はてなキーワード: 白鳥とは
普通はこうでしょ、と言われてもわからなかったし、そもそもなんで皆の輪にすんなり入れてもらえないのかが不思議だった。どうも普通ではなかったらしい。転校した事も言葉が違うことも習慣が違う事も色が違う事も形が違う事も。やり方が違う事も全部、気が付いていなかった。話しかけると、えっ、という顔をされて、距離を取られる。どうして普通に友達になってくれないのかわからなくて泣きながら考えた。
醜いアヒルの子は最後、白鳥になって飛んでいってハッピーエンド、みたいなのが納得いかない。醜いアヒルの子は、アヒルの子と遊びたかっただけ。アヒルの子の中に混ざりたかったのであって、別に白鳥になりたかった訳ではないんじゃないのか。白鳥になってようやく仲間が見つかったなら、自分が居場所間違えてたんだろバーカって話なのか。そうか。
今日(4月17日)のおじゃる丸は「みにくいアヒルの子」のパロディの「めんどくさいあひるの子」。
子供アヒルの群れで一羽だけ色違いのアヒルだった「おじゃひよ」は面倒くさいと言ってみんながやっている泳ぎの練習をなどしないで一歩も動かず、餌をカズマひよにタカるぐうたらな鳥だった。
やがて冬になり、泳ぎの練習をしていたカズマひよ達はもっと暖かい川に行くために旅に出ることになった。そのころおじゃひよは一歩も動いていなかったため体が雪に埋もれてしまっていた。おじゃひよは旅立つカズマひよに助けを乞うが「泳げない君を連れてくことは出来ない。君は僕たちと違うみたいだから、まず仲間を見つけるところから始めて見たら?」と言われ、カズマひよ達は去ってしまう。
仕方ないから仲間を見つけるために立ち上がる。すると、雪の中から出てきた体は白鳥の体。 おじゃひよは白鳥だったのだ。おじゃる丸は別の池に住む白鳥の群れ(おとめ先生ハクチョウがリーダー)の所に行こうとするのだが、泳げないから近づけない。戸惑っているうちに白鳥の群れも飛び立ってしまう。
呆然としているおじゃひよ。するとゴロゴロしている鳥の群れ(タナカヨシコ鳥がリーダー)がおじゃひよに話しかける。「私たちはめんどくさい鳥。こうして何もせずにただ集まって寝ている鳥さ」というタナカヨシコ鳥。
自分の仲間はこいつ等だったとおもったおじゃひよは、めんどくさい鳥の群れのなかでいつまでもぐうたらに過ごしましたとさ・・・・というお話。
ちなみに、エンドロールで表示されるの役名はおじゃひよ(白鳥)、タナカヨシコ鳥(白鳥)となっていた。 二人も白鳥だったんだ。 ぐうたらしてなければ美しい白鳥だったんだ。
おじゃる丸はたまに本当にエッジの効いた回があるから見逃せない。今回担当した今井雅子という脚本家の回に良い回が多い。
ちなみにたまに批判されるお話に「また来たこんじょうそう」っていうのがあるんだけど、おじゃる丸ウォッチャーとして擁護する文章を書きたいのだが、まとまってないのでまたいつか。
よくアニメやゲームの暴力シーンやエロシーンが子供に悪影響をどうこうって話あるよな。
ネットじゃ脊髄反射的にそんなバカな話があるかって反応帰ってくるけど、
そんなことをふと思ったのは、修論発表会も終わって、ちょっと余裕できたからアニメでも観ようと思って、
TUTAYAでふしぎの海のナディアを全巻借りてきてオールで一気見したから。
やっぱこれ名作。
25年も前の作品とは思えない。
OPで真っ青な空を背景に白鳥が画面内に飛び込んでくるシーン、
「あ、美しいってこういうことなんだ」
と子供ながらに思った、あの気持ちが鮮やかに蘇った。
もし小学生のころに、ナディアを観なかったら、今の自分は無いだろうな。
ジャンを見て、そうか、こういう男が物語の主人公になるんだ、と思ってから、電子工作にハマって今に至る。
一方、俺の隣で毎週一緒にナディアを観ていた妹は、ナディアみたいな女になりたいと思ったのか、
自分は卑弥呼の生まれ変わりなのだと思い込んだらしくて、家中に謎の呪符を貼り付けていたが、
気がついたら不登校児になっていた。
最近はマイルドヤンキーだかなんだか知らないが、そういう文化圏で男にサファイアを貢がせている。
これはこれで立派なもんだ。
俺達は極端な例かもしれないけど、やっぱり子供の頃に観たアニメって子供のその後の人生に多大な影響を与えると思う。
でもそれは、ただの暴力描写とか、残酷描写とか、そういうんじゃなくてさ。
ようは、感動、なんだよな。
自分に感動を呼び起こしてくれた何か、が子供に影響を与えるんだ。
ごく平凡な子供は滅多なことじゃ感動しないだろ。
「感動」を取り締まればいいと思うよ。
親は教育熱心なひとで、物心ついたときから近所の公立図書館に連れられて育った。
一方、実質母子家庭のような家庭環境で、そこまで裕福でもなかったうえに、完璧主義者の母親であったので、自分でお小遣いをもらって好きなものを買うという環境でもなかった。
母については、わたしたちのために苦労してきたのだなと申し訳なく思うし他にも色々思うところはあるのだけれども、それは本題ではないのでここには書かない。
とにかく、娯楽のない状況だったので、図書館で本を借りるか、サンテレビの野球中継を見るかくらいしかお金のかからない趣味はなかった。友達に漫画を貸してもらったりもしたけれども。正直、そのことをさして不満にも思わなかった。
(我が家にお小遣い制度というものはなく、欲しいものがあればその都度申告して買ってもらうという方式だった。本だけは何も文句を言われなかった。ありがたいことだと思うけれども、正直この制度は欠点も多いなと思っていて、わたしは今でも本なら自分で選んで買うことができるのに、服を自分で選ぶことができない。いつかお金持ちになったら、ドンキでいいなと思った雑貨を罪悪感を抱くことなく好きなだけ買いたい)
