はてなキーワード: 自己肯定感とは
放課後、親に無断で学校の先生に精神科のような場所に連れられ、「それは鬱ではなく、思春期による一時的な悲しみではないですかね」と医者に言われてから10年が経った。
あの頃から相変わらず、成長していない。
高校での成績は上位10%に入っていて、4年で卒業することが難しいと言われた大学もなんとか4年で卒業できたので、決して頭は悪くはなかった。
ただ、人との会話は不得意で、友人を作ることはできなかった。
でもそういった人々はこの世にある程度はいて、みんなどこかで働けているからきっと大丈夫だと自分に言い聞かせていた。
面接はことごとく落ち、大学卒業後も内定を貰えずそろそろ死のうかと検討した矢先に運よく入社したところは、後になって知ったが定着率が低い会社だった。
そこで気付いてしまったのは、自分がエンジニアに向いてないどころか、社会人に向いてないことだった。
一通書くのに最低でも30分-1時間はかかった。(相場が分からないけど長い気がする)
顧客のメールを読んでも、内容がふわっとしていて意味が理解できないことがあった。
相手が何を言っているか分からなかった(要求だったり、用語だったり)。
分からないことをそれとなく伺ってみたら「お宅の会社はその程度なんですね?分かりました」と言われ、会社の信用を下げてしまった。
その後、その顧客とのメールに怯える日々が続き、毎日嘔吐した。
あんなに自信があったプログラミングだったのに、小規模システムのコードでさえ想像を超える入り組み具合で読めなかった。
というのも、フレームワークといったものにも触れたことがなかったり、インフラ側は全く学んでこなかった。
「オブジェクト指向」というような概念的部分はテストの為に暗記したことはあれど、実際に言語の特徴や構造の違いを理解できたことはなかった。
フロントエンドとバックエンドの違いもよく分からず、自分が得意だったものがなんだったのか分からなくなった。
何よりも、自分には新しい知識をインプットする力が驚くほどになかった。
最終的には、自分のキャパを超える残業や上司による罵詈雑言で数秒に一度頭がまっしろになって仕事に手がつかない状態になり、辞めた。
能力のある社員もすぐに辞めていることから、会社にも改善すべき点はあったのだろうが、それが実際の問題ではなかった。
自分の能力の無さはどこに行っても通用しないんだろうな、ということが分かってしまった。
スポーツをしていた人が採用されるのを話に聞くが、その理由が初めて分かった。
コミュ力も体力あるし、ちょっとやそっとのことでは根を上げないからだ。
自分はコミュ力もないし、メンタルも弱く、自己肯定感もなく、唯一自信のあった学歴や技術力も実際には意味をなさなかった。
私の考えはあまりにも浅はかで、高校や大学でしっかり勉強をしていれば、あとは会社からのサポートで仕事をこなせるようになると思っていたことだ。
一応自分なりに努力はしたつもりだった。勉強も、精神的な面においても。
在学中や就業中に精神科に通い、鬱やPSTDと診断された。いろんな薬を試したことはあるが、薬の副作用の眠気や吐き気で通常時より無能になったので向いていなかった。
カウンセラーは話を聞いてくれることは有難いが、危険人物として扱われたりしたことがあったり、何の解決にも至らないのでお金がもったいないな、と個人的に思った。
大学を卒業して引きこもっていた頃、会話の練習をするためにひきこもり当事者会的なイベントに参加した。
それぞれ背景は違うが、頑張って外出をして知らない人と会話してみよう、と集まった人たちは皆、優しかった。
不審者のようにそわそわしてしまってもいじめられることはないし、互いが傷つくことのない当たり障りのない会話ができたし、人とゲームができて楽しかった。
同じ境遇にいる方たちと過ごして一番に感じたのは、自分はやはりこちら側の人間なのではないかということ。
学校やインターネットで人と会話をして友人を作れるような人や、仕事をこなせている世間一般の人たちのようには到底なれない。
社会不適合者が運よく社会復帰することができても、精神が弱い上に周りに溶け込めない為、続きはしない。
少し前にとある記事に「生涯バイトなんて、将来のことを考えているの?」というニュアンスのブコメがあったが、どんな形態であれ生きる為に働き続けてきちんと自立できている人がどれだけ偉いことか、と思う。
もしいつか真っ当な人間になれたら、あの時精神科に連れてってくれた先生に御礼を伝えようと思っていたけど、未だに連絡が取れていない。
当然お前が選ばれる確率が上がるけど種族として使い捨て集団がいれば、そこから選んで余計な争いしなくて済むだろ?
