はてなキーワード: 中教審とは
日本の教育に文句つけるときの定番「日教組ガー」にしても同様。
いや、国の文教政策の問題を論ずるのに、文教予算一手に握って中教審握って何より数十年にわたって文科省をコントロールしてきた政権与党の方針でなく、国の政策にも立法にもほとんど影響を及ぼせず、組織率すら2割程度の組合ごときが問題だと主張するとか、常識で考えておかしくね?
一企業で考えてみてもさ、わけのわからん経営方針で赤字続けてる会社の役員連中が、自分らと方針が対立しているとはいえ組織率2割程度の組合を目の敵にしてわーわー言って組合潰しに精出してたら、いや、あんたらの無能のせいで会社が絶賛傾いてる最中なんやけど?……ってならんか。
教育についてのみ。日本のかつての「定形詰め込み」教育は、熟練度の高い工場労働者の育成がベースになってる。一方、アメリカ式の教育は、意識の高い人々を生むが、結果としては天才と馬鹿を二分するエリート教育だ、という批判は確かにある。「ゆとり」教育もそれで、当時の中教審の委員は公然と「あれ(ゆとり教育)はエリート教育だ」と言い放っていた。(詳しくは「三浦朱門 エリート教育」とかでググって。)
教育に関する国際調査で話題のPISA調査が進めるのは後者の方の教育の定着度。今日のニュースで、最新のPISA調査の結果が紹介され、前回低迷していた日本の順位が大きく上がった、つまり、日本の教育もかなり後者に近くなってきた、と報道されていた。とはいえ、自己肯定感や自律性は、相変わらず全然上がっていないらしい。ひょっとしたら、日本は、PISA調査に対しても「傾向と対策」を重ねて「詰め込み」で突破しつつあるのかもしれない。面白い話である。
ババ引かされたのは受験生だ! 英語民間試験 なぜ国は推進した
「私たちは官僚の矜持とは、政治から、不本意な政策が下りてきた時、それが理にかなわなければ「無理です」と説得する、もしそれがかなわずとも、その政策を、広く合理的に説明できる程度までしっかり練り直すものだと思っていました。」
止めたいと思っている役人はいるけど、止められる役人はいません。
そもそも、文科省の教育施策は、科学的なエビデンスというより、
◆中教審の会長が言った(大臣と仲がいい大学の学者や民間有識者など)
で大きな方針が決まっていて、それを実現するために利害を調整するのが役人。。。。
「そうはいっても、審議会や有識者会議でも審議して決定してるんだから、一方的な意見だけじゃなくて、反対意見もあるだろうから調整されるんじゃないの?」
そんな指摘もあると思うが、審議会や有識者会議は、大きな方針を実現するための装置でしかない。
有機者会議を開催する時点で、ある程度の結論は決まっていて、何を言われようが結論は変わらない。異論が出ても最後は、役人が根回しをした座長(議長)に報告書の決定が一任されてしまうので、役所が得たいような結論が出る仕組み。
対外的には、決定された内容については「第三者で構成される有識者会議で決定されました!」「審議会で決定されました」といった客観的な意見であると主張できる。
ただ、実態は、役人が手をまわしている都合が良い内容の報告書なので、当然、それ自体が本当にやるべきことが書いてあるものではないので、科学的なエビデンスになるわけではない。
しかし、それがエビデンスかのような政策手法が横行しているのが文科省・・・。
報告書の根拠は、有識者の意見です!と都合よく解釈しているけど、その有識者を選んだのも、有識者に言ってほしいことも根回しするのは文科省・・・。
こうして、文教族の国会議員などの一部の意見に基づく施策が展開され、諸外国の動向や、教育学者の意見はほとんど参考程度。
文科省の役人は、誰かが決めたことを忠実に遂行するための整合をとったり、利害を調整することには優秀。
だけど、どういう入試制度がいいか、エビデンスに基づいてしっかり考えていないから、政治家を説得する、ということができないんだろうな。
教育分野は他の分野と違って、みんなが教育を受けてるから、ある意味、自身の体験に基づく意見が施策に反映されがち。
だからこそ、他の分野よりも一層、エビデンスが求められると思う。
再発防止策は、役人の能力向上と、役人がちゃんと考えたことを実行できるという意味で、政治からの独立性(透明性)の確保、、、だと思う。
たぶんそんな案は出てこないだろうけどw
大学図書館がやるなんて世も末だなと衝撃受けたけど
記事読んだら通常業務してるだけじゃねーか!と二度びっくりしたので
図書館書架が有限である以上、図書は買った分だけ捨てないと書架に収まらない。
(オプション)
複本、新訂版有無、電子版有無、利用頻度、連携先図書館・国立国会図書館所蔵有無
大学にもよるだろうけど、本当の貴重書・重要度の高い図書は図書館にはなく研究室にあったりする。
特定専門分野の第一人者が定年退職し、後任研究者がいないと研究室所蔵図書の価値がわかる人がいなくなり、あえなく廃棄処分になるケースも何回か経験してきた。
大学図書館にとって図書の価値基準は教育・研究対象関連であるか否かである程度決まってくる。
そもそも大学図書館は図書館法下の図書館ではなく、学校教育法下の図書館である。
大学図書館の役割は第一に研究者、学生のための図書・雑誌等を所蔵し供与することであり今後も変わらないだろう。
郷土資料の保存や収集は公立図書館や博物館の役割で、県立であっても大学図書館が担う必要はないように思う。
