はてなキーワード: 公言とは
しかし我々は「豚肉食は悪だ」というイスラム教徒とも「ウロコのない魚を食べてはいけない」というユダヤ教徒とも平穏に共存できている。「本人が属する共同体(宗教共同体でも、信念の共同体でもいい)の外部にいる他者に、自分たちにとって善であることを強要したり、悪であることを禁止しない」という形で相互不干渉のメタ倫理を徹底できていれば、共存することはできる。ヴィーガンも同じ。信念を持つことと、その信念を公言することと、その信念を他者に強要することは別。NGなのは最後のやつ。「酒はコミュニケーションを円滑にする」と言ってもいいが、無理に飲ませたらNG。そういうヴィーガンだけを批判すればいい。
幕末期、公武合体すなわち朝廷の伝統的権威と現実の統治者の結合による統治者の権威付けが図られたが、その具体的手段は和宮親子内親王の徳川家茂への降嫁であった。
翻って主権在民が謳われる日本国憲法下において天皇家が君主として権威を持つとすれば、民主主義精神の不足と言わざるを得ない。現実に先の東京五輪でも、選挙で選ばれた議会が選んだ首相を差し置いて、天皇に五輪への苦言を言わせようとする王政主義(反民主主義)を公言する者も少なく無かった。嘆かわしい限りである。
我が国が真の民主国家たらんと欲すならば、あたかも天皇が首相の上に立つかの如き思想を抱かないよう、その権威を剥奪しなければならない。
これを公武合体に準えるならば公民合体とでも言おうか。その具体的手段は、公武合体に準えるならば、皇族の一般人への降嫁となる。
この合体は、民の側が皇族の歴史をも伝承・吸収してこそ成る。伝統が皇統に専属せられたままでは、伝統に基づく権威もまた皇族に残置されるためである。
したがって、逆説的ではあるが、降嫁を受ける者においても皇族の伝統を体現する必要がある。それは例えば装いであり、髪型である。
つまり、「令和の公武合体」を体現するためには朝廷の伝統的髪型である鬟を結える必要があり、それには髪を伸ばす必要があったのである。
結婚も出産も公言してなかったのにいつの間にか知られていたし、警察に注意してもらってからは直接的な発言はなくなったけど、Twitterとかで誕生日を空で祝われるのもめちゃくちゃ気持ち悪い
結婚して子供もいるくせに他人の夫に粘着し続けて不倫願望丸出しなのも気持ち悪い
なんだ夢でも君を想うって40にもなっていつまで頭お花畑なんだ気持ち悪いから早く病院行ってほしい
こっちは二度と関わりたくないくらい気分悪いのに、恋人が無理なら友達として今後もずっと仲良くしよう。みたいなの本当無理。気持ち悪すぎる
吐きそう
フェミニスト議員連盟の件で,これまでの似た騒動でフェミニスト側で炎上に関わってきた人たちが妙に静かなのが気になった.キズナアイの件でも,宇崎ちゃんの件でも,だいたい炎上して数日経つとYahoo!個人ニュースか現代ビジネスあたりにフェミ側を擁護する記事が出て,これまたボロクソに叩かれるのが通例なのだが,今回は各人のTwitterですら完全に沈黙を守っている.
それもそのはず,これまでの事件と違い,今回の件だけは,擁護に回るのは相当なリスクがあるのだ.
これまでの騒動だと,「女性への偏見・蔑視を促進する」とか,「女性が性的対象になっている」とか,最大でも「環境型セクハラ(みたいなもの)」という,良くも悪くもふわっとした指摘にとどめてあった.ところが,今回は,刑法犯罪を誘発するとまで述べてしまった.これにより,擁護のハードルが一挙に上がってしまい,当該表現は人に犯罪をおこさせるほどの強烈な作用を持つことを立証せねばならなくなった.これはかなり厳しい.また,定番の「TPO」「内閣府ガイドライン」「性的モノ化」の議論も,偏見・差別意識の強化という個人の意識の話までは使えても,犯罪という具体的な行動の誘発となれば,力不足である.要するに,これまでのグレーゾーンでの戦法が通用しない,完全なる危険領域にフェミニスト議員連盟は踏み込んでしまったのだ.
次に大きいのが,VTuber所属事務所の女性社長が表に立って抗議をしている点だ.この状況下でフェミニスト議員連盟の擁護をすれば,当然,フェミニストの立場にもかかわらず女性社長を批判することになってしまう.もちろん,女性は性差別をしないという訳ではないので,理論上は批判も不可能ではないだろう.が,そもそもが当該表現は「性犯罪を誘発する」という点から出発しているから,下手なことを書けば名誉毀損の訴訟リスクすらあり,苦労の割に旨味がない.この状況で突撃できるのは狂戦士のツイフェミぐらいなものだろう.
