改心にいくまでの心情描写が雑だよな
ですが、この初見感想も非常に重要でしたので、是非お目通しいただいて推理の参考になさってください。
※表に出した最新考察と印象はこちら。初見感想の次にでもどうぞ
http://anond.hatelabo.jp/20170209222825
http://anond.hatelabo.jp/20170212024356
一夜明けて昨日の話。
推しの握手会が思いの外さっくり終わり、通りすがりのご夫婦に推し布教も楽しくできて、気力と時間が余ったので当日券でレッドシアター行ってきた。
とても面白かったのだけど、なんかこうすごくもやっとする原因を掴みたくて、江戸川乱歩の原作の方の感想を漁り、こちらのブログに辿り着いた。
http://edogawamy.hatenablog.com/entry/2015/12/05/160636
こちらを拝読してめっちゃスッキリしたので、スッキリしたこと前提に感想を書く。
ネタバレしまくるし、恐らく原作既読でも舞台未観劇の方は先に舞台観た方が絶対面白いだろうから、観劇予定のある方は読まないでくださいね。
まず私がもやっとしたのが、「『私』が鬼のように見えすぎやしないか?」ということ。
こーゆー考察し甲斐のあるタイトルや、善悪、美醜、世間と自分の解離みたいなモチーフが出てくる作品だと、どうしても「果たして鬼とはなんだったのか?」と邪推してしまう。
『私』役・佐藤永典さんのお人形のような美貌と、書いて字のごとく鬼気迫るお芝居、そして聞き慣れない失われた昔の日本言葉は、あまりにも『我々観客と同じ存在』であると共感し難い。
そもそも、主人公目線で語られる物語は、主人公に感情移入させて物語に没入させることが狙いのひとつだろうに、全然『私』=箕浦に感情移入できない。
(ネタバレにならないことを祈って例を挙げると、演劇で観たことがあるミステリーだと『罠』『スリル・ミー』などが思い出される。)
これは『私』が作品の『語り部』であるため、強制的に観客が『聞き手』の役割を担ってしまうからでもあるかもしれないけど……
それにしたって、締めの内容からしても物語の本題が「『私』と諸戸道雄」の関係に集中してしまってならず、
そうすると、田中涼星さん演じる諸戸の執着心のおぞましさに沿ぐわない清廉でどこか儚げな美しさが、彼の一途な愛を健気で尊いものに感じさせてきて、その愛情を受け入れない『私』が何か恐ろしいもののように思わざるをえなかった。
でも、それっておかしくね?って思って。
ホモフォビアを受けることへの同情というか、同性愛差別への嫌悪感も逆手に取られているような気がする。「理由はどうあれ女の子は泣かせちゃいけない」みたいな、ずるい構図が仕組まれているように感じる。
自分が恋をしてフラれた時のこと・恋されてフッた時のことを参照すると、
いくら思わせ振りだったとしても応えてくれない相手の方が悪者だなんて絶対に思えないし、
どんなに周りから薦められてもどうにも受け入れられない相手はマジほんと無理。
腐目線でだって、絶対許せない地雷カップリングというものは実在する。
だから「諸戸の愛を受け入れない『私』は鬼」であるとは、理性的には到底思えない。
でもじゃあどうして「『私』が鬼」だと感じるような作品に仕上げてしまったのか?
これが冒頭に書いた「『私』が鬼のように見えすぎやしないか?」というもやもやの詳細。
この感情は原作に対して正当なのか? 舞台版という二次創作であるが故の解釈の押し付けなのか?
