はてなキーワード: サザエさんとは
彼女の仕事終わりにデートしようと言われ車で向かい仕事場の近くで待った。
時間通り着いたものの彼女の仕事が中々終わらず3時間待たされた。
帰ろうかなとも思ったが家まで1時間というのが引っかかった。
そして昼過ぎの予定が外が真っ暗になった時にやっと仕事が終わった。
日曜日夕方のまる子サザエさんタイムは毎回切ないが、今回は車の中に居ただけだったのでより一層切なかった。
「ごめんねー!あれれー?怒ってるのー!?」
でも冷静に冷静に〜〜。
通常彼女の仕事は終わりの時間がわかりやすい。ある程度予想ができる職種なのだ。
なのでなんで遅くなったのかを聞いてみた。
すると、今回は終了時刻の指定は無かったが14時頃に終わりそうという"彼女の予想"だった。
それは完全に君が悪いでしょ、確証がある時に誘ってよ。
と指摘したらあろうことか逆ギレしてきた。
家に帰ってスマホをいじっていると普段そんなに使っていないtwitterで彼女は呟きまくっていた。
でもそれは僕に対しての怒りとか反省を表す内容ではなかった。
要約するとこんな感じ。
そして朝方まで飲んでたらしい。
なんで神経を逆なでするような事を遠回しにするんだろう?
ケンカしたことを後悔させるように仕向けているのかな?
全国のカップルに聞きたい。こんなもんですか?
付き合って2年、結婚も意識する歳だし結婚するなら彼女しかいないくらいに思ってた。
でもここまで思考回路がガキっぽいと、子供が出来たり家庭を築こうという時に何かしら支障が出ると思う。
怒りを通り越して悲しい。
小さなケンカのはずが、結婚の意思すらも揺るがす事態になるとは思わなかった。
ほんとめんどくせぇ。
俺も年をとるはずだわ。抜け、間違いがあったら教えて下さい。
1926/04/17 - 麻生美代子 - サザエさん(磯野フネ)
1927/01/30 - 熊倉一雄 - エルキュール・ポワロ(名探偵ポワロ)
1927/04/02 - 勝田久
1928/01/02 - 大木民夫
1928/09/29 - 田村錦人
1929/09/24 - 大平透 - ハクション大魔王(ハクション大魔王)、笑ゥせぇるすまん(喪黒福造)
1929/12/24 - 中村正 - 奥さまは魔女(ナレーション)
1930/04/14 - 辻村真人
1931/04/27 - 矢田稔
1931/05/10 - 永井一郎 - サザエさん(磯野波平)
1932/10/20 - 納谷六朗 - クレヨンしんちゃん(園長先生)
1933/01/11 - 小林清志 - ルパン三世(次元大介)
1933/04/06 - 村松康雄
1933/07/01 - 瀬能礼子
http://anond.hatelabo.jp/20130921223738
http://www.macromill.com/r_data/20110204renai/index.html
で、男性観点で考えると「自分と同じくらいの年収の女性をターゲットにする」ってのは間違ってる事に気づくと思う。
例えば同期との職場恋愛だったり、年上の女性だったりは、そもそも年収が同じくらいか、上だったりするので結婚相手に向かない。彼女たちの希望に合わないから。
なので外で探す必要がある。自分より貧しい女性を幸せにするようなパターンで探す。
(社内恋愛でも年収格差があるなら可能。 例えば若い女性の年収は一般的に低い。キャリアが乏しいからね)
そんな感じで、うちの場合、結構な早さで結婚が決まった。 で、今は一児の父。
『男をATMなんて思ってる女性は少ないよ』なんてファンタジー流すより、
『男はATMって思ってる女性が多いけど、戦略はあるよ』の方が幸せを増やすような気がするんですがどうでしょうか?
