湧く程度。
一方、男性側による女性の性的消費は倫理的に問題があるだけではなく、女性はそれを見て「男に犯される」という恐怖を抱くこともある。実際にかなり多くの女性が痴漢を一度は経験しているし、事件にならないものも含めて世の中には男性からの性暴力で苦しんでいる女性は多い(PTSD化して長期間後遺症に苦しむ人もいる)。「気持ち悪い」「不快だ」という感情ももちろんあるが、それ以上にポルノに触れた時の女性の感情が「恐怖」を含むものであるということを理解するべきだ。
オタクは女も同じだろーなどというが、完全に同じ構図というわけではない。女は筋力が弱い。極端な話をすると、キモオタはいつでも美少女を陵辱することができるが、腐女子は男子中学生以上のイケメンを陵辱することはできない。
とにかく男女の体の作りには明確な差異があり、男の場合と女の場合を簡単に並べることはできない。
穏当な解決策としては、行きすぎたラノベのポルノ表紙もBLも等しくゾーニングするというものになるだろう。しかし、そういった書籍を出版することに対する規制には両陣営が手を取り合って反対していくべきだ。
重要なのはお互いがうまく棲み分けて共存することだ。敵を叩きのめして締め出して満足、というのではただの子供の喧嘩だ。
現状、ゾーニングに反対しているオタクは多いが、社会の構成員のひとりとして、性暴力に苦しんでいる女性たちの気持ちをどう取り扱うかというのはもうちょっと真剣に考えてみてもいいんじゃないだろうか。
どうせそれがわかったからと言ってみんなが金持ちになるわけじゃないから包み隠さず話したいと思う。
まず大前提
人間はもともと数を正しく把握できる生き物ではありません
頭の中にリンゴを思い浮かべてください
数字を使って数えずに、何個までだったら瞬間的に個数を把握できますか?
5個?7個?11個?
人によって多少の差はあるかも知れないけど、せいぜいそれくらいが限界でしょう。
つまり、人間が数として正しく把握できるのはそれくらいの数までということ。
違いますか?
みなさんちゃんと義務教育を受けてきたのでかなり大きな桁の数字まで理解できていると思っていますよね。
では、体育館いっぱいに人が入ったとして、その人数を瞬時に正しく把握することはできるのでしょうか。
そんなわけありませんね。
だれだってあの手この手で数を数えはじめて、ある程度の予測で済ませたり、きっちり気が済むまで数えたりして初めて数字として測定されます。
そうやって数字に変換されたら把握できたと感じるかも知れませんが、それは数えた後に数字という概念として捉えているに過ぎなくて、目の前の数を正しく把握出来ているわけではありません。
つまり人間は、本来ほんの数個までしか数を正しく把握できないんです。
それを数字という概念に置き換えることによって、本来ならば把握できるはずのない規模の数まで取り扱えるようになっているに過ぎないんです。
逆を返せば、概念として数字を扱うことができるようになったから、ここまで進化できたのも人間だと言えます。
それは違うという人はもうここでお引取りいただいて結構。
論点を変えてこの話しを否定したいだけの人も同様にお引取りください。わたしとは考えが相容れないだけのことです。
お金を稼ぎたいなら、大きな桁を扱う仕事をしろということです。
逆を返せば、貧乏になりたくないなら小さな桁の買い物で満足するなということです。
乱暴な言い方をすれば、数字の桁はつまりその人の経済ランクとイコールです。
金持ちは、あの手この手で貧乏人が桁を繰り上がることを阻止してきます。
少ない桁の金額しか持たなければ、それで満足できる生活を求めてしまうかも知れませんがそれは間違いです。
その桁で生きようと思えばいくらでも生きられるのがこの世の中です。
抜け出そうという意思がなければいつまでたってもその桁からは抜け出すことが出来ません。
いまの資本をもとに、細かいものを売るのではなくて、次の桁を扱う層に響くものを売ればよいのです。
そうして扱うものの桁を増やしていけば、自然と自分の生活もその桁にあったものになります。
貧乏人から少しずつお金を巻き上げる商売は、いまや何をやってもあとから来た大きな資本に根こそぎかっさらわれてしまいます。
