はてなキーワード: 自由恋愛とは
弱者男性をめぐるイメージは人によって違う。当事者の間でも批判する人々の間でも違う。それぞれの人の中で意味が違うもののために、あるいは違うものに対して、十字砲火が続いてわけがわからないことになっている。無理に定義をしようとすれば、それだけで違う立場の人間同士がもめ始める。というわけで、いろいろな記事や増田やブコメの数々を参考にして、自分が把握できた範囲で「弱者男性っているの/誰なの」の広がりを示す樹形図を作ってみた。ぜんぜん「漏れなくダブりなく」ではないし、要約も雑だし、論理的におかしい部分もあるけど、あくまで自分用のメモとして。
「いるよ派」の色々な主張を見てみたところ、まず「属性弱者派」と「関係弱者派」という大きな流れがあり、それぞれの中では「経済弱者派」と「性的承認弱者派」が突出しているように感じた。両方を意識している「総合的弱者派」の中にも、弱者男性は所得が低いから女性とも関係を持てない(性的承認の不足は経済力の低さの二次的結果である)という見方(経済最終審級派)と、所得やその他の属性がどうであっても、女性や他者と関係を持てていないこと自体が弱者男性の生きづらさの核心だという見方(関係最終審級派)がいる。前者には「所得さえ充分に高ければ、容姿や年齢が社会的に不利だったとしても女性との関係を持てる(持てた)可能性はある」という含みがあるが、後者は、所得の多寡とは必ずしも直結しない独立した問題として、関係や承認の不足をとらえている。荒っぽくまとめると、弱者男性は「貧乏で、結果として非モテでもある男性」か「非モテで、その一因が貧乏にもある男性」のどっちかとして語られがちだ。
なお、弱者男性論と絡めて登場しがちな「KKO」(キモくて金のないおっさん)という概念を提唱した田比岡(一柳良悟)氏は、KKOについて語るときにまず『根源的なさみしさ』に言及していた。https://togetter.com/li/825742 彼は「金だけの問題にすると、そこから抜け落ちてるキモい人たちはどうなるんだ、っつうことが言いたいわけで」「根源的なさみしさは、それ単体で、お金を払って引き取ってもらえるものではないのよね」とし、「キモくて金のないオッサンの経済的な困難でない部分、すなわち公的、客観的、定量的なところではないところ」を考えたい、としていた。これを更に言い換えてみると「キモくて金のないオッサンの〈私的で、主観的で、定性的なところ〉」となり、しかもそれは田比岡氏の中では「根源的なさみしさ」と紐づいている。何となく、男性性という殻の中にある柔らかく傷つきやすい部分の機微に触れるような感じで、これはまだ我々の社会がうまく言語化しきれていない要素のように見え、個人的にはもっと知りたいと思う。
あと「弱者男性」についてのイメージは、個々人がどの時期に、どのルートで弱者男性という概念に触れたかによって大きく異なる可能性があると思った。歴史的にみると、弱者男性論はもともとは赤木智弘氏がフリーターという就労状態から立ち上げた洞察で、基本的には「属性弱者派>経済的弱者派」に近い論調だったが、一方で関係への渇望も滲んでいた。それがどこかの時点で非モテ論と結びついて「関係弱者派」的なニュアンスが深まっていったように見える。最近は非モテ・上昇婚・負の性欲・インセル・エマ・ワトソンなどが「弱者男性」という言葉とともに論評されてたりして、弱者男性概念と性的承認との結び付きがより強まっている印象がある。こういう歴史的変化も、弱者男性をめぐるイメージの錯綜を招いているように感じた。
何か思いついたらまた追記するかも。
弱者男性をめぐるイメージは人によって違う。当事者の間でも批判する人々の間でも違う。それぞれの人の中で意味が違うもののために、あるいは違うものに対して、十字砲火が続いてわけがわからないことになっている。無理に定義をしようとすれば、それだけで違う立場の人間同士がもめ始める。というわけで、いろいろな記事や増田やブコメの数々を参考にして、自分が把握できた範囲で「弱者男性っているの/誰なの」の広がりを示す樹形図を作ってみた。ぜんぜん「漏れなくダブりなく」ではないし、要約も雑だし、論理的におかしい部分もあるけど、あくまで自分用のメモとして。