追記
「ATM乙」って感じではあるかもしれない。 ただ昔、嫁さんと下記のようなやり取りがあった
嫁「○○さんの年収がもっと高かったら専業主婦になれたんですけどねー」
私「今はもうそういう社会ではないのでは? サザエさんみたいな時代ならわかるけど、今はそうじゃないよね」「私は専業主婦が多い社会でも、女性が働けるような社会でもいいけどね。でも今は女性も働くように社会がデザインされているでしょ?」
嫁「確かに。そうですね。」
みたいなやり取りがあって、彼女も仕事を変えて年収を上げるように頑張ったりするようになった。
それでも私の方が高いので、それなりに尊敬もされる。 確かに嫁さんに金を渡す、という点ではATMなんだけど渡すと、ありがとうございます、って感謝されるし、感謝されると私も嬉しかったりする。
確かに過去は辛かったのかもしれません。が、それは貴方に絶対的な能力がないからではありません。貴方は貴方なりに自分をしっかりトレーニングしてきているのです。
算数や数学は、社会に蔓延する様々な問題を解決する道具のひとつです。人によっては算数ドリルが好きで、応用が苦手という人もいるでしょう。そういう人は帳簿つけには向いていますが、例えば経営コンサルには向いていないでしょう。
貴方は、人に言われたことの理解が遅くて悲しいと言っていますが、本当にそうでしょうか?例えば、設問を変えて(上司が貴方に次の仕事の話をする設定で):「今度のクライアントは、下町の細い路地にある八百屋なんだ。ちょうどサザエさんに出てくるような八百屋でね、奥さんと旦那さんと二人での家族経営だ。一人娘もたまに手伝っているんだが、店で林檎を売ることにしたのは娘さんアドバイスだろう。林檎は三個セットでひとつのザルに入っているんだ。」と言われても貴方にはそれほど苦ではないでしょう。多くの人は貴方より先にストップになると思います。
ある意味、貴方の情報処理の仕方の方が、コンサルとかマーケティング等には向いてると思いますよ。そういう業種では、「クライアントの八百屋がリンゴ売ってるんだけど、今度ミカンとセット販売することになったんだ」と言われて「数式思い浮かべて‘あー、そうなんですか’」では話にならんのです。
大抵は売上げ利益向上がゴールになるけど、じゃあ何が問題なの?がポイントです。立地は?顧客ターゲットは?家族経営なの?営業時間帯は?広報はしてるの?他にどんな商品があるの?近所に競合は?従業員は誰?誰が経営の方針を決めているの?現在の負債額は?銀行借り入れ?仕入先は?掛売りOK?などなど・・・。貴方はそういう「想像」をすることが大好きで得意な筈です。次から次から泉のように湧いてきていますよね?多くの現場を積んで、ケースをパターン化して、頻度の高い順に覚えておくのは大事ですが、たまーに過去の体験が役に立たないケースにも出くわします。そのとき、貴方の「想像力」が貴方をビジネス的に助けてくれるはずです。
最後に、自分をあまり卑下しないでください。それは貴方の体力・知力を奪います。精神科の先生は貴方に重大な人生の「気づき」を与えてくれました。是非、そのチャンスを無駄にしないでください。算数問題のように話を抽象化する能力も必要です。是非、トレーニングして今ある自分の能力と併せて、自身の人生に役立ててください。
http://anond.hatelabo.jp/20130812003347
どれくらい一般的かは知らんが、
「八百屋に林檎が売ってありました。その林檎は普段は300円なのですが、隣にあるみかんとセットで売ることになり」
で映像をぽんと思い浮かべる人は多くはないにせよ少なくはないんじゃないか、と思う。つうか俺もだ。
「そうですね、その八百屋は細い路地にあってちょうどサザエさんのに出てくるような八百屋で奥さんと旦那さんと二人で経営してると思います、一人娘もいてたまに手伝っています。多分八百屋で林檎が売ってあるは娘さんの影響かもしれません、娘さんが果物も取り扱ったら?とかアドバイスしたとか。林檎は三個セットで何かのザルに入っているのではないでしょうか?一つは青いかもしれません。」