だったらこれからお金を稼ぎたい人が相手にするのは、今すでにお金を持っている相手です。
そして、人間は数値を正しく把握できる生き物ではありません。
だったら自分がその桁を扱えるようになればよい。たったそれだけのことです。
どれだけ才能があっても、どれだけ努力をしても、そこに金がなければ稼ぐことは出来ません。
ならば変えるべきは稼ぐ場所であり相手にほかならないわけです。
自分はお金よりも時間や生活を大切にしたいのでもうこの桁で満足です。
自分を取り囲む環境がすでにその桁ですので、今の仕事にあぶれても同じ桁の仕事を探すことは難しくありません。
難しく考えず、自分が生きる経済圏を着実にステップアップさせていけば、自ずと自らが満足するランクまでは上がることができるはずです。
※以下は入れ墨NGの店舗に勤める一個人の意見であり、店舗としての公式見解とは異なります。
入れ墨やタトゥーを入れるのは本人の自由だし、レストランのドレスコードのように入れ墨客をお断りするのも温浴施設の自由でいいのではないか。
入れ墨やタトゥーOK、シールで隠せばOKな温浴施設なんてすでにいくつもあるのに、ありとあらゆる施設に解禁を求める人ってなんなのか。
入れ墨禁止のお店って、だいたい利用規約で反社お断りを掲げているが外見だけでは判別が難しい。
彼らが「反社会的勢力の者ですが」ってわざわざ自己申告してくれるはずもない。
だったら入れ墨の有無でひとまず線引きして、暴力団構成員かもしれない客の対応をせねばならない従業員の負担を減らして
暴力団構成員かもしれない相手とサウナ室に二人きりになる緊張感からお客さんを守るのも、ひとつの方針として認められていいのではないか。
海外ではタトゥーがファッションで〜とか、インバウンドが〜とか、宗教上の理由で〜とか知らんがな。入れ墨OKなお店探してそこに行けばいいじゃない。
それとも「入れ墨・タトゥーお断り(※ただし外国人、宗教上の理由による場合は除く)」とでも書いておけと?
そんなの反社にいいようにつけ込むエサを与えるか、マシなほうでチンピラが店内でゴチャゴチャ騒ぐだけだろう。
最近は減ってきている(と言われているが統計的にどうかは知らない)とはいえ、暴力団関係者や反社会的勢力には墨を入れている人間が多いという日本の歴史的背景を無視してまで重視したい海外のファッションってなんなのマジで。
宗教上の理由については、ファッションと異なり自分で入れる/入れないを選ぶ余地があまりないだろうから心苦しいけど
入れ墨OKでなおかつ設備やサービスの優れた施設は日本にもたくさんあるのでそちらをご利用くださいとしか言えない。
宗教出されると当方の事情なんてご賢察いただくどころかたちまちゴミカス同然になるのでほんとしんどい。
そんな棲み分けなんてクソ食らえ、なんとしても入れ墨NG店を絶滅させたいって人は、入れ墨OKなお店にジャンジャン通って繁盛させてやればいい。
所詮儲からないとお店もやって行けない(そもそも温浴施設は設備に金がかかりまくるうえ利益が出にくい)ので
入れ墨OKなお店がびっくりするほど大繁盛すれば業界の流れも少しは変わるんじゃなかろうか。
入れ墨を敬遠する客を切る価値があるほど高単価客の需要が見込めれば入れ墨OKが主流になるし、なければ現状のような棲み分けが続く。それだけのことだ。
ただ、自分が入れ墨を入れてるわけでもないのに日本中の全温浴施設に入れ墨解禁を要求する人に対しては、入れ墨OKの温泉でかけ湯してるときに洗面器の湯が隣にいた人にうっかり派手にかかっちゃって
(正直に言えば「苦手」というのはかなりオブラートに包んだ言い方だ。普段からイヤマフを常用している自分からすれば、突発的な子供の絶叫は暴力や凶器に近い。)
だが、個人的には別にファミレスで子供が騒ぐのは一向に構わない。そもそもが「ファミリーレストラン」だし、仮に子供の声が不快なのであれば、そこに行かなければ良いだけだ。むしろ子連れの方々が、肩身の狭い思いをしなくて済むようなレストランや公共施設はもっと増えたほうが良いとさえ思う。この国での子育ては、はっきり言ってハードモードなのだから。
ただ、子供連れが入店できない空間もあって然るべきだとは思う。地球上の人類全てが子供に対して寛容という状況はありえないし、自分みたいに聴覚刺激がとことん苦手な人間だっている。