持てる限りの記憶力をハリー・ポッターの登場人物のプロフィールと呪文の暗記に注ぎ込んだ小学時代。はやみねかおるも好きで、小学6年生のとき図書室で『踊る夜光怪人』を見つけて、この世にこんな面白い本があるんだと思った。
中学生のころに森博嗣を好きになり、京極夏彦や西尾維新を夢中になって読んだ。今思えば、お前森博嗣とか大してよくわかりもしないまま読んでただろという感じだし、今でもだいぶわかってないと思うんだけどさ。荻原規子も茅田砂胡も乙一も島田荘司も恩田陸も読んだ。辻村深月が大好きだった。とにかく、中学高校時代と、講談社ノベルスに関わりのありそうな本はたいがい手を出した。近所の公民館でパソコンスペースがあったので、時間があるときにはハリポタやダレン・シャンのイラストや考察サイトをめぐって過ごした。
高校生の頃『活字倶楽部』という雑誌をたまたま見つけ、そこで『銀河英雄伝説』という小説があることを知った。当時は絶版だったので、近所の図書館の地下書庫から出してもらって一気読みした。そのままの勢いで友人に「とにかく、最初の20ページは飛ばしてもいいから読め! 2巻までは読め!」とすすめた。銀英伝が好きすぎて、その夏にすくってきた金魚すくいの金魚たちに提督たちの名前をつけた。
「おかあさん、ヤンが死んでる!」
ちなみに銀英伝ではないが「巽」と名づけた金魚もすぐに死んでしまった。今の実家では、フリッツとオスカーとアーダルベルトだけが生きているんだけれども、どの金魚もそろそろ寿命という感じだ。
進学させてもらって、大学生になってからはもう少し色々読んだ。
際立った傑作というのはない気がするんだけれども、カポーティが一番好きだ(正直『冷血』は好きじゃないしもっと彼らしい作品があるだろうと思う。ちくまから出ている短篇集がいちばん好き)。サリンジャーも好きだし、4月に亡くなってしまったけれどアリステア・マクラウドという作家がもっと知られたら良いのにと思う。
3年ほど前、人生で読める本は限られているなということに気付いて、それからは注意深く本を選ぶことにしている。最近好きなのは皆川博子と津村記久子とコナン・ドイルだけど、だから何だというわけでもない。
そんなわたしも、四捨五入してもう30という年になってしまった。
好みのタイプは?という話題になり「本が好きで穏やかで裏表があんまない誠実なひとがいいな」と答えたら「聖☆おにいさんのブッダでいいんじゃね?」と返され、
「ルーピンは現実にいねーんだよ」と別の友人に説教され、正直今に至るまで毎日小説のことばっかり考えてて自分あたまおかしいんじゃないかなって思う。
これはただの、本を読むくらいしか趣味のなかった女の回想みたいなもので、なんのオチがあるわけでもない。
ただ、わたしは毎日ばかみたいに小説のこと――主に、その登場人物のことばかり考えながら生きている。
腐った妄想をしているわけでもなく、『白鳥異伝』の菅流かっこいいよなあ、とか考えながら生きている。
ハリー・ポッターの本命キャラが殺されたことを未だにねちねち言う。
島田荘司の作風の変化を残念に思い、既刊を全部読むのが勿体無くて法月綸太郎をちびちびと読む。
ちなみに、こんな感じの人間だったので、高校途中まではオタク仲間とつるんでいたんだけれども、一番好きなジャンルが違ったので在学中から疎遠になった。同じように本が好きな友人が1、2人いるので、彼女たちとは今でもよく話す。それは幸福なことだと思う。正直、他にも同じような本の趣味をしている同級生はいたし、当時はよくその話をした。ただ、彼女たちがわたしと同じように、未だに毎日現実かそれより重いレベルで小説の登場人物について考えているとは到底思えないので、積極的に連絡をとろうとは思わないし、話題が切り出せない。自意識過剰なんだろうけど、そんなふうに、未だに地に足を十分つけるわけでもなくふらふらしている自分をときどき怖く思う。
ジャンルを変えればどこにでもごろごろしている話なんだとはわかっている。長い上に固有名詞がだらだら出てきていやみったらしいのはわかっている。
追記:
ブコメありがとうございます。正直コメントがついたとしても「キャラ読みしかしてない腐女子」的なことしか言われないかなと思っていたので、共感してくださる方がいてびっくりしています。本当に、子どもに本ばっかり読ませても、子どもの性格によっちゃ、いつまでもこんな感じで現実に地に足つかない感じになる可能性もあるわけで、何事もほどほどが一番だと思います。黒出目金のジークフリードは早いうちに昇天し、コメットのフリッツは年をとってだいぶ動きが緩慢になってきました。
この世代のオタクの女の子には、アニメではなく講談社ノベルスや電撃、角川某レーベル系の文庫本、その他とにかく面白そうな小説を読んで、感想をお互いに共有しながら育ってきた子がいるのだということを少しでも知っていただけるとうれしいです。ミステリ界隈ではキャラ萌えだろうとよく批判されますが、みんな各々好きな読み方をして、好きな作家の新刊は未だに追いながらも、各々それなりに幅広く読んでいる感じです。今でも。すいませんだらだらと。
時間があれば、鎌倉から江ノ電に乗ってみてほしい。時間帯は平日午後4時台がおすすめだ。
運が良ければ、300型の車両を捕まえることができる。その際、始発駅だからといって長椅子に座ってはいけない。ドアの脇に立つべきである。理由は後述する。
300型は昭和30年代に生産された本当に古い車両で、狭い車内や木造りの床に包まれると、自分が生まれてもいない時代のものにもかかわらず、何かひどく懐かしい気持ちになる。