という部分が気になって、ググって辿り着いたのが先ほどのブログ。
http://edogawamy.hatenablog.com/entry/2015/12/05/160636
Wikipediaに書いてあった、「陰獣」みたいな新作をとリクエストされて執筆されたのが「孤島の鬼」らしいというエピソードからも勝手に妄想して、
江戸川乱歩=諸戸目線で「創作された箕浦」が『私』なのではと解釈し、舞台版にめちゃくちゃスッキリできた。
諸戸道雄の死で物語が終わるのもさもありなん。
観客は真の主人公である江戸川乱歩(諸戸)に感情移入させられて、「諸戸の愛を受け入れない『私』は鬼」だと錯覚してしまうのではと。
田中涼星さんの白木蓮みたいな美しく一切の嫌悪感を感じさせない諸戸は、きっと江戸川乱歩のブロマンスの結晶として大正解。
対する『私』がエゴイスティックに語れば語るほど、それは作者(江戸川乱歩であり諸戸)の恋の哀しみの深さ、恋情の深さを伝えてくる。
女性に執心する姿がなんか気持ち悪く見える・描かれるのも作者による悋気からだろうし、諸戸に対して残酷過ぎる描写は傷付いた作者本人が語らせてるからだろう。
『私』が歪であればあるほど、「箕浦にもどこか諸戸(作者)を愛する部分があってくれ」といった願いの叫びに聞こえる。
(観ていると「箕浦も実は諸戸を愛していたのではないか」という容疑が浮かんでならないのだけど、『白髪になってしまうほどの生理的な恐怖・嫌悪』という動かぬ証拠は、容疑を否定してならず、この辻褄の合わないミステリーももやもやの一つだった。)
メタ推理として「陰獣」を出したのも、江戸川乱歩自身による己の殺害が物語のカタルシスにあるように感じられたから。自身を不幸の中で殺すことで、遺された人間へ爪痕を残すという側面も含めてね。
(愛を願いフィクションを書き綴るのに成就させず永遠の片想いとして殺す……って、個人的にめっちゃ萌える。)
作者による「ぼくが考えた最高に美しく残酷な箕浦(永遠に愛してる)」ってやつ。考えたというか、「恋愛の疑心暗鬼の中で見えていた箕浦」。
舞台「孤島の鬼」(2017)では、語り部の『私』と『箕浦』を別の役者さんが演じている。
私は原作未読であるため、同一人物であるはずの二人を別々の人間が演じるということが奇策なのか妥当なのかわからない。
でも、配役を知ったときに
美少年役もまだまだできそうな童顔の佐藤永典さんが30代で老人のような白髪姿になった『私』で、
佐藤さんより身長も高く年上にだって見えかねない美青年の石田隼さんが20代の箕浦「過去の『私』」を
演じることが疑問だった。
いくら『私』は外見が変わってしまったといえど、あまりにも二人の外見が似ていないこともあってね。
「もう一人の自分」みたいな表現が出てくる演劇はいくつか観たことがあるはずだけど、原作未読とはいえ観劇前に違和感を持ったことはなかったように思う。(まあ大体そういった存在は物語の核心中の核心に触れるので、配役表から対の存在と公表されてることは少なそうだけども。)
しかし『私』を『諸戸が想い描く箕浦』とすると配役がまあしっくりくるし、『本物の箕浦』と役者を分けたことが大発明のように感じられる。
舞台上には二人の箕浦が同時に立ち、シーンによって他者とのコミュニケーション表現の担当者が変わるのだけど(どっちが台詞を言うか、みたいな)、
諸戸と出会い親交を深めた学生時代の箕浦はずっと『私』(佐藤さん)が表現し、
諸戸と別離し大人になり恋人の初代との出会いから箕浦(石田さん)は登場する。
石田隼さん演じる箕浦は、佐藤さんの『私』と同一人物のはずなのに、鬼なんて印象もなく何故か善良な青年に感じられていたのだけど、『私』の方が諸戸(江戸川乱歩)の色眼鏡で認識された箕浦なんだと思えばこの対比はすごくいい。
「『私』は諸戸目線で見えていた認知の歪んだ箕浦」であるため、『私』の歪さから「箕浦も実は諸戸を愛していたのではないか」という容疑を持ってしまうが、
事実として『箕浦』は諸戸に迫られることに身体が変調するほどの生理的な恐怖・拒絶を示している。
(皆さんは自分の体が深層心理の拒絶反応で意のままに動かせなくなったことがあるだろうか。私はある。手から全身が痙攣してゆき、これしきのことで動じるな止まれと意識しても震えがまったく止まらない。だから私は生理的な拒絶は動かぬ心の証拠だと考えている。)
しかし性的に愛されないことが、『愛されていない』ということなのだろうか?