ちょっと努力して地位と能力手に入れたタイプは下を踏みつけて優越感と自己肯定感を得ようと躍起になる
なぜか?
それは自分が底辺や庶民からスタートしたから意識がそこのままなんだな
「自己肯定感」という言葉そのものが囚われやすくて良くない性質をもったものだと思う。
一種の流行り言葉で皆使っていてよく見聞きする、誰にでも関係があって意味がわかりやすい。だから多くの人がそれに対して焦点を向けて、悩む。私もそう。なかなか一朝一夕ではいかないだろうけど、この言葉から解放されればと生きやすくなるんじゃないかと思ったり。
穴の空いたバケツとしての自己肯定感か。うう〜む、難しい問題だね。
個人的には誰かを褒めたり、慰めたり、ありがとう、おめでとう、などをいうと幸せな気持ちになる。でもこれは論理的な回答ではないな。
自分を好きになる・自分を認められることが自己肯定感だというあなたの推論は理屈の筋が通っているように思える。あなたは誰かが自分を好きになってくれる様をみて、周りからの目線を学び、自分でも肯定できるようになるかも、という仮説をたてる。その上で、そういう状況になっても他人の評価自体を信用できない、だから自己肯定感を高められない。この論理立てには説得力を感じた。
そんなはずはない。その自分の評価基準もまた幼少期からの誰かの評価の影響を受けて形作られたはずだ。例えば両親とか、教師とかだろうか。ならば彼らに認められれば自己肯定感は向上するのでは。
あるいはその路線が現実的でないとしても、理屈の上でまだ救いはある。彼らの評価基準の強固さもまた、なんらかの何かに支えられているはずだ。親の言うことは正しい、親はいつも正しいことを教えてくれた。だから自分を認めてくれない親の価値観も正しい。背後にそういうナイーブなロジックがあるならば、そこに付け入る隙はある。よく人気コメントに上がってきて、バチバチにキレるいい意見を言うが、どうしようもなくクズなブックマーカーなどザラにいる。彼らが学びを与えてくれるよ。いつも正しい人間なんていない。
一体どうやって生きていけば自分の自己肯定感が満たされるのかまったくわからないことに気がついた。もともと典型的に自己肯定感が低いタイプで、一時期はそれで鬱になった。自分に取り柄がないと常に感じているし、普通の人から見たら被害妄想に見えることばかり考えている。
だから漠然と、誰かに褒められたりしたら自分のこと好きになれるのかなあ、とか、そうじゃなくて自分で自分のこと好きになれるのが自己肯定感なのかなあ、とか思っていた。
ただ最近、じゃあ逆に何をすれば自分の自己肯定感は満たされるのだろうと思った時、まったく思い浮かばないことに気がついた。
何かしらの才能を認められた時? いやそもそも才能がないわ。
無条件に誰かに好かれた時? 一生来ないです。もし仮に万が一何かしらの奇跡が起こって街中で誰かに急に自分のことを好きと告白されても、絶対に怪しむし、その人がたとえ知り合いでもいやそんなことないだろと一蹴するに違いない。
何をしたら自分は自分を認められるのか、そのビジョンが見えないのに満たされることばかり考えてた。
満たし方のわからない、底が見えなければおそらく穴も開いてる漠然とした「自己肯定感」という容れ物に水を注いでる気分だ。それにそもそも、水を入れるのが合っているのかすらも分からない。
「なんかよく分かんないけどこれ一杯に水を入れれば満足できるかな……?」と思って一生懸命自分なりに水を注いでいるけれど、永遠に満たされない。どころか、水を入れるという動作自体も苦しくなってきている。