「いるよ派」の色々な主張を見てみたところ、まず「属性弱者派」と「関係弱者派」という大きな流れがあり、それぞれの中では「経済弱者派」と「性的承認弱者派」が突出しているように感じた。両方を意識している「総合的弱者派」の中にも、弱者男性は所得が低いから女性とも関係を持てない(性的承認の不足は経済力の低さの二次的結果である)という見方(経済最終審級派)と、所得やその他の属性がどうであっても、女性や他者と関係を持てていないこと自体が弱者男性の生きづらさの核心だという見方(関係最終審級派)がいる。前者には「所得さえ充分に高ければ、容姿や年齢が社会的に不利だったとしても女性との関係を持てる(持てた)可能性はある」という含みがあるが、後者は、所得の多寡とは必ずしも直結しない独立した問題として、関係や承認の不足をとらえている。荒っぽくまとめると、弱者男性は「貧乏で、結果として非モテでもある男性」か「非モテで、その一因が貧乏にもある男性」のどっちかとして語られがちだ。
なお、弱者男性論と絡めて登場しがちな「KKO」(キモくて金のないおっさん)という概念を提唱した田比岡(一柳良悟)氏は、KKOについて語るときにまず『根源的なさみしさ』に言及していた。https://togetter.com/li/825742 彼は「金だけの問題にすると、そこから抜け落ちてるキモい人たちはどうなるんだ、っつうことが言いたいわけで」「根源的なさみしさは、それ単体で、お金を払って引き取ってもらえるものではないのよね」とし、「キモくて金のないオッサンの経済的な困難でない部分、すなわち公的、客観的、定量的なところではないところ」を考えたい、としていた。これを更に言い換えてみると「キモくて金のないオッサンの〈私的で、主観的で、定性的なところ〉」となり、しかもそれは田比岡氏の中では「根源的なさみしさ」と紐づいている。何となく、男性性という殻の中にある柔らかく傷つきやすい部分の機微に触れるような感じで、これはまだ我々の社会がうまく言語化しきれていない要素のように見え、個人的にはもっと知りたいと思う。
あと「弱者男性」についてのイメージは、個々人がどの時期に、どのルートで弱者男性という概念に触れたかによって大きく異なる可能性があると思った。歴史的にみると、弱者男性論はもともとは赤木智弘氏がフリーターという就労状態から立ち上げた洞察で、基本的には「属性弱者派>経済的弱者派」に近い論調だったが、一方で関係への渇望も滲んでいた。それがどこかの時点で非モテ論と結びついて「関係弱者派」的なニュアンスが深まっていったように見える。最近は非モテ・上昇婚・負の性欲・インセル・エマ・ワトソンなどが「弱者男性」という言葉とともに論評されてたりして、弱者男性概念と性的承認との結び付きがより強まっている印象がある。こういう歴史的変化も、弱者男性をめぐるイメージの錯綜を招いているように感じた。
何か思いついたらまた追記するかも。
弱者男性をめぐるイメージは人によって違う。当事者の間でも批判する人々の間でも違う。それぞれの人の中で意味が違うもののために、あるいは違うものに対して、十字砲火が続いてわけがわからないことになっている。無理に定義をしようとすれば、それだけで違う立場の人間同士がもめ始める。というわけで、いろいろな記事や増田やブコメの数々を参考にして、自分が把握できた範囲で「弱者男性っているの/誰なの」の広がりを示す樹形図を作ってみた。ぜんぜん「漏れなくダブりなく」ではないし、要約も雑だし、論理的におかしい部分もあるけど、あくまで自分用のメモとして。
