はてなキーワード: 単著とは
>他人がいついかなるときも自分の思い通りに動いてくれないからっていちゃもんつけるのはやめろ。
弱者に対して力のある人が追い打ちをかける行為をすれば不快に思うのが普通の人。
彼女は自分の自己表現のために「風俗業界を汚れたもの」という表現を否定しなかった。
発信力という力を持った人がそういう態度をとることは一種の追い打ちなんだよね。
だからいちゃもんをつけたわけじゃなくて、叩いている人からすれば、いじめっこを糾弾している感覚なのさ。
>こじらせの使用法
例えば、「壁ドン」や「男の娘」って単語は広まるにつれて本来の意味と変わっていってしまった。
で、やっぱり本来の意味で仲間内で楽しんでた人々は誤用されたまま、しかも我が物顔で使われるのはいい気がしないんだよね。
更にこのこじらせに関してはそれに加えていわば飯の種でもあったんだよ。
勝手に使われる、誤用されるの不快感に加えて、自分たちが発明した飯の種を無許可で使われたらやはり不愉快だよね?
ルールに書いていなければ何やってもいいってのは結構最近の価値観で、人が不愉快になることはしないっていう暗黙の了解っていうのがまだ人間社会にはあるのさ。
それと、君の「ライターの仕事が〜」というのはこの批判とは全く無関係な指摘だから無意味だと思う。
>炎上芸人とかライターとして失格!とか言ってるバカ連中は単著を出してから文句を言え。
人をバカ呼ばわれする割に要求している内容の論理性が不明だけど、
単著を出していないと批判をする資格がないのであれば、漫画を描けない人が漫画を批判することもできなくなるよ。
「文才がある」
「吸い込まれるような文章」
「こじらせてるなぁ(でも、嫌いじゃない)」
「きょうもえをロックとするなら、青二才はブルース」
その他大喜利コメントを貰えた時と「単著」コメ貰えると、僕の承認欲求が満たされます。(理想のブコメ)— 三沢文也a.k.a.青二才 (@tm2501) 2016年3月10日
はてな民は「ワシが育てた」みたいな顔で青二才を昔から知ってる地元のおじさんみたいな顔してしゃべることがありますが、青二才の本当の昔のからのファンはmixi時代や、楽天ソーシャルニュースに投稿してた時期を知ってる人ですよ(●´ω`●)— 三沢文也a.k.a.青二才 (@tm2501) 2016年3月10日
これ、すげーわかる。あのね、僕も100人どころか500人とか1000人に一人ぐらいは才能あると思うわけ。文章だけなら。でも、その文章力なら適応力が必要だし、文才だけでプロになるなら才能って万人に一人じゃないと無理 / “青二才氏…” https://t.co/txq4rw28lb— 三沢文也a.k.a.青二才 (@tm2501) 2016年3月10日
ほんとうに書きたい人にとって、濃度が高い文章を書きたい人にとって、ブログという媒体で書く必要性はない。
日常や読書で得たものは、作品につかうネタとして、とっておかないといけない。
ほんとうに書くのがすきな人は、日記で済ませてる。
他人に影響をあたえたい、他人とコミュニケーションをとりたい、他人に存在をみとめられたい、
不純なくせに、書くのが好きだから~とペ・ヨンジュン並のドヤ顔はじめちゃう人はきもーい。
おもいつきをたれながしただけの記事をもって、ぼくはこう考えました!とか言っちゃう、
ミニマリストブロガー、互助会ブロガーたちとおなじくらいきもーい。
ブログみたいなうすっぺらい記事ばかり書いて、書くのがすき!とかイタいコト言うのやめようよ?
賞レースでも、同人でも、単著でも、なんでもいいけど、勝負のレベルに入らないかぎりはさー、
ジョブズになりたいけどなんにもしてない意識高い系とおなじだよ?