それだけでも感無量なのだが、電車が鎌倉高校前に着くと、大量の女子高生が乗り込んでくる。季節柄、女子高生は汗ばんでいて、車内には一気に若い汗の匂いと体臭が充満する。女子高生の中には一定数の男子高校生が含まれているのだが、無視するよう俺は訓練されているので問題はない。
狭い車両なので、いきおい女子高生との(物理的な)距離も近くなる。座っていては女子高生との距離は遠くなる。立っていなければ。しかし、混んだ車内であらぬ誤解を招いてはいけないので、両手は高く上げて目に付くところにおいておくのがいい。そして静かに、だが深く深呼吸をするのだ。
50年走り続けた車体と、郷愁をさそう高校生の汗の匂い。目をあげれば、変わることの無い太平洋の大海原が広がっている。
そんな瞬間、変わらないものに触れた幸福感と、自分が失ってもう二度と手に入れられないものに対する孤独感との狭間で、ひどく泣きたいような気持ちになる。でも泣いてはいけない。平日4時に電車の中で泣くおっさんは、本物の変態である。変態は自らの心に閉じこめておかなければ。
女子高生は大抵藤沢まで乗るので、藤沢までこの感傷に浸ることができる。まさに至福の時だ。
終点の藤沢駅のホームに降り立ち、人々(主にJK)が立ち去って行くのを眺めながら夕方の改札を抜けて行く時の寂寥感ときたら…
そのうち、何処か別の街でも同じような時間を過ごしてみたい。
俺も元増田みたいな境遇の出身で、少しだけ才能があったが上の世界では並以下という程度。
やりたいことをやりたくて、挫折や失敗を繰り返しつつ何とかそこそこの所にしがみついてる状況。
周りは俺からすれば天上人みたいな高貴な生まれの奴らばかりだ。
中学校の同級生は、facebookにもいるが、それこそ「小さな幸せ」に満足して人生を着実に進めてる人ばかりだ。
俺は持って産まれた身の程に逆らってここまで来るために色々なものを捨ててきたので、そういう「当たり前の幸せ」みたいなものは手に入れられないと思う。
それを手に入れてる余裕がないと言うべきかも。今いる場所に留まるだけで常に全力で羽ばたき続けないといけないので、他のことをする余裕がない。
俺の今の状態は幸せなのか?というとよくわからない。俺個人しては、小難しい数学に頭捻ったり才能ある天上人達と一緒にワクワクする仕事をしていけるのは最高に楽しいのだけど、自然に生きてるなーとかいう感じは全くないし、比喩的だけど、常に空を飛んでいて(羽ばたくのをやめたら死ぬ)「地に足がついてる」安心感みたいなものは全然ない。
グロテスクなキメラみたいになって、流体力学的に不自然な飛び方をしながら、優雅に空を舞う白鳥達の航路をなんとか辿る人生だ。
町を歩いていて、ふと、窓ガラスに自分が映るのを見る。ああ、自分はキレイだなって思う。ものすごい美人ていうわけじゃない。でも私は自分の容姿を気に入ってるし、多くの他人にもそれなりに見えるっていうことも分かる。
その瞬間にいろいろなことを思い出す。
昔は自分の姿を見るのが、とても嫌だった。町中で唐突に鏡に出くわすと、ぎょっとして心臓が止まるかと思うほどだった。自分は家庭でも学校でもいつも醜い子供だった。少なくとも自分を醜いと思って生きていた。思春期になるころには、学校の男子にありとあらゆる方法で容姿をけなされた。母親は、顔の整形手術を進めてきた。少しずつ自分の身体が女らしくなってきたとき、それを私は嫌悪した。できるかぎり身体の線の出ない服、ダボダボな男の子みたいな服を選び、髪も五分刈りにしていた。女として見られるのが嫌だった。女じゃなくなれば、醜くても、そんなに傷つけられることはないから。きっと。好きな人ができると、こう思った。自分のことを見ないで欲しい、こんなに醜くて汚らしい自分を見ないで欲しい、モンスターみたいな私の存在をしらないままでいてほしい。少しでも人を不快にさせないように、いつも微笑んでいるようにした。微笑はそのうち能面みたいに顔に張り付くようになった。自分がもう少しでも美しければ、こんなに苦しまなくてもすむのに、と思った。願いはいつもひとつ、「美しくなること」だった。
高校を出て大学に入り、それまでの人間関係から解放されて少し楽になった。眼鏡もコンタクトにすることが多くなった。髪もすこしのびた。大学に入って知り合ったリア充男子が、ふと言った。「眼鏡外すと可愛くなるとか、少女漫画みたいなことってあるんだな」…ぽかんとした。意味が分からなかった。でも、その後実際に自分の人生は大きく変わった。だんだん女の子らしい服を着るようになった。どこへ行ってもちやほやされるようになった。家に帰ると母親は、女らしくなった私を見て馬鹿にしたみたいに鼻をならしたけれど。そして、彼氏ができた。それも死ぬほどイケメンで頭が良くて面白くて優しいとかいう、パーフェクトな彼氏だった。そして数年後プロポーズされた。
ここまでだったら本当に少女漫画みたいだ。醜いアヒルの子は美しい白鳥になって、王子様に求婚されて幸せな人生を送りました、というような。だけど、自分はその結婚を断った。理由なんて特に無い。強いて言うなら、結婚して仕事辞めて地方に行くなんてまっぴらゴメンだった、というくらい。彼氏は卑屈だった私の人生を変えてくれたのに、誰よりも大事だとか思っていたのに、結局そんな風に思う自分のエゴに失望した。結局自分は愛される価値も愛する能力もない欠陥人間なんだって思い知った。
それから数年。私はあいかわらず仕事をがんばっている。友達にも恵まれている。でも、あれ以来本当に好きになった人はいない。もう恋もしないし、性欲すらなくなってきた。婚活もする気にならない。いつもどこかに、自分は誰かと一生添い遂げる資格のない人間なんだっていう意識がある。自分には無理だって思う。そしてものすごく寂しくなる。それは、「いつかヒーローがやってきて、大冒険の末に私をこの世界から救い出してくれる」っていう妄想というか信仰というか、そういうものが打ち砕かれたからだ。一瞬そういう夢をみてしまっただけに、その失望感は大きい。人間には希望が必要なのだ。