最後に,今回の件が特異なのが,政治家が圧力を加えた点だ.これまでの騒動の発端は,弁護士とか大学教授とか色々な人がいたけれど,どれも政治家ではなかった.なので「市民が自主規制をしているにすぎず,表現の自由の侵害には当たらない」という議論が可能であった.ところが今回は,紛れもなく政治家の地方議員が特定の表現に「犯罪を誘発する」と公言した事件であり,一気に表現弾圧の雰囲気が出てくる.ここにリベラル的にヤバい匂いを嗅ぎ取って,沈黙した人もいたのではないかと思う.
言えないパターンは色々。いくつか例を挙げる。
・食べ物
人と食事に行ったとして、注文する品が相手と同じだと分かった時点でヒィってなる。こいつ真似してるんじゃね?って思われそうで汗が出る。慌てて注文を変える。
・趣味
種類関係なく口にするのにためらいがある。ごく稀に公言することもあるのだけど具体的に「◯◯の△△なところが好き」と伝えられない。せいぜい、◯◯が気になって…とボソボソ言う程度。
言ったら叩かれるだろうと思うしお前が◯◯を好きなんて言うなよと言われそうな気がしてならない。どんなものも自分以上に時間やお金、熱意をかけている人が溢れているからだ。
・人
老若男女問わず恋愛感情なしで、××さんの□□な面がいいなと思ってもなんか上手く表現できない。
当人からしたら不気味なのではないか、他の人からはあの人はそうじゃないと否定されるのではと恐れている自覚はある。
SNSで好きなものを気軽に書いて、広めて、わかるー!と盛り上がるのが羨ましい。私もそれが好きとパッと言えたらいいのに。
誰も好きな人がいなそうなものを見ると安心する。自分以上にそれを愛する姿を見なくて済むから。でも好きな気持ちを誰かと分かち合ってみたい。
それ自体は自分の権利を必要な時に使ってるから全然良いと思うんだけど
面接もわざと怒らせて採用されないようにしてるって公言しちゃってる。
これに対して不正受給だ今すぐ止めろ!とかって言うつもりは無いんだけど
まだ40手前なんで社会復帰可能だと思うから頑張ってほしいんだよね
こういうのってもうどうしようも無いのかなぁ
ひろゆきの生活保護についての発言聞いたこと何度かあるんだけど
あれって内容だけだと正しい部分もあって、信じちゃった人を説得しにくいんだよなぁ
でも健康で高齢でも無い人間がこの先一生生活保護受けれるかって言うと難しいと思うし
後で後悔するより今頑張った方が良いと思うんだけど
答え:「ある」 ただし、間接的に
『企業vtuberは女性による自己実現ではない』のは当たり前です。企業Vtuberは企業が創作した架空のキャラクターなので、自己も自我もありません。なのでキャラクターが男性だろうが女性だろうが自己実現のしようがありません。まずは現実と創作の区別をつけましょう。それとも、架空のキャラクターにも人権があって〜みたいな電波な話をしたいのかな。君、ワクチンを打つと5Gに繋がるとか信じてそうね
当たり前のことですが、架空のキャラクター、浦島太郎とかかぐや姫には人権はありませんし、自己も自我もありません。しかし、十全な人格・人権を有する自然人とキャラクターの間というのは、そんなにはっきり見分けられるのでしょうか?