君たちがほんとうにすきなのは、思考を文字にしてなんとなく得た達成感と、他人からの反応でしかないんだよ。
ブコメへ
承認しか頭にしかない人は、承認でしか判断できないとよくわかる。
気分良くなるためにバットを10回振ってるだけの人が、ぼくは野球を好き!と言ってもね。何十試合もピッチャーの球を打ってきた人から笑わせんなよ〜と思われるのは当然でしょ?
http://ada-bana.hatenablog.com/entry/2015/11/14/142410
これ言ってることごもっともじゃんね?
さんざんはてなつまらなくなったって言ってたのに他人からいわれると文句をいうのか。
まだ編集としてのしごとについたばかりの社二病だという指摘もあるけれど。
ただ、はてなってもともとそういうサービスなんだからそれを指摘して何の意味があるの?バカなの?って思うけど。
はてなを狩場に選んでる時点で己の目の付け所悪いって思わないの? って思うけど。
その中でもちゃんと単著デビューしてる人いるんだからそれ見つけられない自分が情けないって思うけど。
会社での地位が低いからこんな場所のチェックを割り振られてるの?カワイソウってって思うけど。
あ、よく見たらかなり痛い記事だな。
はてなブログへようこそ、これからもその痛さを振りまいてどんどん叩かれていってね。
以前こんな記事もあったけど http://megalodon.jp/2015-1010-1321-10/anond.hatelabo.jp/20151010124211
はてなって底辺のレベルは高いけど平均値的つーか、つきぬけて面白い人はいない。そのくせに妙にアメーバに優越意識持ってるアホがいるから困る。
しかしtm2501他の件については信用出来ない語りしかしないイメージだがさすがにフリーゲームについてはいい加減なこと言わないだろうと思ってるんで、参考にしたい。
ほんとにお前らはてな村()はこいつにでろでろに甘いことしか言わねーんだな。
別にこいつがフリゲが好きだってこと自体は否定しないが、ただ単なる一プレイヤーで何の知見も持ってないわ。
言うことといったら、的外れか、今更それに言及するのかよ周回遅れすぎる、のどっちかでしかない。
大体、元々こいつ「フリゲ流行ってるみたいだしいっちょ噛みすりゃ単著()出せんじゃねーの」ぐらいの下心丸出しだったじゃねーか。
フリゲ界隈にはまともに文章を書ける奴がいないとか抜かしてたんだぞ。
もちろんそんなんで相手にされるはずもなく、現時点でもはてな外ではまったく知られていないけどな。
つーか週一程度でたらたら感想書いてる程度で何で注目されると思うのやら。
まじで取り組みたいなら、閉鎖されたサニガレベルで情報集めたり発信したりしてみろよ。
大体な、流行ってんのはフリゲじゃなくてニコニコ実況でしかないんだよ。
最初っから見誤って勘違いの方向に舵取りしてる奴の何を参考にするってんだ。あほか。
それはともかく、今回の妄言につっこむと、こいつの言ってる「ゲーム製作者」は第一回のニコニコ自作ゲームフェスからの常連。
で、元々はRPG寄りの作品を造ってたけど、最新のコンテストではホラゲADV感動ものという、ピンポイントな方向に舵取りしてきた。で、結果をもって仕事もらった訳だ。
つまり、作者の意図としては、この現状を目指してたってことだよ。
そこに文句つけるってのは、どんだけお客様だよとしか言い様がない。作者に己の思う「フリーゲーム」像を押しつけておいて、自分は消費者気取りは醜いわ。自分の思う「フリーゲームプレイヤー」しとけよ。尖ったもんなんて死ぬほど出てるわ。
あと「面白くなくなった」じゃなくて「飽きてきた」の。
http://tm2501.hatenablog.com/entry/20121123/1353602504
青二才の記事のコメント欄にあるドリーさんって村上春樹のAmazon書評で単著出した人?
ドリー
ドリーと申すものです。
TM2501さんは若いのにとてもクオリティの高い記事を書いていられるのでいつも感心しております。
ちょっと気になったことがあるので、2点質問してもいいでしょうか?
