はてなキーワード: 成果物とは
元記事
http://yorogame.blog137.fc2.com/blog-entry-513.html
9条には問題があることを知っている人はいるだろう。だけど、税金を使った事業、公務員などがどのような理念の元に動けと書いてあるか、そのことを強く考え思った人は日本人全体でどのくらい居るだろうか?憲法には全体の奉仕者という言葉が使われている。私はトルストイに感化されてからこの文章を読んだので、とても美しい社会を善くする概念だと勝手に思った。そしてその全体の奉仕者という概念に多くの税金により給料を得ている人間はそれほど熱意をもった意識をしていないかもしれないと思った。
また、ネットとTVの間には断絶があると言うべきだろう。ネットの人間がTVで語ることはあるが、可能性の喚起という観点でみると、相互に繋がりを持たせることに、それほど効率的なやり方ではない。なんか知識人っぽいひとがごちゃごちゃ言う番組はみんないろいろ言うから、理解するコストが高い。これだ!という正解をしめすことよりはインパクトが無い。なのでネット人がTVにでても、ネット人に興味をもってネットのそんな情報を見るのは、もともとそういった資質の高かった人と言う事も出来る。
そして、日本を本当に良くする為に私は、ある程度国民に判断の指針となる理念をもってもらうため、近代国家の行動の拠り所である、法、をそれの最上位である憲法の重要さを多くの人に見られるように説くことではないかと思う。
現状の憲法の厳密な、正しい正しくないではなく、憲法の理念に基づいた行動というのを国民が意識するようになったら、憲法の解釈は人によって多少差はあるにせよ、ある政治問題について考えるための、体系的な前提を持つことになるので、それを前提として政治意見を言えば同意を得やすくできるのでは無いかと思う。
そのための行動として最も効果的だと私が思うのは、選挙で当選する見込みがあるか既に当選した政治家が、日本の様々な問題点を全て憲法に対する意識が欠けているということに帰結させるような理屈で、日本社会を善くしようという、国民にポジティブな意識、モチベーションを喚起する理念を語ることが良いのではないかと思う。現在は断絶的なメディア間の差異で国民は虚無感を抱く可能性がとても高いが、その理念に基づいてTVもネットも語るというある種の、政治意見がとるフォーマットを構築することが効果的では無いかと思う。
そしてネットとTVと新聞の世界を繋げるために、政治家はTVで希望を語り人気を集め、その詳しい論拠はネット上にあると示すという形をとるのは効果的ではないかと思う。
大阪の政治では根源的なありようのような希望を語ることによって支持をえてるように伺える。そういったやり方を模倣してその流れを促進すれば日本は今よりもっと良くなる可能性があるのではないだろうか。
また考え方をかなり飛躍させて言うなら、多少政治色をもった意味で、中国等海外で人気があり日本でも知名度の高いこの文章は雑感のまとめであり厳密性には欠ける。
私がこの文章で問題にしたいのは、日本におけるネットのTV、新聞がどのような役割を果たしているかということある。
TV・新聞といったオールドメディアと、それと比べれば、まだ若いメディアといえるインターネットが日本全体に相互に与え合っている影響を考察し、その問題点から、今日本にいる政治的影響力を持ちうる人間はどのように振る舞うべきかと言う事までを書く。
まず、社会に対して書かれた文章というものは、文章を書く人間が、抱いた、(社会を)こうしたいという意識を、書くという方法を選択した結果生まれた成果物である。
という見知でこの文章では、各メディア(主にネット・TV・新聞)の主張を捉える。
そういった視点として、メディアの主張の厳密な正しさより、そのメディアの志した方向性によって流れされた情報と、それによって喚起さうる国民の感情について考える。
まず、311の地震では、日本の各メディアはその問題に関して様々な意見が流れた。地震発生直後は地震その物の話題が大きかったが、原発の問題が発覚してからは少しずつ原発に関する情報が増えて行ったと思う。
この時とそれ以降に、私が感じた事を書く。
私が一番中もくしたのはツイッター上で様々な見解が流された点だ。私が一番印象的だったのは池田信夫氏である。彼は原発の取材をした経験があると語り、様々な自説を展開していた。それに対して色々な池田氏に対する意見が流れていた、私には批判的な意見が優勢にみえ、池田氏はあまり信用できないなという意識をもった。しかし、他の発言力の高かった人達の発言を見ても、実際どういうことなのかよくはわからなかった。
当然である。原発問題初期は原発について情報が不足していて、推理のような部分が多分にあったからだ。色々な人が原発で何がおこっているかについて色々な意見をいっているように見えた。
そして時間が進むと、放射能の問題がでてきた、それに付いても様々な意見が流れていた。
私は無職なので、一日中でもその情報を追う事もできた。だがそんなことをしたいとは全く思わなかった。色んな意見が交錯してかつ、正しい情報すら不確かな要素をもっているこの状況に情報を追うより、ある程度(半年~一年くらい)立ってからそういった過程を経て生まれた、纏まった情報、例えば新書などを見たほうが確実に問題が良く分かるだろうと思ったから。それに、私が原発のことを知っても、対して社会に意味は生じないという思いが意識の片隅にあった。
その間のTVと、ネットの関係はどうであったかは詳しくはわからないが、様々な原子力に関連のある組織が善意でネット上で公開したものにたいして、TV側が紹介をするということはあったとだろうと思う。それによって、日本社会に対する情報の取得源としてTVの比重が大きい人間に、ネットの情報を参照するための意識を喚起した可能性は高い。
だがこのことによって、日本社会は対して良い影響を受けなかっただろう。何故なら、一般人が原発に関して詳しい情報を知ること自体に私はあまり意味が無いと思うからだ。まず理解するのがコストが高い。そこで問題にたいする意識が削がれるだろうと思う。そして一般人は政治的影響力があまり無いので、厳密に正しいという情報をもっていても有効活用はあまりできない。そしてそれらの厳密な情報は政治的影響力の高い人間にとってこそ有効であることは云うまでも無い。だが日本のネット上では政治的な問題の意識の高い人間の間で、原発の科学的に厳密な情報を求める意識が高くなっていたと思う。だが現在から見て見ると、科学的な厳密さを考える事をもっと専門化にアウトソージングして、その原発問題の結果が与える影響とそれにより、日本社会が取り得るべき選択の可能性に、日本国民の意識というコストを割くべきだったと私は感じる。これはあくまでネットの情報をあまり熱心に追わなかった私の感じたことである。本当にどのメディアも積極的に見ていなかった難しくてめんどくさくてついていけないと思ったから。
原発の科学的情報を流すという方法とることの理由の根本は、日本社会を善くしようという物であると思う。その方法がもつ目的の効果を最大化させるために取り得る方法は何か。
国民に問題が起こっているが、対処にあたっていて良い結果を生むために努力をしているという姿勢を示すことである。それにより国民は政治に希望と期待などのプラスの感情、モチベーションが喚起される。よってあの次点で注目を集めるべき情報としては、正しいやり方でやっているという理念を示したものである。それにより希望をもてば人は情報を自分から進んで集めるか、焦りのような感情をもって科学的厳密さを追うこともなかっただろう。
当時にこういう指摘をしたひとはいたかもしれないが、正直全然探す努力をしていなかったので全く知らない。何か政治に語りたいなら積極的に情報をあつめるのが筋だろうけど、そういう動機付けが全然得られなかったんだ。そういった感情を掘り下げて得た見知で纏めているののがこの文章でもある。
それで原発初期から少しして以降の私の事を書く、私は精神病院に入院していた、院内ではTVしか見られなかった。3週間くらいで退院したが、TV軽くみたりネット軽くみても、原発に関しても地震に関しても似たような話というか、個人的に目に付く範囲で見た場合、個別の問題とでもいうべき問題について色々書いた文章ばかりにおもえて、はっきり云ってこういう物を私が読んで何か考える事に何の意味があるのかという思いを持っていた。そういう問題点を指摘したひとはあったかもしれない、だけど目に付かなかったのでどうでもよかった。
病院から退院してからは、大帝国とかランスクエストをやったりしてた、他に適当に本よんだり、読書メーターというのを初めて読書の記録をシステム的につけるようになって中々本を読むのが楽しくなったり、英語の勉強したりしていた、政治的なことに関してはそれなりに適当に見てたけどあまりよくわからなかった。だが10月02日にLeague of Legendsというゲームを始めて猿のようにやりまくっていた12月20日までやった。1試合平均35分前後かかる試合を900試合くらいしたと思う。その期間いつもみている政治的な主張の多いblogとか20サイトくらいいれているgoogle リーダーに全然アクセスしなかった。
