はてなキーワード: 漱石とは
昔『ユメ十夜』という、漱石の夢十夜十本をそれぞれ別の監督が撮るって企画モノの映画があったんだけど、
運慶が出てくる第六夜(監督:松尾スズキ/主演:石原良純 feat.阿部サダヲ)の話。
ご存知運慶がダンスで仁王像を彫ってるところを(踊りながら彫ってるのではなく、本当にダンスで彫っている)観衆が2ch語で実況するという趣向で、
当時は「撮影から公開までの間にもう作中の2ch語が古びてしまった」とか言われていた。実際もうズレていた。
それだけネット民の方も、ニッチなりに時代の最先端を高速で突っ走っているという自負があったんだろうけれども、
お前まともに漱石読んだことないだろ?俺様が親切にもわざわざ引用してやったから読んでみろ。「春はものの句になりやすき京の町を、七条から一条まで横に貫いて、煙(けぶ)る柳の間から、温き水打つ白き布ぬのを、高野川の磧(かわら)に数え尽くして、長々と北にうねる路を、おおかたは二里余りも来たら、山は自ら左右に逼せまって、脚下に奔(はし)る潺湲(せんかん)の響も、折れるほどに曲るほどに、あるは、こなた、あるは、かなたと鳴る。山に入りて春は更ふけたるを、山を極めたらば春はまだ残る雪に寒かろうと、見上げる峰の裾すそを縫うて、暗き陰に走る一条(ひとすじ)の路に、爪上(つまあがり)なる向うから大原女が来る。牛が来る。京の春は牛の尿の尽きざるほどに、長くかつ静かである。」
旧字で旧仮名使いの古い本を読むわけでもないのに、どうしても活字の本の中での描写が頭の中でイメージしきれない。
読めない本の種類としては圧倒的に小説が多い。
一番の問題は、風景などの視覚的な描写を頭の中でしっかり思い浮かべるのができてないことだと思う。
知識が足りてないという事もあるし、ひとつひとつのパーツは理解できてもそれを頭の中で映像化するのが難しいのだ。
例えば
私は墓地の手前にある苗畠の左側からはいって、両方に楓を植え付けた広い道を奥の方へ進んで行った。 するとその端れに見える茶店の中から先生らしい人がふいと出て来た。
夏目漱石はかなり分かりやすい素直な文体の作家だと思うけど、自分にはこういったちょっとした描写ですらイメージするのが難しく感じる。
墓地は思い描ける、苗畑は普通の畑とは違うのか?と不安になったのでググった画像で補完するがまあ大丈夫。
楓、広い道、茶店、どれも単体では想像できるけど、問題はこの光景が俯瞰で見えない、地図のように絵を描こうとしてもかけないのだ。
まず「左側」でつまづいて、苗畑と広い道の位置関係もわからない。
漫画ならこれらが全て背景絵として描かれてると思うので、なんの引っ掛かりも感じないだろうと思う。
小説だと光景を事細かに描写する必要もない場合もあるわけで、そういう時はある程度読者が好きにイメージすればよいんだけど、自分の場合あまりに曖昧にしかイメージできなくてその場面の全てがぼんやりしたものになってしまう。
小説自体は、場面ごとの描写がはっきりと頭の中で映像化できてなくても読み進めることはできる。
でも頭の中で映像化されていないとぼんやりした空間に登場人物がそれぞれ現れるだけという味気ないものになる。
ミステリー小説なんかでトリックとして建物の構造だとかが描写されてる時もだいたいよくわからない。
特に空間把握能力が著しく欠けているのかなとも思う、実際地図を読むのは下手だし方向音痴だし。
ただそれだけじゃなくてちょっとしたディテールとかも掴めない事が多いし、それが気になって中々先に進めなくなったりする。
小説の中で描かれる描写が、全部ちゃんと自分の頭の中で思い浮かべることができたらどんなにいいだろうと思う。
でもどうしてもそれができなくて、結局集中しきれず最後まで読みきらないことが多い。
子供の頃からあまり読書はしてこなかったし、漫画ばかり読んでいた。
今は漫画はたくさんあるから漫画でいいじゃんと開き直ってもいいんだけど、やっぱり小説をもっと読み込めたら楽しいんだろうなと思う。
なにか特訓の方法などあるんだろうか?