美しくなることは、結局なにも解決しない。自分の性格を変えることもできず、王子様に助けてもらう気にもなれないのであれば。だけれど、今日鏡に映る自分の顔は、もうイグアナみたいに醜いモンスターじゃない。それだけでも自分は十分幸せになったのだと思う。
日本人はとりわけこの傾向が強いのだが成功術や幸福術に対して猜疑的と言えるほどに否定・反発する風潮が広くみられる。
また、より一般的な話になるが現代人に広く見られる傾向として、絶対的価値観に対する無条件の反発のようなものも広くみられる。
ひるがえって、近代科学が知識人たちにもたらした仮説思考とは、集めた情報、持ちうる情報から検証を重ねて一定以上の確率で正しいと推論される主張を「さしあたり」支持するというものである。
だから、何もその主張を絶対的に支持するわけではないが、「さしあたっては」絶対的に支持しているような「素振り」をとっている、と言えないこともない。
そういったものに対しても、「自分の考えを正しいと信じて疑わない」「自分以外はみんな間違ってると思ってるよアイツ」みたいな言い方を平気で出来てしまうのである彼らは。
いわば、絶対性アレルギーとでも言うか、「絶対なんて絶対ない」から感じる滑稽さに近しいものを感じざるを得ない。
むろん、彼らも絶対的に絶対性を否定しているわけではなく、あくまで「素振り」であると断じてしまうことは簡単である。
しかしながら、素振りであるにしても、幸福術に対するアレルギー反応を観察していると、これは人生簡単にいく方法なんてないから簡単な方法を否定しているといった人生の構造そのものの難しさにだけ帰着できる問題というより、
もはやこれはアレルギー反応を起こす人々に特有な精神性に問題があるのだなあと私は考えるのである。
バイト先の近くのローソンに過剰なサービスを提供するありがた迷惑な店員がいるのだが、最初それは店側の意向なのかと思っていた。
通常おかしな店員がいれば他の店員が注意したり客が苦情を申し立てたりするはずで、とっくに修正されているはずであるから、店側の方針と考えるのは自然なことである。
だが、その店に通い詰めるにつれて、明らかにその店員だけ特殊であることに気づき、これは誰も注意しないだけなんだと判明した。
すると不思議なのが何故注意しないのかである。その店員がおかしいと思っているのは俺だけなのか?いやそんなはずはない。では何故注意しない?
結局導き出された結論は、誰もがそんな些細なことはスルーしているのだ。彼は法をおかしているわけでもなく、あからさまに害を及ぼしているわけでもない。ただちょっとウザイだけである。
仕方ないのだ、そういうキャラなんだから。たまには迷惑そうにする客もいるだろう。実際、おかしな顔で彼をにらんでる女性客を見かけたことはある。「なんだこの馴れ馴れしいヤロウは」みたいなw
だが、否定派の俺が見ても彼はイケメンだから注意する女性も少ないのかもしれない。結局、ハルヒじゃないが最初は「なんだこいつ」と思う人が多いだろうが
「まいっか」の精神で最大公約数的な答えに落ち着いているのだろう。思えば世の中にはGCMを計算してくれる既成のプロパガンダやプロパガンダ機能を有するサービス・機関があふれかえっている。
「こまけーこたぁいいんだよ」とばかりに様々な無数の懸念事項を隅田川に勝手に不法投棄し、東京の街は成り立っている。
表向きは綺麗に見せかけているが水中では足をばたつかせている白鳥のように、クローゼット突っ込み整理術のように、強引に人々の心のゴミを片付け、夢を見させる。
言うなれば、その延長に絶対性への拒絶反応や幸せに生きる方法に対する無条件な否定や猜疑的反発や神経症的激怒があるのだろう。
心のどこかでは幸せに生きたいと願いつつも、その思いは叶わないから「ゴミ」であって削除されなければならないのだ。彼らの中では。
そこで手っ取り早くゴミを片付けて(結局それは先送りしてるだけで片付けには成功してないのだが)夢を見させてくれる既成プロパガンダにしがみつく。
そしてテキトーに組み合わせて自分のためのつぎはぎだらけの不格好な体系をこしらえる。それが彼らの声帯なのだ。
なぜこれが深刻な問題にならないかというと人々はそれなりに幸せだと思い込むことが出来ているからである。いろいろ不平不満を表面では言いつつも、実は大して彼らは困っていない。
しかし、こうも考えられないだろうか?中には本当に困っている人もいると。あるいはまた、困ってはないがもっと幸せになりたいと願っている人もいると。
だから日本に生きる人たちは気をつけないといけない。自分がその該当者だとしたら現実から目を背けてインスタントなツギハギプロパガンダの夢を見るのは得策ではない。
そういった人たちが既成の幸福術を実践したところで、ツギハギプロパガンダの悪影響を強く受けてしまうから失敗に終わることが多いのだ。
そして明日には二の轍を踏むかもしれない人間が平気でそういった人たちをつかまえて、だから無理って言っただろと非難する。そういう構造になっているわけである。
科学を篤く信奉する我々は、彼らの永遠なるごっこ遊びを真似してはいけない。毅然とした大人の態度で、GCM計算から一歩置く必要がある。
絶対なんて絶対ないと言いながらGCMのトリコになってる彼らとは違う。科学者の言う相対主義とは、仮説思考であり、方程式の適用限界の確認である。
ほにゃらかほにゃらかだと念仏のようにとなえるだけではだめで、直接話法を使いなさい。「「おっぽれだからほにゃらかだ」と思う」と言わないとダメ。カッコつけずに括弧をつけろと高校数学で習っただろ?