それで、League of Legendsを止めてからまた本読むのが楽しくなってきて、色々と読んでいた。LoLで得られた経験から、本を読んで色々より強い影響を受けて、適当にblogにアホなおもいつき書きまくってた。どのような影響を受けたかというと、トルストイを読んで、社会全体の幸福を志向する事の美しさみたいなものを学んだ。
話を戻そう、つまり、色んな人が色んな目的でいろんなことを言っていたと思うが、私は2ヶ月もそれを無視してゲームやり続けても何とも思わなかったのだ。それがどういうことかというと、メディアは私の理屈で言えば、私の行動を変えさせる、メディアがしたい問題提起に私のモチベーションを喚起させる行動をとることは不可能ではなかった、何故なら凄い影響力の高い意見なら、私の見ている範囲のネットのblogにも情報は届くからだ。
そういう可能性をに影響を与える方法をとるということを考えることが大事であると思う。
その方法論を私なりに書きたい。
まず日本人には、共通のどういう社会を目指すべきかという根本的な理念が欠如しているように思う。たとえば憲法である憲法は理論上は国家のありようを書いた文書だ。9条には問題があることを知っている人はいるだろう。だけど、税金を使った事業、公務員などがどのような理念の元に動けと書いてあるか、そのことを強く考え思った人は日本人全体でどのくらい居るだろうか?憲法には全体の奉仕者という言葉が使われている。私はトルストイに感化されてからこの文章を読んだので、とても美しい社会を善くする概念だと勝手に思った。そしてその全体の奉仕者という概念に多くの税金により給料を得ている人間はそれほど熱意をもった意識をしていないかもしれないと思った。
また、ネットとTVの間には断絶があると言うべきだろう。ネットの人間がTVで語ることはあるが、可能性の喚起という観点でみると、相互に繋がりを持たせることに、それほど効率的なやり方ではない。なんか知識人っぽいひとがごちゃごちゃ言う番組はみんないろいろ言うから、理解するコストが高い。これだ!という正解をしめすことよりはインパクトが無い。なのでネット人がTVにでても、ネット人に興味をもってネットのそんな情報を見るのは、もともとそういった資質の高かった人と言う事も出来る。
そして、日本を本当に良くする為に私は、ある程度国民に判断の指針となる理念をもってもらうため、近代国家の行動の拠り所である、法、をそれの最上位である憲法の重要さを多くの人に見られるように説くことではないかと思う。
現状の憲法の厳密な、正しい正しくないではなく、憲法の理念に基づいた行動というのを国民が意識するようになったら、憲法の解釈は人によって多少差はあるにせよ、ある政治問題について考えるための、体系的な前提を持つことになるので、それを前提として政治意見を言えば同意を得やすくできるのでは無いかと思う。
そのための行動として最も効果的だと私が思うのは、選挙で当選する見込みがあるか既に当選した政治家が、日本の様々な問題点を全て憲法に対する意識が欠けているということに帰結させるような理屈で、日本社会を善くしようという、国民にポジティブな意識、モチベーションを喚起する理念を語ることが良いのではないかと思う。現在は断絶的なメディア間の差異で国民は虚無感を抱く可能性がとても高いが、その理念に基づいてTVもネットも語るというある種の、政治意見がとるフォーマットを構築することが効果的では無いかと思う。
そしてネットとTVと新聞の世界を繋げるために、政治家はTVで希望を語り人気を集め、その詳しい論拠はネット上にあると示すという形をとるのは効果的ではないかと思う。
大阪の政治では根源的なありようのような希望を語ることによって支持をえてるように伺える。そういったやり方を模倣してその流れを促進すれば日本は今よりもっと良くなる可能性があるのではないだろうか。
またこれらの考え方をかなり飛躍させて言うなら、多少政治色をもった意味で、中国等海外で人気があり日本でも知名度の高い蒼井そらが社会の理想と希望について語りながら、性的な事を行う映像を創ることもまた効果的であるといえる。
その理屈を使って、ネット上で論じられる著作権問題を憲法が持つ全体の利益という視点を重視して、多少厳密さを欠いたうえで語るなら、インターネット上の無料コピーは日本人が一般的に思っているほど、あまり悪いこととも言えないという理屈も導ける。
ネット上の無料コピーによる、著作権侵害が違法であるといっても、動画サイトで見るのは良いが、ツールを使って落とすのはよくないとかそういうのは根本的に考えたら些末な問題でやってることは本質的には同じとも云える。それを差異があるように演出しているのはあまり社会を善くするという意味は無いと云う事もできる。なぜなら、どのような方法であれネット上で無料コピーにより著作権を侵害するという行為によって逮捕される人は現状、全然居ないに等しいからだ。なのでこのような違法としていて一部はそれを遵守せよ!と感情的になっているがその視点は近視眼的ということもできる。そういったあまり根本的に考えなていない意見によって脅迫をかけるような同調圧力と化していると思う。全体の利益という視点を重視したら、違法としててもろくに取り締まりもおこなっていないやったもん勝ちみたいな、現状の無料コピーに対する意識というのは不自然です。赤信号は場合によっては無視してもいいという意識は誰でももっているように、無料コピーにしても、目立つ形でやった人間以外ととても運の悪い人以外には、取り締まりなど無いに等しいから、やるのは個人の判断で赤信号を渡ることと似たようなこと。という意識を多くの国民がもっていたほうが国家としては健全だと私は思う。その国民の意識に応じて法を変えれば良い。
そのようなそこの浅いときに、脅迫的ともいえる同調圧力意見というのはネットにはありふれていて、その思考方法を変化させるためにも、国家はどうあるべきかという形を分かり易く国民全員に伝えなければいけないと思う。
(終わり)
日本のメディア間の隔絶について 日本のおけるネットとオールドメディアの最適な関係の構築方法の模索
この文章は雑感のまとめであり厳密性には欠ける。
私がこの文章で問題にしたいのは、日本におけるネット、TV、新聞がどのような役割を果たしているかということある。
TV・新聞といったオールドメディアと、それと比べれば、まだ若いメディアといえるインターネットが日本全体に相互に与え合っている影響を考察し、その問題点から、今日本にいる政治的影響力を持ちうる人間はどのように振る舞うべきかと言う事までを書く。
まず、社会に対して書かれた文章というものは、文章を書く人間が、抱いた、(社会を)こうしたいという意識を、書くという方法を選択した結果生まれた成果物である。
という見知でこの文章では、各メディア(主にネット・TV・新聞)の主張を捉える。
そういった視点として、メディアの主張の厳密な正しさより、そのメディアの志した方向性によって流れされた情報と、それによって喚起さうる国民の感情について考える。
まず、311の地震では、日本の各メディアはその問題に関して様々な意見が流れた。地震発生直後は地震その物の話題が大きかったが、原発の問題が発覚してからは少しずつ原発に関する情報が増えて行ったと思う。
この時とそれ以降に、私が感じた事を書く。
私が一番中もくしたのはツイッター上で様々な見解が流された点だ。私が一番印象的だったのは池田信夫氏である。彼は原発の取材をした経験があると語り、様々な自説を展開していた。それに対して色々な池田氏に対する意見が流れていた、私には批判的な意見が優勢にみえ、池田氏はあまり信用できないなという意識をもった。しかし、他の発言力の高かった人達の発言を見ても、実際どういうことなのかよくはわからなかった。
当然である。原発問題初期は原発について情報が不足していて、推理のような部分が多分にあったからだ。色々な人が原発で何がおこっているかについて色々な意見をいっているように見えた。
そして時間が進むと、放射能の問題がでてきた、それに付いても様々な意見が流れていた。
私は無職なので、一日中でもその情報を追う事もできた。だがそんなことをしたいとは全く思わなかった。色んな意見が交錯してかつ、正しい情報すら不確かな要素をもっているこの状況に情報を追うより、ある程度(半年~一年くらい)立ってからそういった過程を経て生まれた、纏まった情報、例えば新書などを見たほうが確実に問題が良く分かるだろうと思ったから。それに、私が原発のことを知っても、対して社会に意味は生じないという思いが意識の片隅にあった。
その間のTVと、ネットの関係はどうであったかは詳しくはわからないが、様々な原子力に関連のある組織が善意でネット上で公開したものにたいして、TV側が紹介をするということはあったとだろうと思う。それによって、日本社会に対する情報の取得源としてTVの比重が大きい人間に、ネットの情報を参照するための意識を喚起した可能性は高い。