「いるよ派」の色々な主張を見てみたところ、まず「属性弱者派」と「関係弱者派」という大きな流れがあり、それぞれの中では「経済弱者派」と「性的承認弱者派」が突出しているように感じた。両方を意識している「総合的弱者派」の中にも、弱者男性は所得が低いから女性とも関係を持てない(性的承認の不足は経済力の低さの二次的結果である)という見方(経済最終審級派)と、所得やその他の属性がどうであっても、女性や他者と関係を持てていないこと自体が弱者男性の生きづらさの核心だという見方(関係最終審級派)がいる。前者には「所得さえ充分に高ければ、容姿や年齢が社会的に不利だったとしても女性との関係を持てる(持てた)可能性はある」という含みがあるが、後者は、所得の多寡とは必ずしも直結しない独立した問題として、関係や承認の不足をとらえている。荒っぽくまとめると、弱者男性は「貧乏で、結果として非モテでもある男性」か「非モテで、その一因が貧乏にもある男性」のどっちかとして語られがちだ。
なお、弱者男性論と絡めて登場しがちな「KKO」(キモくて金のないおっさん)という概念を提唱した田比岡(一柳良悟)氏は、KKOについて語るときにまず『根源的なさみしさ』に言及していた。https://togetter.com/li/825742 彼は「金だけの問題にすると、そこから抜け落ちてるキモい人たちはどうなるんだ、っつうことが言いたいわけで」「根源的なさみしさは、それ単体で、お金を払って引き取ってもらえるものではないのよね」とし、「キモくて金のないオッサンの経済的な困難でない部分、すなわち公的、客観的、定量的なところではないところ」を考えたい、としていた。これを更に言い換えてみると「キモくて金のないオッサンの〈私的で、主観的で、定性的なところ〉」となり、しかもそれは田比岡氏の中では「根源的なさみしさ」と紐づいている。何となく、男性性という殻の中にある柔らかく傷つきやすい部分の機微に触れるような感じで、これはまだ我々の社会がうまく言語化しきれていない要素のように見え、個人的にはもっと知りたいと思う。
あと「弱者男性」についてのイメージは、個々人がどの時期に、どのルートで弱者男性という概念に触れたかによって大きく異なる可能性があると思った。歴史的にみると、弱者男性論はもともと赤木智弘氏がフリーターという就労状態をもとに立ち上げた切り口で、基本的には「属性弱者派」のうちの
「経済的弱者派」に近い論調だったが、一方で関係への渇望も滲んでいた。それがどこかの時点で非モテ論と結びついて「関係弱者派」的なニュアンスが深まっていったように見える。最近は非モテ・上昇婚・負の性欲・インセル・エマ・ワトソンなどが「弱者男性」という言葉とともに論評されてたりして、弱者男性概念と性的承認との結び付きがより強まっている印象がある。こういう歴史的変化も、弱者男性をめぐるイメージの錯綜を招いているように感じた。
何か思いついたらまた追記するかも。
みんな「女」が自由意志を剥奪されるっていうありえない仮定をしてるけど、普通に女性は自由意志を持ち続ける前提にして、そこにシステムがどう貢献できるか考えればいいんです
たとえば金と権力はあるけどそれ以外どう見ても魅力のない男に美女が寄っていくパターンが世の中にはありますね?あれは脅迫されてるとかでなければ自由意志でしょう
たとえ人格的・肉体的魅力がカスでも、トロフィー的魅力があれば選択肢に入れてもいいと考えるタイプの人間は存在するものです
ところで金とか地位とか名誉とか特権というものはまさに「お上がシステムとして与えられるもの」です
さすがに弱者男性に金や地位を与えたら強者男性になるだけなのでやるべきでないでしょうが、何か代替になるような概念を公共事業として創出することができれば、あとは市場原理に基づいて自然に人々が流れていくと期待できます
たとえば障害者介助のボランティアを行えば道徳的な学生とみなされ進学・就職で有利になるように、弱者男性と結婚すれば進歩的な女性であるとみなされ様々な優遇を受けられるようにするというのはどうでしょう?