必死に求めるあまり諸戸からは見えなくなっただけで、性愛ではないけれども某かの情が、性愛にも決して劣らない尊い愛が『箕浦』にもあったのではないか?
そういった諸戸の盲点が、諸戸が『私』と会話し夢中になっている時の『本物の箕浦』(石田さん)にあったのではないかと、舞台演劇となり二人の箕浦が居ることで私は考え至った。
物語としての「孤島の鬼」の作者は諸戸(江戸川乱歩)だという解釈は私が勝手にしてるだけなので、舞台版が諸々の采配をこの解釈で行ったかはわからないけど、改めて『私』と『箕浦』の登場場面の違いを確認しながら観劇したら面白そうだなぁ!
より妥当なところの分裂理由として「箕浦の二面性」はあるだろうし、じゃあそれぞれの境界線を舞台版ではどこだと考えられているか読み解くのも面白い。
作中に登場する双生児は境目が見えたけど、二人の役者に分けられた一人の人物のメスは何処に入ったのか。
うろ覚えだけど、諸戸の告白以降は『私』が箕浦として生きているから、舞台では箕浦と諸戸は一緒に天国に行けたのだ、な~んて解釈もハッピーだよね。
(どちらかというと、諸戸が悋気を持たなければ、欲を出さなければ、あるいは悪い男になれていたら、箕浦と一緒に天国に行けたかもしれないのに諸戸が鬼の箕浦を生み出してしまった…って自己破滅エンドの方が私は好きかな。まさに疑心暗鬼を生んだ、的なね。)
(報われず自分に追い込まれ破滅した美しい男性がテーマの舞台、大好物なんです。)
延々と箕浦組について語って夜が明けてしまったけれども、他の役者さんや演出等表現もとても良かった。
諸戸の父親の最期に対して、主人公である『箕浦』の感情が語られず『諸戸道雄』の感想がセリフとして発せられたのも、諸戸の父親を演じていたのがまだ30前半と『私』に近い年齢の美しい河合龍之介さんで妖しい男の色気を放っていたのも、「諸戸の主観こそが語り部の『私』」であったとするならよりしっくりくる。
父親の変貌は、絶対に他人の箕浦よりも諸戸の方がショックな出来事だ。
父親越えなんてテーマもよくあるほど、子供から見た方が親はより巨大さ恐ろしさを増すし、親が壊れる様というのは「自分にも起こり得る恐怖」と「自分があれほど巨大に感じていたものとは一体何だったのかという虚無」感がぱない。私も父親で経験したからわかる。
舞台というものは面白いもので、同じ現実を同じ密室で複数の人々と同時に別々の目線位置角度(物理的な意味で)から観測するものだから、
書籍や映像で物語を鑑賞する以上に「他者が見ていない『自分の視点』」が感想を述べる際にものすごく意識される。
たとえ自分が複数人居たとしたって、観劇した感想は同じにならない。
演出による印象操作は完璧に同一にはできない。(それをぶち超えるクソチート暗殺者が『音楽』だと私は考え重要視しているけど、それはまた別の話)
だから舞台は観るだけでも楽しいし、感想を言うのも聞くのも他メディアの何倍も楽しい。
そんな訳でこれらの感想はすべて《私》の主観でしかなく、原作者・スタッフ・キャストが込めた意図の真相はわかんないんですけどね。
すべてを知る者が降臨なされたぞ!