だがこのことによって、日本社会は対して良い影響を受けなかっただろう。何故なら、一般人が原発に関して詳しい情報を知ること自体に私はあまり意味が無いと思うからだ。まず理解するのがコストが高い。そこで問題にたいする意識が削がれるだろうと思う。そして一般人は政治的影響力があまり無いので、厳密に正しいという情報をもっていても有効活用はあまりできない。そしてそれらの厳密な情報は政治的影響力の高い人間にとってこそ有効であることは云うまでも無い。だが日本のネット上では政治的な問題の意識の高い人間の間で、原発の科学的に厳密な情報を求める意識が高くなっていたと思う。だが現在から見て見ると、科学的な厳密さを考える事をもっと専門化にアウトソージングして、その原発問題の結果が与える影響とそれにより、日本社会が取り得るべき選択の可能性に、日本国民の意識というコストを割くべきだったと私は感じる。これはあくまでネットの情報をあまり熱心に追わなかった私の感じたことである。本当にどのメディアも積極的に見ていなかった難しくてめんどくさくてついていけないと思ったから。
原発の科学的情報を流すという方法とることの理由の根本は、日本社会を善くしようという物であると思う。その方法がもつ目的の効果を最大化させるために取り得る方法は何か。
国民に問題が起こっているが、対処にあたっていて良い結果を生むために努力をしているという姿勢を示すことである。それにより国民は政治に希望と期待などのプラスの感情、モチベーションが喚起される。よってあの次点で注目を集めるべき情報としては、正しいやり方でやっているという理念を示したものである。それにより希望をもてば人は情報を自分から進んで集めるか、焦りのような感情をもって科学的厳密さを追うこともなかっただろう。
当時にこういう指摘をしたひとはいたかもしれないが、正直全然探す努力をしていなかったので全く知らない。何か政治に語りたいなら積極的に情報をあつめるのが筋だろうけど、そういう動機付けが全然得られなかったんだ。そういった感情を掘り下げて得た見知で纏めているののがこの文章でもある。
それで原発初期から少しして以降の私の事を書く、私は精神病院に入院していた、院内ではTVしか見られなかった。3週間くらいで退院したが、TV軽くみたりネット軽くみても、原発に関しても地震に関しても似たような話というか、個人的に目に付く範囲で見た場合、個別の問題とでもいうべき問題について色々書いた文章ばかりにおもえて、はっきり云ってこういう物を私が読んで何か考える事に何の意味があるのかという思いを持っていた。そういう問題点を指摘したひとはあったかもしれない、だけど目に付かなかったのでどうでもよかった。
病院から退院してからは、大帝国とかランスクエストをやったりしてた、他に適当に本よんだり、読書メーターというのを初めて読書の記録をシステム的につけるようになって中々本を読むのが楽しくなったり、英語の勉強したりしていた、政治的なことに関してはそれなりに適当に見てたけどあまりよくわからなかった。だが10月02日にLeague of Legendsというゲームを始めて猿のようにやりまくっていた12月20日までやった。1試合平均35分前後かかる試合を900試合くらいしたと思う。その期間いつもみている政治的な主張の多いblogとか20サイトくらいいれているgoogle リーダーに全然アクセスしなかった。
それで、League of Legendsを止めてからまた本読むのが楽しくなってきて、色々と読んでいた。LoLで得られた経験から、本を読んで色々より強い影響を受けて、適当にblogにアホなおもいつき書きまくってた。どのような影響を受けたかというと、トルストイを読んで、社会全体の幸福を志向する事の美しさみたいなものを学んだ。
話を戻そう、つまり、色んな人が色んな目的でいろんなことを言っていたと思うが、私は2ヶ月もそれを無視してゲームやり続けても何とも思わなかったのだ。それがどういうことかというと、メディアは私の理屈で言えば、私の行動を変えさせる、メディアがしたい問題提起に私のモチベーションを喚起させる行動をとることは不可能ではなかった、何故なら凄い影響力の高い意見なら、私の見ている範囲のネットのblogにも情報は届くからだ。
そういう可能性をに影響を与える方法をとるということを考えることが大事であると思う。
その方法論を私なりに書きたい。
まず日本人には、共通のどういう社会を目指すべきかという根本的な理念が欠如しているように思う。たとえば憲法である憲法は理論上は国家のありようを書いた文書だ。9条には問題があることを知っている人はいるだろう。だけど、税金を使った事業、公務員などがどのような理念の元に動けと書いてあるか、そのことを強く考え思った人は日本人全体でどのくらい居るだろうか?憲法には全体の奉仕者という言葉が使われている。私はトルストイに感化されてからこの文章を読んだので、とても美しい社会を善くする概念だと勝手に思った。そしてその全体の奉仕者という概念に多くの税金により給料を得ている人間はそれほど熱意をもった意識をしていないかもしれないと思った。
また、ネットとTVの間には断絶があると言うべきだろう。ネットの人間がTVで語ることはあるが、可能性の喚起という観点でみると、相互に繋がりを持たせることに、それほど効率的なやり方ではない。なんか知識人っぽいひとがごちゃごちゃ言う番組はみんないろいろ言うから、理解するコストが高い。これだ!という正解をしめすことよりはインパクトが無い。なのでネット人がTVにでても、ネット人に興味をもってネットのそんな情報を見るのは、もともとそういった資質の高かった人と言う事も出来る。
そして、日本を本当に良くする為に私は、ある程度国民に判断の指針となる理念をもってもらうため、近代国家の行動の拠り所である、法、をそれの最上位である憲法の重要さを多くの人に見られるように説くことではないかと思う。
現状の憲法の厳密な、正しい正しくないではなく、憲法の理念に基づいた行動というのを国民が意識するようになったら、憲法の解釈は人によって多少差はあるにせよ、ある政治問題について考えるための、体系的な前提を持つことになるので、それを前提として政治意見を言えば同意を得やすくできるのでは無いかと思う。
そのための行動として最も効果的だと私が思うのは、選挙で当選する見込みがあるか既に当選した政治家が、日本の様々な問題点を全て憲法に対する意識が欠けているということに帰結させるような理屈で、日本社会を善くしようという、国民にポジティブな意識、モチベーションを喚起する理念を語ることが良いのではないかと思う。現在は断絶的なメディア間の差異で国民は虚無感を抱く可能性がとても高いが、その理念に基づいてTVもネットも語るというある種の、政治意見がとるフォーマットを構築することが効果的では無いかと思う。
そしてネットとTVと新聞の世界を繋げるために、政治家はTVで希望を語り人気を集め、その詳しい論拠はネット上にあると示すという形をとるのは効果的ではないかと思う。
大阪の政治では根源的なありようのような希望を語ることによって支持をえてるように伺える。そういったやり方を模倣してその流れを促進すれば日本は今よりもっと良くなる可能性があるのではないだろうか。
また考え方をかなり飛躍させて言うなら、多少政治色をもった意味で、中国等海外で人気があり日本でも知名度の高い
この文章は雑感のまとめであり厳密性には欠ける。
私がこの文章で問題にしたいのは、日本におけるネットのTV、新聞がどのような役割を果たしているかということある。
TV・新聞といったオールドメディアと、それと比べれば、まだ若いメディアといえるインターネットが日本全体に相互に与え合っている影響を考察し、その問題点から、今日本にいる政治的影響力を持ちうる人間はどのように振る舞うべきかと言う事までを書く。
まず、社会に対して書かれた文章というものは、文章を書く人間が、抱いた、(社会を)こうしたいという意識を、書くという方法を選択した結果生まれた成果物である。
という見知でこの文章では、各メディア(主にネット・TV・新聞)の主張を捉える。
そういった視点として、メディアの主張の厳密な正しさより、そのメディアの志した方向性によって流れされた情報と、それによって喚起さうる国民の感情について考える。
まず、311の地震では、日本の各メディアはその問題に関して様々な意見が流れた。地震発生直後は地震その物の話題が大きかったが、原発の問題が発覚してからは少しずつ原発に関する情報が増えて行ったと思う。
この時とそれ以降に、私が感じた事を書く。
私が一番中もくしたのはツイッター上で様々な見解が流された点だ。私が一番印象的だったのは池田信夫氏である。彼は原発の取材をした経験があると語り、様々な自説を展開していた。それに対して色々な池田氏に対する意見が流れていた、私には批判的な意見が優勢にみえ、池田氏はあまり信用できないなという意識をもった。しかし、他の発言力の高かった人達の発言を見ても、実際どういうことなのかよくはわからなかった。