追記:
コメント色々ありがたい。
一番驚いたのは「そこまでイメージする必要はないのでは」という意見が多いことだった。
みんな小説など読んでる時は頭の中である程度具体的にイメージしながら読んでるものだと思いこんでいた。
ただ、言われてみれば登場人物の顔はおぼろげなまま読んでるのにそこは気になってないとか、自分の中に矛盾もあることに気づいた。
アファンタジアではないかという意見もあり、初めて知った言葉だけどこれも興味深かった。
自分がアファンタジアかどうかは分からないが、記憶をイメージとして思い出すことはできるので、そういうのとはちょっと違うのかもしれない。
日本人は家に帰ったときに「ただいま」と言うが、それを英語に訳すと何になるか?
直訳すると"Now, I'm home."とかになるわけだが、それは正確では無い
なぜなら米国人だろうが英国人だろうが家に帰ったときに挨拶する習慣は無いし、するとしても決まり文句は存在しない
同じように電話での「もしもし」を英語に訳したときに"Hello."になるか?と言われるとそうではない
そうした文化的な違いの一つが"I love you"であって、日本人は「我、汝を愛す」などと言うことはない
恐らく漱石が言いたかったのは「日本人はそんなことを言わないのだから、原作を日本人に置き換えるならそれを加味して訳さなければならない」と言うことだろう
ロミオとジュリエットを日本を舞台にして作り直すなら"I love you"なんて言わず、もっと背景を踏まえて翻訳しろ、ということなんだと思う
単にそのたとえの一つが「月が綺麗ですね」であって、昼間であれば「風が気持ちいいですね」でもいいわけだ
とにかく好意を持っているというのはそれ以前の背景情報でお互いに理解できているので敢えて何かを言う必要は無く、何か台詞を当てるなら適当に雑談してればいい、というのが本来の意味だと思う
そのあたりの文化的な相違を理解せずに「I love youは月が綺麗」などと言ってるあたりが本当に発想が貧困であるのだけれど
春目漱石じゃなかった?
判定が明確ではないからと、小説のネタパクは流されがちだよなあ。
読み専の立場ではありますが、一次創作や二次創作を読みながら「Aさんのこの作品、タイムラインで流れてきたエロ漫画の広告と同じ展開だな」「Aさんのこの作品、流行り漫画と全く同じ設定だな」「Aさんのこの作品、エロシーンの展開がBさんの前回の新刊と全く同じだな」と思うことが度々あり、最近ではAさんが今後の執筆の予定を呟く度に元ネタがどれなのかを当てるのを楽しみにしています。
ご本人は「インプットを増やそう!」と言ってよく映画の感想や漫画の感想をツイートされているのですが、彼女の言う「インプット」はシコれる設定・展開を探すことなのだろうなという印象です。当然、キャラクターの掘り下げから生まれる作品では無いため、展開やキャラクターの言動に違和感が残ります。
一次創作・二次創作、あくまで趣味の世界なので気になるなら読まなければいい話ですが、前述の通り元ネタを探して読み合わせる遊びをしているためついつい読んでしまいます。
私は一読者なのでまあダメージは無いし笑い話なのですが、これ、ぱくられている側のBさんは気づいていないのか?と気になるところ。とはいえ揉め事の元凶を作る気もないのでこうして増田に書きに来ています。
そして恐ろしいのは、このAさんと読んだ方、1人ではないのです。同じような方が散見される。そして総じてそういった方達は
を自負しており、度々そういった事を匂わせるツイートをしています。
私はこのとおり、増田にいる腐女子なので高校生の頃漱石や川端にハマり読み込んだ黒歴史持ちなので、彼女達の小説が、小説と呼ぶにはあまりにお粗末である事に気づいています。
例えば、主語の入れ替わりなどの文法的な問題、熟語の誤用……自分が取引先なら絶対に嫌だなと思う間違いが多いのですが、彼女達は気づきません。