非モテにとっては近寄りがたい存在。寄ってくる男はイケメンかノリで特攻できて拒否られても平気な有象無象。そのため、見た目的には釣り合わない男と付き合う美人もいる。
ここに高学歴や高身長などが加わると、一気にアプローチのハードルが上がるため美人なのにモテなくなる場合も多い。
しかし海外などでは依然として歓迎されるので、日本人男性に見切りをつけて国際恋愛市場に飛び出す例なんかもあるようだ。
これに腹を立てた男からバッシングをくらってブス扱いされてしまう場合もある。
非処女でも一部の原理主義者以外からは納得してもらえるため、あまりマイナス要素にならない。
顔がそこそこ整っていて、性格に難がない。がこのカテゴリの代表例と思われがちだが、実際はもっと複雑。
目をそらしたくなるブスでない限り、愛嬌や育ちの良さ、雰囲気、おっぱいや脚など、男が好きそうな保守的性格や雰囲気が垣間見えたり、身体的に有利な部分を持っているとここに入れてもらえる。AKBグループにいるような女や、男目線意識のモテ重装備でゆるふわでいい匂いの女アピールが出来た女、ブサカワでエロいなどである。
ここはイケメンから非モテまで様々な男達の狩場である。だが誰もが彼女や嫁やセフレにしたい上玉はイケメンや何かに秀でた男に食い散らかされる。
非モテはそれをビッチと罵り、一部の行動力ある非モテはおとなしそうな女や食い散らかされたブサカワエロにアタックするのである。
非モテはこの層には処女であってほしいと願うだろうが、リア充などは面倒くさく感じたり、この層にいるような女がビッチだと嬉しいと考える男もあり一様には語れない。
この層にいる女も、目をそらしたくなるレベルではないブスから、美人には惜しいが整った顔まで様々である。
では何が違うのか。この層にいる女達は「かわいい」でいることを拒否したりやめた女達である。
かわいいは疲れるのだ。いい匂いのシャンプーは高いし、モテ服で自分にあうものを探し出すのは大変な苦労だし、愛嬌を振りまくのは精神的負荷が大変に大きい。
それでいて身体で釣り糸を垂らすのもつかれるし、処女性や育ちの良さのアピールも長期的努力あってこそ。かわいいは水面下で必死に泳ぐ白鳥なのである。
だが男どもにはちやほやされたい。少なくとも関わっていたい気持ちが、彼女たちを名誉男性にさせる。
名誉男性は、女なのに女っぽくない女、である。男性が好む趣味があったり、エロ話を男と出来るレベルで積極的だったり、美人や可愛い女を男と一緒にほめちぎる。
そしてここが重要だが、男が嫌いな女を一緒にdisる。同情心があっても勘違い女を叩き、ブスを努力不足と罵る。
非モテの一部が感激してこの層を好きになるか、顔や身体がよい名誉男性がイケメンやリア充にさらわれていく。
しかし非モテは名誉男性に「かわいい」の基準、例えば処女や愛嬌をも求めてしまうためしばしば噛み合わなくなる。
ただ注意したいのは、顔と同じくらい性格や言動によってブスとされることが多い点。
美人、かわいい、名誉男性は、何らかの点で男を満足させる存在だが、ブスは逆に苛立たせたり煽ったりする女である。
美人フェミニストはいつまでたっても美人扱いは受けられないだろうし、過剰な韓国好きや日本disり、欧米流の生き方を何からなにまでリスペクトする美人も同様である。
処女かどうかは関係がなく、処女でも非処女でも叩かれるのがブスである。
だから、よほど顔を背けたくなる呪われた見た目でもない限り、ダイエットとメイクと言動で恋愛市場に参加することは可能ではある。
ただ、女が痛々しいまでにイケメンや社会的地位のある男を求めたがるのと同様に、男も相当に自己本位に女を値踏みしている。
どこかの島?中洲(パリのシテのような)?仕事か、プライベートかわからない。いつか知りあいが日帰りでつれていってくれたAveiroからの帰り道に見た見知らぬ田舎?道沿いにある個人商店をのぞくと店員がスペイン語で喋っていて、ああ移民が多いから田舎か、と思う。
川の方にいくとぬかるみになっている。対岸はかなり近くて、むこうの声もきこえる。ぬかるみにはまりそうになって、パッとよけると、白鳥がそこで休んでいるのを見る。すぐそこに道があって車がぐんぐん通っていて、「この島は抜け道で、皆よくつかうのだな」と思う。
先の個人商店のわきはデパートになっている。入ると、なぜかバースデーケーキがショーウィンドウにならんでいる。母親と幼女がおめかしをしてその前を歩いている。へんなエレベーターがあって、それにのって上にいく。
上につくと、なぜか高所恐怖症になっていて、扉があいて人が入ってきても、外に出れない。よろめいて、エレベーターの籠にはなぜか柵がなく、ああ落ちる!と恐怖にかられるが、入ってきた人に助けられて外に出る。彼らは父母子の家族で、ふざけているその男の子の背中をポンッとたたく。
降りたフロアにはプロレス?かなんかの興行をやっているよう。トイレにはいると、イタズラされて分かりづらくなった男子用、女子用マークが入り口に。一人男性が間違えたのか、キャーっという声がきこえる。自分は慎重にはいるが、不安で周りの人が男かよくたしかめる。