当然である。原発問題初期は原発について情報が不足していて、推理のような部分が多分にあったからだ。色々な人が原発で何がおこっているかについて色々な意見をいっているように見えた。
そして時間が進むと、放射能の問題がでてきた、それに付いても様々な意見が流れていた。
私は無職なので、一日中でもその情報を追う事もできた。だがそんなことをしたいとは全く思わなかった。色んな意見が交錯してかつ、正しい情報すら不確かな要素をもっているこの状況に情報を追うより、ある程度(半年~一年くらい)立ってからそういった過程を経て生まれた、纏まった情報、例えば新書などを見たほうが確実に問題が良く分かるだろうと思ったから。それに、私が原発のことを知っても、対して社会に意味は生じないという思いが意識の片隅にあった。
その間のTVと、ネットの関係はどうであったかは詳しくはわからないが、様々な原子力に関連のある組織が善意でネット上で公開したものにたいして、TV側が紹介をするということはあったとだろうと思う。それによって、日本社会に対する情報の取得源としてTVの比重が大きい人間に、ネットの情報を参照するための意識を喚起した可能性は高い。
だがこのことによって、日本社会は対して良い影響を受けなかっただろう。何故なら、一般人が原発に関して詳しい情報を知ること自体に私はあまり意味が無いと思うからだ。まず理解するのがコストが高い。そこで問題にたいする意識が削がれるだろうと思う。そして一般人は政治的影響力があまり無いので、厳密に正しいという情報をもっていても有効活用はあまりできない。そしてそれらの厳密な情報は政治的影響力の高い人間にとってこそ有効であることは云うまでも無い。だが日本のネット上では政治的な問題の意識の高い人間の間で、原発の科学的に厳密な情報を求める意識が高くなっていたと思う。だが現在から見て見ると、科学的な厳密さを考える事をもっと専門化にアウトソージングして、その原発問題の結果が与える影響とそれにより、日本社会が取り得るべき選択の可能性に、日本国民の意識というコストを割くべきだったと私は感じる。これはあくまでネットの情報をあまり熱心に追わなかった私の感じたことである。本当にどのメディアも積極的に見ていなかった難しくてめんどくさくてついていけないと思ったから。
原発の科学的情報を流すという方法とることの理由の根本は、日本社会を善くしようという物であると思う。その方法がもつ目的の効果を最大化させるために取り得る方法は何か。
国民に問題が起こっているが、対処にあたっていて良い結果を生むために努力をしているという姿勢を示すことである。それにより国民は政治に希望と期待などのプラスの感情、モチベーションが喚起される。よってあの次点で注目を集めるべき情報としては、正しいやり方でやっているという理念を示したものである。それにより希望をもてば人は情報を自分から進んで集めるか、焦りのような感情をもって科学的厳密さを追うこともなかっただろう。
当時にこういう指摘をしたひとはいたかもしれないが、正直全然探す努力をしていなかったので全く知らない。何か政治に語りたいなら積極的に情報をあつめるのが筋だろうけど、そういう動機付けが全然得られなかったんだ。そういった感情を掘り下げて得た見知で纏めているののがこの文章でもある。
それで原発初期から少しして以降の私の事を書く、私は精神病院に入院していた、院内ではTVしか見られなかった。3週間くらいで退院したが、TV軽くみたりネット軽くみても、原発に関しても地震に関しても似たような話というか、個人的に目に付く範囲で見た場合、個別の問題とでもいうべき問題について色々書いた文章ばかりにおもえて、はっきり云ってこういう物を私が読んで何か考える事に何の意味があるのかという思いを持っていた。そういう問題点を指摘したひとはあったかもしれない、だけど目に付かなかったのでどうでもよかった。
病院から退院してからは、大帝国とかランスクエストをやったりしてた、他に適当に本よんだり、読書メーターというのを初めて読書の記録をシステム的につけるようになって中々本を読むのが楽しくなったり、英語の勉強したりしていた、政治的なことに関してはそれなりに適当に見てたけどあまりよくわからなかった。だが10月02日にLeague of Legendsというゲームを始めて猿のようにやりまくっていた12月20日までやった。1試合平均35分前後かかる試合を900試合くらいしたと思う。その期間いつもみている政治的な主張の多いblogとか20サイトくらいいれているgoogle リーダーに全然アクセスしなかった。
それで、League of Legendsを止めてからまた本読むのが楽しくなってきて、色々と読んでいた。LoLで得られた経験から、本を読んで色々より強い影響を受けて、適当にblogにアホなおもいつき書きまくってた。どのような影響を受けたかというと、トルストイを読んで、社会全体の幸福を志向する事の美しさみたいなものを学んだ。
話を戻そう、つまり、色んな人が色んな目的でいろんなことを言っていたと思うが、私は2ヶ月もそれを無視してゲームやり続けても何とも思わなかったのだ。それがどういうことかというと、メディアは私の理屈で言えば、私の行動を変えさせる、メディアがしたい問題提起に私のモチベーションを喚起させる行動をとることは不可能ではなかった、何故なら凄い影響力の高い意見なら、私の見ている範囲のネットのblogにも情報は届くからだ。
そういう可能性をに影響を与える方法をとるということを考えることが大事であると思う。
その方法論を私なりに書きたい。
まず日本人には、共通のどういう社会を目指すべきかという根本的な理念が欠如しているように思う。たとえば憲法である憲法は理論上は国家のありようを書いた文書だ。9条には問題があることを知っている人はいるだろう。だけど、 Permalink | 記事への反応(0) | 04:44
今の日本の政治システムは、限界が近づいている。うんたらかんたらていうタイトルを書こうとしたけど、
やめておいた。
そういう国は、余程人徳がある国王の国、ブータンのようなものでなければ
戦争で滅ぼされたり、
誰かにコントロールされる事は本来ない。
本来誰もが自由なはずだ。
どう生きてもいい権利が一人一人に与えられている。【日本には、貧富の格差はあってもカースト制はない。】
少なくとも、ニートをやっていようが罰される事はない。後ろ目たさがあるなら、そりゃあお前が何か過去に何かした事に対してだろう。
起業するのも自由、
アーティストになるのも自由、
表現するのも自由、【ただし、パクると叩かれる可能性は否定できない。】
オカルト紛いの宗教をやるのも自由【宗教法人は税金がめちゃくちゃ安くなったり、不思議でしょうがない。】
自己啓発セミナーは、ある意味では宗教団体のようなものだ。だが、宗教が存在してはいけないわけではない。
それも本人の自由だ。友人、知人がそういう類に入っていったら、きっと止める事はできない。
できる事は、気づかせてあげたり、いつか真っ当な道を生きるだろうぐらいに信じてあげる事ぐらいだとおもう。
話がそれ過ぎた。
自由過ぎて何をしたらいいのかわからないのだろうか?
そもそも何をしたらいいか?というのがなんなんだろう?
何がしたい?
という問いがあったとしても、
何かをしなきゃいけない。
ていうのは、生命体にあるんだろうか?
働かなきゃ生きていけない。
というのは、昔は紛れもない事実だったが、
それが事実ではない。
これは、人類史上
初の出来事で、
生活保護というシステムは、革命的なものだとおもう。豊かな国が生み出した堕落する事も許容したシステム。
と言ってもいいぐらいの成果物。
という事。
どうやったら飢えないで生きるか?
が課題だったように想える。
漁をするか、農業を営むか、
他の集団から守るために
村や街ができたりして、少しずつ少しずつ大きくなった。
最近流行りのブラウザゲームをイメージしてもらえればよくわかるとおもう。
そして、だんだんと大きくなった。
地球全体で、そのやりとりが行われている。
アフリカの各地で起きている革命なんて、一週ぐらい先をいっている話。
江戸時代の、天草四郎 ぐらい古い事やっているようなもんでしょ。
そんなんゲームの話でしょ?サムライスピリッツにでてくるキャラクターだよね?
ていうぐらい古い話。
別に日本の総理大臣 めっちゃ権限もってて偉いとかじゃないし、
ただ在るのは、
その人が考える思念があるぐらいでしょう。
ここでいう思念ていうのは、
その人が持っている、
思考や想い
それがなんだっていう話じゃない、
一人一人の世界観
狭い世界だと想う人もいれば、
問題だらけだと想う人もいる、
拡大している世界観を持つ人もいる
あれ?
世界て人それぞれ違うの?
ていうのが俺が生きてきて、
最大の気づきかもしれない。
やりたい事が見つからない。
どうなったらいいのか?