助けてほしい。
あの寄り添うつもりが乗っ取りになった顛末が、イタくて堪らない。
あの無条件な自己肯定感というか、中流家庭的感覚というか、フツーの俗物感というか・・・
たまにゾッとするわ
そりゃお前が実家嫌いなだけだろと思うけど
女性作家だし、結婚するとかいう話になったら夫に金巻き上げられたりしそう…
もちろんこのみんなは自分自身も含む。誰でも構わない、無差別に、注意していたとか気を抜いていたとか関係なく、みんなコロナで死んでしまえばいいと思う。
毎日毎日毎日毎日ニュースでは新型コロナの話題がない日はない。避けようと思っていても、普通に生活していたら嫌でも新型コロナの話題が目に、耳に、脳に届いてしまう。twitterだって、おすすめの隣はトレンドだったはずなのに、いつからCOVID−19なんてカテゴリができたのか。LINEニュースもyahooニュースも、トップページの一番最初に新型コロナ関連情報まとめなんて作って、そんなもん牛にでも食わせておいてくれ。目に入るだけでイライラする。
テレビの中でもインターネットの中でも、国に政府に都道府県知事に市町村長にあれをやれこれをやるなだからダメだぼくのわたしのかんがえたさいきょうのしんがたころなたいさくはこれだって、馬鹿も休み休み言ってほしい。国も政府も首長もそれを支えるスタッフも暇じゃない。そういうのはチラシの裏か便所の壁に書いておいてくれ。目障りなだけなんだよ。
それでもアホは口を閉じることをやめないから、飽きもせずに金金金金10万円100万円マスクマスクマスク金金消毒液マスクマスクマスクマスクって、せっかくお母さんがお腹を痛めて産んでくれたのにその小さい脳味噌とロクなことに使われていない口を他のことに使うことはできないの?その指先を少し動かす労力は、なんでもいいからとりあえずそれ以外のことに使うべき。ウンチを拭くのに使ったって、まだそっちの方が有意義な使い方だよ。
さらに、こういうときだからこそおうちじかんを素敵に♡みたいな投稿がSNSに溢れている。何がこういうときだ。社会の混乱に乗じて自己肯定感を高めようとするな。他人の不幸で飯を食うな。曖昧にみんなでがんばろうなんて、軽々しく言うな。その「みんな」の範囲を明示しろ。結局自分のお仲間しか入っていないんだろうが。わたしとわたしの仲良しが幸せになりますように、くらいはっきり言えないなら、適当な言葉で誤魔化して偽善者ぶるんじゃないよ。やらない善よりやる偽善?他人の迷惑を考えられない人間はすっこんでろ。医療関係者にエールを⭐︎も同様。忙しい医療関係者は、君たちの自尊心を満たすだけの自慰行為のような投稿を見ている時間はないんだよ。この現状に対して本当に真摯に真剣に向き合ってくださっている人間を、「自分には無関係だけどそんな人たちのことまで考えて応援できるボク/オレ/ワタクシの器の大きさ」アピールのために使うんじゃない。気持ち悪いんだよ。
テレビ番組だって、収録を中断しているものは過去の総集編を流したり、新しいドラマが始まらなかったり、リモート出演だとか、わざとらしく距離をとって見せてみたり、いやいや君たちつい最近まで「体調が悪くても仕事を休めないあなたに」とか言っている薬のコマーシャルばんばん流していたじゃない。特に冬になるとその手のものは増えていたような気がしたのだけれど。どうしたの掌返したの?芸能人が亡くなるたびに涙と過去の映像を織り混ぜて流して、芸能人以外が新型コロナで亡くなるニュースは少し顔をしかめてみせる顔芸で乗り越えて、そういう度に生命は平等じゃないんだって思い知らされる。知り合いが亡くなって泣くなとは言わない。でもその涙を仕事にしてお金もらうのは違うんじゃない。プライベートで泣けよ。仕事で泣くなら、全ての死者に平等に涙を流せ。