基本的に、学校という組織にいる間は、勉強をするな、やめろと言われることはまずない。
当たり前だが、学校というのはそれが存在意義なので、やめるという選択肢は頭にないのだ。
しかし、勉強を続ければいいことがあるかというと、個人レベルでは必ずしもそうではない。
大学入試がそうであるように、一定のレベルに満たないものは排除されるプロセスだ。
大学院、博士課程と進んだとして、教授になれる人間が何人いるだろうか。
そこまでの成果を挙げられなかった時、その努力を誰が評価してくれるだろうか。
ただでさえこの日本では、単純に学んだ学問の量より、学校の名前の方が重視される。
もっと言えば、学校の名前よりも、若さと従順さの方が大事なのだ。
だからこそ、若さがあるうちに、どこで勉強に見切りをつけるかが大切だ。
これがスポーツならわかりやすい。中学高校と野球ばかりやって、プロになれれば万々歳だ。
大学で部活を引退して、一般企業に就職するのも悪い選択肢ではない。
しかし、独立リーグに行って薄給で夢を追う奴は、平たく言えば損切りのできないバカである。
せいぜい年に数人が育成契約に引っかかるぐらいで、決して分のいい賭けではないからだ。
勉強もまた同じである。ポスドクというのは、言わば学問の独立リーグなのだ。
どこまで勉強を続けることにメリットがあるかは、自分の才能や努力や興味や運との相談になる。
もし、それらに恵まれていれば、もしかしたら教授まで突っ走れるかもしれない。
しかし、とにかく誰もが勉強していいことがあるかというと、そうとは限らない。
私が「若者をコボラーにするな」と言うから「COBOLを悪く言いすぎ」とよく怒られる。ただ、私はCOBOL自体を否定しているわけでない。以前、某ベンダーが若手コボラーを増やしているので、幹部に「彼らの将来の処遇は?」と聞いたら、「どうせ辞めるでしょ」との返事。問題だと思うのはそこ。— 木村岳史(東葛人) (@toukatsujin) February 5, 2017
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小6の息子がめでたく中学受験を終えたところ、通っていた塾から「受験体験記」の執筆依頼が来たのだが、1200字程度で収めないといけないらしく、思いの丈の全ては到底書ききれないので、その下書き代わりにこちらに字数制限なしで書こうと思う。
それに、どれだけうまく1200字に収めようと、自分がこれから書く内容はきっと塾の受験体験記集には採用されないので、せっかく書くのに日の目を見ないのも切ないという事情もある。
そもそも自分は中学受験の必要性を何ら感じていなかった。気軽に通える範囲に私立中学などない田舎で育ったし、気合を入れて遠距離の私立中学に通わせようとなどという教育熱心な家庭でもなかった。
通った近所の公立中学は荒れていた。不良な上級生が授業時間中に教室外にたむろして騒ぎを起こし、先生一同でそれに対処するために授業が中止になることや、校内を卒業生がバイクで走り回るなんてことはザラにあった。
力の強いやつが偉い、という暴力的な世界ではあったし、自分はクラスで一番のチビというハンディもあったが、それでも気の合う友人もできたり、部活に精を出したりと、自分なりに楽しく過ごせた3年間だった。
その後も地元では一目置かれる県立高校に進学できたし、大学も東大・京大ほどではないが、世間的には高く評価されるところに現役で合格することができた。
自分自身がこのように特に不満のない経歴をたどることができたので、公立中学に対するネガティブなイメージもなく、息子についても近所の公立中学への進学で何の問題もないと考えていた。
私立派と公立派は基本的には分かり合えるものではないと思ってる。何しろ、1人の人間が私立中学と公立中学の両方に通うことは基本的にはないのである。公立中に通い、そこでの生活に満足した人は公立派になるし、不満足ならアンチ公立派=私立派になる。私立中に通った人も同様である。両者を公平かつ客観的に比較するのは難しく、どうしても主観が入り交じる。
4年生の終わりくらいに中学受験のための塾に通う話が持ち上がってきた。自分は公立派ではあるが、それでも塾に通うことに反対はしなかった。
先に述べた通り自分は田舎の狭い世界で育ち、教育熱心な家庭でもなく、例えば東大のような高い目標を目指したりすることもなかった。
息子は幸い勉強の才能に恵まれ、昔の自分よりは頭が良さそうなので、ぜひ広い視野と高い目標を持ってもらいたいと願った。中学受験塾は、頭の柔らかい小学生のうちから高度な勉強をして脳みそを鍛えたり、世の中には自分よりも頭の良いやつがたくさんいることを知るのには良い場所だと思ったのが、塾通いに反対しなかった理由だ。
最終的に私立中を受験するかどうかは自分にとって重要ではない。勉強するだけ勉強して、受験せずに近所の公立中に進んだって何の問題もないと本気で思っていた。
しかし息子本人はやはり段々と私立派に感化されていった。母親は絶対私立派、父である自分は公立肯定派ではあるが私立も別に否定はせず、そして当たり前なことに塾に通う友達はみな私立派。塾の先生は...言わずもがな。
仕方ない、分かった。私立に行くのは構わない。で、どの学校に行きたいんだ?