それがそうじゃない原因は何かて考えたら結構上手くいく。
でも、一人一人が世界を変えていく事で、
この地球はより良い星になる気がしている。
一人一人の中に、
世界を変える力ていうのがあるんだぜ。
それを使わないのは、余りにももったいない。
不幸でいるのも自由だが、
途中で、書き直しては、消したりしていたが、
途中、書いててこの文章が宗教臭い感じがして飽きてきたのでやめておいた。
でも、せっかく書いたので流してみる。
とりあえず、今想うのは、
せっかく与えられた命、
常識だの、恐怖なんかに負けて
生きる事をやめたらアホらしいよね!
ていう事。
今の日本の政治システムは、限界が近づいている。うんたらかんたらていうタイトルを書こうとしたけど、
やめておいた。
そういう国は、余程人徳がある国王の国、ブータンのようなものでなければ
戦争で滅ぼされたり、
誰かにコントロールされる事は本来ない。
本来誰もが自由なはずだ。
どう生きようと一人一人与えられている。
少なくとも、ニートをやっていようが罰される事はない。
起業するのも自由、
アーティストになるのも自由、
表現するのも自由、【ただし、パクると叩かれる可能性は否定できない。】
オカルト紛いの宗教をやるのも自由【宗教法人は税金がめちゃくちゃ安くなったり、不思議でしょうがない。】
自由過ぎて何をしたらいいのかわからないのだろうか?
そもそも何をしたらいいか?というのがなんなんだろう?
何がしたい?
という問いがあったとしても、
何かをしなきゃいけない。
ていうのは、生命体にあるんだろうか?
働かなきゃ生きていけない。
というのは、昔は紛れもない事実だったが、
それが事実ではない。
これは、人類史上
初の出来事で、
と言ってもいいぐらいの成果物。
という事。
どうやったら飢えないで生きるか?
が課題だったように想える。
漁をするか、農業を営むか、
他の集団から守るために
村や街ができたりして、少しずつ少しずつ大きくなった。
最近流行りのブラウザゲームをイメージしてもらえればよくわかるとおもう。
そして、だんだんと大きくなった。
地球全体で、そのやりとりが行われている。
アフリカの各地で起きている革命なんて、一週ぐらい先をいっている話。
江戸時代の、天草四郎 ぐらい古い事やっているようなもんでしょ。
そんなんゲームの話でしょ?サムライスピリッツにでてくるキャラクターだよね?
ていうぐらい古い話。
別に日本の総理大臣 めっちゃ権限もってて偉いとかじゃないし、
ただ在るのは、
その人が考える思念があるぐらいでしょう。
ここでいう思念ていうのは、
その人が持っている、
思考や想い
それがなんだっていう話じゃない、
一人一人の世界観
狭い世界だと想う人もいれば、
問題だらけだと想う人もいる、
拡大している世界観を持つ人もいる
あれ?
世界て人それぞれ違うの?
ていうのが俺が生きてきて、
最大の気づきかもしれない。
やりたい事が見つからない。
どうなったらいいのか?
それがそうじゃない原因は何かて考えたら結構上手くいく。
でも、一人一人が世界を変えていく事で、
この地球はより良い星になる気がしている。
一人一人の中に、
世界を変える力ていうのがあるんだぜ。
それを使わないのは、余りにももったいない。
不幸でいるのも自由だが、
増田は実際そういう目にあった人なのですが、別に感想文だけに限ったことじゃなくて、
自由研究で好きなことがんばってやったら、まわりの適当さの中でめちゃめちゃ浮きまくり、
教師に「こんな研究ばかりやってないで遊びなさい」とおこられたりとか、
力が入った工作を「親に手伝ってもらったに決まってる」と非難されたりとか、
枚挙に暇がないですよ。
だから、教師の望む成果物を作る練習をするのが夏休みの宿題だと思ってたし、思ってる。
違うこともあるんだーとびっくりしているよ。
自分もそこら辺ひっかかった。
この定義だと広すぎてカオス自体が「コミュニティ」含まれてしまうのでは、とか
「原著作及び二次創作の送り手と受け手」まで限定したとしてもやはりまだ(二次創作者でもある)カオスが含まれるんじゃね?とか
この定義だと、これまたカオスが作った二次創作物はどうなるの?とか
反応感謝。おかげで論の穴や新しい観点が見えてきて面白い。この問題をより突き詰めたら「現代オタク論」とでも呼べる議論ができるんじゃないか。
ってか疲れてきたから真面目口調やめていいよね? あと眠くなってきたから寝る前に四点だけ言わせてくれ。
起きたら練り直して反論するかもしれない。しないかもしれない。
http://anond.hatelabo.jp/20110803024921
『オタクコミュニティにおける「二次創作」はその成果物が必然的にコミュニティに還元されるので収奪ではない。』ってところがよくわからなくて、例えば二次創作コミュニティの中にも一次創作者や第三者がみたらちょっと目をそむけたくなるような割合が多い表現ってそれなりにあると思うんだけど(自分の主観で申し訳ないんだがR-18Gとか)、これだとそういう表現をもひとまとめに収奪としてしまいかねない気がする。
実際はそういう人たちも特に収奪とは認定されてないし、二次創作コミュニティの中にもそういうものとして存在しているし特にそれで問題はないはずなんだけど、だとすると前者とカオスラとの差はどこにあるのかということにならない?
元記事を正しく読んでほしい。二点、指摘する。
ついでに二点、蛇足する。
タイトルで言いたいことは言い切っているのだけど、以下補足。
「カオス*ラウンジがこうなら二次創作同人*1は〜」という言説は比較として正しくない。「カオス*ラウンジ」は現代アートの活動主体のひとつであり、「二次創作同人」はジャンルを指す言葉だからだ。正しく比較するなら「カオス*ラウンジがこうなら【ここに個々の二次創作同人主体(サークルもしくは作家)】は〜」もしくは「現代アートがこうなら二次創作同人は〜」である。
では「カオス*ラウンジがこうなら個々の二次創作同人主体は〜」という比較を考えてみる。文脈はもちろん著作権である。著作権法をあくまで愚直に適用するならば、原著作者の許諾を得ない限り、前者も後者も違法であることに疑いはない。ここでよく持ち出されるのが「二次創作同人は黒ではなくグレー」「〜版元から黙認されている」という言葉である。これは、二次創作同人でも言わば「一線」を越えてしまった事例が存在する(有名なものでは、ときメモビデオ事件*2、ポケモン同人誌事件*3、ドラえもん最終話事件*4など)ことを考えれば、全ての二次創作主体に対して適用できるものではない。しかし、それでも、多くの二次創作同人サークルや作家は原著作者から訴えられることなく活動している。
なぜか。もちろん、主体の数が多すぎて原著作者が訴えきれない、あるいは主体の経済的な利益が小さすぎて訴え損になるという考えはある。しかし、それに加えて、私は彼/女らがコミュニティにその成果物および/または価値を(結果的)に還元しているからだと考える。ここで言う「コミュニティ」とは、原著作の送り手、受け手、その他一切合切の関係者の集まりという意味である。彼/女らの成果物はそれが二次創作物であるがゆえに、必然的にコミュニティに還元される。二次創作物によって原著作のファンが盛り上がり、その盛り上がりがより深いコミュニティを形成し、さらに新たなファンを呼ぶ事例を、私はこれまでに何度も見て来た。とある作品の同人イベントに原著作者がお忍びでやってきて、参加者に対してこっそり「ありがとう」という言葉を残していった例も知っている。また、価値の還元としては、二次創作同人活動がきっかけで、その原著作者と関係がある商業媒体に登用された二次創作同人作者も知っている。価値とは何も経済的なものに限らない。むしろ長期的に見れば、人的な価値の還元は経済的なそれよりも利得が大きいだろう。
さて、カオス*ラウンジである。彼らは他のコミュニティから収奪を行っていると言える。彼らのホームグラウンドたる現代アートからでなく、オタク系の諸コミュニティから、だ。彼らはその「アート」の素材をオタクコミュニティに依存しているにも関わらず、その成果物は現代アートコミュニティに向けて公開されており、しかし彼らが得た価値はオタクコミュニティに還元されることはない。控えめに言っても、カオス*ラウンジからオタクコミュニティに向けて、オタクコミュニティが有する価値(=カオス*ラウンジにとっての素材)の利用について対話の申し出がなされた例を、私は知らない。この申し出は価値を利用される側であるオタクコミュニティからでなく、利用するカオス*ラウンジからなされて然るべきであろう。この対話を行わないまま、または不十分なまま事を進めるのならば、カオス*ラウンジはオタクコミュニティからの批判を甘受しなければならない。その上で、アートの力でもってオタクコミュニティを納得させる、素晴らしい作品によってグウの音も言わせないのが筋だろう。このふたつができないのならば、彼らの括弧書きの「アート」はアートではなく、ただの収奪に過ぎない。そして事実、オタクコミュニティからは彼らの「アート」活動に対する批判が上がっている。「水かけアート」に対するデザイナーからの批判*5が最も分かりやすい一例だろう。