俺もどこの八百屋でどんな人が売っててってことは想像するけど、イメージの中で自分が買い物してる想像をしながらきくだけで、細かいところは見えるけど言語化はしない。理解力は早いほうだと思う。結構抽象概念でも基本的には抽象的な絵で理解するし、単なる文字よりそっちのほうが情報量は多いので理解が早く進む場合もある(ただし最初に方向性を間違えると修正に少し時間がかかる)
あと理解が基本的に図なので、説明は全部図。パワポづくりは得意な方。
単語を全部ちゃんと聞いているわけではなく雰囲気とかイメージから入るので、あんまよくわかんない外国語でもなんとなく理解できる(喋れないけど)みたいな特典はあるかな。
増田は単純に物事を頭のなかに入れることを覚えるより、気になった瑣末なことを追っかけ過ぎるのをやめれば良いと思うよ。普段の生活だって見えてるもの全部に目を凝らしたりしないでしょ。
なお小説家になれるとかあおってる人々がいるが、小説家になるなら、相手に見せるべき景色をポイント絞って説明しないといかんので、増田のようにマイルールでひっかかったところだけ説明するようだとたぶんぐだぐだ長い上によくわからんものになると思う。いや、娘が伏線とかならいいんだけどさ。青いリンゴが伏線とか。
先月、精神分析をしてもらい34歳にして知った事実を書こうと思う。きっと同じ人がいるんじゃないのかと思う。
僕は昔から人の話を聞くのが遅かった。理解するのに時間がかかっていた。
なので僕の頭はなんと回転が遅いのだろう、とクヨクヨする事も多かったし、友人たちや上司からは「理解力がない」とよく言われていた。後輩からもバカにされる事が多かった。
なので、いろんな方法で少しでも頭の回転を早くしようと努力をしていた。
あとで見なおして反芻する。ケータイ(今はスマホ)は常に持ち歩き、自分自身にメールする形で聞き漏らしがないようにする。
しかし、ネットが仕事に入り込むようになって理解が遅い事もあまり苦にならなくなってきたのが幸いだった。
なんせ、文字として残るから理解が遅くても取り返せる。
そんな風に過ごしていたある日、僕は衝撃的な事実を知った。
ある精神科(心療内科?)の人と知り合うきっかけがあり、その人にこう言われた。
「あなたは人の言葉をどこまで想像していますか?例えば僕は今から貴方に会話をします。理解が追いつかなくなったらストップといってください。
『八百屋に林檎が売ってありました。その林檎は普段は300円なのですが、隣にあるみかんとセットで売ることになり』」
僕はそこでストップといった。
まわりにいた人は「ええっ?!」といった感じで僕を見たけれど、僕は至って真面目だった。
やっぱり僕は理解力が遅いんだ、悲しいことだ。と思ったが、その人は続けてこう言った。
「最初に 『八百屋に林檎が売ってありました』といいましたが、どこまで想像しましたか?」
「そうですね、その八百屋は細い路地にあってちょうどサザエさんのに出てくるような八百屋で奥さんと旦那さんと二人で経営してると思います、一人娘もいてたまに手伝っています。多分八百屋で林檎が売ってあるは娘さんの影響かもしれません、娘さんが果物も取り扱ったら?とかアドバイスしたとか。林檎は三個セットで何かのザルに入っているのではないでしょうか?一つは青いかもしれません。」
と言った。
まわりにいた人は再度「ええっ?!」と僕を見た。
その人は
「あなたは少しの情報から大きく広く想像している。普通の人はそのまま頭に情報をいれます、「八百屋に林檎が売っているんだなぁ」と。八百屋はどこの八百屋なのか、誰が売っているのか、とか普通は考えません。」
僕はそこで衝撃が走った。
「他人はそこまで想像していない。」という事に。
まぁ、それだけの話しなんだけど。どーりで昔から理解力が追いつかないわけだ。
僕は単純に物事を頭に入れることはこれからもできそうにない。
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■みなさん、返信ありがとうございます。
僕は自分自身を把握できずに、なんとか適応しようと頑張ってしまいました。それも34歳まで!
政治番組や芸能番組、ドラマ、バラエティー等、実在する人が人をおかしくする・影響させる事は多々見られるが
非実在人間が実在人間をおかしくするのであれば、実在人間は非実在人間によって動かされているという有り得ない事が成立してしまうのではないか?