思えば自分が昔海外に住んでいた頃には、子連れが入店できない店なんて普通にあったし、子供がいる夫婦がそういう店に行く時には気軽にベビーシッターに預けることもできた。その代わり、街ゆく人は子供に対してとても寛容だった。怖そうなおじさんも、パンクなお兄さんでさえも。子供の声なんだから我慢しろ!という言説も聞いたことがなかった。
この国ではそれがない。全く。
なぜだろうか。個人的には、日本に蔓延する「子供と大人の棲み分けを一切許さない空気」が原因の一つに思える。棲み分けがなされてないからこそ、世のお母さん達は子連れで入れる店が少ないと感じる。
例えば、前述の「子連れが入店できない店」とは逆に「子連れウェルカム」であることを堂々と謳う店は、子供に不寛容な人に対して「ご入店・ご利用をご遠慮ください」と言うこともできる。
そういうことができない・なされていない中途半端な状況下、ネット上で子連れのお母さんと不寛容派の人間が殴り合っているのを見ると、なんとも悲しい気持ちになる。
日本では、いろんなバックグラウンドの人間を同じ空間に押し込めて「お互いに我慢を強要する」ことがとても多いように感じるが、大抵その場にいる全員が等しく不幸になっている。逆にお互いが不幸にならないよう、あえて不均質な空間・場はどんどん作った方がいいし、不均質さに対しては不寛容であるべきでない。
https://anond.hatelabo.jp/20171217013541
https://anond.hatelabo.jp/20171219000743
上の日記は近い将来、AI医者にとってかわられるって話ばかりです
今のAIって、機械学習とかニューラルネットワークとかDeepLerningとか言われてますがそれって結局は特徴量を覚えてパターンとして覚えて当てはめてるだけなんですよ
「それって何?」
微少変化を出して記憶しているだけ
パターン認識なんです
ところで話かわりますがIQテストって要はパターン認識とその適用ですよね?
ちなみにおっさんは小学校の時に130ぐらいでした(自慢)(でも東大はいけませんでした涙)(メンサとか無理涙)
(通じなかったらごめんなさい)
ただ積分はできないっぽい
囲碁で人間に勝ったAIのalphaGoだって、積分ができないから全てのパターンを超高速で計算して、それぞれの局面を微分して評価して次の手を決めてるだけなんです
高度な資格の必要な職業って、結局記憶力とパターン認識じゃないですか
それだけやってる人は職業を失うんですよ
という盆休みで嫁と子供が実家に戻ってて自由に酔っ払ってるおっさんの戯言でした!
「積分力を鍛える!」
http://nogreenplace.hateblo.jp/entry/2018/07/20/190000
「善因善果」で、善意でやったことは良い結果で報われるであろう。
サンタさんしかり。お年玉しかり。いい子にしてるとご褒美もらえる。
家の前の畑に種をまいたらおてんとさんが一粒千倍にしてくれる。
これが現在は大きく崩された。
今年も災害がかなり重なった。
聞いているけれど、クーラーがあれば猛暑なんかで死なないですむのにバカだなあ、とか、
ダムで水なんかとめちゃえよー、とおもっている。
年寄りばかりじゃお米が採れない?なんで農薬とか田植え機とかつかわないの。とか。
そのクーラーをつけられないほど貧しい人や、
クーラーを動かす電力を火力発電だけで賄えない場合のこと、とか、
とりあえず市民をいじめているようにみえる知事をいじめておけばいいや。と行動する人も出る。
またおじいさん・ひいじいさんの世代の侵略戦争も判断能力を超える。
死刑採用している国の中では死刑囚がとても少ない日本では、コストをかけて容疑者を活かし、裁き、納得してから国が殺す。
これもなんとなく死刑がある国といわれれば外聞が悪いんじゃないかとは思っているが、
ではどうすれば犯罪が完全に発生しないようにするかは
欲望を押さえればいいだけだと、しつけや教育におしつけて口をぬぐう。
「善意」の悪意性がインターネットなどで見聞されるようになった。
小悪を叩いた自分が小悪としておもいっきり叩かれるとは思いもせずに。
これはもう、神様が「返報性強め」に設定しちゃった善なる国ならではの根深い病だと思う。