記事の内容に関することで興味を持ったのですが、「同人誌」というのはTM2501さんいとってどういうものなのでしょうか。
感想なんかいらないと書いていますが、いらないのならどうして売っているのか少し気になりました。自己満足なら他人に売る必要はないのでは・・・?
それともう一点。
水準の高いブログにもかかわらず、コメントが少ないのは意外でした。僕は趣味でブロガーをたくさん観察していて、
記事のクオリティとコメントが比例するのか、ということを今、検証しているのですが、TM2501さんのブログはアクセス数が多い割にコメントが比較的少ないように思われます。記事の反応をどこらへんで掴むのか。そこらへんのことも教えていただけたら幸いです。
それでは。
前に読んだことのあるノンフィクション作家。
以下、本人のtwitterプロフィールからひとつずつ突っ込んでいく。
作家。
死にかけ体験8回。
→前は3回くらいだったから数年で5回も死にかけたのか。
趣味兼仕事は旅と冒険。弓道、ジョグ、ジェットスキー、スノボ。
→前から旅好きな人だったようなきもするが、スノボしてたのは初耳。
懸垂毎日100回等。
→見るからにひ弱そうなんですがね…。
カジノと株はほぼ常勝。
→「ほぼ常勝」って日本語生まれてはじめてみた。たまに負けるってこと?
世界紀行120カ国余。
→紀行って旅行中の体験・見聞・感想などを書きつづった文章じゃないの?出版されてるんだろうか。
単著は約100点余。
→アマゾンで調べても100も出てこない。国会図書館でも100も出てこない。
→電子書籍は題名変えたり、章ごとにわけるなどして冊数稼ぎ。そしてどれも売れてない模様。
不定期有料マガジン1万7500部。
→Twitterのフォロワー数が17,200人くらい。メルマガ購読者数のほうが多いという謎。
著書累計725万部。
→調べようはないけど多分嘘。
→調べても全く出てこない。
という感じ。なんだか残念な人になっていた。
この他にも、ネット界隈を見てみると、
キートン増田「ギリシア・ローマ時代、競技は生死を賭けた神聖な戦いだったのです……
これが賭博の起源ですね。賭博は今日、遊戯として発展し、一方ではネットサービスになった。
一定期間内に、言及先が燃えるか燃えないかに魂を賭け合うサービス……
すなわちはてなブックマークです」
キートン増田「やめておけ。本ブログで発表したほうが、増田より伸びると思っているんだろう。
思ったより読まれないかもしれないし、思い通りの読者層にリーチするとは限らん。
トピ主「あんた、あたしがうす汚いブロガーだから、ブクマする気もしない…そうよね!?
自分をウォッチャーだと思って、そこから単著を出そうとする奴は、ウォッチャーとは言わない!
それはアルファブロガーだ」
何もかも許して、生きてゆけるような気がする……」
guldeen「いや、申し訳ない。悪いのはこの星なんだ。
kanose「増田さんはあのシロクマを見て、どう思いますか?」
増田「世界一、幸せなシロクマだ。安定した職業、贅沢な知名度、酒、ネットの友人たちからの畏敬。そして極上のキャラ付け……」
kanose「私は不幸なクマだと思いました。ネットに退屈しきっている。感動もない。そして……自分でそのことを知っている」
xevra「匿名にクセのない文体、それにうんこネタは、実際には特定を避けやすく、ウケもいい。
知ってやっているとすれば、あの男、ただ者ではない……」
xevra「……プリントアウトしてやれ!
orangestar「子供の頃、どうしてidはたくさんあるのって、シナモンに聞いたの。
ラノベ天狗「子供の頃、よくついたらを狩りにいった…最初の獲物はラノベ叩きだった。
私の打ったRTは、炎上好きの琴線に触れた…叩き屋は足をひきずって逃げていった。
ただしさを失った本読みは、生きているより不幸だ…だが、私は何もしなかった。
ステータスが高いみたいな文脈で「単著」って言葉を見るけど、共著なら本だすの楽勝ってこと?
それとも「共著」の反対語でなくてただ本を出したって意味で使われてるだけ?