例えば、棒倒しを行うには、実在する人が棒を動かさなければ棒は倒れない。
非実在人間はその棒に触れる事ができないだけでなく、音や絵を通しても棒に何ら影響を与えることが出来ないからだ。
つまり、ドラえもんやサザエさんといった非実在人間は人を動かす事ができない。
非実在人間が人を動かすには非実在人間を動かす実在人間の存在が必要になってくる。
それが煽情家というものだ。
彼らはアニメという媒体を通して人に何らかのシンパシーを訴えかける。
これはアニメを媒体とした実在人間から実在人間への政治的運動のそれだからだ。
アニメに思想や思惑を吹き込む実在人間の存在が、結果として人を動かしているのに過ぎない。
すなわち、アニメは人をおかしくするというのは前提条件として“人が動かしている状態”でなければならない。
人が動かすアニメは政治的や宗教的な思想・思惑によって人を何らかの影響下に動かす事が可能だ。
しかし、棒倒しのようにアニメ単体では何の力も効力も持たない。
宗教依存とか政治依存とかネット依存とかセックス依存とかといった依存症の類は間違いなく実在する人を通して発症する。
感染病だって、人から人に、あるいは動物から人にしか感染しない。
アニメという非実在人間から政治的シンパシーを感じ取る事が出来るのは、そのアニメに吹き込む実在人間が問題であり、
アニメ単体にその力がないことは、前述の例を見ても明らかだ。
変猫が綺麗な最終回を迎えて、押し倒されてM字開脚を披露した月子を穴が飽くまで脳内に焼き付けた増田だが、
主人公の『思い出を誰かに渡す』願いに、正直モヤモヤが晴れない。
月子の感情と同じように、変態王子は一生記憶が思い出に変わるたびに、必要とする誰かに渡し続けることを選んだらしいが、
そこまできたら願いではなくて呪いだろうと思った。
そして、そのことを選択した紳士に、個人的にイラつきを覚えずにはいられなかった。
思い出がない人間は生きていけない。
私にとって、ノスタルジーとは現況を上手に覆い隠し、遠くの記憶をぼんやりと明るく照らしてくれる濃霧だ。
不甲斐ない今に蓋をするために、昔を引き合いに出すこと。これほど簡単に自己肯定に繋がり、現実逃避ができる手段は他にない。
『昔は良かった。』
そう、呟くだけでこの暑苦しい六畳一間がサザエさんと家族の声が響いてたあのリビングに変わるのだ。
それをこの変態王子はずっと否定するのか。常に現実アッパーで過去なんていらないというのか。
前回の話も地味に痛かった。選挙ポスターで『平成十五年』の年号を確認するところ。
え、嘘、計算間違ってるんじゃね?と思った。狼狽えた。十五年だよ、十五年、西暦に直しても2003年、全く古い気がしなかった。
満年齢=年号なので、ノスタルジーを利用するためには年号を辿れば良かった。
一桁代が私の幼少の頃だから。あーでも、他の世代ってどうなのだろう。
昭和って聞けば、セピア色になるし、二十世紀と聞けば、古き良きという枕詞が勝手につくのだけど、
これからの子って平成の時代が続く限り、ノスタルジーはそこに見出せない。
ノスタルジーを見いだす手段って他にあったっけ。考えてみた。
ノスタルジーを見いだすには、適度な時間を置くことと、分かりやすい変化があればいい。
例えば、自分がかつて住んでいた家の近くの近況とか。
先日、職場で一緒になった人が、昔の家の近所に暮らしていることを知り、
三角屋根が目印の本屋の話題が出た。ハローマックみたいな形の。
幼少の見切りでは、二階の児童向け文学を読んでいてダダをこねたら親に置き去りにされた場所でもあり、
初めてラノベを手に取り、エロゲの画集を買ったお店でもあるそこは何も変哲もない牛丼屋に変わっていたことを知る。
建物ごと変わり、当時を残すものは残ってないよという話だった。。。GoogleMapのストリートビューにも果たして残っていなかった。
『そうなんですね、ショック。。』そんな当たり障りのない反応を返しつつ、内心安堵もしてた。
最近、無職引きこもりになったせいで青二才がアニメばかり見てる。
そして見るだけなら飽き足らず、実況や批評までしている。
マジでやめてほしい。
こいつのアニメ批評は頭からケツまでアニメをダシにした自分語りでしかなく見ていて本当にため息しか出ない。
ていうか、こいつは本当に、本っっっっ当に、作者やスタッフへの敬意というものが微塵もない。これっぽっちもない。
もう基本姿勢が「見てやってる」なのだ。作り手が全力で自分に奉仕してくれないと癇癪を起こすような奴だ。要するにクレーマーだ。
作品に対しても粗探ししかしない。というより、全体の一割ほめて九割けなして「いい作品でした」みたいな評価を下している。
読者に分かるのは、青二才がクズなこととまともな作品評ができないということだけだ。
審美眼や感受性はもとより、読者を楽しませようという気持ちすら一切ない青二才のアニメ批評は糞以下だ。
しかも作品に対しての批評だけならまだしも、こいつのとことんまで腐ってるところは「俺ならもっと上手くやる」みたいな匂いを文章の随所に塗り込めないと気が済まないところだ。
批評はこれといって自分から見ないようにしているが、たまにアマレビューで低い評価が付いているのを見ても個人の主観だし自由だと思っていた。
こいつの批評を読んで初めて好きな作品を汚されたという思いがした。
作者なりスタッフなりの汗が全て青二才のちんけな自分語りに還元されていくのを見て本気で吐き気がした。
青二才に言いたい。
お前ひとりがアニメ見なくなったって市場には何のマイナス影響もない。
もちろんお前がアニメ批評を続けたって何のプラスにもならない。
どうしても批評がしたくてしたくてしょうがなくなったら、もう桃太郎みたいな童話かドラえもんやサザエさんでやってくれ。
どうせお前がしたいのは自分語りなんだろ?