優遇の内容は金銭的援助でも公務員試験の評価ポイント加点でも選挙権2倍でもなんでもいいので各自適当に考えてください
もちろん強制ではないので自由恋愛のメリットとのトレードオフで好きな方を選べばよいし、恩恵を失ってもいいなら離婚も可能とします
多くの人は自由恋愛の方を選ぶでしょうが、「私のスキルでは他にいい職もないし、安月給でも働けるだけまだマシか」と判断する人が世の中にはいるように、「私のスペックでは幸せな結婚できないし、公募結婚して社会貢献実績を得るのもひとつの手か」と判断する人が集まっても不思議ではありません
「女をあてがえ」論者は藁人形じゃなくて実際にいるよ。以下に具体例を出してやる。
■赤木智弘
弱者男性論の元祖ともいえる赤木智弘は、2006年に「私は男女平等の実践として「私を養ってくれるお嫁さん」を募集します」「応募がなければないで、「男女平等なんて言ったって、本当に平等にしようなんて誰も考えていないじゃないか」ということを実証したことになります」と言っていた。
http://journalism.jp/t-akagi/2006/07/post_136.html
■島本
白饅頭が「「女をあてがえ」論者マジでいるのだろうか」「フェミニズムが女性を自由にしたせいでオレらが結婚できなくなった」と主張している人って本当にいるの?」と問いかけたときに、「僕です」と名乗り出た 島本 @pannacottaso_v2 というTwitterアカウントがいる。「『アンチフェミは女をあてがえと言ってる』というの、全くそのとおりだしそれの何が悪いのかさっぱり僕にはわからない」「『女を充てがう方法』として税制を使えと言うてるわけです、我々は。それを『直接じゃないから充てがえと言うてるわけではない(徴税というペナルティを被れば拒否する権利はある)』みたいなのはただのレトリックだと自分は思う」と主張している。ちなみに彼は2回「僕です」と白饅頭にリプライしたが、返事をもらえなかった。
https://togetter.com/li/1121535
■黒屋ぶるー
「非モテに女をあてがえ」と主張している 黒屋ぶるー @kuroya_blue というTwitterアカウントがいる。彼は「「非モテに女を宛がう」で僕自身が想定してるのは男の年収改善(それが女の年収低下を意味することは否定しない)と独身者への社会的圧力の強化、マッチングの強化で結婚しやすくしようというもの」「人口維持を目的とするなら「非モテに宛がわれる女性にあるメリット」はズバリ人口維持でしょ」と主張している。
https://togetter.com/li/1408490
「弱者男性差別をなくそう」というTwitterアカウント @tufozi2 がある。「共学が諸悪の根源」「自由恋愛が諸悪の根源」「やはり自由恋愛は廃止してお見合い制度を見直すべきであろう」「それが女性の幸せにもつながる」と主張している。
すもも @sumomodane が「そもそも「男に女をあてがえ」って言っている人、いるんですか?」と問いかけたときに「私とかがそうですね。」と答えた黒猫使いの鈴木
@kuronekomasters というTwitterアカウントがいる。「基本的には、戦争や絶滅を望まないなら、あてがえ論をベストと考えます」「妥協点として30くらいまでに自由恋愛で結婚できないなら国や自治体が選択肢を提示、離婚は可能だが繰り返す」と提案している。
https://twitter.com/kuronekomasters
■すもも
上で出てきたすもも本人は自分が弱者男性だと思っていないし、自分が「男に女をあてがえ」論者ではないと自認しているが、一方で氏は「女性の上昇婚志向の高さは男性のモテと関係している。男性にとって女性の上昇婚志向が高まることは結婚しにくさにつながる」「女性が高望みをやめることは社会的メリットにもなる。①日本の少子化対策になる、②男性の幸福度を高められる、③日本の男女平等度を高められる」「現在未婚者において経済的な理由で結婚できない人が多いため女性が高望みをやめればマッチング機会が増えるだろう」「日本男性は幸福度が低い。それは未婚男性の幸福度が低いことが寄与している。日本では家族以外の共同体の希薄なので未婚男性は孤立しやすい。女性が高望みをやめマッチングが増えれば男性の幸福度が高まるだろう」とも言っている。つまり、女性が高望みをやめて強者男性以外も選ぶようになれば、今は結婚できない日本男性も結婚できるようになり、家族共同体を持ち、孤立が解消され、幸福になる、と主張している。自分には、これは弱者男性外部から見た「あてがえ」論の変形に見える。