そして、新作が発表される度にその人の周囲にいる人のネタパクだと、ラレ元さんは読んだ時にきっと気付くのに、どう気持ちを整理しているのだろうと思います。読者側ももちろん気付くとは思いますが、冒頭の通りトレパクのような明確な判定が難しいため、「〇〇さんのその作品を私は読んでいません」「よくあるネタなので被ることはあると思います」「気分を害してしまい申し訳ありません」と言われてしまえばこれで収束してしまう。
こういう人に限って自分のネタが先、後から同じネタ(展開は全く違う)で近しい人が本を書くとモヤモヤツイートをするので始末が悪い。
現在5chに出現するスクリプトには複数の種類があり、それぞれ特徴があります
ただし出現するスレッドは手動で決めているようで、野球スレには基本出現しない
よって「益虫ではないか」という意見もあるが、パート化しているウマ娘スレや遊戯王スレにも湧かないため「ただのオタクのなんじゃないか」とも言われている
住民は多少巻き込みをしてでも末尾dを丸ごと非表示にせざるを得ない状況になっている
ちなみにグロ画像の選定は過去に安価で「グロ」と書かれた画像から選んでいるため、ちょいちょいマグロの画像が混ざる
出現当初は書き込み数もおとなしめでグロスクリプトの影に隠れている存在であった
出現スレッドは完全にランダムであり、野球スレにも出現するスクリプトであるものの
「まぁ実況する分には無視できるしどうでもいいわ」という評価だった
なんG(J)民のアイデンティティである「やきう」を阻害するスクリプトと化している
末尾dだったりa(au回線)だったりM(貧乏回線)だったりする
画像は貼らないものの文字列の選定や出現傾向はグロスクリプトに似ているため同一人物による犯行ではないかと囁かれている
厄介なのは『末尾0』ということ
これは固定回線を示すIDなので丸ごと非表示にする対策を取るとほとんどのレスが見えなくなってしまう
こちらも末尾0
とにかく書き込み速度が半端ではないため出現するとスレッドは機能不全になる
出現するスレ傾向は未だ掴めず
そもそも漱石は「I love you」を「月が綺麗ですね」なんて翻訳をしていないし
完全なるガセネタであるという説が濃厚というのはひとまず置いておいて
ガセネタであったとしても元々は
「日本人はI love youなんて言わない。月が綺麗ですねとでも書いておけば良い」
という感じなので、そもそも「I love you」の翻訳が「月が綺麗ですね」では無い
「日本人はI love youなんて言わない」って言ってるように、この言葉は欧米の文化であって日本の文化では無いっていうのを説いてる
翻訳するときに何も書かないわけにはいかないから、シチュエーション的に「月が綺麗ですね」とでも書いておけばいい、というのが元々の話
なので「月が綺麗ですね」が「I love you」っていうのは全然違う
逆にしてみると分かりやすくて、例えば家に帰ってきたときに「ただいま」というのは日本の文化であって欧米では言わない
無理矢理翻訳したら「I'm home」とかだけど、そもそも言わない
そこで欧米向けに翻訳するときは「明日は誕生日パーティーだね!」とでも書いておけ、というのを誰かが言ったとして
おまえ、漱石、読んでないな
最近、二次元に魂を奪われ二次創作に萌える二次豚とでも呼ぶべき存在どもが、「公式が勝手に言ってるだけ」「原作とアニメで言ってないだけ」という種類の鳴き声を発明した。
歴史学などの一部学問においてはこうした態度が倫理的に要請されてきた、ということはニコニコ大百科でも指摘されているが、そもそもこうした態度はここ半世紀ほど「文学」「テキスト」「作品」といった物事を専門家が語るために用いられてきたものがほぼ起源であろうと思う。「テクスト論」と呼ばれるものがそれである(構造主義の話はしません)。