だったらそれで十分事足りるはずだ。
最近のラノベ原作のアニメなら、ほぼ漏れなく性的な意味で見るな。
むしろアレは、「オナペットを提供してくれてる」と解釈してるわ。
アニメのほうに一度でもお色気シーン、水着、ハプニング的なエロがあると、
「これ使っちゃってください~」って向こう側が言ってるもんだと思ってる。
そうしても気持ちよくないし、それ以外のとこで楽しむものだろうし。
攻殻機動隊とかもだな。
ドラえもんはハプニングエロある(しずかちゃんの入浴シーン)けど、
エロゲ的な「主人公と関係がこんなキャラだと燃(×萌)えるでしょ?」
的なのが多いのでスタッフに対する罪悪感もない。
肉とか森夏とか、「こういうキャラとすると気持ちよさそうでしょ?」
って言われてるように感じてまうしね。
逆にこっちはそういう目で見てやる気でいますよ、ええ。
かといって男の人の給料だけで暮らせるかというとそうでもなく
昔は男の給料だけで暮らせたんだけどね。サザエさん、クレヨンしんちゃん、などがそれ。
ただ女性が労働市場に入ってくると、労働単価が安くなっちゃうんだよね。
結婚している女性は旦那の給料があるから、独身者と比較すると「やすい給与で働くことができる」、
流動的人材市場で優位に立てるのよ。 企業観点では、だったら安くて良い人材を、安く雇うよね。派遣労働者がそれなのだが。
あと君観点だと「男は女性が働いても専業主婦でも叩く」と思っているようだけど、これはそれぞれ文脈が異なるからでは?
・女性が働くと叩く…流動的人材市場で価格低下が発生するから困る
・専業主婦を叩く…旦那の給料が安いとか非難するなよ、非難するくらいなら働けよ
ってな違いはあるかも。
基本的に男性は女性には母親業に専念してもらいたい人が多いんではないかな。
統計的に見ても「女性の給与に期待する男性」というのは少ないよ。
いやぁ、しかしクレヨンしんちゃんを思い出すと専業主婦も楽ではないですよねーw
かといって男の人の給料だけで暮らせるかというとそうでもなく
昔は男の給料だけで暮らせたんだけどね。サザエさん、クレヨンしんちゃん、などがそれ。
ただ女性が労働市場に入ってくると、労働単価が安くなっちゃうんだよね。
結婚している女性は旦那の給料があるから、独身者と比較すると「やすい給与で働くことができる」、
流動的人材市場で優位に立てるのよ。 だったら安くて良い人材を、安く雇うよね。派遣労働者がそれなのだが。
あと君観点だと「男は女性が働いても専業主婦でも叩く」と思っているようだけど、これはそれぞれ文脈が異なるからでは?
・女性が働くと叩く…流動的人材市場で価格低下が発生するから困る
・専業主婦を叩く…旦那の給料が安いとか非難するなよ、非難するくらいなら働けよ
ってな違いはあるかも。
いやぁ、しかしクレヨンしんちゃんを思い出すと専業主婦も楽ではないですよねーw
サザエさんのスタッフが他のアニメでクレジットされていたのって、「キャプテン」くらいでしか見たことないなー。(現在のサザエさんのチーフアニメーターの国保誠はキャプテンの作画監督)
サザエさんの作ってるエイケンについては、こんなエピソードがあるね。
エイケンの仕事は『おんぶおばけ』や『冒険コロボックル』『サザエさん』が主でした。動画に求められる線は各社によって微妙に違うのですが、エイケンの場合はそれが徹底していて、使用する鉛筆も芯が硬くて細い線が引けるFに限られていました。他社は芯が柔らかくて描きやすい2Bが主でしたから相当な差です。他社がトレスマシンを導入する中でエイケンはトレーサーによるハンドトレスを続けていて、動画の線も一定の細さで、きれいにつながった線が求められていました。もちろんエイケンの歴史にも『サスケ』や『カムイ外伝』等、原作のタッチを生かした劇画調作品はありますが、この当時のエイケンはファミリー路線が主になっていました。