たとえば、架空のキャラクターであっても、竈門炭治郎や両津勘吉になると、著作権者の著作人格権があるので、取り扱い方によっては著作者の人格を害する可能性はあります。これらのキャラクターの画像を勝手に修正したり、風俗店の看板に使えば、著作人格権の侵害になるでしょう。
次に、芸能人について考えましょう。例えば、所ジョージはある種のキャラクターであり、芳賀隆之氏ではありません。しかし、「所ジョージは実は犯罪者だ!」と公言すれば、間違いなく名誉棄損になり、民事では芳賀隆之氏(またはその代理人)から訴状が届くことになります。
もう少し考えてみましょう。NHK教育で放送されていた「つくってあそぼ」の主役の「ワクワクさん」というキャラクターのことは皆さんもご存知でしょう。タレントの久保田雅人氏が演じるワクワクさんは、明らかに番組のために創作されたキャラクターです。しかし、実際のところ、久保田雅人氏のタレント活動は「ワクワクさん」としてのものがほとんどであり、「タレント久保田雅人」と「ワクワクさん」に対して、どこまで別の存在だと言い切ることができるのかは判然としません。
別の例を見てみましょう、パペットマペットという芸人、あるいはコンビがいます。これは、実際に操作しているのは、後ろの黒子ですが、表に出ているキャラクターは「うし」と「かえる」です。この、本名も顔もわからない黒子にとって「うし」と「かえる」は単なるキャラクターなのでしょうか? 黒子と「うし」や「かえる」は人格的に密接な繋がりがあり、「うし」や「かえる」を否定することは、黒子の人格を否定していると判断される可能性は十分にあります。
ここで、VTuberを見てみましょう。多くのVTuberは中の人とキャラクターの間に密接な人格的つながりがあります。VTuberは、セリフのあるお芝居ではなく、シナリオの無いトークライブやゲーム実況といった、本人の人格が反映されたタレントとしての活動が中心であり、キャラクターと言うよりは、3Dの着ぐるみを着たタレントと言うべき存在です。
このように考えると、自己も自我も人権もある中の人の人格を反映させたVTuberというのは、間接的に自己も自我も人権もあると言えるのです。
私がそれを燃えるゴミの袋に何気なく放り込もうとすると、ASDの同居人(以下アスペ)に血相変えて怒鳴られた。
どうやら行政のルールで濡れた空き箱は燃えるゴミだが、濡れてない食品のパッケージは資源ごみとして出さねばらないらしい。
予兆はあった、アスペはお使いができない。牛乳買ってきて、と言って送り出す。30分後に電話がかかってくる「どの会社の?」「1000mlと900mlどっちにすればいい?」「低脂肪乳と普通のどっちがいい?」
わたしはこれは一人暮らしの時にろくに料理をしなかったことによる常識の欠如によるものだと判断した。適当にして、と言えば済む話だと思った。しかし、そうではなかった。彼は曖昧な指示が理解できない。
ゴミ出しの時間もきっちり守らないと気が済まない。ゴミ捨て場に7時〜8時に出すこと、と書かれていた場合、それを厳密に守ろうとする。フレックスで9時に出かけるから前日の夜に出したはずのゴミが何故か当日朝家にある。わざわざ、アスペがゴミ捨て場から持ち帰ってきたらしい。ゴミを開けて中身の点検から再分類までする。
いちいちあまりにもうるさいのでゴミもあまり捨てにくくなった。
他にも意味不明なこだわりがいくつもある。まず床に水滴が落ちているのが我慢ならないらしい、曰く「床が腐る」。ポリバケツにゴミを押し込むと、「ポリバケツが臭くなる」。食器洗いは食洗機があるのにキュキュと音がするまで2時間かけてやる。
桜庭一樹さんの「少女を埋める」を今頃読み終えて、いろいろ心を揺さぶられる思いがして、この作者の著作を初めて読んだので、どんな人なんだろうとネット検索をしていて、鴻巣友季子さんの評をめぐって議論が発生していたことを知り、ここにたどり着きました。
お二人の「論争」(?)、ざっとたどってみました。一応決着見たようですが……モヤモヤが残りました。
このモヤモヤ感についてこの場を借りてちょっと書いてみますね。
あなたも指摘されているとおり、桜庭さんは、「テキストにそう書かれていたかのようにあらすじ説明として断言して書いた」ということを強く主張されていますね。
でも、そもそもこの言い方が間違いだと思うのです。
鴻巣評の問題のくだりは、「テキストにそう書かれていたかのよう」に「断言」しているかと言うと、そうは断言できないかな、と。
だって鴻巣評のうち、「テキストにそう書かれていた」部分は「 」で括られていて、問題の部分は括られていませんからね。
そもそも評者の解釈だと読めなくもない。もちろん桜庭さんが言い、あなたが代弁するように、客観的にこんなお話だ言っているようにも取れる。
これは絶対どっちかだとは言えない書き方ではないでしょうか。
だとすると、桜庭さんの「テキストにそう書かれていたかのようにあらすじ説明として断言して書いた」という、この言い方が悪手だったかなーと思うんですよね。
鴻巣さんは、この主張にうまく乗っかって、「あらすじとは解釈だ」みたいな誰にも否定できない話に持っていった、
桜庭さんにとっては、持っていかれちゃった、ということになったかと。
それを踏まえてこの二人のやりとりを見ると、「論争」の決着点としては、鴻巣さんが大人の対応をしたってところに収まっちゃいましたね。
二人して朝日をちょっと悪者にして、桜庭さんも手打ちにしたのかな?と。
鴻巣さんは、桜庭さんが本当に言いたいことは何か、わかっていたと思うんですよね。
わかっていて、そこには対応しなかった。
むしろ相手の言い分の、言わば言葉尻をとらえて反応してみせた。だから「大人の」対応です。
そう、「不誠実な」対応でした。
なぜなら、そもそもあの作品をあの評文のなかにああいう形ではめ込むことが、あの作品にとって圧倒的に不当だからでしょう。
あの作品はあんなものではない力を持っているのに、弱々介護の話ってことにしちゃった、ご自分の読みの甘さ、いや読みじゃないかなー、表現力の至らなさかな?