すなわち「勝手に言ってるだけ」「言ってないけど言ってる」は、文学者がこの半世紀格闘し続けてきたテーマなのである。ちなみに本稿は、加藤典洋『テクストから遠く離れて』をなんとなく参考にして書かれたので、興味のある方はそちらも読まれるとより楽しいかと思う。
さて、半世紀ほど前まで、たとえば夏目漱石の作品を批評する、ということは「それを書いた当時の夏目漱石の思考に限りなく接近する」ということとほぼイコールであった。平たく言えば「作者の気持ちを考える」ことが批評家の仕事であった。友人の噂話やら本人の秘蔵のメモ書きやら、ちょっと引くくらいの何もかもを動員して「唯一の答え」=「漱石の意図」に接近しようとした。
これは当時に特異な現象ではなく、それまで人間と「ことば」の関係は大体においてそんな感じであった。人類史上のベストセラーである聖書の読み解かれ方を考えてみればわかるだろう。聖書には○○と書いてあるが、これは当時の××という慣習を踏まえなければ正しく読み解けず、「正しい教え」は△△せよ、という意味になる、という研究は数限りなくされてきたし、今も続いている。
聖書にせよ漱石にせよ、ここでイメージされているのは「正解」というもの(難しく言いなおせば「真理」といってもよい)が遠くにあり、我々は「ことば」というヒントでありフィルターでもあるものを通してそこに接近していく、という構図である。
これは我々の日常的な「ことば」の使用から考えてもごく自然なことだ。たとえば日本語話者のあなたが「八百屋さんの隣にあるポストに手紙を入れてきて」と日本語話者である子供に頼んだとき、その場で子供が八百屋と反対方向に歩き出したら、あるいはその場で手紙を破いて食べ始めたら、あなたは「言葉の正しい意味」「子供がたどり着くべきだった正解」についてこんこんとお説教をすることになるだろう。
これまでの「公式」に対するオタクの態度もまた、まさしくここに連なるものと考えてよいと思う。たとえば「エヴァの世界で公式に起きたこと」にアニメや劇場版を通してよりよく接近していこうとする、というのは聖書研究者の態度そのものである(ちなみに「公式」とファンダムの関係をもってしてオタク文化を特異なものとする東浩紀「データベース消費」などの理論もありますが、例も反例もいくらでも出てくる類の話なのでここでは触れません)。
話は半世紀前の文学研究に戻る。ソシュールという言語学者が「一般言語学講義」という10人くらいしか出席者のいない講義を行い、ソシュール死後、その講義にも出てなかった全く関係ない奴が学生のノートをもとにソシュール『一般言語学講義』として出版し、これがコペルニクス的転回にもならぶ「言語論的転回」のはじめとなった。
聖書や漱石の研究など、ソシュール以前は「世界が言葉を作った」とされてきた。されてきた、というか、それ以外の考え方が無かった。わたしたちが「あの赤くて木になってかじると甘いやつ」に「りんご」と名付けたのであって、「りんご」という言葉がまずあって「あの赤いやつ」が後からついてきたわけではない(全くの余談だがりんごと机はこのジャンルの議論で酷使されすぎだと思う)。
それに対して、「言葉が世界を作った」と主張するのがソシュールを祖とする「言語論的転回」である。ソシュールが言ったのはあくまで言語の話で「あの赤いやつと『ri-n-go』の結びつきって別に絶対的じゃなくて、appleとかpommeとか見ればわかるけどたまたまだよね」という程度のことではあった。しかしそれは十分に革命であった。あまりに革命的だったために世界が驚くまでに半世紀を要し(講義は1900年代はじめだった)、さらに半世紀経った今ようやく振り返りがなされつつある。本稿で扱うのは、世界が気づいてからの文学理論の最近半世紀である。
それまでの哲学(世界観と言ってもよい)においては、言語の研鑽によって「正解」「真理」にたどり着けると思われていた。しかし「たまたま」のものをいくら研ぎ澄ませたところでその高みに至る日がくるものだろうか?