https://note.com/sumomodane/n/nda55d2cf494e
少なからぬアカウントが、マッチングのシステムを変えたり(自由恋愛→お見合い)女性側の価値観そのものを変える(上方婚志向→下方婚の許容)ことで、弱者男性や非モテ男性(上に挙げた人達のほとんどはこの2つをはっきり区別していない)が女性とマッチングされる機会が増える、増やせ、と言っている。また彼らの一部は、自分の主張が「あてがえ論」だと明言している。
ここで挙げたのは一部の例で、はてな他で非モテについての議論が盛り上がっていた時代には、こういう論調は(かなり極端な側には属していたが)そう珍しいものでもなかった。増田で過去検索してみれば同じような意見が出てくるだろう。今回炎上をめぐって「『女をあてがえ』論者は存在しない」とか「藁人形だ」という意見を目にするが、事実はそうではないし、白饅頭やすももがそう言いだした時にも実際に「女をあてがえ」論者が名乗り出てきている。
おれは性的承認の問題を抜きにして弱者男性の話をしたい人達がいるのは理解できるけど、彼らが「性的承認の問題を重要視し、その問題の解消のために制度的な解決を求めている弱者男性達」をいないことにするのはよくないと思う。弱者男性界隈が弱者男性内部の多様な声を抑圧してたらマジで救いがなくなる。まずは「女をあてがえ」論者が存在すること自体は認めて、彼らを弱者男性論の中でどう位置づけるのか、真面目に考える必要がある。少なくともこのエントリを読んでまだ「『女をあてがえ』論者は藁人形だ」という人間がいたら、そいつは事実より先入観や願望を優先して、弱者男性内部の多様な意見を封殺するやつだ。言うならせめて「弱者男性みんなが『女をあてがえ』論者ではない」とか「チェリーピッキングだ」ぐらいにしとけ。わかったな。
おまけ:米国のインセル界隈では「女をあてがえ」という主張は割と普通にある。保守派論客のRoss Douthatは、インセルの問題提起を受けてニューヨークタイムズのコラムで堂々と「セックスへのアクセスが困難な人々にセックスを再分配しろ」と言っていた。これも弱者男性の外部から見た「あてがえ」論だろう。
https://www.nytimes.com/2018/05/02/opinion/incels-sex-robots-redistribution.html
烏賊さぶという自称「非モテ弱者男性」のアカウントがいる(別アカで顔出し)。彼は「おれは今37歳の青年男性だが、この歳になっても20代の若い女と付き合う権利は当然あると思っている」「したくもない中学受験をさせられ中高一貫男子校に入れられた結果、思春期に同年代の女子と交流する機会を極端に制限されたから。その補償として今こそ若い女との交流権が付与されて然るべき」「そうしないと中高一貫男子校育ちの男が救われないから。共学男子ばかりいい思いして、おれらだけが辛酸を舐めるのは不公平」と言っている。彼は単に「交流しても咎められない」という意味ではなく、積極的に交流の機会を提供されるべき、という意味で「交流権」という言葉を使っている。
他者を外部から「インセル」と認定することはナンセンスであると考える、と最初に書いておく(そもそも誰かの独身性がvoluntaryなのかinvoluntaryなのか、当事者以外には判断できるまい)。
これはインセルフォーラムに入り浸ったある一定の期間から得た知見の共有である。
インセルフォーラムでは、一般的な欧米社会での名前とそれにまつわるイメージからいわゆる「強者(白人)男性」はChadやTyroneと呼ばれ、一方女性はほぼ純粋に見た目によって分けられ、最も上位がStacy、いわゆる平均以上〜平均がBeckyと呼ばれることが多いようだ。人種による表記揺れなどは数多くあるが今回は割愛する。