ただ、郷土資料を大量に廃棄するときは、公立図書館や博物館に一声かける配慮はあってよかったようには思う。
最近は偉大なる文科省中教審様の御宣託であったり千葉大の成功事例であったりで大学図書館に
「主体的な学修を支える図書館の充実や開館時間の延長、学生による協働学修の場の充実」を求められるようになった。
以降、大学図書館を新設・改修するとラーニングコモンズとしてグループ学習設備と内装に予算とスペースが割かれるようになった。
既存改修で閉架書架を潰してグループ学習室設置した大学図書館もある。
余談だけど、千葉大西千葉の猿真似でラーニングコモンズ作ってる多くの大学図書館がファミレス化してて残念な気持ちになる。
ただただ自分の信条や感想を断言してスター稼ぐ前に、ご自身で周辺情報をある程度把握をした上でコメントしませんか。
ネットで検索しても周辺情報に辿り着けない場合は最寄りの公共図書館にご相談ください。
司書がレファレンスサービスを提供しています。
学校教育法施行規則が改正され、職員会議は「校長の補助機関」という性格を持つことが明確になりました。
中教審答申(H10.9.21)では、職員会議について次のように述べられています。
・学校運営における職員会議の位置付けやその運営の在り方の現状については(中略)
(ⅰ)その運営等をめぐる校長と教職員の間の意見や考え方の相違から、職員会議の本来の機能が発揮されていない場合があること。
(ⅱ)職員会議があたかも学校の意思決定権を有するような運営がなされて、校長がその職責を十分に果たせない場合があること。
(ⅲ)校長のリーダーシップが乏しい、職員会議が形骸化して学校全体で他の学年や学級、教科などに係る問題を話し合うような雰囲気に乏しい、あるいは、運営が非効率的である。
これ。結局、校長の権限を強めることで、校長が限りなく保身に走れるようになっただけだったと思う。
自分が2・3年先の定年まで安穏に暮らせるように、それだけのために、管理職が楽な方に、管理職が訴えられないためだけに、悪い方向に学校を変えてしまう。
だからってわけじゃないんだけど最近の中等教育周りの話を簡単にだけしておくよ。
という感じの話だよ。
「2020年からセンター廃止されて新テストになるんでしょ?総合的な人間力試される的な。知らんけど。」くらいな認識の人が多いんじゃないかな。
その背景がどのように認識されてるのかは自分はちょっとわからないのだけど、詳しく知りたい人は中教審の答申を読むと良いよ。
新しい時代にふさわしい高大接続の実現に向けた高等学校教育、大学教育、大学入学者選抜の一体的改革について(答申) - 1354191.pdf
センター試験に替わる新テスト。この辺はよく知られている通りだね。
「教科型」に加えて、現行の教科・科目の枠を越えた「思考力・判断力・表現力」を評価するため、「合教科・科目型」「総合型」の問題を組み合わせて出題する。具体的な作問に向けた検討の状況を見据えつつ、将来は「合教科・科目型」「総合型」のみとし、教科・科目に必要な「知識・技能」と「思考力・判断力・表現力」を総合的に評価することを目指す。
将来的には教科型、つまりこれまであったような数学ⅠAなどのような科目を廃する方向みたいだよ。また受験生達に均等に機会を与えるために複数回実施するらしいよ。
2019年から「高等学校基礎学力テスト(仮称)」なるものが実施されるよ。
全ての生徒が共通に身に付けるべき資質・能力の育成という「共通性の確保」と、多様な学習ニーズへのきめ細かな対応という「多様化への対応」を両者のバランスに配慮しながら進める必要がある。
提言されている「共通性の確保」と「多様化への対応」のうち、「共通性の確保」、つまり高校生ならどこの学校で学んでもこれくらいの能力は身に付けておかなきゃね、というためのテストが導入されるよ。
内容としては「思考力・判断力・表現力」を評価する問題も含めるけど共通性・基礎の確保の観点から「知識・技能」メインだよ。すなわちテストとしてイメージしやすい、各科目の学習事項が身についているかの確認テストだよ。
センター試験が替わるというだけの認識では、「これからは数値化できる学力じゃなく総合的な思考力うんぬんだ」となりがちで危険だよ。
「確かな学力」によるため「思考力・判断力・表現力」に寄る面はあるものの、答申にある通り「高等学校基礎学力テスト(仮称)」の結果なんかも出願時に大学に出す調査書に載るみたいだよ。
こうなってくると、ただ「新しいテスト始まるよー」だけでなく大学進学に向けて高校での取り組みも色々と見直さなきゃいけなさそうだよ。
自分の住んでいる東京都を例に出すけど、高校教育の中身と出口での変化に合せるために、先ず入り口から見直しは始まっているよ。
中学2年生の皆さんへ
http://www.kyoiku.metro.tokyo.jp/pickup/p_gakko/28leaflet_koukou/besshi.pdf
学校により受験科目数が違ったのが5科目入試になるよ。また知・徳・体すべて大切なので調査書の点数化方法で美術や技術家庭なんかの比率が大きくなるよ。
答申にある通り学習指導要領の見直しが始まってるよ。2016年度に答申が出て実施は2022年度からみたいだよ。
その中ではPISA型学力の発育を目的とした思考力・判断力などの育成や、アクティブラーニングを取り入れなさいといったことが明文化されるよ。授業の雰囲気もこれから変わっていきそうだよ。