トイレは、まるで駅のトイレかのように男子便器がずらっと並んでいて、やや不衛生。なぜかほとんどの便器が故障中で、テープがはられていて使えない。立って小便をする。
ここでトンデて、なぜか地下道のようなところを彼女と一緒に歩いている。彼女は「三月から中国に行くことになったんだよ、話してなかった?」という。全く知らなかったので動揺しつつ「一年間?」と聞くと「うん、一年間」と答えるので「僕もついてっちゃおかなっ」というと露骨に嫌な顔。ここで覚醒。
久々に長く、具体的な夢だった。
ブラック・スワンって言いたいだけじゃないかと言われそうだけど、まあ聞いて欲しい。
むかし西洋では、白鳥と言えば白いものと決まっていた。そのことを疑う者など一人もいなかった。ところがオーストラリア大陸の発見によって、かの地には黒い白鳥がいることがわかった。白鳥は白いという常識は、この新しい発見によって覆ってしまった。
「ブラック・スワン」とは、この逸話に由来する。つまり、ほとんどありえない事象、誰も予想しなかった事象の意味である。タレブによれば、「ブラック・スワン」には三つの特徴がある。一つは予測できないこと。二つ目は非常に強いインパクトをもたらすこと。そして三つ目は、いったん起きてしまうと、いかにもそれらしい説明がなされ、実際よりも偶然には見えなくなったり、最初からわかっていたような気にさせられたりすることだ。
(ナシーム・ニコラス・タレブ著 「ブラック・スワン―不確実性とリスクの本質」 内容紹介より)
現在進行している大震災について、このブラック・スワンみたいな考え方で捉えるのが良いと思った。
この考え方は、今何が起きているのかを把握するときの根っこになる。
そして現状認識が出来てはじめて、今後起こりえるワーストケースについて考えることが出来る。
結局、漠然とした不安を解消するには、こうやって覚悟をきめていくしかないよね。
横からだけど、法曹などにつよいなら、慶應があるし、ラインを別にすれば学習院がある。東大内でも学部や、博士・修士の差があるし。
あと、日本の場合、大学生で企業は少ないけど、大学生で会社に入る例はそこそこいるみたいだよ。
身近でも、東大中退してとある企業に入って、いまでは、もらってる株だけでも、もう、一生が保証されているみたいな。事例はあるっしょ?
ほりえもん、みたいな表方じゃないと、名前は出てこないけど、裏方でっていうのなら、それなりにあるんじゃない?。
それは別として、大企業でもなければ、高学歴という『ハンデキャップ』を背負うのは、そりゃ考えればわかる当然のこと
みにくいアヒルの子を読んで、とある魔術にでてくるように、
アヒルと仲良くなりたかった白鳥の子は、結局アヒルとは仲良く出来ませんでした。という感想を噛み締めろって事かと。
世の中には嫉妬も有ればヒガミもあるという現実を無視することはできない。
土曜日曜 22:00~0:00 アニステ特集 9月/魔法少女アニメ特集
親は中流リーマン。教育熱はほとんど無かったので現実を知らずのんべんだらりと過ごし地方旧帝大に進学。
そのうち現実に気づき、大学院で東大に進学するも、無謀にも理学(理論系)専攻だったので研究では食っていけそうになく、金融に就職。
入社した頃が米国の不動産市場のピーク。最初は良かったが景気は明らかに下降トレンド。仕事もそびえ立つクソのようにつまらなかったので、
リセッションが本格化する前(世間がベアスタとかファニーメイとかで騒いでた頃)に転職。中小企業へ。
転職先では仕事はそこそこおもしろく、能力も認められ、待遇も中小にしては結構良く(前職より少し悪い)、金融業界ではなくなったので
規制に縛られず投資もできて、少しずつ金が増え、余裕出てきたなーと思ったところで親の仕事が不景気+業界の構造不況(ちなみに官製不況)で急降下。
会社も家も売却するか(独立開業していた)とかいう話になり、それでも家のローンなどが返しきれないとかなんとかいう話になった。
弟が3人いて下の2人はまだ学生。しかもEランFランとかそのへん。すぐ下の弟は知的障害で、高卒で工員。輸出系製造業の凋落の煽りをもろに食っている。
というわけで金が無い。
増田の言うような一般論なんて、黒い白鳥が1匹やってきただけで全て吹っ飛ぶぜ。
今の仕事で培ったスキルを持ってまた金融に戻れば、100万とか200万とかくらいなら年収を上げることは不可能じゃないとは思うが、
もうあのつまんない仕事やりたくないんだよなあ。100万そこそこでどうにかなる状況じゃないし…。
このご時世、俺みたいなのも結構いると思うけどね。
「兄者、斥候より報告。敵軍勢が北五里に現れたようです」
陸路兄弟の弟、陸路兆次は迫り来る軍勢の報告に緊張を隠せなかった。兄の運長に比べ、まだ実戦経験が少ない。ほぼ初陣と言ってよかった。
「よし、歩兵部隊は中央で堅陣を組め。騎馬隊は歩兵部隊の両翼へ展開し、相手陣容に対応できる形で待機」
陽は青く晴れた中天にかかりつつあった。西に山を仰ぎ見る草原、その少し小高くなったところ。運長は騎馬隊五百のうち、二百五十を率いて歩兵部隊の右翼に展開した。西の山から流れる河を隔てて、敵軍とまずは向かいあうことになるはずだ。水量は大人の腰ほどである。事前に斥候に調べさせていた。河を渡って来なければならない相手に圧倒的に不利な地形を選んで布陣していた。
