はてなキーワード: 単著とは
単著があるとかないとか
憤慨ブコメってどれのこと?
立命館の論文炎上問題、論文に配慮が足りなくて問題があったことはわかった。で、文系の人は、人工知能学にどうなってほしいのでしょう?
2.ただでさえ忙しい教員の時間を奪って、配慮の仕方を教員に講習する
3.件の教員に処分をくだし、彼らのキャリアにくらい影を落とす
4.人工知能研究者がこの手の研究をする時は、文系研究者と一緒にやるように義務付ける
ぶっちゃけて言えば、人工知能研究者の中では、文系の先生と共同研究しようとしても、技術だけ提供させられた上、文系領域は単著のところが多いから、論文も文系研究者が一人で書いてこちら側の業績は増えず、全然得るものがなかったという話をかなり聞く。その辺、最初に色々取り決めてうまいことやってる先生ももちろんいるが、ある意味、文系研究者との付き合い方自体がノウハウ化している。
そういう意味で、今回の件を利用で何かルールができると、文系研究者に有利なルールになって、文系研究者にタダで使われる事になるのでは…と、内心、不信感を持ってる人工知能研究者は割といる気がします。
追記:
騒いでるのは文系だけではない、理系も騒いでる、というのはとっくに知ってますよ。文系だけが騒いでるなんてどこにも書いてないじゃない。
相手方に許可取ってから…という話もあるが、今回の件は、出処の記載さえしっかりしていれば、引用であるという意見が大半。出処の記載に不備があるという意見もあって、そこはまずいと思うけれども。
相手の許可を必須にするのは一案だと思いますけど、それじゃ、許可必須な作者が使うような性的フレーズについては、自動的にフィルタリングする技術が作れなくなりますよね。
「こだわる」って書いた元増田ですが、自分も、実は、隣の研究室が数学系だったりする学科の卒業者なので、数学に単著が多いことは知ってます。
「論文を書いた人だけが著者になるべき」という主張はよく聞くのですが、我々のような共著メインの分野でも、「第一著者が論文の大部分を書いている」という暗黙の了解があるので、単に表し方の違いであると思ってます。
なので、本当に本文の大部分を指導教員自らが書いている場合、第一著者が教員になったりしますよ。例えば、学生が卒業して就職してしまった後に、教員が論文化した場合、などに、たまにあります。
また、本当に二人で書いた時は、論文の最初のページの第一著者と第二著者の名前の後に脚注を入れて、第一著者と第二著者がequally contributedだ、と書いたりしますよ。
指導教員が書いていないのに共著に名前を連ねるのはギフトオーサーシップだとかいう批判はよく受けたりするのですが、第一著者が大部分を書いている事は皆知っているので、著者の表示方法の違いだと思われていることが多いです。
逆に、こちらの分野から、単著メインの分野を見ると、「指導教員が責任を取らずに学生に押し付けている」とか間違った理解を持っている方もいらっしゃいますねー。
分野によって違っていて、日本だけでどうこうできる問題ではないので、単に表示方法の違いだと見るのが良いのではないかな、と思います。
通りすがりですが、理系でも、数学に分野が近くなると単著はごく普通にありますよ〜
わわわ、ますます丁寧な応答ありがとうございます。わたしも「理系」と一括りにしてよく知らないままに済ませていたんだなぁ、と思うとお恥ずかしいです。門外漢に詳しく教えてくださって本当に感謝です。
なるほど、それはもう完全に文化の違いですね。文系でも経済学とかはかなり国際化進んでるっぽいのでどうなのかわかりませんが、いわゆる人文系では
で業績になるところがほとんどだと思うので、国内学会の使い方がその2つに二極化しているのは面白いです(もちろん人文系でも、外国で報告したり出版したりした内容を国内で報告、とかもありますけど、主流は上のルートなんじゃないかなぁと)。ちなみに論文はたいていWordです。
単著・共著の扱いは分野毎に違ってて、異分野の人の話を聞くのは勉強になります。文系が単著にこだわる、という認識は興味深かったです。自分で書いたものだから自分しか挙げてないだけのつもりだったのですが(※)、なるほど共著が当たり前の分野から見ると「こだわり」に見えるのか……という(悪いってんじゃなくてそう見えるのが新鮮という話です)。
(※)読めない外国語を読むのを手伝ってくれたとか、必要な資料を貸してくれたとか、事前に読んで鋭い指摘をたくさんくれたとか、そういう場合は謝辞の欄に書きます。
指導者が学生のケツを持つ意味で実質的に執筆を担当してはいないけど共著に名を連ねる、というのは、もしも人文系でやったらギフトオーサーシップすれすれだと思います(理系の慣習を批判しているわけではありません)。その辺の機微を研究者同士ならわかっていたとしても、今回の炎上ではわかっていなかった人が多く「准教授」が主語で語られてしまったのはモヤモヤする思いがありました。
モヤモヤ、というのは、実際にはこの准教授がメインの執筆者じゃないんだろうなぁ、あんまり准教授が書いたものみたいにして叩かれるのは気の毒だなぁ、というのと、でもこれ理系の共著という慣習がなかったらM1が1人で袋叩きだったわけで、それよりはまだ准教授が叩かれる方がマシなのかなぁ(これでテニュアじゃなかったら本当にお気の毒としか言いようがないですが)、文系の単著でやる原則ってそう考えると怖いなぁ……ということです。ひどい研究をした院生がいた場合に立場の弱い院生ばかりが叩かれるのと自分で書いたわけでもない教員も叩かれるの、どっちがいい制度か、と言われると悩ましいですが、そういう視点で単著/共著を考えたことがなかったので。