なんか業界用語みたいなもんなのか。
カノセとか、単著がねえどころか、ろくに仕事もない、なにも成し遂げてない奴だから特に叩くところがねえだけだよ
人となりもよく分からないのはそのせいなんじゃないかと言われる
勘違いして褒めると、みじめな実績どころか、ろくでもない境遇まで突っ込まれちゃうんだから、触れないでおいてやれよ
ひどい奴だな
幸せだ。
無垢そうなヨークシャー・テリアである彼をただ愛でていればいい。
でも私達は覚えている。
狂犬のひきつった嘲笑を。
血に塗れた牙の鈍光を。
昔は誰もが知っていたのに、今となってはもう存在すら忘れ去られてしまったidたちの断末魔を。
人は彼ははてな村の村長だと言う、あるいは長老だと言う。誰もが畏敬する。
なぜだ? ただ古参だというだけで、ただ居座った、意地汚く居残ったというだけでそこまで?
間違えるな。彼は居座ったのでも居残ったのでもない。
「生き残った」のだ。
かつて、はてなは戦場だった。今となってはもう語るものすらいないほどの昔の話だ。だが事実だ。
そこは天上の地獄だった。毎日がだんじり祭だった。憎しみが連鎖し、血が血であらわれ、idコールは果し状がわりの白い手袋、マッチョがウィンプのケツを掘り、非モテどもには要は勇気がなかった。そんなキリング・フィールドで「ただ生き残る」ことがいかに至難であったか。あの時代を体験した人間で、自らの手を汚さずにいられたものなどいなかった。
そうして、上から目線ゲームがバベルの塔ばりの高さに達したとき、かつてはてなでバトルを繰り広げたバトラーやウォッチャーたちは神の怒りに触れ、そんじゃーねとばかりに現実へとディアスポラし、転職したり共著を出したり単著を出したり映画化されてみたりTBSラジオでメインパーソナリティを務めたりインターネットをバカと暇人のものにしてみたりモテないやつは脳に問題があると言ってみたり秋ごとに翻訳小説をハゲラッパーに紹介したりメンヘラとヤったり自分が死んだあとの世界を計劃してみたり女子高生野球部マネージャーにピケティを読ませてr>g野球に目覚めさせたりした。
名も無き弱者たちは地下へと潜り、今は増田と呼ばれる非ブログアクターとして現代はてな社会を新しい暗黒に追いやっている。
だが、彼だけは違った。
彼だけは、はてなを離れなかった。離れられなかった。なぜか。神がその存在を許したからだ。ここに在るように命じたからだ。
疑うなら最寄りの神社へ行ってもらいたい。
門の両脇に据えられた、二匹の犬の像を認めるはずだ。
彼らは地上につかわされた神使であり、エジプトのスフィンクスなどとも起源を一にするという。
向かって左の犬の像は、阿形、すなわちサンスクリット語における「しなもん」を表し、
向かって右の犬の像は、吽形、すなわちサンスクリット語における「ケンケン」を表す。
はてなには狭き門も広き門もなく、ただ遺物(ARTIFACT)を護る番犬がいるだけだ。
私達はその犬を、犬たちを畏れる。彼らは古参だから。彼らは生存者だから。彼らは勝者だから。
私達は犬たちを忘れることができない。
犬たちは不滅だ。たとえ肉体的な死を迎えたとしても、その眼は常に生き残る。左の犬の眼は私達を愛し、慈しむ。右の犬の眼は私達を監視し、専制する。
「カノセ」は「カオス」がなまった言葉だという。私達はそれを信じる。
はて「な」を「支」配する「者」、秩序(コスモス)を司るしなもんに対置される混沌。陰と陽。ふたつでひとつの世界。
しなもんとはkanoseであり、kanoseはシナモンである、というのは単に「神とは神のことである」とトートロジックに言明しているにすぎないだろうか?
そう、彼らは神である。自らに命令し、自らに従う最上位の権力だ。
今なら私達はローマの偉大なる詩人、ユウェナリスの疑問に応えることができる。
"しかし、誰が見張りを見張るのか?"