兆次は歩兵部隊二千を率いている。運長は兆次の緊張を見抜いていたが、言葉をかけなかった。緊張はしていても自分の初陣の時より間違いなくいい顔をしている。そう感じていたのだ。だが、それも言葉にはしなかった。
余計な言葉をかけなくても、戦いが始まれば兆次の体は自然と動く。陸路一族に流れる「いくさびと」の血がそうさせるはずだ。初陣での自分が、かつてそうであったように。
斥候からの報告が立て続けに入る。歩兵五百。敵軍との距離は一里を切っている。見える。雑然と行軍している。軍としてようやく体をなしている、という程度だ。
敵軍のほぼ中央に「おまる」の旗がたなびいている。おまる兄弟の兄、おまる(大)はおそらくそこにいるのだろう。ほぼ全軍が歩兵で、騎馬はおまる(大)を含め、十に満たないようだ。おまる兄弟の人徳のためか、人員が集まらなかったのであろう。兵力は二千五百対五百。戦を生業としてきた陸路一族を前に、この戦力差は決定的とも言えるものであった。
「騎馬隊、前へ」
相手の陣容を見て、運長は両翼の騎馬隊を歩兵より前に進め、五百騎を歩兵の前で一つにまとめた。あの軍相手なら騎馬隊五百の突進で大勢は決してしまうかもしれない。運長はそれでも自分の考えに気のはやりがないか、もう一度自らに問い直した。
河の向こうにおまる兄弟軍が布陣した。躊躇なく先頭の歩兵が河に飛び込み、浅いところを渡ってくる。
やはり……。運長は先ほどの自分への問いかけが杞憂であったと感じた。所詮おまる兄弟は兵法も知らない素人だ。
組み合わせが決まった時点で、運長はおまる兄弟に会い、試合方法を騎馬戦にしないか?と持ちかけた。それも「何でもあり」の騎馬戦にしようと持ちかけたのだ。白鳥の首が付いた大小のおまるにまたがり、おまる兄弟は、アホ面を揃えて「いいよー」と快諾した。弟のおまる(小)にいたっては鼻水まで垂れっぱなしのアホ面だった。場所、時間に至るまで、おまる兄弟は陸路兄弟の条件を全て受け入れた。もう既にそこで勝負は始まり、結果は決していたのかもしれない。
河を渡ってくる歩兵部隊の中央でたなびく「おまる」の旗を見据えた後、運長は自分の馬の鞍に立てた「陸路」の旗を振り返った。旗を取られた方が負け、その他は何でもあり、自分がおまる兄弟に言った言葉をもう一度胸の中で繰り返し、そして、河を渡るおまる兄弟の歩兵部隊を見つめた。もう少しで「おまる」の旗が河を渡る。
敵が川を渡って来たならば、川の中で迎え撃ってはいけない。孫子曰く「半ばわたらしめてこれを撃たば利なり」この場合なら、敵軍の中央にある旗が渡ってから迎撃すれば、渡りきっていない敵は身動きがとれない。まさに運長はその時を待っていた。もう少しだ。右手を挙げる。
「突撃」
右手が振り下ろされると同時に、陸路騎馬隊は敵軍に襲いかかった。宋襄の仁など関係ない、要は勝てばいいんでしょ、そう呟いていた。河を渡ったおよそ三百の敵兵に動揺が走る。運長は手綱を握り締め、先頭に立って敵の歩兵部隊を二つに断ち割った。見事に統率された陸路騎馬隊は、一匹の蛇のように「おまる」の旗の下の十に満たない騎馬に絡みつく。浮き足立った騎兵を粘りつくように取り囲んだ。
運長は手にしたピコピコハンマーで、騎馬上の兵士を次々と叩き落した。見えた。旗。手を伸ばし、一瞬の隙を突いて「おまる」の旗を取った。
にやり。おまる兄弟は微笑んでいた。鼻が垂れている、こいつは弟だ。今奪い取った旗。「おまろ」そう書いてあった。瞬間、気づいた。五百の陸路騎馬隊は三百ほどの歩兵に取り囲まれている。運長の背中に冷たいものが走った。退避せよ、そう叫ぼうとした。
「あれは?」
陸路騎馬隊の一人が河の方を見て叫んだ。河の水量がいつの間にか増えている。その上流から、白いものが無数に流れてきていた。白鳥? 否。おまるだ。数千というおまると、それに乗った歩兵が河を流れてきている。突然現れたおまる部隊は、陸路騎馬隊の近くの岸からそのまま上陸してきた。上陸してわかったことだが、おまるに乗っているというより、おまるの底から足を突き出し、あたかもおまる型の浮き輪でもしているような歩兵だ。その数ざっと見て、五千。
最初の歩兵三百の動きは巧みだった。運長とその周り百騎ほどの騎馬以外は、囲みの外に逃がしている。ジリジリと運長の旗をめがけて包囲を狭くしているのだ。最初の行軍の乱れはフェイクだったのだ。運長は歯軋りしながら手綱をさばき、百騎に密集隊形をとらせる。そうする間にもどんどんおまる部隊は上陸し、三百の歩兵とあわさって囲みを強固なものにしていくのだった。
不意に衝撃が来た。兆次の歩兵二千が、おまる部隊と歩兵三百の囲みに猛然と突進していた。楔の隊形で囲みを穿ちにかかっていた。楔の先頭で、兆次が鬼の形相をしていた。ハリセンを振るい、おまる部隊をなぎ倒していく。囲みの外に追いやられていた騎馬隊もそれに続いている。陸路の血が兆次の中でたぎっていた。緊張を隠せなかった弟が獅子奮迅の戦いをしている。呼応するように、運長の胸に熱い何かがこみ上げてきた。