よく言われるように、日本人は虹を7色で数えるが、外国人は5色で数える。この差の2色というものは本当に「ある」のだろうか?といった問題は一見トリビアルで退屈なものである。だがさらに進めて、そもそも「日本人」というものは「日本人」という言葉よりも前から「あった」のか?と問うと大昔の言語学の講義がいまなお強烈に突き刺さってくる。
これは今日でも大問題ではあるが、半世紀前の文学研究にとっても大問題であった。確かに、それまでも言語というものがそんなに主人に忠実でないメッセンジャーであることは知られていた。しかし言語論的転回は、メッセンジャーこそが主人である、としてしまったのである。その理由は以下のように明快である。我々は言語の向こうの対象(「真理」)に近づこうとしてきた。しかしソシュールいわく言語と対象の結びつきは「たまたま」である。我々が触れることが出来るのは言語のみである。ならば、「たまたま」で検証不能な真理などというものを求めるのではなく、言語が言語として我々に何を訴えかけてくるのかこそをガクジュツテキにケンキューすべきである!と。
冗談のような本当の話なのだが、ここ半世紀、世界中の文学研究者はこぞって「公式が勝手に言ってるだけ」「原作とアニメで言ってないだけ」と言い続けてきた。専門用語でこれを「テクスト論」における「作者の死」という。本当にそういう専門用語がある。
もはや書きぶりから嫌いと蔑視がにじみ出てしまっているが、しかしこの半世紀くらい、この潮流は世界中の識者におけるブームないし真理とされつづけ、最近になってようやく揺り戻しがきている。
二次豚でも簡単にわかることだが、これを言い始めると「公式見解」が意味を成さなくなり、要するにきりがなくなる。しかしこれはある意味正当なことでもある。「全ての『公式見解』が正しいか」と問われれば、とくに今日であれば即座にNOと答えることができる。なぜならもはや「公式」と呼ばれる以上はもはや庵野や富野といった個人ではなく、分業化された組織であるからして、そこには作品世界という真理からの誤差、ノイズ、エラーが当然のものとして含まれうる。最も軽薄でありがちな事例として、公式Twitter担当者が調子に乗って後に撤回する、という事例を挙げておけば十分だろう。
しかし、かつてのテクスト論者たちが正当にも考えたように、庵野や富野すなわち「作者」個人だってべつに無謬ではありえない。すなわち彼らとて(限りなく比喩としての意味合いが薄くそのままの意味での)「神」ではないのだから、それを絶対視する必要は無くなる。むしろ「作品」は1文字、1フレームに至るまで確固たるものとして存在するのだから、そちらから何を導けるかが重要である、とテキスト論者は考えた。さらには一歩進んで、「作品から導かれたわたしの感情」が重要だと考える「読者反応理論」というものも生まれた。
上で「きりがなくなる」と書いたが「何でもありになる」とは微妙に異なることに注意されたい。これまで「訴えかけてくる」「意味する」「導く」などとこっそりごまかして書いてきた部分についても、文学研究者は鋭くメスを入れた。すなわち形式としての言語がなにを「意味する」(またこの言葉を使ってしまった!)かについて、激しい議論が戦わされた。つまり、「シャミ子が悪いんだよ」は「原作とアニメで言ってないだけで実際は言ってる」という解釈はまあアリだが、「桃が悪いんだよ」は「言ってないし実際言ってない」という我々の直観をいかに正当化するかについて、涙ぐましい努力が続けられた。
しかしそうした努力にもかかわらず、論理学や数学(それぞれ「たまたま」じゃない言語として期待されていた)が発達した結果、クレタ人のパラドクスやらゲーデルの不完全性定理やらでそこまで簡単ではないことがわかってきた(ここでは「簡単ではない」と注意深く言ったが、知ったかぶりで「数学は不完全だと証明されたよね」と言うと凄まじく怒られるので注意)。
かくして文学研究者らはそうした論理的数学的理論を縦横無尽闊達自在に引用した結果、文学の「正解」を「何でもあり」にした。現在蔑称として使われる「ポストモダン」という思想潮流は、大体この辺のことを指していると思う。
しかし、文学の「正解」が「何でもあり」であっていいものだろうか。蔑称とか揺り戻しなどと何度か言っているように、今日の文学理論は素朴な「作者の死」論には与せず、いくらかの距離を取っていることが多い(『テクストから遠く離れて』はまさしくそうした書物である)。しかし昔と違って「神」のことばこそが「正解」であるとも考えない。そもそも「正解」があるのかどうかもわかってはいない。いまの研究者は、グラデーションの中のどこかに、自分の場所を見いだそうと必死になっているのだと思う。
だから、「公式が勝手に言ってるだけ」「原作とアニメで言ってないだけ」と2022年に言っている人がいても、笑おうとは思わない。「彼/彼女はこう思う、と私は思う」という感情=想像力こそ、人間が発明した最も大きな発明であり、誰しもまだそれを持て余しているのだから。
最後に
これを書いた人(@k_the_p)は無職で、仕事を探しています。Pythonとかほんの少しできます。よろしくお願いいたします。
「夏目漱石は「月が綺麗ですね」となんか訳していない」という話から、「初出であるとされる70年代以前がどうだったのか知りたい」という話が出ていたので、Googleブックスを検索していたのだが、1962年刊行の『日本人の知恵』にこのような話があるらしい。
「私はあなたを愛しています(I love you)」
などとはけっしていわない。
「いいお月さんですね」
そして、二人でじっと空を見上げるだけで、意思は十分通じるのだ。
この『日本人の知恵』という本は、
ということらしいので、つまり1961年に朝日新聞に掲載されたのだろう。
それならば世間に広く知られたとしてもおかしくないと思われる。
もうひとつ、さらに遡って戦前の1935年刊行、笠間杲雄『沙漠の国 ペルシア アラビア トルコ遍歴』にもよく似た表現があるようだ。
第一、欧米人にとつては一生の浮沈を定める宿命的な宣言『アイ・ラヴ・ユウ』の同意語すら、日本語には無い。(中略)斯ういう意味を外国人に答へると、然らばあなた方日本人は、初めて男なり女なりを愛する場合に、どんな言葉で意志を通ずるのかと、必ず二の矢の質問が飛ぶ。私は答へる。我々は「いい月ですね」と言つても、「海が静かね」といつても、時としては「アイ・ラブ・ユウ」の翻訳になるのだと。
こちらは「いい月ですね」と「海が静かですね」が並列されており、あくまで「無数の表現のうちの2例」といった趣きではある。
さらに「I love youは日本語にうまく訳せない」という話に限っては、
「漱石文庫」に残された漱石のメモ書きの中に、ジョージ・メレディスというイギリスの小説家の作品を取り上げて、
"I love you,Signora Laura."―Vittoria p.113.