当時の息子の塾での成績からすると、その学校はちょっと高望みであった。一方、自分が見込んでいる息子の潜在能力からすれば、合格レベルに達することは可能だし、追い込んで勉強させれば御三家を超える最難関中学すら可能性はあるという思いもあった。
聞くところによると私立中学の人気というものは、どうやら併設の高校の東大合格者数の増減に大きく影響されるらしい。しかし自分の考えでは、東大合格者数に大した意味はない。難関私立中高の東大合格者数が多いのは、教育力が高いからではなく、東大に合格できる素質を持った生徒を選抜するからである。それにどれだけ多くの同級生が東大に合格しようとも、その中に本人が入ることができなければ、その指標には何の意味もない。逆に、素質があって、実力を高める努力を怠らなければ、どの学校に進学しても東大は狙える。
「中学に合格した直後が自分の人生のピークでした」という話しをいくつか聞いたことがある。親が積極的に介入して受験勉強に追い込み、より難易度の高い学校に合格させることはできたとしても、それで燃え尽きてしまっては何の意味もない。
本人がやる気になるような声掛けや仕掛け作りはしたが、無理に勉強させることはしなかった。そもそも教育熱心な母親というものは一般的に「勉強しなさい!」と口うるさく言わずにはいられない生き物なので(偏見)、そこで父親まで同じことを言ってはいかんだろう、という思いもあった。
人生のピークはもっともっと後に来なければならない。そのためには中学受験ごときで限界まで追い込む必要はなく、いくらかの余裕をもって終えるくらいがちょうどいい。
息子が御三家校に行きたいという理由は、本人に言わせれば「文化祭を見学して自由な雰囲気が気に入った」ということらしい。しかし文化祭や体育祭というのは「特別な日」であり、それだけ見てその学校のことを理解するのはほぼ不可能である。
だいたいその理由すら本当かどうか怪しい。たまたま一番最初に見学に行ったのがその学校だったので、一番強烈な印象を受けたのかもしれないし、母親が勧めたのを鵜呑みにしたのかもしれない。あとは塾の同級生である。親から刷り込まれた学校観を友達に披露するような子もいたのではなかろうか。
いずれにせよ、中学受験において男女御三家というのは正義である。
しかし公立に行けば払う必要のない大金を払わされるこっちの身からすれば、偏差値やステータスなんてものには何の興味もなく、払うからには最も高い実利が得られる学校を選びたいと思うのは当然である。
息子本人が言う志望校なんぞ当てにならん。行く価値のある学校を自分で見極めることにした。
6年生の春になってから、候補となりそうな中学の学校説明会にはことごとく足を運んだ。普通はもう1年くらいは早くこういうことをするらしいが、まあその時は自分が中学受験に興味を持っていなかったので仕方ない。
正直言うと、それまではどの学校も大した違いはないと思っていた。しかし校長の話しからは教育に対する信念や熱い思いが伝わってきたりこなかったり、個性的なカリキュラムを持つ学校があったりと、それまでの自分の考え方は誤っていたことに気付かされた。
なるほど、これが私立か。
