2013-06-30

ノスタルジーについてこもごも

変猫が綺麗な最終回を迎えて、押し倒されてM字開脚を披露した月子を穴が飽くまで脳内に焼き付けた増田だが、

主人公の『思い出を誰かに渡す』願いに、正直モヤモヤが晴れない。

月子感情と同じように、変態王子は一生記憶が思い出に変わるたびに、必要とする誰かに渡し続けることを選んだらしいが、

そこまできたら願いではなくて呪いだろうと思った。

そして、そのことを選択した紳士に、個人的にイラつきを覚えずにはいられなかった。

ノスタルジーを利用する老害の一人として断固として言いたい。

思い出がない人間は生きていけない。

私にとって、ノスタルジーとは現況を上手に覆い隠し、遠くの記憶ぼんやりと明るく照らしてくれる濃霧だ。

甲斐ない今に蓋をするために、昔を引き合いに出すこと。これほど簡単に自己肯定に繋がり、現実逃避ができる手段は他にない。

『昔は良かった。』

そう、呟くだけでこの暑苦しい六畳一間がサザエさん家族の声が響いてたあのリビングに変わるのだ。

それをこの変態王子はずっと否定するのか。常に現実アッパー過去なんていらないというのか。

リア充爆発しろマジで

前回の話も地味に痛かった。選挙ポスターで『平成十五年』の年号を確認するところ。

え、嘘、計算間違ってるんじゃね?と思った。狼狽えた。十五年だよ、十五年、西暦に直しても2003年、全く古い気がしなかった。

満年齢=年号なので、ノスタルジーを利用するためには年号を辿れば良かった。

一桁代が私の幼少の頃だから。あーでも、他の世代ってどうなのだろう。

昭和って聞けば、セピア色になるし、二十世紀と聞けば、古き良きという枕詞勝手につくのだけど、

これからの子って平成時代が続く限り、ノスタルジーはそこに見出せない。

ノスタルジーを見いだす手段って他にあったっけ。考えてみた。

ノスタルジーを見いだすには、適度な時間を置くことと、分かりやすい変化があればいい。

例えば、自分がかつて住んでいた家の近くの近況とか。

先日、職場で一緒になった人が、昔の家の近所に暮らしていることを知り、

自然と9年のギャップを超えたご近所話になったのだが、

三角屋根が目印の本屋の話題が出た。ハローマックみたいな形の。

幼少の見切りでは、二階の児童向け文学を読んでいてダダをこねたら親に置き去りにされた場所でもあり、

初めてラノベを手に取り、エロゲ画集を買ったお店でもあるそこは何も変哲もない牛丼屋に変わっていたことを知る。

建物ごと変わり、当時を残すものは残ってないよという話だった。。。GoogleMapのストリートビューにも果たして残っていなかった。

『そうなんですね、ショック。。』そんな当たり障りのない反応を返しつつ、内心安堵もしてた。

これで自分だけのノスタルジーは完成した、とそんなことを思ったのだ。

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