そう、カオス*ラウンジの「アート」の諸問題の本質は、著作権法論でもなく、同人論でもなく、実はアート論でもない。コミュニティ論なのだ。対話が不十分なままに収奪する者と、収奪されることに反発するコミュニティの問題なのだ。したがって、この問題は次のいずれかが為されなければ解決したとは言えない。カオス*ラウンジがオタクコミュニティからの収奪行為を謝罪し、今後一切の収奪を行わないという宣言をし、それを履行する。あるいは、カオス*ラウンジが行う「収奪」行為が収奪でないとオタクコミュニティに対して対話または括弧書きでないアート作品の発表による説得を行う。それまでは、収奪されたオタク系の諸コミュニティ側からの「作品を勝手に使うな!」という類の非難は許され続け、カオス*ラウンジが許されることは決して無いだろう。
久しぶりに長文書きたくなったけど書く場所が無いのでここで。
僕は何かを創るのが好きだ。
何かを創っていると、とても楽しいし、
その成果物は誰かに楽しみを生んでくれるという好循環があるから。
「何かを創ったことが無い」人は仮に居たとしても、
「他の人が創った何かで楽しんだことが無い」という居ないと思うので、
きっとこの価値観は多少なりわかってもらえると思う。
気持ちは意外な事に通じてしまうもので、人に楽しんでもらえると僕も楽しくなるから。
僕にとってのクリエイティブの根幹はそこにあり、それがモノを創る理由だ。
創る気力が無くなってしまった。
あんなに楽しかった創作活動は、ただダルいだけで時間を浪費するだけのものになってしまった。
なぜそんなことが起こったのか、僕は最近やっと分かった。
実は、僕はある時点から創ったものに対してお金を貰うようになった。
お金を貰うというのは本当に大変なことで、
「いつまでに、どんなものが欲しい」とか
そういった要求に全て答えなければならない。
それが、この悪循環の原因だと、ぼくはやっと気づいた。
創っている本人が楽しくないものに誰かを楽しませる事が出来る筈がないと、
僕はいまになってこんな簡単な事にやっと気づく事ができた。
じゃあ創る事はなぜ楽しかったのか考えた。答えはすぐに出た。
思い返せば、創る事が楽しかった頃はすべてが自由だった。
どんなものを創ろうが自由だし、ぼくは僕の好きなときに好きなものを創ることができた。
どんな束縛をも無視して、自由にものを作っていた。
実を言うと僕はいま、すごく悩んでいる。
自分を束縛しているものから抜け出す手段の1つはとても簡単だ。お金をもらわなければいい。
だけど、社会は残酷で、利益を生み出さない者を生かしてはくれない。
「楽しい」だけじゃ飯は食えない。
僕はこれからどうしようか、とても悩んでいる。
ただ、1つだけ言える事は、楽しくない創作はもはや創作ではない。という事。
僕はとりあえず、僕が思いついたもう1つの選択肢である「楽しんで創作する」という手段をとってみようと思う。
それで何かが変わるかもしれないし、何も変らないかもしれない。
http://blog.livedoor.jp/kensuu/archives/51448658.html
という記事を見た上での話なので、先にご一読ください。
内容は、IT系で働く自分からするとよくわかるのですがIT未経験者はよくわからないかもしれません。そのあたりを詳しく書きたいと思います。
終身雇用が崩壊して、いわゆる会社に就職するわけではなく、本当の意味で仕事を身につける必要があるという点は本当にそのとおりだと思います。
いわゆる大きい会社の話をすると、かつてクライアントで一緒に仕事をした大きな会社の人々の中でも、いわゆる偉い人というのは声が大きかったり、挨拶がしっかりしていたりとそれぞれいいところはあったと思いますが、仕事が出来るかと言われると、出来ない人ばかりです。
極端な話、自分(もしくは自分の部下)がどんな案件を発注しているか把握していないし、例えばワイヤーフレームレベルのものを見せたところでそのサイトやサービスがどうなるかなんて想像もできない人です。ただひとつのメリットは、適当に風呂敷を広げれば金だけは払ってくれることぐらいです。(だから大手SIerとかが食っていけるわけですが)
一方、いわゆるベンチャーで役員なんかをやっている人っていうのは、例えば部全体の新サービス勉強会みたいなのにも普通に参加して、普通にコメントしたりするし、部下のやっていることは大体把握していて、部下が休んだりすると自分で業務を肩代わりしちゃったりできる人が結構います。
このタイプの、いわゆるプレイング・マネジャーとカテゴライズされるような人の下で働くのは、彼らが自分と同じ水準での労働を求めるので大変だけれども、短期でとても成長しますし、自分のワークスタイルに良い影響を与えてくれます。これがベンチャー企業のメリットです。
もう1点触れなければいけないのは、ベンチャー企業って何?って話です。
いわゆるIT企業でも、大きく分けると何パターンか、違いがあります。
・事業会社
・小さい何でもやる会社
NTTデータみたいな会社は僕はIT系とは思ってないので、除外します。
順に説明すると、制作会社はクライアントから発注されたページの制作や企画、運用などをやる会社です。基本的にはクライアントありきなので、人から言われたことをやる会社です。
事業会社は、自分の会社で収益の上がるサービスやサイトを持っていて、その運用や最適化などをしている会社です。人から言われていることではなく、自分の会社のサービスを使ってくれる人からお金をもらったり、広告でお金を貰っている会社です。
小さい何でもやる会社は、社員が数人〜十数人ぐらいで、制作の受託もやるし、自社サービスも立ち上げるしと言ったいわゆる何でも屋さんです。
ざっくり分けると、この3パターンから生み出される人間はそれぞれ違う人になります。制作会社で仕事の出来る人は、外部との調整が上手い人が多いです。正直、成果物のクオリティなんてどうでもよくて、クライアントが満足してくれればいいので、とにかく仕切りが上手くて頭の回転が早い人が多いです。
事業会社で出来る人は、割とじっくり真面目にやるタイプの人が多いです。サイトのトラフィック分析やUI分析をじっくりやり、ユーザー満足を上げたり、コンバージョンを高めたりするのが主な仕事なので、てきぱきとある程度何かを犠牲にしながらスケジュールを守る制作会社タイプよりも、抜け漏れが無いように一歩一歩着実に仕事をするタイプが重宝します。
小さいなんでもやる会社で出来る人というのは、完全なオールラウンドプレイヤーです。コードも書けるしクライアントと調整もできるしデザイン絵もかける。企画書作らせたら超絶スピードでハイクオリティな物ができるみたいな人です。でも人に教えるのは苦手だったりします。
じゃぁ主題に戻って、IT系で働くことのメリットを説くと、これはつまりこの3パターンの会社たちの中で、自分がステップアップして色々なスキルを学べるってことに尽きます。で、IT系は転職回数を気にしないので、別に辞めまくっていたからといって、その人のスキルがきちんとしていればどこでも就職できます。
おすすめコースとしては、小さい会社でベースの知識をつけ、制作会社で対外調整などを勉強し、事業会社で余生を過ごす。っていうのが一般的です。やっぱり小さい会社は多いし入りやすい。もちろんブラック度は高いですが、そこは我慢です。多少の苦労なくして成功はありません。制作会社は特に大きいところがおすすめです。大きい案件の仕事が出来ますし、分業が進んでいるのでいわゆるディレクションという業務が学べると思います。それらで培ったスキルや経験を活かして、最後は事業会社に行くと。このころには結婚していたり子どもがいたりして、プライベートも大事です。事業会社系はまぁまったりとしたところも多いので、比較的楽に暮らせるようになるはずです。
もちろん、ここに書いたことは例であって、超絶ブラックの事業会社もありますし、やたら安定したITベンチャーもあると思います。まぁその辺は例外もありってことで。
最後にひとつ触れておきたいのは、いわゆる大手SIerという存在です。IT系人気就職ランキングで某社が1位になったりしていますが、彼らはIT系ではないと思います。あれは基本的にITにちょっと詳しい代理店と考えた方が良いでしょう。直接的な発言は控えますが、おすすめはしないです。あそこに行くぐらいなら、別の大企業の方がおすすめです。
学生でITを目指す人も増えてきていると思います。ITは、本当に仕事を身につけるという意味で素晴らしい業界ですし、転職も出来るので失敗を修正しやすいです。でも逆に、自分のステップアップイメージが無いと厳しい業界でもあります。そのあたりを考えつつ、選択肢の一つにITを入れてみてはどうでしょうか。
俺は無能だ。
新しいことを学ぶのは好きなんだ。
最近ではRubyを勉強している。プログラミングで在宅ワークなんて出来ればいいなと思っているからだ。
俺は無能だ。
Rubyの色んな参考書を買ってみた。理解できるところもあれば理解出来ないこともある。それでもただひたすら読んでいる。
俺は無能だ。
当初の目的。在宅ワーク。いったいどうやったできる?アフィ?Rubyをアフィにどうやって利用したらいいんだ?