アニメの歴史を俯瞰してみると、1970年代から1990年代の様々なブームや傾向を経て、動画の線は次第に細くきれいなものに落ち着いていくわけですが、その中でエイケンはずっと変わらない線の質を保ったことになります。動画の線については、近年になってデジタル技術がこなれてくると共に、作品によって味のある線、いきおいのある線が望まれたりと多様化しているように見受けられ、興味深いことです。動画の線で見るTVアニメ史等も可能かもしれません。
またエイケンのキャラクター表は一風変わっていて、主要キャラの顔が縮小拡大したように同じ角度でいくつも描かれていて、実際の画面でもある一定の角度からの顔が多いので、大抵のカットはそのキャラ表を引き写せば事足りたりもするのでした。
嘉門達夫のは、彼のラジオ番組の投稿ネタから拾ってるんだよね……。
昭和40年代生まれの視点から言うと、日曜日の憂鬱は昭和の週休1日、土曜半ドン世代の共通認識で、例えば自分の場合は日曜の朝のアニメ(ドンチャックとかマクロスとか)から感じてしまったり、サザエさんでなく笑点で感じてしまってた。(ブルーマンデー症候群がサザエさんで語られるけど、鬱とかそんな重い話でなく)
きっかけは人によってバラバラで、私はサザエさんで感じるって話(多数派)、いやオレは笑点(他、少数派)で、というのを中学か高校で友達と話したから、それって1990年より前か?
いや、小学校の時に近所の連中と話したかもしれない……。1980年代かなやっぱり。
そして、詰まるところ土曜日が昼からどっか遠くに行って遊べて満足して、体もくたびれてたら、こんな風に後悔しないって思ってたよね。
だから、サザエさん=憂鬱って話は、週休1日・土曜半ドンあってのものだと思うよ。
そうすると、CDリリース1993年というのは、ちょっと微妙に遅い気がする。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%91%E6%97%A5#.E9.80.B1.E4.BC.91.E4.BA.8C.E6.97.A5.E5.88.B6
1980年代にスタート(この頃は聞いたことなかったけど)して、1993年で公務員週休2日になったという話だから、もうちょっと前だと思うんだよね。
夢の内容が変質しているため錯綜しているが、だいたい以下のとおり。
====
襲われる、というのは殺しにかかってくる、という意味。
ただし包丁を持ってとか、拳銃を持ってとか、そういうものではなく、非生物的な、「急にワカメちゃんの腕が伸びて私の腕を引きちぎる」とか言うたぐいのものだった。
何度か殺されたように思う。いや、瀕死だったのを繰り返したのだろうか。とりあえず一度きりではなかった。
また、この時何度か恐怖で目を覚ましたように思う。はっきりと覚えていない。ただ、すぐ眠りに落ち、同じ夢の続きを見ることになる。
そういったことを繰り返すうちに夢の内容が変質した。
舞台は私の実家に移る。実家とは言っても、部屋の造りが同じというだけで、間取りが違う。何を言っているのかわからないと思われるだろうが、実際そう感じた。
登場人物は不明。知らない人ばかりと親しく会話した。なぜか様々な石油ファンヒーターがあった。(布団一枚で寒かったのだろうか?)