またこれも東京都に限った話で恐縮だけど「都立高校学力スタンダード」なるものが始まってるよ。
http://www.metro.tokyo.jp/INET/OSHIRASE/2013/03/20n3s300.htm
学校ごとに「この科目ではここまでできるようにしますよ」みたいな目標を掲げるようになったよ。
そしてそれだけじゃなくてその事業の一環で共通試験を行うようになったよ。その実施がつい最近の話で、Twitter で「学力スタンダード」と検索してみると「なんの事やら」と思いながらもただの外部模試の感覚で受けてる高校生たちのつぶやきが見れるよ。
そしてその目標達成度なんかも公表されるみたいだよ。これでかなり全体像が見えてきたよ。
今後の変化の全体像には先の中教審の答申PDFの最後のページが資料としてわかりやすいよ。
高校の中での勉強ではセンターに替わる新テストを突破できる総合的な力を身に付けさせなきゃいけないよ。それだけでなく高校在学中にやる新基礎学力テストでも得点を取れるようにしなきゃいけないよ。その結果なんかも中学生が先を見据えて高校を選択する上での新しい指標になるかもしれないよ。どちらもできるようにしなきゃいけないよーと試行錯誤してるうちに新学習指導要領が降りてくるよ。大変だね!
これに向けて東京都なんかは先述の通り高校の入り口を変え、中身を変えと取り組んでいるみたいだよ。例えば学力スタンダードの点数公表なんてのも新基礎学力テストの先駆けにも思えるよね。
こんな風に、これから数年間、大学入試改革前後は本当に変化の多い数年になりそうだよ。
先のPDFリンクにあった今の中学2年生なんかはこれからのこの流れに、波の先っぽに突き動かされるみたいに綺麗に乗る形になるよ。大変だね大変だね!
id:aionarapです.自分のブログがなく,ブコメじゃ情報を書き足りないのでこの場をお借りしました.
“徒弟制度”や修士論文の廃止求める 大学院博士課程で中教審答申 - MSN産経ニュース http://sankei.jp.msn.com/life/news/110131/edc11013122040003-n1.htm
はてなブックマーク - “徒弟制度”や修士論文の廃止求める 大学院博士課程で中教審答申 - MSN産経ニュース http://b.hatena.ne.jp/entry/sankei.jp.msn.com/life/news/110131/edc11013122040003-n1.htm
この中教審の答申に関して,ブコメでは否定的な意見が多数,というか肯定意見は皆無ですね.しかし,私個人はある程度この試みに賛成です.あ,先に書いときますが,完全肯定じゃないですけどね.修論は書いたほうがいいし,徒弟制の完全廃止もどうかとは思っています.
じゃぁ何が賛成なのよ,という話ですが,Qualifying Examの導入,及び広い範囲の教育に関してです.これは必須,と私は考えています.この辺りのお話に関するご意見を皆さんに聞いてみたいと思い,当エントリを書くことにしました.
今回の中教審の答申は,博士の現状の問題を反映した意欲的な取り組みに感じる.丸呑みにするには良くない部分もあるが,期待しても良いのではないのか.
さて,そもそもの出発点ですが,博士は「スペシャリスト」でありさえすれば良いのでしょうか?私は否と考えます.博士こそ「ジェネラリスト」にもならねばならない.…と書くと誤解を招きますね.要は専門馬鹿になっちゃいかん,ということです.
勿論,博士課程の人間は自分の専門分野に関して,国際的な第一線に立てるような知識と経験が必須です.一生懸命に自分の研究に取り組む必要があります.ですが,それだけではダメで,最低限隣接領域(まぁ定義が微妙ですが)に関して,可能であればもっと大きな枠組で知識を深めなきゃいけません.科学技術はどんどん煮詰まってきて,先に進むためには学際分野の融合による新しい概念の創出が必要です.それをイノベーションと呼ぶこともあるでしょう.それを生み出すためには,少なくとも2つの分野に関してよくものを知っていないといけません,そうですよね?
テクニシャンとして分野を極めるのもひとつの道かもしれませんが,博士に求められているのはそういうことではないと私は考えています.
加えて,博士が「スペシャリスト」のみを意識していると,博士課程の人材の活用先は研究者,それもかなり狭い分野に限定されます.
ここで,大学院設置基準が定めている博士課程の役割を見てみましょう.昭和49年の時点では,
「専攻分野について,研究者として自立して研究活動を行うに必要な高度の研究能力及びその基礎となる豊かな学識を養うことを目的とする。」
「専攻分野について,研究者として自立して研究活動を行い,又はその他の高度に専門的な業務に従事するに必要な高度の研究能力及びその基礎となる豊かな学識を養うことを目的とする。」
と,敢えて変更を行っています.差分は,
「又はその他の高度に専門的な業務に従事するに必要な高度の研究能力」
「社会の多様化,複雑化等に対応し,博士課程において,大学等の研究者のみならず,社会の多様な方面で活躍し得る高度の能力と豊かな学識を有する人材を養成する必要から明確化」
(以上,http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo0/toushin/05090501/021/003-3.pdfの2ページ目より引用.)