「歩兵部隊と合流する。総員、歩兵部隊に向かって血路を開け」
地を震わせるように叫んでいた。ピコピコハンマーがうなる。乱戦になった。少しずつ、弟の部隊に近づいた。やがて、伸ばした手と手が触れ合うように、歩兵と騎馬の部隊は一つになっていた。立派な「いくさびと」となった兆次の顔を見つけ、思わず運長の口の端が緩んだ。
だが、緩んだ口の端はそのまま凍りついた。
一つになった陸路騎馬隊と歩兵部隊は、水量を増した河を背にしていた。五千のおまる部隊と三百の歩兵隊にぎちぎちに包囲されている。運長は自分の背にたなびく陸路の旗を見た。これでは敵も旗には手が出せないはずだが・・・。
大きな白鳥が一羽、上流から流れてくる。いや、大きすぎだ。30メートルはある。頭のてっぺんに「おまる」の旗があった。そして、河を背にした運長の前で止まった。にょきっと足が生え、立ち上がった。50mはある。そして、しゃべった。
「あの日、勝ったって思ったんだろ。その時点で負けてたんだよ、あんた達はさ」
おまる兄弟の兄、おまる(大)の声だった。
「こいつはおまる型モビルスーツ、スワン号。美しいフォルムだろ。おまるってやっぱり芸術だよな、そう思うだろ?」
バカでかい白鳥は、頭を下げた。運長の鞍でたなびく「陸路」の旗にゆっくりと向かっている。反射的に運長は鞍の上に立って、両膝を曲げた。どうしても欲しかった勝ちが近づいてくる。飛べる。つかめるよな、俺達なら。なあ、兆次・・・・・・。
運長の体は跳躍し、スワンの顎あたりを頂点とする放物線を描き、河の中に消えていった。
スワンは、与えられたエサでも食べるように、たやすく「陸路」の旗を咥え、おまる兄弟の二回戦進出が決まった。
http://anond.hatelabo.jp/20090130135752
2008.01.02 20:42ごろ- ヘキサゴン 2ショット 全26問 早答え集計テスト
●01 A.一年の計[は]元旦[にあり]4301 (きびしめ)ID:-
●02 A.とんび[が]たか[をうむ] 4348 ID:-
●03 やぶ[から]棒 4727 ID:-
●04 あらし(の前の)しずけさ 4748 ID:-
●05 かも(が)ねぎ(をしょってくる 4812 265 :名無しでいいとも!:2009/01/02(金) 20:48:05.00 ID:a60g1Yyz かも ねぎ
●06 さじ(を)なげる4829 ID:-
●08 残り物(には)福(がある) 4927 ID:-
●09 一寸さき(は)やみ 4943 ID:-
●10 A.ノルウェイ(の)森 5114 (きびしめ)321 :名無しでいいとも!:2009/01/02(金) 20:50:47.23 ID:a60g1Yyz ノルウェイの森
●11 H(&)M 5148 ID:-
●12 尾(は)東 5217 363 :(・∀・):2009/01/02(金) 20:52:08.13 ID:hf7e2dtT 尾は東
●13 A.ところ(かわれば)品|水(かわる) 5318 (きびしめ)ID:-
●15 A.水(の)音 5431 427 :名無しでいいとも!:2009/01/02(金) 20:54:07.16 ID:3SNXgY6Q 水の音
●16 天下(の)まわりもの5503 455 :名無しでいいとも!:2009/01/02(金) 20:54:44.68 ID:JEx3nrT4 てんかのまわりもの
●17 A.背水(の)陣 5556 483 :名無しでいいとも!:2009/01/02(金) 20:55:20.88 ID:xG5AD97R 背水の陣
●18 三途《さんず》(の)川5614 520 :名無しでいいとも!:2009/01/02(金) 20:56:08.48 ID:KCd8iNc0 さんずのかわ
●20 鬼(に)金棒5724 572 :(・∀・):2009/01/02(金) 20:57:23.87 ID:hf7e2dtT おににかなぼう
●21 たま(の)こし 5740 582 :(・∀・):2009/01/02(金) 20:57:39.19 ID:hf7e2dtT たまのこし
●23 赤(の)他人5846 ID:-
●24 仏の顔(も)三度(まで)0057 636 :名無しでいいとも!:2009/01/02(金) 20:59:20.24 ID:nLCgLMtJ 仏の顔も三度
●25 白鳥(の)湖0209 751 :名無しでいいとも!:2009/01/02(金) 21:01:24.55 ID:xG5AD97R 白鳥の湖
●26 金(のなる)木 0340 877 :名無しでいいとも!:2009/01/02(金) 21:03:33.48 ID:xG5AD97R かねのなるき
14 ID:-
3 ID:hf7e2dtT おににかなぼう たまのこし 尾は東
3 ID:xG5AD97R かねのなるき 背水の陣 白鳥の湖
2 ID:a60g1Yyz かも ねぎ ノルウェイの森
1*4 ID:3SNXgY6Q 水の音 ID:JEx3nrT4 てんかのまわりもの ID:KCd8iNc0 さんずのかわ ID:nLCgLMtJ 仏の顔も三度