確かに高いお金を払ってでも通わせてやりたいと思う魅力的な学校がいくつかあった。難易度も低くはないが、届く範囲。そして息子の志望する御三家校は、魅力的ではあるが上位ではなかった。
さあ、本人を説得だ。
仕事でクライアントを説得するかのようなプレゼン資料を作り、リビングのテレビに映して、自分の気に入った学校に誘導するプレゼンを行った。
学校選びに関する様々な観点を提示し、各候補校のメリット・デメリットを説明した。内容を正しく理解すれば、自然と自分の勧める学校が第一志望になるはずの渾身のプレゼンである。
そしてプレゼン終了後に改めて息子に志望校を尋ねたところ、あっさりと従来からの御三家校の名前を挙げた...。自分のプレゼンは何の効果も発揮しなかった。
説得を諦めるわけではないが、気分良く勉強してもらうために、ここはいったん退くことにした。最後の最後に説得が成功すればいい。
夏休みが明けると生活は受験一色になった。1年生から続けていたスポーツクラブは休部した。塾通いはそれまでは平日2日+土の週3日だったのが、日曜も加わり週4日になった。
しかし、塾以外での勉強時間は特別に多いわけではない。多くのアドバイスによると、朝は早起きして勉強すべし、と書いてあるが、それは結局無理だった。息子はどうやら夜型人間で、夜は11時、12時まで勉強して、朝は学校に行くギリギリの時間まで寝るというスタイルに落ち着いた。自分も夜型だから理解はできたし、それも個性だと割り切ることにした。
テレビやマンガもちょこちょこ見ていたが、それこそが必要な「余裕」だと思い、特に勉強に追い立てるようなことはしなかった。(自分は。妻は別。)
ちなみに中学受験は親子の二人三脚、とはよく言われるが、生活面はともかく、こと勉強に関して言えば完全に塾と本人任せ。机に向かっている間、何の勉強をしているのかも知らない有様。
しかしそれが功を奏したのかどうかは分からないが、塾での成績は徐々に上昇してきて、10月頃からは御三家校を完全に射程に捉えた。
その後は概ね合格圏内をキープ、上昇ペースが予想よりも2ヶ月ほど早かった以外は、ほぼ自分の見立てた通りのシナリオだった。
第一志望は相変わらず御三家校だったが、第二志望は父に義理立てしたのか、自分のお勧め校ということになった。加えて第三志望群に何校か。
この中で最も試験が早いのが第二志望の学校。定員が2つに分割され、試験は2回実施される。1月中に行われる1回目で合格することができれば、後はもう第一志望を受けるだけでよくなり、その後のスケジュールが非常に楽になる。
が、残念ながら不合格。
さすがに本人も多少はショックだったようだ。しかしここは切り替えが大事。
「失敗というのは、そこから学びがある限りは失敗ではなく、次の成功に必要な過程のひとつになるのだ。この不合格をそうできるかどうかは、この後の頑張り次第だぞ。」
午後に受けた学校は当日夜にインターネットで合格発表があり、めでたく合格!この学校も自分の評価は高く、本人もかなり気に入っていたので一安心である。
父お勧めの第二志望校に二度目のチャレンジ。合格発表は翌日朝。
受験会場まで息子を送り届けてから少し経った頃に、前日の第二志望校の合格発表の時間がやってきた。緊張しながらホームページを開く...息子の受験番号を探す...