平成元年の時点で,大学院設置基準は博士課程学生に「社会の多様な方面で活躍しうる」人材たることを求めているのです.
「おいおい,博士が研究者にならなくてどうするのよ…」という意見もあるでしょう,それは理解します.ですが,包含関係を取り違えてはいけません.研究者として生きて行けるのは,博士号を取得したうちの一部の人間です.研究者になるのは博士号取得者でしょう.ですが博士号取得者は全員研究者にはなれません.国家として,限られた国庫の中から博士を全て取り込めるほどポストを恒久的につくるのなら別ですけどね….
それに,(ありえませんが)もしそうなったとしても,全員研究者になるのもどうかと思います.一人ひとりが研究テーマを持って,プロジェクトリーダー的な役割を果たしつつ,世界の最先端を突っ走ってきた人間が,その経験と知見を他の分野に持っていくことは非常に意義があるでしょう.ある意味,一人でプロジェクトチームに求められる役割を全て果たす必要があるのですから,その能力は推して知るべしです.是非,社会のあちこちで活躍するべきです.
非常にポピュラーなのは,専門を活かした職業でしょう.企業での研究開発を初めとした「明示的に博士を求めている」職業は多いです.…まぁ敢えて書く必要はないですね.
初等,中等教育の教師もいいでしょう.勿論高専も.起業もいいですね.
そして,本当はその他の「博士が求められていない」と考えられている職業にも行ったほうがいいと思うんです.だって,ずっと知的体力を鍛えてきたわけですから,同年代の博士号非保持者と比較してその辺りは大きくリードしているはずです.
彼ら/彼女らが持っている問題発見能力は,必ずや企業にとって大きな助けになります.
前節の内容に関して,同意して頂けましたでしょうか?して頂けた方も,そうでない方もいらっしゃるでしょう.
でも,同意/非同意にかかわらず,ほとんどの人は「夢物語乙!www」という感想を抱くのではないでしょうか.いえ,私もそう思います.
例えば,id:scicom 氏の快著,「博士漂流時代「余った博士」はどうなるか?」(http://goo.gl/Pd0ls amazonへのリンク)には現状の博士号取得者,特にポストドクター(PD)の状況が整理されています.
簡潔に言えば,現状は散々たる物です.企業は博士号に魅力を感じていません.これは伝聞ですが,採用担当者は「博士は当たり外れが大きい」と感じているようです.ハズレを引くリスクを恐れて採用を控えるそうです.
そもそも,皆さん,博士号をとっている人間が「最低限」「共通して」何を出来るか,分かりますか?
言い換えると,博士号が担保しているものは何か,知っていますか,ということです.
特に,博士課程では,①学生に特筆すべき顕著な研究業績を求める大学院もあるなど,博士の学位が如何なる能力を保証するものであるかについての共通認識が確立されていないこと,②博士課程(後期)の教育が,個々の担当教員がそれぞれの研究室等で行う研究活動を通じたものにとどまり,学位プログラムの整備という観点から不十分であること,③大学と産業界等との間において,大学院が養成する人材像と産業界等の評価や期待に関する認識の共有が十分でなく,修了者が産業界等の社会の様々な分野で活躍する多様なキャリアパスが十分に開かれているとは言えないこと,といった問題点が見られる
(http://goo.gl/Jq0LU, pdfファイル,5ページ目)
文科省は,博士号が担保するものに関する共通理解は無い,と述べています.また,教育の質もバラけていることを指摘しており,このことも共通理解の妨げになるかと思います.
個人的には,博士号は「専門知識」と「プロジェクト(研究)遂行能力」は担保していると思います.…が,サンプル数が少ないので断言はできません.
この「一般的な博士像の不存在」が,世間一般への博士の浸透を妨げていることは想像に難くありません.
当の本人たる博士号取得者は活躍の場が減る,すなわちたつきの道の選択肢が減ります.
納税者の皆さんは,せっかくお金をつぎ込んで育てた人材が有効に活かされず,「税金の無駄だ!」と感じるかもしれません.
後進の学生は,この惨状を見て博士に進まなくなります(というかそうなってます).
こうして,本丸たるアカデミックの世界ごとジリジリと衰弱し,…あとは言わずもがな.
勿論,「これさえやれば万事解決!」みたいな簡単な処方箋はないでしょう.でも,チャレンジは出来ます.
私は,そのチャレンジの一環が今回の中教審の答申だったのではないか,と考えています.(というか資料はそれを物語っています)
専門の知識だけではなく,基礎知識や計画力,語学力,倫理観などもちゃんと持っていることをQualifying Examで保証しましょう.
どこに放り出しても生きて行けるほど強くするために,総合的な教育もちゃんとしましょう.
そういった取り組みが,今回の答申の意図ではないのでしょうか.