鴻巣さんは、自覚していたと思います(だって鴻巣さんですよ)。
鴻巣さんは、あの作品を読んで、深く心を動かされた、でもそれを直ちにはうまく言語化できない……でもすごいことはわかる。
評言のなかの「不思議な」という言い方にもそれが感じられます。「不思議」を言葉にするのが評者の役割なのにね。
で、心のどこかに引っかかってて、弱々介護の話を書いているときに、「そうだそうだ」って桜庭作品を取り上げちゃったんじゃないかなー。
「みんなー、頼む、百回読んで」ってことを時評全部使って素直に書けば良かったんですけど、締め切り迫って言葉にできなかったのかな。
どこを切り取ろうと、とにかく取り上げて世に知らしめるだけでも、この作品の助けになる、助けてあげる、応援してあげる、みたいな驕りもチラチラ透けて見えます。
この作品にいち早く注目した私、読み巧者よねーみたいなのもあるかも。
(いや、鴻巣さんぜんぜん嫌いじゃないんですよ、私は)。
私は、あの桜庭さんの抗議は要するに、「そんなふうに読み取らないで!ぜんぜん違う!」ってことだと思うんです。
問題の本質は解釈のなかみなんでしょ。桜庭さんご自身も、ツイッターで、そういう怒りを垣間見せていますよね。
「わたしの懸念は、私小説として発表されたこの作品の評で、……」
でもこの作品は私小説としては発表されていないんですよね(鴻巣さんは「自伝的随想のような」って勝手なこと書いてますけど)。
『文学界』の当該号のどの頁にも「私小説」って書いてないもんね。
で、まあ、百歩譲って「私小説」だとしたらどうだと言うんでしょう?
西村賢太さんがどこかで、私小説だからって、書いてあることが全部事実だと思う読者はバカ、って言ってた。
でも、あんなふうに、とてもナイーブな書き方をしてしまう桜庭さんの思いもジンジンと伝わるんです。
何かこう、わが身の血と肉を自分で食って吐き出すような、そういう格闘の末の作品なんだろうなー、
そういう格闘を、あんなふうに一つの作品に言葉で築き上げるってすごいなー、
それを「私小説」って言ってるんですよね、きっと。
そしてその格闘の焦点である母親との闘争/和解(?)のギリギリの物語の、
その当の母親についてあんな切り取られ方をしちゃうとなー、そりゃ怒るよなー、って思う。
でも、怒りの焦点は、自分の母親が虐待人間って大マスコミで公言されたことじゃないよね
(私小説と自任して書いているなら、こういう反応に対する覚悟は少なくともできていないとね)。
なにその読み方、バッカじゃないの? ぜんぜん違うし、って、桜庭さんはそれだけ言えば良かったのでは?
みんながガッツリ系の店に行きそうなときに、今日はそういう気分じゃないから別のところにしようよーって言ったり自分は別の店に行きますーとか言うの難しくない…?