此 I love you ハ日本ニナキformulaナリ
と記した一節がある
これは漱石の英国留学時代のメモ書きだそうなので、1901〜1902年ごろに書かれたものか。
同様の主張が1922年に刊行されて当時のベストセラーになったという厨川白村『近代の恋愛観』に書かれている。
日本語には英語の『ラヴ』に相當する言葉が全く無い。『戀』とか『愛』とか云ふ字では感じがひどくちがう。" I love you "や" Je t'aime "に至つては、何としても之を日本語に譯すことが出來ない。
この厨川白村は夏目漱石の教え子で、漱石とは恋愛観について議論を交わしていたというから、これは夏目漱石の受け売りだった可能性が高い。
というわけでグルグルまわっているうちに夏目漱石に戻ってきてしまった。
夏目漱石が「I love youは日本語に訳せない」と言う
→その話が厨川白村を通じてよく知られるようになる
→「いい月ですね」とか「海が静かですね」とかそういうことを言うんじゃね?
→日本人は「愛しています」とは言わず「いい月ですね」と言うんだ!
→その話が朝日新聞を通じてよく知られるようになる
→なんかいろいろ混線して「夏目漱石がI love youを月が綺麗ですねと訳した」という話になる
みたいな流れが朧気ながら見えてくるような見えてこないような。
追記。
国立国会図書館デジタルコレクションで調べてみたところ、1908年の『明治学報』に掲載された上田敏「予の観たる欧米各国」という講演の書き起こしにこういう記述があった。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1890371/1/24
日本では「我汝を愛す」と云ふことは言へない、日本では何と云ふかと云ふと、「私アナタに惣れました」と云ふ、それでは「アイ、ラブ、ユー」と云ふことに当らない、「我汝を愛する俯仰天地に愧ず」それはどう云ふたら宜いか、(笑声起る)、所が「私はアナタに惣れました」といふことは日本語ではない、さういふ日本語は昔からないです、だから日本ではそれをパラフレーズするか、或はペリプラスチック、言廻はして、「誠にアナタはよい人だ」とか何とか云ふ工合に云ふより外言ひ方はない、「私はアナタが好です」と云ふと何だか芝居が好きだとか、御鮨が好だとか云ふやうになつて悪いです、
上田敏は高名な英文学者で「山のあなたの空遠く幸住むと人のいふ」や「秋の日のヴィオロンのためいきの」などの詩訳で知られる。夏目漱石よりは年下だが、同時期に東京帝国大学で教鞭をとっていたこともあり、文学論を語り合う仲だったという。夏目漱石か上田敏かいずれが最初なのかはさておき、どうも「I love youは日本語に訳せない」というようなことは当時の教養人のあいだに広く存在した認識だったようだ。
https://dl.ndl.go.jp/pid/2348792/1/6
西洋デハ人ノ表情ガ露骨デアツテ 例ヘバ恋ヲ囁クニモ 真正面カラ アイラヴユー ト斬込ムガ 日本デハ 良イお月デスネー ト言フ調子デ 後ハ眼ト素振リニ物ヲ言ハス