そうするうちにまた夢の内容が変質し、なぜか近所の住人(と言っても先ほどとは別の人で、またもや知らない人)から襲われる。近所のスーパーの食料品売場に逃げ込んで、撹乱に成功する。そのまま外に出たが、行き止まりで、捕まってしまう。見つかった時、私が「イエーイ♪」とか言ってダブルピースしたことははっきり覚えているが、なぜそんなことをしたのかは覚えていない。
また、前後関係が不明だが、旧い商店のガラス戸越しに覗きこみ、誰かを見た記憶がある。誰かは思い出せない。
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なぜ怖い夢を人は見るのだろう?怖い夢というものは、本能的に回避したいはずではないか。人は夢を制御できないのだろうか。目を覚ましてすぐ書きだした。睡眠は十分ではないが、寝るのが怖いから今日は眠くてもいいや。
ところで、夢診断のような、「殺される夢は運気が上昇する」系の主張は誰が言い出しっぺなんだろう。全く信用していないが、出処はきになる。
http://anond.hatelabo.jp/20110813090446
二回目にに書きだしたもの
http://anond.hatelabo.jp/20110915172542
前に書きだしたもの
とある書店でGJ部全巻(当時)が平置きされた棚に「ラノベに不要なもの、それはストーリーでした」なる手書きPOPが垂れ下がっていたのを見かけたのはもう何年も前のことで、この世にはそんなふうにまだアニメにすらなっていないガガガの売れもしない怪作のために棚の上段を使い潰す書店というものが存在する。近年では「書店員が本当に売りたかった本」なんて惹句がなにかqualifiedとconscientiousの合成語のようにして使われているけれど、いくら書店員が書物に通じているとはいえ現実問題としてかれらの大部分は時給で贖われる単純労働者であり、その無資格の書店員にキュレーターとしての資質まで期待する人間のほうがそもそも恥知らずなのであって、現実の書店員はガガガ文庫で、それもガガガ文庫のなかでも売れてないほうの作品で棚を使い潰しもすれば、そこに面白くもない手書きPOPを貼り散らして俺の心の甘皮をささくれさせもする。そんなに手書きPOPが嫌ならAmazonで買えばいいじゃない、という意見は確かに正論ではあるのだろうけれども、どうなんだろう、それはあくまで消費者側に向けた意見であるはずで、それを書店員たちが「人間がいなくちゃ本屋じゃないですから」なんて言いながら「書店員の顔が見える本屋」を構築し始めるのはどこか歪んでいるというか、個人的にはそういう手書き看板みたいのはラーメン屋に任せておけばいいと思う。話が逸れた。
GJ部原作の1巻が刊行されたときのキャッチコピーは「史上初、四コマ小説!」といったものだったと記憶している。GJ部の原作小説というのはひとつ数頁の独立した掌編が何の脈絡もなくただ三十も四十も寄せ集まって一冊の本になっており、ストーリーに類するものはまったく排除されていて、なるほど「四コマ小説」とは上手いことを言ったものだと思う。主人公的ポジションのキョロ君は「GJ部の部室の前を通りがかったところ突然袋詰めにされ拉致されて強制的に入部させられた」ことが節々でほのめかされるが、その具体的な様子については一向に語られる様子がないし、こないだアニメにも出てきた緑髪の後輩にしてもアニメ6話の時点では影も形もなかったのが7話の冒頭では既に部の一員になっていて、彼女もまた袋詰めで拉致されたということだがやはりその場面なり様子なりが具体的に描写されることはない。GJ部は万事その調子で、はじめは戸惑ったものの、やがて「これは実はよく考えられたシステムなのかもしれない」と思うようになった。
GJ部が面白いか、と問われれば首を傾げざるを得ない。すくなくとも原作には心動かされるようなものはなにもないし、作者の新木伸ならではの詩情や美意識といったものも感ぜられない。たとえばGJ部には紫音さんという紫髪の先輩がいて、彼女は完全記憶力を持つチェスの天才で喋りも衒学的という設定だが、その「衒学的な喋り」がなんというか、よくある「頭の悪い中学生が一生懸命考えた頭のいいキャラの喋り」という例のアレそのものであり、結果として紫音さんの喋りというのは口を開けばテレビやネットの受け売りを垂れ流す残念な女性のそれのようで、見ているとどうしても生暖かい失笑を浮かべてしまう。ポテチの重量の何十%は油だが油は美味しいからね、味覚というものは人間が常に飢餓にさいなまれていた頃から進歩していないものなんだよ、とかなんとか。作家の仕事というものはこんな愚にもつかないトリビアを並べて枚数を稼ぐことではないはずだ、と柄にもなく文学論をぶちたくなりもするというものだが、たとえばこれを杉井光に書かせればこうなる。
「ここで一晩膝抱いてればお父さんの気持ちがわかるとか、そんな馬鹿なことでも言い出すつもり?」
けれど探偵はそれには答えなかった。かわりに、問いを返す。
――「神様のメモ帳7」