毎日毎日浮かれポンチのお祭り騒ぎで、結局みんなみんな、非日常に当てられてくらくらしているだけだ。しょうもないことで馬鹿みたいに騒ぎ立てて、いつもと違うライフスタイルとやらを発見して、これまで出来ていた当たり前がなくなる生活を美化して、その不便を何とか乗り越える自分に、自分たちに酔っている。ポストコロナとかアフターコロナとか適当な言葉を作っては各々好き勝手喋っているけれど、新型コロナが流行しようがしまいが、昨日今日明日と72時間あれば大体のことは変化するし、時間は基本的に不可逆なので、変化してしまったものは大体元に戻らない。たとえば仲の良かった二人が喧嘩をして仲直りするのは、関係が戻ったのではなくて喧嘩を経て仲の良い状態に更に変化したのであって、仲直りをしたところで喧嘩がなかったことにはならない。事実としてあったわけだから。でも毎日ってそういうものでしょう。大なり小なりの変化を重ねて、いつしか大きく変わった自分になる。それが人生なのではないでしょうか。それは新型コロナがあるとかないとか関係なく。
今この瞬間も新型コロナの流行を理由に本当に大変な思いをしている方がたくさんいらっしゃるのは分かっている。けれど、社会全体の雰囲気が、なんだか楽しそうにしか見えないんだよな。例えるなら、高校生の時、学校祭の準備のために毎日夜遅くまで学校に残って、少しずつ生徒皆がハイになっていったような。例えば、仕事で大きな案件を抱えて、毎日毎日徹夜を繰り返すことで少しずつ感情のリミッターが外れていくような。
>「家庭の事情で実家帰らなければならないから東京で漫画家は長く続けられない」
そうなの? 大抵のことは金で解決できると思うけど(逆に言うと、金で解決できないなら何をしても無理)、
そうしたくない気持ちがあるのかね。
私は名古屋出身で東京住み。両親も名古屋出身。実家に帰れば尋常ではない名古屋弁になる。
しかし東京にいると、イントネーションがやや名古屋弁がかるものの、標準語になる。無理やり標準語をがんばっているわけではない。周りの地方出身者、関西圏の人も大体同様だと思う。
しかし方言を絶対に諦めない、一部の、何故か関西圏の人がいる。
私も含め、地方出身者は自分の方言を恥じているわけではない。標準語に囲まれていれば自然と方言は消える。順応性だと思う。
これだけ周りが全て標準語の中で、1人だけ自分の方言を貫き通すのは、逆に意識して話さないと難しい。
お笑い芸人は良い。自分の言葉でお金を稼ぐ人たちは自分の才能を最大に引き出せる方法の一つとして方言を使う。
関西お笑い芸人がテレビの中で日本中へ向けて関西弁でみんなを笑わせ人気者になる。
これは市井の面白くない関西人には全く通用しないのに面白くない奴に限って東京で関西弁を使う。
結局はこれが言いたかった。
東京に住んでいて無理やり関西弁を話す人は本当に面白くない。自己肯定感が低く、自分に自信がないためテレビの中の人気者との唯一の共通点、生まれ持った方言をゴリ押しして自分を飾る。
関西弁でワーワー言われると何となく盛り上がった気がすることもある。それを勘違いした奴が結婚式の二次会の司会を買って出た。二次会は全く盛り上がらず滑りまくり失笑すら出ず時間より早めに終わってしまった。
今動画を整理していて見つけた。
私の二次会わやだがね!