この新課程を出た博士がその有用性をアピール出来れば,在野の博士号取得者にもスポットが当たり始めるでしょう.
さて,ここで,「大学院に進んでまで人に教育を受けるとかwww自分で学べよそれぐらいwww」という気持ちになる人もいるかもしれません.
正直,私も「それぐらいじぶんでするわい」と思ってたりします.
でも,主眼はやっぱり「質の保証」なんだと思います.ちゃんと大学院は「最低限」「共通して」一定の能力を持った博士を輩出しますよ,という保証.
さぁ,経営者の皆さん,安心して共同事業を博士が経営するベンチャーと行って下さい.
さぁ,保護者の皆さん,安心して博士の教員を迎え入れてください.
そういう事を,皆が自信を持って主張できるように,ということでしょう.
ええ,上記の効果を狙ったとしても,逆効果になる部分もあるでしょう.
徒弟制を完全廃止すると,一本軸の通った研究ができなくなって,結果として「スペシャリスト」にもなれなくなります.
(念の為に再度主張しますが,博士は「スペシャリスト」の能力を最低限備えてなければなりません,と考えています)
博士課程に進学希望の学生が修士論文書かないと修士/博士の間のフレキシビリティを損なうことになります.
なので,細かい部分は考える必要があるでしょう.
でも,今回みたいに,現在抱えている問題に対してちゃんとコミットメントしたということで,私は文科省をちょっと見直しました.
というかなんか雰囲気で「お役人は肝心なことに取り組まない」みたいな思い込みがあったのですが,やっぱりそんなこともないよなぁ,と思いました.
なんせ,前述の「博士漂流時代」を読んで気になったことを調べ始めたら,殆ど中教審の資料にまとめられていたのですから.
さて,長くなりましたが,これにて本エントリはお終いです.お付き合い下さり誠にありがとうございます.
全部が全部中曽根ってわけじゃないがゆとり教育のスタートが1985年の臨教審というのは教育問題語る上では一般的な認識と思われ。
うぃきぺでぃあによると、
1972年(昭和47年) 日本教職員組合が、「ゆとり教育」とともに、「学校5日制」を提起した(2007年7月1日放送TBS「報道特集」にて 槙枝元文元委員長発言)。
1977年(昭和52年)??1978年(昭和53年) 学習指導要領の全部改正 (1980年度〔昭和55年度〕から実施)
学習内容、授業時数の削減。
ってことだから1985がスタートとは言えなくてもっと前からあるものでは?一般的な認識だから正しいとか言ってたら嘘でもみんなが日教組のせいと思ったたらそれが正しいって事になっちゃう。
自社さ政権で社民が与党にいた間は日教組が与党に影響を及ぼす余地がある程度あったのは否定できないが、非自民政権1993から1994年、自社さ政権1994から1998年、週休2日制に移行し始めたのが臨教審を受けた1989年改正1992年開始、ゆとり要項が1999年改正2002年開始。
1996年でも中教審で「ゆとり」を重視の学習指導要領を導入されてるから社会党が政権にいた96年でもとまることなく、着々とゆとり化は進んでたんじゃないの?
未曾有の大失敗というのはどういう根拠なのか気になる。
小泉政権くらいの頃はまだ「ゆとりは日教組のせい」というような論は見かけなかったように思う。自民いつ頃からこんな恥知らずなことをほざくようになったのだろうか。
ただ70年代に日教組が言い出してたらしいから、日教組のせいといえなくもないが、政権与党にいた期間が長い自民党の責任が大きいのは否定しようもないけど。日教組が言ってる政策でも悪いと思うなら採用しなきゃいいだけなんだし。
ほぼ記事タイトル通りの出来事があったので思わず匿名ダイアリー。
(厳密には、八木氏はかつてはつくる会の会長だったが、今はつくる会とは無関係)
書くの初めてなので、読み難ければ申し訳ない。
先に書いておきますと、私は公立校勤務です。
で、私が勤務する地域では、「新しい歴史教科書をつくる会」の歴史教科書を採択しています。
この教育講演会(教職員一斉研修会)は、教委が主催したもので、基本的に地区内の全職員(学校事務職員も含む)が参加しました。
恥ずかしながら、誰だか知らなかったんですが。
開会前、もらったレジュメを読んでいると、最初に出てきたトピックが
“「不当な支配」の主体の転換”
という内容。
旧教育基本法の、
「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負つて行われるべきものである(旧第十条)」
という規定が、
「教育は、不当な支配に服することなく、この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきものであり、教育行政は、国と地方公共団体との適切な役割分担及び相互の協力の下、公正かつ適正に行われなければならない(改正第十六条)」
と改められたことによって、服してはならない「不当な支配」の主体が、
before:政府の圧力
↓
after:日教組などの職員団体
と変化しており、政府首脳部からもそのような見解に立った発言が相次いでいる……という鋭い指摘。
私としては、
「なるほどそうか……。これは大変だな」
と思ったわけなのですが、その先を読んだら
「……なんか違う?」
なにしろ、いざ講演が始まったら、この
「政府=正当な支配」
「職員組合=不当な支配」
という立場を全面的に賞賛する論調でして。
日教組に参加してる職員が1%切ってる本地区でそんなこと言われてもな……。
(うちの地元には、「教職員協議会」という、日教組とは別の組織があり、これが97%の組織率を誇っています。
方針としては、行政との対話路線。
私もそっちに入っています。
新採の時、勧誘パンフが送られてきて。
「教え子を戦場に送るな!」
って書いてある。
言いたいことはわかるがちょっと引いた。)
内容は、なんというか、ツッコミどころ満載だったんですが、まず特に違和感を感じた点。
講演の中で、エルトゥルル号の遭難とか、有名な“美談”がいくつも紹介されるわけですが、その中に真岡郵便電信局事件の話も出てきました。
第二次大戦末期、樺太にソ連軍が攻め寄せてきた時、最後まで電話交換所に残った女性達が、青酸カリを飲んで自決した事件です。
事件名とか知らなくても、
「みなさん、これが最後です。さようなら……さようなら……」
とかいう台詞は聞いたことある人は多いのでは。
とか褒め称えるわけです。
このエピソードを教育にどう生かせと?