うーむ、残念!父の目論見はここで潰える。
実のところこの学校、偏差値的には第一志望の御三家校よりも高いのである。ここを第一志望にして対策してきている受験生がたくさんいることを考えると、こっちは過去問をちょっと問いたくらいの準備で、まあ仕方のない結果ではある。
午前の試験終了後、息子と昼食を取り、気を取り直して向かうは第一志望校の合格発表。これまでの合否確認はすべてインターネットだったので、実際に掲示板を見に来るのは本人も自分も初めてである。
緊張の一瞬。
遠くから掲示板を見つめていた息子の顔が一瞬ハッとする。あれは自分の番号? 遠くてよく分からない。人混みをかき分け掲示板に駆け寄る。そして歓喜の瞬間。
合格。
父としては御三家校に合格したことよりも、息子が自分で立てた目標に向かって努力し、見事それを達成したことこそが喜ばしい。この成功体験はきっと今後の成長の糧になることだろう。
そして望外に嬉しかったのは、息子が「僕を塾に通わせてくれてありがとう」と言ってくれたこと。最近は塾で鍛えた脳みそをひねくれたことを言ってみたり、屁理屈こねることにばかり活用していたので、こんなにも素直な感謝の言葉をもらえるとは思ってもみなかった。
また、自身の合格を喜びつつも、残念ながら不合格だった塾の友人たちの気持ちを慮る言葉もあり、そこにも成長を感じとることができた。
自分としては第二志望校(父の第一志望校)不合格で、息子を説得する機会さえなかったのは少し残念ではあるが、合格した第一志望校も実のところ非常に魅力のある学校であり、本人の喜びようも見れば、きっと説得には耳を貸さなかっただろうし、自分もあっさり諦めたことと思う。
それに何より、自分がこれまで全ての場面でそうしてきたように、息子にも自分の人生を自分で決める権利があり、これはその第一歩だったのだ。
自由な校風を大きな特徴とするその学校で、大いに自由を謳歌したまえ。
(ただし高い学費の元は取ってもらわないと困る。)
来年以降受験するご家庭へのアドバイスなんてものはほとんどない。
息子の受験は成功裏に終わったが、自分の立てた受験方針や戦略はあくまでもその息子が前提のものである。下の子が数年後に受験することになるかもしれないが、その子はまた違う個性を持っているので、同じ戦略は使えないと思っている。
あえて言うなら、
以上、長文乱筆失礼致しました。
高校入学後最初の授業で、「受験までに、勉強する意味に明確な答えを言えるようになれ。自分が信じられる意味であれば、他人に批判される意味でもいい」と言ってくれた化学教師(そう言えば東大卒だったわ)のことを思い出した。
たくさん考えて決めた「勉強する意味」は、今考えるとかなり当たり前だけど、おっさんになるまで自分を導いてくれているように思う。
たぶん、誰からも批判されない意味より、自分が信じることが出来る意味が大切で、それは自分で見つけるしかないのだと思う。
だから増田は一緒に悩んで、娘さんにとっての意味を見つける手助けをしてあげられればいいのではないかな。
結果的に勉強いらないってなっても、勉強しないことを自分で肯定できるなら、それは素晴らしいことだと思う。
短編集
1話だけ読んだ
サブカル臭強すぎて全部読む前にgive up
バイト探してたところにかわいい女性がいるところにバイト決めた男ガ主人公
でもその女性はやめるところってのきいてがっくり
残り少ないその女性のバイト期間、女性をながめているとつねにニコニコしてる
でも手をグーパーしてる
きになって聞くと、むかつくことがあると頭の中で月に道路標識を投げてるとのこと
もうふわふわしてすこしふしぎ系意識高い系の雰囲気漫画!!!!
amazonレビューで「面白さが分かるには、ある程度の精神年齢が必要かも。兎にも角にも、このような作品に出会えた事を感謝。不惑のオジサンより。」
なーんてクソインテリぶったマウンティングレビューみてなおさらむかむかしてる
ネムルバカにあったいらいらすることあったら風船ふくらまして針でパーン程度でいいわ
わかった気になってるだけでどんなふうにわかったかを言葉で表現できない人間が意味ありげにマウンティングしてんじゃねーよ頭悪すぎだろ
不良でけんかが強い隠し子がいた
表舞台に出てる帝王のこどもたちが隠し子に遺産相続放棄しろっていってくる
絵は孤高の人とかの作者と似てる
絵の密度は断然あっちのほうが上だけど
ありきたりでいまいちに感じた
「○○に見える」のカジュアルな(?)表現。女性ファッション誌に頻出。
例:「高見えする」(=高く見える)、「おしゃ見えする」(=おしゃれに見える)、「ニット見えする」(=[ニット素材ではないのに]ニットのように見える)
それぞれのキャラが語り部になる話が10個あるらしい
まゆりしぬのにショックうけたりするけどまたがんばる話
すずは
タイムマシン壊れたけどなおして出かけるまでの話
でも最終的にどこでつきあうことになるかまでは描かれなかった
うーん