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tl;dr
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前提
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「ある男がパートナーの女の(誤った)発言に対して毎回優しく肯定的に応じたのち、間違いを説明する」というカップルの在り方について、「優しく肯定が入る方が女性側の立場として自信が得られる」という考えについて。
基本的にこの構図がお互いの認識になること自体が mansplaining さがあって嫌なのだけど、それは表題の文脈の下では脇に置いておいて、そこでの選択肢として、{肯定的/否定的}に応じ間違いの説明を{しない/する} という4通りにおいて、{肯定的, する} というのは確かに望ましい。まず、批判と非難の違いが一般に理解されにくいのは、批判の否定的な口上は例えばその場が学問的であるといった「場」があることで信頼が支えられていて初めて機能するので、それ以外の場で批判(正/偽)と非難(善/悪)が混同されることがあるのは、必ずしも混同する側が悪いわけではない(cf. 元SPEED・今井絵理子議員の「批判なき政治」発言)。その意味で、プライベートなコミュニケーションにおいて、{肯定的/否定的}というのはニュートラルではなく、肯定的の方が心理的効果として望ましいといえる。また、毎回間違いの説明をすることは、毎回間違っているということに気づかされることになり自信を喪失しうるが、指摘しないままにパターナリスティックに傷つきやすさにのみ配慮して放置することは相手が反論したり、追加情報を提示したりといったことを通して「相手の方が正しかった」という可能性に賭けないということであり、他者としての尊重に欠けるばかりか、相手の成長の機会をも奪うことになる。ただ、陰謀論的だったりオカルト的だったりといった特定のバイアスを含む情報ばかり拾ってくることは、一朝一夕で改善するものではない。そうならないためには相応の努力と知識が必要なのであって、場合によっては、ずっと同じ構図を繰り返しその構図がお互いの認識になるということが生じてしまうかもしれない。そのどうしようもないギャップを、他の側面で補うことで相互の尊敬を維持できるならば、これは問題として前景化しないかも。でも、その切り分けをせずに、繰り返し続けている誤りについて、口上のオブラートでごまかしたとしても、少なくともそれは知的自信の向上までにはつながらない。自信を支える相応の能力や実践、もしくは基礎的な肯定感が必要である。
ここで、「もしくは」になるのは、「自信」の性質に拠る。(上のような話をしておいてリテラシー低めの引用をするのは気が引けるが、読みやすさを重視して、参考: https://diamond.jp/articles/-/78423?page=4 )自信を得るのに能力や実績が有効ではあるが、能力や実績がなくても自信が得られないわけではない。生来の自己肯定感などによってそれは変わる。逆に言えば、そこが低いと、小手先で何をしたところで、自信は低いままにもなる。病的であれば、薬によって脳内神経伝達物質のバランスの改善を図るということも視野に入れるべきである。しかし、そこまででないならば、「他の側面で補うことで相互の尊敬を維持」という意味で「愛されている」という実感による基本的な肯定感の向上などが有効でありうる。逆に言うと、自分を愛さない人間と一緒にいることは、自己肯定感の側面からかなり危ない行為であることに留意したほうがいい。ここで、愛も、条件付きの愛とそうでないものがあるが、条件を、性的なものや、ある1つの能力的なもののように一側面の条件に頼っていると、それは脆弱になる(というかそれは愛ではないと思うが)。条件付きであっても、それは、条件と等価以上に為されるものであることで(cf. 信頼と信用の関係、『信頼の構造』を想定しているけど、アドラーでもなんでも同じようなこと言ってる) 肯定感を支える愛になりうる。