フォーラム利用者の多くは「すべての女性は、彼女自信の見た目に関わらず、現実的な恋愛相手を見つけるよりもほんの一握りしかいないChadやTyroneと寝たがっており、また女性の性的解放やインターネット・デーティングの発達がそれを可能にしている。仮に今ChadやTyroneではない男性と付き合っている女性がいてもそれは金目当て(betabuxなどと呼称される)等の理由であり、彼女らもまたチャンスがあれば迷わずChadらと寝ることを選ぶ。現代社会において自分たちには結局チャンスはないのだ」と信じ、主張している。
彼らがこう語る時、彼らはChadを憎まない。IncelからChadへ注がれる視線はむしろ尊敬や連帯に近い。嫉妬ですらないことも多々ある。女性がChadと寝たがるのは、Chadが悪いわけじゃない。Chadが多数の女性と寝るのも、Chadが悪いわけじゃない。全ては身の程を弁えず、Chadらと寝たがる女が、そしてそれを許すべく変化してきた社会が悪いのだ。
彼らはlooksmatchという言葉も用いる。訳せば「自分と同程度の容姿レベルの異性」といったところで、一昔前であれば自分たち(インセル)にも同程度の見た目の異性=looksmatchが最終的にはあてがわれ、結婚し家庭を築けていた、「普通に幸せ」になれていたはずだ、しかし自由恋愛・社会の変化・フェミニズム等々がこれを崩した、というわけだ。
これは非常に面白いポイントで、彼らの多くは「自分は女とは違い、なにも絶対にStacyと付き合いたいわけじゃない、誰でもいいから誰かに愛されたいだけだ」と主張する。一方で、彼らの語る恋愛はカップル成立で終わることが非常に多い。「めでたしめでたし」的な、「そして二人は末長く幸せに暮らしました」調のイメージを彼らの多くが抱いていることが観測できるのである。月並みな言葉で言えば「恋に恋する」と言ったところなのだが、この非常にセンチメンタルながら切実な「愛されたい」という願いと、その内容物として見て取れる「異性として肯定されたい、性的に欲求されたい」という直球の願いを彼らが裏表として(意識的にせよ無意識的にせよ)使い分けていること、これがとても興味深いのだ。
彼らの「性的に欲求されたい」の奥にあるのは、「性的に欲求されている自分を見て欲しい」なのではないだろうか。だから誰でもいいのだ。恋愛における「相手は誰でもいい」は現実的には美徳でもなんでもないのだが、彼らにとっては真にどうでもいい。惚れた相手に愛されたいわけではなく、誰かに愛される自分を見ている誰か(理想を言えばやはりChadだろう)による尊敬・承認の獲得によって自分を愛せるようになりたい、というのが「誰かに愛されたいだけ」という主張の正体だからだ。だから彼らは、自分は異性に愛されないと苦悶しながらも、女性はすべからく浅く表面的で、そんなものをパートナーとして獲得することに意義を見いだせない、とも毒づくのである。この二つは彼らの中で矛盾しない。
インセルは自分を愛したいのではないか。もちろん、自分を愛したくない人などいるのか?という話にはなるが、彼らの多くは性愛を介さない形のセルフケア、及び自己愛に非常に懐疑的・嘲笑的である。彼らにとって自己愛とは異性からの性的関心の獲得によってのみ得られるものであり、自己愛とは人間に必須のものなのだから、「女をあてがえ」、となっているのではないか。
だから彼らが正しいとか、だから彼らに女をあてがうべきだというのではない。インセルフォーラムの主張の多くは誇張され、歪み、仲間内でのノリが膨れ上がった醜悪なものであり、あなたがもし覗いてみようと思っているならお勧めはしない。ヘドが出るからである。
現代人が抱える生きづらさの根本ってこういうところなんじゃないか。
過度に美化された異姓像でもって一般の男性を見るなら大抵は落第点だ。
そもそも父親の代で容姿に気を遣ってきたものがどの程度いただろうか。
女性も働けと言うが、月に1度訪れる生理によってパフォーマンスが落ちるのは競争をする上でハンデでしかない。
昔から女性も競争してきたなら、パフォーマンスを維持できる生理の軽い女性が生き残ってきたのだろうが、そうはなっていないように思う。
そもそも、恋愛と結婚は別のものである。なのに同一線上に並べられて人生のロードマップにされているのが誤り。「恋愛感情がなければ結婚できない」という誤った認識が広まっている。
結婚とは生活のためにすることである。社会的なもの。「永久就職」とも言われるその意味、背景。お見合い結婚は恋愛感情でしたわけではないだろうが、それで生まれた子はたくさんいるし、これを読んでいるようなあなたもそのお見合い結婚した親から生まれた子じゃないの?