「がんばればいいことがある」の逆は「悪いことをすれば厳しく罰される」ではなく
「世の中につきつめればいいことも悪いこともない。一切は空だ」という鬱めの仏教のはずだったんだけどそれも廃れている。
なので、インターネットは免許制にして、仏教と棲み分けを必修で教えたらいいんじゃないのとおもう。
知らぬが仏を脱出しているのは知っていても仏であれる人だけだ、と。
はてな関連でネットリンチ、いじめに類するものが行われていたという認識がある人と、リンチではなくて正義の糾弾・告発である、という人と別れているようです。
hagexはどっちもやっていたと思うけれど(私は嫌いだったので偏った見方かもしれません)、顔色をうかがって勝ち馬に乗るのが常である(ように私には見える)ブコメではリンチの面が強いように感じています。
そして件の加害者はネットリンチに捉えることも出来るブコメに憤りとか怒り、負の感情のようなものがあったのは確かでしょう。
はてな社以外には特定できない増田でもたぶん沢山書いていて(増田では”低能”は使わない印象があるけれど加害者本人かどうか確認しようがありません)、私がそうかなと思うのは一方的に叩くことを批判する内容やそれに類する増田への言及です。
私は何度かブコメ批判を増田に書いているのですが、ブコメはいじめ・リンチだという言及もありました(トラバの中には数日で消えるものがあるのですが、はてなのIDがバンされると増田も消えるのでしょうか?)。
そういった内容はブコメは伸びませんが、トラバは伸びます。恐らく加害者と同じような考えをしている人は多少なりとも存在していて、そうであればどれが加害者が書いたものがますますわかりません。
私も増田でもブログでもブコメに叩かれたことは何度もありますし、ブコメの中には馬鹿、アホ、死ね、とかありました。そういった内容のIDコールもありました。これらのブコメは明らかに今回の加害者のものではありません。BANされていないアカウントも沢山あります。多くのユーザーがそういったアカウントを少なからず存在することを気がついていると思います。
ブコメがいじめ・リンチなのかは別として、そのように見える原因の一つはスターだと考えています。スターが沢山ついたブコメに対する間違いの指摘はまたスターが沢山付きますが、スターが沢山ついたブコメに対する批判はそれほど伸びないような印象があります。
同じ内容の記事で一方ではこちらを叩き、一方ではあちらを叩く、というのを目にすることは時々あります。棲み分けなのか、勝ち馬に乗りたい人たちが群がるのか。一つのブコメで流れが変わることもありますが、”長いものには巻かれろ”の印象の方が強い。
俺の書き方が悪かったが、法律で決まっていないというのは全部作者の許可がいるってこと。
で、日本はオンライン上のものは本当は全部許可が必要でさんざん騒ぎになってる。
エロだから男では好むやつがそこそこいるから、エロも認めろとお前は言うのだろう。
では、グロはどうだ?好むのは一部だが、でも好きなやつはいる。
キャラの腹から腸出てるようなのとか、拷問器具にかけられてるのとか、体が切断されて血が出て嘆きの表情浮かべてるのとか。
そこまで込で認めてるコンテンツはあるんだよ。
で、そこは歴史が長いし、作者も棲み分けや創作を盛んにするためのいろいろ発言とか仲裁の言葉とかいろいろ気を使っているのはわかる。
んで、界隈の一部にいるんだよね。そういうえげつない創作をするやつも。でもそういうやつは好きなんだろうね。
作者も制御の仕方をある程度心得てるし、故に超長期コンテンツだし、ファンも多いし、表面的にはかわいいきれいな女の子たちが舞い踊ってるでしょう。
表面的に真似ようとするところは多いが、流石にあそこまでの闇を普通の作家や、サラリーマンコンテンツホルダーが制御できると思えんね。
一昔の漫画とかで、見たら気が狂うようなビデオテープとかあったんだけど、なんつーか、ああいうのが生まれて、原作者がさらされるんだよ。
で、どんな二次創作でも自由にしろというのは、そういうのも認めろということになるんだけど?
ある程度腹の座ってるやつじゃないとそこまでの許可はだせん。だから、作者側が制御できないとならんし、その範囲にエロも作者側は入ってる。