薀蓄のお手本として壁に貼っておきたいくらいの素晴らしいフレーズだが、しかしこのレベルのクオリティで作品を量産しつづけるのは普通の作家には不可能であるし、たとえその離れ業が杉井光という超人には可能だったとしても、その属人的才気は模倣も複製も不可能で、だから杉井光という才能それ自体が神様のメモ帳という作品の限界になってしまうし、結果としてアニメ化は無残に失敗する。杉井光の詩情をアニメに翻訳することがそもそも困難だから。映像化不可能、という言葉はなにも特撮の困難さばかりを指すのではない。
唐突に杉井光を引用したのは、GJ部の原作者である新木伸はかつて若き日の杉井光を指導していたことがある、というよく知られたエピソードからの連想であるが、しかしよりにもよって新木伸と杉井光とは、つくづく扇情的な組み合わせだと思う。杉井光は業界レベルで見ても期待の星であり、対して新木伸は今となっては完全に過去の人で、書くものも時代に合っていない云々以前にそもそも単純に質が低い、という印象だったが、しかしGJ部のアニメ化はとても上手く回っているように見える。GJ部の原作からはスケールしない要素が注意深く排除されており、新木伸にしか書けないような描写はけして登場しないから、容易に原作を脚本に翻案できるし、違和感なくオリジナル要素を追加できる。ストーリーが存在しないから原作破壊の心配もなく、忙しいアクションや息詰まる心理劇もないから演出も難しくない。それはサザエさんやドラえもんのアニメが到達した地平に似るが、しかし教育的正しさの美名のもとに去勢されたドラえもんや長谷川町子の遺産を絞りつくした出し殻としてのサザエさんとは違い、GJ部はそもそもはじめから記号のみを志向していたという点で特異である。それがああして幸福にアニメ化されているのだから、作家としては疑問符の新木伸も原案者としては悪くなかったということなのだろうし、その意味では神様のメモ帳アニメ化失敗の原因の一端はある意味で杉井光に求められるといえるのかもしれない。結局神様のメモ帳のアニメはまったく話題にもならず、ヒロインのアリスが「神メモちゃん」として一部で消費された程度であったが、その消費のされ方が「喋るときは○○めも、と謎語尾で喋る。風呂に入ってないので臭い」というまったく原作と無関係の記号を与えられた上できわめて記号的に消費されたのは、考えようによっては皮肉ともいえる。
しかし人生は続く。平野耕太はアニメHELLSINGの最終回を見て「前座にしてやる」とのたまったそうだ。新木伸の物語が「杉井光は電撃文庫でデビューを果たし、新木伸はその後鳴かず飛ばずのまま引退しました」では終わらなかったように、杉井光もまたここで終わりではない。次の杉井光原作アニメがGJ部とは別の方向で大成功することを期待しつつ筆を置く。
かつて
http://anond.hatelabo.jp/20121203154432
(自宅近所の飲み屋に行けない)
「週7日のうち6日飲んでいる」と聞いて、「ウラヤマシイ」と感じてしまった・・・
その先輩のところは、奥様も大の酒好きなので、一緒に晩酌・・・という流れらしい。
よくサザエさんとか、ホームドラマとかで、晩酌のシーンがあるが、
世の中的には、ほぼ毎日、晩酌なり、食事にビールなどが付いている家庭の方が、
ひょっとして、多数派なのか?
自分などは、職場等で飲みに行くことがなければ、アルコールを口にしない。
ペースとしては1週間に1回程度。
家で飲む、ということがないし、そもそも家に酒を置いてない、酒を買う習慣が(妻に)ない。
結婚時に「晩酌」という習慣を家庭に持ち込むことに失敗してしまった、とも言える。
まあ妻の方が、体質的にアルコールを受け付けない、というのが大きい。
(せいぜいビールをコップに半分程度、飲むと皮膚に斑点できる、
普通の人は酔うと温かくなるハズだが、妻は逆に「寒く感じる」そうだ)
「いくらでもあることなのに何怒ってるの?」と言われれば怒りが静まるの?
原作と変わった点のある全てのアニメに大して同じように怒ってるんだったらその理屈もわかるけどね。
実際は怒ってないでしょ?
・サザエさんの原作に出てこない花澤さんが改変されて登場してることについて怒り狂ってるの?
・原作では「のび太」と呼び捨てにするドラえもんが「のび太くん」と呼ぶように改変されたことに怒り狂ってるの?
改変例なんてまだまだいくらでも出せるけど、「それら全てに俺は怒り狂ってきたんだ!だからサムゲタンも許せない!」って言うんだったらおとなしく納得するよ。
って言われてもさ。
それ通用しないっていろんな人に言われてんのにオウムみたいに何回やるのよ。
だーれもそんな事言ってないじゃん。
むしろ逆、「小理屈並べてるけど大騒ぎしてるのは、結局韓国が嫌いだからなんでしょ?嫌いなら嫌いってハッキリ言えばいいのに」って言ってるんだけど?
それこそ原作の話をニコイチでまとめた結果、話の繋がりが意味不明になって変わってたり、
オリジナルキャラを出して流れがおかしくなったことで怒り狂った例はいくつもあるよ。
でも、出てくる料理が違っただけでファンが怒り狂った例が他にあるのなら教えてくれる?