どこかジャングルの奥地の部族が「一族の存続と繁栄のため、子を作って育てるのは当然。妻は好き好んで選ぶものではなく与えられるもの」みたいな回答していたのが印象的だった。
しかし現代は、個人的な趣味での選好である恋愛を結婚の必要条件としてしまったので、結婚に到達できない人が増えた。そんなことはないのに。
それらを踏まえて、現代日本の「女は下方婚しない」「女をあてがえ」という言葉、それがどうのこうの取り沙汰されるのは、
「男女はあてがわれて一族の繁栄にコミットするものと思っている人」との
あと「女をあてがえ論」ってなぜか女性のほうが被害者という見られ方しかしないのが不思議だけど、
男のほうにも選択権がないってことだからなー。男のほうが貧乏クジ引かされることだってあるわけで対等だと思うんだけど。
「結婚に恋愛感情は不要だよ」を広げればいいんじゃないのかな。
そうすれば恋愛スキルがない人でも結婚できるし、お見合い結婚した親世代みたいに。
「恋愛感情があまりない婚活」ができるように、雰囲気作り・空気づくりすればいいんじゃないだろうか。生活結婚。
ヤリ捨てっていう感覚をよく考えてみるのは確かにいいかもしれん。振り返ると「自由恋愛だからええやろ」精神の良い悪いは別にして、自覚しないうちに自分の中で大きくなってたかも。何でだろうな。
ただ思うのが、チンポギンギンモテムーブがヤリ捨てとかDVに直結するわけじゃなくて、普通に平穏で満足な関係につながることだって多々あると思うんだよな。そりゃ女を消費し加害することが目的になった脳の壊れてる奴らのチンポは総じてギンギンだけど、そうじゃないある程度普通な男共のチンポも大抵ギンギンだろと。いや、何かデータがあるわけじゃないんだが、逆にそういうモテムーブに対して逆張りし続けてきた自分が平穏で満足な関係を築ける気がしないというか、寧ろ不快さを撒いてるかもしれない現状を考えるとチンポギンギンモテムーブを全否定する理由も無くなってきちゃうんよ。
突然だが俺はもう止めようと思う。
『地球に優しい』とか『地球を守ろう』というスローガンに代表される、環境に配慮した生活を、である。
別に今更「"地球の為"なんておためごかしだろwww 人間が困るからやってるだけだろwww」みたいな中二病に開眼したわけでも、宗教右翼的な温暖化懐疑論に鞍替えしたわけでもない。気候変動の対策は何より人類の為なんてことは、重々承知だったし、少なくとも今のままなら温暖化は進むだろうと思っている。
端的に言ってもうモチベーションが無い。尽きた。というか何で今まではモチベーション続いてたんだ、ってレベル。
世間は『サスティナブルな社会の在り方』とか『SDGs』とかで姦しいけど、そもそも俺には『今の社会を持続させる』動機がなーんも無いことに、遅ればせながら気付いたわけだ。
俺には子供はおろか姪や甥もいないし、何か後世に残せるものもない。何者でもないまま孤独に死んでいくことしか出来ないしがない一市民だ。(同世代のいとこは結構いて子供もいる家庭持ちも多いが、いとこやその子供たちが俺を孤独から救ってくれるわけでもないだろうから遠慮はしないことにする。そもそも同世代でも、家庭持ちと独身の間にはどうしたって断絶が生じるのである。)
だから俺は下りる。環境に配慮することはもう止める。石炭発電もバンバンやれば良いし、コンビニでは毎回袋貰おうと思うし、ガソリンエンジン車の暖気運転もガンガンやろうと思っている。
別に環境に配慮した生活にウンザリしたわけではない。地球温暖化対策にネガティブになったというより、温暖化が進むことにポジティブになったと言うべきか。仮に温暖化で生活が苦しくなったとしても、自分一人なら全然平気な気がするし。
それよりも運が良ければ地球温暖化による世界の変革を目の当たりに出来るかも知れない。そっちの方がよっぽど楽しみだし、モチベーションも湧くってものだ。
グレタ・トゥーンベリさんとかには怒られるかもしれない。「私たちの未来を奪うな!」って。うん、ごめんね。でも俺にはそもそも未来なんて無かったんだよ。そんな人間に自分がいなくなった後の未来のことまで考えろってのは、そもそもリアリティのある話じゃないんだよね。
おおっグッドクエスチョン!
おそらく、“向こう側の境遇を想像できないのに、できると思っているから”。
男女間の文化的な差異が大きすぎて、お互いに辛さが分かり合えないのに、表面的には同じ人間だと思って共感する。それが嫉妬を生む。
例にあるように多くは子どもたちのナイーブな考え方だ。ネットニュースで時代の最先端のポリコレやモラルに触れていると、排斥が差別だし誰かを選択する横に排斥される誰かがいるってことに気づく。
ネットで仲良くなった女性が実はフクシマ出身者だってわかったら…? それを理由にデートを打ち切ったら? 自由恋愛だから差別じゃないのか??
線引きをイジって遊ぶ連中が倫理観を推し進めてきた。よりわかりやすく納得のいく価値観を目指して。そのメスがついに自由恋愛の聖域に切り込んできた…