むしろ別メニューがあったおかげで無理させずに済んで良かったのでは。合わせてくれたんだしメニューまで合わせさせずにそっとしとこうよ
アレルギーとかあっても公言すると「あっ…増田さん食べられないから別の」とかになるし言えない人もいるかと
なんか強く言い過ぎた気がして追記にきてしまった。食事関係って病気にも直結するセンシティブな事柄なので、違和感があってもそっとしておいた方がほんとに良い。コミュニケーションにおいて重要な役割を担っているからこそ言いづらい
はてな村にお住まいの野党支持者・与党支持者の皆さん、こんにちは。今秋の衆院選と政権交代に向けて、いかがお過ごしでしょうか。おそらく衆院選で一票を投じるまでは、とくに何もしていない方々が大半だと思います。もちろん投票所へ足を運んで一票を投じれば、それで十分に有権者の務めを果たしているとは思います。
以下に長々と記すことは、仕事や育児にお忙しい皆さんには負担となるものです。私も仕事と育児に追われて日々忙しいのですが、ちょっと現状を放置するとまずいなと危機感があり、筆をとった次第です。
長くなるので3行にまとめると、こんな感じです。
さて、今月に入ってから毎日のように、はてな匿名ダイアリー(以下 増田)には、野党に批判的な投稿が続いています。
菅政権下では野党候補の勝利が続いていたことを考えると、この増田の傾向というのは必ずしも世論と連動している訳ではなく、一部の熱心な与党支持者による活動であると考えられます。「一部」と書くと、立憲の支持率のほうが一部だろ、などと瞬時にコメントする輩も現れるのですが、いったん無視しますね。
たとえば2017年頃には野党叩きの記事の量産依頼が、クラウドソーシングに載っていたと報道されたのは記憶に新しいところです。
https://buzzap.jp/news/20170922-anti-opposition-party-blog-movie-crowdworks/
今回の増田大量投下が、同様の組織的犯行かどうかは分かりません。一部の熱心な与党支持者が忙しい仕事の合間を縫って懸命に記事を書いているなら、ご苦労様と思いますし、あるいは今回もクラウドソーシング等による仕事なのであれば、やはりご苦労様ですと労いたい気持ちも少しはあります。決して公言できない仕事には誰もお疲れ様・ご苦労様と言ってくれないだろうからね。
しかし気をつけなければいけないのは、一見して無意味にも見える増田大量投下が、長期的には大きな影響力を持ってしまう可能性があることです。莫迦の一つ覚えのように安倍晋三が繰り返した「悪夢の民主党政権」が、サブリミナル効果のように人々の意識に刷り込まれ、震災や原発事故のマイナスイメージとも重なって、たしかに悪夢だったなと広く信じ込まれています。民主党政権の具体的な政策を一つ一つ検証したうえで批判するよりも、ひたすら「悪夢の民主党政権」と繰り返すことが効果的に働いています。
テレビで坂上忍なんかが「野党はだらしない」と連呼していたのも同様です。本来、与党・野党は固定的なものではなく、政権交代によっていつでも入れ替わるものですが、それを「野党はだらしない」「野党は政権を担えない」「野党は永久に野党」のように印象付けることで、政権交代なんて論外だと人々に刷り込むことに成功しています。
このような勢力に対抗して野党が支持を伸ばし、政権交代するには、どうすればいいか。
何の答えにもなっていないのですが、まずは政権交代することが必要です。野党を与党に、与党を野党に入れ替える。そうすれば自民党支持者たちが連呼していた「野党はだらしない」が封じられます。野党はだらしないから野党は無視していいとは言えなくなる。いつでも政権交代によって与野党が入れ替わることを前提に、建設的な議論が始められます。もしも野党の自民党が議論を拒否すれば、今後こそ「野党が国会をサボっている」のブーメランからは逃れられないでしょう。
そして今回の選挙で政権交代するために、たとえば、ひたすら念仏のように政権交代を唱えるのでもいい。ツイッターでも増田でも、政権交代が実現したらどんな社会になると思うか、どんな社会を実現したいかを大量に投下する。精緻なロジックを考えるよりも、まずは自分の願望を下手でもいいから文章にしてみる。2行や3行の短い文章でもいい。数が集まることで、政権交代の実現を願ってい大勢の人々の存在にようやく世間が気付く。言い換えれば、おとなしくしていると現状維持を望む人々の大きな声にかき消されてしまう。どんなに面倒でも声をあげなければならない。どんなに忙しくても、どんなに時間がなくても行動しなければならない。
文章を書く時間が本当にまったくとれない人は、ツイッターでいいねを押したり、増田をブクマして応援コメントをつけるのでもいい。少しでも注目されるように、自分のできることから始めてほしい。この記事に対しても応援コメントをお待ちしていますよ。
たとえ罵倒コメントが100個ついても、応援コメントが20個くらいあれば、なんとか心のバランスは取れるものです。かれこれ14年も増田を書き続けてきた私が言うのだから間違いない。いや、個人差はあると思うんで、もちろん応援コメントの比率が高いに越したことはない。
長くなったので3行にまとめますね。最初に書いたのと同じです。
衆院選は、与党支持者と野党支持者の戦いではありません。私は野党支持だけれど、与党を支持する友人は多くいるし、こんなことで対立するつもりはない。
しかし現在の与党による政治は、あまりにも野党支持者を切り捨てている。政権交代が実現したときには、自民党支持者が切り捨てられることは絶対にないと断言できます。なぜなら東日本大震災のとき、自民党の谷垣禎一へ副総理として入閣を要請したのは、当時の民主党です。あるいはコロナ禍の現在、臨時国会での議論を呼びかけているのが立憲民主党です。常に建設的な議論を呼びかけている民主党・立憲民主党と、それを拒否している自民党という構図があります。