「彼女たちの行動こそ、日本人の鑑、責任に殉じる素晴らしい態度である。
お前達も、もし同じような状況に置かれたら……」
置かれたら?
自分の子どもになんと教えて欲しいかは、人によるかも知れませんが。
私としては、子どもたちには
「なんとしても生き残れ。命を大事にしろ」
……って、教えるべきなんじゃないかと思ったり。
ちなみに、八木氏は全然触れなかったことですけど、その時当直だった女性交換手は、全部で12人いたんです。
で、死ななかった3人は、最初は押し入れとかに隠れててですね。
そのままソ連統治下で職員として再雇用され、日本にも無事に帰ってくるんですけど。
彼女ら3人は、「責任に殉じ」て死ななかった駄目な日本人なんでしょうかね?
少なくとも、八木氏の言う
「ソ連軍は、刑務所から出てきたゴロツキみたいなのを最前線の兵士として送り込むわけですよ。だから、女性は陵辱されたり恐ろしい目に遭わされるわけです」
……というのは、この場合は事実に即してないと思います。
……まあ、ソ連軍がひどかったのはわりとかなり事実だと思うんですけど。
「沖縄というのは、長らく琉球王国という日本とは違う国で、その後は島津の統治下になり、近代化されたのが他の地域よりも遅れた土地なんです。
だからこそ、日本人的であろう、という責任感が逆に強くなって、それでああいう事件が起きたのではないかと思います」
という、目の覚めるような主張を展開します。
なんで目が覚めるかというと、すごいアクロバットだから。論理の。
危険なのでよい子はまねしないでください。
もし沖縄県民があの場にいたらかなり血圧が上がったんじゃないか、と思うんですが、あれはたぶん、戦わずして論敵を脳溢血で葬ろうという高度な戦術なんだと思います。
危険なのでよい子はまねしないでください。
ていうか、「集団自決」と「責任感」がどうつながるのかそもそも良くわからんのですが。
なんか、とにかく死ねば責任感がある、みたいな話で、日本文化の奥深さを感じました。
「命どぅ宝」のお婆さんは、やっぱり駄目な日本人なんじゃろうかね。
近代化が遅れた地域だからな。
あとまあ全般に言いたいことは山ほどあるんですが、重箱の隅つつきは後回しにします。
とにかく、こういう歴史観のリビジョンを促すような講演会に、公務として参加させられるのが、本地区の実態なわけですね。
開会が14:00でしたから、どの学校も特別日課で対応したと思います。
本校でも、当日は授業を午前中で切り上げて参加したわけですよ。
もちろん、講演聞いてる間にも給料が出てます。勤務時間内ですから。
内容に疑問を感じたのは何も私だけではなくて、翌日の職員室では批判大会。
「終わった後、あの先生と偉い人達とで飲み会があったらしいから、八木先生は急いでいたわけじゃないらしい。なのに質疑応答の時間を設けなかったのは、意図的なものに違いない」
……ええーっとですね。
つまり、「つくる会」の教科書を採用した地域の学校だからといって、教員が唯々諾々と「つくる会」史観に染まるわけではない、ということですよ。
このことは、左右どちらの論者にも覚えておいて欲しい、と思います。
我々はロボットではない。
その一存で採択が決まったようなもので。
しかし、「つくる会」教科書を採択した、というだけで、かなり外部からの批判にもさらされてるし、学校現場にも不満があるのが実態です。
なので、教育委員会の方針に疑問を持っている教員を「啓蒙」しよう、というのが、この講演会の趣旨だったんだと思います。
くらいのこと、10分もかけずにわかっちゃうわけですよ。
授業で、“公共心ある日本人”の美談を得々と語って聞かせたら、生徒から史実に基づいたツッコミが入る可能性くらい容易に予想されるじゃないですか?