どんなテーマでアフィをすりゃいいんだ?それさえ決まってないのに、手段から手を出す俺。
人脈、金無し。そんな俺は今生きて行くことができるのか?一生アルバイト生活なのか?どっかの会社に就職なんてしたくもない。
上司に媚びへつらって、まかされた仕事で残業とか、そんなの嫌だ。
みずからが仕事をとってきて、好きな時間に仕事をやる。根詰める時は根詰めて、休むときはひたすら休む。
そんな生活を夢見て勉強しているが、どうやって活かしていけばいいんかわからない。
その時pray for japanムーブメントが起きていたのは知っているだろう。
instagramのハッシュタグpray for japanの写真一覧をサイトに載せるとか、そういう事をやってみたかった。
今からでも遅くない?
でも、技術足りない。
http://savejapan.simone-inc.com/index.html
save japan。
まったく思いつかなかった。こんな発想。
俺はやっぱり無能だ。
いったいどうすれば?霧の中自分をごまかして生きている。自分よりモノを知らないやつを相手にしながら
商談先を見つけて、提案して、意見を聞いて、すり合って、成果物を作りたいんだ。
いったい何をすれば、望みの生活を過ごすことができるんだ?
どうやって・・・どうやって・・・
「プログラマー」と名乗っている人をあんまり信用しないほうがいいというのはよく言われる話だが、最近そのことを痛感している。今やってる仕事の一環として、「ほかのプログラマーにプログラムを書いてもらって、それをレビューする」という作業があるのだが、この「ほかのプログラマーが書いたプログラム」というのがひどい。クズみたいなプログラムばっかりだ。
ってな、黒夢の『C.Y.HEAD』という曲の歌い出しですけど、最近この部分がぐるぐるぐるぐると頭を回るものだよ。
ええ、わかってますよ。仕事相手の悪口を公的な場で言うなんて、問題があるって言うんでしょう。まあ、それもそうなんだけど、たいしたプログラムも書けないくせにプログラマー名乗ってる奴らに本当に腹が立つからせいぜい堂々と書きますよ。
「忙しくってコードの質が下がってる」っていうような事情もあるでしょうが、まともに納品が出来ないなら仕事なら受けるべきでないわけだし、ビジネスの世界は「結果責任」を負うものですから、「事情」なんてのは知ったこっちゃないね!
……っていうふうにね、「仕事」というのは基本的に「事情」を無視するものなんですね。だから基本的にはあんまり僕は「仕事」が好きじゃない。とはいえ、今いっしょに働いている人たちはかなり「事情」というものを意識していて、おかげでそれほど辛くはないんだけれども。ただ「ほかのプログラマー」みたいな、外部の人たちは、事情を共有することができないので、「あー! クズみたいなコード送ってきやがって!」ということにしかならない。「事情」を共有できるような、近しい距離の人たちとのみ、仕事をしていたいものですよ。
で、そのコードがどういうふうにダメなのかというと、主に2つの側面がある。
【1】文法が正しくない、プログラムが読みづらい
【1】はもう、そのまんま。文法がおかしいとか、同じ様な処理をコピペで5回かいてるとか、1メソッドが長すぎる上に変数が"hoge"とかでわかりにくく、意味を取るのに困難があるとか。「こんなプログラムに金を払わなければならないのか……」と思うとめまいがする。何せ、それを「まともなプログラム」にレビューするのは僕なのだ。で、その作業に対してお金は一銭も入ってこないのだ。
不具合・先祖返りなんかは誰にでもあるミスだし、それを点検するために僕がチェックしているわけなので、そのあたりはいい。しかし文法の狂っているプログラムを修正するというのは、時には全体を書き換えなくてはならなくて、非常に労力である。それに、受け取ったコードは「ほかのプログラマー」さんの「成果物」であるので、あまり手を加えすぎるわけにもいかない。それが「仕様書」をもとにしたコードの場合、あまり修正するとクライアントに「自分はこんなこと言っていない」と思われてしまう可能性もある。だいいち、こんな作業にあんまり時間をかけたら、ほかのもっと大切な作業をする時間がなくなってしまうのだ。こういった様々な事情を考え合わせ、うまいことバランス取りながら、修正の妥協点を探していくわけだが、これはとてつもない頭脳労働である。疲れる。
【2】は例えば、「バリデートチェック」のためのコードなのに、「intは2バイト」ということばっかり書いて来るとか。「intは2バイトはわかったけど、いつからバリデートチェックになるのだろう」と思って読み進めても、最後までintは2バイトしかチェックしていない。依頼主であるからSIerは、そんなプログラムに金を払いたがるだろうか?
もっと具体的な例。ゲーム会社が、「我が社のキャラクタ版権を利用して、凄く売れるSNSゲームを作ってくれ」と依頼してきたとする。プログラマーが打ち合わせに行くと、企画者は「動的フラッシュも使って、100万ユーザーが遊べる。。。」という話を延々とする。プログラマーは「了解しました」と言って安請負する。そのプログラムはメイン処理だけで1000行というもので、memcachedの「mem」の字もないし、「オブジェクト指向」といった概念も勿論ない。これでは仮にSNSゲームがリリースされたとしても、100人さえも遊べない。
このくらいならマシなほうで、ひどいのになるとフリーランス会社から紹介されたプログラマーで、「SQLはselect文くらいしかやった事がない」とか平気で送りこんでくる。たった一人で。
また、意味のないコメントも多い。ループ処理に、「イントのiに3を代入する」と書いて、何の意味があるのだ? せめて「処理速度改善の為にIntegerは使わずにプリミティブのintを使う!」というふうに書くのが本来だと思う、まぁ嘘なんだけど。だって、そんなコメントみて、「なるほど」って誰が思いますかね?
コメントには必ず「目的」というものがあって、次にソースを読む人は処理の概要を知りたいのだから、「プログラム」をそのまんまコメントにしてもダメなんですよ。そういう単純で、最も重要なことが意識できないで、どうして堂々と「プログラマー」なんて名乗れるのか知らん、と思うぜ。
一番、腹が立つのは「偽SE」ですね。「プログラムはだれでもできるでしょ、重要なのは業務知識でしょ!」みたいなのが偽SE。こういうのを本当に思っているのがいる。業務の画面遷移さえ理解してないSEがだよ。
上の例はさすがに大げさでも、「僕は、プログラムが好きでソフト開発者になりました」とか言ってまともにプログラムが書けない奴は、頻繁にいる。自分でサーバ建てろよ。自分で簡単なサービスつくる事もできないなら、向いてないから辞めてしまえ。
「オレはサーバエンジニアじゃないからコマンド打てない」みたいなね。
世も末だ!
ここに挙げたのは「最低限」のことで、「より読みやすく」「より自然に」「より美しく」というところを、自分の能力の限界まで突き詰めてこそ、プロってもんじゃないんかね。もちろん時間や諸々の事情と相談してのこととはいえ、「26歳の若造が吐き気を催すような拙いプログラム」を送ってくる、30代40代のプロプログラマーってのはいかがなもんでしょう?
身の程を知れというか。
なんでプログラム書けない人がプログラマーなんかやってんだろ?
んで、なんでそういう人に「仕事」があるんだろうか?
身の程を知れよ。
自分の欲望ばっかり考えやがってね。
入社4年目。
その中のひとりが、どうしようもなく仕事ができなくて困ってる。
何をどう説明しても、頼んだ仕事をまともに仕上げてきたことがない。
同様に指導してきた他の新入社員は、それなりにできるようになっている。
手が空いていれば、こちらから彼の状態を聞けるが
年明けから繁忙期に入ってきたこともあり、彼に頼む仕事の量が減っている。
「コピーとってきて」
という仕事すら、まともにこなせない彼に仕事を任せるのが不安なのだ。
当初はミスを叱っていた上司も、今ではまったく彼に目をかけなくなった。
彼の、何もしない時間が日に日に増えていく。
彼には実は別の目標があって、ある日突然
なんて言う展開になったらいいのに…
と本気で願ってたりする。
彼が恐い。
「可能性がある」というのは「確率的に記述できる」という意味になると思うけど、可測(初等的に言うと確率がゼロでない)であるという根拠はなに?