少し話をもどして、プライベートなコミュニケーションにおいてそもそも正しいことが必要かどうかというのも一考の余地はある。例えば、「今日は空が赤いねぇ、不吉な感じすらするねぇ」という言葉に対して、「空は予言能力はない」なんて返したら、その返しすらギャグである場合を除いて、「科学的に正しいこと」に重きを置きすぎていると言われてもしょうがないだろう。いつもいつも科学的な正しさを持ち込むべきではない。一方で、「〇〇という薬が効くそうだよ!」という言葉に対して、「それは××という危険性が指摘されていて安易に飲むべきではない」と応じることは、プライベートの場面であるとはいえ、いやむしろ、服薬するという最も実践的な場であるからこそ、科学的正しさが適切に活かされなければならない場面である。政治的な発言については、例えば「#検察庁法改正案に抗議します」とだけ呟いた芸能人に対して「なんも分かってないだろ」といったクソリプが相次いだけれども(それ自体は具体的ではない発言に具体的ではない形で具体的発言のなさをなじっていて全くクソリプでしかないと思う)、そこで立法の背景の正当性についてどう思うかと問うこと自体は(数の暴力を伴わなければ)議論を深めるために民主主義的には望ましいコミュニケーションである。それがTwitterのようなパブリックな場ではなく、プライベートなコミュニケーションにおいても同じく妥当する。ただ、政治的な話をすることというのは、それ自体が嫌がられるし、議論となるともっとそうだ。特段の配慮が必要でもある。学問的な話なら、それが宇宙人の存在についてであってすら、正しさはむしろ娯楽のために重要である。それが(学問ではなく通俗的な意味での)文学的な話ではないと相互了解があった上ではあるが。つまり、「タコ型の宇宙人って歩きにくくない?」から始まる会話は科学的正しさによって楽しもうという意思は見られないので、それはまるで漫才の相方のように応じればよいのである。{正/偽}をコードとしない意外と多くの場面でも正しさというのは実用的にも楽しさの面でも重要なのであり、それが、「知的レベルが合っていないと楽しくない」というのがよく言われる原因でもある。もちろん、賢いなら相手に合わせることもできるのだが、それは冒頭の話に戻る。そのパターナリスティックな対応は、相手を尊重しているのですか、と。
とずっと思ってる
たとえば「街中で突然声をかけられ、食事に誘われた」って状況を考える
男→女への声かけだったら十中八九ナンパ 身体目当てのクズ行為とはいえ、一応目的は声かけ対象の女性自体にある
女→男への声かけだった場合は多分詐欺とか宗教とかそういうことだ 逆ナンパなんてそうそうない 目的は本人じゃなくて持ってる金
「ナンパに主体的についていってワンナイトラブを楽しむ」って発想はあっても、「詐欺に寄付感覚で主体的についていって金を失うのを楽しむ」ってやつはなかなかいるまい
匿名チャットサイトとかをやってると男女の価値の差をかなり感じる まず開口一番「女の子?」って聞いてくるやつがメチャクチャ多くて、男だというとその時点で会話を切られる ひとこと罵倒があったらまだコミュニケーションがある方
ここで女ですと答えてみるとまあ会話が続く 興味をもっていろいろなことを聞かれるし、よかったら会ってみませんかとも言われる まあやりたいだけなんだろうけど、罵倒を浴びせて一方的に会話を切るよりはずいぶんマシだ
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とにかく、男には価値がない し、価値がないってことをガンガンすりこまれながら育てられる
男が女の着替えてる部屋にうっかり入ったら同情されるのは女、女が男の着替えてる部屋にうっかり入ったら同情されるのは女
何が言いたいかわかんなくなってきた とにかく、男は男だってだけで「需要のなさ」みたいなものをぶつけられ続けられているのだということ キモい男に言い寄られるほうが嫌だわというのも分からんでもないが、じゃあお前はそうやって人間が自分を求めてくるということからほんの少しも自己肯定感を高めていないのか?と聞きたい
まず飯を作れ。飯が美味いというのは人生の喜びであり、自分の手で美味いものが作れたというのは自信に繋がる。特にカレーはいいぞ。こだわり甲斐がある。簡単な奴から始めていこう。
次に筋トレをしろ。最初からできる奴なんていないし正しいフォームなんて気にしなくていい。腹筋とスクワットと腕立てをしろ。毎日なんてやらなくていいから筋肉痛が治ったらまたやれ。気づけば限界までの回数が増えていくのは喜びに変わる。
そして最後によく寝ろ。美味いものを食って適度な運動をしたらぐっすり眠れるはずだ。睡眠不足は筋肉を始め色々なものへの大敵だ。薬に頼ってもよいから7時間は寝ろ。不安で眠れないんじゃない。眠れないから不安なんだ。寝ろ。
この3つをやっておけば少なくともやる前よりかは自己肯定感が大きくなる。騙されたと思ってやってみては