そういう意味では、都合のいいことだけ書いた教科書というのは、発行する側は気分がいいかもしれないけど、現場の人間にとっては迷惑そのものなわけですよ。
……ああ、そうか、授業で質問の時間を設けなきゃいいわけですね。
率先垂範を地で行っておられる。
で、その他、「作る会」教科書を使ってると高校受験に対応できないとかいう現場の苦悩をよそに、首長とか教育長とか、講演会場の最前列に座っていてですね。
で、講演会が終わった時なんか、立ち上がって喝采してるわけです。
スタンディングオベーションかよ偉い人。
とりあえず絶望した。
現場がなんとかしないとならん。
以下、こまごまとしたこと。
八木氏は、聴衆に「日本の建国はいつか?」と問うて、「それは西暦600から700年前後である」とします。
なぜなら、「日本」という国号が成立し、「公」の意識が誕生したのがその時代だからだ、というのです。
ちなみに、ここで言う「公の意識」とは、天皇を中心とした中央集権体制の確立のことを指します。
天皇は独裁者ではなく、「国家の公的統治を究極において体現すべき地位」だというのですね。
八木氏は、「皇室はニッチ産業」だ、という、寛仁親王の言葉を引用します。
「政府や行政の足りないところを補う。それが、皇室の果たす役割なんです」
「このような皇室の在り方は、古代からずっとそうだったわけです」
いや……そうなの?
「平安時代、貴族は贅沢な生活をしていた一方、庶民は貧しく、奴婢は売買の対象だった」
……とかいう記述を「闘争的だ」と評します。
これらが、マルクスの階級闘争史観に子どもたちを導くものだ、というのです。
君の教科書もまっ赤っか! これはレッドベアーの陰謀だ! 愛國戦隊を呼べ!
……別に教科書の記述は、富裕層の打倒とかを呼びかけるものじゃないし、そもそも平安朝だって、階級闘争によって打倒されたわけじゃないんですが。
なんでマルクス?
明治維新を含めて、日本には「階級闘争」とか「市民革命」とかいうものはないんじゃないですかね。古い見解でしょうか?
「明治維新は、公のために働くことを自己の使命と考えていた武士たちによって実現した改革だった」(「新しい歴史教科書」。レジュメの孫引き)
そんなに昔から日本人の自覚とか公共の意識とかがあったなら、もう少し早く戦国時代が終わりそうなものですが。
武田信玄「こうして同じ日本人同士が争っていても仕方がないじゃないか!」
上杉謙信「そうだとも! 天皇陛下の元にはせ参じ、一つの国を作ろう!」
……みたいに。
八木氏によると、現在の学校教育では、歴史教育で闘争的姿勢を学び、公民教育で具体的な闘争目標を与えられている、というのです。
「公民教科書には、夫婦別姓など、まだ法的に定められてもいないトピックが取り上げられている」
とかいうのが「闘争目標の提示」だと。
……ずいぶんせこいマルクス主義ですね。
仮に、八木氏の言うとおり、飛鳥時代や平安時代がそんなに素晴らしい時代だったとしたら、逆に言って、日本社会は1400年の長きにわたって大して進歩していないことになるんですが、それでいいんでしょうか。
奴婢の話とかって、私は
「私たちの社会は、昔より良くなっているのです」
って趣旨の話だと理解していたんですが。
「人類の歴史は進歩と改良の歴史なのです。私たちも、もっともっと素晴らしい世の中を作っていきましょう。明日が今日より良い日であるように」
的な。
八木氏に言わせるとこれも「闘争的」なのかも知れませんが。
私としては、貴族と平民に大きな差があったとか、事実なんだから仕方ないんじゃないか、と思うんですがどうでしょう。
都合の悪い歴史的事実は教えない、という態度の方が、むしろ我が国を危機に追いやる気がします。
それこそ、遺伝学におけるソビエトのルイセンコ学説みたいに、学問をイデオロギーに従わせようとした挙げ句、研究開発で西側に後れを取るような。
まあ、「歴史は科学ではない」が、「つくる会」の立場なんだそうですが。
でも、望ましい思想を注入するために、歴史的事実の方を改変する、っていうのは、それこそ共産国の十八番なんじゃ。
基本的に「公共の意識」だけで日本の歴史・文化を語ろう、というのは、無理だと思うんです。
「恥の意識」とか「武士道」とかと同様、一言で語りきれるほど、日本人の精神というのは浅薄なものじゃないんじゃないでしょうか。
そもそも、「公共の意識」が飛鳥時代から日本にあった、という主張自体いかがなものか。
確かに「公」という漢字自体は大昔からありますが、古文に出てくる、「公家」とかいうときの「公」と、「public」の訳語としての「公」を同一視するのは誤りだと思うんですが。
八木氏は、「公共」の意識が近代になって成立した、というのは誤りで、日本人の日本人としての自覚はずっと以前から存在した、と言うんですが、それは逆に言って、国民国家建設のために尽力した明治の人々を愚弄するものではないでしょうか。
ちなみに八木氏は、中教審が、縄文時代の記述を重視するよう議論しているのに不満を表明しています。
から、というわけですが、これは循環論法ではないですかね。
逆に、明治憲法や現行憲法の発布、あるいは江戸幕府なり鎌倉幕府なりを「日本」の成立、と見なす立場だってあり得るわけで。
縄文人だって一生懸命に生きていたのだし、彼らが苦労して稲作技術を会得していったからこそ、現代の日本があるわけで。
「縄文人は日本人じゃない」という言いぐさは、縄文人に失礼だと思いますが。
八木氏は、チェスタトンの「伝統とは選挙権の時間的拡大」「死者には墓石で投票してもらわねばならない」なんかを引用して、伝統の大切さ、先祖の意思を尊ぶべきことを訴えるわけですが、縄文人は先祖じゃないらしいです。
……天孫降臨?