(数学的には、例えば有理数というのは可算無限個しか無いから、実数全体という空間の中で考えた確率測度では有理数は非可測(確率ゼロ)になる。有理数という数は存在するけど、確率的には無いのと同じになっちゃうという感じ。)
「資本主義の枠内での変化でしかない」ならば「滅びない」という論理の繋がりがわからない。
それは願望の話?
『必要が無い』というのは『無くても持続可能である』ということかもしれないけど、
俺の主観になるが、最近の『ちゃぶ台返し』というかハードランディング連発って、
資本家が、次の状態に過剰に適応しようとするためにドミノ倒しになっているだけだと思うんだよね。
『無くても持続可能である』というかソフトランディングの可能性は常にあると言わざるを得ない。
選択ミスってんのは人間であって、資本主義の構造的欠陥では無いと。
その市場経済に必要な要素である価値の定量化をもたらしたのは資本主義なのだが。
利便性は双方がもたらしたものであって、それまで成果物しか取引できなかった市場に労働や金融など目に見えない商品を資本を介して取引できるようにした資本主義は利便的では無いと?
ん?
リソースが有限か無限かと言われれば有限だろうって事は認めるけど、人間はまだモノポリーと違って最後の壁を見てはいないし。
労働や金融を資本で計り、それをもって取引する行為がどう行き詰ると言うのだ?
資本主義が何度でもよみがえるのではなく、資本主義が維持されていくためには定期的なちゃぶ台返しが必要となるだけ。因果が逆。
定期的なちゃぶ台返しの必要ないよ。
そもそも、労働や金融を資本で計り、それをもって取引する行為は滅んだりしないと思うが?
まぁ数日のうちに世界が赤く染まったりしたら滅んだりするかもな。
たぶん、企業福祉の崩壊とか、賃金格差ヤベェって感じての事だと思うんだけど、
それ、資本主義の中でも特定の国でしか見られない(アジアモデルの特徴である企業福祉崩壊と共に超高齢化社会に突っ込んだ)現象ですから。
資本主義は大枠でしかないから、ものすごい数のモデルが存在するのよ。
あぁ、モデルの変化が急激であればちゃぶ台返しに見えるのかしら?
ほんとは緩やかに変化すれば良いんだけどね。
一言で言うと、あまりにも現実での自分とネットでの自分の限界にギャップが生じてしまうと、自分の存在のありかたに疑問を抱いてしまうということです。
ネットで他人に対して無償の努力をするのも、結局自分が充実したいから。喜んでもらえると自分が楽しいから。本心から人の為と思ってピュアな良心で行動しているわけではない。自尊心を満たす為に、振舞っているだけとも言える。その結果、他人からお世辞とはいえ感謝や親しみの言葉を貰えることは自分の心を潤すし、それはリアルでは得られなかった経験だった。
僕だってお世辞だとはわかってる!
けど、人は本当に関わりたくない人、関心のない相手に、毎度お世辞を言う労力をいちいち使わない。特にネット上では、相手を無視しようと思えばリアルに比べて簡単にできるのだから。もし、僕が相手に不快感を与えているとして、それでもお世辞を使ってくれているのだとしたら、なおのこと相手に負担をかけていることになる。
本心にしろお世辞にしろどちらにしろ、相手から好意的な言葉を貰ってそれで自分は充実感を感じてしまっているのに、自分はそれに見合うだけの代償を相手に払っていない。虚構でしかない。相手を騙しているにも等しい。
ネットとはいえ、5年以上の付き合いになる相手もいる。その中には仕事を一緒にした人もいる。相手も虚構とわかってお世辞でつきあってくれてるのかもしれない。けど、仕事は現実に成功して、僕は収入とクライアントからの信頼を得た。そこまで来るともう、虚構とわりきれる問題ではない。
自分は、聞くのと話すのと体に障害があるので、精神的には正常でも現実では知的レベルに異常がある人だと思われやすい。常にそういうフィルター下で評価されてきたし、親でさえそうだった。言葉でコミュニケートが正常に取れないということは、現実社会では一人前になりえない。そこまでネガティブな評価をされないにしても、相手にするのが面倒だからいないものとして扱われることが多い。どんなに勉強して、どんなに作品や成果物を作っても、それが評価されて仕事の評価に繋がったことは数えるほどしかなかった。
けど、ネットではビジネスの相手でもまずはメールのやりとりから入ることができる。打ち合わせも文字を介するチャットでなら、会話の輪に入って相手とイーブンな立場で発言することができる。これはリアルではありえないことで、いちいち相手に言わなければ僕の現実がわかってしまうことはない。(最近たまにスカイプを要求されて適当にごまかしてるけど、すでに仕事で信用関係できてるとなんとかなってしまう)今ではもうリアルで得られる収入とネットの付き合いから持ってきている仕事の収入とが逆転してしまって、ネットだけで食っていける状態になってしまってる。食えるほどのお金を貰って、もうお世辞とかそういう問題じゃなくなってしまってる。
もう、ネット上での自分とリアルでの自分と乖離しすぎていて、許容できなくなってる。虚構だったはずのネット上の自分が稼いだ金でリアルの飯を食ってる。一体なんなんだって気持ちになってくる。全てが馬鹿馬鹿しくなってくる。
今年は社会人として一区切り付く年となりそうなので、これまでに
仕事をしてきて思った事などをまとめたいと思います。備忘録です。
客先だけでなく、社内、グループ内を含め時間は必ず守るようにしましょう。
レビューの日にち、時間、資料の提出期限、飲み会の参加表明の記入などなど、
周りに与えるインパクトに大小はありますが、時間を守るのは絶対です。
もし、遅れる場合は必ず連絡しましょう。遅れてからでは遅いです。
連絡するタイミングも重要です。直前の連絡は遅れた事と同じです。
ただし、遅れる事を連絡するタイミングは、早すぎるのも良くありません。
できる努力をしていないと思われるからです。連絡のタイミングは見極める
必要があります。
作業を依頼する時は必ず期限を切りましょう。
なぜその期限に完了する必要があるか説明できないと、人は動きません。
また、逆に期限を設定されない作業が降ってきた場合は、期限を設定しましょう。
そして、なぜその期限までに完了させないといけないのか聞きましょう。
自分は誰に管理されているのか、エスカレーションは誰にすればいいのか、
必ず明確にしましょう。
また、自分が人の上に立つ場合は、管理下の要員以外は原則動かせません。
管理下以外の要員を動かす場合は、その人の管理者と調整する必要があります。
作業の基本は Plan→Do→Check→Action です。
このPが曖昧だと火を噴きます。計画は絶対に手を抜いてはいきません。
1.出来るだけ細かく作業項目を洗い出します。
例)xx機能の詳細設計書の作成、xx機能のyy処理の試験実施、
2.どのくらいの量があるか洗い出します。
xx機能 -
yy処理の項目数:100項目
この時、上の例でyy処理、zz処理の中でも必要な時間が変わる場合は、
重み付けをします。
例)
xx機能 -
yy処理の項目数:100項目実施の時間=5分×20項目+10分×80項目=900分
zz処理の項目数:200項目=10分×150項目+15分×50項目=2250分
合計:3150分=52.5時間=8人日(1日を7時間とする、小数点以下は切り上げ)
※1日7時間の根拠:1時間はログの整理や事後作業の時間とする
また、上で作った見積もりは、PDCAのCheckでも使われます。
具体的には、結果の報告です。
見積もりと乖離があった場合の説明に用いたり、見積もり通りに進捗した場合の
振り返りに用いたりします。
リスクとしては、障害の発生、バグ検出による改修からリリースまでの作業、
上乗せしておきます。
末端にいて、客先を意識しにくい場合は、自分がいる立場の一つ上に立って
担当者の場合は管理者の、管理者の場合は更に上の管理者の立場で物事を
考えます。
例えば、報告資料のフォーマットから、エクセルの文字の大きさや網掛け等の
書式といった、細かいところまで、人に見てもらう資料は気を使わないと
いけないところがたくさんあるはずです。
。。。うん、当たり前の事書いてますね。でもなかなかやってくれないし、
★今日はここまで。