「どうなんでしょう」と聞かれているので答える。長さについての感覚が知りたいなら、人工知能系はトップ国際会議の査読付き論文がPDFで転がっているので、ホンモノ見て下さい。
https://aaai.org/ocs/index.php/AAAI/AAAI17/paper/view/14746
基本的に、A4のダブルカラム8ページがfull paperと呼ばれて、査読付き国際会議論文の標準の長さかな。図や数式の量によるので、論文の長さはページ数の上限で規定される。概要や査読への返答はワード数制限あるけど。英語8,000 wordsだと、多分A4ダブルカラム10ページぐらいあるが、それだと一番長いクラスの査読付き国際会議論文一本分ぐらいかな。数式ではなく、新しい概念を導入するような話だと、やはり、それぐらいの枚数は必要になる。数式は、長い時はだいたいAppendixに回せるので、本文に数式の土の部分を表示するのかそのものが、著者の選択。
査読付き国際会議論文は、査読付き英文論文誌に出せる。査読付き論文誌はだいぶ長く書けるので、英語8,000 wordsぐらいの論文は普通にあると思う。
英語じゃないと業績にならない、は言い過ぎた。実は、査読付き国際会議に出した論文は、国内学会の査読付き論文誌に投稿できる仕組みになっている。前者は予稿集・後者は論文誌なので、枠が違うので二重投稿ではないという理屈になっている。国内の査読付き論文誌は業績になる。国際論文誌に比べると見劣りするけど。
ただ、内容的に、日本語オンリーや日本の社会事情に特化した内容で、国際的に評価されにくい内容があるというのは、こちらも分かっている。そういう場合は、国内論文誌に直接出してしまうこともある。しかし、こういう場合でも、英語化しないと基本的に国際的には全く論文がなかったことにされるので、レベルの低い査読付き国際会議でいいから、どこかで英語で発表しておく必要がある、と個人的には思っている。
まとめると、基本、国内査読なし会議→査読付き国際会議→査読付き論文誌という流れで投稿する。後の2つが査読付き。国内査読なしと国際査読付きで同じ内容を投稿しても二重投稿にはならない。
国内会議予稿論文の役割は、萌芽的な研究興味の交換と、国際的な査読に通った論文を日本語化して宣伝・紹介なんですよ。発表を聞いていると、発表によっては、「この内容はxx国際会議に通りました」とか言ってたりする。あと、論文を書くのにWordを使う人が非常に少ない。基本、LaTeXで書かれる。
文系が単著にこだわるのは知っているが、情報系の多くでも、第一著者がほぼ全部書くのが通例。今回の論文でも、著者リストから、第一著者が学生で、第二著者以降が論文を添削・指導した人…と普通は見る。まぁ、学生のグループ&指導者で論文書くこともあるので、最初の何人かが学生、なんていうのも普通にあるし、優秀な研究者が複数人で協力して二人とも著者…という形態も普通にある。その辺は、色々な形態が混じっているが、ここは、単に表示の問題だと思っている。逆に、うちの分野で学生が単著で書いていると「この学生は指導者と何かトラブルでもあったのだろうか…」と心配してしまう。論文の著者名は、指導者が「うちの学生を私がちゃんと指導しましたよ」というのを示す役割を担っている。
著者の並べ方についても、分野によって色々違って、数学系だと共著の場合は必ずアルファベット順に並べる風習がある。だから、数学系から人工知能業界に入ってきている人は、自分の論文として出し、"with 誰々"という形で共著表示する。この慣習は、人工知能分野でも基礎分野じゃないと知らない人が多い。
長すぎたようなのでこっちで増田に応答。
http://anond.hatelabo.jp/20170527122912
人工知能学会全国大会論文は査読なしだ。これは、人工知能学会だけが問題なのではなく、情報系の大部分の国内学会は査読なしである。
ただ、その理由が「本会議でボコボコにして論文で落とせばいい」としているのが、こちらからみると不思議だ。査読付き論文も同じ国内学会に出すことを前提に書かれているかのようだ。
この分野における研究者の業績評価に用いられるのは国内学会ではない。
AAAI,IJCAIなどのトップカンファレンスと言われる、重要な査読付き国際会議にどれぐらい通したかで研究者の業績が決まる。
つまり、英語に直さないと、そもそも、業績になどならない。ダメな論文は、国際的に評価されないだろう…と思っているから、あまり関心がないのだ。
この辺の常識は分野によって違うので私もわかってなかったです。教えてくれてありがとうございます。
人文系だと和文でも立派な業績になるので、その辺の感覚の違いというのはあるかもですね(もちろん、英文やその他の外国語で書いた方が評価されるのはその通りなんですが)。
ただ人文系の論文って、文章だけを並べて数十ページとか普通に行くやつも多いです。歴史系だと、ちゃんとした和文学術雑誌の文字数上限は30,000字ちょいくらいで、20,000字未満だと「あそこ短いから書きにくいよね」とか言われる世界なんです。英文だと8,000 wordsくらいかな? この辺、理系や情報系の人たちとは「論文の長さ」に関する感覚がけっこう違うと思うんですがどうなんでしょう(あと、基本的に単著)。
英語じゃないといけないっていう縛りもなくて、たとえばフランス研究ならフランス語で書いた方が評価されるだろうし韓国研究なら韓国語で書いても立派な業績になりますよ、って感じです。最近は若手研究者の国際化が進んで、英語で博士論文書く人も増えてますが、ドイツ語で博士論文書きましたって人も増えてきてるんですね。そういう意味で、そちらの分野とは国際化の感覚は違うのかな、と。