ちなみに、八木氏が引用した中には、相田みつをの「自分の番 いのちのバトン」とかまで含まれるんですが、相田さんってそういう主義の人だったのか。
ところで、八木氏は「死者の民主主義」(チェスタトン)がお気に入りのようですが、私はむしろ、「地球は子孫からの預かり物」(ケニアのことわざ)の方が好きです。
死んだ世代の意思よりも、次の世代の幸せの方が重要だ、と、私は信じます(これでも学校関係者のはしくれですから)。
……ケニアのことわざの割に「地球」とか、かなり超訳の気配ですが。
八木氏、「屋久島の灯台守り」という、これまた美談を紹介してくれたんですが。
「顔は土気色」を「どきいろ」ってあんた。
自分で持ち込んだ資料が正しく読めないって、早稲田大学法学部卒が泣くぞ。
日本の文化がどうとか言う前に、八木氏はまず日本語くらいちゃんと読めるようにすべきだと思います。
なんかあれこれコメントをもらってるようなのでここへ部分的に返信。
>教育委員会主催の講演会とかに行って何かを得たことがあるの?
ありますよ。
まあ、教育関係者の講演、というのは、聞いてすぐに教室で使える内容が多い一方、似たような話も多い……というか、教育界の通念を上手にまとめただけの、刺激に乏しい講演も多い、とは思います。
……ちょっと今回は刺激的すぎましたが。
>その場でぶつけてくれたら面白かったのに。
まあ、チキンなので。
偉い人が「つくる会」支持者で、しかも同席してるわけですから。
そこでこれだけのことを言ってしまうと、後々どんな処遇を受けることか。
それはもう、陵辱されたり恐ろしい目に遭わされるわけです。(流言)
それに、ここに書いた内容は、これでも推敲した内容です。
これをとっさに思いつける程度には賢くありたいのですが。
っていうか、偉そうなことを書いておいて恥ずかしいのですが、「女性交換手が12人いた」ということもその時は知らず、家に帰って調べてわかった次第。
でも、何か質問はしてやろう、とは思っていて、講演の間中必死で考えていたのも事実。
「古代以来、皇室はニッチ産業としての役割を果たしてきた、とのお話でしたが、私、不勉強でそういったことを存じませんでした。
そこで、例えば平安時代の朝廷が、そういった役割を果たしていた、という実例を2・3ご教示願えるとありがたいのですが……」
くらいのことを聞いてみよう、と思っていたのですが、本文で書いたとおり、質疑応答の時間がなかったので不発に終わりました。
>自分のはてなダイアリーで書いたら?
少しでも匿名性の高いところで、と思ったのです。
何か使い方として問題がありましたら申し訳ない。
(ていうか、そもそもこの内容自体トラックバックで返すべきなのかも知れませんが、匿名ダイアリーに慣れてないので、返信があちこちにばらけるのが落ち着かないのです。なんでコメント欄がないんだろう)
こんなにブックマークをもらうとは思ってなかったのでちょっと動揺しています。
偉い人にばれたらどうしよう。
>「教職員協議会」つーのは要するに「全日教http://www.ntfj.net/tanidantai/」系団体だよね。共産党系の。
右寄りではないかも知れませんが共産党系とも思ってなかったのですが。「美しい日本人」がどうとかこうとか。どうなんでしょうか。
会員でありながら組織の背後関係とかは知らないのです、申し訳ないです。(でもたぶんみんなそう)
>教師という連中が本当に馬鹿ばっかりでイデオロギーの固まりだということが良くわかった。
ククク、その通り。だが、気付くのが遅すぎたようダな……(ロシア訛り)
今や日本の教育は、我がレッドベアーの(不当な)支配下にあル!
あと10年もすれば、この国はコミンテルンの軍門に降るだろウ……!(遅すぎる)
>大学になるまで歴史教えるのやめちゃえば?自分で判断して学ぶまで教師の馬鹿どもから余計なノイズを入れないで欲しい
難しいところですね。
おっしゃるとおり、批判精神の薄い子どもに、イデオロギー教育をするのは禁忌だと思います。
その一方で、基本的な歴史知識は、全国民が持っているべき教養だとも思うのです。
そして、大学は専門教育の場であるべきで、そういうことに時間を費やすべきではないと考えます。
だから、結局は義務教育に基礎的な歴史教育を盛り込まざるを得ないのではないかと。
その内容としては、重要な歴史的事実を教えるにとどめ、それをどう解釈するか、という思想的側面は、個々人に任されるべきだと思います。
……もっとも、「歴史的事実」というのは現実にはほとんど無限に存在するわけで、その中から何を「重要」として採り上げるかに、思想的問題が絡んで来ざるを得ないのも事実ですが。
エルトゥールル号を採り上げて奴婢は省くのか、その逆をやるのか。
でも、できる限り中立であろうとする姿勢は必要だと思います。